カウンター 観念論的に説く平安時代から鎌倉時代への日本の国家の変遷 - 談論サロン天珠道
【広告】Amazonから人気の商品が日替わりで登場毎日お得なタイムセール開催中

談論サロン天寿道

この掲示板は、東洋医学に関する諸問題を真摯に討論するためのものです。
個人的な誹謗中傷ではなく、学問的な議論であれば、どんなに激しくとも可です。
最近他所の問題を此処で意見する者が増えてきました。
ここは独立した掲示板ですのでそのような書き込みは削除いたします。

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
アップロード
URL
削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[2872] 観念論的に説く平安時代から鎌倉時代への日本の国家の変遷
愚按亭主 - 2018年07月04日 (水) 21時28分

 京都の皆さんが、自称唯物論その内実は歪な観念論に過ぎないマルクス主義の階級闘争史観を排して、平安時代から鎌倉時代にかけての日本の国家・社会の実相を、真に唯物論的に解明していこうと、意欲的に取り組んでいるのに触発されて、私も、学問のもう一つの要素である観念論的に説く試みをしてみたいと思います。
 
 日本の国家を論じるときに、国家が国家としてはっきりとした形で現れたその原点を、しっかり説く必要があると思います。すなわち、隣国に隋という軍事的な強大国の出現を契機に、聖徳太子(蘇我馬子)が中央集権的な国家を建国し、その国教として、伝統的な神道ではなく、より哲学性の高い仏教を据えて、それに基づいて国家理念としての17条憲法を制定しました。これが以後の日本の国家の歩みの精神的な土台をなしていくことになります。

 問題は、儒教と中臣氏すなわち藤原氏に関して、です。昔は、中臣氏ならぬ藤原氏は支那からの渡来人・帰化人というのが常識でしたが、現在では全くそういう説は影も形もなくなりました。ここに、私は、何か意図的なものを感じます。現在でも、帰化人説というのはあるにはありますが、百済系だとするもののようです。しかいながら、藤原氏のやったことや文化の程度・内容からしますと、やはり、私は昔の支那からの渡来人説が有力だと考えます。

 その理由は、権力を簒奪し、私物化しようとする巧緻さは、日本的でなく儒教的で、唐の律令制をまねて律令制を制度化する際にも主導的役割を果たせる文化力を持っていたこと、摂政関白の地位を得て政治の実権を握ると、日本的でない武を軽んずる儒教的な色合いが強くなっていって、公家と武家とへの二極化が進み、次第に公家の独占体制が強くなっていって、武家の地位がどんどん下がり、食えなくなって武家が地方に散らばらざるを得なくなっていったことです。

 具体的に云いますと、鎌足は、王になる見込みの全くなかった神道系の有力氏族の子息を担ぎ上げて、クーデターを起こして蘇我王朝を倒し、その担ぎ上げた人物が王になれるように様々に画策し(だいぶ苦労したようですが)、何とか王に担ぎ上げることに成功しました。かくして誕生したのが、後に天智天皇と呼ばれる新王朝の王です。

 すると、本家のその混乱に乗じて、属国であった新羅が唐と通じて反乱を起こして、百済を攻撃し始めました。それを平定しようと鎌足率いる日本軍が出兵して、新羅を応援する唐と、白村江で激突することになりますが、敗れてしまいます。これによって日本は朝鮮半島の権益をすべて失ってしまうことになりました。

 鎌足と天智天皇は、戦後まもなくして亡くなりますが、その系統は、唐への朝貢による属国化への道を模索しはじめます。それに対して、蘇我馬子以来の独立自尊の魂を受け継ぐ勢力が、真っ向から異を唱えて対立が深まります。そんな時に、大伴部博麻の意を受けた者が唐から帰国して、唐が日本を滅ぼそうとしているという報が伝えられると、独立自尊派の勢力が増して、壬申の乱に勝利して天武天皇が誕生します。この時、敗れた側の藤原氏は滅びますが、鎌足の息子の不比等は巧妙にも天武側というより天智天皇の娘である持統天皇について官僚としておとなしく従っています。そして、天武天皇が崩御すると、めきめきと頭角を現し、御世継ぎに自分の娘を差し出して生まれた聖武天皇にも、自分の娘光明子を娶せます。不比等の死後、藤原氏の一統が、光明子を皇后にする画策を始めると、それに反対する天武天皇の孫の長屋王との対立が深まり、結局藤原氏一統が長屋王を殺して、天皇家の外戚としての地位を不動のものとします。

