[2670] ヘーゲルの哲学が、行為哲学とか実践哲学と呼ばれる所以は何か? |
- 愚按亭主 - 2017年08月21日 (月) 20時28分
論をはじめる前に、「心に青雲」の主宰者にしてわが友である都築詠一氏が身罷られました。死が遺してくれた私の本の推薦文が最後の遺稿となりました。「健康腺療法勉強会」のサイトの本の案内のページにその推薦文とともに私の哀悼文を載せてありますので、とりあえずここでは、謹んで哀悼の意を表すだけに止めたいと思います。(合掌)
さて、早速本題に入りたいと思います。ヘーゲル哲学の評価の中に、行為哲学とか実践哲学というものがあります。このような評価自体は、ヘーゲル哲学の矮小化に過ぎないものなのですが、そういう評価をもたらすヘーゲル哲学の真髄そのものはとても重要であり、これまでのヘーゲル哲学の研究者たちは、そこが分かっていないがために、ヘーゲル哲学がりあいできないと思われるので、その点について論じていきたいと思います。
学問の曙であるギリシャ哲学以来の哲学の一貫したテーマは、思惟と存在との関係如何?、ということでした。この観念論的な哲学の系譜においては、思惟が本質で存在は仮象に過ぎないというプラトンの説を含みながらも、みな思惟と存在とを一体のものとみなしていました。
ところが、自然科学の発達を媒介にして生まれた唯物論的な経験論以来、唯物論は思惟は存在の像に過ぎないとして、みな思惟と存在を切り離して、そこに絶対的な障壁を築いてしまいました。
ヘーゲルは、それを再びより高次元の完成された形で弁証法的に統一したのですが、弟子のマルクスによって再び分断され、それがあたかも学問の正しい形であるか皆が思い込んでいるのが、今の現実です。ですから、今の研究者のほとんどは、学問はあくまでも理論であって実践とは別物であって、相対的独立だと思っているので、「ヘーゲルが「意志の自由」などと言うと奇異に感じて、ヘーゲルの哲学は、普通の学問と違って「行為の哲学」だとか「実践の哲学」だということになるのです。
ところが、現代医学の人間中心の誤った自律神経説と同様に、個の唯物論の誤った学問説も、長い物質の歴史とりわけ生命の歴史から見ると、それが如何に狭量な人間中心の独善説に過ぎないかが良く分かるはずです。
つまり、自律神経と言うのは人間の意志に従わない勝手に働く神経と言う意味ですが、その人間の意志は、長い生命の歴史の最後の方にちょこんと出てきた新参者に過ぎないのであって、生命の歴史の過程で鍛えられてきた長い歴史を独自に持つベテランからすれば、ひよっこの様なもの言うことを聞かないということだけで、その個々の長い歴史を無視して、一括りにされてしまうのは心外であり、たまったものではないと言えます。
同じように、学問などと言ってすべての存在から離れたところに祭り上げられて自己満足に浸っていますが、そのルーツは生命にあり、生命の一部に過ぎないものなのです。したがって、そもそも、思惟と存在を、思惟は像にすぎないもので物質そのものではないからと分断することがそもそもおかしいのです。何故なら、像も物質の機能であって物質の一部には違いないからです。
ヘーゲルは学問のルーツを生命としていますが、これは、生命の中にすでに学問が内在しているということです。それは何かと言いますと、遺伝子です。学問とは何かといますと、それはすなわち論理です。遺伝子は生命の実態を論理化して生命の受け継ぎを媒介します。この遺伝子の論理化する力が、生命の危機に際して新たな環境とのとの統一的論理化をはたして、生命は進化していったのです。
しかし、この遺伝子にも当然のことながら限界が存在します。それは大まかに言えば、相対的真理の限界性です。つまり、それまで培った事故の歴史性と周りの環境とを統一的に論理化した相対的真理であって、その条件が変化した場合、対応できなくなるという限界性を持った相対的真理だということです。
この遺伝子にもとづく動物の本能の限界を超えるために生まれたのが人間の認識です。ヘーゲルは、これを<生命ー認識ー学問>と規定しました。つまり、その認識が、相対的真理を根本的に超える絶対的真理を冠とした学問への道を歩み始める、ということです。そして、実際に人類はその道を歩んできました。
