これからの社会主義

社会主義の制度、政策を真面目に議論する

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これからの社会主義 [465461]
BAT
社会主義の制度・政策・運動への意見、提案、理論を考察する。
[1] 2016年06月01日 (水) 00時06分

タカ
東京の「社会主義論の整理」。
レポートや議論の内容を、「さしさわり」
の無いように、この掲示板に表示していた
だけないでしょうか。
[1022] 2024年08月28日 (水) 11時17分
b;tok
東京で議論が始まった社会主義論の整理。さすが東京とド田舎の北海道とては、少し違いがあるようだが、掲示板では7年前にアソシエーションの議論が登場しているね。
 東京でも掲示板みたいに、オープンにやったらどうかな?
きっとそうなる??
[1020] 2024年08月17日 (土) 10時50分
タカ
「情熱大陸――斎藤幸平」を見た。

・自分の本へ、サインを記入する作業。
特注のマルクスの絵の入ったゴム印を、一緒に、
押していた。(なかなか、いいんじゃない。)
「資本論を読む会」の案内のマルクスのイラス
トみたいなもんだ。良いと思った。
・(ナレーションは言う)社会を変えることは、
簡単には理解されない。
・脱成長的な豊かさ。
「少ないほうが豊である。――資本主義の次に
来る世界」ジェイソン・ヒッケル

・最大年収と最低年収を導入して、収入もある
一定額を上限としてそれ以上は入らない、だけ
ど最低限は絶対もらえるという、そういう社会
にしたほうが良い。
・これからの社会のあり方は、コミュニズムと
いうものを「コモン」という考え方を基礎にし
た社会、「コモン主義」と考えればいいと言う。
・「コモン」とは。
*お金を使わずとも、みんなで共有できるよう
な社会の「富」のこと。
*公民館も、図書館も、小学校も、公園も、
コモンだ。
*(大学も全部無料となれば、いいんですね?)
大学も「コモン」に本当はしなければならない
のに、「コモン」に今はなっていない。

■まあ、こんなもんでしょうか。■
・最大年収と最低年収を導入
・コモン主義
「コモン」とは。
お金を使わずとも、みんなで共有できるよう
な社会の「富」のこと。
■すべて、資本主義体制の中での改良闘争に
すぎなく、社会主義への道筋、社会主義・共
産主義の形は示せてはいない。
■経済思想家だから。■
[956] 2023年11月22日 (水) 12時01分
タカ
トマ・ピケティ 『来たれ、新たな社会主義』

*「社会主義」は、資本主義に代わる経済体
制を示すのに最も適した用語であり続ける。
*「格差を広げて値域の資源を使い果たす現
在の資本主義体制には未来がない」
*明確に表された代替案がなければならない。
*実現したい理想の経済体制、公正な社会を
示さなければならない。
*「参加型社会主義」
*平等と参加型社会主義への長い歩みはすで
に始まっている。
*権利の平等をもたらす仲介者としての社会
国家
*20世紀の成功例
 多くのヨーロッパ諸国、とりわけドイツや
スウェーデンでは、労働組合運動と社会民主
党が「労使共同決定」制度という形で、株主
に新たな権力配分を課すことに成功した。
*世界中の国の満場一致を待たずに、国ごと
に法制度、税制、社会制度を進化させること
ができれば、参加型社会主義に向けて段階的
に進んでいくことは十分に可能である。
*社会連邦主義
*「資本法」を再考する。
 ソ連での大失敗によって一時期消滅したと
思われていた「権力と資本所有」に関する考
察が、実はまだ始まったばかりである。
(何のこと?どういうこと?――タカ)
[919] 2023年06月02日 (金) 10時03分
タカ
社会主義協会創立70周年記念出版委員会編
2000年〜2022年=経済・政治・労働
「新自由主義の行き詰まりと改革課題」
『序説 世界情勢の中の日本――試論』
        伊藤 修 さん
*ソ連・東欧は、……自壊した。
社会主義や左翼というものへの共感も信頼も
致命的な打撃を受けたのは当然のことである。
*しかし、30年が経過し、かつてを知らな
い世代が増え、旧社会主義への悪感情も一定
薄まって、良かれ悪しかれリセットされつつ
ある。
*われわれは冷厳に、根源的に、巨大な破綻
を総括し、次の世代へ説得力ある社会主義を
提示しなくてはならない。
[905] 2023年04月04日 (火) 19時51分
資本論の示唆
岩波文庫7分冊107p

「@剰余価値と剰余労働との同一性によって、資本の蓄積に対する一つの限界が画されている。
すなわち「総労働日」がそれであり、「生産諸力」と、同時に搾取されうる労働日の数の限界となる「人口」との、その時々に存する発展度がそれである。
これに反し、剰余価値が利子という無内容形態でとらえられるならば、限界はただ量的で、あらゆる想像を絶するのである。
 Aしかし、利子付資本においては、資本物神の観念が完成している。・・・・
過去労働そのものが、ここでは、現在または未来の生きた剰余労働の一片を孕んでいるのである。
しかし、㋐実際は、過去労働の価値の維持・そして価値の再生産もまた、それら生産物と生きた労働との接触の結果であるにすぎないということ、
㋑過去の労働生産物が、生きた剰余労働に揮う支配が存続するのは、まさにただ、資本関係・そこでは過去の労働が独立に、
優勢に生きた労働に相対する特殊の社会関係が、存続する間だけであるということ、これは人々の知るところせある。」

★資本主義末期での、「現実の生産資本」と「過剰貨幣資本」の対立 @

@「現実の生産資本の利潤」は、「現実の生産手段」と「総人口(総労働者数)」により、常に社会的限界が与えられている。
 ・「現実の生産資本の利潤」は「剰余価値」であり、それは「搾取された剰余労働・剰余労働時間」である、から
 ・「総労働者人口」×「労働日」で計算される「総労働時間」が限界、現実には「支払労働時間」を差し引いた「限界」に規制される。
 ・それ以上の生産をするために、利子付資本が前貸ししようとしても、「労働者がいない」から、生産は不可能である。
 ※貨幣資本の蓄積は、一定の点から、「生産資本への転化が不可能」な、「生産力とは関係のない過剰な貨幣資本」となる。

Aしかし、「貨幣資本・利子付資本」は、剰余価値・労働時間ではなく、「利子」の蓄積だから、形式的には「限界がない」、ように見える。
 ・ある瞬間に存在する貨幣資本は、「過去の労働・過去の労働時間」の一定量である。「蓄積した過去の労働時間の帳簿額」と言ってよい。
 ・発展期の健全な貨幣資本は、ほとんどは生産に投下され、「生産資本(産業資本)」となり「生産力発展に貢献」する。
 ※資本主義が歴史的に必要な歴史段階であるのは、この時期だけである。

 ・生産が吸収できないほどに蓄積した「過剰貨幣資本」も、「自己増殖」を求められる。
 ・「増殖」のため、コモディティ等の諸資産から、株・国債・有価証券・美術品等の「空想的資本」まで投資されるが、それらはすでに「投機」である。
 ※「投機」であるとは、実際にはそれら「金融商品」は「自己増殖しない」。投下価値と「等価の価値」さえ持たないが、「思惑」で売買されるだけだということ。
 ※「投機」で行われているのは、「他者の所有価値・資本」を「自己の所有価値・資本」に転化すること=「収奪」であり、総体では価値を産むことはない。

