[2637] マルクスがヘーゲル哲学を受け継げなかった理由ー絶対的観念論が理解できなかった |
- 愚按亭主 - 2017年05月27日 (土) 23時11分
これまで、私は、南鄕学派が、学問形成の否定の否定的過程における弁証法的な運動、すなわち第二の否定を自ら起こすことができなくなって躓いている、その大本にエンゲルスの呪いがある、として批判を続けてきました。これに対して、たしかにエンゲルスはヘーゲルを理解できなかったが、マルクスの方はしっかりと受け継いで、しかも発展させている、ときわめて高い評価を得ているようです。そこで本当にそうなのか検証してみようと思います。
私は以前マルクスを次のように批判しました。
「『ヘーゲルの法哲学批判』の中で、マルクスは次のようにヘーゲルを批判しています。 『ヘーゲルが普遍と個というような、推理の抽象的諸契機を現実的対立物として取り扱っているばあい、それはまさにかれの論理学の根本的二元論である。』 そしてさらに、その三十年後に 『資本論第二版』のあとがきの中で、依然として彼はヘーゲルの弁証法を次のように批判しています。 『ヘーゲル弁証法の神秘的な側面は、わたしがおよそ三十年前、ヘーゲル弁証法が流行していた時代に批判した』
ここでマルクスは『根本的二元論』を間違いだとしていますが、マルクスのこの言葉こそ、彼がヘーゲルの弁証法を正しく理解していなかった証拠といえます。この『根本的二元論』とは観念論と唯物論との二元論という意味ですが、ヘーゲルはこの対立を止揚して統合しています。ところが、観念論を否定して唯物論に一元化したいマルクスは、この統合をわざわざ離間させて対立のままに戻して『根本的二元論』として、『抽象的なものと現実的なものとを混同している』と批判したわけです。ところがヘーゲルにあっては、抽象的な論理的諸契機は、現実的な対立を含めた全体の一モメントに過ぎないのです。だからこそ、ヘーゲルは抽象的な論理的諸契機を現実的な対立としたのですが、マルクスは、そのヘーゲルの弁証法の論理学の弁証法性を理解できずに、『神』とか『絶対精神』という用語を使っているから神秘主義や観念論だと規定してしまって、その正当性を理解できなかったのです。」
この私の批判に対して、マルクスを高く評価するある人物から、次のように質問・忠告されました。まず「この『根本的二元論』とは観念論と唯物論との二元論という意味ですが?」そしてさらに、どこから「観念論と唯物論がでてきたのか?」と質問されたので、松村一人著の「ヘーゲルの論理学」という本を読んで、そのように理解して書いたものです、と答えると、「やはり孫引きでしたか、一度マルクスの本文を読んでみてください。その後に続く文章など凄いですよ」と言われて早速取り寄せて読んでみました。それを読みますと、たしかにマルクスのヘーゲルに対する批判は鋭いものがありますが、基本的に私の批判は間違ってはいなかったと意を強くしました。また、この『根本的二元論』については直接には抽象的論理的契機と個別性・単個性とを指したものでしたがそれは論理学に譲るとして、その後に続く本文では観念論(唯心論)と唯物論との二元論、あるいは哲学と宗教との二元論という形で展開されておりますので、私の推測は、あながち間違いではなかったと思いました。それが同じであることは後で詳しく説明いたします。では、早速マルクスの言葉を見てみましょう。
マルクスは、ヘーゲルの論を『根本的二元論』であると批判して、それに対置する形で「これに対立するようにみえるのは両極相接すということである・」として次のように具体的に説明しております。
「したがってたとえば精神は物質の捨象にすぎない。そうだとすれば、精神は――この形式が精神の内容を成すとされるのであるからこそ――むしろ抽象的反対物であり、精神によって捨象される等の対象の抽象的在り方であり、したがってここでは抽象的唯物論が精神の実の在り方であることは自明の理である。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p160)