そして、ヘーゲルのところまでは、非常に順調に進みました。人類が向かうべき絶対理念への道を指し示し、遺伝子が行った論理化をより高次元の絶対的真理レベルにおいて論理化した論理学までも用意してくれたのです。この論理学についてヘーゲルは、次のように述べております。
ヘーゲル著「大論理学」上巻の一の第一版の序文(P5~6)より
「意識とは、具体的な、しかも外面性の中に囚われているところの知識としての精神である。しかし、この対象の進展運動は、あらゆる自然的、並びに精神的生命の展開と同様に、全く純粋本質性の本性に基づくものである。ところで、この純粋本質性こそ論理学の内容をなすものである。現象する精神としての意識はその展開の道程において、その直接性と具体的形態から解放され、これらの純粋本質性そのものをその即且向自的の相において〔それ自身を〕対象とするところの純粋知識となる。これらの純粋本質性は純粋思想であり、自分の本性を思惟するところの精神である。その純粋本質性の自己運動こそ、それの精神的生命であって、これが即ち論理学を構成するものなのである。つまり論理学とは、この精神的生命の叙述にほかならない。」
つまり、ここに書かれている「精神的生命」とは遺伝子が絶対的真理を希求する認識・精神として外化して、絶対的真理レベルの論理を駆使する思惟の運動のことであり、論理学はそれを自ら反省的に叙述するということです。そして、その論理学について、ヘーゲルは、大論理学の序論の中で次のように述べております。
「論理学の対象である思惟、厳密に云えば概念的思惟も本質的に論理学の内部で取り扱われるものである。この思惟の概念は論理学の行程の中で産み出されるものであって、従って前以て立てられることはできない。だから、この序論の中で豫め云われることは論理学の概念を基礎づけるとか、或いは論理学の内容と方法とを豫め学問的に確立しておこうなどという目的からなされるものではなく、ただ普通論理の面と歴史的の面とから若干の説明と反省とを加えて、論理学を考察するための観点をより明らかにしておこうというにとどまる。」
よく言われるヘーゲル哲学への批判の中に、ヘーゲルの弁証法はえ円環が閉じていて発展性がない、という者がありますが、ここに書かれていることは、それに対する強烈な反証です。つまり、ヘーゲルの運動体の論理学は、豫めその内容と方法を円環的に規定しておくものではなく、その論理学の行程の中で概念を産みだしながら発展していくものだということです。さながら遺伝子がその行程の中で新たな概念を産みだしながら進化を支えていったようにです。
ですから、ヘーゲルにあっては学問や論理学は、そういう遺伝子の延長線上にあるものなのです。だから、「意志の自由」なのです。つまり、ヘーゲルの学問は、遺伝子であり、新たな人間の本能となるべきものだということです。それゆえに、ヘーゲルにあっては「絶対理念」が「世界創造」するなのです。
これも、ヘーゲルが思惟と存在、主観と客観、本質と現象を見事に統一したからこそ到達できた境地なのです。ところが、唯物論囚われている人たちは、この境地が全く分からないために、それでも真摯にヘーゲル哲学に向き合おうとするものは、ヘーゲル哲学を「行為哲学」「実践哲学」という規定をしたわけです。一方、ヘーゲル哲学を観念論だからとして否定する唯物論者たちは、それを全く無視してみようともしないために、ヘーゲルの凄さが分からないのです。ところが、ヘーゲル哲学の体系からすれば、彼らがこれこそが真の学問だとするものが、じつは定有レベル・悟性的本質レベルのものでしかなく、そこから対自有に、対自的否定的理性すなわち対自的本質に進み、そこからその両者の統一としての即且対自的な概念レベルの本質進むことによって、はじめて学問と言えるものになることが、分かっていないのです。つまり、初歩中の初歩レベルでしかない、ということが分かっていないということです。、 、
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