★資本主義末期は、この、生産力本体としての「現実の生産資本」と、生産に貢献せず何の意味もない「過剰貨幣資本」が、「二重経済」的に強烈に対立する。
 ・東証の株式時価総額だけでも約600兆円、ニューヨーク、ドイツ、ロンドン含めた株式時価だけでも約5,000兆円。これが「空想的資本額」の一部である。
 ・これ以外に、「債券:国債・証券類」、「危ない金融商品群」・・・これらすべては、「空想的資本」であり、「革命と同時に紙くず」である。

★末期資本主義では、「毎年の剰余価値・生きた労働時間」が、「過剰貨幣資本・過去の労働時間」の増殖手段となっている。
 ㋐「過剰貨幣資本」は収奪しあうが総額としては「増殖しない」、だから、毎年の「剰余価値」の補填で「増殖」している。

★過剰貨幣資本が毎年吸収する「剰余価値」以上の「課税」で、「過剰貨幣資本から国民が収奪する」ことが必要。
 ㋑「過去の労働時間」が「生きた剰余労働」を支配・搾取するのは、資本という社会関係が正常に機能している間だけである。
 ※「資本関係を異常にすること」
 ※当面、資本関係・資本主義の中であったとしても、「政府による課税」で「過剰貨幣資本を収奪すること」が、過渡期の政策になる。
[650] 2020年08月05日 (水) 20時20分
資本論の示唆
岩波文庫7分冊88p  「指揮労働」と「監督労働」の違いについてB

「労働者の協同組合工場においても、資本主義的株式企業においても、管理賃金は、商業及び工業のいずれの監督者についても、
企業者利得からは、完全に分離されて現れる。企業者利得からの管理賃金の分離は、他の場合は偶然的に現れるが、ここでは恒常的である。
協同組合工場の場合には、監督労働の対立的性格は消え去る、というのは、監督者は、労働者によって支払われるのであって、
労働者に対立して資本を代表するのではないからである。
一般に、株式企業―信用制度とともに発展した―は、機能としてのこの管理労働を、自己資本のであれ借入資本のであれ、資本の所有からますます分離する傾向がある。
それは、ブルジョア社会の発展とともに、裁判や行政の諸機能が、封建時代にこれらの機能を属性としていた土地所有から分離されるのと、全く同様である。
しかし、@一面では、資本の単なる所有者である貨幣資本家に機能資本家が相対し、そして信用の発展とともに、この「貨幣資本そのものが社会的性格」を帯び、
銀行において集積され、もはやその直接の所有者からではなく銀行から貸出されることによって、
またA他面では、借入によると他の方法によるとを問わず、いかなる名義の下にも資本を所有しない単なる監督者が、
そのものとしての「機能資本家に属する一切の現実的機能を司ること」によって、
B残るのはただ機能者だけとなり、資本家は余計な人間として生産過程から消え失せるのである。」

★社会主義への過渡期=資本主義経済の終末期での、「労働協同組合」と「株式会社」の重要性。
 ・後に信用の関連でより明確に示されるが、資本のこの発展した2形態は、社会主義移行の「直接的入口」となる。
 ・移行期の政権は、この両形態の積極的利用を、経済政策の重要な柱とせねばならないだろう。

★株式企業では、資本の「所有と経営の分離」は進展し、株式所有者としての資本家は「生産過程では余計な存在」になる。
 @一面では、私的な貨幣資本が銀行に集積することで、「前貸資本の貸付」は「機能資本」としての銀行が担うことになり、ますます「社会的性格」を帯びる。
 A他面では、生産過程自体の残っているのは、資本所有とは全く関係ない「機能資本家」達である。

 ・生産過程では、労働者及び監督労働を行う資本家を含めて、生産の「機能者」だけで経営が行われる。
 ・指揮労働及び監督労働を行う資本家も労働者も、生産過程自体には「必要な機能」である。
 ・ただし、監督労働報酬は「利潤から支払われる報酬」なので、彼らは資本家としての階級的性格を多かれ少なかれ、帯びる。

★しかしまだ、労働者は「主要な経営権」に決定権を持たない。まだ、労働者であり、「アソシエートした生産者」に転化していない。
 ・指揮監督者は「機能者」として生産過程に必要な労働を行うが、いまだに労働者に対立する存在であり、労働者そのものではない。
 ・指揮監督者の「任命・解職権限」も、労働者は持っていない。
 ・彼らの報酬や労働条件決定権、人事権、さらには予算・決算承認等の主要権限を、労働者はまだ持っていない。
 ※社会主義への過渡期では、まだ労働者は労働者であり、「社会主義的生産者」に転化していない。
[644] 2020年07月01日 (水) 22時15分
資本論の示唆
※前回訂正:社会主義では、いずれも、「後者」は不要・死滅し、「前者」の機能だけが残存する。

岩波文庫7分冊87p  「指揮労働」と「監督労働」の違いについてA
「資本主義的生産では、指揮労働が資本家によって行われることは、無用になった。音楽指揮者が、オーケストラの楽器所有者である必要はなく、
楽師たちの賃金とかかわりを持つことは彼の機能には属さない。協同組合工場は、資本家が生産の機能者としては余計になったことを証明しており、
それは、資本家自身が最高に成熟したとき、大土地所有者を余計なものにするのと同様である。
資本家の労働が、@単に資本主義的な生産過程としての生産過程から生ずる性質ではなく、資本とともにおのずと消滅する性質ではなく、
他人労働の搾取という機能に局限された性質ではないかぎり、それは、A社会的労働としての労働の形態、一つの共同の結果に達するための
多数人の結合と協業、から生ずるものである。
そのようなものとしての資本家の労働が「資本から独立のもの」であることは、この社会的労働形態そのものが資本主義的外皮を破るや否や
資本から独立であるのとまったく同様である。」

★再度、管理労働における「指揮労働」と「監督労働」は全く別の労働。社会主義では、「監督労働」は廃絶し、「指揮労働」だけが残る。
 @監督労働
  ・ただ単に、資本主義という生産様式だけでの生産過程に生じる、管理労働の特殊な労働の側面。
  ・資本とともに消滅する労働。
  ・㋕人労働の搾取という機能に局限された性質の、管理労働。
 A指揮労働
  ・社会的労働としての必要労働の一環である管理労働。
  ・協同の結果に達するための結合労働者の協業に必要となっている管理労働。

★「指揮労働」という協働社会の本質的管理労働は、「監督労働」という特殊資本主義的管理労働という「外皮」がはぎ取られ、顕在化する。
  ・資本主義内での管理労働は、常に両者が併存し入り混じった形態で行われている。
  ・唯一、「労働協同組合」(消費協同組合とは別の、その企業の労働者が決定権者・所有者である形態)では、ほぼ監督労働は消滅している。
   その意味で、監督労働の不要を「証明」するが、資本主義内であ限り完全に消滅しているわけではない。