これはたしかに凄いですね!観念論を否定して唯物論オンリーでやろうとしている人たちに、是非とも聞かせてやりたい行です。ただ、ここまでは凄いですが、問題はここから先、すなわち、本来は、物質の本質が精神であるというところに力点を置き、そちらを発展させるべきところが、マルクスは、唯物論の方に重点を置いて本質である精神の解明を行おうとせず、結果としておかしくなってしまいました。つまり、、ヘーゲルを正しく理解して受け継ぐ方向ではなく、逆にヘーゲルを批判する方向に行ってしまったところが、マルクスの限界だったと思います。おそらく、唯物論を正統化できたところで思考が停止してしまったのでしょう。だから、次のマルクスのヘーゲル批判は、的外れであり馬脚を現したものとなってしまっています。
「もしも一つの本質の在り方のうえでの差別が、自立化された捨象(もちろん、なにか他のものの捨象ではなくて、もともとそれ自身の捨象)と混同されたり、相互に相容れぬ諸本質の現実的対立と混同されたりしていなかったとすれば、三重の誤謬は避けられいたであろう。」。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p160)
マルクスは、宗教との戦いを科学の立場である唯物論で戦った結果として、あれかこれかの形而上学的弁証法になってしまい、唯物論か観念論かで戦う中て唯物論への執着が強くなり、その唯物論への執着が邪魔をして、ヘーゲルの思弁哲学の学問的意義を見誤ることになってしまったのだろうと思います。 これに対して、ヘーゲルは宗教と同じ観念論の立場で宗教批判をしたために、立場の違いではなく、その内容において宗教をはるかに凌駕するレベルに己自身を発展させることに成功したのです。
この違いが如実に表れたのが、この的外れなマルクスのヘーゲル批判です。つまり、マルクスが「混同」「三重の誤謬」と捉えたものは、マルクスの方が誤っているのであり、ヘーゲルの思弁哲学が理解できなかった証なのです。それを理解してもらうために、マルクスが論理学の仕事として棚上げした問題である『根本的二元論』すなわち普遍性と単個性(個別性)の問題から取り上げていきましょう。
これはまさしく根本的・本質的な二重構造の問題です。すなわち、普遍性というのは論理・概念のことであり、単個性(個別性)は現象する事実のことです。そして、この両者を媒介するのが特殊性ですが、これにも二重構造があります。一つは普遍性の特殊性であり、もう一つは事実の特殊性です。そして、この二重構造を持つ特殊性の媒介によって普遍性と単個性(個別性)の事実とが一つになれるのです。つまり、この三者(項)は一者のモメントだということです。そしてこの『根本的二元論』は、概念の普遍性は観念論、事実の単個性(個別性)は唯物論の、それぞれの基点となるということです。ですから、唯物論の捨象が観念論となり、観念論の具体化が唯物論となるわけです。
問題は、どちらが真理にとって重要か、ということですが、これは哲学の歴史が物語るように、現象的な事実よりも概念の普遍性の方が圧倒的に重要です。これがすなわち真理の体系である学問の冠石だからです。そして、学問の歴史的事実が物語ることは、「一つの本質の在り方のうえでの差別が、自立化された捨象(もちろん、なにか他のものの捨象ではなくて、もともとそれ自身の捨象)と混同」ではなく、一方の極の自立化した捨象として発展することが、むしろ必須だったことです。これは、より正確には「捨象」ではなく一からの概念の自己発展でなければなりませんが、唯物論者のマルクスには捨象しかなく、観念論においては「捨象」ではなく「加象」となることが分かっていないのです。ですから、物質の本質的概念は、「世界は一にして不動」と一旦捨象された後は、それを起点とする論理象の増築に次ぐ増築となるわけです。
ですからその初期においては、三重の誤謬のその一である「ただ極のみが真なるものとされるがゆえに、いかなる捨象も一面性も己を真なるものとみなし、そのために原理が内面的全体としてあらわれず、かえって、他の原理の捨象としてのみあらわれるという誤謬」、否、これは誤謬などではなく歴史的・過程的真実・真理。これは、どういうことかと言いますと、プラトンやカントが概念の普遍性のみを真理として、現象的多様性や経験的認識を否定し、捨象してしまったことがあったからこそ概念が概念として完成することができて、そのおかげで弁証法が完成することができたということです。ですから、この事実は決して誤謬として否定すべきではなく、必然的過程であり、これなしには弁証法お哲学も発展できなかったのですが、マルクスはそれを誤謬として片づけてしまったのです。唯物論の立場に立つマルクスにとっては、この己を否定するこの仕打ちは許せないから誤謬にしたい、という気持ちは分かりますが、だからこそ唯物論の立場から離れて自由にならなければ学問はできないということを、このマルクスの発言は示してくれていると思います。
