[2673] ヘーゲルの学的論理学と唯物論のむき出しの論理学との違い |
- 愚按亭主 - 2017年09月20日 (水) 10時08分
ヘーゲルの「大論理学」の序論に本物の学的論理学がどのようなものかが見事に説かれています。ここをマルクスが自由な立場でもっと真面目に読んでいたら、人類の学問の歴史は大きく変わっていたのではないかという気がします。
人類は19世紀に、ヘーゲルによって、本物の学問の基礎である概念の弁証法とその論理学が創られ、そしてそこへと至る哲学の歴史を踏まえた教養の形成過程が示されました。しかし、すぐにその弟子にあたるマルクスによって、折角できあがった学問の原型が否定され捨てられてしまって、以後人類は単なる素材に過ぎないものを学問と錯覚して現在に至っています。どうしてそういうことになってしまったのかと言いますと、学問の曙のギリシャ哲学の時代は、目の前の事実を研究しながらも全体を全体として追究しておりました。全体を全体として考察するためには現実的な自分の立場のままではできませんから、現実的な自分の立場を離れて観念的に自由に動き回れて全体を見て取れる観念的立場で追究がなされました。
したがって、はじめは自分(主観)も対象(客観)も一つのものであり、本質と現象・論理と事実も一つのものとして追究されていました。ところが部分的分野を専門的に研究する個別科学が盛んになって、それが直接に生活の向上に役立つ事実が積み重ねられていくと、その見方である経験論的・唯物論的な哲学が力を得て、認識と対象、事実と論理とをはっきりと区別する観方が主流になっていきました。当然これに対抗して観念論哲学の側も、数学の形式的明瞭性で哲学の形式を整えようとする動きも出てきました。
しかし、ヘーゲルはこれに対して、数学は非本質的な量的関係の論理であって、対象を外的に規定するものであり、内的必然性を追究する哲学の論理とは異なると一蹴すると同時に、認識と対象とは別ものだと分けて壁を設けてしまった唯物論に対しても、現象的な事実から取り出したむき出しの事実と対立したままの直接態の論理は、そのままでは素材でしかないと痛烈に批判しています。そして、ヘーゲルは、本物の学問的論理は、この直接態としての素材レベルの論理が、否定の否定の過程をたどることによって、本質と現象の統一体としての運動する有機的生命態となった概念の一部に正しく位置付けられてはじめて論理として完成する、と述べております。
マルクスや滝村先生および南鄕先生は、唯物論の立場に拘泥するあまり、このヘーゲルの言葉を理解できず、唯物論的な論理学が、ヘーゲルによって、すでに見事な形で論破されていることに全く気づかず、「天を捨て」ればヘーゲルと超えられると勝手に思い込んでしまったのです。
では、具体的にヘーゲルがどのように言っているのかを見てみましょう。ヘーゲルは近世の思想すなわち唯物論的な論理学を、ギリシャ哲学などの古い形而上学との対比において、次のように批判しております。
「論理学の従来の概念は、認識の内容と形式との、或いは真理と確実性との常識的に戴然と前提された分離に基づいている。ここでは第一に、認識の素材は思惟の外部にある既成の世界としてそれだけで別に存在しているということ、思惟はそれ自身としては空虚であるが、形式として外面的にその質料に働きかけ、それによって自分を充たし、そこでははじめてある内容を得、そうすることによって実在的な認識となるということが前提される。 この点から見ると、古い形而上学は近世の思想よりも、思惟に関してずっとすぐれた概念をもっていた。つまり、昔の形而上学の根本前提となっている考えは、事物について、また事物において思惟によって認識されるもののみが事物の真実の真理だということであった。従って事物はその直接性のままで真なるものではなく、思惟の形式に高められ、思惟されたものとなるときにはじめて真なるものである。それ故に昔の形而上学は、思惟と思惟の諸規定とを対象に無関係のものではなくて対象の本質をなすものと見る。云いかえると、事物とその思惟とは全く一致するものであり、その内在的諸規定としての思惟と事物の真の本性とは同一の内容と見たのである。」(ヘーゲル著「大論理学」序論〔普通の論理学〕より)
このヘーゲルの主張に対して、学問は唯物論の立場で行うべきだと考えている人たちは、おそらく、近世の思想で良いのではないか、なぜヘーゲルはそれを批判するのか?理解できない、と感じることと思います。たしかに唯物論の立場に立つとそう感じるのは無理もないことです。つまり、それは唯物論の必然性だということです。これが何を意味するかと申しますと、唯物論だけでは学問はでき上がらないということを意味します。
それは何故かと申しますと、唯物論の本性は事実と密着することです。事実と密着するためには全体を否定しなければできませんから、結果的必然性から唯物論は部分的真理を扱う相対的真理の系譜に属するという宿命を負うことになります。したがって、唯物論が主張している認識と外界とを別のものとして扱う見方は、私が常々批判しているところの、現代医学が人間を中心に見て部分的事実から創り上げた自律神経論を金科玉条のごとく信仰して、それを覆す歴史的事実が明らかになっても頑固に改めようとしない態度と同じく、人間を中心に見てそこにあった部分的事実を至上のものと錯覚して、全体的・本質的観点からの反省・反照をかたくなに拒否して、何が何でも唯物論の立場を離れようとしないのです。
