これからの社会主義

社会主義の制度、政策を真面目に議論する

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2018年5月5日(こどもの日)は、マルクス生誕200年 [1274]
Socialist Association
ついこの間に「資本論150年とロシア革命100年」を記念したばかりなのに、マルクス生誕200年は、あまり騒がれなかったですね。
 何か、書き込んでみませんか。 

◎カール・マルクス(1818年5月5日生-1883年3月14日没)
ちなみにフリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)

◎マルクスの主要な著作
○ユダヤ人問題によせて1844年/フォイエルバッハに関するテーゼ1845年/MEドイツ・イデオロギー1846,年/哲学の貧困1847年/
○共産党宣言1848年/フランスにおける階級闘争1850年/ルイ・ボナパルトのブリユメール18日18582年/
○経済学批判序説、第1分冊1859年/賃金、価格、利潤1865年/資本論第1巻1868年
○フランスにおける内乱1871年/ゴータ綱領批判1875年
[309] 2018年04月25日 (水) 14時42分

タカ
マルクス『共産党宣言』と「二段革命論」
について
 
※1979年2月まなぶ増刊号
「資本主義から社会主義へ」
――『共産党宣言』発刊130年」――
が手元にある。
*この中に、
■現代に生きる『共産党宣言』
東京大学教授 塚本健さんの文がある。
1、今日の社会主義革命と『共産党宣言』
2、階級対立・階級闘争の発展
3、世界史の法則の認識と実践
4、労働者階級とマルクス主義者
5、生産手段の国有化と私的所有
6、「個人の自由」の観念と現実
7、社会主義革命の過程
8、民主主義闘争論と二段革命論
9、国家の本質とその政治的性格
10、現代のえせ社会主義思想
  と、項目立てて論じられている。
この中の「8、民主主義闘争論と二段革
命論」では、
・第二次世界大戦前の日本で、プロレタ
リア革命に先行するブルジョア民主主義
革命の問題として、どのように論じられ
たかについて記載されている。
 第2次共産党は、まず第一段目に「封
建的絶対主義的要素」とたたかい、ブル
ジョア民主主義革命を成立させ、そのつ
ぎに第二段目として社会主義革命を遂行
させようとしていた。
 社会主義革命の道のりのなかでの改良
闘争、民主主義闘争の位置づけが、まず
ブルジョア革命、つぎにプロレタリア革
命という、いわゆる二段革命の図式に整
理され論じられていた。
 これにたいして、山川均は、労働者階
級の当面する課題は、反絶対主義の民主
主義闘争ではなく、反独占民主主義闘争
である。この民主主義闘争は社会主義革
命にとり「欠くべからざる必然の段階で
あるとのべていた。
 (1931年日共政治テーゼ草案では、
二段革命論が放棄され、1932年テーゼ
では、ふたたび二段革命論が採用された。
……混乱を呼んだ……。)
         等の記載があります。

白井聡さんは、当時の日本における、
こうした動きや、講座派、労農派の理論
的違いを知っているだろうに、なぜ、新
書「今を生きる マルクス 生を呑み込
む資本主義」で、【『共産党宣言』は「二
段階革命論」と呼ばれる革命論を打ち出
した。】などと記述したのだろうか?
[914] 2023年04月17日 (月) 15時36分
タカ
「今を生きる
   マルクス
     生を呑み込む資本主義」
               白井 聡
*『共産党宣言』は「二段階革命論」と呼ば
れる革命論を打ち出した。
*どの国、社会でも、第一に封建制の社会秩
序を破壊するブルジョア革命が必要であり、
それによりブルジョア民主主義と資本主義の
飛躍的発展が可能になる。
*資本主義が十全に発達したその先のどこか
の時点で、資本主義社会の内的矛盾が高まり、
それ以上の発展が不可能になる。そのとき、
社会主義革命が可能になる。
*社会主義革命は、労働者階級を権力の座に
就け、生産手段の私有、大土地所有の禁止等
の政策を実行することによって資本主義を廃
絶し、階級支配を廃絶する。
*この労働者階級による支配と、それによる
資本主義の廃絶が行なわれる過程の段階を、
後にマルクスは「プロレタリア独裁」と呼ぶ
ことになる。
*この過程が完成し、高度な自由と平等、豊
かさが実現された社会が共産主義社会である。

