[2769] 学城16号を読んでーなぜわかってくれないのか?! |
- 愚按亭主 - 2018年02月08日 (木) 22時55分
「学城16号」が送られてきましたので、早速読みました。それによると、ドイツではヘーゲルの見直しが始まっているようです。日本にもその支部のような日本ヘーゲル学会なるものが存在して活動しているようです。どうやらヘーゲルの復権は世の趨勢になりそうですね。心強いことです。しかし、折角ヘーゲルを復権しようと思っても、唯物論オンリーでは絶対にヘーゲルを正しく理解できないことだけは、断言できます。
私がなぜそうなのかを丁寧に説いてきたにもかかわらず、南郷学派は相も変わらず、唯物論に固着してそこから自由になろうとしていません。その反省がなければ、どんなに威勢の良いことを並べ立てても、砂上の楼閣・蜃気楼にすぎません。つまり、骨折り損のくたびれ儲けにしかならないことは目に見えています。
南郷先生は「学城16号」の中で、「『精神現象学序論』の具体的体系化こそが学問の道であるー日本ヘーゲル学会へのあいさつに代えて」という論稿を載せています。この中で南郷先生は、ヘーゲルを批判して、体系がない、大論理学をさきに書いたから以後のヘーゲルは学的認識・弁証法の発展がみられず、駄目になった、と述べています。そして、その原因として、まともな討論の相手がいなかった、弟子が育っていない、自分で体系的な書を書かなかった、ということを挙げています。
この南郷先生の批判は、ヘーゲルの学問が完成しなかった、という南郷先生の思い込みを前提にして立論されていますが、そもそもヘーゲルの学問が完成しなかったという南郷先生の認識自体が誤りであるとするならば、全てが瓦解してしまう代物でしかありません。そして、その南郷先生がヘーゲルの学問体系が理解できなかったということは紛れもない事実なのです。これについてはすでに何度も説いてきていることです。
じつは、なぜ理解できなかったのかの謎を解くカギが、今回の論稿の中にあります。それは次の行です。 「『私の弁証法というものは、これまでの弁証法とは違うのだ』というようなことは説いても、それが今までのとどう違うのかを説くことができないでいるからである。つまり『私の弁証法は違うんだ』と宣言しているだけで、その違うという中身をヘーゲルは十分に説くことはなかった(できなかった)のである。(「『精神現象学序論』の具体的体系化こそが学問の道であるー日本ヘーゲル学会へのあいさつに代えて」「学城16号」)
私はこれを読んで、「えっまさか嘘だろう!」と本当に思いました。ヘーゲルの言う新しい弁証法とは、カントの二律背反の命題間矛盾を、形而上学(=静止体の弁証法)的判断の破壊を通じて、命題内矛盾へと質的転換させることを通じて、これまで死んだ矛盾でしかなかったものを、その矛盾自体が生きて運動し始めた運動体の弁証法のことである、だからヘーゲルは古い弁証法のことを死んだ論理学と称していたのだ、ということがヘーゲルの書の中から読み取れないとは、南郷先生のお言葉とは思えなかったからです。
というのは、南郷先生は、この文中で「「大ヘーゲルの文体を弁証法的に、すなわち、私の説く『背後霊』的に、もっと説けば、道筋ではなく筋道的にしっかりと説く、つまり論理体系性で文体を並び替えていくこと」である、と述べているからです。これは私自身もやってきていることであり、私自身はこれによって限りなくヘーゲルに近づいていき、南郷先生はこれによって、ますますヘーゲルから遠ざかっているのです。それは何故かと云えば、学問的立場およびその真理論において、私はヘーゲルとまったく同一の論理体系性で説いているからであり、これに対して南郷先生は学問的立場も唯物論オンリーであり、真理論も相対的真理オンリーの論理性だから、遠ざかって行ってしまう必然性があるからです。その結果が、ヘーゲルの説く運動体の弁証法が全く見えないという現象なのです。まさに、げに恐ろしきは論理性です。その論理性を徹底すればするほど、ますます大きく遠ざかってしまうことになるのです。ところが、それをヘーゲルを遠く超えたと錯覚してしまったのが、現在の南郷学派の実態なのです。