★社会主義でも、「生産様式・労働過程=生産・労働」が新たなものに転化する。私的所有や分配形態が変わるだけではない。
  ・「資本主義では生産はすでに社会的となっているから、生産手段の所有と分配を社会的に転換すればよい」という、簡略な理解は、本質的に「全くの誤り」。
   この手の理解は、「初級者向けの簡略な説明」としてしか意味がない。
  ・管理労働は、「管理職が労働者を配置・運動させる」のではなく、「総労働者が管理職を配置・運動させる」決定権者になる。
  ・基準は、「社会的生産への効果」をめぐる価値尺度となるであろう。「損益計算=剰余労働の取得」は基準とならない。

★資本主義内では、この手の「人間社会の本質的必要性⇔資本主義的な特殊必要性」の「二重性」が、様々な局面に存在している。
  ・「合理化」:人間社会の生産力の拡大という側面⇔資本のより強力な搾取手段
  ・「社会保障」:人間の社会的生存権の保障⇔労働賃金の税金による貧民間所得分配
  ・「国家」:社会的共同事務⇔階級支配の暴力装置
  ・「コロナ対策」:自然の驚異に対する人間社会の防衛対策⇔資本が死滅しない範囲内での最低限対策
  ・管理労働:指揮労働⇔監督労働
[642] 2020年06月25日 (木) 20時54分
資本論の示唆
岩波文庫7分冊81p  「貸付貨幣資本と生産資本との分離=利子と企業者利得の分離」・・・「指揮労働」と「監督労働」の違いについて

「直接的生産過程が一つの社会的に結合された過程の態容を持ち、独立生産者たちの個別労働としては現れないところでは、
どこでも必然的に「監督および指揮の労働」が生ずる。しかし、この労働は二重の性質のものである。
@一面:多数個人の協業労働すべてで、必然的に過程の関連と統一とは、「一つの指揮する意思において表示」され、
また部分労働にではなく作業場の総活動にかかわる諸機能において表示されることは、オーケストラの指揮者におけるがごとくである。
これは、いかなる結合的生産様式においてもなされなければならない一つの生産的労働である。
A他面:資本主義的生産様式(直接的生産者である労働者と生産手段所有者との対立の上に立つ生産様式)では、
必然的にこの「監督労働」が生ずる。対立が大きければ大きいほど、監督労働の演ずる役割は大きい。
奴隷制度で最高限に達するが、資本主義でも不可欠である。生産過程が同時に資本家による労働力の消費過程だからである。
それはちょうど、「専制国家」で政府が行う監督と全般的干渉との労働が、すべての「共同体の性質から出てくる共同事務」の遂行と、
「政府と民衆との対立から生ずる特殊の諸機能」との両方を包括するようなものである。」

★・・・有名な一節だが・・・社会主義では「指揮労働」だけが残り、「監督労働」は消滅する。「官僚制」に関わる重要記述。

※「指揮労働」と「監督労働」は、全く異なる概念であること、が明示されている。
 ㋐指揮労働:協業等の「多数者が結合する労働」を行う、全ての場合に必要な、相互の関連と統一を指揮する「生産的労働」。
  ・資本主義でも社会主義でも、この指揮労働は行われる。生産様式に関係ない。
  ・生産様式=「生産関係」に関わらない労働であり、総体の生産に必要な生産的労働であり、「生産力に属する概念」である。

 ㋑監督労働:支配階級が被支配階級を、自分の意志に沿う「労働力の消費=労働」となるように、監視・命令する労働。
  ・労働者にとって、生産現場で初めて相対する生産手段は「敵対的な存在=疎外された労働」であり、主体的にはけない。
   労働者を資本の意に沿うように働かせるには、「労働者に敵対する監督労働」が必要になる。
  ・これは生産力自体からは発しない、生産関係から必要となる「階級的労働=特殊労働」であり、「生産関係に属する労働」である。

 ㋒結果、社会主義では、監督労働は消滅し「指揮労働」だけが残存する。
  ・例えば、部長―課長―係長―主任」等の「ライン・役職」は、生産力の概念として社会主義にも残存する。
  ・資本がそのラインの中で徹底していた「抑圧的階級性」は廃止・廃絶される、ということである。

 ㋓資本主義では、この「監督労働」も労働者に転化し、「利潤から監督賃金が支払われている」。
  ・「利子」と「企業者利得」に分解した利潤のうち、「企業者利得」は主に、この「監督労働に対する報酬」という性格を持つことになる。
  ・その報酬は、「労働力に対する対価」ではないが、「資本にtとって必要な労働に対する報償」という報酬である。
  ・大企業ではその大きな部分を、「監督労働を行う管理職労働者=新中間層」が「労働力価値に加算された剰余価値」として受け取っている。

 ㋔社会主義では、「監督労働報酬は廃止」されるが、「指揮労働の分配加算」は残る。資本主義より、一般的には「低額」となるだろう。
  ・抑圧的な監督労働が消滅しても、「指揮労働」は残るからその部分は加算される。しかし、「一般職の数倍」とかの高額にはならないだろう。
   マルクスは、「熟練労働者並みの水準」(「フランスの内乱」等)程度を指示している。

 ㋕資本主義の「所有と経営」の分解のうち、「経営者は社会主義的なものとして重要性を維持する」。
  ・実務として指揮労働を行う「旧経営者」層は、「生産力の一部」であり、その「階級性を除去」した形で社会主義経済に参加する。
  ・生産実務と分離してしまった、「所有としての資本家」は、全て消滅する。
  ・いずれにしろ、それは生産力の一環としての「指揮労働」を行う「労働者の一部」であり、「特殊な階級・階層」は形成しない。・・・はずである。

 ㋖「社会主義的な経営者・政治的官僚」が、特殊な階級・階層にさせないための、「民主的ルール」が絶対に必要である。
  ・主には「報酬=分配権の制限」と「最長任期の制限」と「国民のリコール権保障」等が絶対条件になる。
  ・ソ連東欧の諸国は崩壊したが、なぜ「キューバ」は崩壊しないのか? 全てではないが一つの答えはここにある。
    ㋐フィデル・カストロの給与は、国家公務員給与で月300ドル、一般労働者と大差がなかった。(高級官僚も労働者並み給与)
    ㋑弟のラウル・カストロが指導者を引き継いだが、2016年に「主要な政治職の任期は2期まで」を党決定。自身もそれに従い2018年退陣。
    ㋓キューバでも計画経済失敗で経済は大きく混乱したが、国民からの「政治的信任」は大きく揺らがなかったという点である。
     簡単に言えば、キューバ国民はカストロに、「経済建設また失敗しちゃったけど、もう一度やり直せばいいじゃない。」と言ったのである。
      (〜「キューバ現代史 ―革命から対米関係改善まで」  :後藤政子・明石書店)

★「結合労働」の「指揮労働」と「監督労働」の二面性は、「国家」の「共同事務機能」と「階級抑圧機能」の二面性と類似している。
  ※「共同事務機能」は、共同体社会が存続する限り必要な「社会的機能」である。・・・結合労働の「指揮労働」に似ている。
  ※階級支配のための官僚・軍事組織という寄生組織・暴力装置は「階級的機能」である。・・・「監督労働」に似ている。
  ※社会主義では、いずれも、前者は不要・死滅し、後者の機能だけが残存する。
[641] 2020年06月22日 (月) 20時27分
資本論の示唆
産業資本の機能分化:生産資本・商業資本・貨幣資本・・・商業資本と恐慌
岩波文庫6分冊419p