■タカ■
*ところで、そもそも、マルクスはドイツ語
で「二段階革命」「二段階革命論」なんていう
言葉を使っていたのでしょうかね。
[906] 2023年04月06日 (木) 09時50分
「賃労働と資本」(1847年)
*「資本論」におけるマルクス経済学の基本的な点が、すでにできあがっているのを思わせる。
*労働価値説というマルクス経済学の土台はできているが、労働力の価値という言葉を発見してはいない。
*のちに、エンゲルスが改定を加えて公刊した。
*この書は、マルクス経済学のマルクス自身の手になる最良の手引書の一つとなっている。
[476] 2019年08月08日 (木) 11時48分
KAI
「マルクスだったらこう考える」 的場昭弘 著    光文社新書  2004.12.20初版  
◎的場昭弘  1952年生まれ。当時、神奈川大学経済学部教授。「アソシエ21」事務局長。
※2008年リーマンショック。
・マルクス『資本論』に対する再認識の広まる前の発行であった。
・この本の中から、(マルクスが消えかかっている現状において、マルクスからの自己紹介)その抜粋。

◎私、カール・マルクスは、1818年、今のドイツ、トリーアの町で生まれた。
◎ボン大学、ベルリン大学で法学を学んだが、途中、哲学に興味を持ち、哲学をテーマに博士論文を書いた。
◎大学の教師になるつもりだったがうまくいかず、ジャーナリストになった。
◎1843年、当時のプロイセンを後に、パリへ。そこで、社会主義思想に出会う。
◎この思想・運動により、1845年にはパリを追放され、ブリュッセルに3年間住むことになる。
◎パリ時代には『経済学・哲学草稿』(1844年)を書く。これは出版していない。
◎ブリュッセルでは、『ドイツ・イデオロギー』(1845年〜1846年)をエンゲルス(1844年以来、生涯の友人となる。)たちと書いたが、これも出版していない。
◎エンゲルスとの共著『聖家族』(1845年)をはじめて出版した。
◎単著としては、フランス語で書いた『哲学の貧困』(1845年)を出版した。
◎『共産党宣言』を書いたのも、ブリュッセルだった。

◎仕事としては、『ライン新聞』(1842年〜1843年)、『独仏年誌』(1844年)、『フォアヴェルツ』(1844年)、『ブリュッセル・ドイツ人新聞』(1847年〜1848年)、『新ライン新聞』(1848年〜1849年)などの編集、執筆をしていた。(たいした金にはならず、親の財産を食いつぶしながら生きていた。)

◎1848年の三月革命の際、ケルンに帰るが、革命が失敗した後、出国。パリを経由して、やがてロンドンに落ち着いた。(ロンドンでは親元からの金も使い果たし、仕事もなく、苦労をした。遅れてやってきたエンゲルスの仕送りと、ニューヨークの新聞の原稿料だけで生計をたてていた。もっとも、親戚の遺産が転がり込んできたり、エンゲルスの収入が増え、その仕送りで生活は改善されたが、それでも貧乏だったのは、マルクス本人と妻の生来の金遣いの荒さが原因でもあった。)

