これからの社会主義

社会主義の制度、政策を真面目に議論する

掲示板トップへ戻る

227430

Name
Message
Upload  (optional)

DeletKey (optional) Cookie


こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

資本論を読む会 [3207]
望ちゃん
資本論を読む会を始めます。

 先日の研究会後の懇親会で、74歳を筆頭に年寄り4人で合意。、
 でも一緒に読み続ける若手の参加がなければ、年寄りの自己満足にしかならなくて、長続きしないだろうから、始めないかもしれない(弱気?−笑)。
 開始は、9月の吉日から、
 2カ月に1回の予定で、
 3年から4年くらいかけて資本論第1巻を読破する(ただ読み続ける)
 年長者は終わるのが80歳近くなるから、命がけ?!

 とりあえず、こんなところで確認しているのだが、若手(ここでは60歳以下、希望としては40歳から50歳代)の希望者がいるかどうか、確かめたい。

 参加意向、提案、意見などあれば、どうぞお願いします。
 

[344] 2018年07月09日 (月) 09時29分

タカ
●向坂逸郎訳
「富者はますます富裕になったが、貧者もまた貧の度を減じた。貧窮の極度が軽減されたとは、私は敢えて言わない」。何というまずい逓降法(アンティクリマックス、アンチクライマックス)だろう!

これは、他の本では、どう訳されているのだろうか?――以下のとおりであります。

●筑摩書房 マルクス・コレクション資本論第一巻
「富者はますます豊かになりましたが、その一方で貧者も貧しさの度合いを減じたのであります。ただし、極貧層が減ったとまでは、あえて申しません」。なんという情けない竜頭蛇尾であろうか。

●法政大学出版局 フランス語版資本論
「富者がいっそう富裕になるのと同時に、貧者もいっそう貧乏でなくなった。貧窮の極点が軽減されたとはあえて断言しないが」。この結びはなんと結構なことよ!
[999] 2024年04月08日 (月) 20時15分
タカ
■商品生産の所有法則の資本主義的領有法
則への転換

・ここにいたって、等しい価値通りの交
換という商品交換の法則は、何の等価も
支払うことなく手に入れた剰余価値で、ほ
かの商品を手に入れることができるという、
全く正反対の法則に変わってしまう。資本
主義的取得の法則とよばれるものへ変わっ
てしまうのである。

※封建制までは、そして共産制では、物を生
産する者がその所有者となるが、資本制=資
本主義生産では、労働者が生産するのである
が、その生産物の所有者は資本家なのである。
*商品生産の所有法則⇒生産した者が所有者
である。
*資本主義的な領有法則⇒生産した者は労働
者であるのに、その生産した物(=商品)は
資本家が所有する。
[939] 2023年09月12日 (火) 19時25分
タカ

「『資本論』を学ぶ人のために」  平野喜一郎著
            
           ・平田喜久雄さんの著書だと間違えて、図
             書館から借りた。

*資本主義の終わり―――資本主義的蓄積の歴史的傾向
「資本主義の最後」は、実際の生産者が、生産手段を資本家から取り返すことによって実現する。
・一つの資本家が労働者を搾取して、それ自身の資本規模を拡大することを「資本の集積」という。
・巨大な資本を集積した少数の資本家は、多数の資本家を収奪しつくし、打ち滅ぼす。これを「資本の集中」という。
・これによって、生産の社会化が進む。・「労働過程の協業化」「労働手段の協同化」「結合された労働による生産手段の節約」が進む。
・資本主義的生産過程には、労働過程と価値増殖過程の二つの側面がある。前者では労働の社会化が、後者では資本の独占化が進むのである。
「貧困、抑圧、隷従、堕落、搾取の総量は増大するが、しかしまた、絶えず膨張するところの、資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗も増大する。資本独占は、それとともにまたそれのもとで開花した、この生産様式の桎梏(しっこく=手かせ足かせ)となる。
 生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的な外被とは調和しえなくなる一点に到達する。この外被は粉砕される。資本主義的私的所有の弔鐘(ちょうしょう=人の死をいたんで打ち鳴らす鐘)が鳴る。収奪者が収奪される。」

*資本主義は、自己労働による農民の個人所有を否定することで成立した。
・ところが、資本主義の発展は、いまや資本主義的所有の否定の条件をつくりだす。
・それは「否定の否定」の弁証法だ。
・二度目の否定で、最初に否定された個人的所有が再建される。
・しかし、再建と言っても最初に否定された生産者の個人所有の同じ形と規模の、元にもどした再建ではない。
・「生産者たちの所有」は、資本主義時代の成果である、労働過程の社会化を基礎に、社会的・共同的所有として、再生するである。
*切り離されていた生産者たちと生産手段は、ふたたび結びつく。
・「否定の否定」は、「私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果―――すなわち、協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有―――を基礎とする個人的所有を再建するのである。
・(最初の否定、つまり)本源的蓄積は長く、苦しい、困難な過程であった。
・二度目の否定は、より短く、喜ばしく、より容易な過程である。
・本源的蓄積期には少数の横奪(無理に奪い取ること)者による人民大衆の収奪が行なわれたが、資本主義の終わりには、人民大衆による少数の収奪者の収奪が行われる。
・社会的所有の条件である生産の社会化が、すでに完了しているからである。
[890] 2023年02月23日 (木) 15時47分
タカ
再掲

「資本主義的蓄積の歴史的傾向」

あらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。
資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏(しっこく=足かせ、手かせ)となる。
生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。
外被は爆破される。
資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。




月刊社会主義 1990年第316号10月増刊号 特集 資本主義と社会主義

社会主義への必然性   佐藤保さん

・社会主義への変革を担い実現する人間も資本主義的生産のなかでつくりだされる。『資本論』はのべている。
「この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。資本独占は、それと共に、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和し得なくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘がなる。収奪者が収奪される。」
・資本主義は、自らの運動法則によって、不可避的に社会主義に向かわざるをえない。資本主義的生産そのもののなかに社会主義への必然性が内包されている。
・念のためにいえば、このことは労働者階級が手をこまねいていても、自然に自動的に資本主義は社会主義へと移行するということではない。
・ブルジョア階級は、この必然が労働者階級の実践によって担われ実現されることを何よりも恐れる。
・(ブルジョア階級との)たたかい(思想闘争、経済闘争、政治闘争)のなかでのみ(それがどんなに困難であっても)、社会主義への必然性はつらぬかれ実現されうるものであることを、片時も忘れてはならない。




超訳『資本論』  的場昭弘著  祥伝社
         
『資本論』をいったん遠くに放り投げた日本人は、いま再び拾い上げ、ページを開く必要にせまられている。
この書には、むきだしの資本主義が、驚くべき洞察で描かれている。資本主義の実態は、21世紀になっても何ら変わっていない。
「この収奪は、資本主義的生産自体の内在的法則の作用によって、資本の集中によって、実現される。つねに一人の資本家が多くの資本家を滅ぼす。この集中とともに、つまり少数の資本家による多数の資本家の収奪とともに、ますます大規模になる協業的形態、科学技術の意識的な利用、土地の計画的利用、共同的にのみ使われる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的活動の生産手段として使用されることで起きるすべての生産手段の節約、世界市場全体への世界の国民の組み入れ、およびそれとともに資本主義の国際的性格が発展する。
こうした転形過程のあらゆる利益を収奪し、独占する大資本家の数がたえず減少していくとともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのだが、一方でたえず拡大する資本主義的生産過程の機構そのものによって訓練され、結集され、組織される労働者階級の抵抗も増大する。資本の独占はそれによって、かつ、そのもとで開いた生産様式の障害になってくる。
生産手段の集中と労働の社会化は、そうした資本主義の枠と調和しなくなる点までに至る。そして、その枠は破壊される。資本主義的私有の最後を告げる鐘がなる。収奪者が収奪されるのだ。
資本主義的生産様式から生まれる資本主義的領有様式、つまり資本主義的私有は、自己の労働に基づく個人的所有の最初の否定である。しかし資本主義生産はある種の自然過程をもってそれ自身の否定をつくる。
それが否定の否定である。この否定は私有を復活させるのではないが、しかし、確かに資本主義時代の結果に基づいている。すなわち土地の協業と労働によって生産された生産手段の共有に基づいている。個人的所有をつくるのである。

当然ながら、個人の自己労働に基づく分散した私的所有の、資本主義的私有への転化は、社会的生産過程に基づく資本主義的所有の、社会的所有への転化に比べれば、比較にならないほど長く、過酷で困難な過程である。
前者では少数の収奪者による民衆の収奪が行われたのだが、後者の場合には民衆による少数者の収奪が行なわれるのである。」

・資本主義が世界の津々浦々まで広がり、それが国家を超え独占を形成し、世界的な規模での労働運動が起こるようになる。
・個別的所有というのは、否定の否定。
・私的所有は、個人的労働による所有によって生まれ、やがてそれが資本主義的な労働に対する所有に変わり、再度それが否定され、社会的所有の中で個人的所有が復活するというわけである。
・すでに「共産党宣言」(1848年)の中で私的所有と個別的所有を区別しているのであるが、それが「資本論」の中でも一貫してつらぬかれている。





『高校生からわかる「資本論」』池上彰著(集英社)より

「一人の資本家が存在するためには多くの資本家が虐殺されるのである。この集中、もしくは少数の資本家による多数の資本家の財産収奪と並行して、労働プロセスにおける協同作業の形態が、たえず進んだ段階へと発展していく。同時にまた科学が意識的に技術へと応用されるようになり、地下資源が計画的に掘り出され、労働手段が協同でのみ利用できる形に変化し、協同の社会的労働の生産手段として利用されることによるあらゆる生産手段の経済化が進み、すべての民族が世界市場のネットワークに組み込まれ、それとともに巨大な資本制の国際的性格が発展する。巨大資本家はこうしてその数を減らしながら、この変容過程がもたらすいっさいの利益を奪い取り、独占していくのだが、それとともに巨大な貧困が、抑圧が、そして隷従と堕落と搾取が激しくなる。だがまた、資本制生産過程のメカニズムを通じて訓練され、統合され、組織化され、増加する一方の労働者階級の憤激も激しくなる。資本の独占は、それとともに、今度はまたその下で花盛りとなった生産様式そのものを束縛しはじめる。生産手段の集中は、そして労働の社会化は、ついにその資本制的な被膜と合わなくなるところまでくる。そしてこの被膜は吹き飛ばされる。資本制的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る。収奪者たちの私有財産が剥奪される。」
(筑摩書房刊マルクス・コレクションW・X『資本論』第一巻)
・虐殺っていっても、文字通り殺されるわけではない。
・多くの企業が、競争する。たくさんの会社が負けて、次第に減。ある程度限られた大企業だけが残っていく。
・つぶれた会社の全部を他の会社が引き受ける。少数の資本家による多数の資本家の財産収奪だ。
・M&A。企業の吸収合併。いくつもの銀行が一緒になった。伊勢丹と三越が一緒になった。西武とそごうが合併し、セブン&アイ・ホールディングが子会社とした。
・独占企業がそうなると、労働者たちも何千人もが一緒に働くようになる。
・世界市場のネットワークとは、グローバル経済のことだ。
・多数の労働者が何千人も協働。組織化と、組織的行動へ。労働組合運動が激しくなる。

「最後の審判」が下る。
・世界の終わり、最後の審判の日がくる。そのとき、この世の終わりを告げる鐘が鳴る。すると、すべての人が生き返り、神の前で、天国か地獄に行くか、審判される。
・その最後の審判の日がやがて来る、というユダヤ教、キリスト教的表現である旨。




いま生きる「資本論」  佐藤優著  新潮社
(本書は新潮講座「一からわかる『資本論』」第一期(2014年1月〜3月)の講義を活字化したもの)

・「資本主義的蓄積の歴史的傾向」
・ある意味、ここは『資本論』で一番有名な個所です。
・次の(この)ブロックが……。……、マルクスがいちばん間違えているところです。
「この収奪は、資本主義的生産自体の内在的法則の作用によって、資本の集中によって、実現される。つねに一人の資本家が多くの資本家を滅ぼす。この集中と並んで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と並んで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組み入れ、およびそれと共に資本主義体制の国際的性格が、発展する。この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ、資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され、結集され、組織される労働者階級の反抗も増大する。資本独占は、それと共に、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和し得なくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘がなる。収奪者が収奪される。」(カール・マルクス『資本論』)

・正統派のマルクス主義経済学者にとって、ここが『資本論』の中でもいちばん神聖な部分です。
・資本主義が発達していくと、資本家同士の間で競争が起きて、巨大資本だけが生き残るようになる。その巨大資本は、グローバリゼーションの中で、少数の資本家が富を独占し、スーパーリッチが生まれてくる。その一方では、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取がどんどんひどくなって、あらゆる場所で二極化が進んでいく。

・そうなると、労働者は堪えきれなくなり、反抗し、団結し抵抗する。資本主義は行き詰る。大きな資本は、もはやその経済規模に対応することができなくなって、資本主義というシステムは爆破され、革命が起きる。
・資本主義的所有の最期を告げる鐘が鳴り、収奪者が収奪される。
・かくて、共産主義革命が達成される。共産主義の世の中が来る。

・そもそも、『資本論』第一巻末尾のこの宣言は論理的にナンセンスなのだと、最初から、宇野弘蔵は考えていました。

・資本主義が行き詰ることはあります。それは恐慌という形であらわれます。
・大量商品が生産されているのに、まったく売れない時もあって、それがやがて恐慌に至ることもある。
・すると、労働者に商品を買うカネがなくなり、貧困という状況は生じる。
・しかし、そんなことはイノベーション、新技術の開発によって基本的に乗り越えていくことができる。
・労働者が窮乏化する必然性はない。
・資本主義は爆破されず、破壊もせず、あたかも永続するかのごとく、生き延びていくのだ、というのが宇野の考え方です。

「………、労働者階級の『窮乏、抑圧、隷従、堕落、および搾取の度合』は、資本の集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪にともなう大資本家数の減少につれてますます増大するが、それと同時に、生産手段の集中にともなう『労働の社会化』もすすみ、資本主義的生産過程そのものの機構によって『訓練され、結集され、組織される労働者階級の反抗も増大する』。したがって、このような反抗によって蓄積の法則は修正され、窮乏化の作用も緩和ないし制限されることになるが、資本主義的蓄積が、したがってまた資本主義的生産様式が存続するかぎりでは、窮乏化の必然的作用を排除することも止揚することもできない。」(カール・マルクス『資本論』)

※「労働者が窮乏化する必然性はない。資本主義は爆破されず、破壊もぜず、あたかも永続するかのごとく、生き延びていくのだ」というのが宇野の考え方というが、マルクスは「窮乏化の必然的作用を排除することも止揚することもできない。」といっている。





「『資本論』入門」  岩波新書        向坂逸郎著

「・・・・・・この集中と並んで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と並んで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組み入れ、およびそれと共に資本主義体制の国際的性格が、発展する。この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ、資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され、結集され、組織される労働者階級の反抗も増大する。資本独占は、それと共に、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和し得なくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘がなる。収奪者が収奪される。」
(カール・マルクス『資本論』)

これは、『資本論』「資本主義的蓄積の歴史的傾向」の一節である。
『資本論』は「近代社会の経済的運動法則」を明らかにする。しかし、この経済的運動法則は、経済的メカニズムの同一規模の繰返しではない。それは、資本主義的蓄積の一般的法則が示すように、資本の集積と集中というように、量的な運動が、堆積されている。単なる繰返しではなく、量の蓄積である。一つの運動であり、変化である。したがってまた発展である。

資本の集積、集中とともに、資本主義のもっている内在的な矛盾も発展する。資本の発展、物質的生産力の発展は、資本の有機的組成の高度化となり、働く人間の生活を不安定にし、彼らの生活が奪われる機会の増大となる。労働者階級の数は大きくなる一方であるが、この人々の生活は、ますます不安となる。資本は、高度に発達した技術を利用し、高度に便利であり、文化的である生産物をつくり出すにもかかわらず、これを利用し、消費することのできない人間の数は増大する。人間の幸福のためにある筈の科学技術は、人間の不幸の原因に転化される。

他方資本主義的鉱工業、交通通信業等々の発達は、働く労働者を組織化する。本来これらの近代的大産業は、技術的性質からいって、組織的であり、有機的に結合している。近代的労働者は、このように朝から晩まで、有機的に相互に関連する職場で働いている。だから、「この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ、資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され、結集され、組織される労働者階級の反抗も増大する。」

マルクスは資本の論理を追求することによって、資本主義発達の限界を明らかにすると同時に、資本主義の量的発展が、質的飛躍とならざるをえない条件を明白にしている。

このような資本主義発展の法則を認識することは、歴史をつくる人間の行為に与えられた歴史的条件を知ることである。法則の必然を自由なる歴史的行為に転化されることが待たれている。





「あらすじとイラストでわかる資本論」  知的発見!探検隊編著  文庫ぎんが堂

・マルクスが見る資本主義の末路。
・やがて強い資本は弱い資本の吸収・合併をくり返し、国境を越えて資本を巨大化していく。
・どんどん広がる資本は、労働者の数も増やし、それは労働者にも力を与えていく。
・やがて労働者たちの力は爆発して革命が起こる。
・膨れすぎた資本は労働者たちによって社会化される。





「漱石と『資本論』」  祥伝社新書      小島英俊・山ア耕一郎著

「あらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。そして外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」
(カール・マルクス『資本論』)
この最後の文章は、日本のマルクス経済学者やマルクス主義者を強く刺激し、興奮させ、これこそマルクスの究極のメッセージとして受け止められた。
しかし、「資本論」は、政治的行動を促すアジ演説ではけっしてなく、資本主義経済の矛盾を理詰めに解こうとした書である。

・資本主義の発展とともに「窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大する。」
・しかしそれと同時に「たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。」
・そしてその結果、資本主義的私有制度が廃棄され、社会主義への展望が開かれることになる。

「資本主義的蓄積の歴史的傾向」
あらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。



[889] 2023年02月23日 (木) 15時46分
kai
◆2018年7月7日の支局研究会後の懇親会で
盛り上がり、資本論を読む会が出発した旨。
第1回の資本論を読む会は、2018年9月11日
(火)18時から、支局事務所で実施されま
した。
◆当時、道央地方協学習会を主として学習活
動を行っていましたが、資本論を読む会の出
発は、この学習会で、「資本論をやろうか?」
的な発想があったからではなかったでしょう
か?
◆トマ・ピケティの「21世紀の資本」が大
ベストセラーとなっていました。でも、マル
クスの「資本論」とは全く違うものだよとの
こと。この本、結構、分厚くて高額で、購入
してまではと思ってしまいました。
◆ソ連・東欧の社会主義国・社会主義体制の
崩壊。「社会主義は死んだ」(?)
「しかし、資本主義は末期だ。」これからの
社会主義の議論が必要となっていたと思いま
す。
◆社会主義革命=生産手段の国有化⇒社会主
義建設へ。1974年(初めて「まなぶ」等で
社会主義の知識を得て)以来、このように考
えてきました。しかし、これからの社会主義
は、「資本論」で資本主義を学び、これを反
面教師として社会主義を考えていかなければ
ならないと思っています。
◆社会主義体制をつくり上げていくために、
多くの皆さんの考えを知っていきたいと思い
ます。さては、まず、資本論の学習会を、今
後も進めてまいりましょう。
[824] 2022年07月29日 (金) 17時59分
甲斐
マルクス経済学の基本問題  向坂逸郎著
※人間労働は「凝結(ぎょうけつ)」してはじめて価値となる。人間労働は「対象性」として、価値となる。
※人間労働は「凝結した状態で、すなわち、対象的な形態で価値となる。亜麻布価値を人間労働の凝結物として表現するためには、それは『対象性』として表現されなければならぬ。」(『資本論』)
※たんに、社会的に労働がなされているというだけで価値となるのではない。
・労働の社会的な性質が、生産物の交換を通じて顕在するものとなるのである。
・商品に体現された労働のみが価値なのである。
・生産物が商品とならないところでは、人間労働は価値とは名づけられない。
[813] 2022年06月24日 (金) 23時14分
kai
第8章「労働日」
第6節「標準労働日のための闘争。
労働時間の強制法による制限。
1833−1864年のイギリスの工場立法」

・18世紀末に大工業が出現すると、労働日の延長はさらに過激になり、これに対する労働者階級の抵抗が始まる。
そして1833年「工場法」が誕生する。
・ここで標準労働日が制定され、はじめは午前5時半から午後8時半の15時間で、13歳から18歳未満は12時間まで、13歳以下は8時間までに制限し、9歳未満は労働力禁止とした。
9歳から18歳の子どもは夜間労働も禁止された。
*しかしこれは抜け穴だらけの法律で、法律を逆手にとって悪用したり、リレー制度という、子どもを2組に分けて連続して働かせるということも見られた。
・1834年工場法が成立すると、この時期に10時間法案と普通選挙権をスローガンにしたチャーティスト運動が盛んになったこととあいまって労働運動は激しさを増し、1844年には女性も未成年の条件に含まれ、児童労働は7時間に引き下げられる。
・そして1848年5月、議会で10時間労働法案が通過。そして1850年に追加工場法、1853年に児童労働規制法が定められることとなった。
[802] 2022年05月02日 (月) 10時07分
Kai
◆協業とは、同じ仕事をする労働者を同じ屋根の下に集めることにすぎないが、これが大きな力を発揮するのは、空間の節約、移動の節約のみならず、労働者相互の競争を引き起こすからだ。
『多数の力を全体の力に融合することから起こる新しい力とは……、……労働者には競争が生まれ、自ら活力が生み出され、それによって個々人の個別的生産能力が高まる。』(資本論)
◆分業とは、労働の過程を分割し、個々の労働を行うということだが、まずは分割によって、それぞれの労働過程とのつながりが強まり、お互いに厳しい規律が生まれることになる。
・それは逆にいえば、ひとつの労働しかできない人間の誕生であり、全体としての組織のたんなる一器官となる人間ということだ。
『一面的機能だけを担当するという習慣によって、彼自身はこの機能を自然にそして確実に発揮するだけの一器官になり、メカニズム全体と関連することで、機械の部品のように規律的に動くことを強制されるのである。』(資本論)
◆最終的な段階が機械装置と大工業の発展、という。
・機械装置によって人間の労働はどんどん単純化され、機械が人間を動かすようになっていく。
・こうして児童労働と婦人労働が、男性労働に取って代わる時代が来る。
・そして皮肉にも、高価な機械を入れたことで早くもとをとろうと思い、労働時間が延長されることがある。労働時間の延長をしないとしても、機械のスピードを上げ、労働を強化する。
・労働の単純化が疲労を高め、なおかつそれが人間らしい労働を奪うことで、人間の魂に対する拷問となる。
・マルクスは、フーリエが工場のことを「緩和された流刑場」と述べていることを指摘する。

的場昭弘著「一週間de資本論」より
[793] 2021年12月21日 (火) 13時48分
Kai
■分業
※A・スミスは、生産力の向上の主要な原因を分業に求めた。
・スミスの『国富論』は、分業による生産性向上の例からはじめ、分業による熟練、技能、判断力の増進、仕事の転換に要する時間の節約、道具や機械設備の発達の効果を考慮し、その効果は作業場内の分業に限らず、社会的規模での分業におよぶものとしてゆく。
※マルクスは、資本主義経済のもとでの作業場内の分業と社会的分業との組織原理の差異を、批判的に論定してゆく。
※そこには、商品経済社会としての資本主義の経済秩序を、*人間の内的な本性に由来する自然的秩序とみなすスミスと、*その特殊な歴史性を批判的に解明するマルクスの理論の対比がみごとに示されている。