そして、マルクスの指摘する三重の誤謬の2と3は、統体止揚の否定のようですが、この否定がマルクスの階級闘争論の土台になっていると考えられます。しかしながら、歴史的事実は、このマルクスの階級闘争論の方が、人類の発展にとって何の発展ももたらさないどころか有害ですらあることを北朝鮮の現実が今も実証し続けている現実があります。したがって、3の哲学と宗教との関係を題材に取った『根本的二元論』否定論は、それ自体は間違いではありませんが、結果として、哲学と宗教とを同じものとして、より高度なヘーゲルの思弁哲学を否定すれば宗教もおのずと消えるとの錯覚を、宗教との戦いがおろそかになってしまって、人類にとっての真の救いであるヘーゲルの哲学を葬って、宗教を温存してしまうという大変な誤謬を犯すこととなってしまったのです。 では、具体的にマルクスはヘーゲルの法哲学をどのように批判しているのかを見てみましょう。 「したがって家族と市民社会が政治的国家に移り込んでいく移行は、即自的に国家精神であるところのそれら両圏の精神が、こんどはまた実際にそのような国家精神として己に相対し、そしてそれら両圏の芯髄として己に相対して現実的であるといった移行である。それゆえにこの移行は家族等々の特殊的本質と国家の特殊的本質から導き出されるのではなくて、必然性と自由との普遍的関係から導き出される。これは論理学において本質の圏から概念の圏へはいっていく場合になされる移行とまったく同じである。この同じ移行が自然哲学においては非有機的自然から生命へはいっていく場合になされる。」いつでも同じ諸範疇が魂を時にはある圏のために、また時には他の圏のために供与する。要はただ、個々の具体的な諸規定のために、それらに対応する抽象的な諸規定を見つけ出すだけである。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p13) そう見えるかもしれませんが、そうではないことはヘーゲルが彼の「法哲学」の中で明確に述べています。 「〔概念の学における発展と、現存在する諸形態における発展〕 理念は、自分をさきへさきへと規定しなくてはならない。というのは、はじめにはやっと抽象的な概念でしかないからである。だがこのはじめの抽象的な概念はけっして放棄されるのではなく、ただ自分のなかでますますより豊かになるばかりであって、最後の規定が最も豊かな規定というしだいである。 このことによって、以前はただ即自的に有るだけのもろもろの規定が自分の自由な独立性を得るにいたる。だがそれは――概念こそがどこまでもたましいであって、これがすべてを総括するのであり、そしてただ、ある内在的なやり方によってのみ、それ自身のもろもろの区別を得る、というふうにである。それゆうえ、概念がなにか新しいものを得るなどと言ってはならないのであって、最後の規定は最初の規定と一体になってもとどおり一致するのである。そこで、たとい概念がその現存在においてはばらばらに割れているように見えるとしても、これはまさに仮象にすぎないのであって、進行していくうちにそういうものだということが明らかにされる。というのは、すべての個別的なものはひっきょう、普遍的なものの概念のなかへもとどおり帰ってゆくのだからである。経験的な諸科学においては通常、表象のうちに見いだされるものを分析する。そしてこんどは個別的なものを普遍的なものへ連れもどしたばあい、そこでこれを概念と呼ぶ。
われわれはそのようなやり方はしない。というのは、われわれはただ、どのように概念がみずから自己を規定してゆくかを、よく追って見てゆこうとするだけであって、われわれの意見や思惟は一つもつけ加えないように自制するわけだからである。