これに対して、ヘーゲルは、人間の認識の思惟の運動も、本質の本流の運動の一部にすぎないものであって、その本質が己自身について本質と規定することが、本当の真理であり、古の形而上学はそこのところを正しくとらえていて、「事物とその思惟とは全く一致するものであり、その内在的諸規定としての思惟と事物の真の本性とは同一の内容と見たのである」とヘーゲルは高く評価したのです。
これは一体どういうことかということを、もう少しかみ砕いて説明しますと、唯物論者は、認識はあくまでも対象の像であって対象そのものではない、と一見もっともらしく謙虚にふるまっているように見えますが、実は、自分だけこの対象的世界から抜け出して、超然と特等席から眺めて「物質的生活の生産が歴史の原動力だ」などと、外的に規定して分かったつもりになって自己満足しているだけなのです。これは、その本質・本流の運動に自らを加わわろうとしないから、その本質・本流の内的必然性が分からないということになってしまうのです。
では、その内的必然性とはどういうものかと言いますと、人間の理性的認識は、それまで本質・本流の運動をけん引してきた一般化力を持った遺伝子の後継であり、かつその遺伝子の相対的真理的限界性を越えて、絶対的真理を目的意識的につかみ取ろうとするものです。この人間の理性的認識の思惟の運動こそが、本質・本流の内的必然性だったのです。この概念の運動こそが究極の歴史の原動力に他なりません。マルクスは、ヘーゲルから学びながら、肝心のそれを学び取ることができませんでした。それを邪魔したのが唯物論です。ヘーゲルは人間の認識を物質の本質・本流の運動の最高形態としたのですが、唯物論は、認識を対象の像に過ぎないと規定したその規定に過剰に自信を持っていたのですから、その認識が物質の運動の最高形態などという話は到底受け入れられなかったのだと思います。
これも、唯物論の短視眼・部分を全体と見る悪い癖のなせる業です。 たしかに人間の認識の事実だけを見ただけでは分からないのも無理はありませんが、視野を広げて物質の歴史・生命の歴史という大きな流れの中で見てみれば、ヘーゲルの話はとても納得ができるのですが、唯物論者はその短視眼・目の前の部分を全体と見る悪い癖を、絶対に直そうとせず、唯物論から離れようとしないから分からないのです。
ヘーゲルは、さらに続けて、この唯物論に対する批判を、次のように述べています。 「ところが、いま反省的悟性が哲学を支配することになった。われわれはこの頃、しばしば標語として用いられるこの言葉が何を意味するかということを正確に知っておく必要がある。それは一般に分離に固執するところの抽象的悟性、従って分離的悟性を意味する。それは理性に反対を表明して、自分が日常的な人間悟性(常識)であることを標榜し、真理は感性的実在に基くものであること、思想はただ感性的知覚が思想に内実と実在性を与えるかぎりにおいてのみ思想でありうるということ。理性はそれが単なる理性であるかぎりは、単に妄想を産むにすぎないものだということを主張する。けれどもこういうように理性が自分自身を見限るとともに真理の概念は失われてしまうのである。そこでは理性はただ主観的真理、現象だけを認識することに、云いかえると事柄そのものの本性と適合関係をもたないようなものの認識に極限されてしまう。」(同)
このヘーゲルの指摘は、まさに現在の南鄕学派の実態を鋭く抉っています。ヘーゲルはまるで見てきたかのようです。これが論理というものなのでしょう。南鄕学派は、唯物論を徹底して貫き通そうとして、観念論的な理性の思惟の運動を否定してしまったために、ギリシャ哲学をまともに解けなくなって、事実に縛られたとても窮屈な論の展開をして学問の香りが全く消え失せてしまいました。以前の南郷学派は、とても自由でスケールが大きく勢いがあって、学問の香りがしていたものです。
〔ヘーゲルの概念の論理学の否定の否定的二重構造〕 ヘーゲルは、古の本質的ではあるが運動性のない形而上学的論理学や、本質的ではない近世唯物論の直接態の分断固定的な単層構造むき出しのままの論理学を、死んだ論理学と批判して、新しい学的な論理学を次のように説いております。