伊藤誠著「市場経済と社会主義」より
[792] 2021年12月21日 (火) 13時00分
Kai
※図書館から、借りてきた。

「知っておきたいマルクス『資本論』」
・神津朝夫(こうず あさお)著
・角川ソフィア文庫 2009年5月25日初版

※神津朝夫
・1953年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。在学中より、向坂逸郎氏に師事して『資本論』を学ぶ。大学院博士前期課程終了後ドイツ・マンハイム大学経済学部へ2年間遊学。
・外資系金融機関調査部、大学教員を経て、現在は著述業。
・論文に「『資本論』体系の成立を」めぐって一プラン問題への一視点」(「唯物史観」28号)など。茶道史関係の著書に『千利休の「わび」とはなにか』などがある。
【あとがきから一部】
・2007年は『資本論』第一巻の刊行140年だったので、それを機に大阪でも、同年秋から1年間の資本論入門講座が開かれることになった。
・私が若い頃お世話になった細川正氏(新社会党副書記長)から、20年以上ぶりに突然電話があり、その口座の講師を頼まれた。
・労農派の系譜に属する経済学者が、関西地方には今はほとんどいないのだ、という。
・私は学部学生・大学院生時代に、向坂逸郎先生のご自宅での通称「寺子屋」で『資本論』を読んでいた。
・毎週土曜日の研究会はほぼ皆勤し、先入観はもたずに『資本論』を読み込むこと、そして自分の頭で徹底的に考えることを教えられた。
・研究会が一段落したあとは、向坂先生の歴史や文化、芸術の雑談が楽しかった。向坂先生は、とても柔軟で教養の豊な方だった。
・大学三年の秋、和氣誠氏に、向坂先生にご相談したいことがあると申し上げると、即座に「大学院のことですね。先生から、神津君がきっともうすぐ相談に来るから、大学院へ行きなさいと伝えてくださいと言づかっています。」といわれた。
・向坂先生のもとに出入りしながら、私は政治活動にはほとんど関わらず、研究会のなかでは浮いた存在だった。…………。先生は温かく見守ってくださっていた。
・ソ連のアフガン侵略をきっかけに、私は向坂先生からも、その人脈からも距離を置くようになった。
・この15年ほどは、経済学からも離れて、日本文化史、茶道史の研究を専らとするようになった。
・しかし『資本論』についてなにか形のあるものをまとめることは、私にとっていつかは果たさねばならない義務だと、ずっと心の片隅で思っていた。…………。
・あっという間の1年間の講座だった。…………。
[791] 2021年12月05日 (日) 20時19分
Kai
前回の「読む会」で宿題が出ました。

宿題です!! (その内の一つですが、)
「新しい総括機能を産みだすかぎりで、例外が生ずる。」の意味

向坂逸郎訳「資本論」より
 ・……工場手工業は、……不熟練労働者の一階級を産み出す。
 ・……熟練労働者と不熟練労働者とへの労働者の簡単な区別が生ずる。
 ・後者にとっては修業費用は全く不要となり、前者にとっては、手工業者と比すれば、機能の低下によって低下する。いずれのばあいにも、労働力の価値は低下する。
 ・労働過程の分解が手工業経営では全然見られなかったか、あるいは同じ程度には見られなかった新しい総括機能を産み出すかぎりで、例外が生ずる。
・修業費用の欠落または減少から生ずる労働力の相対的価値減少は、直接に、資本のより高度の価値増殖をともなう。
・労働力の再生産に必要な時間を短縮するものは、すべて、剰余価値の範囲を延長するからである。

江夏美千穂/上杉聰彦訳 「フランス語版資本論」上巻 法政大学出版局発行より
・……マニュファクチュアはまた、どんな発達の欠如をも一つの専門にしようとするようになるのである。
・位階制的な等級づけと並んで、熟練労働者と不熟練労働者への労働者の単純な区分が登場する。
・後者にとっては修業費用が消滅し、前者にとってはこの修業費用が、手工業に必要な修業費用に比べて減少する。どちらのばあいも、労働力はその価値を失う。
・しかし、労働過程の分解は時として、手工業の営業ではどんな役割も演じなかったかまたはより小さな役割を演じていた一般的機能を、産み出す。
・修業費用の減少または消滅から生ずる労働力の相対的な価値喪失は、資本にとって直接に、剰余価値の増大をもたらす。
・労働力の生産に必要な時間を短縮するものはいずれも、実際に、剰余労働の領域を拡張するからである。

【以上のことから】
・工場手工業で生まれた不熟練労働者。
・手工業時代では、不熟練労働者は存在しなかった。商品、生産物を作り出すのは、親方であった。この時、彼らは弟子であり、表舞台にはたてなかった。
・分業による労働過程の分解は、(不熟練労働者を産み出し、修業費を減少させ、労働力の生産に必要な時間を短縮させ、剰余労働時間を拡張させ、資本のより高度の価値増殖をともなう、)労働力の価値を低下させるという機能を産み出した。                【ということを、マルクスは言っているのではないでしょうか?】

(岡崎次郎さんの下訳が「いまいち」だったのでしょうか?)

※宿題の回答
「新しい総括機能を産みだすかぎりで、例外が生ずる。」とは、【分業による労働過程の分解が、労働力の価値を低下させるという機能を産み出す。】ということではないでしょうか?


[786] 2021年11月06日 (土) 16時27分
田久保(投稿者「た」ではありません)
「資本論を読む会」3周年 感想  2021.9.11

 もう3年も経ったのか、と言うのが正直な印象だが、そう感じる主因はほとんど「年のせい」なの
だろう。
私が資本論を読んでいる理由は、「社会主義とはどんな社会か」を考えるため、と言っていい。
当然この本は、@資本主義経済、が書かれているが、より根本的にはマルクスはそれを、A「経済学
批判(資本主義批判)」として書いた、という点が最も重要である。
 現代でも@しか理解しない「いわゆるマルクス経済学者」があまりにも多く、A の視点は「好き
勝手に選べるもの」のように扱われ、「マルクス主義者」はほとんどいない。
 資本論で書かれている「項目」はすべて「批判的」に書かれている。「価値論」を書いているのは「価
値(物神)と言うとんでもないものへの批判」、「労働日」でも「労働日と言うとんでもない制度」、「本
源的蓄積」でも「剰余価値生産」でも「商品資本・貨幣資本」「信用論」「地代論」「三位一体」・・・
すべて「批判・とんでもない」わけで、その「視点」を再度丁寧に拾えれば、という思いで読む。
批判的視点は、資本主義のやり口を記述した後の、「ちなみに…」的なほんの短い短文にまとめられ
ている場合が多く見落としがちである。それらはマルクスの「唯物史観にもとづく社会主義像」の断
片である。

特にこの間、全巻のテーマに関して、強く感じる点を2つ。
@全巻を貫く「使用価値と価値」の対立、最終的な「使用価値」の優位性:「価値」とは「物の欲望対
象」であり「物神」であり、「使用価値」とは「人間の欲望対象」であり「人間」。「使用価値」のため
の社会、人間のための「社会主義社会」に移行せざるをえない。
A「人間の歴史」が本質的に一貫して行っていることは「労働時間の短縮」:資本主義では特に「相対
的剰余価値生産」の徹底という様式で、強烈に「必要な労働時間」が短縮される。それは極めて悲惨
な状況を伴うものだが、そうした「悲惨な歴史」を経過することで、はじめて社会主義は「可能」と
なる。「労働時間の短縮」はさらに、社会主義での「直接的」な主要テーマとなる。
[776] 2021年10月25日 (月) 18時05分
田部 徹
資本論を読む会3周年記念と私の感想文 2021年9月 田部徹

 速いものですね、第1回から9月で36回目ということですね。コロナ感染が広がって二年半が過ぎ、その期間はzoomでの読む会で継続してきましたが、参加者が増えたことは何よりです。ここまで継続してこれたのは、「研究会」「学習会」という名称を「読む会」という形で、まずはみんなで読んでみようという軽いタッチ、一カ月に一回という無理のない構えや負担の少ない形にしているのが、継続できているカギではないかと思います。後半の飲みながらの懇親・座談会も継続の潤滑油になっているのではと思います。

私が初めて資本論の研究会に参加したのは学生時代の二十歳頃でした。当時植物園前にあった全道庁の書記局で、山道、橋書記が中心になって、月何回ペースか思い出せませんが、松井先生を講師にして行われ、北電の社青同の仲間も参加していました。松井先生から労働者の学習会に参加してみたらという誘いがあり、参加したのがきっかけでした。
進め方として読み合わせから始めたと思いますが、質問・意見・解釈では学生以上に勉強しているという印象で、特に山道さんは鋭い質問・意見を出していたのを記憶しています。

学生のサークルで資本論研究会を立ち上げてやってみましたが、長くは続きませんでした。講師役になる人がいない、50歩100歩の参加者、持続する志が不十分だったからと思います。
 その後労働者となって、社青同やまなぶの仲間達と「賃労働と資本」「共産党宣言」「左翼小児病」「賃金価格および利潤」「帝国主義論」「経済学入門」の学習会をしてきましたが、資本論の学習会は分量が多いこともあり実行するまでには至りませんでした。

資本論を学習する意義は、資本の搾取、剰余価値の解明にあります。私は今回の資本論を読む会の学習で、アダムスミスやリカードの古典派経済学が、労働と利潤を認識しながら、なぜ剰余価値の解明に至らなかったのか、マルクスの批判的発展について学習することを底辺の視点に置いています。
 その解明のカギが労働と労働力の違いの概念規定にあり、現実の労働(使用価値)と抽象的社会的人間労働(価値)の措定、使用価値と価値との矛盾、不変資本と可変資本の内容規定により、剰余価値発生の根拠を明らかにしていく、そのことにって古典派経済学が矛盾に陥った限界を解き放った意義を、改めて学習しています。そこに至るまでのマルクスの膨大な先行者についての研究ノート(剰余価値学説史など)が資本論に結実していることを見ます。資本論における使用価値と価値との対立的・統一的認識の重要さをあらためて確認しています。

今日的に言えば、どのように資本の巨額の内部留保が生み出されているのか、資本と賃労働の現代的搾取関係の実態を明らかにすることが、資本論を読む、学習する意義につながるのだ、と思います。
 資本論の学習の応用として、企業の会計・決算分析を行い、搾取の構造をあきらかにしていくことは、未来の経営を担う労働者にとっては不可欠のことです。資本論を学習することは、人間をより幸せにする社会をつくるための理論武装です。

追加すれば、20世紀ソ連東欧社会主義の崩壊の経済的根拠として、価値と使用価値、価値と価格との具体的応用、生産物の需給関係の掌握と生産計画、品質管理と価格決定の失敗にあった、マルクスが言う、社会的な労働の配分の失敗にあった、と私は考えるのですが如何でしょうか。
 生きた教材として資本論を読む会で議論していきたいと思います。

資本論を読む会3周年を記念にして、私の学習会の感想とします。これからもよろしく。
[771] 2021年09月10日 (金) 07時21分
事務局から
再掲!!!
「資本論を読む会」3周年!
 感想文、祝意など、記念するお言葉をお願いします。。 

◎9月11日は、「資本論を読む会」がスタートして3周年を迎えることになります。
 書き込み文章は、とくに制限はしませんが、気持ちのこもったものを歓迎します。
 
◎最初の頃の書き込みも、一部紹介します。思い出にふけって下さい。
[766] 2021年09月09日 (木) 10時59分
事務局から
「資本論を読む会」の1回目は、30歳から74歳まで8名が参加


 9月11日(火)のスタートには、8名が集まり、『資本論を読む会』がはじまりました。年齢層は30歳の若者から74歳。
 レポーターから 
◎まずは、序文から。
@「何事も初めが難しい。この本も第一章、とくに商品の分析の部分が最大の障害になるだろう。」「価値形態にかんする節を除けば、この書は難解ではない。」
 ・この本を読むにあたっては、覚悟をもって、のぞめということでしょうか。しかし、「価値形態部分を除けば、この書はむずかしくないよ」と。おどし、すかし、でしょうか。
A「何か新しいことを学び、自分で考えようと志す読者を想定している」
 ・私たちも、そういう読者でありたいですね。
B「死者が生者をとらえている」
C科学的な批判なら、どんな批評でも歓迎する。世論というものにも譲歩はしない。しかし、その偏見に対しては次の格言のとおりである。「汝の道を行け、そして人々の語るにまかせよ!」
D「学問に、坦々たる大道はなく、学問の急峻な山路を登るのに、疲労困憊をいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる」
E(英語版の序文より)「イギリスが、平和的合法的手段で社会革命を遂行しうると、マルクスは言い、かつ、イギリスの支配階級が反逆なしにこの平和的合法的革命を甘受するだろうとは思わないと付け加える」
 いよいよ次回からは、「第一巻 資本の生産過程 /第一編 商品と貨幣 /第一章 商品」のスタートです。
・とりあえず、1か月の間、ひととおり目をとおして、読めない漢字、むずかしい言葉の意味等を調べておこうかなと思います。
・レポートはTakさんです。よろしくお願いします。【Kaiより】 

【第2回】2018年10月25日(木)午後6時から。会場:支局事務所において
 ◎初回のレポートと配付資料は支局のホームページに掲載します。  
 ◎一緒に読む人、まだ募集中です。連絡してください。
[765] 2021年09月09日 (木) 10時57分
事務局から
[395] 2018年07月10日 (火) 20時37分
9月から資本論を読む会の開始が予定されている。すべてを理解する
のは大変だが、資本論を読む基本は賃労働に対峙(包括)する資本の運動とその法則性の理解、資本存在の限界性を解き明かすことにある。

私はあらためて資本論が、労働価値説の基盤のもと、剰余価値の出生(搾取)を解き明かしているのかをよみとりたいと思います。

価値を生み出すのは労働なのだ。社会の主人公は労働者なのだ、という歴史変革の主体をかくにんするためにも。

 このことは、講座派、宇野派とも異なる労農派の資本論、マルクス理解になると思います。若者の参加を期待します。まずは読みましょう。
[764] 2021年09月09日 (木) 10時56分
事務局から
9月学習会は『3周年記念』ナノダ!!

 第31回「資本論を読む会」は、日時:2021年9月28日(火)
  午後6時30分からオンラインで「第12章 分業と工場手工業」からです。(岩波文庫(二)272P)からです、

 第30回「資本論を読む会」は、遅れて参加の方も含めて12名で読み合わせ、討論をしました。しばらくぶりの参加者もあり、また林野の仲間が仕事中にスズメバチに刺されてお休み−というビックリもありました。
 どうにか「第11章 協業」は終わらせて、第12章「第1節 工場手工業の二重の起源」に入りましたが、時間の関係で報告がメインになり、討論は次回に再びやることにしました。
 資本論も、このあたりになると具体的な話が中心ですから、面倒な概念議論は少なくなりましたね。
 恒例の自主懇親会の酒談義は、菅内閣の行方が中心でしたが、みんな総選挙の選対任務が入って来そうです。
 次回もリモートで、開催時間は6時30分からです。終了後、自主参加の懇親会もやります。

 ◎3年前、2018年9月11日に第1回の「資本論を読む会」を始めましたので、次回の9月は3周年になりますが、特に祝宴などは企画しておりません。気軽に参加して下さい。
 ☆「資本論を読む会」の最初からの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」オープン・コーナーにあります。
                  
[763] 2021年09月09日 (木) 10時55分
事務局から
 「資本論を読む会」3周年!
 感想文、祝意など、記念するお言葉をお願いします。。 

◎9月11日は、「資本論を読む会」がスタートして3周年を迎えることになります。
 書き込み文章は、とくに制限はしませんが、気持ちのこもったものを歓迎します。
 
◎最初の頃の書き込みも、一部紹介します。思い出にふけって下さい。
[762] 2021年09月09日 (木) 10時52分
マルクス主義 古典学習必携
     篠藤光行・玉井克輔編著
       
※マニュファクチュアと産業資本の「革命性」
*マニュファクチュア――産業資本の最初の生産形態がマニュファクチュア=工場制手工業である。
・マニュファクチュア資本家たちは、自分の資本を投下して工場を建設し、労働者を雇い入れて商品生産を開始した。
・小商品生産時代とちがって、そこで働く労働者はもはや生産手段の所有者ではなかった。
・商品生産者は生産手段からきりはなされて、ただ労働力を売って生きるだけの賃金労働者への道に投げこまれたのである。
                       1
*産業資本――産業ブルジョアジーがその最大目的である利潤を獲得するためには、大量の労働者を雇い入れ、大量生産とスピードの速い大量販売をおこなう以外にない。
  ・そのためには、まず農民を労働者にする必要があった。
  ・農民は、農奴として土地に縛りつけられ、土地移動の自由がなかった。
  ・産業ブルジョアジーが、その本来の目的を達成するためには、なにがなんでも、それを妨げる封建
権力=絶対主義を打倒することが必要であった。
  ・絶対主義王政を打倒した革命が「ブルジョア革命」である。

※機械制大工業への発達
*分割と協業
・資本主義的生産様式であるマニュファクチュアは、「単純協業」からはじまった。
・同じ仕事場のなかに、数人の職人が雇い入れられた。
・職人たちは、それぞれが原料の加工から完成品にいたる全工程の仕事をした。
・競争意識が生まれ、別べつの仕事場で生産するよりも能率は上がり、生産量は増えた。
・そこで働く職人たちの道具は職人たちの私有物ではなく、マニュファクチュア資本家の所有物であった。
・生産手段はマニュファクチュア資本家の私有であり、職人たちは労働力を売る賃金労働者として雇用された。資本と賃労働の関係が発生している。
・だが、そこで働く職人たちには、原料加工から完成品まで生産されることによって、よりすぐれた商品をつくりあげる労働意欲はのこされていた。労働するよろこびは、まだ完全には奪われていなかった。

*単純協業のなかから、やがて分業がうまれてくる。革靴商品では、皮を切る人、なめす人、縫いあげる人というように、それぞれがもつ特性にそって、分業化された。
・「分業にもとづく協業」――この協業形態の発展は、いちじるしく生産力を高めた。
・だが、その反面、職人たちは部分化されることによって労働するよろこびを奪われた。
・それでもなお、専業化された仕事のなかで専門的技術を開発するという労働意欲をみたす余地はのこされていた。
・その専門的労働が、よりすぐれた技術を開発していった。それが、機械の発明を促進したのである。

*二重の解放
・たいせつなのはここである。資本主義的生産様式の発達が、資本主義を発達させる機械の発明を社会的に促進したということである。
・こうして工場制手工業は機械制大工業へ発達していく。
・機械制大工業の発展は大量の労働者群を必要とする。
・ここで発生したのが、本格的な第2次囲い込み運動にほかならない。第2次のそれは、まさに国家権力によって強行されたのである。
・資本主義の発達=ブルジョア革命によって、労働者は封建的抑圧から解放された。
・だが同時に、土地や住居などの生産手段と生活手段を奪われた。
・マルクスは、生産手段を奪われたことを、生産手段から解放されたと表現した。
・この封建制度からの解放と、生活手段からの解放という「二重の解放」過程をつうじて、労働力を売るいがいに生きることができない労働者階級が誕生したのである。
・この本源的蓄積過程で、労働者は労働諸条件の所有から分離されて、労働者するよろこびは完全に奪われ、資本への徹底した隷従を強制された。
[756] 2021年08月30日 (月) 10時22分
一巻 資本の生産過程、 第四篇 相対的剰余価値の生産、
 第十二章 分業と工場手工業

漱石と『資本論』 小島英俊、山ア耕一郎著  祥伝社新書 より

*工業としての資本主義的生産は、16世紀の「工場制手工業」から始まる。
・当初は、同じ作業場に集められた多くの労働者が同時に作業を行なう「協業」形態で、それまでの個人的手工業者が集まったものと質的には違いはなく、単に人数の違いである。
・その生産性は、(個人の作業×人数)になるが、共同作業にはそれとなく緊張と競争意識が流れ、ある程度の労働強化と生産性の向上が見られた。

・やがて、作業場に「分業」形態が導入される。
・生産工程がいくつかの段階に分断され、集められた労働者は段階ごとに、所定の作業を命令される。
・より単純化された作業の反復となるので、最初から最後まで一人で担当するより作業スピードは上がり、全体での生産性は当然高まる。
・資本家にとっては良いが、労働者には創造性の低下した単純作業になる。
・作業の分業と共に、総合的組み立て産業が発達していなかった当時においては、社会的な分業も進むことになる。

・そして、産業革命と共に登場するのが「機械制大工業」である。
・これは生産性を上げ、労働力の再生産コストを減らし、剰余労働時間を上げるためであるが、労働者にとって好ましからざる三つの影響をもたらした。
@機械の利用によって筋力の要(い)らない労働部門ができ、そこには賃金の安い女性と児童が動員された。相対的に過酷な労働になりやすく、また労働力の供給源を増やすことになり、労働市場において労働者は不利になった。
A機械の粛々(しゅくしゅく)とした稼働は、労働者をして労働時間の延長に対する抵抗感を減少させ、資本家も機械の稼働時間をあげようとした。だから、当初は労働時間の節約を目指していたとしても、機械の導入が逆に労働時間の増加につながってしまった。
Bこの労働時間の延長が難しい場合、それに代わって労働強化が図られたのである。具体的には、機械の作動スピードを上げたり、労働者1人あたりの受け持ち機械台数を増やしたりした。

協業――労働者の競争心理による効率向上
  ↓
分業――労働の細分単純化による効率向上
  ↓
 機械制大工業――@女性・児童の動員、A労働時間の延長、B労働の強化
[754] 2021年08月25日 (水) 09時37分
■剰余価値の率と剰余価値の量についての、三つの法則
*第一の法則
・「労賃が同じで利益を上げるには、労働時間を上げる。」
剰余価値を維持するには、労働者の数が減少すれば労働者の搾取度すなわち労働時間を引き上げるしかないということに落ち着く。
しかし、労働時間の増大にはおのずから限界がある。
*第二の法則
・「24時間以上の労働はありえない。」ということで絶対的な限界を持つ。
*第三の法則
・「剰余価値の量は、剰余価値率と前もって雇われた可変資本(つまり労働者の数)によって決まる。」剰余価値率には限界がある以上、剰余価値を上げるには、労働者を多く雇うしかないということになる。

■量が質に転化する
・剰余価値を上げるために労働者を雇うということは、労働者を供給するための前貸し資本を必要とする。
・こうして増えた労働者を監視するシステムへの移行こそ、資本主義を生み出すという。
・だからこそ中世では、親方の持つ労働者数を制限していた。
※マルクスはここでヘーゲルを引き合いに出し、量が質に転化すると述べる。
◆資本家と労働者との一中間物=一「小親方」
「彼自身も彼の労働者と同じに、直接に生産過程で働くことはできるが、この場合、彼は資本家と労働者との一中間物=一「小親方」であるにすぎない。」
「彼が資本家としての全時間を、すなわち、人格化された資本として機能するあいだの全時間を、他人の労働の占有・監督のために、また、この労働の生産物の販売のために使用しうるということは、資本主義的生産のある程度の高さを条件とする。」
*中世の同職組合制度は、一人の親方が使用しうる労働者数を、きわめて小さい最大限に制限することによって「手工業親方の資本家への転化」を強制的に阻止しようと試みた。
*『生産のために前貸しされる最小額が、中世的最大限をはるかに超えるときに、貨幣所有者または商品所有者は、はじめて現実に資本家に転化する。』
*「単なる量的変化が、ある一定の点で質的差異に転化する」という、ヘーゲルがその『論理学』において発見した法則の正しさが、自然科学におけると同様に、ここでも証明されている。
[723] 2021年05月31日 (月) 10時10分
月刊「社会主義」2021年4月号に、「資本論研究会」参加者の感想が記載あり、その中から抜き書きしてみました。
・(とりわけ難しいとされる二巻と三巻)
・資本主義か社会主義かは、意志と選択の問題ではなく、法則の必然である。
・資本主義的生産過程そのものの機構によって結集され訓練され組織される労働者階級が、資本主義的私有の最期を告げる鐘を鳴らし、次の社会を実現する。
・価値そして剰余価値を作りだすのは、労働者の労働であり、資本家・土地所有者らは労働者の生産したものからピンハネして肥え太ってきている。
・「----一定の成熟段階に到達すれば特定の歴史的形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。
----そのとき、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起こる」(九分冊115p)
資本の動きからは、最近の資本主義の余裕のなさもみえてきます。資本蓄積のための賃金抑制そのものが売上の成長をむつかしくしているのです。成長のむつかしくなった資本は、市場競争で生き残るためにさらに賃金抑制に走ったり、パワー・ハラスメントなどの横暴に向かったりしているのです。
いずれ資本の成長、発展そのものに衰退の要因をとらえる視点を『資本論』の研究にみることができる。
・マルクスが資本論で唯一難解とする『価値形態論』を理解するためにマルクスの弁証法を特に学んだ。
「弁証法的物の見方、考え方」
・「社会主義は貧乏の問題です。」という向坂逸郎のことばを心にとめ、「窮乏化法則」(資本主義的蓄積の一般法則)を軸に『資本論』を読んできた。
 求められるのは、納得できる説明ではなく、窮乏化に抗して社会主義を目指す、その闘いを強化するために、日本資本主義の現状について共通認識を深めることだ。
[710] 2021年04月11日 (日) 13時38分
甲斐正
◎先の資本論を読む会で、かつてのNHK「一週間de資本論」の第1回、第4回(最終回)はユーチューブで見ることができますよと言いましたが、現在、この動画は削除されてしまい、見ることができません。
[684] 2021年01月23日 (土) 10時41分
甲斐正
1.19 資本論を読む会――(特に終了後の交流会)大変おつかれさまでした。