「製造業者は輸出業者に売り、輸出業者は外国顧客に売り、輸入業者は原料を製造業者に売り、製造業者は卸売業者に売る等々として現れ、
どこか目に見えないところで、商品が売れずにある場合や、または全生産者と商人の在庫が次第に過充になる場合もある。そのような場合は
消費が旺盛であるのを常とし・・・使用労働者が十分に就業させられ多くを支出できるからである。資本家とともに労働者の支出も増加する。
さらに、・・・不変資本間でも不断の流通が行われ、それは個人消費には入らないが、終局的にはこれに限界づけられている。
なぜなら、不変資本生産は決して不変資本自体のために行われるのではなく、個人消費に入る諸生産物を供給する諸生産部面で
より多くの不変資本が使用されるためにのみ行われるのだから。
しかしそれもしばらく、「見込需要」に刺激されて平穏に進み、これら部門では、商人にも産業家にも好景気が続く。
遠方に売る(または在庫が国内で山積みになった)商人の還流が甚だしく緩慢で僅少になって、銀行は支払を迫り、手形が商品の再販売が
なされないまま満期を迎えることになれば、恐慌が出現する。支払いのための強制販売が始まり、外観的繁栄に一挙に終末を与える破局が到来する。
また、商人資本の回転の「外面性と無内容性」が、極めて種々に異なる諸生産資本の諸回転を、同時または順次に媒介するので、それだけ大きなものとなる。

★産業資本(G−W・・・P・・・W'―G')の、生産・商業・貨幣資本への機能分化が、「過剰生産恐慌」を大規模にする一要因。
 ・貨幣資本は主に「G−W」段階、生産資本は「W・・・P・・・W'」段階、商業資本は「W’―G'」段階の機能を分業する。各々独自の展開をするが。
 @貨幣資本は、生産資本と商業資本の「前貸資本」を信用で提供し、生産量や仕入商品量を膨大に増加させる資金を提供する。
 A生産資本は、「前貸資金の蓄積」や「販売流通期間」の期間も節約し、膨大な借入資本+回転期間短縮で更なる大量生産を行う。
 B商業資本も、貨幣資本信用での「前貸資金の蓄積」と、商業資本独特の「手形信用」で、膨大な商品を仕入れ在庫を形成する。
 ※好況期には、生産から数段階の卸商人から小売商人まで、それぞれが「最大在庫」を保有し、総量は「社会的必要個人消費量」の何倍にもなる。
 ※需要の一巡等で販売量はの低下、それがどこかの「環」の「信用返済」に支障をきたすことを契機に、「不要な量の在庫」のたたき売り「恐慌」となる。

★現代の独占資本では「需要予測が正確」となり、「過剰生産恐慌」は、「常に社会的必要消費量よりも大きな生産力」として、「慢性不況・低成長」として現れる。
 ・新規商品市場、昔の「パソコン・IT」、直近の「携帯電話」等、以外は「需要は定まりより縮小」し、新規商品市場も数年で充足する。
 ・各段階の資本も、発展期の「最大在庫」基準ではなく、合理的需要予測による「適正在庫」を前提にそれ以上の成果に努める行動様式に転換している。

★社会主義でも重要な、「需要予測技術」・「適正在庫管理」はすでに先進諸国の常識・習慣となっている。「社会的消費総量」だけが、「不足」している。
 ・それが資本主義の常識なのは、一面では、すでに先進諸国では、資本の「価値の増殖」よりも「価値の維持・生き残り」が精一杯ということである。
 ・その状況が、反面、資本主義の使命である「貨幣資本の生産資本への投下」に回らず、「過剰貨幣資本同士の収奪合戦」という不生産性に現れる。

★社会主義の、「社会的消費」から起動する「適正在庫生産経済」は、形式的に実現している。内容的には諸問題あるが。
 @資本主義的な「適正在庫」は基本的に、あくまで「個別資本ごとの思惑」であり、「社会的調整・統制」は効いていない。
  ・生産物ごと、または互換生産物群ごとかの、「総在庫量情報」や「消費・需要動向」の、社会的把握は必要になる。
  ・現代の、「サプライチェーン」という産業連関形態や「トヨタ生産方式」は、「適正在庫経済」の一手法になるのだろう。
 A資本は「利潤が判断基準」だから、「使用価値とその量」の社会的必要・不必要性を、調整できない。
  ・競争に敗北した産業部門は他億資本に蹂躙される。食料自給率が下がろうが、医療用消耗品の国内供給ができなかろうが、知ったことではない。
  ・だが、資本にとって重要な「内部留保」や「石油」等は、可能な限り備蓄する。
  ・「過渡期」には、「国家」による「必要産業の育成」は重要課題となる。当然その分野の貿易関係は「保護主義」しかない。
   そもそも、国際関係は「各国の経済事情での保護主義」が大前提である。問題のない分野だけ「自由主義」に決まっている。

★国家的な「産業構造の変革」は、「都市と地方問題」と重大な関連性をもって進められる。
  ・コロナ騒動が改めて明らかにしたことは、「人口密度と環境衛生」の重要性、現代の「都市生活の異常性」であった。
  ・中国の開放政策は、まずは「深圳」をそして「上海」をそして「臨界諸都市」を限定的に、資本主義経済の拠点にした。
  ・政治的に、生産及び居住に、「圧倒的に有利な地方条件」を作ること:「特定業種の法人税ゼロと新築住宅無償提供」。
[634] 2020年06月04日 (木) 11時00分
資本論の示唆
「一般的利潤率の傾向的低下の法則」  ・・・「この法則の内的矛盾の展開」、マルクスのまとめ。
岩波文庫6分冊419p

「資本主義的生産の三つの主要事実。
@少数の手に生産手段が集積されることで、生産手段は「直接的労働者」の所有であることをやめ、反対に生産の社会的力に転化される。
 最初は資本家の私的所有としてであるが、資本家はブルジョア社会の受託者であるが、しかし彼らはこの受託の全果実を取り込む。
A労働自体の「社会的労働」としての組織。協業・分業・労働と自然科学との結合、によって。
以上の二つの面から見て、資本主義的生産様式は、私的所有と私的労働とを止揚する。むろん対立的な諸形態においてである。
B世界市場の形成。
 資本主義的生産様式の内部で発展する、人口に比しての巨大な生産力、それと同じ割合ではないにせよ、
人口よりもはるかに急速に増大する資本価値(単にその物質的基底のみではなく)の増大は、この巨大な生産力がそのために作用して、
増大する富に比して相対的にますます狭隘となる基礎と、この膨張する資本の価値増殖関係とに矛盾する。
かくして恐慌が生ずる。」

※この第15章では別途、「恐慌」の諸現象・諸影響がかなり詳細に述べられているが、ここでは触れない。

★「三つの主要事実」は単に資本主義的生産の結果ではなく、「社会主義的生産の最大の三つの基礎」としての、「総括」。
 @「集積された生産手段」は、「生産の社会的力」に転化される。現実の富=使用価値の、「生産の主体は労働ではなく生産手段になる」。
  ・資本論ではその象徴は「大工業の機械」。現代の、「ロボット・AI]は、この想定、「生産は、労働ではなく生産手段がやる」を現実化する。
  ・生産力は「現実の富・使用価値」とだけ関連している。価値はしようされるので、「生産の社会的力」は、「不変資本という価値」ではない。