◎ロンドンでは、毎日のように大英図書館に通った。
◎1857年から1858年にかけて、最初のノートが完成。死後、『経済学批判要綱』として出版された。
◎1859年、年下の友人ラッサールの紹介で、ドイツの出版社から『経済学批判』を出版。
◎これらの原稿を何度か書き直した後、1867年、名前を改め、『資本論』の第一巻として出版した。
◎1883年、65歳を目前に、あの世に旅立った。
[432] 2018年12月14日 (金) 19時22分
KAI
カール・マルクス
・1818年5月5日、ドイツ、プロイセン領ライン州トリール市に生まれる。
(ベルリン大学を卒業。大学教師となることを望んでいたが、ボン大学講師の座を追われ、トリールに帰郷。ライン地方の新興ブルジョアジーにより立ち上げられた『ライン新聞』の2代目編集主任となる。)
・1842年(24歳)・ケルンに移り、『ライン新聞』編集主任となる。
        ・エンゲルスと出会う。
(プロイン政府は、『ライン新聞』に対して検閲を課し、1843年発行禁止を言い渡す。自らの信念から、マルクスは辞職声明を発表し、公の舞台を退いた。)
・1843年、(イェニーと結婚)
     ・5月、パリに移る。
・1844年、『独仏年誌』発行。(独仏年誌=政治・社会評論雑誌)
・1845年、パリから、ベルギー・ブリュッセルに亡命。
(フランス内務省によって国外追放を言い渡された。)
・1846年2月、「共産主義者通信委員会」を設立。
・1847年、『哲学の貧困』出版。
・1848年、『共産党宣言』発表。
     ・ブリュッセルから、再びパリに亡命。
     ・ケルンに移り、『新ライン新聞』発行。
・同志とともに、ドイツのケルンへ乗り込んだマルクスは、新たに日刊紙『新ライン新聞』を発行し、共産主義運動をさらに推し進めていく。
・「共産主義者同盟」の下部組織として、「労働者協会」「労働者教育協会」を各地に設立する一方、民主主義的なものとの協調を認めていたマルクスは、「民主主義協会」をも利用していく。『新ライン新聞』には「民主主義の機関紙」という副題をつけていた。
・1845年(27歳)、エンゲルスとの共著作『聖家族』出版。
◎『聖家族』とは。副題、『別名、批判的批判の批判、ブルーノー・バウエルとその伴侶を駁す』
・かつての同志、バウエル一派を「聖家族」と皮肉って呼び、批判した内容のもの。バウエル一派は、大衆を馬鹿にし、哲学批判の中にドイツの進歩の道を求めようとしたが、マルクスは大衆の侮蔑を許せず、ライン新聞時代から深い溝ができていた。
・1845年、エンゲルスとの共著、『ドイツ・イデオロギー』を執筆。
◎『ドイツ・イデオロギー』とは。副題、『フォイエルバッハ、ブルーノー・バウエル、シュティルナーを代弁者とする最近の哲学に対する、ならびに種々の予言者たちのあらわれたドイツ社会主義に対する批判』
・ヘーゲル以後の哲学を批判。
・刊行予定が出版社の都合で中止となり、マルクスとエンゲルスの死後刊行された。
・1848年2月、『共産党宣言』発行。
 フランス2月革命
  *ブリュッセルでの革命運動遂行中であった。
   ・フランス臨時政府から招請状があったが、
   ・ベルギー国王から24時間以内国外退去が命じられ、
   ・逮捕拘留され、パリへと追放された。
・共産主義者同盟の本部がパリに設立され、マルクスは議長となる。
◎『共産党宣言』
・共産主義者同盟の幹部、カール・シャッパーから依頼を受け、マルクスとエンゲルスによって執筆された共産主義者同盟のための綱領。
・さらに、ドイツのケルンに乗り込んだマルクスは、新たに日刊紙『新ライン新聞』を発行。
・1848年5月、王家批判を新聞に掲載したことにより、ケルン当局から追放令が出される。
・マルクスは、赤刷りの『新ライン新聞』最終号を出し、再び亡命先のパリへ向かった。
・1848年8月、ロンドンへ向かう。
・1850年、雑誌『新ライン新聞、政治経済評論』を発行するも、資金難のため、6号で潰れる。
・1852年、共産主義者同盟解散声明を出す。
・マルクスは、大英博物館の図書室にかよい、経済学研究の完成をめざす。
・また、新聞、雑誌からの依頼に対し寄稿した。
・エンゲルスは、マンチェスターの父親の会社で働き、マルクスを援助する。
・1864年、インターナショナル(国際労働者協会)(第一インター)設立。中央委員会(後の総務委員会)の中心となるが、活動はあまり思うようにはいかなかった。
・1867年、『資本論』第一巻出版。
(1866年11月『資本論』第一巻がつくられ、1867年に出版された。)
・1870年普仏戦争(第二帝政期のフランスとプロイセン王国=後のドイツ帝国との間で行われた戦争)が始まる。
*フランスが敗れると、「パリ・コミューン」と呼ばれる労働者の革命政府が誕生するが、70日余りで崩壊する。統一をなしとげたドイツは、資本主義が躍進する。
◎インターは、
・政治闘争やストライキに反対するプルードン派
・極左的な無政府主義のバクーニン派
・政治闘争やストライキを重視し、革命によって政治権力を労働者のものにしようとしたマルクスらとの間で対立した。
・1872年第5回大会で、マルクスらはバクーニン派の除名を可決。
・1876年、インターは、解散を決定。このことによって、また、家族の続けての死により、マルクスの肉体は著しく衰えていった。
・『資本論』第二巻、第三巻をまとめようとするが、肝臓病、肋膜炎、気管支炎、肺炎、咽頭炎などを併発し、最後は肝臓がんで、1883年3月14日、マルクスは死去する。
[401] 2018年09月25日 (火) 15時43分
KAI
※マルクスは、サン・シモン、フーリェ、オーウェンを、三大空想的社会主義者と批判しながら、高く評価した。

◎サン・シモン(1760〜1825年)はフランス唯物論者ダランベールに師事したといわれている。
・サン・シモンの理想社会では、科学者と産業家の支配と考えている。産業家は科学者と結合し、私利の観念を克服する。……「新キリスト教」
・産業家の中には労働者階級が含まれている。工場主、商人、銀行家など活動的ブルジョアと労働者等、働いている人すべてを考えている。活動的ブルジョアが計画社会運営の中心になり、労働者はこの人々の指図にしたがって働くものであった。
・これによって、貧しい労働者階級が幸福な生活ができるようになる、とした。
・まだ成長していない労働者が、社会主義をになうなどとは考えなかった。

