[2518] (物質・生命・人類の本流は日本)の続編 |
- 愚按亭主 - 2017年01月03日 (火) 18時11分
>各自の主体性に任せれば いいのです。弱小民族の主体性にまかせればいいのです。それが何年かかろうと 衰亡しようと 彼らの内発的な努力に賭けるしかないのです。
これは、学問的な人間とは何か、人類にとって・人間にとっての主体性の確立とは何か、が分かっていない、俗説でしかありません。言うなれば、子供の個性尊重・見守り論と同類の誤謬です。その結果、今の日本はどうなっているでしょうか?親が自分の子供を平気で殺すことが頻発する世の中になってしまいました。これと論理的に同様なことが今世界でも起きて、世界に大混乱を起こしている現実があります。白人帝国主義が平気で民族を蹂躙していた時代においては、民族自決はそれなりの正当性を持っていましたが、それを度外れに拡張しますと、大混乱の本となります。
そもそも民族は、人類一般・人間一般から見ると特殊性でしかありません。では、その人類・人間とは何かと言いますと、人類は、生命の進化の最高形態として、生命が地球との相互浸透の歴史を概念レベルで措定した遺伝子を受け継ぎながら、その外化として新たに誕生した、能動性を持ち、自由に運動できる可能性を持った理性的認識が、動物的認識を受け継いだ感性的認識との統体止揚を通じて対象に働きかけ、あるがままの自然を目的意識的存在に創り変えていく存在です。そして、その人類が目指すべき本質的必然性の到達目標が、世界の概念的体系化の完了した絶対理念が目的意識的に世界創造をしていくことであり、そこに向けて歩を進めていくのが本流です。ですから、学問は、人類にとって本質的必然性なのであり、人類は学問を教育・学習する必然性があるから、世界中の学校で学問が教育されているのです。
しかしながら、なぜ学校で学問が教育されるのかの必然性が、全く理解されていないのが実情です。残念ながら、この日本においてすらそうです。どうして学校に行かなければならないの?その問いかけに、良い学校・会社に入るためとしか答えられずに、まともに答えられる親がいない、否、学校の先生すらもが答えられない、したがってそういう肝心なことを教えられないという現実が、それを物語っています。
理性の狡知が、それ自体が直接に現象することはなく、個々人の理性的認識の発展を通して、理性の到達目標である絶対理念へと到達していくように、国家も同様に、それ自体が直接に現象するのではなく、、個々人の認識や行動およびその総体として国家として、発展し完成していくという弁証法的な関係にあります。これを、個々人の側から見ますと、個々の国民は、直接に国家であり、国家の完成を通して自らを完成し、また反対に、自らを国民としての完成させることを通して、国家を完成させるという関係になります。このことが、国民の末端にいたるまで見事に体現できていたのが、かつての日本でした。これこそが日本が本流たる所以だったのです。この国家的個人である日本兵がアジアの独立戦争に主体的に参加したことを、国家と切り離した個人の行動だとしか捉えられないタマゴさんは、そういうことが分かっていないのです。
ところが、今の日本は残念なことに、それが壊されてしまっています。その原因は、国家と国民を別のものとして切り離して、個性尊重として国家よりも個人を上に見ようとする教育がなされてきたこともさることながら、一番の大本は、憲法第九条によって、国家が国家として自立できない・主体性を確立できないようにしてしまっていることです。つまり、国家が国家として完成できない状態に置かれているために、国民も国民として完成できずに、公僕であるはずの公務員や官僚までもが、国家よりも私欲の方を優先するようになって、お隣の韓国や中国をわらえないようになってしまっているのです。
じつは、これが現在の世界の混乱の根本的な原因でもあります。今起きているグローバリズムの破たんは、国家の解体の上になされようとしていたために、うまくいかなかったのです。このグローバリズムの原点は、白人帝国主義の植民地支配です。部族間民族間の対立を助長するように支配し、現地の経済が発達するのに必須な産業を壊して自分たちの利益が上がるように経済的に支配し、国家の発展に結び付くような教育は一切行わずに、国家が国家として壊れていくような支配でした。日本によってそういう体制が壊された後も、巧妙に国家を解体する工作が続けられ、結果として民族のエゴ・個人のエゴがむき出しになって紛争が多発し、移民や難民が旧宗主国のヨーロッパに大量に流れ込むことになってしまっているのです。これはまさに自分たちが行ってきた悪行の天罰が下っているように見える、歴史の皮肉です