 A「社会的労働」。人間は商品にならないから、「労働力」という概念も止揚している。「アソシエーション」という「社会的労働組織」。
  ㋐結合労働=社会的分業を前提として、全生産参加者が分業・協業を「集団的に担う」こと。実際の生産労働=「肉体的労働」。
  ㋑生産への自然科学の応用=現代では心理学・社会学他の「社会科学・人間学」を含む。生産手段等の開発労働=「精神的労働」。
  ・㋐は㋑の進展の実験室であり、㋑は@を促進する。そして、@の進展が、歴史的に限りなく㋐を「消滅・死滅」させていく。

 ※両者の資本主義的形態「私的所有と私的労働」は、「社会的所有と協働労働」という対立的諸形態に転化する。

★「世界市場」は、社会主義で、「どのような重大な要因」として働くのか?これが最も不明瞭である。
 ・あまりにも「何も書かれていない」。しかし、@Aと同じレベルの「重大要因と考えていたはずである。
 ・まず各国民は「自国の資本主義を終わらなければならない」。だから、「国家別社会主義協同体」が成立していく。
 ・当初の「社会主義世界市場」は「国家別社会主義協同体」間の取引として始まる。旧「コメコン」のように。
  ただしこれは、「世界的過渡期」では、「資本主義世界市場」と共存しながら進展することになる。
 ・過渡期には、「資本主義世界市場」と「社会主義世界市場」との、「全く異なる二つの世界市場」に対応しなければならない。

★後段:「人口:その必要総消費財・必要総使用価値」と「資本の増殖価値」と「資本による生産物・使用価値」との関係の総括。
 ・「人口:その必要総消費財・必要総使用価値」の増加<「資本の価値」の増加<「資本による生産物・使用価値」の増加、の関係にある。
  ただしこれは、発展機での、「国内人口増加」や「世界市場の拡大」、いわゆる「外部経済の取り込み」ができていた時の条件。
  それでも、「人口増加」<「資本による生産物・使用価値」=「実現させたい価値」の増加の基本矛盾を内包している。
 ・資本の没落期、現代では、「人口:その必要総消費財・必要総使用価値」は増加せず、絶対的に減少し、「ますます狭隘となる」。
 ・「膨張する資本の価値増殖」は困難となり、現実的生産は「終わりなき長期不況」という「終わりなき恐慌」状態になる。
  ㋐現実生産は、「国内市場限界→世界市場戦:グローバル経済」へ、しかしこれも「世界市場の狭隘な基礎」に衝突している。
  ㋑行き場のない膨大な過剰貨幣資本は、「幻想的価値」である「金融市場:名義資本・空資本」取引での、「他資本からの収奪」に向かう。
  もはや、「生産力の急速な増大、という歴史的使命」は終焉し、明らかに「資本が生産力発展の障害」となっている。
[633] 2020年06月01日 (月) 19時22分
資本論の示唆
「使用価値と価値」に関連について ・・・<補論>A「貨幣としての貨幣=流通手段としての貨幣」と「資本としての貨幣」。
<関連記述>  「経済学批判要綱 U」190p

「(価値・交換価値は)したがってまた「直接にその個人のために存在している有用性・使用価値」を止揚するが、使用価値自体を止揚するのではなく、
「他人の使用価値」として措定し媒介するからである。だが交換価値が貨幣に固定化すると、この交換価値には「使用価値はもはや単に抽象的な混沌」
としてだけ対立し、まさに「実体」からの分離を通じて、交換価値は自分自身に一致し、単純な交換価値の領域から離れる
(その最高の運動は単純流通であり、その最高の完成が貨幣である)。
しかしこの領域自体の内部では、事実上区別は、表面的な相違・純粋に形式的な差別立てとしてしか存在していない。
その最高の固定性にある貨幣そのものは、それ自体また商品であり、他の商品と区別されるのは、一層完全に交換価値を表しはするが、鋳貨として
、内在的規定としての交換価値を喪失して、単なる使用価値―商品の価格等のための使用価値にもせよ―となることによってだけである。
これらの規定はなお直接的に結合しているとともに、また直接的に分裂している。
それらのものが、相互に対して自立的にふるまい、「消費の対象となる商品の場合のようにそれが積極的」であるならば、「経済的過程の契機」ではなくなる。
「貨幣の場合のように消極的」であるならば、「錯乱」になる。錯乱はもちろん経済の一契機であり、諸国民の実際生活を規定する。」

★単純商品流通は、「貨幣としての貨幣」を産み、「商品と貨幣:使用価値と価値」に「区別」される。しかしそれ統一されており、対立しない。
※単純商品経済で、「流通手段としての貨幣」が出現すると、「使用価値は抽象的な混沌」となり、貨幣は「実態から分離・遊離する」。
 ・物々交換「商品⇔商品」では、価値と同様に、自分が得る相手の「使用価値」も、「具体的に明確」だったが、貨幣流通で「商品→貨幣」になると、
  ㋐商品の「価値の実現=貨幣への転化」が問題となり、商品の使用価値は「どうでもよいようなもの:抽象的混沌」として扱われる。
  ㋑他方で、価値(交換価値と表現されているが)は、商品という「実体」を離れ、「貨幣」となり、「物々交換」を離れ、「単純な貨幣流通」を完成させる。
※だが、単純商品経済の「領域内部」では、「使用価値=商品」と「価値=貨幣」は「区別」されているが「対立していない」。
 ・単純な物々交換が、商品と貨幣とに「区別」されながらも、この「領域」は「商品→貨幣」と「貨幣→商品」の2過程による「商品⇔商品」交換でしかない。
※しかし、貨幣は「貨幣としての貨幣=流通手段としての貨幣」として完成されていく。
 ・貨幣は最初は、金銀というそれ自体使用価値を持つ商品だったが、新たに「商品の価値を表す使用価値」という、社会的な「使用価値」が付与される。
※貨幣は「他商品の価値を表す使用価値」として、「本来の使用価値から分離」し、価値実体のない「鋳貨→紙幣」に進化する。
※しかし、この「単純流通」は、「商品が問題」であり、「商品→貨幣→商品・・・消費」の過程をたどり、毎回閉じて消えていく。
 ・
★資本流通=「資本としての貨幣→資本としての商品→増殖した資本としての貨幣」、は「倒錯」した流通過程であり、「使用価値と価値は対立」する。
※「価値自体」である「貨幣」が資本の主要な形態だが、「商品価値と等価」の「貨幣としての貨幣」は、「資本としての貨幣」には使えない、「増殖できない」。
※貨幣は、資本の成立で、さらに新しい「社会的使用価値」として、「増殖する価値=資本としての貨幣」の機能が付与される。
 ・最終到達する「資本としての貨幣」が次の出発点だから、「資本としての貨幣」は、基本的に「消費・使用価値は全く無視」される。
※結局、「資本としての貨幣」は、「貨幣としての貨幣」と「使用価値」を単なる手段として利用し、自己増殖する。
 ・資本流通、「G−W−(G+△G)」の各項のGとWは単なる手段に過ぎない。この過程をつうじて、「自己価値を維持」し「増殖」するのが資本である。
※交換以前の商品は、すべて「資本としての商品」に転化。「貨幣に価値評価される」存在から、「費用価格+平均利潤が前提」の使用価値に転化している。

