[2784] 国家は、国家第一主義であるべきか、国民第一主義であるべきか? |
- 愚按亭主 - 2018年03月16日 (金) 23時56分
BSフジのプライムニュースを見ていた時に、元記者のコメンテーターが、おかしな国家観を述べていました。それは、国家は国民が一番上にあってその下に行政や立法府などの召使がある、というものでした。これを聞いて私はギョっとして、民主主義・国民主権とか国民ファースト(国民第一主義)というのはそういう構図になるのか!とあらためてその異常さを痛感させられました。
これは、国家を人間に例えて言えば、細胞が一番上で脳とか肝臓・腎臓・心臓および胃腸などはその召使というようなものです。たしかに、そう見ようと思えば見れないこともありませんが、人間は細胞第一主義です、などといわれても、えっ?と首を傾げたくなります。というのは、それでは動物とどこが違うのか説明できないからです。
同じように国民第一主義も、それが国家だと言われても、その国家の国家たる由縁が見えにくいのです。ですから、そういう図式は、国家観として問題があるのではないか、という疑念が湧いてくることになります。つまり、国民国家とか国民主権とかは、国家のあり方として、本来あるべき形ではないのではないか、ということです。
そのことをもっとも端的に示している事実が、国民第一主義のわが日本国は、敗戦後70年もの長きにわたって、未だに国家として自立しているとは言えず、主体性も持てていないという現実が続いていても、国民の皆さんは何とも思っていない、国民の多くの皆さんは自分の生活が無事できれば、それは大したことではない、だから憲法9条も変える必要はないと思っていることです。国民第一主義ですから、国民の大多数がそう思っていれば、国が国として主体性を回復する行動を永久にとれないということになってしまうわけです。これが、国民主権のもたらした今の日本の現状であり、国民第一主義が、国家のあり方として如何に誤っているか、ということを如実に物語ってくれています。
ではこの近代的な民主主義や国民主権という考え方は、どこから生まれてきたのでしょうか。近代における国家論形成は、それまでの王権神授説の観念論的な解釈を否定する形で、唯物論者によって創られました。具体的には、ホッブズは、自然状態=においての人間は、万人の万人に対する闘争であるので、畏怖されるような公権力を創って、それに従わせる市民国家の必要性を説きました。一方 ルソーの場合は、人間は本来自然状態においては相互に助け合う存在であったが、財産の私有制が始まると争うようになってしまったので社会契約説によってそれを抑える必要がある。具体的には、選挙などによって多数の意志を一般意志・国家の意志として、それに従う共和制を主張しました。
これを見ますと、たしかにそれまでの王権に対して自然権としての国民の権利を説いていますが、それに対する公権力や一般意志の優位性を説いた至極まともな国家論ではあります。それがどうして、現在のような歪な・異常な国民主権論になってしまったのでしょうか?それはおそらく、マルクス主義の階級闘争論、あれかこれかの国家権力=悪論、労働者・市民=善論によって、国家権力の上に人権をおくような国民主権論に歪められていったのだろうと思われます。
しかし、人類最高の学問であるヘーゲルの国家論は、ホッブスやルソーの市民国家論・共和制国家論を次のように批判しています。 「国家が市民社会と混同されて、国家の規定が所有および人格的自由の保全と保護にあるとされるならば、個人そのものの利害が諸個人を統合させられる究極目的となり、これによりまた、国家の成員であることは任意のことがらとなる。」(「法の哲学」より)
これは、唯物論的な国家観への見事なる反論です。この唯物論的な国家観の誤りは、国民・個人から出発しているところにあります。ここから出発している限り、いくら一般的な意志としての国家意志を説こうとしても、国家意志そのものを説くことはできません。つまり、国家論の本質論を説くことができない、という学問としては重大な欠陥を内包することになります。これが、現在において存在している国家論のすべて言い得ることです。だから、ヘーゲルの国家論の復権が必要なのです。
このヘーゲルの国家論に関して、「コトバンク」では次のように批判的に述べています。 「国家と社会、国家と個人の関係については、国家形成以前の社会生活において人間が有していたとされる個人の自由や生命の安全を第一義的に重視することが説かれ、悪法・悪政には抵抗し、場合によっては政府や国家を変更・解体することもありうる、という国民主権的立場が強調されている。この意味で社会契約的国家論は、国民主権主義、基本的人権の尊重、法の支配を基調とする現代民主主義国家の理論モデルとなったものといえよう。
これに対し、イギリスやフランスなどよりも1、2世紀遅れて近代国家を形成したドイツや日本では、富国強兵策がとられ、それとの関連で、国家の個人に対する優位、また国家の利益のためには個人の自由や利益は制限されてもやむなし、とする国家観が説かれた。すなわち、ドイツでは、国家生活において人間は最高度の自由を享受できるとするヘーゲルの国家観が支配的地位を占め、また歴史の各時代には『世界精神』を実現する民族が出現し、それがゲルマン民族であるというヘーゲルの歴史観は、ドイツ民族は他民族を支配する権利をもつという理論となり、またこのゲルマン民族の優秀性という考え方は、のちにナチス第三帝国による世界支配の理論的根拠となる。」