◎フーリェ(1772〜1836年)、フランス人。富裕な商人の家に生まれた。
・大革命(1789年フランス革命。フーリェ17歳のころ?)で産を失い、マルセイユの食糧商店員となる。
・フランスに飢饉があったとき、食糧価格を暴騰させるために、店主に食糧を海中にすてるように命ぜられて、かねて商業というものに疑いをもっていたフーリェは、ついに社会主義思想をもつにいたった。
・フーリェは、物資を大いに生産すると、その過剰そのものが貧乏をつくるという資本主義の矛盾をするどくえぐっている。
・社会における婦人解放の程度は、全般的解放の自然的尺度である、というのはフーリェの有名なことばである。

◎ロバート・オーウェン(1771〜1858年)はイギリスのニュータウンに小手工業者の子として生まれた。
・1871年商店員となり、店番をしながら、毎日5時間本を読み、勉強をした。
・商売もうまく、最後にはニュー・ラナークで2500人ほどの労働者を雇用する紡績工場の支配人となった。
・フランス唯物論を勉強。人間が環境の産物であることを確信。ことに発育期における環境の人間形成での重要さを主張した。
・オーウェンはその考えを、自分の工場で実行した。そのころ他の工場では13時間ないし14時間労働が普通であったが、かれは10時間半労働を採用。子供を2歳から幼稚園に収容し、図書館をつくる等々、改良方策をとった。
・こうして、飲酒と乱暴とじだらくと犯罪の町であったニュー・ラナークは、ヨーロッパに名声を博した模範的な労働者の町となった。
・労働条件を良くしても、なお巨額の利得がうまれる。自分の工場で働く労働者が働かなかったら、1インチの糸といえどもできない。工場を自分一人のものとしておくのはおかしい。機械、その他労働者の手で富をつくりだすいっさいの手段は、働く者たちの共有財産であることが当然だと考えた。オーウェンは社会主義者となった。
・かれはこの結論を実践しないではいられなかった。1825年、全財産をなげうって、アメリカに土地を求め、「ニュー・ハーモニー」という理想社会の模範コロニーをつくった。が、失敗に終わった。
・しかし、19世紀前半の、工場立法について、労働運動、協同組合運動等々について、かれの名とむすびつかないものがないくらい、大きな功績を残したのである。

◎空想的社会主義者が高く評価されるのは、資本主義はダメだ、労働者階級の窮乏を救うのには資本主義ではなく社会主義に変革しなければならないという点だ。
・空想的社会主義は、産業家であるとか資本家の理性にうったえることによって社会主義がつくれると考えた。資本主義のなかに、その発展とともに社会主義をになう力として成長する労働者階級を発見することができなかった。

  ・・・・・・学習「共産党宣言」より・・・・・・

※「マルクスと日本人」の中で山ア耕一郎さん。
・社会党、労働組合の運営を担って苦労した人は、あまり理論の問題については発言しない。
・大部分の人は、実際の国家や組織の運営とか、社会をどうするかっていうのはずっと先の話だと。
・活字で読むのは、マルクスやエンゲルスが言っている国家や社会、そして共同体の姿であり、あるいは「空想より科学への社会主義の発展」の中で批判的に紹介されている、フーリェが構想した「ファランジェ」や、オーエンの共産主義コロニー、あるいはサン=シモンが「ジュネーブ書簡」で述べたような「働く無産者の社会」などについてであって、抽象的な言葉としては理解するけど、具体的なイメージは生まれてこない。」

<ウィキペディア>
・フーリエが提案したのは「アソシアシオン」(協同体)の創造(フーリエの用語で言えば「ファランジュ」)であった。その協同体は国家の支配を受けず、土地や生産手段は共有とした上で、1800人程度を単位として数百家族がひとつの協同体で共同生活をする。基本的に生活に必要なものは自給自足とする。また、労働活動を集約することで労働時間を短縮するという提案であった。
・このようなファランジュの中心には、その建物だけでも自生自立しうる「ファランステール」という集合機能と集住機能をもったパビリオンが設定された。

<インターネット検索による>
◎ロバート・オーウェンのニュー=ハーモニー計画
・彼は、1825年からアメリカのインディアナ州に自給自足を原則とした私有財産のない共同生活村(ニュー=ハーモニー村)を多額の資産を投入して創設した。
・1827年、内部分裂と経済的な行き詰まりから失敗した。

【これからの社会主義のイメージとして、「ファランジェ」「共産主義コロニー」「働く無産者の社会」は、あまり参考にはならないか。】
[337] 2018年06月13日 (水) 16時53分
KAI
ご紹介
青年の声 2018.6.4号
シネマレビュー(長野・Uさん)  (抜粋)
・この映画は、マルクスがエンゲルスと出会い、「共産党宣言」を書き上げるまでの青年時代を描いている。
・この時、マルクス29歳、エンゲルス27歳。
・1840年代初頭のドイツ。枯れ枝を拾い集める貧農たちが、プロイセン官憲によって撲殺されるシーンから始まる。
・枯れ枝すら「木材窃盗取締法」によって資本家階級の所有物とされてしまう実態について、痛烈な批判をライン新聞書いたマルクスはドイツを追われる。