 この手法は、まさに支那の王宮で展開されてきたものそのもので、後の摂関政治という権力の私物化の前兆といえるものでした。そして、彼らの信奉するものは神道でも仏教でもなく、支那伝来の儒教でしたから、武を軽んじ・疎んじて、専ら身内だけで文教の世界に遊ぶ独特の公家社会を作っていったのです。地方の統括がおろそかになって財力が枯渇していって結果として自分で自分の首を絞めることになっていったことは、たしかです。しかし、そうした彼らの身勝手な支配体制が300~400年間もの長きにわたって続くことができたのは、それを支える日本独特の共存共栄の平和な社会があったからこそ可能だった、といえると思います。

 私は、武士の棟梁の誕生となった天皇の子孫の臣籍降下も、儒教を信奉する藤原氏のライバルの排除、武門の軽視・格下化の策謀によるものだと思っています。つまり、平安時代の公家と武家との分離・二重構造化は、藤原氏によってなされたものだということです。藤原不比等を祖とする藤原氏は、はじめは天武系に属していたので、それとつながる満願寺系の清和源氏の源満仲・頼光を重用します。とりわけ、源頼光と渡辺綱などの四天王とが大江山の酒呑童子という鬼を退治した話は、今も歌舞伎や日本舞踊に残されて連綿と伝えられている話です。ところが、武門の価値の低下とともに次第に疎んじられていくことになります。

 そうした中、もう一つの武士の系統である桓武平氏の平清盛は、船を使った交易で得た財力を利用して、衰えた藤原氏に代わって天皇の外戚となって、平安貴族の一員への復帰を画策しますが、道半ばで源氏との戦いに敗れて滅亡します。もう一方の源氏は、儒教的な平安貴族への道ではなく、武家として蘇我馬子以来の独立自尊の道を追求していくことになり、鎌倉幕府(初期は源氏でしたが、平氏系の北条氏に乗っ取られ実質平氏系の政権になってしまいますが)が、儒教的な藤原摂関政治を否定して、初めての武家による国家統治の政権として誕生します。この鎌倉幕府は、独立自尊の蘇我馬子の17条憲法の精神に則って、法を作りかつそれを公明正大に執行して、その後の江戸期の武家社会の完成形の土台をしっかりと築いたのです。

 その武家社会の経済的基盤を作るきっかけとなった荘園は、開拓農民の自発的意志による寄進によって形成されていきましたが、この寄進について、大方の解釈は、野盗や無法者たちから土地を守るために行われたとしていますが、これは日本の社会を、弱肉強食の無法地帯であった大陸と同列視したもので、日本の国家・社会の特性が全く分かっていないものです。日本の社会は、17条憲法のいきわたった共存共栄の共同体意識の強い社会だったからこそ、自分の開墾した土地も、積極的に自由意志で共同体に寄進して、農業の共同作業を円滑にしていくものだった、と解釈すべきだと思います。

 ここが、西洋における封建領主の奴隷的支配と、日本における武家の農民に対する扱いの根本的な違いなのです。西洋の封建領主は、農民を奴隷として見て、よく云われるように農民の娘の**を奪う権利も持っていたと云われています。一方、日本の農民は、自ら進んで生産力を向上させるために、自発的に工夫し努力して、生産力を高めていったのです。その結果、余剰生産物を交換し合う商品経済の市も発展していくことになったのです。

 

 

 

Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonから人気の商品が日替わりで登場毎日お得なタイムセール開催中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板