P101「徭役労働、たとえばドナウ諸侯国におけるそれについても、同様である。」について

『資本論 ドナウ諸侯国』で検索すると。
「資本主義・専修大学」が出ます。
これをクリックすると、「専修大学社会科学研究所 社会科学年報 第54号 2020年3月号」
<資本主義、資本主義的生産、資本主義的区別について>新田滋さんの文が出ます。

これのP151、右欄下段には、「賦役労働は、ドナウ諸侯国[におけるワラキア(ルーマニア南部)のボヤール(領主)]においては…………」の表記があり、ドナウ諸侯国とは、ルーマニア南部のことのようです。
[682] 2021年01月20日 (水) 18時50分
甲斐正
「経済学入門」 小島恒久 著
*もうけは生産手段からも生じない。
・生産の出発にあたって、資本家は1000万円の資本を投じる。彼はそれを大きく二つにわけて投じた。
・一つは、建物や機械や原料などを買うものであり、他は労働者をやとうためのもの。

◎建物や機械や原料などの生産手段。
・生産過程のなかで、みずからの価値を製品に移してゆくもの。
・生産手段は、みずからもつ価値をそのまま新製品に移し、価値を増すことはない。
・生産手段のことを、価値のかわらない資本、すなわち「不変資本」という。
・価値が増えないのだから、ここからはもうけのでてこようはずはない。

◎資本家が500万円を投じて労働者から買ったものは労働力である。
・資本家は、労働力の価値以上に労働者を働かさせ、1500万円の新製品を生産する。
・資本家には500万円のもうけが入る。
・この労働力の価値をこえた余り、資本家にただどりされる分は、「剰余価値」という。
・剰余価値は、労働者が労働によってつくりだした価値と労働力の価値との差額である。

◎建物、機械、原料などの生産手段は、その価値を新製品にそのまま移すだけであって、そこからもうけは生じない。
・ところが、労働力に投じられた資本は、これとはちがう。
・労働者は支払われた価値よりはるかに多い価値をつくりだした。
・その差額が剰余価値である。
・労働力に投じられた資本は、価値をかえ、価値をふやす。
・この資本を「可変資本」という。
[660] 2020年11月03日 (火) 22時59分
甲斐正
コロナ自粛で、家の中を整理。物入れの奥にしまわれていた
「資本論解説」 向坂逸郎編著  労働大学発行 
 が、出てきたのであります。

P133、「第五章 絶対的剰余価値の生産」からの一部転記
・前章において、貨幣が資本に転化するその条件が、明らかにされた。
・それが可能になるためには、貨幣の所有者は、労働力という特殊な商品を流通部面の外、つまり生産過程で消費しなければならない。
・いいかえれば、貨幣所有者たる資本家は、労働力の所有者である労働者を生産過程で労働させることを通じて、労働力商品の使用価値を消費し、剰余価値を生産する。
・そこでわれわれは、目を生産過程に移して、資本がいかに労働者を支配しつつ剰余価値を生産するか、このきわめて重要な内容を明らかにして行こう。
[640] 2020年06月16日 (火) 12時04分
甲斐正
「面白いほどよくわかるマルクスの資本論」    土肥誠監修  日本文芸社

第一巻 資本の生産過程、 第三篇 絶対的剰余価値の生産
第五章「労働過程と価値増殖過程」

第一節 「労働過程」
■労働とは、人間が自分の行動で切り開いていく高度な物質代謝である。
*労働によってつくるべきものを目的として設定
*それをつくるための手足や神経の動きが決まる。
*自分の意志を目的のために従属させ、集中する。
■マルクスはこう考える。
*「人間は自然素材そのものに対して、一つの自然力として相対する。
*彼は自然素材を彼自身の生活のために使用しうる形態において獲得するために、彼の体の持っている自然力、すなわち腕や脚、頭や手を動かす。」
■労働過程を構成する3要素
*労働そのもの
*労働対象……天然資源、原料
*労働手段……人間の手足に代わって労働対象に働きかける手段
       機械、道具など
■*労働そのもの=生産労働
*労働対象+労働手段=生産手段
■これらが資本家による労働力の消費過程として行われると、
*労働者自身が行なっていた管理や指揮→資本家の仕事
*労働過程の生産物→資本家の所有物に変わる。

第二節 「価値増殖過程」
■剰余価値が生み出される過程
≪例、綿花から糸をつくり出す糸製造の労働≫
*条件
・資本家から労働者の労働に対して、3シリングの労賃が支払われる。
       (1シリング=2労働時間、3シリング=6労働時間)
・1時間ごとに1と3分の2ポンドの糸を紡ぎ、1と3分の2ポンドの糸をつくる。
*10ポンドの綿花が、10ポンドの糸になる。
◎1日の決算
 @生産手段の消費分
   ・12シリング+労賃3シレング=15シリング
 A生産された綿糸の価格
   ・生産手段の消費分12シリング+付け加えられた価値3シリング=15シリング
※A−@=0、なんの儲け(剰余価値)も出ない。
◎そこで、1日12時間働かせることに、
  @生産手段の消費分
   ・24シリング+労賃3シリング=27シリング
  A綿糸の価格
   ・生産手段の消費分24シリング+付け加えられた価値6シリング=30シリング
※A−@=3シリング
・差し引き3シリングの剰余価値が生み出された!
[638] 2020年06月15日 (月) 12時14分
事務局
「資本論を読む会」(第19回)へのご案内
…『資本論』(第二分冊)に入りました!! 
 次回日程は 日時:2020年4月21日(火)午後6時〜 会場:支局・社青同事務所  
        
 3月24日の「資本論を読む会」は、ついに岩波文庫の第二分冊に入りました。やったところは「第5章 労働過程と価値増殖過程」の「第1節労働過程」でした。今回の参加者は7人。4月から転勤となるU君の送別会をやることと、時節柄「コロナ・ウィルス自粛」もあって、読み合わせ討論は1時間で切り上げました。地下の飲食街は、馴染みの客で一杯になっている店と閑散とした店とに、明暗分かれていましたね。
 「資本論」は第5章に入って「分かりやすくなった」との声。今回のテーマ「剰余価値の生産」は、若い頃学習会でやった「賃金・価格および利潤」が頭にあると「結論は分かる」「問題はマルクスの難解な表現だ!」なんて声もありましたよ。
 初めての方大歓迎です。また、これまでの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」オープン・コーナーにあります。
 レポーターから
☆レポート『資本論』第3篇 絶対的剰余価値の生産
第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程 −岩波文庫(二) P9-22
 ※英語版では Section 1.-The Labour-Process or the Production of Use-Value 「労働過程または(すなわち)使用価値の生産」とある。「向坂訳は何故“使用価値”の言葉を略したのかな」という事が話題になりました。
(労働過程の考察)では
◎労働過程の3要素(※結論)…労働、労働対象、労働手段 −p11
@労働はまず第一に、人間と自然とのあいだの一過程である。すなわち、彼自身の行為によって媒介し、規制し、調整する過程である。−p9-10
・最初は、まずいかなる特定の社会的形態からも、独立に考察されるべきものである。-p9
・彼は彼自身の自然を変化させる。…眠っている潜在能力を発言させ、その諸力の活動を、彼自身の統御に服させる。−p10
 ※ここでは、蜘蛛、蜜蜂のような、労働の最初の動物的に本能的な諸形態は問題としない。…p10
A労働対象 −p11
・天然に存在する労働対象−木、鉱石
・過去の労働によって濾過されている(媒介された変化を受けている)労働対象−原料
B労働手段 −p12-13
・労働者が自己と労働対象とのあいだに置き…彼の目的に応じて…作用させる。直接に支配する対象は…労働手段である。−土地、石器、飼育動物
・フランクリンは人間を、すなわち道具を作る動物と定義している。
・労働によって、すでに媒介された労働手段…労働用建物、運河、道路
◎この全過程を、その結果なる生産物の立場から見れば、労働手段と労働対象との二つは、生産手段として、労働そのものは生産的労働として、現れる。−p15
◎ある使用価値が原料として現れるか、労働手段として現れるか、それとも生産物として現れるかは、全く労働過程におけるその特定の機能に、労働過程において占める位置によるのである。 −p17
◎資本家による労働力の消費過程として行われるような労働過程…二つの特有な現象
@労働者は、彼の労働を所有する資本化の管理の下に労働する。
A生産物は資本家の所有物であって、直接生産者の労働者の所有物ではない。 −p21
◎労働過程の3要素…労働、労働対象、労働手段 −p11
◎労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの一過程である。
 ※この節の要約点は、だいたい以上のようなものでした。 (from anak)
[575] 2020年04月05日 (日) 12時37分
甲斐正
デヴィッド・ハーヴェイ 「『資本論』入門」より

※この章は、これまでの諸章より頭に入りやすく明快である。
・『資本論』は、商品交換が、同等な社会的必要労働時間が交換されていると、想定。
・G―W―Gという流通形態。
  貨幣が交換の目的、目標。
・W―G―Wは等価交換。
 そこでの目的は使用価値を得ること。
・G―W―Gが意味をなすのは、その結果として価値が増加する場合。
  G―W―G+僭(G―W―G´)になる場合のみである。
・この追加分たる僭が剰余価値と定義される。
※G―Wおよびそれに続くW―Gが等価交換を命じている時に、いったいどこから剰余価値はやってくることができるのであろうか。
・「交換法則が理論の言うとおりのものであるとすれば、それ自身が持っているよりも大きな価値を生み出す能力を持った商品がどこかで見出されなければならない。」
・その商品とは労働力である、とマルクスは第四章第三節で言う。
・商品交換から資本流通へと焦点が移行しはじめる。

第四章第一節 資本の一般定式
※「商品流通は資本の出発点である。」
・流通過程における、貨幣の役割。
・貨幣は、商品を流通させるため、価値を測るため、富を貯えるためなどに用いることができる。
・しかし、資本はある特定の仕方で使用される貨幣である。
・価値の表現物たる貨幣が流通の目的と目標となる。
・しかしながら、「もし、回り道をして、同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするならば」「つまらない無内容なもの」であろう。
・等価交換は使用価値に関しては、まったく申し分ない。重要なのは、商品の異なった質なのだから。
・しかし、G―W―Gの流通に乗り出す唯一の論理的理由は、最後には最初よりも大きな価値を得ることである。
「G―W―Gの過程は、その両極がどちらも貨幣なのだから、両極の質的相違にその内容の負うのではなく、両極の量的相違にその内容を負うのである。
・最後には、最初に流通に投げ込まれたよりも、多くの貨幣が流通から引き上げられるのである。
・この過程の完全な形態は、G―W―G´であって、ここでは、G´=G+僭である。
・G´は最初に前貸しされた貨幣額プラスある増加分に等しい。
・この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値と呼ぶ。」
「最初に前貸しされた価値は、流通の中でただ自分を保存だけではなく、その中で自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言いかえれば自分を価値増殖させるのである。
・そして、この運動が、この価値を資本に転化させるのである。」
*ここで、ついに「資本」の定義が出てくる。
・マルクスは言う、資本家は「この運動の自覚せる担い手」であり、「貨幣所持者は資本家になる。彼のポケットは貨幣の出発点であり帰着点である。」
・資本家は、ただ交換価値を得るためだけに、使用価値を生産する。
・資本家の目的は「利得することの、休みなき運動」なのである。
・資本家が最初の時点で有していた100ポンドは、最後には110ポンドになっている。
・G―W―(G+僭)という流通形態は、資本の一般的定式である。

第四章第二節 一般定式の矛盾
・G―W―G+僭という流通形態における「諸矛盾」を検討する。
・この増加分は、すなわち剰余価値はどこからやってくるのか?
・GからWへの移行と、WからGへの移行においては、等価交換法則が存在していなければならない。
・それゆえ剰余価値は、その純粋な形態における交換からは生じえない。
・「平等のあるところに利得はない」

第四章第三節 労働力の売買
・(マルクスは、この)矛盾を解決する。
「ある商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものが持っているような一商品、その現実の消費そのものが労働の対象化であり、価値創造であるような一商品を、市場で見つけ出さなければならない。」
「それは、労働能力または労働力」
*労働力は、商品の中に価値を凝固させる身体的・精神的な人間の諸能力からなる。
◆商品であるための特徴を持つ。
*その第一
・「労働力の所持者が、労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼自身の労働能力の一身の自由な所持者でなければならない。」
・――自由な労働者==奴隷や農奴ではなく==という考えが、きわめて重要となる。――
・労働者は、自分の一身を手放すことはできない。
・できることは、価値を創造するという身体的・精神的・人間的な諸能力を時間決めで売買することだけである。
・「ただ、労働力を手放しても」――労働者を誰かに渡しても――「それに対する自己の所有権は放棄しない。」
・それゆえに、資本家は労働者そのものを所持することはできない。
・資本家が所持しているのは、一定期間、労働して価値を生産する能力だけである。
*その第二
「貨幣所持者が、労働力を市場で商品として見出すための第二の本質的条件は、労働力所持者が自分の労働が対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている身体のうちにのみ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出すことを余儀なくされているということである。」
――――・労働者は自分自身のために働くということができないということである。
「貨幣が、資本に転化するためには、貨幣所有者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。
・自由というのは二重の意味で、自由な個人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力の他には商品として売るものを何も持っておらず、自分の労働力を実現するのに必要ないっさいのものから解き放たれており、すべての対象物から自由であるという意味で、自由なのである。」
※労働力は独特の商品であり、他の商品とは違った特殊な商品である。
・それは価値を創造する能力を持つ唯一の商品である。
※それでは、商品としての労働力の価値を規定するものは何であろうか?
「労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じく、この独自の商品の生産に、したがってまた、再生産に必要な労働時間によって規定されている。
・それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。
・自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。
・だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。
・言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。」
※労働力の価値は、それゆえ労働者を一定の生活条件において再生産するのに必要な全商品の価値によって規定される。
・パンの価値、シャツと靴の価値、労働者の生命を維持し再生産するのに必要な他のすべてのものを合計すると、その合計が、労働力の価値を規定するのである。

「商品としての労働力には、注意するに値する特殊性が他にもう一つある。
・資本家は市場に出向いてすべての商品(原材料や機械など)を購入するさい、それを実際に使用する前に、それへの支払いをする必要がある。
・しかし、労働力に関しては、資本家は労働者を雇い、彼らが仕事をした後になってはじめて、その提供者に支払いをする。
・要するに、労働者は、その日の終わりに支払われることを期待して、労働力商品を資本家に前貸しするのである。
・しかし、つねに支払われるとはかぎらない。
・破産を宣告した企業は賃金の支払いを取り消すことができる。」
※労働力の価値は不変ではない。
・それが変動するのは、生活必需品の費用が変化するからだけではなく、労働者を再生産するのに必要な商品群が、広範な諸力によって影響を受けるからでもある。
・労働力の価値は明らかに、それを維持するのに必要な諸商品の価値の変化によって影響をされやすい。
・マルクスは、このような論点に言及した後、それらを先送りにして、こう結論する。
「とはいえ、一定の国にとっては、また一定の時代には、必要生活手段の平均的範囲は与えられている。」
※W―G―W循環を通じた労働力の流通という考え方、およびそれとG―W―G+僭循環で機能する資本家との違い。
「この価値と引き換えに貨幣所有者が受け取る使用価値は、現実の使用において、すなわち労働力の消費過程において、はじめて現われる。
・労働力の消費過程は、同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。
・労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じく、市場すなわち流通部面の外部で行なわれる。」
※マルクスは、ブルジョア的な合法性と法律を告発して結びとする。
・流通と交換の部面から立ち去るということは、「天賦の人権の本当の楽園」として合法的に作られた部面から立ち去るということである。
・市場を「支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。」
[555] 2020年03月17日 (火) 00時18分
甲斐正
超訳『資本論』   的場昭弘著より

第4章貨幣の資本への転化

第1節 資本の一般定式
◆なぜ資本が生まれるか?
*いよいよ、資本主義の本丸たる資本の問題へ。
・資本の価値増殖過程にすべての謎が隠されている。
『「一般に使われている貨幣」と「資本として使われている貨幣」の違いは、その流通の仕方にある。』
・資本としての貨幣も、貨幣としての貨幣も、基本は同じ。違いは、その流通する形態だ。
・「商品(W)―貨幣(G)―商品(W)」という形態。
・「G―W―G」という形態――商品を売って、それを買ってまた売って、結局同じだけの額のお金を得るなんてことは、現実社会ではありえない。
・W―G―Wの場合、両極の使用価値は違う。
・G―W―Gの場合、量が同じである以上、意味はない。
・G―W―Gの目的は量の違いである。
◆貨幣は貨幣を増やす。
・G―W―Gは実は、G―W―G´である。
・「G´」とはGと比べて「僭」が増えた。
・マルクスはこの僭を「剰余価値」と名付ける。
・剰余価値とは、最初に投下された以上の値のことだ。
『最初に貸し付けられた価値は、流通する中でその価値を維持するだけでなく、その価値を大きくし、剰余価値を付け加える。
・価値増殖するのである。
・そしてこの運動が、この価値を資本に転化するのである。』
・貨幣から始まる循環である資本は、つねに価値増殖を目的とする。
『資本としての貨幣の流通は事故目的である。
・その理由は、価値の増殖はただ絶えず更新される運動の中にのみ存在するからである。
・だから、資本の運動は無制限である。』
◆貨幣の価値増殖を求める資本家
・G―W―G´の中に、資本としての貨幣のもつ無限の価値増殖の力を見てとる。
・その運動を展開する資本家は、この増殖運動を促進する人格化された資本として機能する。
・この止まることのないあくなき利殖欲を、貨幣退蔵者と比べる。
・貨幣をただ死蔵する蓄蔵者が気の狂った資本家であるとすれば、この資本家は合理的な貨幣蓄蔵者である。
・前者は貨幣をつねに流通から出そうとするのに、後者はたえず貨幣を流通に投げ出そうとする。

第2節 一般定式の矛盾
◆等価交換の原則を守らない貨幣の謎
・すべて量的に同じ等価交換が行なわれることを前提にしていた商品生産社会の原理からすると、
・この一般定式の問題は、まことに奇妙なこと。
※コンディヤックが典型として引用される。
・いつも安く買って高く売る。
・しかし、そうだとすれば、買い手はいつもだまされる。
・その買い手は、いつか売り手になる。
・どこかでせしめたものが、どこかでせしめられる。
・結果は落ちつく。スミスのいう自然価格。
※だが、G―W―GはG―W―G´となっている。
・G―G´、高利貸資本、お金を貸しつけて利子を受け取る。
・G―W―G´、遠隔地で珍しいものを買ってきて高く売りつける商業資本。
・いずれも、不等価交換が特殊な場合に起こることを意味している。
・マルクスは特別な例を排除する。
◆謎はどこから生まれるか?
・高利貸資本や商業資本の時代にそういうこともあったが、
・それは、商品生産社会の問題ではない。
・しかも、それによって蓄積した資本が商品生産をしているのだから。
・「本源的蓄積」という重要な問題。
・この資本主義のゲームは、公正なルール(等価交換)でなされながら、実は最初はそうでなかったという、理論的には解けないことを問題にしなければならない。
※『貨幣が資本へ転化するのはなぜかということは、商品交換に内在する法則のうえで議論すべきである。
・だから、等価物の交換こそ出発点である。
・まだ資本家として蛹(さなぎ)にすぎないわが貨幣所有者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売らねばならない。
・それにもかかわらず、この過程の最後では、資本家は投入したよりも多くの価値を引き出さねばならない。
・彼が蝶に変わることは、流通部面で起こらねばならず、また、流通部面で起こってはいけないのである。
・これが問題の条件だ。
・さあ、ここがロードスだと思えば、飛べるはずだ。』

第3節 労働力の売買
◆労働力という商品の謎
・貨幣から起こるのでもなく、流通から起こるのでもないとすれば、残された場所はひとつしかない。
・最初のG―Wの中で何かが起こるしかない。
・この商品の売買とは、具体的にどういう商品を買うことか。
・それは労働力商品の購入ということだ。
・労働力とは労働する能力のことで、生きている人間の中から生み出される、ものをつくる肉体的・精神的な能力ということだ。
・労働力商品は、生きている生身の人間であるかぎり、買い置きができない。
・ある一定時間働くということ。労働者は奴隷ではない。
・彼が売れるのは、ものをつくったり、考えたりする能力であり、人間そのものではない。
◆労働力商品はどこから生まれたか?
『資本が存在する歴史的条件は、商品流通や貨幣流通があればいつもあるというものではない。
・資本は、生産手段そして生活手段の所有者が自由な労働者を労働力の売り手として市場に見いだせるところでしか成立しない。
・そして、このひとつの歴史的条件の中で生まれる。
・だから資本は、最初から社会的生産過程のある時代の始まりを告げるのである。』
※商品の生産の中に資本主義的生産が生まれるのは、労働力商品が市場に発生することによってである。
・つまり、資本は労働力商品を抜きに存在しない。
◆労働力の交換価値と使用価値の違い
・労働力商品は、どういった価値を持つか。
・その商品の所有者である人間が生きていくに足る「再生産の費用」によって決定される。
・その再生産に必要な値段。
・労働時間こそが、彼の交換価値ということになる。
・その価値は、時と場所によっても異なる。
・その労働者の質によっても異なる。
・ある国の文化段階に依存する。
・この商品の使用価値は何であるか。
・再生産の費用がその交換価値であるが、使用価値は資本家のもとで働いて何かをつくっているという労働である。
・資本家という、商品の買い手の欲望を充足する使用価値だ。
・この使用価値は、具体的には労働者が働いている総労働時間ということになる。
・その時間すべての価値に資本家が代価を払えば、使用価値と交換価値は一致することになるが、それでは資本家が労働者を雇う意味はない。
・当然、交換価値として、つまり労賃として支払う額はそれより少ない。
・たいていの場合は、先に払って働かせることはしない。後払いだ。
・先に払ったら、この商品は逃げてしまう。
◆人間世界の富は、人間から生まれる。
・流通の不自然な等価交換の問題が解決される。
・労働力の使用価値と交換価値の相違から生まれるのだ。
・人間世界の富は、人間から生まれる。人間を搾取することで。
・等価交換のように見えるのは、質と量を交換しているからだ。
・質と量は比較のしようがない。
・使用価値と交換価値の差額など、議論の意味などない。
・労働力商品の使用価値は労働時間という量に還元できる。
・価値も時間に還元すると、そこに明確に差ができる。
※しかし、差があることを認めたがらない資本家は言う。
・労働に応じて支払いしている。あとは機械がつくったのだ。
・資本家自らの発想によるものだと、いろいろこじつける。
・(マルクスは、のちにこの問題を解くことになる。)
・マルクスは、こうした屁理屈が通る社会を「ベンサムの天国」と述べる。
[552] 2020年03月09日 (月) 20時43分
事務局
ついに『資本論』(第一分冊)読了!!
次回「資本論を読む会」(第18回)は
 日時:2020年3月24日(火)午後6時〜
会場:支局・社青同事務所

 2月18日に開いた「読む会」には、今回も8人が参加。「第4章第3節 労働力の買いと売り」をやりました(岩波文庫(一)p290-終わりまで)。
 内容はともかく、ひたすら読み合わせしながら議論して、とうとう「資本論」第一分冊を読了させました。2018年9月11日に第1回を始めてから1年と5カ月です。感慨深いものがあります。
 「労働力という商品の謎」「労働力の再生産費」云々、何か聞き覚えがありますね。この「労働力という商品が剰余価値を生む」という、みなさん知っている筋書きは、次回の第二分冊「第3篇 絶対的剰余価値の生産」から書かれています。
 初めての方大歓迎。また、これまでの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」オープン・コーナーにあります。