ところで、こういう仕方でわれわれの得るものは、一系列のもろもろの思想と、そしてもう一系列のもろもろの現存在する形態とであるが、これら二つの系列にあっては、現実の現象における時間の順序が概念の順序とはいくぶんちがっているということが起こりうる。だから、たとえば、所有は家族より前に現存在していたということはできないのであるが、それにもかかわらず本書で所有は家族より前に論ぜられるのである。 そうすると、ここで、なぜわれわれは最高のものから、すなわち具体的に真なるものからはじめないのか、という疑問が出されるかもしれない。答えは、こうであろう。――われわれは真なるものを一つの成果という形式においてみようと欲するからこそであって、そのためにはまず第一に抽象的な概念そのものを概念において把握することがほんしつてきにひつようなのである、と。 それゆえ、現実的であるもの、つまり概念の形態は、たといげんじつそのもののなかでは最初のものであろうとも、われわれにとってはやっとそのつぎのもの、あとのものなのである。われわれの進行は、もろもろの抽象的な形式がそれら自身だけで存立するものではなくて、非真なる諸形式であることが示されていくという進行である。」
何という素晴らしい丁寧な概念の弁証法の実態の説明でしょうか!!ヘーゲルの「法の哲学」は、まさに概念の弁証法の最高のテキストです。ところが、マルクスは、この概念の弁証法の最高のテキストである「法の哲学」を徹底的に研究しながら、その真髄を全く理解できていなかったようです。その原因は、何度も言うように唯物論の立場にこだわった結果なのです。マルクスが、物質の本質が精神であることを喝破しながら、南鄕先生が、哲学とは何かを自力で措定しておきながら、物質の本質である絶対精神の自己運動こそが哲学の真髄であることを、ヘーゲルから学ぶことができなかったという事実は、論理の恐ろしさ・厳しさを物語るものです。しかし、その反面、マルクスがあれほど心血を注ぎ、徹底的に研究しても分からなかった、ヘーゲルの論理を、初めて読んだ私が一読で即座に自分のものとして、マルクスの誤謬を喝破できるのも、論理の別の意味での恐ろしさであり、素晴らしさなのです。
もう少しマルクスの具体的な批判を見てみましょう。マルクスは、ヘーゲルの次の文章に対して以下のように批判しています。 「この有機組織は理念の、それ自身のもろもろの区分への、そしてそれらの客観的現実性への、展開である。・・・・これらを通じて普遍的なものが不断に――しかもこれらのものは概念の本姓によって規定されている以上、――必然的な仕方で己を産み出し、そして――その普遍的なものはまたそれの産出にとって前提とされてもいる以上、――己を保持する。――この有機組織が政治的体制である。」
と、マルクスはヘーゲルの文章をピックアップした後、これに対して次のように批判しています。 「彼の目指す本来の成果は、有機組織を政治的体制として規定するにある。しかし有機組織という普遍的理念から国家有機組織または政治的体制という特定の理念へ渡って行くどんな橋も架けられていないのであり、また永遠にそのような橋は架けられようがないであろう。」
ヘーゲルの展開する物質の本質・本流の自己発展の内在的必然性は立派に存在するのであって、それはマルクスの唯物論的な手法とは異質のものだから、マルクスには理解できなかった。したがって、「橋はない」ということになり、「永遠に」ないとまで断言するほど強く否定することになってしまったのです。世界全体の運動を統括する理念の自己発展の論理においては、人間社会の国家は、動物時代にはないものであり、動物時代の集団を受け継ぐ市民社会や家族は自然成長的なものであるのに対して、国家という有機組織は、人間になってから初めて創られた目的意識的組織です。ですから、この二重構造的一体性として人間の国家。社会をとらえなければなりません。これはちょうど、人間体を生物体と生活体との二重構造的統一体としてとらえるのと同じことです。これは概念の運動・理念の運動の必然性として充分にとらえ得る論理です。ですから「未来永劫」ありえないというのは間違いです。それよりも問題は、こういう観点を否定してしまったのでは、即自的悟性の論理だけでは、何時まで経っても本物の真理になることができない、ということこそが人類にとってまことに重大な問題であるはずです。現に、そこで躓いているのが、ほかならぬ南鄕学派だからです。
その真の原因がマルクスにあったというのが、今回明らかになったことです。加えて、滝村先生が、ヘーゲルの学問的立場を<絶対的観念論>と規定しておきながら、それを受け継ごうとせずに、なぜに唯物論にとどまってしまったのかの謎も、その原因は、やはりマルクスであったことがよく分かりました。
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