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[2920] 南郷先生の「原論」は壮大なる勘違いと恣意的誤謬満載ー学城17号批判
愚按亭主 - 2018年09月19日 (水) 05時36分

 最新の「学城」17号は南郷先生が出された「哲学・論理学原論(新世紀編)」の礼賛のオンパレードでした。その一つが瀬江千史先生の、「まさに学問の世界の霧が晴れて、その全貌が浮かびあがってくるという感動を味わうことができた」と大絶賛であり、「『原論』に学的研鑽のすべてが収斂している」という大賛辞です。

 はたして、この評価は正しいでしょうか?すでに私は、その南郷先生のいわゆる「原論」について、この談論サロンにおいて、厳しく批判しております。ですから、瀬江先生とは、その評価がだいぶ異なります。瀬江先生は「原論」の中に学問の世界の全貌があるかのように説いていますが、私はこの「原論」はやっと入り口にたどり着いた「有論」レベル、それも対自有の欠落した、せいぜいのところ定有レベルdしかないと思っております。したがって、学的研鑽も、全てが収斂しているとは到底言えず、即自的悟性レベルの事実的研鑽しかなく、肝心の体系化に必要な対自的理性の研鑽が皆無であるという一大欠陥をもっていると云わざるを得ません。

 にもかかわらず、南郷先生は、それで21世紀の学問の新たな地平を拓くものであるかのように勘違いされて、アリストテレスはまだ形而上学の端緒についたばかりの未熟さしかない、とこき下ろして、本物の形而上学は私しかできないとまで豪語されております。しかし、真実を知る者から見れば、この南郷先生の壮大なる勘違い、強引なる恣意誤謬は、もはや滑稽な喜劇を通り越して、悲劇ですらあります。

 なぜ、このような恣意的な解釈になってしまうのかと云いますと、南郷先生はその歪な唯物論信仰のおかげで、形而上学とは何かが分らないのです。また、「哲学とは何か」が、学問史上はじめてこの「原論」の中で説かれている、と瀬江先生は賛辞を送っていますが、形而上学とは何かが分かっていないということは、その「哲学とは何か」も怪しくなります。たとえば、その哲学がなぜ観念論によって創られたのか?その必然性が解かれているのか?疑問に思います。
 
 南郷先生は、即自的悟性で形而上学を説こうとしておりますが、そもそも形而上学は、観念論的に対自的理性が説かれてきたものであり、また説かれるべきものです。ここが分かっていないから、アリストテレスは、形而上学に関して、まだ端緒についたばかりだ、などという壮大なる誤解をしてしまうことになるのです。

 アリストテレスは、対自的理性から絶対的真理としての形而上学を確立した後、現象世界の形而下学との統一を図るために、対自的理性を一旦否定して、即自的悟性から事実の論理の整理を始めたのです。ところが、相対的真理レベルの事実の論理は多様性に富んで様々な要素が複雑に絡み合っているので、その整理は簡単ではありませんでした。それでアリストテレスの事実の論理の整理がきれいに整頓できていなかったという、事実を見て南郷先生は、アリストテレスの論理能力はまだまだ未熟で、形而上学も端緒についたばかりだと、判断(誤解)したわけです。それは、南郷先生の形而上学が事実から説くべきものだという唯物論的な先入見があるからです。

 これと同じことが、ヘーゲルの「大論理学」批判にも云えます。南郷先生は、ヘーゲルは「精神現象学」の後事実の論理の究明の「エンチュクロペディー」に進むべきところを、「大論理学」の方に行ってしまったため、彼の学問がおかしくなってしまった。結果として学問の体系化の必要を説きながら学問の体系というものが分からないまま終わってしまった、と事実誤認の批判をしています。

 じつは、この南郷先生の批判は、天唾やブーメランの如く自分自身に跳ね返ってくる言葉だったのです。つまり、南郷先生の方こそが学問の体系というものが分かっていないことを示すブーメランになってしまったのです。その原因は、ヘーゲルを真面目に勉強せず、自分の体験のみを絶対視して、そこからヘーゲルを解釈してしまった結果なのです。もっと言えば、唯物論を絶対視して、ヘーゲルの本物の学問的立場である絶対観念論の立場に立たなかったために、ヘーゲルをヘーゲルのレベルで理解できなかった結果として、自分の築き上げてきた学問がいつの間にか恣意的なものに変質してしまっていることに気づかず、ヘーゲルの方が間違っているとなってしまったのです。