 レポーターから ─────────────────────────────
第四章「貨幣の資本への転化」 第三節「労働力の買いと売り」
〇資本の価値増殖を、「G-W-G'」の各要素で見てみれば、@「G・G’」は同一の価値しか示さず、A「G−W」と「W−G'」の流通行為も等価交換である。だから、変化は買われる商品「W」の「使用価値」・「商品の消費」から起こる(W・・・W’)。商品の使用価値が「価値源泉・労働の対象化」である特殊な商品が市場に現れ、「労働能力」・「労働力」がこれである。
〇労働力が市場に出現する条件は、@労働者が「労働力の自由な所有者」として、本人の意思で労働力を「商品」として、「一定時間」だけ売る。しかし、労働力の所有は放棄しない。A「生産手段」と「生活手段」を持たないためである。貨幣所有者はそれを買い、「貨幣を資本に転化」する。
〇その結果、労働者は「二重の意味で自由」である。「自由な人格」として労働力を売り、他方で、「労働力の現実化」に必要な「生産手段と成生活手段」から放免され「自由」である。
〇「自由な労働者」が現れるのは、商品・貨幣・貨幣機能等と同様に、「先行する歴史の結果」である。それら諸範疇は、資本制に先行する商品流通内に存在できたが、「資本」は商品・貨幣流通だけが必要なのではなく、「労働力」を市場で見いだすところに成立する。この一つの歴史的条件は、世界史を包括する。したがって、資本は初めから、社会的生産過程のある時代を告知する。
〇「労働力の価値」は、他の商品同様、その「再生産に必要な労働時間」に規定され、「彼の生活手段の生産に必要な労働時間」に等しく、元の状態に「再生産」されることが必要である。
〇「労働力の価値」に含まれるのは、@衣食住等の自然的欲望の充足。それは、?地域・自然条件で異なり、?欲望の範囲は一国の歴史的・文化段階により、特に労働者階級の習慣や生活要求の内容で変わる。A「労働者」の生殖条件、労働者の子供たちの生活手段。B専門技能や熟練を育てる教養・教育の習得費。C様々な期間ごとに必要な生活手段の総計を均等化した量。
〇労働力「価格」の最低限は、「肉体的に欠かせない生活手段量」の価値であるが、それは価値以下になったのであり、労働力を委縮した形で育成することになる。「正常な品質」が商品価値の前提であるから、労働力も正常な品質を維持するための必要労働時間に規定される。
〇特殊な商品である労働力は、売買成立時点では、使用価値がまだ買手の手に移行していない、つまり譲渡契約とその現実の支出は、時間上は分離している。そのため、「労賃」は、「支払手段」として機能し、後払いとされる。労働者は資本に「信用貸し」「前貸し」しているのが現実である。
〇労働力の「価値規定」は理解した。他方で貨幣所有者が受け取る「使用価値」・労働力の消費過程は同時に、商品と剰余価値の生産過程であり、全ての「商品消費」と同様に市場・流通の外で行われる。その、隠れた「生産の場所」で、資本の生産方法・貨殖の秘密が明らかとなる。
〇流通・商品交換の部面は、「人権の真の花園」であった。@自由:買手・売手は自由意思で法的に対等な人として契約する、A平等:ただ商品所有者として関係し等価交換する、B財産:各人が自分のものを処理するだけ、Cベンサム:彼らが関係を持つ唯一の力は、利己・特殊利益・私的利益の力のみ。さらに、各人が自分のことのみにかかわり、他人のことにはかかわらない。
〇以上のように、「単純な商品流通」の部面から、俗学的自由貿易論者は、様々な見解を得てくるが、そこを離れた「生産部面」では、「人権の真の花園」とは全く異なることが行われている。  (from Tak)
[548] 2020年02月29日 (土) 09時55分
甲斐正
「面白いほどよくわかるマルクスの資本論」    土肥誠監修  日本文芸社

第一巻 資本の生産過程、 第二篇 貨幣の資本への転化、 第四章貨幣の資本への転化
第一節 資本の一般定式
◎いかに貨幣を増やすかが資本の動機と目的
・この章から、いよいよ資本が登場。
・「商品(W)―貨幣(G)―商品(W)」という定式を取り上げる。
・生産者が自分の商品を売って貨幣に替えるのは、自分の欲しい商品を買うためだが、
・資本の場合は、貨幣を持って商品を買い、それを売って貨幣を手に入れるという、G―W―Gという定式になる。
・売るために商品を買うという貨幣の自己運動で、商品の流通とは大きく違う。
・出発点と到達点が同じG=貨幣であるが、その量が違う。
・最初のGに儲け分の僭が付加される。
・この条件が満たされたとき、この運動は資本の運動となる。
・マルクスは、この僭を「剰余価値(メーアヴェルト)」と名づけた。
・資本の運動はG―W―G´という定式で表わされる。
・G´=G+僭
・資本の運動を支配する推進的動機と規定的目的は、交換価値の増殖である。
・「資本は、貨幣をいかに増やすかが動機であり、目的である。」
『この運動の担い手として、貨幣所有者は資本家になる。』―――資本家の登場

≪・第3章で、貨幣退蔵者が出てきたが、自分の財産である貨幣を増やすということでは共通だが、
 ・貨幣退蔵者は、流通の過程から貨幣を取り出して貯めこむのに対し、
 ・資本家は、繰り返し流通にゆだねることで、僭を得て、剰余価値を増やしていく。≫

■第四章貨幣の資本への転化  第一節 資本の一般定式
◆商品流通と資本
◎商品流通の場合
 ・生産者が自分の商品を売って貨幣に替え、自分の欲しい商品を買う。
    商品(W)―貨幣(G)―商品(W)
◎資本の場合
 ・貨幣を持って商品を買い、それを売って貨幣を手に入れる。
    貨幣(G)―商品(W)―貨幣(G)
◆資本の運動
◎出発点と到達点のGの量が違う。
・最初のGに儲け分の僭が付加される。
 ・僭を「剰余価値(メーアヴェルト)」という。
     G―W―G´  (G´=G+僭)
◆貨幣退蔵者と資本家
◎貨幣退蔵者〜〜流通の過程から貨幣を取り出して貯めこむで、自分の財産を増やす。
◎資本家〜〜商品を繰り返し流通にゆだねることで、剰余価値(僭)を得て、財産を増やす。
      「合理的な貨幣蓄蔵者」

第四章 貨幣の資本への転化  第二節 「一般定式の矛盾」
◆剰余価値が生まれる謎
・資本の運動の一般定式「G―W―G」は、G―Wという購買、W―Gという販売から成り、市場経済の方式で価値が等しいものが交換されるなら、僭は生まれない。
・そこで、マルクスは、売り手が自分の商品をその価値以上に売った場合と、買い手が価値以下に買う場合を想定する。しかし、その売り手も買い手になり、買い手も売り手になるので、剰余価値は生み出せない。
・そこでさらに、売らないで買うだけの階級を想定するが、これも貨幣が流れ込む前提がないと成り立たず、その結果、どんな条件でも剰余価値を流通から説明することは不可能だとする。

・ここで、貨幣の資本への転化(=剰余価値の形成)は等価物同士が交換されるという法則にもとづいて展開されなければならない(という結果が生じたとマルクスは言う)。また、資本家はその法則を守りながら、過程の終わりには、投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならないという、二重の結果が生じたとマルクスは言う。
・この2つの結果を満たす回答を見つけ出すことが、経済学によって、資本の運動の秘密、剰余価値の謎を解明することになるのである。
・ここでマルクスは、「ここがロドス島だ、さあ跳べ!」というイソップ物語からの言葉を引用して締めくくる。
≪ロドス島で行なわれたオリンピックの5種競技で大記録を出したというホラ吹きに向かって、ある男が、ここでも出せるはずだから跳んでみたまえとして言った言葉≫
⇒マルクスが、経済学者として、問題を解決するという、自分への、挑戦の言葉なのである。

◆剰余価値の形成に関する、相反する2つの結果
・等価物同士が交換されるという法則にもとづいて展開されなければならない。
・資本家はその法則を守りながら、過程の終わりには、投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。
・この2つの結果を満たす回答を見つけ出すことが、経済学によって、資本の運動の秘密、剰余価値の謎を解明することに!―→正面から、この問題に挑戦する。

第四章 貨幣の資本への転化  第三節 「労働力の改良闘争と売り」@
◆剰余価値を生む「労働力」という商品
・G―W―Gの中で剰余価値は生まれるが、貨幣や流通から起こるのではないとすると、残るのは、第1の行為G―Wで買われる商品(W)のうちに起こると、マルクスは考え、そのような商品として「労働力」突き当たる。
・「労働力」商品は、資本主義を分析するうえでの根本的なものである。
・マルクスは、労働力を「一人の人間の肉体、すなわち人間の生きる人格の中にあって、何らかの種類の使用価値を生産する場合に、人間が活動させる、肉体的、精神的能力の総体」と定義している。
・人間は、自分が有する労働力を商品として市場に出すことができる。
・この商品なしには、貨幣が資本に転化しない。
・決定的な商品を、マルクスは見出した。

・労働力が商品になるには、2つの条件が必要となる。
・1つは、自分の労働力を売るためには、その労働力を自分のものとして自由にできる権利を持った人間だということ。(奴隷だと全部が所有者のものなので、自分の労働を1日いくらなどと売る権利もない。)
・2つめは、労働以外に必要な生産手段を持っていない人間、つまり、労働力を売る以外の方法がない人である。(生産手段を持っていたら、その生産物を市場で売ればいいのであるから。)
・資本主義では、労働者は自分の労働力を商品として売り、賃金を得て、生活に必要なものを買う。
・これを 「労働の商品化」という。
・「労働の商品化」は資本主義の成立にとって不可欠な要素なのである。

第四章 貨幣の資本への転化  第三節 「労働力の改良闘争と売り」@
◆剰余価値は労働力という商品によって生み出される。
◎労働力が商品になる条件
・自分の労働力を売るためには、その労働力を自分のものとして自由にできる権利を持った人間だということ。
・労働以外に必要な生産手段を持っていない人間、つまり、労働力を売る以外の方法がない人間だということ。
※マルクスはこう考える。
「労働力はあとになってはじめて支払われるにしても、売られてはいる。だが、この関係を純粋に理解するには、さしあたり、労働力の所有者は、その販売とともに、いつもただちに、契約上定められた価格を受け取ると前提するのが便利である。」

第四章 貨幣の資本への転化  第三節 「労働力の改良闘争と売り」A
◆「剰余価値」は資本家の労働者からの搾取
・労働力の価値は何によって決まるのか。
・商品の価値は、その商品の生産または再生産に必要な労働の量によって決まるが、労働力では、商品の所有者が生きていくに足りる「生きた個人の生存」を維持するために必要な生活の手段の価値である。
・労働力の価値は歴史と文化の段階で異なる。
・その国の気候によって、食物、衣服、暖房、住居なども違うし、習慣や生活要求も違う。
・しかし、ある国のある時代においては、平均範囲は与えられている。
・労働力の価値には、その子どもたちの生活手段も含まれる。
・複雑な労働の養成費も労働の価値に含まれる。
   ・特定の労働には養成や教育が必要となるが、それにかかる費用も労働の価値に入る。
   ・複雑労働は、この養成費のために、単純労働より、価値が大きくなる。
・では、この労働力の売買の際、どのような支払い方法がとられるのか?
・通常は、1か月働いた分の賃金を月末に支払うというように、労働者は労働量の使用価値を前貸しして、資本家がその価格である賃金を後払いする。
・労働者が資本家に信用貸ししているので、資本家が破産したら、その賃金は貸し倒れになる。
・(この節では)剰余労働は労働力の使用価値と交換価値の相違から生まれることを明らかにして、謎を解いた。
・つまり、資本家が労働者から搾取することによって、このような社会ができたのだ。
※これをマルクスは、「ベンサムの天国」と呼んだのだ。
■ベンサムの天国
・ベンサムとは、功利主義を説いたイギリスの哲学者で、個人利益追求を社会生活の最高の原理とした。
・労働力を売買する際、表面的には、労働者も資本家も対等であり、平等な世界のようにみえるが、実際には、資本主義的搾取と抑圧の現実があることを「ベンサムの天国」と痛烈に批判した。

第四章 貨幣の資本への転化  第三節 「労働力の改良闘争と売り」A
◆剰余価値の謎の解明
 『剰余価値は労働力の使用価値と交換価値の相違から生まれる』
◎労働力の価値
・商品の価値
  =その商品の生産または再生産に必要な労働の量
・労働力の価値
  =商品(労働力)の所有者が生きていくに足りる「生きた個人の生存」を維持するために必要な生活の手段の価値。また、その子どもたちの生活手段、複雑な労働の養成費も含まれる。
◎労働力売買の支払い方法
・労働者は労働量の使用価値を前貸しして、資本家がその価格である賃金を後払いする。
・労働者が資本家に信用貸ししているので、資本家が破産したらその賃金は貸し倒れとなる。
[544] 2020年02月25日 (火) 19時21分
事務局
次「資本論を読む会」(第17回)
 日時:2020年2月18日(火)午後6時〜
会場:支局・社青同事務所

 1月14日に開いた「読む会」には8人が参加。「第4章第2節 一般定式の矛盾」をやりました(岩波文庫p271-290)。いつも通り、みんなで読み合わせてからTakさんからレポート。すでに「賃金、価格および利潤」で学習して「労働力商品が剰余価値を生む」ことを知っていますから、「なぜ利潤が生まれるのか」を解き明かすマルクスの書き方は、七面倒くさく感じる人や、どういう説き方をするのかと「ゾクゾクとする」人まで、様々です。マルクス独特の表現を楽しんで下さい。
 終了後、新年会を兼ねた飲み会でも議論は続きました。次回はいよいよ第一分冊の最後「第3節労働力の買いと売り」です。初めての方大歓迎。


また、これまでの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」オープン・コーナーにあります。

 レポーターから ─────────────────────────────
第四章「貨幣の資本への転化」 第2節「一般定式の矛盾」
〇「一般定式・G-W-G'」では、売りと買いの順序の逆転、という「形式的差異」により、単純商品流通の全法則に矛盾することになるが、それはいかに行われるか?また、順序の顛倒があるとはいえ、売りと買いの「等価交換」の商品流通は、本当に「価値増殖を許すのか?」も考察する。
〇Aの生産物・葡萄酒がBの生産物・穀物と交換される。「使用価値」でみれば、@お互いに、「自分には無用の使用価値で必要な使用価値を得た」という効用、また、A得た使用価値の量は、「自分でその商品を同一労働時間で生産する」より多くの量を受け取れるという効用もある。結果、交換により、使用価値の点では、「交換は双方が利得する」。
〇しかし、価値・すなわち「対象化された社会的労働」は、同一所有者の下で商品→貨幣→商品の態容に変化するだけであり、交換価値は両者が利得することはできない。商品交換は、純粋な態容では等価交換であって、価値を増やすための手段ではない。
〇「商品流通を剰余価値の源泉」として説明しようとする試みには、@使用価値と交換価値の混同という誤りと、A全生産物を商品として生産する発達した資本主義的商品生産社会を、「みずから生産し自分の欲望以上の剰余・不用部分だけを流通に投ずる」旧社会(旧共同体・封建制等)にすり替える誤りがあり、現代の近代経済学者によって繰り返されている。
〇仮に商品を「価値以上で売れる」、または「価値以下で買える」との仮定、また「消費者は生産者により多く支払う・商品所有者は高く売る特権がある」という仮定しても、「売りで儲けて買いで損する」、「売りで損して買いで儲ける」、「生産者として儲けて消費者として損する」等、相殺されるだけであり、総価値は変わらず、剰余価値形成は説明できない。
〇「『詐取』では価値増殖しない」という同じ理由で、近代的な資本主義的資本の分析には、「詐取」に基づく、前時代の商業資本や高利貸資本を考察対象としない。
〇そうは言っても、実際には、資本主義経済下での「本来の商業資本」は、「より高く売るために買う」ことを、最も純粋に行う。さらにG−G’形態・媒介のない利殖である、資本主義経済下での「高利貸資本」ではさらに矛盾は明瞭で、「貨幣がより多い貨幣と交換される」という、貨幣の性質に矛盾し商品交換の立場では説明できない。
〇それらの価値増殖を正しく理解するためには、今の商品流通の前提の先にある、「永い系列の中間項」が必要である。(今はまだ、早すぎる:この前提から理解しようとすると、誤る。)
〇剰余価値は流通から発生しえない。「流通の背後」で行われるのだろうから、「流通の外」に出て、商品所有者とその商品との関連を見てみる。商品生産者は「自己の労働で商品価値を高める」ことはできるが、それは決して「自己増殖する価値」=「素材価値が自己増殖して剰余価値を生む」わけではない(「彼の追加労働」が等価として表示されるだけ)。したがって、流通の外部で自分と商品との関係の中で、価値増殖・資本への転化をすることも不可能である。
〇こうして二重の結果が生じる。@?「貨幣の資本への転化」は、商品交換法則の下での「等価交換が出発点」である。資本家は、商品をその価値で買い、その価値で売る。?だが流通過程の終わりには、投入したより多くの価値を引き出す。A彼の、資本家への発展は、?流通部面で行われなければならず、?また流通部面で行われるべきものでもない。これが問題の条件である。  (from Tak)
[531] 2020年01月26日 (日) 09時34分
甲斐正
・『賃金・価格および利潤』は第1インター中央委員会で行った講演である。
・この講演は、『資本論』公刊の2年前に行われた。
・『資本論』への最善の入門書である。
・マルクスの方法の理解のために必読の書。
・本書の第六節以下が『資本論』の要約であると同時に、第一〜六節は『資本論』への前置きであるといえよう。

・私は『資本論』の入門書として、これより秀れたものを知らない。
・『資本論』は、第一章「商品」からはじまり、そこではいわゆる価値論が展開されている。
・そして多くの読者は、そのむつかしさにたじろいで投出してしまうのである。
・ところがこの書ではどうか。
・第六節「価値と労働」ではじめて『資本論』第一章の価値理論が取り扱われている。
・それ以前の諸節では、価値論を把握して、わがものとするための多くの事が論ぜられている。

『賃金・価格および利潤』  カール・マルクス著
  長谷部文雄訳 「訳者例言」より 
[524] 2020年01月05日 (日) 11時07分
甲斐正
「希望の資本論」 池上彰・佐藤優
【池上】
・『資本論』は、やはり、とっつきにくくて難しかった。
・まず、『賃金・価格・利潤』を読み、そのあと、『経済学批判』を読んだ上だと、なんとなく、ようやくわかるんですよ。
・いきなり『資本論』はつらい。

【佐藤】
・『賃金・価格・利潤』は、マルクスが労働者相手に、『資本論』の論理ができあがっているところで講演しているので、わかりやすい。
・『賃労働と資本』は、マルクスの考えが、まだ、あまり固まっていなかった時に書かれたが、エンゲルスが加筆しているので、論理の崩れはそんなにない。
・『経済学批判』も途中まで書いて、この続編を書くつもりで準備しているうちに、体系編成から作り直す必要を感じて、書き直したものが『資本論』です。

【池上】
※日本資本主義論争
・現状をどう分析するのか。
・資本主義の日本が政治的に自立しているのか、していないのか。
・経済的に自立しているのか、していないのか。
・少なくとも『資本論』にある資本主義が貫徹しているから、資本の論理によって日本経済が動いているという意味で、それは労農派であろうと考えた。
・『資本論』によれば、最後に資本主義が崩壊して革命になる。
・労農派の中でも向坂逸郎のような人は、資本主義の発展が最終的に社会主義革命になっていくのだ、そこまで含めて法則性があって、科学的にそれを証明したのが『資本論』だという。
・宇野弘蔵は、純粋理論として、資本主義がまるで永遠に続くかのようなことを前提に分析すると、論理的な資本主義論ができる。=原理論=
・私は宇野弘蔵に惹かれていった。
[523] 2020年01月05日 (日) 11時05分
事務局
新年「資本論を読む会」(第16回)
 日時:2020年1月14日(火)午後6時〜
 会場:支局・社青同事務所
 
 12月10日に開いた「読む会」は、ついに「第2篇第4章 貨幣の資本への転化」に入りました。今回は「第1節 資本の一般定式」(p255-271)。レポーターはTakちゃん。参加者は7人で、いつも通りに読み合わせしてから討論しました。終了後、忘年会を兼ねた飲み会でも議論は続きました。次回は「第2節 一般定式の矛盾」です。
 初めての方大歓迎。『資本論第一分冊』(国民文庫)は、社青同にも在庫があります。
また、これまでの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。
 
 レポーターから
第四章「貨幣の資本への転化」 第1節「資本の一般定式」
〇「商品生産」と「発達した商品流通である商業」は、資本成立の歴史的前提である。商品流通が最後に産む「貨幣」が「資本の最初の現象形態」である。
〇「貨幣としての貨幣」(単純な商品流通)と「資本としての貨幣」(資本の流通)は、まず流通形態で区別され、前者は、W−G−W:買うための売りであり、資本はG−W−G:売るための買い、である。この「形態・現象」を分析することで、その背後にある「内容・本質」が明らかになる。
〇共通点は、「売り」と「買い」に分かれ、「商品」と「貨幣」が相対していること。また、「三人の契約者」(売るだけの者・買うだけの者・売りも買いもする者)で成立していること、である。
〇異なる点は、「売り」と「買い」の順序が逆、「資本としての貨幣」は、「買い」で始まり「売り」で終わること。始点と終点は「貨幣」であり、それを「商品」が媒介していること、である。
〇「単純な商品流通」では、商品は流通から出て消費され、「消費・欲望充足・使用価値が最終目的」であるが、「資本流通」の推進的動機と規定的目的は、「交換価値」そのものである。
〇「単純な商品流通」の両極は商品という「同一の経済形態」であり、同一価値量であるが、「違った使用価値の交換」が運動の内容となっている。しかし、「資本の流通」の両極は、貨幣という「同質のもの」なので、交換の結果「同じ量」なら意味がない。この過程は、G−W−G’、G'=G+凾fでなければ意味がなく、この増加分凾fを、「剰余価値」と名付ける。前貸し価値は自己保存しながら剰余価値を付加、つまり価値増殖するのであり、この運動が、価値を資本に転化する。
〇「単純な商品流通」は、その過程の外の「消費・欲望充足が目的」だから、過程が終わると流通は閉じ完了する。これに反し、G−WーG’は最初と最終が同質の貨幣・交換価値であるということから、すでに運動は無限である。この貨幣を、消費支出や退蔵貨幣として流通から引き上げることは可能だが、それは資本であることをやめることになるから、貨幣循環の終結はおのずから新しい循環の発端となる。資本の「価値増殖」目的のためには、常に新たな「G-W-G'過程内で運動することが必要」という意味で、「資本としての貨幣の流通」それ自体が自己目的である。したがって、資本の運動は無制限である。
〇この運動の意識的な担い手である貨幣所有者が資本家となる。彼は、人身化し意思と意識を持った資本として機能し、その直接的目的は、「休みなき利得の運動」である。
〇「資本としての貨幣」流通では、貨幣と商品は「媒介物」でしかなく、「価値」が常にこの流通の中に存在する「自動的な主体」に転化している。貨幣形態が一般的存在様式であるとはいえ、その形態が資本なのではなく、資本の実体は価値である。価値は、自分が価値であるから価値を付け加えるという、神秘的な性質を得る。金の卵を産む。(「資本の物神性」)
〇「G-W-G'」過程は、「商人資本」特有のことのように見えるが、「産業資本」もこの過程をとり、最初は貨幣であり、商品を買い、販売してより多くの貨幣に再転化する。売りと買いの間に生産を挟んでも、流通過程は少しも変わらない。最後に「貨幣資本・利子付資本」は、商品媒介のない簡素化された「G-G'」で表示される。こうして、「事実上」、「G-W-G'」は、直接に流通部面に現れる「資本の一般定式」である。
(from Tak)
[517] 2019年12月23日 (月) 10時34分
事務局
次回は、いよいよ第2篇「貨幣の資本への転化」に入りますよ!