★資本としての使用価値=「「費用価格+平均利潤の手段」が、現実の使用価値=「社会的欲望充足手段」と、流通・市場で敵対する。「倒錯」が証明される。
 ・資本は「価値」しか考えないので、「商品」でさえ「投下価値と付加価値の合計」としてしか見ていない。流通過程で、ひっくり返される。

★ブルジョア経済学は、「貨幣としての貨幣=政府財政支出」と「資本としての貨幣=日銀の国債買いオペ」の違いさえ理解できない、「倒錯」にある。
 ・「ウソツキ黒田」は、「民間への資金提供・国債や証券買い増し」で、「流通貨幣=貨幣としての貨幣」を増やし、「2%インフレを2年で実現」すると「約束」した。
  この「バカ」も、「日銀が民間に提供する貨幣」は「資本としての貨幣」、だから、「増殖できる環境」がなければ「市場に投資されない」ことさえ知らない。
 ・「インフレ誘導」には「実需=貨幣で商品を買うこと」が必要で、「貨幣としての貨幣=商品との等価交換手段」が必要。政府の「財政政策で国民に配ればよい」。

★「社会主義への過渡期」の「一つのテーマ」は、「資本としての貨幣」を収奪しながら、「貨幣としての貨幣=消費」にどんどん回すことにある。
 ・「過渡期」は、まだ「資本主義経済を基礎」にした社会である。「生産された剰余価値・利潤」を、「国民の生存の実現・消費生活の拡充」に使うこと。
 ・「生産手段の国有」を終えた企業・生産部門では、そうした「非利潤目的の生産」に転換可能になる。しかし、いまだに資本であることに変わりはない。
[632] 2020年06月01日 (月) 12時46分
資本論の示唆
「使用価値と価値」に関連について ・・・<補論>@ :「釈迦の手」と「孫悟空」
<関連記述>  「経済学批判要綱 U」189p

「なによりも、個々の編章を展開するにあたって、どの程度まで使用価値が、経済学とその形態諸規定との外にたんに前提された素材
として残ることがなく、どの程度までその中に入り込むかということが、示されるであろうし、また示されねばならない。
プルードンの愚論「貧困」を見てみよ。
次のことだけは確実だ。
㋐交換において我々は(流通において)商品―使用価値―を価格として持っているということ。
㋑商品がその価格を除いても商品であること。すなわち欲望の対象であるということは、自明である。
この二つの規定は、特殊の使用(価値)が「商品の自然的限界」として現れ、したがってまた貨幣を、すなわちその商品の交換価値を、
同時に商品そのものの外にある存在として貨幣のかたちで―ただし形式的にだけ―措定する限りでのほかは、
決して相互関係に入ることはない。貨幣自体が商品であり、使用価値を実体として持っているのである。」

★商品経済では、「社会的総使用価値」が、「価値の社会的総量を決定」する、「基本的フレーム」になっている。
@「経済学批判要綱」は「資本論」執筆に向けた準備ノートやメモの一端だが、執筆前から、全巻で価値に対する「使用価値」
  の作用」が、充分に意識されていた。プルードンは「前提条件」で扱ったが、あとの価値論ではまったく忘れてしまったのである。

A㋐では、「交換価値・価格」は「価値の現象形態」以前に、「使用価値の付けられる価格」である、と言っている。
  ・使用価値であるから、特に「他人にとっての使用価値」であるという条件で初めて「価格」が必要になる、という絶対条件である。
  ・「使用価値が持つ価格」が、商品経済では「等しい労働時間=等量の価値」という「特殊な方法」で測られるだけである。
  ・だから、別の経済様式では、「使用価値の別の測り方・測らない=無償という測り方」がある、ということを示唆している。
  ※㋐の点が、「資本論」では、あまりしっかり述べられていない気がする。だから、まるで「価格は価値に属する概念」とか、
   商品の使用価値と価値は「全く異なる概念・分離独立している概念」、とかいう理解の仕方が一般的のように思う。

B㋑商品、というより生産物、は「人間の欲望の対象」。いわゆる「効用」を持つ。
  ・この点は明確に、資本論でも述べられている。

C「価値・貨幣」との関係では、使用価値の限界が「価値の自然的限界」 を規定している。
  ・価値の限界の範囲、フレームが、「使用価値の限界」で決まっていること。「価値」にとっては、それが「自然的限界」と感じられること。
   使用価値の限界は、様々な使用価値の各「社会的必要量」で決まること=平均利潤率低下での、「諸生産部門均衡」の制限のこと。

D「釈迦の手のひら:使用価値」のなかでしか暴れまわれない「孫悟空:価値」。この場合、「釈迦」は結局「人間」である。

★ここでの「貨幣」は、まだ「貨幣としての貨幣:流通手段としての貨幣」であり、「資本としての貨幣:増殖する価値」ではない。
 「単純商品流通」の、「商品―貨幣・貨幣―商品」、として流通の中にある貨幣、「他商品の価値表示という使用価値」を持った貨幣である。
  ・この段階の「貨幣」は「受動的・消極的」。使用価値とは別な「交換価値」として存在するだけで、「一種の解決策」であり「両者は敵対・対立」しない。
   商品自身は両者を含むのだが、「商品―貨幣」の流通関係に入ると、「使用価値(商品)―交換価値(貨幣)」に分かれて表現されている。
  ・「商品」と「貨幣」は常に「異なる別の側」に現れるだけで、「決して相互関係しない」。「流通手段としての貨幣」では、「恐慌は起こらない」。
   歴史的に言えば、「経済の本体は使用価値の自己消費」の社会から、「余剰生産物」だけ商品となる場合、商品はまだ「社会的力」を持てない。
  ・「資本としての貨幣」は、単なる「価値表示の使用価値」としての貨幣ではなく、「増殖する一般的価値」という「新たな経済的実体」になる。
   全ての生産物が「商品」になる=「すべての商品が資本」になると言われるが、正確には「すべての商品を資本にしたいと願う」。
   「最終的に使用価値に規定されている価値」が、「増殖のために、『使用価値を規定したい』と願い生産する」。
   「使用価値に対する価値の敵対・対立」は、「資本としての貨幣」の一般化・資本主義から始まり、恐慌という破壊に表現される。

★社会主義では、直接「使用価値・効用の価格」または「無償の効用・使用価値」として、分配される。
  ・「生産物の持つ等しい労働時間で交換」する無駄は、完全になくなる。
  ・「生産物の平等価格」ではなく、人間の必要に応じた「効用の価格」で、「労働債権」に対応して分配される。
   当然、「効用の価格」は「政治的価格」であり、「生産物の平等価格=価値または生産価格」とは全く異なる質と量である。
[629] 2020年05月28日 (木) 19時03分
資本論の示唆
岩波文庫1分冊 86p ・・・[529]再掲
「生産力は、つねに有用な具体的労働の生産力である。・・・有用労働(使用価値)は生産力の増加・減少に比例して増減するが、
抽象労働は同一期間に、生産力の変化に関係なく、つねに同一の価値を生む。」

