[2183] 滝村先生は私からの手紙を喜んでくださっていたそうです!! |
- 愚按亭主 - 2016年07月08日 (金) 18時18分
はからずも滝村先生を批判することになってしまいましたが、あくまでも私の本意は、学問の真の発展であり、滝村先生もそれを望んでいらっしゃったと思います。その意味で、ここでの滝村先生への疑念は、そういう疑念であって、滝村先生への尊敬の念は、みじんも揺らぐものではありません。
じつは、この談論サロンで披露されたtadaさんの滝村先生への追悼の言葉も含めて、滝村先生の奥様に、お知らせのお礼とともに滝村先生への哀悼の意を手紙にしたためておくっておきました。(tadaさん黙っていて申し訳ありませんでした)
その奥様からの返事がつい先ほど届きました。文面は以下の通りです。 「稲村様 ごていねいなお便り、ありがとうございました。滝村は、稲村様にお便りをしたいとずっと言ってましたが、とうとう果たせず、申し訳ない思いです。※過日頂いたお便りをとても喜んでいたのです。 同封しましたのは、青山さんの書いて下さった追悼文です。ご一読いただけるようでしたら、幸いです。」
滝村先生があの手紙を喜んでくださっていたのだと知って、大感激です。これは是非とも弔問に伺わなければと思います。tadaさん一緒にいかがですか? ついでその同封された青山文久氏の追悼文を紹介します。中に我が意を得たりの箇所があります。
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滝村隆一の死去を悼む 青山文久 先月(5月)の25日、私の師であり友人でもある滝村隆一が死去した。享年71歳。肺線維症の病状重く、それほど遠くはない死を予期せぬわけではなかったが、3月に電話で会話した時にはまだ十数分もしゃべりまくるだけの気力・体力をみせていただけに、やはり突然としか言いようがなかった。その死を私が知ったのは、夫人からの書状によってで、死後、十日ほどたっていた。故人の遺志により、葬儀はごく少数の親族によってのみ営まれ、その葬儀に参列することは私にはかなわなかった。死去の通知を受け取り、私は弔問のため滝村宅を訪問した。二十数年ぶりであった。
滝村は死ぬまでの20年間ほど、門を杜じ客を謝す研究・執筆生活をおくっていた。歴史研究会のメンバーとして親しくしていた三谷孝(中国史)、佐藤正哲(インド史)やそれに私とも一切会うことはなかった。まさに面会謝絶であった。電話・ファックス、手紙のみが滝村との連絡を取る手段で、それも以前ほど頻繁というわけにはいかなかった。夫人の話によると、もう時間がないという切迫感のもと面会謝絶という己が格率を立てたということである。そしてそれを守り抜いた。そのことによってどんな摩擦が生じようが、いったん決めたらてこでも動かないのが滝村であったというのが夫人の言である。
居間にしつらえらえた焼香台に置かれた遺影を見、線香をあげる。遺影は死の半年前ほどのスナップなのだが、病にやつれた感は全く受けない。今にも、あの自由闊達な早口でまくしたててきそうな気にとらわれる。 夫人にうながされて、滝村がいつもそこに座り読書・執筆を行っていた椅子に腰を掛ける。右脇には肩ぐらいまでの高さまで本が積み上げられている。石原慎太郎が田中角栄を描いた『天才』(今年の1月刊)や太田尚樹の『満州と岸信介』(昨年9月刊)などが目に留まる。滝村は自民党の歴代所派閥の動向とその派閥間抗争についておそろしく詳しかった。田中角栄についても深い関心を持っていた。その関心は最後まで衰えなかったのである。太田尚樹の書を見て私は思い出した。日本の近現代史を扱った歴史小説の中で、文学的な優秀とは全く別に歴史学・政治学の参考になるという点では五味川純平の『戦争と人間』はいい。これを読めば満州国と軍部との関係についてよくわかると滝村が語っていたことを。あれほど深く日本の近代史について研究していたにもかかわらず、滝村がその成果の一端を披歴したのは『国家論大綱第一巻下』中の「補選 特殊的国家論第一偏〈近代〉専制国家登場の意味 1 ファシズム国家とは何か」においてで、そこでは戦時国家体制の常態化としての「日本ファシズム」について論じられていた。大田の書を手に取って、参考文献に目をとおしてみる。いくつかの書に鉛筆で印がつけられている。おそらく、購入しようと思っていたのであろう。
肺線維症の病状の重篤さについては、本人や夫人から切れ切れにうかがってはいたのだが、あらためて夫人から話をうかがうとその深刻さに驚くほかなかった。『国家論大綱第二巻』の完成稿を出稿後の2014年の9月、特発性肺線維症と診断され、しかもすでにかなり進行していることを医師から告げられている。昨年、今年と病状は重篤化し、本当は酸素吸入が必要な状態であった。しかし、滝村はそれを拒否し、最後まで自力呼吸を続けた。息が苦しい中、それでも読書・研究をやめようとはしなかった。
