[2646] 教養とは学問の系統発展の自己化ーヘーゲルと南鄕学派の違い |
- 愚按亭主 - 2017年07月15日 (土) 22時35分
瀬江千史先生がその著書「医学の復権」の中で南鄕学派の「教養」論を展開しています。当時の熱気が伝わってくるような堂々たる「教養」論で私も感心しながら読んだものです。しかしながら、今こうして読み返してみますと、肝心要となるものが欠落しているために、言わんとすることはよく分かるのですが、しかしそれでは全く役に立たないものでしかない、と言わざるを得ません。その原因は、唯物論的な相対的真理の学問論で説こうとしているために、必然的にこうなってしまうのです。これからそのことを解き明かしていこうと思うのですが、この書は巷に出回っている本なので、面倒なので一々引用せず、詳細はそちらを見ていただくとして、その要点を挙げて論じていくことにします。
この中で、瀬江先生は、部分的な専門分野の研究をする場合も、まず全体的な一般教養がないと部分的な研究自体が歪んでくる、だからまず全体の一般性(=一般教養)から学ぶ必要がある、と全く正しいことを述べています。
ところが、その一方で、学的な教養を身に着けるには20=30年かかる、カントやヘーゲルもそのくらい費やしている、としているのです。それはなぜかと言えば、自然科学や社会科学などの分野での事実から積み上げていった論理がそのレベルの一般性に到達できるのにそのくらいの時間が要するからだとしています。
それは、アリストテレスやカント・ヘーゲルも皆やっていることで、それを再措定することであり、それが学的一般教養の理想的なあり方だとしています。
以上が、瀬江先生の「教養」論の要旨ですが、おかしいとは思いませんか?まず全体の一般性を教養として身に着けることが先決だとしながら、まるで最後にやっと教養が身につくかのような論調になってしまています。
なんでこういうことになってしまうのか?絶対的真理の全体性の論理を否定してしまっているから、こういうことになってしまうのです。これでは、一体どうしたら良いのか本当に迷って、訳が分からなくなってしまいます。
瀬江先生が「教養」論を論じるとき、やるべきだったことは、ヘーゲルがどういっているのかを見てみるべきでした。ただ、瀬江先生は別のところでヘーゲルが教養を論じているところを引用して説いていますので、自分の教養論と比較して反省する機会はあったはずですが、反照させなかったようです。ではそのヘーゲルの言葉を見てみましょう。
「教養とは、精神が、実体的な生活の直接性から脱し、形成されてゆくことである。それが何にはじまるかといえば、一般的な原理や観点についての知識を獲得し、まず、ことがら一般の思想という場面へ自分を引き上げることである。そして、それらのものを支持するにも、反対するのにも理由をあげ、具体的で豊かな内容の充実に対し、それを明確に規定してとらえ、それにかんする整った報告とまじめな判断を与えうるようにならなければならない。教養のはじめは、いつもこれらのことに置かれるべきであろう。しかし、この最初の段階は、次にはやがて、充実した生の厳しさに席をゆずり、ことがらのそのものの経験へ引き入れられることになる。そして、そこへさらに、ことがらの深みに徹する概念的把握のきびしさが加わってきたとき、さきのような知識や評価は、議論のなかで、それぞれ適当な位置をもつことになるであろう。」
ここでヘーゲルが説いている「教養」の言葉の奥にある彼の論理像を見なければなりません。まず、直接的な日常性から離れること、つまり、事実的・唯物論的な即自の立場から離れて、まずは対自的・観念論的な世界全体の原理や一般性に関する先人の説を知識として自分のものとして、その立場からいろいろな問題を論評しながらその立場を本当の意味で自分のものにするということです。
つまり、哲学の歴史をたどることを通して世界全体の論理像を自分のものにするということです。その論理像は初めは粗くて良いのです。ですから20~30年も無駄に費やす必要はありません。そんなことをしていたら専門の研究はいつまでたっても始められなくなってしまいます。いやそうではなく専門の研究をしながら教養目指して論理化をしていくのだ、と言いたいのでしょうが、とすると最初の議論はあれは何だったのか?ということになります。
ことほどさように支離滅裂になってしまうのは、唯物論にこだわって、観念論的な先人たちの説を認めるわけにはいかないので、したがって、それを自分のものにできないから、こういうことになってしまうのです。そもそも全体性の論理は観念論でなければ作ることができないし、それが学問なのだということが分からないから、こういうことになるのです。現に事実として人類の学問の歴史はそういう形で発展してきたわけで、それが正しいぜ界の全体的な論理像として完成していったという厳然たる事実があるのです。そしてそれを教養として学ぶということは、個体発生は系統発生を繰り返すの、人類の精神版すなわち、人類の個としての認識の発展は、学問の系統発展を繰り返してそれを自己化し教養化することを必然性とするということなのです。
これを事実的、唯物論的に説こうとすると、あれやこれや論じて堂々巡りするばかりでいつまでたっても本丸に到達しないで終わってしまいます。私が上に説いた規定こそが本丸であって、瀬江先生の「教養」論はまさに堂々巡りするばかりで、とうとう本丸に到達できなかった、すなわち迷路から抜け出せずに終わってしまったということです。
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