[2636] カントの時間・空間論から学び取るべきものは何か? |
- 愚按亭主 - 2017年05月23日 (火) 11時24分
京都弁証法認識論研究会の皆さんは、ブログでカントの「純粋理性批判」の中の時間・空間論を唯物論の立場から検討しています。京都の皆さんは、唯物論的に改作することが学問的に正しいと金科玉条のように思っているようですが、私の目から見ますと、わざわざ労力を浪費しているようにしか見えません。実際、その試みは何の成果も生み出せなかったようです。これは、しかたのないことです。そもそも、カントの観念論的な時間・空間論を、唯物論の立場から解釈し直そうという試み自体が学問的に不当でナンセンスなことだからです。
こう言うと、おそらく京都の皆さんは、キチンと観念論の立場からカントの時間・空間論を正確にトレースしたうえで、唯物論の立場から評価しようとしているのだから学問的な手続きを踏んだ上でやっているのに、どこが非学問的なのか!と思われることでしょう。たしかに私もカントの説を忠実にまとめていると思います。そうであるからこそ、唯物論的に検討するという試みが何の成果ももたらさなかった、という事実の意味するところを問題視するのです。なぜなら、カントの時間・空間論は宝の山だからです。にもかかわらず、そこから何も宝を見つけ出せない唯物論とはいったい何なのかと思うからです。はじめから観念論は誤っているという観念があるために、宝も宝と映らず、逆にその宝をゴミのように否定し放り出すということになってしまうのです。
その原因は、唯物論にあるのです。カントの時間空間論は、経験的認識(事実の論理=唯物論)を否定し排除することによって、創り上げられたものです。このことの意味するもの、を真面目に考えようとせず、頭ごなしに誤りだから認められないと、決めつけて無視しています。唯物論の土台を否定されたことへの反発もあったのかも知れません。しかし、これは明らかに、先入見なしに事実をありのままに捉える、という唯物論の精神に反するもので、たとえそれが観念論的な事実であったとしても変わらないはずです。ところが、はじめから誤りだと決めつけて検討しようともしていないのです。だから、ディーツゲンやヘーゲルは唯物論から離れて自由にならなければ学問の体系化はできない、と言ったのです。
唯物論でもできると思っている人たちは、部分的に観念の先行を認める弁証法的唯物論だから可能だと思っていることでしょう。しかし、そもそものその弁証法的唯物論そのものが、インチキのまがい物なのです。弁証法ということは、唯物論と観念論とを統一することを意味します。観念論を否定して唯物論だけが正しいとするものは弁証法を名乗る資格がないということです。看板に偽りあり、羊頭狗肉だということです。前にも述べたことがありますが、真の学問の立場は、唯物論も観念論も共に認めて、その両者を統体止揚した絶対的観念論こそが、真の意味でも学問的立場なのです。
かかる観点から、カントの時間・空間論の宝物を抽出して、創り上げた真の学問的な時間・空間論を披露するならば、以下の通りとなります。
まず前提的に確認しておきたいことは、この時間・空間認識は、カントの言うように、経験的認識から創られたものではないということです。つまり、それは、事実の論理の抽象化の結果として生み出されたものではなく、全体を全体としてとらえようとする認識が、対象を外側から全体的に規定しようという問いかけによって創りだされた認識です。ですから、その中に存在する具体的な事物は、はじめから一切問題とならずに、むしろ無視して消し去るべきものであるような抽象的な認識が、時間・空間認識なのです。だから、私は故加藤氏の「具体化の一般性」などという意味不明の珍妙な規定を誤りだと断ずるのです。
このことを見事にとらえたカントの説を上手にまとめた京都の皆さんの文章を引用しましょう。
「空間という直観形式が実在性をもつと同時に、観念性をももつということである。つまり空間は、外的対象として我々に現われ得るところのものに関しては実在性(すなわち客観的妥当性)をもつが、しかしそれと同時に、もし物が理性によって物自体として――換言すれば、我々の感性の性質を顧慮せずに考えられるならば、物に関しては観念性をもつわけである。だから我々は、空間の経験的実在性を主張すると同時に空間の先験的観念性をも主張する。空間の先験的観念性とは、我々が一切の経験を可能ならしめる主観的条件を捨てて、空間を物自体の根拠に存するところの何かあるものと考えるならば、空間は無である、ということである。」{2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論(3/10)}
ここに書かれている「観念性」には二つの意味があります。一つは、認識の側が対象に問いかけ対象に性質を与えたという側面と、それが思弁哲学の全体性の論理の究明の思惟の運動で取り上げられ用いられたという面とです。たとえば、ゼノンの詭弁で用いられた空間・時間の無限性の認識がそれに当たります。
しかし、京都の皆さんは、この「観念性」についてだいぶ苦労しているようです。そこの部分を引用してみますと、
「メンバーの多くは、空間は経験に先立って(ア・プリオリに)我々の側に備わっているものであるという点を捉えたものが先験的観念性だという見解を出していました。つまり、空間とは主観的なものであり、それが観念性だということです。それに対して一人のメンバーは、『空間を主観的条件としてではなく、物自体が成立するための条件と考えるならば、空間は、単に観念的なものになってしまう。これが空間の先験的観念性ということであろう』という見解を出していました。補足を求めると、空間は経験的には実在しているのだけれども(経験的実在性)、先験的には実際に存在しているわけではなく、単に観念として考えられているだけで本当はないのだ、経験が成立するためには空間が必要だが、物自体が成立するためには空間は不要なのだ、ということでした。直接的には、カントの以下の記述をもとにしたものであるということでした。
『空間の先験的観念性とは、我々が一切の経験を可能ならしめる〔主観的〕条件を捨てて、空間を物自体の根拠に存するところの何か或るものと考えるならば、空間は無である、ということである』(p.95)」
この最後のカントの言葉の言わんとするところは、<空間>は、人間が主体的(主観的)に物自体に問いかけて外的規定として与えたものだから、それをなくせば、<空間>という論理は物自体から生まれてこない、すなわち「無」だと言っているのです。
実際、われわれが時間や空間を使う場合、その中身を意識的に度外視して、その具体物にそとから時間認識や空間認識を当てはめながら創り上げているはずです。このように、時間・空間論は創られ、かつ実際に使われているわけです。
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