・若きエンゲルスは、父の共同経営するマンチェスターの紡績工場の女性労働者(で事実婚の相手となる)メアリー・バーンズと出会い、過酷な労働や生活の実態について、「イギリスにおける労働者階級の状態」をまとめる。

・マルクスは、「哲学者はこの世界を解釈しかしなかった。変革するべきだ。」といい、エンゲルスと力を合わせて、「万国のプロレタリア団結せよ!」で結ばれる「共産党宣言」の執筆に取り組む。

・「青年の声」読者のみなさんも、社会や職場を変革するためにぜひ、「共産党宣言」を読み、この映画を観てほしいと思う。


※「カール・マルクス生誕200年」のドキュメンタリー映画をつくろうと考える人はいなかったのか。
※NHKの大河ドラマをみる感覚で良いのでは。
※マルクスやイエニー、エンゲルスやメアリー・バーンズがどのように描かれているのだろうか。感動をあたえてくれるのだろうか。

紹介、その2
映画「マルクス・エンゲルス」オフシャルサイト、コメントより。
若きマルクスとエンゲルスの正義感が伝わってくる。特に資本家で大金持ちでありながら、他人を搾取する社会を変えようと活動する若きエンゲルスが魅力的だ。
佐藤優
[332] 2018年06月04日 (月) 10時43分
KAI
映画『マルクス・エンゲルス』
 
原題は『THE YOUNG KARL MARX』
 
・http://www.hark3.com/marx/
≪プロフィール≫より。
※カール・マルクス(1818−1883)
・1818年5月5日、プロイセン、トリーアに生まれる。
・1835年ボン大学に入学。
・1836年夏、貴族の娘であるイェニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約。
・1836年10月、ベルリン大学へ転学。
・1837年、病気療養のため滞在したシュトラローで、青年ヘーゲル派が集っていた「ドクトル・クラブ」に加入し、ブルーノ・バウアーらと親交を結ぶ。
・1841年、イエナ大学に「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」を提出し、哲学博士号を取得。
・その後、教授職を探すものの断念し、「ライン新聞」のジャーナリスト、編集者となる。
・1843年、言論弾圧の中で「ライン新聞」が廃刊となると、アーノルド・ルーゲらとともに共同編集者として「独仏年誌」刊行に携わる。
・同年に、イェニーとクロイツナハにて結婚し、パリに移住。
・1844年に、ブルーノ・バウアーを批判した「ユダヤ人問題によせて」、「ヘーゲル法哲学批判序説」を「独仏年誌」に掲載する。
・「独仏年誌」に掲載されたエンゲルスの「国民経済学批判大綱」に感銘を受け、10日間にも及ぶ自宅での話し合いを経て、意気投合。バウアー一派を批判した「聖家族」(1845年)を共同執筆し、終生の友人となる。
・1845年、フランス政府による追放を受けて、ブリュッセルに移住。
・エンゲルスらとともに青年ヘーゲル派やカール・グリューンらの真正社会主義を批判した草稿「ドイツ・イデオロギー」の出版を目指すも断念。
・1847年、プルードンを批判した「哲学の貧困」を出版。
・1848年には共産主義者同盟の綱領として「共産党宣言」をエンゲルスと共同執筆する。
・その後、ヨーロッパ各地で発生した革命の動乱の中、パリを経て終生の地となるロンドンへと移住し、経済学研究を再開。
・1867年、「資本論」第一巻を刊行。

学習「共産党宣言」より。
※「真正」社会主義
・ドイツが資本主義体制を整えるのは1848年の3月革命のあと。イギリスとフランスとでは歴史的発展の差があった。「真正」社会主義者はこの段階差を考えなかった。
・フランスブルジョアジー批判としてのフランス社会主義思想を、当面、絶対王政をたおすブルジョア革命が必要なドイツに適用しようとした。
・ドイツでは、封建的貴族や土地所有者に対するブルジョアジーの闘争が日程に上がっている時に、一般の資本主義批判の社会主義思想を持ち込んだのである。
・それは、現実的基礎を欠き、観念的なものであった。
・ヘーゲル左派から出発した「真正」社会主義者には、モーゼス・ヘス、アーノルト・ルーゲ、ブルーノ・バウエル、カール・グリューンなどがいる。
・マルクスとエンゲルスは、「神聖家族」「ドイツ・イデオロギー」で批判し、彼ら自身、ヘーゲル左派との決別をなした。
・もっとも、マルクスはヘーゲル左派時代、ブルーノ・バウエルやヘスとは親しかった。
・マルクスよりバウエルは9歳の年長、ヘスは6歳の年長だったが、2人ともマルクスを高く評価し、ことにヘスはベートルド・アウェルバハにあてた手紙のなかで、ルソー、ヴォルテール、ドルバック、レッシング、ハイネ、ヘーゲルを一身にかねそなえた人間がまマルクスだと賞讃している。
・ヘスはのちに、マルクス、エンゲルスが1848年、「新ライン新聞」を発行したさいに共同出資者として協力しているし、エンゲルスにフランス社会主義思想についてはじめて教えたのもかれだといわれている。