岩波文庫1分冊149p〜「商品の物神的性格とその秘密」 <筆者によるまとめ・意訳>
「先回りせず商品形態自身の一例をあげる。
使用価値は人間の関心事・人の属性・人間の特性。価値は商品に与えられている物・商品の属性・商品の特性。
だから、この意味で価値は必然的に交換を含むが、富は交換を含まない。
使用価値がその物的属性から独立しているのに反して、価値は物としての属性に属している。
ここで立証しているのは、使用価値は人間にとって「交換なしで実現され、物と人間との直接的関係において実現」される。
しかし価値は、「交換という社会的過程においてのみ実現」するという、「特別の事態」である。」

★資本主義での「生産と流通」の対立が、どうして、「価値と使用価値」の対立の表現、なのかの根本的理由。
 @「抽象労働」に規定される価値は、同一期間で常に一定量でしかないのに、資本は、「生産力=使用価値」を拡大する必然性を持つ。
  「平均利潤率を低下」させて、「1個単価」を下げ、「他資本が生産する剰余価値」まで、「特別剰余価値」として収奪するためである。
 Aその「衝動」で、「生産」では「私的・無政府的」に「価値を獲得」するが、「流通」では「社会的必要以上の使用価値」の価値は「実現できない」。
  「最大限の価値」の「生産」は、「膨大な量の使用価値」で現れるしかなく、、「有限な使用価値」である「消費・需要」に制限される。
 B「使用価値」は「人間の属性」であり「質的に無限だが各量は限界」を持つのに、「価値」は「資本の属性」であり「質的に均一だが量的に無限」である。
  だが、これは「資本の勘違い・無知」が原因。「価値」は結局、「使用価値であるという大前提の範囲」でしか「価値になれない・実現できない」。

★社会主義、「人間と人間の属性である使用価値との直接的関係」は、「交換・価値なし」で実現される。
 ・「先回りせず」と言っているくせに、我慢できずに、「本質的なこと・結論」を書いてしまっている。論証せず、抽象的にではあるが。
 ・「人間・労働と使用価値の直接的関係」とは、「生産手段が国有(共有)・労働の協働」の条件で、「生産前にそれらの配分を社会が決定」すること。
  ㋐生産手段は、「すべて国有=所有者なし」で、各生産者に「占有」されるだけなので、「交換されようがなく分配」されるだけである。
  ㋑労働は「個人所有」だが「国家占有=共同占有」で配分される。全員が「他人の使用価値生産の労働」という「労働の交換」、が事前に決定される。
    社会主義では、この部分が「最大の問題」である。「協働」は大前提、しかし「社会的強制は「社会主義の原動力である「主体性」を害う。
    諸個人の合理的参加という「アソシエーション」をどう確保するかが、最大の問題である。当初は、「半強制」が現実としてかなり残るのだろう。
  ㋒「労働の個人所有」のため、生産での「個別提供時間(資本主義の「v+m」の売り)」に対応する、「労働債権による分配制度」が必要になる。
    「個人消費財」だけが、社会の共有生産物から「個人の労働時間に応じて分配」される部分である。後の共有物は「個人所有の労働」とは関係がない。
    旧ソ連等の社会主義では、全労働が職種・職位に応じた「基本賃金表」にまとめられていた。ほぼそれと同様の方式が基礎になるだろう。
 ・「使用価値が物的属性から独立」しているとは、「『効用・有用』は人間が決める、人間の主観」であり、物の属性はそれを「媒介」するだけ。
 ・「価値は物としての属性」とは、人間の属性である「抽象労働」が、商品経済では「生産物に付着し生産物の特性」となってしまう、「特殊な現象」のこと。
  商品経済の「私的生産」は社会的過程を経てないので、生産後に、「流通・交換という社会的過程で『物の属性』として実現する」、「特殊性」を持つ。

★「価値基準=売れるかどうか」では、「人間・国民」にとって必要な「生産物の質」と「適正な量」は絶対に把握できない。市場は排除される。
 ・「価値基準」ということは、「流通・市場での価値の『実現』」だけが生産目的であり、「売れれば作る」が「売れなければ作らない」。
 ・しかし、「人間社会」には、「売れても生産しちゃいけないもの」や「売れなくても生産すべきもの」が多々ある。
 ・「神の手」が単なる「幻想」だったことは、完全に世界の共通認識である。

※「資本論」が「商品」で始まること以上に、なぜ「使用価値と価値」ではじまるのか、特に「使用価値」から始まるのか、の意味は「絶大」。
 ・最初の「第一節」は、「商品の二要素 使用価値と価値」であること。「価値」と「使用価値」ではなく、「使用価値」が先である。
 ・「商品の分析」は、第一に「使用価値」の規定から始まる。
[628] 2020年05月27日 (水) 12時29分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊411p〜413p
「生きた労働の縮減から生ずる価値減少が、一切の価値追加よりも大きくなければならない。「商品に入る総労働量のこのような減少」は、
いかなる社会的条件の下で生産が行われても、「労働の生産力の増大の本質的標徴」であるかに見える。
「生産者が彼らの生産を前もって考案された計画に従って規制するという社会」においては、さらに単純商品生産においてさえも、
労働の生産性はやはり、無条件的にこの尺度によってはかられる。
しかし、資本主義的生産においてはどうであるか?
資本主義では、労働生産力増大の法則は、無条件に作用しない。1巻13章2節:2分冊359pに示したとおりである。
ここで資本主義的生産様式は、一つの矛盾に陥る。その歴史的使命は、仮借することない、幾何級数的に推進される人間労働の生産性の展開である。
それが、ここにおけるように、生産性の展開に対して阻害的に対立するに至れば、この使命に不忠実となる。
資本主義的生産様式が老衰し、ますます生き過ぎたものとなることを、あらためて証明するに過ぎない。

★社会主義経済の「優位性」:資本主義経済の「劣後性」・・・[535]参照。

@社会主義における「労働生産性」の尺度。
  ・商品価値の構成は、「c:不変資本の価値移転分+v:労働賃金分+m:搾取される剰余価値分」である。
  ・「生産手段の生産時間の増加:+c < 生きた労働時間の減少:−(v+m)」であれば、生産性は上がる。
  ・社会主義=「生産者が生産計画に従って規制する社会」でも、単純商品生産でも、これが「労働生産性の尺度」になる。

A資本主義での、より狭隘な、「労働生産性の尺度」。
  ・@だけの条件では、労働生産性は向上するが、「m」が減少してしまう場合が多い。
  ・剰余価値増殖しか考えない資本には、そんな新技術は、「労働生産性の減退」にしかならないものである。
  ・つまり、「生産手段の生産時間の増加:+c < 労働賃金分の労働時間(必要労働時間)の減少:−v」が、「生産性の向上」である。