したがってこのような状況の中で、民族の即自の主体性に任せていたらどうなるのか、目に見えています。動物の場合は、遺伝子によって統括されておりますので、遺伝子的に進化の道筋から外れてしまったものは、その遺伝子のレベルで完成していって生態系的に進化の本流を支えてく役割を担っていくしかありませんが、人間の場合は、まだ挽回の可能性があります。
それは、人間の場合は、遺伝子とその遺伝子的制約から自由かつ能動的に運動・発展できる理性的認識との融合体だからです。この遺伝子と理性的認識の働きとが、相互浸透的一体性を持って発展する論理を発見したのは、南鄕先生の大発見ですが、ヘーゲルはすでに100年も前にその関連性についての大筋を喝破しておrました。つまり、未だ原始的生活のレベルから抜け切れていないアフリカや南洋の島国の人たちでも、必死に学問を自分のものにして、真に即自対自の主体性を確立して、自分たちの生活を創り変えることができれば、人類の発展の最先端に立つ可能性があるということです。しかしながら、それは自分たちだけでは不可能です。何らかの形で人類の最先端の学問を学ぶ機会がなければできないことです。それなしに民族の主体性に任せるべきという主張は、人間の真の主体性の確立とは何かが分かっていない愚論です。
東洋の端っこにあった小さな島国の日本は、それを独力で立派にやり遂げました。といっても、さすがの日本でも、学問の本家筋の欧米諸国の圧力と介入なしにはそれを成し遂げることは不可能でした。それを見事に成し遂げたのが、幕末の佐賀藩藩主鍋島閑叟(直正)公でした。閑叟公は、イギリスのフェートン号事件で圧倒的な差を見せつけられて、このままではいかんと反省し、破たん寸前だった藩の財政・経済を立て直し、西洋の学問を積極的に導入して学ばせ、反射炉を創り、蒸気機関車や蒸気船を独力で造り、当時最新鋭だった英国製のアームストロング砲を改良して世界最高水準の大砲を創り、当時の日本最強の軍隊を創り上げました。明治維新で官軍が勝利することができたのは、閑叟公が薩長側につくことを決意したせいだといわれています。もし、幕府側についていいたら官軍は勝てなかったともいわれるくらいだそうです。幕府と縁の深かった閑叟公がどうして薩長側についたか、それは日本全体の行く末を勘案してのことだったそうです。
つまり、当時の日本は、学問を学び取る姿勢を持ち、即自と対自そして即自対自の使い分けがしっかりとできていたということです。だから、藩ごとの対立競争が激しくとも、日本の国としてのまとまりをしっかりと創ることができたのです。そういう日本がアジアに対しても、たとえば、ブルネイの県知事に赴任した日本人が行ったことは、その国の柱となる産業を見つけ出して育て、対立する部族の対立を命を張ってなだめ、対立する部族が国づくりに協力する体制を整えてやったのです。この時、彼の秘書としてついて歩いていた王の弟が、やがて国王になって国づくりをするときに、彼から学んだ手法を生かしてブルネイを発展させた、という話は有名です。
日本とは、そういう国なのです。そういう日本の領土の一部になった民族は、日本から学んでそれを生かせばよいのです。そういう体験は、民族の主体性の区立に大変貴重なものとなるはずです。それから後のことは、それぞれの民族の民族としての主体性の問題なのです。日本から独立して主体的に国を創って発展させていくもよし、日本の一部として自らと日本の発展に貢献するもよしです。人類の本流である日本と一緒にいる期間をできるだけ長くして、そこから学んでいくのが、民族の主体性の確立に一番よい道なのです。それを、民族自決だから何が何でも独立がよいとして、日本から離れていっても、うまくいく可能性は少ないのです。実際、無事独立できたアジアの各国はどうなりましたか?
だから日本が独立を認めないから駄目だ、などという主張はナンセンスです。それこそ、その民族の主体性に任せるべきです。つまりそういう主張も、その民族の主体性をないがしろにしている、ということです。つまり、大きなお世話だということです。歴史の流れは、その時々の流れとして押しとどめられない面があるのです。その中でどう生きていくかは、その民族が決めることであって、日本は日本が良いと思ったことを推し進めればよいのです。日本は戦時中にもかかわらず、占領したところで学校を創り教育を施しました。白人たちは戦時中でなかったにもかかわらず、そういうことは一切行いませんでした。この違いが本流であるかどうかを分けるほどの大きな違いです。
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