※ブルジョア社会主義の代表プルードン
・プルードンは1809年に生まれ、1865年に死んでいる。
・貧しい桶屋に生まれ、19歳のときに印刷工になった。
・プルードンは、世の中の不平等と財産権にするどい批判の眼をむけ、1840年「財産とは何か」という本を書き、財産とは盗品である≠ニいう有名なことばをのべた。
・彼の主要著作は、1846年「経済的矛盾の体系――貧困の哲学」。
・プルードンの思想は、相互主義にもとづく一種の無政府主義である。
・彼は、生産手段の私有に対して攻撃を加えるが、私有制度の廃止することを考えない。
・財産が労働の盗み。これは財産の独占的な性格であり、労働者が労働を盗まれないためには、労働者が生産手段を所有し、相互扶助の経済制度をつくり、労働交換銀行により、平等・自由・直接の交換を行うべきとした。
・自由こそ秩序の母であるととなえて、国家権力を否定。
・専制的権力による弱者を搾取する資本主義を否認するとともに、(弱者のために)強者(ではあるが)を「抑圧する」という意味で、共産主義を排斥した。
・プルードンの社会主義は、資本をそのままにしておいて、資本主義の悪いところ、弊害を矯正しようというもの。
・プルードンの「貧困の哲学」は1846年に出たが、1843年にパリにきたマルクスはかれと親しく交わり、高くかれを評価していた。
・マルクスは長時間、しばしば夜を徹してプルードンと議論をし、ヘーゲルの弁証法を教えたが、プルードンには理解ができなかった。
・マルクスがパリを追放された後、カール・グリューンら「真正」社会主義者がヘーゲル哲学の知識をつぎこんだが、プルードンはマルクスからはなれていった。
・プルードンの「貧困の哲学」は、その翌年の1847年、マルクスの「哲学の貧困」により完膚なきまでに批判された。
・プルードンはその後、労働者階級の立場からものをいうところまでいったが、政治行動では、国家権力を否定し、無政府主義という立場にたった。

「カール・マルクス」佐々木隆治さんより。
◎マルクスは、1842年エンゲルスに会ったが、そのときエンゲルスを空想的な社会主義者の一派だとみて冷淡な態度をとった。
・しかし、「独仏年誌」に載ったエンゲルスの「国民経済学批判大綱」に感銘を受け評価を改めた。
・1844年8月、エンゲルスと再会。二人の話し合いは10日間にも及んだ。ここから二人の協働関係が始まったのである。
◎「フォイエルバッハのテーゼ」の「新しい唯物論」
・これまでの哲学者たちはただ世界を解釈してきただけである。肝心なのはそれを変革することである。
・新しい唯物論を確立したマルクスは、「唯物史観」という、より具体的なヴィジョンを確立するのである。
・「ドイツ・イデオロギー」(1845年〜1847年)において練り上げられ、「哲学の貧困」(1847年)、「共産党宣言」(1848年)において示されていく。

※以上、若干の予習。
※映画『レッズ』は、レンタルで見たのかな、テレビだったか?
 映画館ではなかったような。
※今回は、いってみようか。
  ご覧になった方。感想をお願いします。
[331] 2018年06月02日 (土) 22時21分
きのっぴー
6月2日(土)からシアターキノ(狸小路6丁目)で映画「マルクス・エンゲルス」が上映される。

◎作品紹介
若きマルクスとエンゲルスの友情は世界の未来を大きく変えた 。
永遠の名著『共産党宣言』(1848)が誕生するまでの激烈な日々を描く歴史的感動作。
1840年代のヨーロッパでは、産業革命が生んだ社会のひずみが格差をもたらし、貧困の嵐が吹き荒れ、人々は人間の尊厳を奪われて、不当な労働が強いられていた。20代半ばのカール・マルクスは、搾取と不平等な世界に対抗すべく独自に政治批判を展開するが、それによってドイツを追われ、フランスへと辿りつく。パリで彼はフリードリヒ・エンゲルスと運命の再会を果たし、エンゲルスの経済論に着目したマルクスは彼と深い友情をはぐくんでゆく。激しく揺れ動く時代、資本家と労働者の対立が拡大し、人々に革新的理論が待望されるなか、二人はかけがえのない同志である妻たちとともに、時代を超えて読み継がれてゆく『共産党宣言』の執筆に打ち込んでゆく――。
[329] 2018年05月25日 (金) 18時12分
望ちゃん
>KAIさん