これは、ヘーゲルの学問からするならば未熟な、形而上学的な、民主主義か、全体主義か、の〝死んだ論理学”の発想から、民主主義を正しいと前提的に決めつけて解釈したもので、学問的には全く評価できない説明です。その原因はヘーゲルの学問・国家論が全く分かっていないために、全く見当違いな評価をしているからです。
まず基本的な問題として、ヘーゲルの論理学は、あれもこれもの和の運動体の弁証法だということが、ほとんど理解されていません。ですから、ヘーゲルにあっては民主主義も全体主義も統一されて、個人の自由と国家としての自由とが統一された異次元の国家像なのだということが分からないのです。
それから、「歴史の各時代には『世界精神』を実現する民族が出現し」というのは、この世界を運動・発展させている絶対的本質=絶対精神=世界精神(人類の本流)が、個人としてでなく必ず民族・国家として出現すると説いているのです。その本流たる資格の要は学問にあります。ですから、古代においてはギリシャとりわけアリストテレスの学問を普及しようとしたアレキサンダー大王の世界統一が本流だったのであり、近世においては科学を発展させた西欧諸国その中で異彩を放つのが、学問中の学問である学問の冠石を完成させたヘーゲルが存在するドイツが、本流中の本流たりうる潜在力を持っていたのですが、マルクスによってすぐに葬られて形而上学に戻されてしまいましたので、結果として形而上学的な全体主義であるナチズムという徒花が咲いてしまうことになってしまったのです。その一方で、本当に不思議なことに、東洋の端っこの日本は、その生い立ちからして、世界の中で唯一異質でまっとうな、ヘーゲル的な国家第一主義による共存共栄の国創りをして「世界精神」の本流たる実力をドイツ以上に育んでいたのです。
ではヘーゲルの説く学問的・本質的な国家論とはどういうものでしょうか?ヘーゲルは前の市民国家に対する批判に続けて、あらまほしき国家像を次のように説いています。
「しかし国家は個人に対して全く別の関係をもつ。国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである。個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする。――理性的であることは、これを抽象的に見れば、一般に普遍性と個別性との浸透し合う統一のうちにあり、これを具体的に見れば、内容の点では、客観的自由すなわち普遍的実体的意志と、個人的知識としてのまた特殊的目的を求める個人意志としての主観的自由との統一のうちにあり、――したがって、形式の点では、思惟された、すなわち、普遍的な法的に永遠にして必然的な存在である。」(「法の哲学」より)
ここに何が書いてあるかと云いますと、国家は客観的精神、すなわち対自的理性、つまりその民族その国家が歴史的に創り下てきた普遍的理性である。したがって、その対自的な理性・普遍性を、個人が自分のものにしなければ、即自だけでは国民とはいえないということです。したがって、国民主権というときのその国民も、本来は、即自且対自の統一体として自分を創らなければ国家の一員にはなれないのですから、税金を払っているからというだけで主権者だ、などということはできないのです。その即自且対自の統一体として国民を、世界の中で唯一見事に実現したのが、日本であり日本国民だったのです。ですから、即自的な人権ばかりゴリ押すような人物の云う事を、国家は聞く必要はないということです。したがって、国家は、個人が立派に国民となれるように、その民族その国家が歴史的に創り上げてきた普遍的理性を教育する責任があるので、その大事な教育を、対自的理性をもたない教育委員会などに任せてはならないのです。
念のために断っておきますが、その対自的な普遍性・一般性を個人に押し付けることは、決して個人の自由を圧殺することにも、個性を摘むことにもならないどころか、かえって真の自由・豊かな個性を育むことになるのです。なぜなら、その民族その国家が歴史的に積み上げてきた真理の高みを、個人に植え付けることになるのですから、その方が個人は立派な国民となって、国家のため己のために縦横に自由と個性をはぐくみ発揮できるようになるのです。
ヘーゲルは、国家の理想形を立憲君主制としています。そして、その構造は、即自的な国民と対自的な法や国家機関との両者の上に国家理念・憲法およびその実体化としての君主をのせて、国家全体が調和的に一つになる構造になっています。そして、ヘーゲルは、君主は国家理念の実体化したものとして、その両者は一体であらねばならないと説いています。そうでなければ、国家はその高みを維持できず、堕落していくことになると釘を刺してもいます。これがすなわち、ヘーゲルの説く国家第一主義なのです。これはまさに、戦前の日本の国家そのものです。日本は「世界精神」たるべき内実を兼ね備えていたから、世界のいたるところで尊敬されたのです。ですから、私は、日本の再生は、ヘーゲルの学問的な国家第一主義をもってなすべき、であると主張しているのです。
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