ヘーゲルは運動体の弁証法の萌芽を、ギリシャ哲学のヘラクレイトスに見て、彼を高く評価しています。だから、大論理学の基礎となる論理は、ヘラクレイトスの「有」と「無」との統一としての「成」です。しかし、南郷先生の説く弁証法の歴史には、ヘラクレイトスのヘの字も出てきません。私は、このことをずっと不思議に思っていましたが、ようやくその謎が解けました。これが、論理性のなせるわざです。
ヘーゲルは先に挙げたヘラクレイトスの運動体の弁証法の基礎的な論理を、「大論理学」において次のように発展させています。
「成はこうして二重の規定をもつ。一方の規定においては無が直接的なものとしてあり、 即ちこの規定は無から始まり、この無が有に関係する。即ち無から有に推移する。これに反して他方の規定においては有が直接的なものとしてあり、即ち規定は有から始まり、その有が無に推移する。――即ちそれは生起と消滅である。
この両者は同じもの、即ち成であるが、またこのような互にちがった方向を取るものとして互に浸透しあい、相殺しあう。一方の方向は消滅であって、有が無に推移するが、しかしまた無は自分自身の反対であり、有への推移であって、即ち生起である。それで、この生起は反対の方向を取るものであって、ここでは無が有に推移するが、しかし有はまた自分自身を止揚するのであって、むしろ無への推移、即ち消滅である。――両者は単に相互的に相手側を、即ち一方が外面的に他方を止揚するのではない。むしろ各々はそれ自身の中で〔即自的に〕自分を止揚するのであり、しかもそれ自身において〔対他的には〕自分の反対となるのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論より)
このようにヘーゲルは非常に明確にかつ懇切丁寧に新しい弁証法の中身を、その基礎的論理を説いてくれているのに、どうして「『私の弁証法は違うんだ』と宣言しているだけで、その違うという中身をヘーゲルは十分に説くことはなかった(できなかった)のである。」などと言えるのでしょうか?その神経がどうしても理解できません。こんな論稿を、ヘーゲル学会にあいさつとして本当に送り付けたとしたら、それこそ恥をかくのは南郷先生の方だと思います。どうかヘーゲル学会の人たちの目につかないことを願うのみです。
唯物論の論理性の筋道にのると、途端にヘーゲルの学問体系が見えなくなり、その学問体系の発展も見えなくなってしまうという事実を、南郷先生ご自身が身をもって教えて下さっています。これは学の発展にとって、とても貴重なことです。南郷先生は、ヘーゲルの弁証法を単層構造だと批判していますが、じつは単層構造なのは南郷先生の弁証法の方なのです。それが重層構造のように見えるのは、事実という対象自体が持つ重層構造なのであって、南郷先生の弁証法自体の重層構造ではないのです。そのことが分かっていないから、南郷先生が説く弁証法の歴史は単層構造になってしまうのです。つまり、これは何を意味するかと言いますと、南郷先生の唯物弁証法が単層構造だということです。その対象の構造に規定されて、南郷先生の説く弁証法の歴史は否応なく単層構造になってしまうのです、そのほかの対象を解くときは、重層構造になっているのに、何故、弁証法の歴史を説くと単層構造になってしまうのかの理由は、これなのです。
そのことは、学問の体系化や、「概念の労苦」の理解にも大きな影響を及ぼすことになります。南郷先生は、ヘーゲルには学問の体系がない、結果として大論理学以降学的発展は見られなくなったと決めつけて、次のように言っています。「ヘーゲル自身の言葉でいえば、『概念の自己運動ができていない』ということである。」と。
私には、どうしてそういう結論になるのかさっぱり分かりませんが、南郷先生の弁証法が唯物論的な単層構造でしかない、ということが分かると、な~んだそういうことか、と納得できます。どういうことかと言いますと、南郷先生の概念は、悟性的な部分的事実の相対的真理の単層構造しかない論理学の概念ですので、それをいくらかき集めても、有限な部分的な概念にしかなり得ず、したがって、無限の一般的概念にはなりえないということを、ヘーゲルは明確に述べています。