 マルクスは社会主義・共産主義の青写真を描いてはいけないと言っていたわけではありませんネ。
 それまでの空想的社会主義者らの青写真「理想的社会」を批判して提示した作品の一つが共産党宣言でもあったわけですから。しかし時代的な制約から、「詳細な青写真」を描くことの限界はあったわけで、マルクスやエンゲルス、そしてレーニンやその後の革命家たちの模索が続いてきたわけです。
 共産党宣言を書いた時、マルクスは1818年5月生まれですから、若干29歳の若者です。天才的な素質を持っていたことは否定しませんが、人間として、等身大に評価したいと思います。

 こういう理想社会議論の一つとして、ご指摘のように「生産手段の社会化」をどう構想するのかというテーマがあります。それを私たちもどう整理するか頭を悩ましてきたのです。

 協会がこれまで「青写真を描けない」と言っているのは、その言葉通り、みんなが一致できるような「青写真」(社会のデザイン)を提示できる段階にない(識見も力量も不足している)から、というだけのことです。
 そういう議論や研究は、積極的にやるのは良いことです。誤解のないようにしておきたいと思います。
 
[326] 2018年05月23日 (水) 11時00分
KAI
・マルクスは、社会主義、共産主義の詳細な青写真を描くことはしていない。
(社会主義  2016年 1月号
「社会主義」への移行形態を考察する。
善明建一さん より。)
・マルクスは資本主義社会から社会主義社会の核心となるのは「生産手段の社会化」であること、社会主義経済の土台となるのは、やはり「生産手段の社会化である、とした。
・「生産手段の社会化」を実現することによって、搾取の廃止、そして、生産力発展の道が開かれる。
・マルクスは、空想的社会主義者たちとは違って、社会主義・共産主義の詳細な青写真を描くことはしていない。空想的社会主義者たちが果たした役割は正当に評価しているが、その限界性も指摘している。
・資本主義のいろいろな矛盾の解決のための方法、措置、形態がどんなものとなるか、その時の社会の具体的な情勢に応じて規定されるもので、その解決が問題となるときには、その世代の英知と創造性が大いに発揮されると割り切ったのがマルクスの立場であった。
・マルクスはこの種の描くことをせず、「生産手段の社会化」を土台にした社会という目標を明示するということで、必要にして十分なものだと考えたようである。

善明さんの文は、さらに、
・『ゴータ綱領批判』をどのように理解すべきか。
・『資本論』は社会主義をどう規定しているか。
・「中間的段階」としてネップを導入
・スターリンとブハーリンの論争
    へと、つながるのであります。

【共産党宣言】には。
プロレタリア階級は、すべての資本を奪い、すべての生産用具をプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるだろう。
この方策は、もちろん、それぞれ国が異なるにしたがって異なるだろうが、進歩した国々にとっては、次の諸方策はかなり一般的に適用されうるであろう。

1.土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。
2.強度の累進税。
3.相続権の廃止。
4.すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
5.国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、信用を国家の手に集中する。
6.すべての運輸機関を国家の手に集中する。
7.国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良。
8.すべての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために。
9.農業と工業の経営を統合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目ざす。
10.すべての児童の公共的無償教育。今日の形態における児童の工場労働の撤廃。教育と物質的生産との結合、等々、等々。
 
発展の進行につれて、階級差別が消滅し、すべての生産が結合された個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。プロレタリア階級が、古い生産諸関係を廃止するならば、この生産諸関係の廃止とともに、階級対立を廃止する。
階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの協力体があらわれる。

・これは、マルクスの1848年当時における、「その世代の英知と創造性を大いに発揮した、『生産手段の社会化』を実現するための、方法、措置、形態がどんなものとなるか、その時の社会の具体的な情勢に応じて規定したもの」なのか。
・労働者階級が、すべての資本を奪い、すべての生産用具を労働者階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させる。このようにした発展により、階級差別が消滅し、公的権力は政治的性格を失う。(国家の消滅?)階級対立を廃止する。
階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの協力体(社会主義?)があらわれる。
(やはり、青写真は描いていない?この世代で考えられる、労働者階級が取るべき方策を示している。?)