 先に私は、南郷先生のアリストテレス批判と、ヘーゲル批判とは同じだと述べましたが、それはどういうことかと云いますと、かつて、まだ唯物論から比較的自由に思考を展開されていたころの南郷先生は、学問の形成過程について、まず仮説的な一般論を創りあげ、しかる後にそれを道しるべとして、事実および構造の究明を図って、最終的に本質論にいたる、と正しく述べておられました。ところが、現在の唯物論を徹底してそれにがんじがらめに囚われてしまった南郷先生は、かつての自分の前言をを忘れたかのように、とにかくまず事実に当たれ一辺倒になってしまいました。

 その結果、アリストテレスが、まず形而上学の一般論を創ってから、自ら事実に当たって事実を整理しようとしていることが分からずに、事実に当たっていること自体が、形而上学を創っていることと錯覚して(なぜならそれが南郷先生の形而上学の像だから当然と云えば当然なのですが)、アリストテレスの形而上学はまだ端緒についたばかりだ、と見当違いの批判してしまっているのです。

 そして、ヘーゲルの場合はといえば、ヘーゲルがまず一般論としての「大論理学」創り上げたことを、学問の形成過程として順序が違う、まず事実に当たるべきだ!と偉そうに批判しているのです。

 まず最初に一般論を創り上げるということは、全体を全体として大雑把に眺めて、その核となると思われる論理を掬い上げるという過程は、事実を起点にしているように見えて、じつは事実はそう重要ではなく、核心的論理を掬い取る観念の能力の方がとても重要です。その意味で、この過程は観念論的に行われるといえます。その観念の力が即ち対自的理性の力なのです。

 人類の学問の歴史も、まずはこの対自的理性によって哲学から創られていきました。つまり、即自的悟性によってではなく、対自的理性によって観念論的に全体性・一般論から創られていったということです。これは、学問史における歴史的事実です。ところが、南郷先生の学問論や認識論にはこの事実や論理が全く出てきません。だから、恣意的だと断定できるのです。その恣意的とは、アリストテレスが本読み奴隷だったとか、プラトンの合宿生活での闘論によって論理能力が養成された、というような唯物論的な先入見からのそれらしいどうでも良い本質的でない事実を好んで見るばかりて、肝心の観念の対自的理性の側面を見ようとしないという偏執性をいいます。そして、それを画期的な新世紀新たな学問像だと思い込んでいるのです。


 

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[2921]
質問者 - 2018年09月19日 (水) 12時13分

私のところにも『学城』17号が届きました。今年の2月に16号が出されたばかりですから、年2冊の発刊を目指すという発言を有言実行していくようですね。

私も南郷さんの文章を読んで愚按亭主とは違った視点から何とも複雑な思いが湧いてきましたけれど…。

まあ、愚按亭主の今回のコメントで南郷さんに向かって述べている「即自的と対自的」だとか「唯物論的と観念論的」だとかの発言も何とも意味が無いというか、内容が無いようにしか私には映りませんけども、即自よりも対自のほうが更に進んだ高いレベルの思考だとか、唯物論至上の考えを改めさせて観念論の有意義性を認めさせたいだとか、何かしら「師を乗り超えたい」との意志が現れた発言なんだろうなと想像はしてるんです。

そこから演繹的に唯物論は事実を重視するから観念論を擁護するためには事実を無視しろとかいった思考の流れ・論理性に繋がっていってるように見受けられるんですが…私が南郷学派で注目してるのは菅野さんですね。

この人、12年前に東京大学で博士号とってるんですが、その学位審査を務めたのが今井知正先生なんですね、ギリシャ哲学研究者の。今井先生は私も何度かお会いしたことありますけれど、東京大学の今井先生は東京大学の総合文化研究科広域科学専攻の「相関基礎科学系」という枠組みの中でギリシャ哲学を研究していたみたいなんですね。門外漢の私が簡単に意訳するとイワユル「科学基礎論」というんですか。今ある科学がどういった基礎的思考に基づいているのかを科学史・哲学史を遡って研究する領域みたいなんですね。

菅野さんも指導教官であった今井先生と同じく「科学基礎論」という領域を睨みながらのギリシャ古典研究だったのだろうなと推察されるんですね、門外漢の藪睨みながらも。

それが学位論文(博士論文)の「プロクロスのユークリッド原論註釈」で、科学基礎論を睨んでいるからこその「数学史」なんだろうと想像されるんです。

それで、愚按亭主は兎に角、唯物論を否定する形で観念論を肯定したいという志向性がありますから、「事実の無視としての仮説」という話を思い浮かべたんだと思います。

ですが、虚心に考えても仮説って何も事実の無いところから出てくるのかな?と思うわけです。

例えば、アリストテレスの「重いものは軽いものよりも速く落下する」という説・仮説は確かにそんな事実は無かったわけですけど、重いとか軽いと人間が感じ分けられるモノの事実は実際にあったわけで、そこからアリストテレスは「重い=下に行こうとする力が大きいものほど速い」と理性的に仮説したんだと思いますよ。ですが、その後のガリレオの実験だとかで検証されたように「重さと速さは一致しない」=「重さと速さは別の要素として存在している」ということが明らかになったわけでしょう?