「われわれは通常の論理学通有の観念に訴えてものを見る。例えば、定義は単に認識主観に属する規定を意味するものではなくて、むしろ対象のもっとも本質的な本性を構成するところの対象の規定を意味するものと見られる。或いは或る所与の規定から他の規定へ推論する場合に、その推論は対象に外的なもの、無関係なものではなくて、むしろ対象そのものに属するものと見られ、従ってここでは存在はこの思惟と対立するものと考えられる。要するに概念、判断、推論、定義、分類、等々の形式を使用する場合、これらのものが単に自意識的な思惟の形式であるのみならず、また対象的悟性の形式でもあるということが大切である。思惟とは思惟が自分の中にもっている規定を特に意識のに上せるということを意味する言葉である。しかし悟性とか、理性とかが対象的世界の中にあるということ、精神と自然とが普遍法則をもち、その法則に基いてその生命、そのいろいろの変化が生ずるものだということが云われ得るかぎり、思惟規定が客観的価値と存在をもつということもまた許されるのである。」(同) 「〔論理学の方法〕 この論理学の死んだ骨に精神を吹き込み、これに実質と内容を与えるためには、その方法が論理学を純粋学となし得るような唯一の方法でなければならない。しかし、論理学の現状では学的方法が見つけ出されそうな見込みはほとんどない。いまでは論理学は経験科学とほとんど同じ形態を具えている。・・・(中略)・・そこで学的進展の方法を獲得するために必要な唯一の点は(中略)否定が同様に肯定的なものであるということ、或いは自己矛盾的なものが零に、すなわち抽象的無に解消するのではなくて、本当はただその特殊的な内容の否定に解消するにすぎないものだということ、云いかえると、このような否定が全称的な否定ではなくて、元々解消するものであるような特定の事柄の否定であり、従って特定の否定だということである。それ故にまた結果の中にはその結果を生んだ原因が本質的に含まれているということになる。・・(中略)・・それで、結果を生ずるもの、即ち否定は規定的な否定であるから、否定は内容をもっている。この否定(否定の否定)は一つの新しい概念であるが、先行の概念よりは一段と高い、一段と豊富な概念である。というのは、この否定はその先行概念の否定のために、或いはその対立者のために、それだけ豊富になったからである。それ故に、この新しい否定は先行概念を包含しているが、しかしまた更に先行概念よりも多くのものを包含しているのであって、その点でそれは先行概念とその対立者との統一である。――概念の体系は一般に、このような道程の中で形成されねばならない者であり、――不断の、純粋な、外部から何もものをも取り入れない行程の中で、他の具体的な諸対象の上で、従って哲学の個々の部門の中で自分を完成しなければならないものである。」(同)
以上のようにヘーゲルの論理学は、生きて弁証法的に発展運動をする概念の運動論理学です。ここにある先行概念とは、対象から直接取り出したむき出しの論理です。唯物論の論理学は、この論理を扱うもので、それで学問が完成すると思っているようですが、それらは有限のむき出しの素材レベルの論理にすぎないのですが、唯物論者はそれで満足して、対象との統一をはかろうとする気もなく、論理は論理としてそれだけで完結させようとしているようです。
これに対して、ヘーゲルの論理学は、理性の思惟の運動によって、個の先行概念、つまりむき出しの有限で直接態の素材的論理を、否定的にその有限性と直接性を洗い流す形で洗練化すると同時に対象との統一を図って、現実的で有機的かつ運動性を持った生きた概念を完成させ、その概念自身によって己の運動を叙述させるものなのです。ですから、ヘーゲルの論理学には、アプリオリにあらかじめ存在する前提や外的な形式は一切存在しないのです。マルクスはここが分からなかったために、「概念は現実的だ」というヘーゲルの主張を二元論(ダブルスタンダード)だと批判しましたが、ヘーゲルが即自向自的に統一したものを、わざわざ分離して固定したのはマルクスの方で、「二元論だ」との批判は自ら弁証法が分かっていないことを告白しているようなものだということが分かっていないのです。これはもはや喜劇と言う他ありません。
最後に、ヘーゲルがこの概念の弁証法の論理学の学びについて、極めて示唆的なことを述べておりますので、是非とも参考にしてほしいと思います。
「われわれが論理学を最初に学びはじめるときには、まずただその個々の概念等を理解し、知るという程度にし、その範囲とか深みとか、またはその立ち入った意味とかは、必ずしも望まないという程度にせざるを得ない。そうして他の学問に対する知識が深まるに及んではじめて論理は主観的精神に対して、単なる抽象的普遍ではなくて、いろいろの特殊的なものの豊饒を中に含む普遍となってくる。・・・(中略)・・論理も個々の学問をやった結果において獲得されたものとなるときはじめて、その価値が賞味されることになる。その場合には、論理は普遍的価値として精神の面前に立ち現れることになり、他の素材や実在と同列の特殊的知識ではなくて、これらすべての特殊な内容の本質として精神の前にその姿を現すのである。 論理はその学習のはじめに当たっては、こういうような意識された力として精神の前に現れるものではないとしても、精神はその学習を通して自分をあらゆる真理の中に導く力を感得しないわけにはいかない。論理学の体系は影の国であり、あらゆる感性的な具体的形態から離された、単純な本質性のせかいである。この学の学習、この影の国での滞在と研究は、意識の絶対的な教養であり、純真な訓練である。ここでは意識はいろいろの感性的直観や目的から、感情から、或いは単なる日常の観念の世界から遠離した仕事にたずさわる。」(ヘーゲル「大論理学」序論〔論理学と教育学との関係など〕)
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