電話で滝村は言っていた。『国家論大綱第二巻』を書き上げることができ、もうこれで思い残すことはないと思ったが、読書や考えることはできるので、「アメリカ国家論」のためのカルヴィニズムを中心にキリスト教について追究した。キリスト教信仰にもとづく「個人」というものが契約国家論の前提をなすということがよくわかった。そのことについて書きたいが、書く体力がさすがにもうなくて大変もどかしいと。
滝村隆一に普通の意味での弟子は一人もいなかった。私も含めて周囲に集まってきた人間に対しては誰とも友人として接した。立正大学の一般教養課程で10年間ほど政治学を講じていたから、受講した学生にとっては「先生」であっただろうが、われわれに対しては「師」「先生」としてふるまったことはなかった。だから、だれもが滝村を呼ぶときは「滝村さん」だった。滝村は常日頃こう言っていた。学問にとって一番大事なことは疑うことだ。どんな権威とみなされている学説も師説も疑わなければならない。人間はむしろ信じたがってしまうものなのだ。だから疑うことが大切だ。(やはり滝村先生なら私の批判を受け止めていただけると思った!-筆者)
とはいっても、「歴史研究会」や「政治理論研究会」の場での滝村の存在感は圧倒的であった。「歴史研究会」は滝村の理論に関心をもつ歴史家(大学の教員や大学院生)たちが滝村と図って、「政治理論研究会」は滝村が中心となって立ち上げた(ともに1,980年代初頭に)ものだが、どちらでも、研究会の場を支配しまうのは滝村であった。滝村が口を開くとその一言一句を聞き漏らすまいとメンバーのだれもが耳を澄ます。滝村が研究会の主題になった問題や報告者が書評対象として取り上げた本についてしゃべりだすとき、あたかも巨大な思考機械がうなりをあげて動き出すような錯覚にとらわれる。そして、わたしたちには思いもつかないようなやりかたで問題への解法や論断が示されるが、それらは驚くほど説得的なのである。
1986年ごろ、研究会で「ファシズム」が論題とされ、参考文献としては山口定の『ファシズム』が取り上げられた。山口の書についての研究報告に対する滝村のコメントは圧巻といってよいものであった。まず、山口のファシズム論が全く本質論を欠く現象論にすぎないことが指摘された。ファシズムにみられる諸現象をそのまま諸要素としてつまみ出し、その組み合わせによってファシズムの本質が明らかになるかのように考える錯誤がそこに存在するということである。全世界規模の帝国主義戦争を勝ち抜き、世界における覇権を確立するための戦時体制の常態化というところにファシズムの本質はある。その本質論を踏まえることによってのみファシズムの諸現象は解明できる。そして、滝村はそこからファシズムイデオロギー、一党専制体制の問題を究明してみせたのである。
最後に『国家論大綱』に収斂された学的・理論的作業における〈原理と方法〉について一言すべきであろう。その〈原理と方法)とは、「事物の本質の認識は、現象それ自体ではなく、その背後に内在する一般性、つまりは内在的な論理的関連を把握することによって、可能になる」というものである。かかる方法に立脚せずに、事象の〈直接的連関〉のみをもっぱら追究しようとすると、対象の実態的・機能的諸要素・諸側面が相互に何の論理的連関をもたないまま投げ出されることになる。先ほどの山口の書はその典型である。しかし、今日、滝村と同様な〈原理・方法〉を採用するものは日本でも、世界でもいないであろう。滝村流の<原理・方法>を採用して学的作業することの難易度があまりにも高すぎるからである。それに対して、経験論的実証主義の立場にもとづいて対象の実体的・機能的諸要素・諸側面を追究することははるかに容易であり、学問「実績」もあげやすい。かくて、滝村の学的・理論的作業はあまりにも反時代的かつ「孤独な(奥田晴樹氏の言)」ものとなってしまった。たしかに、滝村の学的・理論的作業とは、常人なら数日間も耐えられないような思索を数年間、いや十年間以上にわたって持続させるものであり、並外れた精神力を必要とするものである。滝村の精神力はかかる思索に耐えることができた。しかし、肉体はそれに耐えることができなかったのかもしれない。滝村の病を前にしてそんな気持ちにおそわれる。
滝村さん、あなたはよく闘われました。世界史上の多くの学的権威と、あなたが好きだった言葉でいえば「さしで勝負」しました。しかし、何よりも自分とよく闘われました。闘い終って永眠されたあなたに最後の別れの挨拶を送ります。さようなら。 (2016年6月15日)
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