[2228] 「武道哲学講義第三巻」を論ず |
- 愚按亭主 - 2016年07月25日 (月) 16時49分
南鄕先生の近著「武道哲学講義第三巻」を読みました。隙だらけであった第一巻・第二巻に比べて、隙のない完璧な論理展開で、しかも論理の深化がいたるところで見られ、久しぶりに先生の気魄のこもった文章に接することがっできました。さながら昔の南鄕先生が数段レベルアップして復活したかのようです。おそらくは唯物論の立場からする最高傑作であると思います。
それは謙虚に認めつつも、それでも私には不満が残り、疑問が渦巻き、反論したくなります。そして、これが唯物論の限界なのだとはっきりとあらためて感じました。ヘーゲルやディーツゲンは、学問を体系化するためには、現実的立場(唯物論ー愚按)から離れて自由にならなければならないと、言っています。私が、二人がそう言っていることを知ったのは、皮肉なことに南鄕先生が引用された文中にそれがあったからです。ですから、私は、南鄕先生がここをどう読んだのかとても不思議に思いました。このことは以前にも指摘しておいたのですが、相変わらず唯物論から離れられないでいらっしゃるということは、お耳に届かなかったのか・・・・・・。
じつはこの自由になるということが、絶対的観念論の立場に立つということなのです。これは矛盾しているように見えますが、絶対的観念論の立場に立つとは、唯物論と観念論という対立を超越して観念が自由に運動できるようになるということなのです。南鄕先生は、唯物論から自由になれなかったために、唯物論の著作としては完ぺきな形で大成功を収めたのですが、学問的著作としては大失敗に終わってしまったのです。
私が、この「第三巻」に不満を感じた点は、私がこれまで批判してきた中の最も肝心な点に、応えてくださっていない点です。それは一体何かと言いますと、真理の体系の根本的転換をなすべきことをこれまで主張してきました。それがどういう転換かといいますと、エンゲルスの唯物弁証法では、相対的真理こそが根本的・学問的であって絶対的真理は観念論者の妄想に過ぎないと否定し、その弟子の三浦さんが、ぞの否定された絶対的真理を、相対的真理の体系の中の真理の性質が変化しない部分に絶対的真理という用語を使おうという形で巧妙に復活させ、それが南鄕学派にそのまま何の検証もされずに受け継がれていることに対して、根本的な変革を要求していたのです。すなわち、絶対的真理こそが根本的で、相対的真理の方は、その構造に過ぎない、と主張していたのです。私はこの学の土台となる真理の体系の根本的な転換をなしたところ、見える風景が一変し、ヘーゲルの言わんとすることがよく見えるようになりました。と同時に南鄕先生の足りないところも見えるようになってしまったのです。それほど、この真理の体系はとても重要なことなのです。
「第三巻」では、たしかにこのエンゲルスの絶対的真理否定論を取り上げて批判されていますが、妄想として簡単に切り捨てるのではなくその中身を吟味して取り入れなければならない、とするだけで、エンゲルスおよび自らの相対的真理の体系そのものに対する検証は一切なされていないのです。
その結果はどういう形で現れたかと言いますと、相変わらずというべきか、この「第三巻」にも、学問の歴史・弁証法の歴史に不可欠な絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜との二重構造が説かれないままなのです。この区別ができていないために、南鄕先生が説く「学一般」がじつは、悟性レベルの個別科学一般に過ぎないことに気づかないということになってしまうのです。たとえば、森全体とその中の個々の木というたとえで言えば、南鄕先生は、個々の木から導き出した論理全体を一般化すれば「学一般」が導き出せるとされていますが、それはあくまでも「木一般」であって、「森一般」にはならない、ということです。「森一般」は、はじめから「森一般」として論理化されなければならない、ということです。そして、人類の学問の歴史には、それが歴然と存在しているのに、どうしてそれを素直に見ることができないのか?と思います。それを邪魔しているのが唯物論なのです。だから、自由になれとヘーゲルもディーツゲンも言っているのです。
次に、私が驚き・あきれ・不満に思ったことは、「即自」と「対自」の育児的説明です。南鄕先生は、「精神現象学」の「序論」批判のところで、シェリングに対するヘーゲルの批判を学問的でないとけなしています。そういう批判をされた同じ方とは到底思えない学問的でない説明で終わってしまっています。まるで、できるだけ触れたくないかのようです。というのは、生命の歴史を学問的に解き明かし、認識学も学問的に構築しているのにも関わらず、つまり学問的に説く実力は充分にあるにもかかわらず。育児的説明で済ませてしまっている理由があるのではないか、と勘繰りたくなる内容だからです。