第15回の「資本論を読む会」は
日時:2019年12月10日(火)午後6時〜
会場:支局・社青同事務所

 11月5日(火)の「読む会」はこの1年間のおさらいを兼ねて、第1篇「商品と貨幣」(序文を含めて254ページ分)を通読する形としました。参加者は7名。レポートを担当したKaiさんがまとめてきた「これまでのレポート集」56ページを、ただひたすら読み合わせで2時間をかけました。
 今回もお二人ほど、日程の調整が出来ずに参加できない旨のご案内が来ました。残念でした!!
 次回は第2篇「貨幣の資本への転化」(第一分冊255ページから)に入りますが、これからの参加でも大丈夫ですよ!「ウーンと易しくなりますから」(との声アリ)。レポーターはTakチャン。
 ※終了後、忘年会を兼ねた飲み会もやります。
 初めての方大歓迎。『資本論第一分冊』(国民文庫)は、社青同にも在庫があります。
また、これまでの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。

 レポーターから ─────────────────────────────
◆岩波文庫版の『資本論』
・『資本論』は全三巻からなっています。
・岩波文庫の場合は、第一巻「資本の生産過程」が三冊、第二巻「資本の流通過程」が二冊、第三巻「資本主義的生産の総過程」は四冊に分かれていて、計九分冊。
◆「漱石と『資本論』」小島英俊・山ア耕一郎著(祥伝社)より
◎初版は1000部
・『資本論』第1巻は、1867年に最初にドイツ語版で世に出た
・この時の印刷部数はたった1000部。
・しかも、それが売り切れるまで4年かかっているから、最初はいかに無視・冷遇されたかがわかる。
・1883年、マルクスの没後、その遺志を継いだ盟友エンゲルスによって、ドイツ語版の第2巻が、1885年、第3巻が1894年に出版された。
・ドイツ語版以外を見ると、1872年に第1巻のフランス語版が刊行され、1万部が売れた。
・同年には、第1巻のロシア語版が3000部で刊行、1年間で完売した。
・ロシア語版の第2巻、第3巻は、ドイツ語版以外で、先陣を切って刊行された。
・しかし、英語版の第1巻は、ドイツ語版に遅れること20年の1887年にようやく刊行された。
・高畠素之(たかばたけもとゆき)が日本ではじめて『資本論』の全巻を翻訳、1920年から1924年に刊行された。
・日本における『資本論』普及の幕開けである。その第1巻は10万部以上売れたという。
・1852年に共産主義者同盟の解散。これ以降マルクスは10年以上、組織活動から遠ざかる。
・苦しい生活の中、マルクスは毎日のように大英博物図書館に通い、朝9時から夜7時まで読書と思索に没頭した。
・その成果の第一弾が、1859年の『経済学批判』であり、労働力の搾取によってのみ生まれる「剰余価値学説」を確立した。
・そして、8年後の1867年、それを発展させた『資本論』第1巻が完成するのである。
・マルクスは不摂生もあって病気がちだったが、肝臓肥大という深刻な診断を受ける。
・マルクスは1883年3月14日に64歳で亡くなった。
・マルクスの膨大な遺稿は、すべて盟友であるエンゲルスに預けられた。エンゲルスは遺稿を整理して、1885年6月に『資本論』第2巻、さらに1894年12月に第3巻を出版し、翌1895年に死去した。
(from Kai)
[506] 2019年12月01日 (日) 09時16分
事務局
『資本論を読む会』は、1年が経ちました。
※スタートは2018.9.11

次回の第13回「読む会」は  「第3章第3節 貨幣」からです
日時:2019年10月1日(火)午後6時〜 会場:支局・社青同事務所
8月27日に開いた例会には、年寄り4人に加えて中堅・若手3人が加わり、読み合わせと討論をやりました。「第3章・第2節 流通手段 c鋳貨 価値標章」でした。
 早いものですね。この「資本論を読む会」を始めたのが昨年の9月11日(火)でしたから、1年が経ったことになります。この1年で読み合わせたのが、岩波文庫『資本論』第一分冊の227ページまで。次回が「第3章第3節の貨幣」から始めますが、第一分冊もあと80ページ余りになりました。もしかしたら分冊(一)は年内に終わらせられるかも?…。
 まだまだ、これからでも参加できますよ!! 最近は、いつも話題になることですが「マルクスの書き方は難解だが、言ってること、結論は難しくはない」ということです。とくに貨幣論は、現在ホットな話題になっているところです。
 次回は「第3節 貨幣」の読み合わせ に入ります。レポーターはanakさん。
初めての方も歓迎。『資本論第一分冊』(国民文庫)は、社青同にも何冊か在庫があります。
また、これまでの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。
 レポーターから ─────────────────────────────
■今回は、第三章貨幣または商品流通、第二節流通手段、c鋳貨・価値標章、でした。
■その内容を、川口武彦・平田喜久雄・田中慎一郎・福田豊、共著の「経済学綱要」より、レポーターが抜き出してみました。
【c 鋳貨・価値標章】
・流通手段としての貨幣は、最初は秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょうかへい⇒品位・量目を検査して計って用いる貨幣)であった。
・商品流通の発展につれて、一定の品位と重量とを国家によって保証された鋳貨が成立する。
・金鋳貨は流通中に磨滅し、同じ金鋳貨でも重量が違うようになり、金属価値が違うようになる。
・鋳貨は、品目・重量が金属的に相違しても、流通機能における貨幣として存在する。
・これは、他の材料からなる標章によって代行させる可能性のあらわれである。
・歴史的な事情によって、銀や銅が標章として補助鋳貨となった。
・これらの鋳貨は金貨よりも急速に磨滅するので、素材金属の価値から独立したものとなる。
・ついには、無価値の紙券でも、金のかわりに鋳貨機能をおこないうるようになる。
・国家によって強制通用力をあたえられた国家紙幣、または政府紙幣である。
・この紙幣は、その名目によって一定の金量を代表する金標章であり、価値標章である。
・だから、紙幣が金標章として流通しうるのは、流通手段として機能する金量だけである。
・流通紙幣の分量は、つねに流通に必要な金量を代表しうるにすぎない。
[=紙幣流通の特殊法則とよばれるもの。=]
・商品変態の過程、W−G−Wの継続の過程で、貨幣の標章は、客観的に社会的に通用しうるということが必要となるが、紙券象徴は、これを強制流通力によって得る。
・この国家強制は国内の流通部面内だけのことであるが、ここでだけは紙幣となって存在しうる。
【もっと簡単に要約した豆本では、次のように記載がありました。】
※貨幣とは、商品の価値を計る際の物差し代わりに使われるものだ。
・貨幣は、(流通がうまくいっていれば、)もう貨幣に金属類としての価値はなくてもいいことになる。
・商品の価値は交換するものの量で示されればいいのであれば、何を使ってもいい。
・だからこそ最終的にそれ自身は価値のない紙で示されることになった。
・これが紙幣の誕生につながった。」  (from Kai)
[487] 2019年09月18日 (水) 09時38分
STVの青空レストランで、放送してました。
アマニ油。
あま、の茎を乾燥させて、とれるのが、
リネンです。
あの「リネン」です。
[481] 2019年08月17日 (土) 18時46分
Kai
2019.7.23 『資本論』を読む会レポート 

『資本論』は、第一巻 資本の生産過程 第一篇 商品と貨幣
 第一章商品から始まりました。
※第一章商品
@「社会の富は、商品の集積である。」
・「個々の商品は、富の成素(基礎の、要素的な)形態である。」(商品は富の基礎的な姿である、の意)
・だから、「資本についての考察は、商品の分析から始め」られたのでした。
A商品には、使用価値と価値があり、抽象的な平均的社会労働の量が価値に表わされます。
・抽象的な労働の量によって、価値の大いさが決まります。
B価値形態、または、交換価値
・商品は、使用価値を持って自然形態で生まれ、交換されるため、価値形態を持つ。
・「自然形態と価値形態の二つを持つことにより、商品となる」のである。
・「一般的価値形態は、貨幣形態に移行する。」
・貨幣商品があらわれ、貨幣として機能する。
※第二章 交換過程
@商品の交換〜〜それぞれの商品の持ち主が市場で出会い、商品が交換される。
A交換の過程はわずらわしい。当然に、何にでも交換できる商品、金や銀。
・貨幣が生まれる。
B貨幣は、交換過程が繰り返すことにより、必然的に生まれる。
※第三章 貨幣または商品流通
a 商品の変態
 *20エレのリネンが2ポンドで売れる保証はなく、マルクスはこれを「商品の生命がけの飛躍」と呼んだ。
※商品の流通
 ・W―G―W・売りと買い・商品の貨幣への変態と、貨幣から商品への変態
※「商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段の機能」を得る。
・間に貨幣が入ること、貨幣があることにより、いったん商品を売り金に変え、のちにいつでも好きなときに、その金でほしい商品に変えることができる。
b 貨幣の流通(ウムラウフ)
※商品流通によって、貨幣にたいして与えられた運動形態は、@(その出発点から)「不断に離れられる。」ことである。A貨幣の行路である。Bあるいは流通(ウムラウフ)である。
・貨幣は商品の価格を示し、購買手段である。・貨幣は、商品を売り手から買い手に移行させる。
※商品は貨幣と場所を替え、同時に、流通から脱落して、消費にはいる。(流通の部面から、消費の部面にはいり込み、生活手段や生産手段として用いられる。)
※流通部面では、どれだけの量の貨幣があるのか。

 商品の価格総和
―――――――――――=流通手段として機能する貨幣の量
同一名目個貨の流通度数

※同一個貨が一定の期間内に流通する平均度数は貨幣の流通速度である。一定期間に流通手段として機能する貨幣量は、商品価格総額を貨幣の流通速度で除した商に等しい。・これが貨幣流通の一般法則である。
・流通貨幣量は価格運動、流通商品量および貨幣の流通速度の三要因によって規定される。

◆ここで、時間切れとなり、「 c 鋳貨 価値標章」については、次回へと繰り越されてしまいました。
次回は、
「※貨幣とは、商品の価値を計る際の物差し代わりに使われるものだ。
・貨幣は、(流通がうまくいっていれば、)もう貨幣に金属類としての価値はなくてもいいことになる。
・商品の価値は交換するものの量で示されればいいのであれば、何を使ってもいい。
・だからこそ最終的にそれ自身は価値のない紙で示されることになった。
・これが紙幣の誕生につながった。」      
 ことを、学習しましょう。

◆若干の時間があり、前回議論できなかった「第一節、価値の尺度」の中のP168注50「労働貨幣」について、 レポーターのTKさんより説明していただきました。
・『オーウェンの「労働貨幣」は「劇場切符」のようなもので、「貨幣」ではない。』
※申し訳ありませんが、記者の理解力の不足と、ページ字数の制約により、その内容を今ここに報告できません。
※「浅薄な空想であるわけ」を、是非、学習会に参加して、ご確認ください。
[480] 2019年08月13日 (火) 05時41分
Kai
・「『資本論を読む会』第11回(7月例会)への案内」に6月の読む会のレポートをしましたが、次のことは、字数の関係と、小学校低学年の生徒が喜びそうな「うんこ話」のようでレポートしませんでした。
・それは、194頁から195頁に述べられています。
・「人は貨幣にたいしては、貨幣に転化された商品がどんな種類のものかということを、少しも顧みない。どんな商品もその貨幣形態においては、他のそれと寸分たがわぬ顔つきをしている。『だから、もちろん糞尿は貨幣ではないが、貨幣は糞尿であることもある。』」
・同じような表現で
「…………人が貨幣について見るところは、貨幣がその所有者の手中に達したか、または何が貨幣に転化したかということではない。どんな生まれであろうと、お金はくさくないものだ(non olet)。」
(これらを、何といっているのか書き変えることはできませんが。…………)
・これを見ている社青同同盟員をはじめとする皆さん。もし、まだ手もとになければ、岩波文庫版『資本論』(一)を、まず購入し、読んでみてはいかがでしょうか。
[470] 2019年06月28日 (金) 08時40分
事務局
『資本論を読む会』第11回(7月例会)への案内です!

 7月の「読む会」は、
 2019年7月23日(火)午後6時から。
 会場:支局・社青同事務所


6月例会には、若手一人を含む5人で読み合わせと討論をやりました。「第3章・第2節 流通手段 a商品の変態」をKaiさんからのレポートでした。
 参院選挙の最中ですが、格差是正・貧困撲滅・福祉拡大のためには「お金が足りなければ国債発行しても全然問題ない」というMMT理論が話題になりました。マルクスらの労働価値説、商品貨幣論批判の上に成り立つ独特の議論のようです。
 次回は「第2節 流通手段」の「b貨幣の流通」。
 レポーターは引き続きKaiさんです。
 初めての方も歓迎。『資本論第一分冊』(国民文庫)は、社青同にも何冊か在庫があります。
また、これまでの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。

 レポーターから ─────────────────────

◎商品の変態(メタモルフォーゼ)
  ◆商品の命がけの飛躍
・最初の商品変態の終点は2番目の商品変態の出発となる。
・このように貨幣を介し次々と変態系列の連鎖が広がっていく。
・この連鎖全体を「商品流通」という。
・そしてこの売り買いにおいては、つくりすぎや売れ残りから恐慌が発生する可能性もあると、マルクスは指摘した。
◆W―G―Wという商品の循環が貨幣にあたえる運動は、その出発点から絶えずはなれてゆく運動、すなわち、貨幣の流通である。
・W(ベー)とはWare(ヴァーレ)=商品のこと。G(ゲー)とはGeld(ゲルト)=貨幣のこと。
・W―G―Wは、ベーゲーベーと読みます。
・W―G―Wとは、商品をつくりそれを売って、お金を手に入れ、そのお金でまた別の商品を買うという意味をあらわす。
◆『ある物体が不断に他の物体に落下しながら、同じく不断にこれから飛び去る。』
・「楕円は、その中で、この矛盾が解決され、また、実現されている運動形態である。」

(from Kai)

[469] 2019年06月27日 (木) 16時00分
事務局
『資本論を読む会』次回(6月例会)への案内です!
【6月の「読む会」は】
 2019年6月18日(火)午後6時から 会場:支局・社青同事務所  

◎次回は「第3章 貨幣または商品流通」の「第2節 流通手段」

5月の例会は、様々な事情が重なって、参加者は4人になりましたが、Takさんからの「第3章・第1節 価値尺度」の丁寧なレポートを頂きました。Kaiさんからも経済学要綱からのまとめが配布されました。第一節を読み終え、次回は「第2節 流通手段 a商品の変態」からです。レポーターはKaiさん。よろしく。
 初めての方も歓迎。『資本論第一分冊』(国民文庫)は、社青同にも何冊か在庫があります。
 また、これまでの資料は下記ホームページでご覧になれます。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。

◎レポーターからのまとめ
第一巻  第一編 商品と貨幣  第三章 貨幣または商品流通  第一節 価値の尺度 
〇(貨幣の機能@価値尺度機能)貨幣・金の第一の機能は、質的に同一で量的比較のできる大いさとして商品価値を表示すること。価値の一般的尺度として機能し、金が貨幣となる。
〇(価格)商品の金貨幣による価値表現は、その商品の貨幣形態であり、価格である。
〇(観念性)見えない価値が商品の中に存在し、頭(観念)の中で金との関連で表示される。価値尺度機能は観念的なものだから、表現上、現実的な金を全く必要としない。
〇(価格の尺度標準)価値が観念的金の量で表現されるようになると、技術的に、これらの価値を、「尺度単位」により固定量の金に関係させようとする必然性が働く。尺度単位は分割され、ポンド・オンス等の、「貨幣尺度標準」つまり「価格の尺度標準」の名称となる。
○(二つの尺度)貨幣は、@価値尺度、A価格尺度標準として、二つの全く違った機能を行う。価値尺度は、価値を測り価格に転化する機能。価格尺度標準は、価格の金量(1オンス重量の金等)を貨幣(3ポンド17シリング10.5ペンス等)として測る機能。
〇(価格変動の要素)「商品価値」と「貨幣価値」の両者の変化の結果に価格変動は規定される。商品価値不変で貨幣価値が上下すると、商品価格は反比例する。貨幣価値不変で、商品価値が上下すると、商品価格は正比例する。
○(貨幣名の重量名からの分離)貨幣名はしだいに最初の重量名から分離する。
○(価値からの価格の偏倚)価格が「商品価値量・貨幣量を表す」としても、逆に、価格は必然的にその「商品価値量を表すもの」であるとは言えない。価格は、「ある事情」でその価値量より上下する。それでも、@商品の価値形態であり、Aその価格は貨幣との交換比率の指数であるから、商品の価格であることには違いない。
〇(偏倚は価格の問題)価値からの価格偏倚の可能性は、価格形態そのものの中にある。
○(無政府性)この価値との不一致・偏差は、欠陥ではなく、逆にこの生産様式に良くあてはまる形態にする。規律は「無規律性が盲目的に作用する平均法則」としてのみ、貫かれる。
○(無価値価格)一つの質的矛盾として、価格が価値表現をやめることにもなる。商品ではない良心・名誉等々も、価格によって商品となる。価格はここでは想像的なものとなる。他方、人間労働が対象化されていない未耕地価格のような想像的価格形態も、現実的価値関係やそこから派生した結びつき(地代との関係)を隠していることがある。
○(現実の貨幣との交換の困難性)価格表示は、等価形態の金(貨幣)が鉄(商品)と交換できることを示すが、鉄(商品)が金(貨幣)と交換できることを表現するものではない。価格形態は、貨幣に対する「売り渡し可能性」(商品→貨幣)と、貨幣に対する「売り渡しの必然性」(貨幣→商品)を内包している。
○(貨幣実在の優先性)金は、すでに交換過程に貨幣として機能しているから、観念的価値尺度として機能するのであり、観念的価値尺度の中に硬い金が待ち伏せている。
 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※「価値」は「貨幣」として現れ「価格」に転化。運動・発展し、「新たな機能」を得る。みごとな「弁証法」だと思いました。次回は、「第2節 流通手段」(185p〜)です。
[462] 2019年05月24日 (金) 10時29分
事務局
『資本論を読む会』次回
(5月例会)への案内です!
───────────────────
【5月の「読む会」は】
 2019年5月22日(水)午後6時から
会場:支局・社青同事務所  

◎次回は「第3章 貨幣または商品流通」の「第1節 価値の尺度」

 4月29日に行われた「資本論を読む会」には、選挙で忙しかった方達のために、これまでのおさらいをしようということで、「序文」と「第1章 商品」「第2章 交換過程」のおさらいをしました。TabeさんとTakさん、Kaiさんが用意してくれたペーパーと要約「レポーターから」の読み合わせで、無事に(?)終了。
 参加者は7名+交流会に追加で2名参加。
 次回からは、またひたすら読み合わせしながら、レポートそして討論というルーティンに戻ります。
 次回は「第3章 貨幣または商品流通 第1章 価値の尺度」です。これまでと比べるとだいぶ読みやすくなると言うことですが…。これからはじめる方も心配いりませんよ。
 『資本論第一分冊』(国民文庫)は、社青同にも何冊か在庫があります。
[459] 2019年05月08日 (水) 10時31分
Kai
『マルクスと向坂逸郎』小島恒久著
   1986年1月15日発行 ありえす書房

◆資本主義社会は、商品生産の社会である。
・商品生産は、それ以前、たとえば封建社会でも部分的にはあった。
・だが、そこでおこなわれる商品生産は、農民や手工業者によっておこなわれる小規模の商品生産であった。
・生産手段の所有者と働き手が分離していない。
・それぞれの生産者が自分の生産手段をもっておこなう商品生産を、単純商品生産という。

◆資本主義社会になると、生産手段の所有者たる資本家階級と、働き手たる労働者階級とがはっきりとわかれる。
・そうした階級関係の上にたって、商品生産がおこなわれる。
・このような商品生産を、資本主義的商品生産という。
・生産が大規模化し、社会的分業が発達して、商品生産が社会の全面を支配するようになる。

◆商品は売られることを目的として生産される。
・売られなければならない、そのためには、なんらかの有用性をもっていなければならない。
・人間のなんらかの欲望をみたすという性質を、使用価値という。
・この使用価値をもつ商品が売りにだされる。
・商品と商品が交換されるためには、両者は比較されねばならない。
・使用価値という面では、商品の有用性はそれぞれちがっていて比較にならない。
・靴と小麦では、役立ち方がまったくちがうのだ。
・両方に共通なものとは何か。それは人間労働である。
・両者はともに労働によってつくりだされ、人間労働の結晶だという点で共通している。
・この商品に結晶した人間労働を、価値という。
・この価値という、共通したものがあるからこそ、すべての商品は比較され、交換されることができる。
・この価値という性質が、商品のもついま一つの面である。

◆靴をつくる労働、小麦をつくる労働という具体的なかたちの労働を、具体的労働という。
・頭脳、神経、筋肉の使用――生理的エネルギーの支出としての労働を抽象的労働という。
・商品のいずれにも共通した抽象的労働によって、商品は比較され、交換されることができるのである。
・商品は、使用価値と価値という二つの性質をもつ。
・労働は、具体的労働と抽象的労働という二つの性質をもつ。
・具体的労働が商品の使用価値をつくり、抽象的労働が商品の価値をつくりだす。

◆価値の大きさは何によってきまるか。
・その商品を生産するのに必要な抽象的労働の量、労働時間の長さによってである。
・ある商品を生産するのに、社会的に必要な労働時間によってきまる。
・価値の大きさは何によってきまるか。その社会で、平均的な生産条件を用い、平均的な労働の熟練度と、平均的な労働の強度とで、ある商品を生産するのに必要な労働時間によってである。

<まとめ>
・資本主義社会は商品生産の支配する社会である。
・商品とは、交換を目的として生産される生産物であるが、それは、一方で使用価値、他方で価値という二つの性質をもっている。
・商品をつくりだす労働も、具体的労働と抽象的労働という二面性をもっているが、具体的労働が商品の使用価値をつくりだし、抽象的労働が商品の価値をつくりだす。
・抽象的労働というのは、具体的なかたちをぬぎすてた、生理的エネルギーの支出としての労働であるが、その抽象的労働の量、つまり労働時間の長さによって価値の大きさがきまる。
・これを価値法則という。
[456] 2019年04月23日 (火) 21時00分
Kai
『古典への招待』小島恒久著
   1994年3月15日第1刷 労働大学発行

マルクス『資本論』
・「資本主義とは何か」を根源的に問い、その本質を体系的に明らかにした。
・この『資本論』の第一巻は、「資本の生産過程」と題され、資本主義的生産の本質とその発展法則を明らかにしている。
・商品の分析にはじまって、資本主義的生産の基軸をなす剰余価値の理論を説き、資本主義の発展とその生む矛盾の帰結として、それがつぎの社会に変わらざるをえないゆえんを解明しており、全三巻のなかでももっとも基本をなす、重要な卷である。

・『資本論』は、マルクス自身がいっているように、「近代社会(資本主義社会)の経済的運動法則を明らかにすること」を「究極目的」としている。
・そのためマルクスは、「経済学批判」というその副題が示しているように、従来の経済学を、「プロレタリアート階級」の立場にたって徹底的に「革命」(レーニン)し、資本主義社会の本質とその矛盾を根底から暴露した。
・そしてこの社会がつぎの社会主義社会に変わらざるをえないこと、またその変革を成しとげる主体が労働者階級にほかならないことを明らかにした。
・その意味では『資本論』は、「科学」の書であるとともに、「革命」の書でもあり、この本によって社会主義は、「科学」になったというこができる。

・『資本論』は、労働者階級の立場にたって資本主義社会を分析し、労働者階級の「歴史的使命」を明らかにした本だから、労働者にとってまさに必読の書ということができる。
・マルクスもまた働く人びとに読んでもらうことを、もっとも望んでいた。
・だが、それを読むのはそう簡単ではなく、それなりの努力を必要とする。
・マルクス自身、フランス語の序文でこういっている。
「これにたいしては、私はどうにもしようがありません。ただいずれにしてもあらかじめこのことを注意しておいて、真理を求めている読者に心の準備をさせておくほかありません。学問には坦々(たんたん)たる大道はありません。そしてただ、学問の急峻(きゅうしゅん)な山路をよじ登るのに疲労困憊(こんぱい)をいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる希望をもつのです。」

・この言葉は私たちが『資本論』を読むばあいに、忘れてならない教訓である。
・とくに「何事も初めがむずかしい」と序文にいっているように、『資本論』は初めの所に胸つき八丁のけわしさがあり、そのむずかしさに読者はしばしば音(ね)をあげる。
・だが、それを越すと、現実の事例が数多く出てくる章になり、読むのが楽になる。
・だから、マルクスは『資本論』の一つの読み方として、まず「労働日」、「協業、分業とマニュファクチュア、機械装置と大工業」にかんする章、さらに「本源的蓄積」の章を読むことをすすめている。(クーゲルマンへの手紙)
・だが、最初の章から読むのがもっとも良い方法であることはいうまでもない。
・「叩(たた)けよ、さらばひらかれん」
・心をきめて、このマルクス主義の最高峰にぜひアタックしてみていただきたいと思う。
[455] 2019年04月18日 (木) 00時07分
事務局
次回の『資本論を読む会』は、
「第1章・2章の総集編」まとめの会にします!
───────────────────────
【ただし日程は、まだ未決定】
 4月23日(火曜日)か25日(木曜日)のどちらかで
 ※参会予定者の都合を聞いて決めたいのですが、皆さん選挙などで忙しくて、日程調整が進みません。
 7日の投票が終わってから、またご案内します。
  ───────────────────────
 前回3月「第2章交換過程」のレポーターからのメモ

@貨幣、貨幣形態があらわれる。
■交換が広がると、いろいろな商品の等価物となる商品が出現する。
・一般的等価形態の役割を果たす。・商品交換の発展につれ、一般的等価形態は特殊な商品=貨幣となる。
・貨幣形態が生まれる。
(前々回の読む会、第一篇商品と貨幣、第一章商品、第三節価値形態または交換価値の資料を再掲します。)
A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
   x量A商品=y量B商品
B総体的または拡大せる価値形態
   z量A商品=u量B商品 または=v量商品Cまたは=w量商品D または=x量商品E または=その他
C一般的価値形態
  ・上衣 1着    = 
  ・茶 10封度    =
・コーヒー40封度  =
  ・小麦 1クォーター=   亜麻布 20エレ
  ・金 2オンス   =
  ・鉄 0.5トン   =
  ・A商品 x量   =
  ・その他の商品量 =
D貨幣形態
  ・亜麻布 20エレ  = 
  ・上衣 1着   =
・茶 10封度    =
  ・コーヒー40封度  =   金 2オンス  
  ・小麦 1クォーター=
  ・鉄 0.5トン   =
  ・A商品 x量   =
  ・その他の商品 =
A前回の読む会は、第一篇商品と貨幣、第一章商品、第四節商品の物神的性格とその秘密でした。
  この中で、物神礼拝に触れられていましたが、今回の第二章ではさらに以下の表現があります。
※『貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるにすぎないのである。』
・この貨幣の物神性は、商品物神の神秘が目に見えるようになったのであり、より完成されたものである。
・この商品の物神性は、貨幣の物神性、さらには資本の物神性として完成されるのである。
物神崇拝〜商品や貨幣が人間を支配し、人間がそれらを神のように崇める(あがめる)こと。
         物神支配〜神ではなく、商品・貨幣に支配される。
B「金や銀などの貴金属が貨幣となる。」
  鉄や銅でもよかったのでは?
・NHKの放送で東日本では金が、西日本では銀が貨幣として流通していて、徳川が権力を制圧して
金に統一された旨、放送されていたような気がします。
・鉄や銅では、その価値から、等価形態として、金や銀と比べて相当の量・重さとなり、貨幣として
は役にたたなかったのでは?