それが今の物理学の「力=重さ(質量)×速さ」という知見で、アリストテレスは「落下しようとする力は重さ(質量)」だとしか考えられなかったのを「力=速さ」=「モノ自体が持っている重さ(質量)とは別の他から加えられたエネルギーの大きさ」を「力の構造」として考えられるようになった、「分け入ることが出来た」、換言するなら「弁証法の分析」が出来たということだと思うんですよ。

だから、駒場で科学基礎論の勉強した菅野さんの実力を想定してから語ったほうが適切な文章になるんじゃないかと思ったわけです。


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[2923] 南郷学派の重層的・輻輳的弁証法は、本当に画期的な弁証法なのか?
愚按亭主 - 2018年09月20日 (木) 09時21分

 「学城」17号では、弟子の皆さんが、「原論」などから南郷先生の言葉を引用して、画期的な新世紀の新たな学問が切り拓かれようとしている、と一生懸命強調しています。しかしながら、私からしますと、それらの言葉は、盛んに像で考えよ!と言っている割には、文字だけが踊って中身が無いように映ります。

 では、具体的にいくつかその例を列挙して論じていきましょう。
「弁証法の歴史的な過程性、つまり発展的構造論としてわれわれが学び、かつそれらを本物の自然に求めて具体化し、そこから本物の社会へ求めてさらに具体化(重層化)し、加えてさらに精神の世界(学問レベルの世界)に、より輻輳化した弁証法を求めて具体化していく中で、学的レベルの弁証法を我々の実力と化してきたからこそ、つまり我々の重層的・輻輳的弁証法だったから説くことが可能となった、『生命の歴史』を措定できたのである。」(「哲学・論理学原論〔新世紀編〕」を学ぶ(一)p40、瀬江千史著)

 これだけを読むと、多くの読者の皆さんは、何かとてもつない凄い弁証法が創られているかのように、誤解してしまいそうですが、本物の重層的・輻輳的な学的弁証法は、すでにヘーゲルによってより見事な形で創られております。それが理解できない重層的・輻輳的弁証法とは一体何なのだ?と云いたくなりますが、ズバリ南郷学派の新たな弁証法は一体何かと言いますと、弁証法の基本の存在しない、本物の(自然・社会・精神)との真剣勝負の中で作った、無手勝流の喧嘩拳法的弁証法に過ぎないと推測されます。

 その南郷学派の重層的・輻輳的弁証法とやらは、一体どういうものかについては、いつものように思わせぶりだけで、その中身を明らかにしようとしません。おそらく当人たちも、端的に云い表すことができないのだろうと思います。しかし、ヘーゲルの本物の学的弁証法は、明瞭で端的に云い表すことができます。南郷学派と違って、今ここですぐに、論より証拠を示しましょう。

 ヘーゲルの学問的弁証法とは、物自体すなわち絶対精神が、自然・生命・国家へと転成し、その二重構造の重層的発展の結果として、精神が学問化によって絶対精神たる自己自身に輻輳(全構造が一点に収斂)・回帰する、自己運動そのものを云います。

 これに対して、南郷学派の重層的・輻輳的弁証法は、おそらく、ヘーゲル的な弁証法の基本がないがために、本物の事実の複雑な重層性に右往左往させられ、その混雑が輻輳した結果、不通となって一体何が核心なのかが分からなくなって、自らについて、とても重層的かつ輻輳的で複雑だとしか説くことができないでいる、のが実態なのだろうと思います。

 ここでいう弁証法の基本とは、ヘーゲルの云う教養の中身そのものであり、「弁証法の歴史的な過程性」なのですが、南郷学派の説くその「歴史的な過程性」には、静止体の弁証法から運動体の弁証法へといたる歴史的過程性の姿形もなければ、弁証法の核となる重要なな論理である、カントが初めて規定し、ヘーゲルが学的に完成させた、<即自的悟性・対自的理性>が全く出てきません。

 何でそうなってしまうのかと云いますと、観念論が創った弁証法の歴史的過程を、唯物論という偏向眼鏡を外すことなく見ているために、すべてが歪められて、恣意的解釈になってしまっているからです。たとえば、次の行がその典型と云えます。