・私たちが今考えるべきは、「生産手段の社会化」のための方策等か。
[322] 2018年05月22日 (火) 10時43分
望ちゃん
 ドイツの生誕記念に中国から巨大マルクス像贈呈

ドイツでは5月3日、大統領による「マルクスの多面的な業績や現代的な意義について」の講演を行われたという。また有力週刊誌紙がマルクス特集を発行。マルクスの生地トリーアでは「カール・マルクス・ハウス」が改装公開。ローザ・ルクセンブルク財団(左翼党系)はベルリンで「マルクス生誕200年 政治・理論・社会主義」と題する国際会議を開催。…以上、「赤旗」から

 日本の民放ニュースでも、中国政府が生誕地トリーア市に巨大なマルクス像(5.5b、2.3トン)を贈呈し、市議会がこれを受け入れたことに対する反対デモの様子が放映された(5.6夕方のニュース)。 反対の市民は「彫像は中国の力を誇示するプロパガンダ」「毒のある贈り物」と批判。
 市側によると、中国側は「友好の贈り物」と説明しているといい、市長は「われわれは国の端の小さな都市。中国がそこで権力を示そうとしているとは考えない」と反論している。
[317] 2018年05月07日 (月) 14時20分
望ちゃん
マルクス 17歳の青春。
「職業選択にさいしての一青年の考察 ギムナジウム卒業文1835年8月」

☆時々紹介されるマルクス青年期の、いわば彼の人生論。この頃から、難しく書くことを好んでいたようですが、若々しさは感じることができますね。少し長いですが紹介します。ちなみに校長は、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いているそうです。

 「神が人類および人間自身を高貴ならしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間に最もふさわしい、そして人間が人間自身と社会とを最もよく高めることができるような立場を社会のなかでえらぶことを人間にゆだねたのである。
 この選択は他の被造物にはみられぬ偉大な特権であるが、同時に、人間の全生活を破滅させ、その計画をすべて失敗させ、人間を不幸にすることができる行為でもある。したがつて、この選択を真剣に考慮することは、人生行路を歩み始めて、自己の最も重要な事柄を偶然にゆだねようとは思わない青年の第一の義務であることは疑いない。
 …
 われわれが人類のために最も多く働くことのできる地位を選んだとき、重荷もわれわれを屈服させることはできないであろう。なぜなら、その重荷は万人のための犠牲にすぎないからである。またそのとき、われわれは、貧弱で局限された利己主義的な喜びを味わうものではない。そうではなくて、われわれの幸福は数百万の人々のものであり、われわれの行為は、静かに、しかし永遠に働きながら生きつづけるのである。そしてわれわれの遺体の灰は、高貴な人々の熱い涙によって濡らされるであろう。」
[312] 2018年04月29日 (日) 10時44分
KAI
マルクス生誕200年

第44回社会主義協会全国総会立松代表挨拶
……以前ドイツ左翼党とローザ財団を訪問したとき、ドイツでは「資本論150年」のシンポジウムや出版をやらないのですかと聞きましたら、「我々はマルクス生誕200年でいろいろやろうと考えています」と。

「カール・マルクス」佐々木隆治著 ちくま新書
マルクスの勉強ノートは「抜粋ノート」と呼ばれる。読書した本から抜粋を行い、必要に応じてコメントを加えるという勉強法。
マルクスは「独仏年史誌」刊行後、一時的に経済学の勉強を中断していたが、1844年5月頃にはアダム・スミスの名著「諸国民の富」(または「国富論」)の勉強を始めた。
このとき作成されたのが「経済学哲学草稿」。経済学の研究をはじめて本格的に開始し、急速に自らの思想を発展させていくプロセスを示している。

(映画「マルクス・エンゲルス」公開 6月2日(土)
 北海道 シアターキノ 当日1800円、シニア1000円)
THEATER KINO 札幌市中央区狸小路6丁目南3条グランドビル2F
011-231-9355
[311] 2018年04月26日 (木) 08時17分
望ちゃん
◎映画『マルクス・エンゲルス』公開
4/28(土)〜 東京・岩波ホール
6/2(土)〜北海道 シアターキノ         

 マルクスの生誕200年を記念して、若きマルクスと盟友エンゲルスを描いた映画『マルクス・エンゲルス』が公開される。マルクスとエンゲルスの若き日の活躍を描いた人間ドラマ。
<映画紹介から>1840年代のヨーロッパ。産業革命が社会構造のひずみから経済格差を生み出していた。貧困の嵐が吹き荒れ、不当な労働条件がはびこる社会にいらだちを覚えていた26歳のカール・マルクスは独自の経済論を展開するが、その過激な言動により妻とともにドイツ政府から国を追われる。フランスへとたどりついたマルクスは、パリでフリードリヒ・エンゲルスと出会う。それはのちに、これまでになかった新しい労働運動を牽引していく2人の運命的とも言える出会いだった。監督は「ルムンバの叫び」のラウル・ペック。
[310] 2018年04月25日 (水) 21時39分



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