[453] 2019年03月31日 (日) 13時33分
Kai
※資本論を読む会、第一巻第一篇の第一章、第二章が終りました。4月は、これまでのところを、ひととおり整理するようですね。

月刊社会主義に、平地一郎さんの
「連載――いま、『資本論』からまなぶことB、『資本論』を理解するための論点を考える=貨幣論」
を発見しました。

◆貨幣の謎
・「人は、何はともあれ、これだけは知っている。
・すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである――すなわち、貨幣形態である。
・だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一大事をなしとげようというのである。
・すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現がどうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態様から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。
・これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。」
(マルクス『資本論(一)』向坂逸郎訳・岩波文庫、80〜90頁)
・貨幣は商品の中から生まれる。
・そして、商品の価格はその価値の貨幣的表現である。
・こうした関係を明らかにしたのが、マルクスの価値形態論であり、その内容は『資本論』の冒頭にある第一巻第一篇「商品と貨幣」(第一章第三節「価値形態または交換価値」第四節「商品の物神的性格とその秘密」第二章「交換過程」そして第三章「貨幣または商品流通」)において展開されている。

・マルクスが「いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一大事」というのは、「序文」ではさらに「人間精神は2000年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗している」と踏み込んでいる。(同上、12頁)
・アリストテレスにその初歩的な試みがあるからである。
・しかし、資本主義のはるか以前のアリストテレスには歴史的限界があって失敗した。(同上、109〜110頁)
・かの天才アリストテレスさえ挫折した価値形態論はたしかに難しい。
・実際、マルクスも資本論の序文でこう言っている。
・「価値形態にかんする節を除けば、この著には、難解だという非難を受けるようなところがあるとは思えない」(同上、13頁)
・つまり、資本論の中で最も難解な部分なのである。
・しかし、マルクスは、その直後にこうも言う。
・「私はむろん、何か新しいことを学び、したがってまた、自分で考えようと志す読者を想定しているのである」と。

・貨幣論という領域には、価値形態論及び貨幣の機能論がある。
・マルクス貨幣論が、商品論において展開されているのは、そもそも貨幣は商品の中から生まれるからであるが、そうした貨幣の持つ意味が現代ではますます見えにくくなっている。

◆価値形態ということ
・商品の価格とは、価値の貨幣的表現に他ならないとはどういうことか?
・商品はなぜ貨幣による表現をとるようになったのか?
・商品の交換とは、ある商品と他の商品とを交換する(あるいは交換しようとする)ことであり、たとえばスーツ一着は、時計二個に値する(ので交換する)というのは、スーツという商品一着は、時計二個と同じ価値を持つと表現することができる。
・スーツという商品の所有者は、その価値が一体いくらかなのかは、そもそも、分からない。
・たとえるなら、私は自分の顔を直接見ることができない。
・そこで、スーツの価値を知る(見る)ためには、他の商品を必要とする。
・スーツ一着は時計二個に値するとして、はじめて、スーツ一着の価値が、時計二個分にあたると分かる。
・こうした二つの「商品交換」(実際に交換されるかどうかは別である)を念頭に置いたものを、マルクスは簡単な価値形態と呼んでいる。
・そして、時計二個は、スーツ一着と価値が等しい関係に置かれているという意味で「等価形態」にあり、また、スーツ一着は、その等価形態にある商品素材と交換割合を通してしかその価値が表現されないので、「相対的価値形態」にあると述べている。
・価値形態という表現は、仰々しく聞こえるが、要するに、価値が具体的に取る姿や形のことにほかならない。
・したがって、簡単な価値形態のポイントは、スーツの所有者が、その価値を、等価形態に置かれた時計の商品素材や交換比率を通して、知る(見る)ということである。
・再度たとえるのなら、私は鏡を前にすることで、私の顔を見ることができる。
・ただし、スーツ一着の所有者が、鏡の中に見ているその価値の姿・形は、スーツ自体ではなくて時計二個という姿(等価形態)である。
・商品のスーツは、時計だけでなく、様々な商品との交換関係を持つ。

・図式では次のように示される。
・なお、等式(=)は、左辺の商品が右辺の商品に「値いする」という意味であり、数式の等号とは意味が違うことに注意が必要である。

           = 時計 2個
           = デジカメ 1台
 スーツ 1着    = 米 6s
           = 鉄 0.1トン
             その他

・この図式は、拡大された価値形態という。
・スーツ一着の価値が、様々な商品素材と交換比率で表現されている。
・とはいえ、その価値形態のあり方では等価形態に置かれた商品がそれぞれ異なるので、鏡に映った価値の姿は、どれも違う。

・ところが、商品関係がもっと拡大してくると、いろいろな商品が上の図式のような関係を築く。
・つまり、すべての商品について、それぞれ拡大された価値形態が存在する。
・その中から等価形態に置かれる商品(右辺の商品)を特定化して、たとえば、つぎのような図式が可能である。

 時計 2個
 デジカメ 1台
 スーツ 1着    = 鉄 0.1トン
 米 6s
 その他

・この図式は、一般的な価値形態という。
・左辺の様々な商品が、自らの価値を、右辺の鉄という共通した商品素材と比較可能な交換割合とで表現している。
・ここに至ってはじめて、商品の価値が、同質だと分かる。
・なぜなら「鏡」には鉄だけが映っているからである。
・このような一般的等価形態の下で、等価形態に置かれたもの(この例では鉄)を「一般的等価物」と呼ぶ。

・一般的等価物は、もちろん「鉄」に限られない。
・比較的多くの人が交換したいと思うなら、どんな商品でも一般的等価物になることができる。
・ただし、時計2個の所有者が米6sを得たいと思えば、いったん鉄0.1トンと交換してからそれを行えるので、商品関係の広がりには、一般的等価物を限定する方が良く、その傾向がある。
・そして、その一般的等価物が、ある商品圏の中で一つの商品のみになったとき、それを貨幣形態と呼ぶのである。
・歴史的には、金(きん)という商品である。
・商品の価値を貨幣(金)によって表現して価格という。
・マルクスが、価格とは「価値の貨幣的表現に他ならない」というのは、そういう意味である。
・ちなみに、歴史的にはという意味は、マルクスの時代にあってもなお、金のみが貨幣であったのではないからである。

・マルクスは『賃金・価格および利潤』において、つぎのように言っている。
「価格は、それだけのものとしては、価値の貨幣的表現に他ならない。たとえば、この国(イギリスのこと)のすべての商品の価値は金価格で表現されているが、大陸の方では、主として銀価格で表現されている。金または銀の価値は、他のすべての商品の価値と同じく、それらを得るために必要な労働の分量によって規制される。……諸君はすべての商品の価値を……金および銀で表現するようになる。価値の貨幣的表現……(は)、すべての商品の諸価値に独立のかつ同質の形態を与えるための、あるいは、それらを同等な社会的労働の諸分量として表現するための、手続きであることを見出されるであろう。」( 『賃金・価格および利潤』長谷部文雄訳、岩波文庫、70〜71頁)
・『賃金・価格および利潤』の元は、1865年の国際労働者協会(第一インターナショナル)中央委員会でのマルクスの演説であるが、この時期には資本論初版――1867年出版――の骨格はできあがっていた。

・1860年代のイギリスでは金価格で、大陸では、主として銀価格で表現されていた。
・すなわち、貨幣形態にある商品が金の場合もあれば、銀の場合もあると言っている。
・実は日本でも、江戸時代には、西日本では銀で、東日本では金が貨幣であった。
・商品圏が違えば、貨幣形態に置かれる商品も違ってくる。
・しかし、商品圏が融合しあうと、貨幣形態の商品は一つである。
・最終的には、金商品が貨幣の位置を占めるようになる。
・鋳造や分割の容易さ、移転や保管の便利さ、耐久性の大きさなどの技術的要素もあって、金が貨幣の位置を獲得する。
・もちろん、それ自体は偶然であって、もし金という貴金属がなければ、おそらく銀が今日、貨幣になっていたことだろう。
[452] 2019年03月29日 (金) 23時30分
事務局
『資本論を読む会』第7回目の案内!
─────────────────
【次回は】 2019年3月19日(火)午後6時から 会場:支局・社青同事務所  
 ◎次回は第2章「交換過程」!!
※4月に「第1章・2章の総集編」読書会やります
 2月22日(金)の「読む会」には、女性新人が初参加しました。選挙と春闘などで集まりにくい状態の中でしたが、今回も6名が集まりました。資本論のミソと言われる「第4節 商品の物神的性格とその秘密」を読み合わせてからレポート。そしてフリー討論。これで「第1章 商品」は終わり、次回は「第2章 交換過程」に入ります。
 ただし選挙が終わってから「第1章と第2章の総集編」をやろうという話になっています(4月の読む会で)。資本論の一番良いとこですから、選挙などで参加できなかった人も入れて、できるだけ多くの人が参加できる日程を調整して「まとめの読書会」にしたいと思います。
 今回のレポートと資料は、支局のホームページでご覧下さい。
◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。

レポーターから
○この節は、素直に読んでいくと本当に難しい。ということで、まず解説本から「要するに、マルクスは、ここで何を言おうとしていたのか」を理解してから本文を読むと…。
◎物神性…【解説】商品経済において,「社会的諸関係」が物として現れる転倒性をさす概念。商品の価値は人間の労働が対象化された労働生産物であるがゆえに付与されるものであるにもかかわらず,商品が本来物自身として有する自然的性質であるという幻想を生み出す。また貨幣は多種商品のうちの一商品が一般的等価物として貨幣商品に転化し,商品価値の一般的な表示,尺度をなすものにほかならないにもかかわらず,あたかも貨幣自身が価値の独立的存在であるかのごとく受取られる(ここは第2章で出てくる)。
 さらに資本における物神性では,それが利潤や利子を生むことが,資本の自然的な性質によるものとされる。しかしこれらの転倒性は,物としての商品,貨幣や資本をいくら分析しても解明されず,資本主義的生産関係の科学的分析によって初めて明らかになるとされる。
○マルクス資本論のミソと言われるところだ。本文では
・129p一つの商品は、…使用価値として見るかぎり…(また)属性は人間労働の生産物という観点…これに少しの神秘的なところもない。※机の例…しかし机が商品として現れると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。
…机が踊り出す。※商品の神秘性はここから始まる
・131p労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎に満ちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身からである。
 ※商品形態は(人間に対して彼ら自身の)労働の社会的性格を労働生産物自身の(対象的性格として、これらの物の)社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働に対する生産者の社会的関係をも、彼らの外に存する対象(モノ)の社会的関係として、反映するということである。
 「このとりちがえ」によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的なものとなるのである。
・132p私はこれを物神礼拝と名づける。※フェティシズム、呪物崇拝
○「礼拝」についての論議…向坂は「礼拝」としているが、河出書房版では「崇拝」。レイハイは仏教ではライハイ、なんて。134p「象形文字」どういう意味だ?!分からぬまま…。
○138pからのロビンソン物語は、世代のギャップがありそうです。年寄り世代はだいたい小学校の頃に読んでますが、「知らない」という方も…。 (レポートanak)
───────────── 
☆参加希望の方は、できれば事前に、事務局または発起人にまでご連絡ください。
 これからの社会主義掲示板http://bbs6.sekkaku.net/bbs/socialisth.htmlにも書き込みがあります。参考にしてください。

[448] 2019年02月25日 (月) 09時42分
Kai
『経済学綱要』川口武彦、平田喜久雄、田中慎一郎、福田豊、共著
    法律文化社(1966.10.10第1刷発行)1977.4.10第14刷発行
第1章、商品  3.商品の物神的性格
◆社会は根本的には労働協力体である。
・その社会を維持するための社会的総労働が形成され、それが適当な割合で配分されなければ一個の社会として成立しえない。
◆私有財産制度と社会的分業のもとでは各生産者の労働は私的労働としておこなわれる。
・直接的には、労働協力、すなわち社会的総労働の形成とその配分が不可能である。
・したがって、労働の生産物を交換することによって、間接的に協働の実をあげねばならない。
◆社会的労働の成立とその配分が生産物の交換をとおしておこなわれる場合に、生産物は商品となり、商品の交換法則が社会を規制する法則となる。

■生産物が商品形態をとると、
・人間労働の等一性は労働生産物の同等な価値対象性という物的形態をとり、
・労働量の大小は生産物の大小という形態をとり、
・生産者たちの社会的関係は生産物の社会的関係という形態をとるようになる。
■商品世界では、生産物が独自の生命をあたえられ、自立化し、人間に対立する。
■労働生産物の商品形態に固有な性格を「商品の物神的性格」とよぶ。

※「価値」は、「社会的に必要な労働時間」によって形成され、価値法則として生産者を支配する。
※商品生産社会では、生産物が生産者を支配する。

■この商品の物神性は、貨幣の物神性、さらには資本の物神性として完成されるのである。
[447] 2019年02月20日 (水) 14時47分
Kai
文庫ぎんが堂「あらすじとイラストでわかる資本論」より
※『商品の物神的性格とその秘密』
◆商品が価値を持って動き回る!?
「この価値の大いさは、つねに交換者の意志・予見・行為から独立して変化する。」(?)
・商品は謎と神秘に満ちたものだ。
・商品を(役立つもの)使用価値でみると、何の不思議もない。
・価値からみると、抽象的で謎に満ちたものになる。
・その謎とは?商品が価値を持ってして、社会的生産関係を反映しているということ。
・商品交換において、商品は役立つもの(使用価値)と価値に「分裂」として現れる。
・しかし、商品の交換者同士はそのようなことを意識しない。『ただ、商品には価値がある。』『そして、お金であらゆる商品と交換できる。』と考える。
◆商品が、それら自体が価値をもって社会関係を築くことを、物神礼拝(フェティシズム)という。
『貨幣により、商品交換が基本の社会では、商品同士の社会関係は、人間に支配できなくなり、逆に、その関係に人間の生産過程が支配される。』

■労働が不透明(物事が隠されていたりして、実情が見えないさま)になる不思議。
・商品【机】〜値段がつけられている。同じ値段がつけられている他の商品。→等しい価値を持つ。
・商品の価値を計るのは、それをつくるためにつくり手がどれだけの汗水を流したかという部分のはずなのに。
・背後にある人間の労働を気にかけなくなっている。
・汗水をたらして働いて生み出されたという人間的な部分が失われ、すべてが数字で表されるようになる。
・商品【机】は、「自分はいくらの価格の商品」という存在でしかなくなる。

※人間が背後にある労働のことを考えず、単純に「商品にはりつけられた値段分の値打ちがある。」と思うことを、「物神礼拝(フェティシズム)」とマルクスは呼んだ。
※個々の人間がつくり出した生産物は、市場に出て商品となる。その背後にある具体的な労働はまったく見えない。その価値はすべて貨幣で表示されているだけだ。→(具体的な労働は無視され)その商品そのものに価値が備わっているのだ、と考えること。−→物神礼拝が起こるとマルクスは言う。
[446] 2019年02月19日 (火) 22時00分
Kai
「面白いほどよくわかるマルクスの資本論」 土肥誠監修  日本文芸社 より。
◆「商品の物神的性格とその秘密」
・「具体的有用労働」は市場では問題にならない。
*個々の労働者がつくった商品は、市場に出されることで、その人がどうやってつくったかという事実は消える。
・「抽象的人間労働」のみが問題となる。
◆ロビンソン・クルーソーの社会や、中世のように、交換価値で商品を交換しない社会には、商品や貨幣の「物神的性格」はない。
◆市場を通して商品が交換される資本主義になって初めて「物神的性格」が現れてきた。

*自分の労働力を売って賃金を得る。=自分の労働力を商品として売っている。(労働力の商品化)
・社会的に平均的な労働で、その価値が計られる。
※マルクスは、人間の生産物であった商品や貨幣が人間を支配する力(物神的性格)を持ってしまったことを暴いた。

◆ロビンソン・クルーソーの社会
・人間社会の原始モデル。
・労働はすべて自分で生産し自分で消費するためになされる。
◆中世ヨーロッパの身分社会
・身分の上下による従属関係の社会。
・自らの労働を提供し、商品交換は行なわれない。
◆中世ヨーロッパの農民社会
・家族が労働を分担して自給自足の生活をする社会。
・商品交換によるつながりではなく、共同的労働によるつながり。
◆未来社会
「共同的生産手段で労働し、自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」としての共産主義社会。
[444] 2019年02月09日 (土) 12時12分
Kai
「働くものの資本論」向坂逸郎編著 ありえす書房 を借りてきました。

※何ということでしょう。『資本論』、第一巻 資本の生産過程、第一篇 商品と貨幣、第一章 商品の、「第三節価値形態または交換価値」が除かれているのであります。

・この本は、岩波文庫本で九分冊になっているものの内容を、一冊分位の分量にちぢめて、しかも、『資本論』の論旨を伝え、その意義を明らかにしようというもの、とのこと。
・さらに、『資本論』第一巻に重きをおいた、旨。
・しかし、この部分で、価値形態論を除いた。このことについては、異論が予想される。
・共著者たち(加茂詮、田中勝之、福田豊、成清泰道、佐藤保、篠藤光行)は、論議の末、この大事な部分を割愛した。
・この部分の論理は、まことにマルクスの弁証法的思考の精髄を示しているものの一つではあるが、初学者には、このような抽象的な論理の推移が、どんな具体的な歴史過程と結びついているかを理解することは、大変困難である。
・貨幣の成立の必然性を明らかにするこの弁証法の論理は、かえって初学者を混乱させ、退屈させると思った。
・そして、本書の第一篇第二章の「交換過程」は、この価値形態の内容を多少は理解させるところを含んでいる、とも思われるので、価値形態論を涙をふるって削除することにした、ということであります。

※たまたま、「読む会」で、この「第三節、価値形態または交換過程」を終えたばかりなので、何という偶然かと思い、投稿しました。
[443] 2019年01月29日 (火) 14時15分
Kai
2019.1.21付「青年の声」
『資本論解説』を学習しよう―――鹿児島(自治労)Y.T.さんの記事をみました。

◆『資本論解説』向坂逸郎編著(労働大学)の学習会を開始したそうです。
・次回は、第一章「商品」とのこと。

◆「資本論を読む会」の資料を閲覧してもらえればと思います。
・また、その都度、学習会の内容・状況をお知らせいただければなと、思いました。

*鹿児島の学習会の皆さん、がんばってください。
[441] 2019年01月23日 (水) 19時26分
事務局
『資本論を読む会』第6回目の案内!
───────────────────────
 【第6回】2019年2月22日(金)午後6時から
      会場:支局・社青同事務所において  
 ◎次回は第4節「商品の物神的性格」!!

 新年1月18日(金)の第5回の「読む会」は、各種闘争の影響もありましたが6名が集まりました。前回の残り「第3節 価値形態または交換価値」の115pから読み合わせ。少し時間に余裕が出ましたが、「第4節 商品の物神的性格とその秘密」は、資本論の中でもホットな良いところなので、次回にとっておきました!
 今回のレポートは、前回提出のものを使ったので、支局のホームページでご覧下さい。
 ◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。
レポーターから
○前回からの続き…今回の部分は「B総体的または拡大せる価値形態/C一般的価値形態/D貨幣形態」(115p-129p)の三つの項目で組み立てられています。要するに前回のAで見た「亜麻布20エレ=上衣1着」という図式を、
今度は第二の形態「亜麻布20エレ=上衣1着or=茶10封度or=コーヒー40封度or=小麦1クォーターor=金2オンスor=鉄1/2トンor=その他」という図式に展開します。ここでは上衣以下のそれぞれの商品が「ひとつの特別な等価形態に置き換えられた。
○さらに今度は第三の形態(次図)では、一般的な相対的価値形態であった亜麻布が、今度の図では一般的等価の性質を押しつけられました。
│上衣1着 = ─┐ 

│茶10封度 = │ │
│コーヒー40封度 = │
│………… = │亜麻布20
│金2オンス = │エレ
│………… = │
│その他の商品量 =─┘

○そこから第四形態の次の図の金2オンスという貨幣形態への転換へと展開されていくのですが、「少しマルクスは意図的じゃないか?」「第三形態なんかわざわざ言わなくても良いんじゃないの?」なんて議論になりました。
○しかし、色々と議論した結果、論理的に展開していくためには「やはり必要なんだ」という話にはなりましたが、やはり難しいですね。
│亜麻布20エレ = ─┐  │
│上衣1着 = │
│茶10封度 = │
│コーヒー40封度 = │金2オンス
│………… = │
│鉄1/2トン = │
│その他の商品量 =─┘ 
。どうも「山の民と海の民とが年に一回、物々交換をして、これが商品交換の始まりで、貨幣が必要なる」なんて結論のイメージが先行すると、どうも論理的なところが飛んでしまうみたいです。
 説明を聞いた時は、分かった気がしたのですが、その後、交流会で酒を飲んだら忘れてしまいました。ご免なさい。

○この後は「3 一般的価値形態から貨幣形態への移行」のさわりの部分だけ紹介します。
・126p一般的等価形態は価値一般の形態である。それはどの商品にも与えられる。
・終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。
 そこでこの特殊なる商品種は、等価形態がその自然的形態と社会的に合成するに至って、貨幣商品となり、または貨幣として機能する。
・127pこの特別の地位を、第二形態で亜麻布の特別の等価たる役を演じ、た第三形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。すなわち金である。 (レポートanak)
[439] 2019年01月19日 (土) 14時39分
Kai
2019年、明けました。
本年も、よろしくお願いいたします。
※次のものは、何かの記念で出された、向坂逸郎の録音テープのテキストからの抜き書きです。

「マルクスの『資本論』」

・ぼくと『資本論』との出会いみたいなものは、だいたい大学に入った時です。
・中学の上級生頃、三井物産の下級社員だったおやじが首になりまして、うちは大変生活に困るということになったのです。中学五年位でしょうか。
・それから高等学校へ入ったのですけれども、おやじが学費を送れなくなったものだから、おやじの弟から学費をもらって大学を出ました。

・そういうわけで、たいした貧乏じゃありませんけれども、少しばかり貧乏になった。
・おやじはその後、いくどか事業に失敗したようですけれども、会社をやめたことも、事業に失敗したことも、別にはずべき理由ではなかったのです。
・恐慌がくるということを知らないで、会社の命令でロンドンに輸出する雑穀を買いためたらしいのです。
・恐慌がきて暴落したものだから、三井に損失をかけて、それで首になったわけです。
・高等学校にはやっと入りましたけれど、授業料が遅れてきたりすると、大変いやな思いをしました。
・そういうわけで、貧乏というのは非常にはずかしいことで、しかも何だか自分だけのことのように思っていたのです。

・その時ちょうど河上肇さんという、もう亡くなりましたけれども、この先生と私は非常に因縁があったとでもいいましょうか、大学を首になるときも一緒だったのですが、河上さんの『貧乏物語』というものが朝日新聞に出まして、それが三か月も続いたのでしょうか、それを非常に熱心に読みました。
・その『貧乏物語』という題が気にいったわけでしょうけれども、高等学校二年の時の話です。
・それを読んでいて、別にその時は社会主義のことをそんなに覚えませんでした。
・ただ、マルクスとかエンゲルスとかいう名前は憶えました。
・その本の内容はもちろん今はっきりは覚えていませんけれども、つまりこういうことのようでした。
・貧乏というのは今日の社会ではいくらでもあるものである。
・きわめて多くの人間が貧乏ないし、貧乏になる危険があるということです。
・それから、それを直すには経済学を勉強しなきゃならんというふうに、何となしに考えたのです。