「カントの二律背反の実際は、実体(現実)を対象にして研究した結果の『ゼノンの絶対矛盾』と大きく違い、ゼノンレベルの実体を伴うことのない、『時間』と『空間』という全く観念の問題を、問題視して解いているだけであった。」(同上P38)

 これこそまさに、弁証法の基本が分かっていないための、恣意的な誤ったカントの評価です。これは恐ろしい現象論です。たしかにゼノンは論理を実体的に説いてはいます。しかし、このゼノンの論理を、実体的に解こうとしても解けませんし、理解もできません。ですから、このゼノンの論理を実体的に解いてはいけないのです。そもそもゼノンは、この論理を、師匠のパルメニデスの「世界は一にして不動」の本質論を基点として、実体的にではなく、純粋に観念的に説いているのです。

 たとえば、アキレスが永遠に亀を追い越せないという論理を成立させるためには、時間を無限に刻むことができなければ不可能です。それは、実体ではありえないことで、観念の上だからこそ可能なことです。同様に、半分ずつ刻んで行って永遠に目標の到達できないという論理を成立させるためには、空間を無限に刻むことができなければ不可能です。これは、観念上の純粋論理の世界の話なのです。じつは、これが、これこそが思惟なのであり、弁証法の基本なのですが、そのことを、南郷学派は全く分かっていないのです。


 だから、思惟のことを次のように自分勝手な・見当違いな規定をしてしまうのです。
「『思う』というのは、像を止めてから動かす準備をなすことであり、そこから止めた像を考え(動かし)て新しい像を創出することが本物への思「思考」となることであり、それに論理性を持たせ続けることが『思惟』の実力であり、さらにそれに法則性・体系性を持たせることがヘーゲルの説きたかった『思弁』という概念である。そうしたら、我々の形而上学は一応の形態としてできあがることになろう。」(「哲学・論理学原論〔新世紀編〕」南郷継正著、P369)

 ここには、肝心の体系的認識がどのように創られるのかの過程が、全くありません。まるで自然にできるかのように書かれています。だから、思惟が分からないのです。これで認識学などと良く言えたものです。その過程を、人類の学問の歴史の事実から掬い取ろうとせずに、自分の体験をもとに頭の中だけで勝手に空中楼閣を創り上げようとするから、このような欠陥が生じるのです。

 人類の学問の歴史における思惟は、哲学者の観念論的な思考が技化したものとして形成されたものです。その思惟の特徴を、端的に示す歴史的事実が、プラトンの哲学的思考からの事実の要素の排除であり、カントの、事実的な経験的認識の締め出しによる、純粋理性の扱う論理の純粋化です。これによって技として確立したのが思惟なのです。ですから、このことの学問の発展史における意義は非常に大きいのですが、南郷学派は気づかないのか?意識的に無視しているのか?言及が全くありません。

 ゼノンは、この思惟を自然成長的に駆使して不変の論理を創り上げましたが、カントは、目的意識的にこの思惟を駆使して、二律背反の論理を創り上げたのです。そのカントが説く時間・空間について、瀬江先生は「実体を伴うことのない、『時間』と『空間』という全く観念の問題を、問題視して解いているだけであった」と説いていますが、全くその通りであり、それで良いのであり、それがあったからこそ人類の論理的認識・体系的認識は、発展することができたのです。

 カントは、自然科学の発展を踏まえて、宇宙論を展開するなどゼノン以上に実体の研究を行っていることは確実です。その上で、カントは、真理の王宮から、実体の事実的・経験的論理を意識的に排除して、観念上での純粋論理の展開の場として、思惟の運動の場としての時間論・空間論を説いたのです。その学問的意義の重大さの分からない南郷学派は、カントをゼノンより下だとけなしています。その一方で、ゼノンをカケラはカケラに過ぎず、弁証法の歴史に大した影響を及ぼせなかったとでも云わんばかりです。このスジの通らないいい加減さ、無茶苦茶ぶりにはあきれます。

 最後に、プラトンとカントの行った思惟の実体からの隔離は、いかなる学問的な意義があるのかについて、触れておきましょう。端的に言えば、それは弁証法の基本を創る上で必須の過程であった、ということです。空手の基本技を創るためには、本物の実体(真剣勝負)から隔離されたところで、純粋な技を創り上げることが必要なのと同様に、弁証法の基本も、本物の実体(自然・社会・精神)から隔離されたカント的な観念上の時間と空間という場で、純粋な論理を純粋に展開する訓練を通して思惟能力を技化する必要があるのです。

 この弁証法の発展の歴史的過程における、否定の否定の弁証法性を説かない・解けない南郷学派の重層的・輻輳的弁証法は、はたして本当に新世紀の扉を開く画期的な弁証法と云えるのでしょうか???


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