私がなぜここに拘るのかと言いますと、南鄕学派がなぜか無視している、ヘーゲルの学問形成の重要な三項の論理である≪即自的悟性≫ー≪対自的否定的弁証法的理性≫ー≪即自対自的肯定的弁証法的理性≫を構成する重要な概念であるからです。そういう重要な概念であるものを、育児的説明ですませてしまって、学問的に説こうとしていないことが、とても不自然に感じるからです。それも、前のところで学問的に説いていないと痛烈に批判しているだけに、余計にそう感じてしまうのです。
では「即自」と「対自」を学問的に説明するとしたならば、どうなるのでしょうか? 「即自」とは、動物時代の本能の一部としてその統括下にあった認識を受け継ぐもので、現実の自分の位置で回りの環境的事象を感性的に受け止める認識を基礎とするものです。つまり、事実と直接に接してそこから認識の発展を図るものですから必然的に唯物論の立場に立つ認識といえます。他方。 「対自」とは、人類の誕生とともに新たに生まれた認識で、現実的な立場から離れて自由に運動できる認識を言います。したがって、この認識は、現実の自分を離れて自分を客観的に見ることのできるもう一人の自分という意味で「対自」あるいは「向自」と表現されようになったのだと思います。この認識の良いところは、自由にその形を変えることができることです。つまり、神になったり、論理になったり、それが体系化して理論になったりできるのです。ここから、この認識が理性的認識と呼ばれるようになったと思われます。また、未来の自分の像を創り出してそこに向かう感情を喚起して意志を形成できるのも、この認識のおかげといっても過言ではなりません。そういう意味で、とても人間的な認識なのです。この認識は、人間がそうして創り出した観念を基礎とするものですから、必然的に観念論となります。
したがって、弁証法はまず、観念論として、対自的否定的弁証法的理性として生まれます。その端緒を切り開いたのが、現象的なあり方を否定したパルメニデスの「世界は一にして不動」であり、ゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」です。
ところが、南鄕先生の説く弁証法の歴史にあっては、アリストテレスやヘーゲルもその始祖として認めているパルメニデスやゼノンが、弁証法の発展の歴史に位置付けられずに、単なる欠片として脇に追いやられたばかりでなく、あろうことか弁証法の歴史に残すべき何の業績も残していないソクラテスが始祖の位置を占めるという、びっくり仰天の人事異動がなされているのです。そして、これが観念論を排して事実に直接あたって導き出した結論なのだそうです。これは、まさに唯物論では観念論的な弁証法の歴史を解くことができない、という事実を物語るものに他なりません。
次に大きな疑問を感じたのが、「絶対精神」と「概念」および「絶対理念」の区別と連関に対する、南鄕先生の説明です。南鄕先生は、「絶対精神」については非常に詳しく、かつ見事な説明をしていますが、「概念」や「絶対理念」についての説明はほとんどありません。「概念」についてわずかに、「絶対精神」が主体性をもつと「概念」になると述べているだけです。「絶対精神」をあれだけ詳しく説明していながら、どうして「概念」になるとこんなそっけない説明なのか?しかも、「絶対理念」に至っては全く触れようともしていません。このコントラストは、いったい何を意味するのでしょうか?「絶対精神」が主体性を持つとどうして「概念」になるのか?この説明だけで分かる者は、ほとんどいないと思います。ですから、それについて説明しなければならないはずであるのに、どうしたわけかそれがありません。こういう事実を見ると、私は、どうしても南鄕先生ご自身が分かっていらっしゃらないのではないかと勘繰りたくなります。と、言うよりむしろ、感情的に分かりたくないのかも知れません。なぜなら、これを説明するためには、非常に観念論的な説明をしなければなりません。それが唯物論を徹底させようとしている南鄕先生には耐えがたいのではないか、という気がします。
南鄕先生は、唯物論でも観念的に二重化すれば、観念論が分かるとおっしゃっていますが、わたしにはどうしてもそのようにはお見受けできません。というのはその結果としての観念論の説明が、唯物論の側から見た観念論でしかなく、本気の観念論にはどうしても感じられないからです。つまり、完全に唯物論を否定できていない、つまり、自由になれていない、だから「概念」や「絶対理念」には観念的に二重化できない、感情が許さない、だから分からないのだと思います。ということは、つまり、南鄕先生は、ヘーゲルの絶対精神の自己運動を見事に説いて見せていながら、じつは本当の意味では分かっていらっしゃらないのではないか、という疑念が生じます。