・それで、高等学校二年までには、ぼくは法律をやるつもりでドイツ語を主としたクラスにいたのですが、法科に入ることをやめて、東大の経済学部に入りました。
・そこで経済学をやったのです。20を少し越した位でしょうか。
・それでとにかくマルクスという名前は知っていたものですから、そういう勉強をしたかったということなのでしょう。

・ですけど学校では当時、マルクシズムの講義とか『資本論』の講義というものがありません。
・それで当時の社会主義者といわれる人たち、例えば山川均さんとか、堺利彦さんとかいう人たちの書かれるものを、非常に読んだということ、それからマルクスとエンゲルスの共著の『共産党宣言』、それと『空想的社会主義から科学的社会主義へ』というエンゲルスのパンフレットと、この二つを熱心に読みました。
・当時はもちろん日本語訳はありません。
・今から考えると、実際はあったのですけれども、われわれの手にとても入らない、秘密出版です。
・「幸徳事件」以後、そういうものは全部、発売禁止になっています。
・私が大学に入りましたのは、大正七年で、当時ドイツとは交戦中ですから、ドイツ語の原本を読むことは出来なくって、アメリカから取り寄せて、小さなパンフレットですけれども、それを一所懸命読んだのです。
・私はだいたい、あんまり煩悶(ハンモン=心を痛めて思い悩むこと)する癖がないものですから、二冊読んで、どうもおれの行く道は、これらしいというふうに簡単に決めてしまいました。
・二年になると研究室に入れるようになるものですから、研究室にある『資本論』の原本を出してきて読みました。
・文法的には読めても、いったいマルクスが何をいおうとしているかということは、実際分からなかったのです。

・『資本論』が読みにくいというのは、………………。
・マルクスという天才的な人間が、実に当時としては読めるだけの一流の経済学書はほとんど読んで、哲学についても非常に読んでいて、バイブルからふんだんにいろんな文句がひいてあり、ゲ―テから、シェイクスピアから、セルバンテスから、ダンテ、それからいっさいのものです。
・それからハイネもはいっています。
・いろんな本を読んで、それを引用しています。
・『資本論』の内容そのものについても、経済学や、一般に社会に関する知識の水準が高いです。
・私はこの本を読んで、これは何となしに、一生かじりつく価値があるという感じをもちました。
・私は知能の発達が早くなかったものですから、だいたい本を一ぺん読んですぐ分かったためしがないのです。
・『資本論』は分からなくっても何となしにぼくをひきつけていったということです。
・その後今日まで『資本論』を何度読んだか、返事が出来ない位読んでおりますけども、やっと『資本論』が腹におちつくというようなことになったのは、50位になってからじゃないでしょうか。

・私の生涯のうちで一番本が読めたのは、この戦争中の10年間何も職につくことが出来なかったわけですから、いろんな本を読みました。
・政府が戦争中、10年間ばかり、強制的にぼくを暇にしてくれたものですから、その間に実に読むことが出来たということです。

・ただ『資本論』の内容というようなことは、簡単に説明してすぐ分かっていただくということは出来ないのでして、ぜひひとつみなさんで読んでいただくというほかには方法がありません。

    以上、です。

※今年1年で、読む会が終了するわけではないでしょうが、今年もよろしくお願いいたします。
[437] 2019年01月01日 (火) 15時38分
Kai
「資本論入門」向坂逸郎著(岩波新書)より

・国家が、財政の運営に困って、紙幣を乱発することがある。インフレーション。物価の高騰。経済秩序の乱れ。
・何一つ買えない一片の紙屑になってしまうことへも。

・金貨ではそんなことはない。
・金は、人間の生産的労働の生産物である。金貨を増加させるために、金を増加(増産)するには、それだけの労働を、この生産のために割かねばならない。
・金は、このようにして、一定の価値をもっている。
・かりに、金貨をつくりすぎたとしても、金は立派な使用価値をもっており、指輪にもなり、その他の装飾品にもなる。あるいは有用な化学的性質をもっているから、他の商品として役立ち、そちらの商品に転化されることができる。
・金は、価値が安定しているため、退蔵貨幣として用いられるが、金属としての価値を保持する。だから、紙幣とはその性質がちがっており、金貨の場合にはインフレーションは起こらない。

・金は商品として、まずあらわれた。
・小麦の一定量、綿糸の一定量、靴の一足、金の一定量、銀の一定量、鉄の一定量、衣服の一着等々、いろいろの商品が売買される。いろいろの種類の生産物が生産され、お互いに交換される。
・これを方程式に書くと、一定量の金=小麦一定量=綿糸一定量=鉄一定量…………等々となる。
・すべての生産物の一定量は、他の生産物の一定量に値する関係にある。
・したがって、一定量の金は、他のすべての生産物の一定量に等しい。
・これらの生産物の一定量が、一定の交換比率をもっているということは、それらの生産物の含んでいる人間労働の量が等しいということである。
・一定量の生産物は交換されることによって、互いの含んでいる労働量が等しいということを示している。

・A商品のx量=B商品のy量という方程式。この交換比率は、各々が等しい人間労働量の生産物であるということを示している。
・A商品x量の中に含まれている労働量を、B商品のy量という物の形で、いいあらわしている。
・この方程式の右辺は、左辺の生産物の含む人間労働の量=価値をいいあらわしている。

・交換に現われる商品の中で、誰でも受取りたがる商品がある。最も頻繁に、左辺に立つ商品の価値をいい表わす機会をもつ商品がある。このような商品は、頻繫に、交換方程式の右辺の地位にすわる。だんだん、この地位に固定される段階に入る。
・交換方程式の右辺にすわる商品の地位を「等価形態」にあるという。
・左辺にある商品を「相体的価値形態」にあるという。
・「相体的価値形態」の地位にある商品は、「等価形態」にある商品によって、自分自身の価値をいいあらわしてもらっているのである。

・ある特定の「等価形態」が、商品世界の価値関係を表現するようになると、この「等価形態」は「一般的等価形態」となる。

・この「一般的等価形態」が、ある生産物(商品)に、例えば金に固定すると、金は、貨幣となるのである。
[436] 2018年12月30日 (日) 18時38分
事務局
『資本論を読む会』第5回目の案内! 

【第5回】2019年1月18日(金)午後6時から
 会場:支局・社青同事務所において  

 ◎「貨幣の謎」に入っていきます
 12月21日(金)の第4回の「読む会」には、7名が集まりました。今回も残念ながら日程の都合で参加できないという方もいました。「第3節 価値形態または交換価値」(88pから114pまで)を読み合わせ、anakさんのレポートに基づき質疑討論しました。ここから「貨幣の謎」に入っていきます。
次回は同じく第3節の「B 総体的または拡大せる価値形態」(115pから)をはじめます。今回のレポート、参考辞書は、支局のホームページに収めてもらいます。
 ◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。

 レポーターから 
○今回からは、少し難しい言い方ですが、商品の価値形態の問題に入りますが、マルクスは冒頭で「いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない、貨幣形態の発生を証明しよう。これをもって貨幣の謎は消え失せる」と宣言します88p。
○まず「A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」で下記の表が示される90p。
│※亜麻布20エレ=上衣1着(「値する」との表現) ※第一の形態 │
│「亜麻布所有者は上衣が欲しい」という関係性の式。数学のイコールではない(向坂)│
○ここで亜麻布は相対的価値形態(他の商品よってのみ表現される)と呼ばれ、上衣は「等価形態(他の商品の価値表現に材料を提供しているだけである)と呼ばれます91p。
亜麻布と上衣という二つの商品の関係を通して、これが最終的には貨幣形態を証明するために論証されようとします。
○亜麻布という商品の価値は、他の商品(上衣)の使用価値で表現される。逆に上衣という商品は、ここでは亜麻布の価値を表現するために使われる等価形態である。
 ※上の式自体は単純な難しいものではありませんが、表現の仕方は少し面倒ですが、分かるでしょうか?マルクスは、何で、こんな七面倒くさい表現をするのでしょうネ。
○この節では、2・相対的価値形態として、「その内実」「量的規定性」などが述べられていますが、ここでは省略しても構わないでしょう(要約が面倒だ)。
○面白かったのは3・等価形態の叙述で、アリストテレスの限界の話が出てくるところです109-111p。彼は、「しとね(敷き布団の類)5個=家1軒=貨幣一定額」という式を認識したのです。「(こういう)交換は等一性なくしては存在しえない。だが、等一性は通訳しうべき性質なくしては存しえない」。しかし家がしとねに対していい表している共通の実態は何か?そんなものは「真実には存しえない」とアリストテレスは述べている。
 本当は、それは人間労働なのであるが、ギリシャ社会は奴隷労働だったので、市民と奴隷の労働力は等しくなかった。「人間は等しいという概念が、すでに一つの強固な国民的成心となるようになって、はじめて解きうべきものとなるのである。」
 「アリストテレスの天才は、まさに彼が商品の価値表現において、等一関係を発見しているということに輝いている。ただ彼の生活していた社会の歴史的限界が、妨げになって…この等一関係は、どこにあるかを見いだせなかったのである。」
○ビックリピョン!!…第1章第1節で使用価値と交換価値という表現を学んだのだが、マルクスは「これは正確に言えば誤りだった」と言います111p。この節で展開したように、「商品は…つねに第二の異種の商品に対する価値関係、また交換関係においてのみ、この(価値形態を)もっている」のであり、「このことを知ってさえすれば、先の言い方は無害であって、簡略する役に立っているのである。」と言っています。
◎「A単純な価値形態」は、一連の変態を経て114p次の節の「B拡大された価値形態」「C一般的価値形態」、そして「D貨幣形態」へと展開されていきます。 (レポートanak)

☆参加希望の方は、できれば事前に、事務局または発起人にまでご連絡ください。
※資料コピーの関係がありますので…

[435] 2018年12月27日 (木) 09時59分
Kai
C一般的価値形態

D貨幣形態

の誤りでした。申し訳ありません。
[434] 2018年12月24日 (月) 21時17分
Kai
■「面白いほどよくわかるマルクスの資本論」
     土肥誠 監修    日本文芸社
◎資本論第一巻「資本の生産過程」第一篇「商品と貨幣」第一章「商品」第三節「価値形態または交換価値」
・この節は『資本論』で最も難解とされているところです。
・商品交換のしくみから貨幣の必然性を説明しています。

■「超訳『資本論』」 的場昭弘著 祥伝社
◎第3節 価値の形態または交換価値
*貨幣の謎に迫る。
・この節は少々長い、しかももっとも『資本論』で難解なところです。
・言いかえれば、マルクスがもっとも苦心したところでもあります。
・なぜかといえば、商品から貨幣を導出するからです。

■「あらすじとイラストでわかる資本論」 文庫ぎんが堂
◎マルクスが苦心した貨幣の概念
・この節で「どうしてすべての商品は貨幣と交換されるのか」という点にスポットをあてている。
・第一節や第二節とくらべて異様に長いページが割かれており、マルクスがとても苦心して書いた様子が見て取れる。
・マルクスはこのパートを改訂のたびに書き直し、どんどんボリュームが増えていった。
・マルクスは商品の価値を表わす等価形態が貨幣に置き換えられることを証明する。


12月21日(金)の読む会に参加しました。
(なかなか、理解が…………。)
第3節すべてを読めば、…………。
・いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一大事をなしとげよう!!
・「それは、貨幣形態の発生を証明することだ。」
◎(その目次から)
A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
   x量A商品=y量B商品
B総体的または拡大せる価値形態
   z量A商品=u量B商品 または=v量商品Cまたは=w量商品D
 または=x量商品E または=その他
C貨幣形態
  ・上衣 1着    = 
  ・茶 10封度    =
・コーヒー40封度  =
  ・小麦 1クォーター=   亜麻布 20エレ
  ・金 2オンス   =
  ・鉄 0.5トン   =
  ・A商品 x量   =
  ・その他の商品量 =
D一般的価値形態
  ・亜麻布 20エレ  = 
  ・上衣 1着   =
・茶 10封度    =
  ・コーヒー40封度  =   金 2オンス  
  ・小麦 1クォーター=
  ・鉄 0.5トン   =
  ・A商品 x量   =
  ・その他の商品 =
[433] 2018年12月24日 (月) 21時12分
事務局
『資本論を読む会』第4回目の案内! 

【第4回】2018年12月21日(金)午後6時から
      会場:支局・社青同事務所において  

 ◎途中からでも、参加を歓迎します。

 11月29日(木)の第3回の「読む会」には、8名が集まりました。残念ながら日程の都合で参加できないという方もいましたが、今回は「第2節 商品に表された労働の二重性」(78-88p)を読み合わせ、Takさんのレポートに基づき質疑討論しました。当日のレポート、参考辞書、添付資料等は、支局のホームページに収めてあります。
 ◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。
 レポーターから─── 
〇商品に含まれる労働の二重性は、マルクスが初めて証明し、これが跳躍点で、経済学の理解が可能になるのだから、この点を吟味する。
○使用価値を生産する労働を「有用労働」と呼ぶ。種々の使用価値に応じて、種々に異なる有用労働の総体があり、それが「社会的分業」を形成する。
〇共同体内分業や工場内分業は商品に媒介されないから、社会的分業は商品生産の存立条件であるが、商品生産は社会的分業の存立条件ではない。商品となるは、「独立に分離した私的労働」の生産物だけである。だから、商品生産社会(資本主義)の成立には、@私的所有(独立・私的に行われる有用労働)、A社会的分業、が必要要件である。
○他方、有用労働は幾千年前から行われ、「特別な人間的要求」に「特別な自然素材」を同化させ、今では、自然に存在しない上衣・亜麻布等の膨大な素材的富を生産している。だから、使用価値の形成者として、「有用労働」は、すべての社会形態から独立した人間の存立条件であり、人間の生活を媒介する「永久的自然必然性」(人間の本性)である。
○自然に存在しない使用価値と言っても、その生産は、あくまで「自然がやっている方法で、素材の形態を変化させる」(自然科学の応用)だけであり、さらに、水力・馬力等の自然力を借りている。その意味で、有用労働は、使用価値・素材的富の唯一の源泉ではなく、「労働はその父であり、土地(自然の総称)はその母」である。
○他方、「価値」を生産する労働は、労働の「有用労働」の面を見ないとすれば、残るのは「人間労働の支出」ということであり、商品価値は、人間労働一般の支出を表している。
〇この労働は、普通の人間の「平均的な単純な労働力の支出」であり、国・文化時代で変化はするが、一定社会内では与えられている。複雑労働は複合された単純労働に整約される。だが、この整約は、生産者の背後の流通・労働市場で決定されるので、生産者は慣習で決まると思いこむ(勘違いする)。以下の研究では、単純労働を前提にする。
〇価値は、「抽象的人間労働」という同じ「質」で、その労働時間で表される「量」をもつ。
〇「生産力」とは、常に「有用労働」(使用価値)の生産力で、その増減に比例して、その源泉である有用労働の量と、使用価値の量も増減する。しかし、抽象的労働は時間で測られるから、生産力がどう変化しても、同一期間(時間)に常に同一の価値しか生まない。一定期間に、生産力増大で使用価値が膨大に増加しても、価値量は変わらない。
〇また、生産力(労働の生産度)が増大して使用価値量が増加する場合に、もし生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した使用価値総量が持つ、価値量は減少する。
〇全ての労働は、生理学的意味における人間労働の支出である。そしてこの「同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性」で労働は、「商品価値」を形成し、この「具体的な有用労働の属性」において、「使用価値」を生産する。

※「使用価値・価値規定」を終え、次からは「価値形態」です。少し楽になるはず・・・{Takくんより}


[430] 2018年12月03日 (月) 09時47分
Kai
「面白いほどよくわかるマルクスの資本論」
         土肥誠監修 日本文芸社 より。
◆商品とは?
・自分でつくった物を自分で消費→商品ではない。
・自分でつくった物をだれかに売って、自分が欲しい物と交換する。→商品
◎資本主義社会の経済のしくみを理解するために、マルクスは商品について学ぶことが大切だと言っている。
・商品を分析することで、資本主義を理解していこうというのだ。
・序文でも、「近代社会の経済的運動法則をあきらかにすることが、この著作の最終目的」と述べている。
◎商品の使用価値について。
・どんな商品でも人間の何らかの欲求を満たす性質(=使用価値)を持っている。
◎商品は種類が違うほかの商品と交換されるという性質(=交換価値)について分析する。
・自分がつくった物をだれかに売って、自分が欲している物を手に入れることができるのが商品。
・自分でつくった物を自分で使っては商品とはならない。自分がつくった物を、自分が必要としている物と交換することで、初めてその物は商品と呼べるのだ。
◆交換価値の大小を決めるのは人間の労働力で、社会的に必要な労働時間=社会的平均労働時間として換算する。
・商品の価値――労働の量によって価値の大きさが決まる。
・社会的労働時間――平均的な人が働いた場合の労働量のこと。社会的平均労働量で換算し、商品の価値が決められる。
・技術革新などで商品をつくるのに必要な労働時間が少なくなる。―→労働の量が減り、その商品の価値は下がる。
※使用価値の異なるものを計るモノサシとは。
・商品はほかの商品といろいろな割合で交換されるが、では何がその価値を決めているのか?
・そこには共通のモノサシがある、とマルクスは考えた。
・商品の交換価値は、ほかの使用価値を持つ商品との交換比率として現われる。
・この交換価値の大小を決めるのは、人間の労働力だ。(労働価値説)
・商品はすべて人間の労働力による生産物だ。商品の交換価値を決めているのはこの労働の量(具体的には労働時間の長さ)である。
・商品の価値は社会的に必要な労働時間(社会的平均労働時間)として換算される。交換の割合は商品の生産に社会的平均労働時間がどれだけ使われたかによって決まる。
[429] 2018年11月28日 (水) 21時28分
Kai
「超訳『資本論』」 的場昭弘著 祥伝社新書  より。
第1章商品 第1節 商品の二要素――使用価値と交換価値
※「資本主義的生産様式が支配している社会的富(とみ)は、『巨大な商品のかたまり』として現れ、この富を構成しているのがこの商品である。だから、われわれの研究は商品の分析から始まる。」
・資本主義社会の細胞は商品である。この商品を分析することで資本主義そのものがわかる。
・商品は「具体的に有用な価値」をもつ。すなわち「使用価値」をもったものとして出現する。
・しかし、使用価値は商品につきものだが本質ではない。
・商品の使用価値とは、(それがもつ)他人の欲望を充足(じゅうそく)するもののこと。
・(人は、商品の)背後にある何かを見ている。
【交換価値とはなにか?】
※「交換関係は、まず量的な関係として、つまり、ある使用価値がほかの使用価値と交換される比率として、時と場所によって絶えず変化する関係として現れる。だから、交換価値は、何か偶然的なもの、純粋に相対的なものである。商品に内在する固有の交換価値などは、まったく存在しないかのように見える。」
・二つの商品を交換するとき、お互いの妥協で決まるとすれば、交換比率は時と場所による偶然で決まる。
・しかし、交換価値には何か決まった量が隠されている。その価値とは何か、それをどう導出(どうしゅつ)するかが問題である。
【商品の背後に人間労働がある。】
・ある形の面積を考えるとき、三角形に分解し、その(おのおのの)面積を割りだし、それを集めて総体の面積をはかるという例を出し、商品の中に見ることのできないものを、何かに還元することで、見えるようにする。
・商品の根源を問うならば、それをつくった人間の労働しか残らない。
・労働という概念。――マルクスは、『経済学・哲学草稿』(1844年)で、「人間の類的本質は労働である。」という答えを出していた。
・その労働は二つに分かれる。
@その商品をつくる「具体的人間労働」
Aすべての商品に共通する非具体的労働、「抽象的人間労働」
※「したがって、これらの労働の異なった具体的形態も消える。もはや相互に区別されることなく、すべて同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に還元される。」
・その交換価値を規定している労働は、どうやって測られるか。その中に含まれている労働の量によって決まるのだ。具体的には、労働が支出された労働時間――労働日によって決まるのだ。
【社会的に平均化された労働】
・それは、個々の労働が決めるのではなく、社会的に平均化された労働が決めるのだ。
※「社会的に必要な労働時間とは、現実に存在する社会において、正常な条件と労働熟練と強度を社会的に平均した、なんらかの使用価値をつくり出すために必要とされる労働時間である。」
・生産力が発展すればするほど、社会的に必要な労働時間は減少していくということを説明する。(このあたり、マルクスの説明は少々ぎこちない気がする。商品の中にある人間労働を引き出すにしては、実は説明が足りない。しかし、ここで延々とそれをやるわけにはいかない。商品の歴史を見なければならないのだ。スミスは原始社会から説明するが、マルクスはそれをしないのでわかりにくい。)
・(マルクスは次の第2節で、はじめて歴史的経緯を説明することになる。)
[427] 2018年11月20日 (火) 09時21分
Kai
文庫ぎんが堂「あらすじとイラストでわかる資本論」より

商品、その2
・商品には「使用価値」と「価値」という2種類の価値が存在する。
・役に立つという価値が使用価値。
・資本主義社会で築かれている巨大な富は、商品の固まり。
・商品は資本主義を構成している細胞であり、商品について正しく理解すれば、資本主義そのものの全貌が見えてくるのだ。
・商品とはなにか。商品は役に立つから購入される。役に立たないものは購入されないし、商品ではないのである。商品には役立つという値打ち、「使用価値」がある。

・交換の指針となる→交換価値
・資本主義とは、自由に商品を生産・流通させて利益を得ようとする体制のことだ。流通させるために別の価値が存在する。
・商品の価値を決定づけているもの、それは商品を生み出した人間の労働量である。

*使用価値と交換価値
・使用価値とは、商品の役立つ値打ち。
・価値とは、商品を生み出した人間の労働量。
[426] 2018年11月13日 (火) 10時23分
Kai
文庫ぎんが堂「あらすじとイラストでわかる資本論」より

・資本主義社会では、すべての富が商品でもって表される。商品は人間の欲望を満たすもの。人の「役に立つ」度合によって「使用価値」の多さが決まる。
・商品は交換される。そのときこれらの商品は同じ「価値」をもつ。この価値はそれぞれの商品の具体的な性質には関係がない。
・同じ価値をもつ、その共通なものは、それらをつくるのに必要とした労働の量だ。労働の量は、労働時間で計られる。それらの商品に共通する価値は、社会的な人間労働による労働時間である。
・この労働時間とは社会的に平均的な労働の量を表す。社会の発展度合や技術の水準によって、大多数の労働者の極めて平均的な労働支出である。そのような抽象的な平均的社会労働の量がどれだけ加えられたかが価値に表される。
・商品とは使用価値と価値をもつ。例えば空気や水のように人間の生存に役立つだけのものは商品ではない。そこに人間労働が加わっていないからだ。また役立つものをつくって自分で消費する場合、そのものは商品ではない。そこに交換がないからだ。
[424] 2018年11月09日 (金) 12時39分
事務局
 資本論第1章第1節「商品」始まりました

 10月25日(木)の第2回資本論を読む会には、9名が集まりました。新しく30代の若者が二人参加。平均年齢のバランスもとれてきたみたい。
 当日は、都合により参加できないと返事を頂いたのは7名。今回は「第1節 商品の二要素」(67-78p)を読み合わせ、レポートに基づき質疑討論しました。

 当日のレポート、参考辞書、添付資料(マルクス・エンゲルス年史、産業革命の時代区分)等は、支局のホームページに収めてあります。
 ◎http://socialistho.cafe.coocan.jp/「資本論を読む会」コーナーにあります。