これに対して、ヘーゲルの説く概念は、無限の全体性の絶対的真理の絶対的本質の概念と、部分的な相対的真理の概念との二重構造になっています。だから、ヘーゲルの運動体の弁証法の基本構造は(三重構造的)二重構造なのです。これが、南郷先生の弁証法にはないのです。だから、ヘーゲルの概念が理解できず、したがって、「概念の労苦」も勝手に大いなる勘違いをして、単層の平板な論理化でしかないものを、ヘーゲルを超えて世界ではじめて自分が解いて新世紀を切り拓いた一大論理、と思いこんでしまったのです。
ヘーゲルの言う「概念の労苦」の概念とは、絶対的本質の概念であって、それが部分的事実の論理・構造化された論理を、自らの体系に次々に取り込んでいって学問体系として発展していくことをいうのです。ですから「大論理学」の有論や本質論にはその「概念の労苦」を視野に入れた論理化が周到に準備されているのです。その一つが「対自有」なのです。
ですから、「大論理学」以降のヘーゲルの学的歩みは、この「概念の労苦」が円滑に進んで行けるように、悟性的論理(事実の論理)に対して否定的媒介の主体となる対自的理性を整備していったのであって、それは学問の体系化の一環としてきちんとした歩みを続けていたことを意味します。
その一例が国家論の本質論としての「法の哲学」です。ところが、マルクスも滝村先生も、そのことが分からずに見当違いの批判をしてしまっています。学的発展が何もないというところを見ると、おそらく南郷先生も理解できていないと思います。これでは、南郷学派の国家論は学的な国家論にはなり得ないということが、目に見えています。
最後に、同じ「学城」の中の悠季真理先生の「研究余滴」の中の一節について、一言。その一節とは、
「結論から言うならば、これはシェーヴェーグラーなどの言うような、すべての議論に先立っての絶対的な前提とか、全ての物事の根本原理である、アリストテレス自身は考えていたわけでは決してない、ということである。 アリストテレスとしては、ああでもないこうでもあり――と、対象とするものの事実をしっかりと見続けて考えていきながら、これはこういうものである。ということが見えてくるまで、努力して究明していかなければならないのだ、ということを主張しているように思えるのである。」(「研究余滴」)
これは以前アリストテレスの「自然学」の中の叙述が充分整理できていないという事実から、アリストテレスの論理能力はまだ未熟であり、形而上学を著す実力はまだなかった、としていた部分に対するものです。これに対して、私は厳しく批判しておきましたが、この「余滴」は、その私の批判を裏付けるものといえます。つまり、前の南郷学派のアリストテレスに対する評価は、改められなければならないということにならなければなりません。
以前私は、「南郷先生の『哲学・論理学原論(新世紀編ん)』を論ず」の中の[2720] 唯物論の絶対信仰が学問の歴史を破壊してしまう必然性、で次のように述べておきました。これを読むと、悠季先生が何故そう思ったのかがよく分かると思います。
「アリストテレスは思惟の運動によって対自的理性としての形而上学は完成させた上で、自らが創り上げた対自的理性としての形而上学をあえて一旦否定して、即自的悟性による事実の整理・論理化に取り組んだのです。ところが思惟の対象である天上の全体性の論理と違って、地上の事実の論理はいろいろな要素が複雑に絡み合っているために、その整理・分類・論理化が非常に難しかったために、アリストテレスの論理能力をもってしても、完成的には整理しきれなかった実態があったことを、ヘーゲルは描写したわけです。しかしながら、そのアリストテレスの試みの総体を正しく理解していた、ヘーゲルは、それでもそれは『本質的に思弁的な哲学の総体性を成している。』(「哲学史」)と評価したのです。
ところが、このヘーゲルの言葉の意味を真面目に考えようとしないで、自分の都合の良いように解釈してしまった南郷先生は、アリストテレスの論理能力はまだ幼く形而上学を創り上げられるレベルではなかったと断言し、この解釈を基に『思弁とは論理的に体系化しようとする』ことだと頓珍漢な規定してしまったのです。」
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