南鄕先生が、絶対精神の自己運動を見事に説くことができたのは、生命の本流の歴史を措定したからだと思います。しかし、絶対精神の自己運動は、そこまでで人類が誕生してからは、絶対精神が次第に「概念」へと転生していって、「絶対理念」を目指すことになります。ここからの過程は、唯物論では対応できないので、南鄕先生は「概念」と「絶対理念」について説くことができないのです。ということは何を意味するかと言いますと、唯物論では国家・社会の弁証法・精神の弁証法は解けない、ということです。
その通りに、生命の歴史を解いたわれわれのみが人類の歴史・国家・社会の歴史・精神の歴史を弁証法的に解けると豪語してから、十年になりますが、一向にその成果が出てきていないのが、現実です。十年前にその方法として主に挙げられていたのが、〝場所の変更が脳の発展をもたらす”という生命の歴史を解く中で導き出した論理です。しかしながら、これで人類の本流の歴史の論理が出てくるわけがありません。
生命の歴史は、生命が単細胞の段階からその最高形態である人類へと至る本流の歩みの論理でした。では、その後の人類の歴史の場合は、その本流とは一体いかなるものでしょうか?人類が動物的な本能的生存をやめたのは、学問を新たな本能とするためでした。したがって、人類の本流とは、人類が学問の最高形態である絶対理念となって世界を創造する段階へ向けての歩みを進めている人類が、すなわち人類の本流となります。
人類の歴史において、その精神の本流が最初にほとばしり出て、人類の歴史に燦然と輝く一番星となったのが、アレキサンダー大王による東欧・中近東・西アジアの学問による世界の統一です。どういうことかと言いますと、そのアレキサンダー大王を教育し育てたのが、『形而上学』という静止体の弁証法の完成者にして、ギリシャ哲学の完成者であるアリストテレスですが、アレキサンダーは、師匠のアリストテレスが学問の世界を統一したように、その師の精神・学問をもって現実世界を統一したのです。ですから彼は、それまでの征服者とはうって違って、征服した地を奴隷化しようとはせずに師の学問でもって教化し、その地を学問の王国としようとしたのです。だから、奴隷として戦わされるのではなく、われらが理想の王国のために戦ったからこそ、故国から遠く離れた地でも、多くの現地人で構成された彼の軍隊は強かったのです。そして、彼は自らもその地の姫を嫁にして積極的融和を図った結果として、東西の文化が融合した新たなヘレニズム文化が生れることになったのです。これは人類史上稀有な事例であり、精神の本流の最初のほとばしりにふさわしい偉業です。
さらに、それが本流である証は、その後の歩みを見ると一目瞭然となります。まず、その地にギリシャ哲学が根付いて、イスラム教という強大な宗教を生み出すことになります。そして、そのイスラム教とキリスト教とが対立・抗争をする過程で、イスラム圏に温存されていたギリシャ哲学が、キリスト教世界へと逆輸入されるという事も起きたのです。そして、それが、キリスト教神学を大きく発展させたばかりでなく、このキリスト教神学を土壌として、西欧の地に個別科学が誕生することになったのです。このように、精神の本流が、みごとに近代へとつながっていったのです。
かくして西欧社会は、その勃興した個別科学という学問に導かれて産業革命がおこり、大量生産によって商品経済も活発化して物質的生活の生産も著しく豊かに発展していって、他の世界を圧倒していくことになるのです。そして、その飛躍した生産力もった西欧諸国は、原料の生産地となる植民地を求めて世界各地で、植民地獲得競争を繰り広げる帝国主義全盛の時代になっていき、第一次・第二次と続けて世界中を巻き込む大戦争を引き起こすことになったのです。
しかしながら、この精神の本流には大きな問題が生じておりました。それは、この過程で、西欧社会の中で遅れていたドイツにおいてカントとヘーゲルという偉大な哲学が学問の冠石となる弁証法を完成させて、絶対理念へと至る道を学問的に解明したのですが、宗教と同じ観念論だとして、学問の冠石としての地位を追われてしまったことです。以後の人類の精神生活は羅針盤を失って迷走的発展を遂げていくことになります。、以上が、近代から現代へと向かう精神の本流の大雑把な流れです。
そして現在、人類の本流はどこにあるか?それは日本です。日本に本物の学問が息づいて、絶対理念への道が切り開かれようとしているからです。このような本流の歩みを見てみると、確かに場所の変更が精神の大きな発展をもたらしてきた現実を見ることが可能となるのです。しかしながら、唯物論では逆立ちしてもこういう解き方はできないのです。だから、学問は、自由な立場でないと出来上がらないのです。
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