レポーターから(まとめ)
〇人間は昔、「自分で生産」して「自分で消費した」。資本主義では、ほとんどすべてが「商品」 として生産される。これが資本主義の最も特殊な所。だから、商品から分析を始める。
〇「商品」が実際に持っているものは、「使用価値」(質)と「価値」(量)。
〇「使用価値」は、「人間の欲望を満たす」、商品それぞれが持つ様々な「有用性・効用」。それは 具体的形状からもたらされるから、商品や商品のその属性自体も「使用価値」と呼ぶ。
〇「価値」は、まず、「交換価値」(2商品間の交換比率・価格)という「現象」で現れる。異質な 使用価値が「等しい」という現象は、両使用価値とは異なる同質の「第三のもの」が、「同量」 あることを示しており、それが「価値」である。
〇使用価値・効用は「具体的な自然的実体」だが、価値は「抽象的な社会的実体」であり、使用 価値・効用は一切含まない。
〇価値は「第三のもの」(等しい質)の「ある量」だが、それは次のように決まる(規定)。
 @:「質」としては、㋐人間の「抽象的労働」、が、㋑商品に「対象化・結晶」したもの。
 A:「量」は、「抽象的人間労働の労働時間量」で測る。
 B:「抽象的人間労働」とは、個々バラバラの労働ではなく、「社会的平均的同一労働」。その労働で生産する場合の、「社会的に必要な時間」が、「価値の量」である。
 C:「社会的必要労働時間」が価値の量となるが、「社会的必要」とは、現存する社会での、㋐正常な生産条件、㋑正常な労働の熟練と強度、を使う場合を前提としている。
〇こうして決まる価値は、固定された量ではなく、生産条件(労働者の熟練・科学の応用・協業分業・生産手段の規模・自然環境の影響等)の変化と共に増減する。
〇以上から、商品価値の量は、「労働の量に正比例」し、「生産力に反比例」するという基本的特徴がある。同一時間に生産される商品量が増えると、1商品当りの価値量が減少。
〇その他の注意点
 ㋐価値ではないが使用価値であるもの:労働を含まない自然物。空気・処女地・自然林等。
 ㋑有用な生産物だが商品ではないもの:自分で生産して、自分で消費するもの。共同体の内部  消費や封建制農奴の自家消費、資本主義での兼業農家の自家消費、等。
 ㋒「商品生産」に必要な二つの社会的条件:ⓐ他の人のための使用価値を生産するという「社会的分業」、ⓑ他の人に交換によって譲渡しなければならないという「私的所有」。
 ㋓最後に、「使用価値・効用のないもの」の労働は無効であり、価値を形成しない。
――――――――――――――――――――――――――――――
※何の前提もなく始まる、この「1節・2節」あたりは、用語や「簡単な1文」自体が難解ですが、あと少しなので頑張りましょう!次回は第2節(78p〜)です。【Takより】
[421] 2018年10月28日 (日) 20時33分
Kai
続けて、「漱石と『資本論』」小島英俊・山ア耕一郎共著(祥伝社新書)に、次のようにありました。
※「商品」の出現
・『資本論』において、最初に出てくるキーワードは「商品」である。
・資本主義経済においては、産物は売るために作られる。
・産物は、交換に供(きょう)し、異なる産物を他人から入手するために作られる。
・このような商業社会は、商品交換に端(たん)を発する。
・そこで、資本主義経済を分析対象とする『資本論』では、「商品」が最初の考察対象となっているのである。

※「使用価値」と「価値」
・しかし、この商品交換はなかなかうまくいかない。
・なぜなら、こちらの商品(との交換)を、相手が望むとは限らない。また、双方ともに、自分の商品の価値を高めに評価し、相手方の商品が低く見える。
・この現象を見据(みす)えて、マルクスは商品には二面性があると考えた。
・それが「商品」の持つ「使用価値」と「価値」である。
・「使用価値」とは、使用者にとっての有用性を指す。
・「価値」とは、こちらの産物の一定量が、相手のどんな産物のどれくらいの量と交換できるかという観点から見た、商品の性質である。
・「使用価値」と「価値」はたがいに相容れない。
・水は人間に不可欠な「使用価値」を持つが、「価値」はきわめて低い。
・金(きん)は限定的な「使用価値」しか持たないが、「価値」はきわめて高い。
・この商品の二つの側面を定性的に対比すると、対象的である。
   ・使用価値=個別的、具体的、主観的、流動的。
   ・価値=一般的、抽象的、客観的、安定的。
[420] 2018年10月27日 (土) 17時16分
Kai
いよいよ、『資本論』本文にはいりましたね。
たまたま、二日酔いの寝起きに、手元にあった佐藤優著「資本主義の極意――明治維新から世界恐慌へ」NHK出版新書をみたら、次のようなものがありました。

※「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、『巨大なる商品集積』として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。」
・資本主義の根源は「商品」だから、「商品」の分析から始めるということ。
※商品の「価値」と「使用価値」の違い
・資本主義社会のなかでは、あらゆる商品に「価値」と「使用価値」という二つの性格がある。
・「価値」とは、貨幣と交換できる商品の性格。単純化していえば、値段のこと。
・「使用価値」とは、個々の商品の有用性を指す。
※「一般的等価物」
・交換しようとしている(自分と相手との)商品は、使用価値で表現される。
・(しかし、)これでは、商品の交換はほとんど実現できない。
・だから、きまぎまな商品と交換できるモノが必要になる。
・「これを持っていけば何でも手に入る」ものである。
・マルクス経済学ではこれを「一般的等価物」と言う。
・現在で言えば、貨幣である。
[419] 2018年10月27日 (土) 09時14分
Kai
いよいよ、『資本論』、第一巻 資本の生産過程、第一篇 商品と貨幣、第一章 商品、から始まりますね。

・第一版の序文にもありましたが、『資本論』は(マルクス著の)『経済学批判』の続きであり、『経済学批判』の内容は、『資本論』第一巻第一章に要約されている旨であります。

・『資本論』、第一章、商品、第一節、商品の二要素――使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)は、
「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、『巨大なる商品集積』として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。」から、始まります。

・『経済学批判』は、第一部 資本について、第一篇 資本一般、第一章、商品、
「一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。」から始まります。

※なるほど、『資本論』は『経済学批判』の続きであり、『経済学批判』の内容は、『資本論』第一章に要約されているのですね。
[413] 2018年10月17日 (水) 19時51分
Kai
・『資本論』第一巻をはじめからよむ。ところが、このはじめの部分が一番よみづらいところなのだ。
・たいていの人は、これに閉口して、第一分冊の第一編でやめてしまうことになるらしい。
・しかし、この第一章で、価値といわれるものがあるかたちにつくり上げられている人間労働であることを、とにかくそのまま承認し、さきにすすむといいのではなかろうか。
・それが人間労働であると、いろいろの経済現象、貨幣とか資本とか賃金とかいうものがどういう意味をもち、資本とか労働とかがどういうはたらきをするか、さらに今日の資本主義の社会がどんなメカニズムでうごいているか、それがさらに発展しつづけると、資本主義はどうなるか、というふうに、マルクスは理論を追求してゆくのである。

・はじめてよむ人、経済学を専攻していない人なら、第一巻をおわりまでよんだら、もう一度、第一巻をはじめからよんでみたらどうかと思う。
・第一巻は、最初の第一編はたいへんむずかしいが、第二編ごろからさほど困難ではなくなる。
・近代の機械をもってする生産様式が、資本主義社会の分業からどのように発達してきたか、またその発達してくるあいだに労働者はどういうめにあったか、機械による生産様式が発達して資本と資本とが食いあうようにどうしてなるか、そもそも資本主義的なやりかたはどうして歴史上生まれたか、それは資本の競争によって発達して、ついには資本主義そのものをどうするかというようなことが、イギリスの事実の歴史にもとづいて、力づよい文章で説明されていくのである。
・これらの部分はついひきずられてよんでいくほどおもしろいのである。

※これは、向坂逸郎著「私の社会主義」(至誠堂……S34.6.10第2刷)からの文書です。
・1970年代に購入したものと思って図書館から借りたのですが、私が思っていたのは、1975年発行の向坂逸郎著「新・私の社会主義」(至誠堂)でした。
[402] 2018年09月28日 (金) 21時25分
BAT
「資本論を読む会」の情報をホームページに掲載しました。

第1回の配布資料も掲載しています。


 → http://socialistho.cafe.coocan.jp/
[399] 2018年09月19日 (水) 11時58分
事務局
「資本論を読む会」の1回目は、30歳から74歳まで8名が参加


 9月11日(火)のスタートには、8名が集まり、『資本論を読む会』がはじまりました。年齢層は30歳の若者から74歳。
 レポーターから 
◎まずは、序文から。
@「何事も初めが難しい。この本も第一章、とくに商品の分析の部分が最大の障害になるだろう。」「価値形態にかんする節を除けば、この書は難解ではない。」
 ・この本を読むにあたっては、覚悟をもって、のぞめということでしょうか。しかし、「価値形態部分を除けば、この書はむずかしくないよ」と。おどし、すかし、でしょうか。
A「何か新しいことを学び、自分で考えようと志す読者を想定している」
 ・私たちも、そういう読者でありたいですね。
B「死者が生者をとらえている」
C科学的な批判なら、どんな批評でも歓迎する。世論というものにも譲歩はしない。しかし、その偏見に対しては次の格言のとおりである。「汝の道を行け、そして人々の語るにまかせよ!」
D「学問に、坦々たる大道はなく、学問の急峻な山路を登るのに、疲労困憊をいとわない者だけが、輝かしい絶頂をきわめる」
E(英語版の序文より)「イギリスが、平和的合法的手段で社会革命を遂行しうると、マルクスは言い、かつ、イギリスの支配階級が反逆なしにこの平和的合法的革命を甘受するだろうとは思わないと付け加える」
 いよいよ次回からは、「第一巻 資本の生産過程 /第一編 商品と貨幣 /第一章 商品」のスタートです。
・とりあえず、1か月の間、ひととおり目をとおして、読めない漢字、むずかしい言葉の意味等を調べておこうかなと思います。
・レポートはTakさんです。よろしくお願いします。【Kaiより】 

【第2回】2018年10月25日(木)午後6時から。会場:支局事務所において
 ◎初回のレポートと配付資料は支局のホームページに掲載します。  
 ◎一緒に読む人、まだ募集中です。連絡してください。
[398] 2018年09月15日 (土) 15時53分
Kai
文庫ぎんが堂「あらすじとイラストでわかる資本論」より

・マルクスが『資本論』を書いたのは、イギリス滞在時の19世紀半ばである。
・当時のイギリスは、最も資本主義経済が進んでいた国だった。
・そこで、マルクスが見てきたものは、資本家に搾取され、使い捨てられるといった労働者たちの悲惨な姿であった。彼らは、まさに、資本主義社会が生んだ奴隷のような状態であった。
・そんなイギリスにも資本主義体制を分析する経済学者たちがいたが、彼らは資本主義の経済法則を研究するばかりで、搾取され続ける労働者たちを救おうとはしなかった。
・マルクスの武器は、経済学者としての知識だけではない。哲学者ヘーゲル仕込みの弁証法哲学、文学的知識、宗教学的知識等々を総動員したうえで、資本主義社会を賞讃する経済学者たちに立ち向かった。
・資本主義体制を批判して、搾取されるばかりの労働者を救うために、人生の大半をかけて『資本論』という大著を執筆したのだ。
・マルクスが長い年月をかけて執筆した『資本論』は、膨大な量になっている。1巻だけでも分厚い書物なのに、全3巻で構成されている。
・そのうちマルクス本人が書いたのは1巻部分だけ。彼は志半ばにして亡くなってしまう。残りの2巻と3巻は、友人のフリードリヒ・エンゲルスが、マルクスの残した草案をもとに書き起こしたものだ。
・マルクスは資本主義体制を批判するために『資本論』を書いたわけだが、マルクスが『資本論』をいちばん読んでほしかったのは、資本主義体制で働く労働者たちだ。だからこそマルクスはこういっている。「ここで報告しているのは、あなたのことだ。」と。

・ヨーロッパ各国を追放されたマルクスは、1849年8月、ロンドンへ亡命。ここから、マルクスは経済学の研究を本格的に始める。
・大英博物図書館に毎日のように通い続けて、1日8時間、膨大な書物を読みあさり、ノートにメモを取っていった。
・その研究の成果として出版されたのが、『経済学批判』である。
・経済学を研究すればするほど新しい課題がみつかってきた。当初、『経済学批判』を全6巻とする予定だったが、予定を変更し、第2巻以降を『資本論』として、全4部構成とすることとした。そのため、『資本論』の副題は「経済学批判」となっている。
・『資本論』の刊行は大幅に遅れた。『資本論』の前身となる『経済学批判』が刊行されて7年後の1866年、ようやく、第1巻が清書できる段階になったという。
・そして、とうとう、1867年『資本論』第1巻が完成する。
・続いて第2巻の執筆に取りかかるが、1883年、完成を目前にして亡くなってしまった。
[387] 2018年08月29日 (水) 21時20分
Kai
「いま生きる『資本論』」佐藤優著(新潮社)より。
・ドイツ語で読むとハッキリするのですが、第一巻の書き方と第二巻目以降の書き方や文体は全然違います。
・『資本論』は二巻目以降となると、文体ががらりと変わり、読みやすく、意味もわかりやすい。ただ、ほとほと無味乾燥で退屈な文章なんです。
・若い頃には下手な詩人でもあったマルクスが書いた第一巻の文章は、ドイツ観念論の影響を受けた文体と、ぐねぐねとした論理構成で難解なのですが、言説が重層的になっていて知的刺激を強くうけます。
・それに、文学趣味的な比喩もあるし、文学作品からの引用もある。なぜ、こんな違いが生じたのか。
・マルクスが自分の筆で書いたのは『資本論』の第一巻だけだから。
・二巻目以降は、マルクスの盟友のエンゲルスが、マルクスの草稿を基に書いたのです。
・ですから、『資本論』の第一巻と二巻、三巻では著者が違うのです。マルクスの遺した膨大な草稿の中から、エンゲルスが「マルクスはこう考えていたであろう」という形で編纂したのが『資本論』の二巻目以降なんです。
・実を言うと、本当はもう一冊、『資本論』の第四巻として想定されていた書物があって、実際にはマルクスはそちらのノートを先に書きました。
・『剰余価値学説史』という大著で、エンゲルスも亡くなった後にようやく公刊されました。
・ただ、『剰余価値学説史』というのは読んでもなかなか分かりずらい。
・1859年に、マルクスは『経済学批判』という本を刊行しました。
・構想では、これを第一部として、全六部からなる大著を数年で書き終えるつもりだったのです。
・ところが、その続編『資本論』第一巻が出たのは1867年ですから、8年もぼやぼやしていたわけですね。
・挙句の果てに、彼の手で完成できたのはこの第一巻まででした。どうしてかと言うと、マルクスはいちばん最初の価値論のところで行ったり来たりして、何度も何度も書き直していたからなんです。  (以上、途中まで。)
[380] 2018年08月25日 (土) 23時50分
Kai
「資本論入門」向坂逸郎著(岩波新書)より
・『資本論』は、1867年、明治維新の前の年に出た。
・はじめ、『経済学批判』を書きつづけて行くつもりで、1859年、『経済学批判』第一分冊を公にした。
・しかし、マルクスは、この構想をかえて、新たに(『資本論』の)原稿を書きはじめた。
・『資本論』第一巻の序文の中でいっているように、『資本論』は、その内容において『経済学批判』の続巻である。
・しかし、(『資本論』が出た)1867年まで、(『経済学批判』の第一分冊が公になった年からは、)9年近くもかかった。
・それは、その頃のマルクスの手紙によると、マルクスが病気がちであったからである。
・若い頃のマルクスは、官憲の記しているところによると、頑丈なようであったが、永年の貧乏と社会主義運動上の労苦とが、彼の健康をむしばんでいって、『資本論』の原稿を第一巻にまとめる頃は、ずいぶん病気になやまされていたようである。
・第一巻は、1000部刷られたが、これを売りつくすのに約4年かかった。マルクスの貧乏はつづく。
・『資本論』第一巻の第二版は、やっと1872年にできた。
・第三版は、1883年、マルクスの死後に、エンゲルスの手で発行された。
・第三版のための多少の改定は、マルクスの生前に、マルクスの手でなされていたが、本になったのは1883年11月。同年、1883年3月14日にマルクスは(すでに、)死んでいる。
・『資本論』第二巻、第三巻は、マルクスの死後に公刊された。
・マルクスは、『資本論』第三巻の最後まで、大体、その構想にしたがって、下書きをつくっていた。
・この下書きの全部は、まだ印刷されたことがない。
・戦前に出た『マルクス・エンゲルス全集』(これはナチスのために刊行ができなくなって、中止された。)の計算によると、この草稿を全部印刷すると、現行『資本論』の約四倍ぐらいになるということである。
・エンゲルスによると、この下書きは、かなりよくまとまっており、詳細に書かれているところもあるが、せいぜいヒントを与える程度にしか書かれていない所もあるし、同じテーマについていろいろの所に飛びとびに書かれていることもある、とのこと。
・マルクスの原稿は、きわめて読みにくく、小さな字で書かれ、消した字があり、書入れが行間にあったりで、あれをよく読むのはエンゲルス以外になかったかも知れない。よほどマルクスの字に慣れないと読めない。
・(ドイツ留学のとき、)社会民主党の書庫の金庫の中に保留されていたマルクスの原稿を見せてもらったことがある。(全集作成のため、)マルクスの原稿の上に天眼鏡をおいて、分かりにくい字を判読して、書き写している人がいた。
・このような原稿から、エンゲルスは、『資本論』第二巻(1885年)、第三巻(1894年)をつくりあげた。
・あるところは、エンゲルス自身が書いた。エンゲルスの筆になるところは、それが読者に分かるようになっている。
・マルクスは、別に、剰余価値に関する理論の歴史を書くつもりでいた。
・これを、『資本論』第四巻として公刊したい心組みであった。
・しかし、この第四巻は、エンゲルスの生前には、でき上がらなかった。
・エンゲルスはこのことを考えて、マルクスの原稿の読み方にいたるまでの手ほどきを、カール・カウツキーにしておいたらしい。
・それで、この第四巻に当たる部分は、『剰余価値学説史』(三巻)として、1905年から1910年の5年間に、公刊される運びになった。
・マルクスが、経済学に関する大著を書く計画を立ててから25年ぐらいたって『資本論』第一巻があらわれ、第二巻、第三巻が本になるには、彼の一生では足りなかった。
・まだまだ、印刷されていない手稿がのこっている。
[370] 2018年08月23日 (木) 17時51分
Kai
「漱石と『資本論』」小島英俊・山ア耕一郎著(祥伝社)より
◎初版は1000部
・『資本論』第1巻は、1867年に最初にドイツ語版で世に出た。
・この時の印刷部数はたった1000部。
・しかも、それが売り切れるまで4年かかっているから、最初はいかに無視・冷遇されたかがわかる。
・1883年、マルクスの没後、その遺志を継いだ盟友エンゲルスによって、ドイツ語版の第2巻が、1885年、第3巻が1894年に出版された。
・ドイツ語版以外を見ると、1872年に第1巻のフランス語版が刊行され、1万部が売れた。
・同年には、第1巻のロシア語版が3000部で刊行、1年間で完売した。
・ロシア語版の第2巻、第3巻は、ドイツ語版以外で、先陣を切って刊行された。
・しかし、英語版の第1巻は、ドイツ語版に遅れること20年の1887年にようやく刊行された。
・高畠素之が日本ではじめて『資本論』の全巻を翻訳、1920年から1924年に刊行された。
・日本における『資本論』普及の幕開けである。その第1巻は10万部以上売れたという。
・1852年に共産主義者同盟の解散。これ以降マルクスは10年以上、組織活動から遠ざかる。
・苦しい生活の中、マルクスは毎日のように大英博物図書館に通い、朝9時から夜7時まで読書と思索に没頭した。
・その成果の第一弾が、1859年の『経済学批判』であり、労働力の搾取によってのみ生まれる「剰余価値学説」を確立した。
・そして、8年後の1867年、それを発展させた『資本論』第1巻が完成するのである。
・マルクスは不摂生もあって病気がちだったが、肝臓肥大という深刻な診断を受ける。
・マルクスは1883年3月14日に64歳で亡くなった。
・マルクスの膨大な遺稿は、すべて盟友であるエンゲルスに預けられた。エンゲルスは遺稿を整理して、1885年6月に『資本論』第2巻、さらに1894年12月に第3巻を出版し、翌1895年に死去した。
[368] 2018年08月21日 (火) 17時05分
望ちゃん
資本論を読む会のスタートは、

9月11日(火曜日)の午後6時から
支局事務所で
第一回を始めることにしました。

資本論第一分冊(岩波文庫)
6本の序文(マルクス、エンゲルス)をやることにしました。
全文で53ページにもなるので、全部読み合わせは出来ません。

とりあえずKaiさんに、レポートをお願いしてありますが、
どこか選択して読むことになると思いますが、
参加希望者は、基本的に読んでくることをお奨めします。

今後の進め方は、第一回の時に相談したいと思います。
別途、案内文を作りますが、参加希望者は支局かSYの事務局に連絡しておいていただけると、何かと幸いです。

ご健闘をお祈りします。
[363] 2018年08月14日 (火) 13時08分
望ちゃん
 「資本論」向坂訳の岩波文庫は1969年の第一刷から改訂されていないみたいですね。
 自宅にあった文庫本で確認してみると、
第1分冊から第3分冊までで、序文を入れて全25章、1247ページになります。
 2カ月に1回だと、1年に6回。4年で24回で1巻分を終わらせるとしたら、1回あたり52ページほど読まなければなりません。

 ただひたすら読み続けるにしても大変です。

[356] 2018年07月26日 (木) 09時36分
old socialist 再掲 
9月から資本論を読む会の開始が予定されている。すべてを理解するのは大変だが、資本論を読む基本は賃労働に対峙(包括)する資本の運動とその法則性の理解、資本存在の限界性を解き明かすことにある。

私はあらためて資本論が、労働価値説の基盤のもと、剰余価値の出生(搾取)を解き明かしているのかをよみとりたいと思います。

価値を生み出すのは労働なのだ。社会の主人公は労働者なのだ、という歴史変革の主体をかくにんするためにも。

 このことは、講座派、宇野派とも異なる労農派の資本論、マルクス理解になると思います。若者の参加を期待します。まずは読みましょう。
[353] 2018年07月20日 (金) 16時26分
ゴメン! エンカガルス 
文庫版でやるのだと思うが、
岩波文庫版−向坂逸郎訳
国民文庫版−岡崎次郎訳

岩波版だベ
[352] 2018年07月20日 (金) 11時17分
望ちゃん
運営や進め方についてのご意見
・2カ月に1回ではなく、毎月開催でも良い。
・道央の学習会が新テーマになるのだから、資本論にしたらどうか

どうでしょう?
・毎月開催は、我々は全然大丈夫ですが、現役の方(参加があればですが)は少しきつくはないですか?相談が必要ですね。
・道央はメンバがたくさんいまし、道央地方協がOKであれば全然構いませんよね。ただし始めれば、挫折すれば、それが道央学習会の挫折にもなるからな。当面2年間だけやってみるとかすれば良いかも?

こんなところ、意見が寄せられましたが、どうでしょう。
[350] 2018年07月20日 (金) 09時16分
たかしゃち
※いま生きる「資本論」 佐藤優さん (新潮社)より
・ここにあるのは、岩波文庫版、向坂逸郎訳の『資本論』です。全部で九分冊になっています。
・これ、なぜ読み通せずに挫折するかといったら、長いから道半ばで挫折するのではありません。
・いきなり最初からつまずいてしまう。序文に問題があると思うんですね。
・岩波文庫版の『資本論』には序文が六つあり、延々と続いていく。だいたい、新書一冊の3分の2ぐらいもある。序文を読み終わる前に扉をとざす、というのが通常のパターンです。
・『資本論』は全三巻からなっています。
・岩波文庫の場合は、第一巻「資本の生産過程」が三冊、第二巻「資本の流通過程」が二冊、第三巻「資本主義的生産の総過程」は四冊に分かれていて、計九分冊。

※私の手もとには、岩波文庫版の『資本論』が、何故か、第一分冊、第二分冊、第九分冊の三冊があります。何故、三冊なのか記憶にありません。
・第一巻(1〜3分冊)をやりきるぞ!とのことですので、三分冊目を購入し、第一巻分を用意しておこうと思います。
・実は、「資本主義的蓄積の歴史的傾向」について、文庫本で読んでみようと、三分冊目を買いに本屋へ行ったら、1000円ぐらいしたので、購入しませんでした。第二分冊は、1980年第16刷発行時は550円でしたのに。
※さて、「読み合わせだけ」というのは、大賛成です。何か議論したいことや、聞きたいことがあったら、読み合わせを終了させて後、交流すれば良いのですから。
・また、途中から参加する人がいても、読み合わせだけなら、躊躇なく参加可能ですよね。
※私も参加させていただきます。よろしくお願いします。
[348] 2018年07月11日 (水) 22時20分
old socialist
9月から資本論を読む会の開始が予定されている。すべてを理解する
のは大変だが、資本論を読む基本は賃労働に対峙(包括)する資本の運動とその法則性の理解、資本存在の限界性を解き明かすことにある。

私はあらためて資本論が、労働価値説の基盤のもと、剰余価値の出生(搾取)を解き明かしているのかをよみとりたいと思います。

価値を生み出すのは労働なのだ。社会の主人公は労働者なのだ、という歴史変革の主体をかくにんするためにも。

 このことは、講座派、宇野派とも異なる労農派の資本論、マルクス理解になると思います。若者の参加を期待します。まずは読みましょう。
[395] 2018年07月10日 (火) 20時37分



Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板