B平均利潤率の低下が進めば進むほど、「生産性の向上」は困難なものとなる。
  ・極度に切り詰めた「必要労働時間」を、さらに切り詰め剰余労働時間に回すには、余程の「高い技術と莫大な投資」が必要になる。
  ・㋐新固定資本開発がより困難化する、とともに、㋑さらに膨大に生産される使用価値の販路も問題になる。
  ・その両条件がクリアできない限り、一般的には、資本は投資リスクを負わない。
  ・結局、最終的な到達点は、「低成長率での慢性的不況=実態は長期化された恐慌」でしかない。

C「100%ロボットでの生産」では、どうなるのだろう?
  ・労働者の「生きた労働」は注がれないから、生産商品価値は、「cの移転価値+特別剰余価値」だけ、「生産剰余価値=0」になる。
   だから、「ロボット生産」は、「特別剰余価値」によって、「他資本の剰余価値の収奪」を目的としているわけである。
  ・さらに、ロボット生産が「平均的有機的組成」になると、価格は下がり、特別剰余価値は消失する。その場合は、
   生産商品価値は、「c:生産手段の移転価値」だけになる。「より低廉なロボットを使うこと」での特別剰余価値の奪い合いになる。
   この場合は、「他資本が生産した剰余価値の収奪」ではなく、「他資本の投下資本の収奪」=「他資本のcは回収されない」、である。

※発展後の衰退期の資本主義から、社会主義に転化した後、経済は「労働生産性の尺度」により、自ずと大きく発展する。
[627] 2020年05月24日 (日) 17時25分
資本論の示唆
「一般的利潤率の傾向的低下の法則」  ・・・Eもう一つの根本的対立:「生産」と「流通」 V。まとめ。
岩波文庫6分冊386p
「したがって市場は絶えず拡大されねばならないから、市場の諸関連とそれを制御する諸条件は、ますます、生産者から独立した
「自然法則の態容」をとり、制御されえなくなる。
「内的矛盾」は、生産の外的範囲の拡大で融和されることを求めるが、生産力発展で、ますますそれは
「消費諸関連の立脚する狭隘な基礎と矛盾」するようになる。
「資本の過多」が「人口過多」の増大と結びつけられていることは、この矛盾に満ちた基礎の上では、決して矛盾ではない。
なぜなら、両者を一緒にすれば、生産される剰余価値量は増大するとはいえ、これとともにこの剰余価値が「生産される諸条件」と、
それが「実現される諸条件」とのあいだの矛盾が、増大するからである。」

★「生産:獲得した剰余価値」と「流通・市場:その剰余価値の実現」との矛盾は、「膨大な使用価値・商品の販路がない」という現象で現れる。
 ・市場の諸条件:商品価格・売れ筋商品・シェア・原料価格等々、制御諸条件:需要供給等、の「不均衡」・大きな変動。
 ・それらは「生産関係」に基づいた「社会的な諸法則」であるのに、まるで「自然法則」、予測不能な突然・偶然の外的強制、として現れる。

★「一市場:国民経済」内部の「生産と流通」の内的矛盾は、「いわゆる外部:世界市場」に緩和・解決を求めるが、それもすぐに充足する。
 ・人類は数万年の間、「地球の果て」さえ知らず生活したのに、資本は「100年」程度で、「世界を確定し分割を完了」した。
 ・ブルジョア経済学でいう所の、資本が取り込める、いわゆる「外部:外部経済」の終焉である。
 ・結局、どこまで行っても、「敵対的分配関係を基礎にした、狭隘な消費」が、「生産された剰余価値の実現」と対立する。
 ・結果は常に「恐慌か戦争」、それによる「資本の再構成」と「既存市場の破壊による強制的再『外部化』」しかない。

★生き残っている資本は、「より安い商品をより膨大に」売り捌くため、「市場の拡大」を求めるが

★「「生産」と「流通」の対立は、「資本の過多・過剰」と「人口の過多・過剰」の対立でもあり、「価値」と「使用価値」対立の現象形態
 ・敵対的分配関係により「圧縮され続ける個人消費=国民の90%を占める労働者の分配使用価値量」が基準になり、
  ㋐「生産」で見れば、「そんな少量使用価値」を生産するには、「資本は完全に過多・過剰」である。
  ㋑「流通・分配」で見れば、「そんな少量使用価値」を「人間らしく分配」するには、「人口は完全に過多・過剰」である。
  ※第T部類・生産財生産部門または「企業消費」は、基本的に「個人消費の『追っかけ』」だから、ほぼ無関係。

 ・「両者を合わせて増産」できるのだが、結果はより以上に、「生産」できるが「実現」できない矛盾、の増加にしかならない。

★「資本の廃止=価値基準の分配」を止めてしまえば、「資本の過多・過剰」と「人口の過多・過剰」は「最高の条件」を意味している。
 ・これらが「矛盾ではない」のは、資本主義では、「生産した使用価値」を「価値の等価でしか交換・分配しない」ために「必然」だから。
 ・これらが「矛盾」なのは、国民=社会主義経済では、「生産した使用価値」を「価値等価と関係なく分配」する解決策があるからである。
  ㋐「圧縮された個人消費」への分配を、5割適度拡大すればよい。
  ㋑そのために必要な生産は、「過剰資本」と「過剰人口」で簡単に行える。
  ㋒「増産された使用価値」を「全人口」に分配すればよい。
  ㋓それでも使いきれない「過剰人口」があるだろうから、彼らにも生産してもらい、「全員の労働時間を均等に短縮」すればよい。

※「資本の過多・過剰」=「もっと豊かな国民の消費生活」、「人口の過多・過剰」=「もっと多くの国民の自由時間」、がぶら下がっている。
※「使用価値と労働の共有」で、「価値」なしに、すぐにでも今より「かなり楽しい人生」が送れるはずなのに。
[626] 2020年05月23日 (土) 08時14分
資本論の示唆
「一般的利潤率の傾向的低下の法則」  ・・・D(前回C)「生産」と「流通」の対立 U。「流通=消費・使用価値の諸制限」。
岩波文庫6分冊386p
「一方(剰余価値の獲得:生産)は、社会の生産力により制限されているだけだが、他方(剰余価値の実現:流通)は、(1)「種々の生産部門間の均衡」と、
(2)「社会の消費力」とによって制限されている。しかしこの社会の消費力は、「絶対的生産力や絶対的消費力に規定されている」わけではなく、
「社会の大衆の消費を狭隘な限界の内部でのみ変動する最小限」に帰着させる、@「敵対的な分配関係を基礎とする消費力」に、制限されている。
それはさらに、A「蓄積衝動」・資本増大と拡大された規模における剰余価値生産とへの衝動」によって、制限されている。
それは、㋐「生産方法の不断の革命」、それと結びついている㋑「既存資本の価値減少」、㋒「一般的競争戦」、単に㋓「自己保存手段」として、
しかも没落の脅威の下で、生産を改良し生産規模を拡大する必然性、これらによって与えられるB「資本主義的生産の法則」である。」

★「資本・剰余価値生産の制限=限界」は、様々に現れる。特に「生産」過程に比べ、「流通」過程で「とんでもない目に合う」。
 ・「生産」過程では「剰余価値の獲得」が行われるが、制限は「社会的生産力:『労働者人口』と『搾取率』」、「だけ」だった。(前回[624]参照)
 ・しかし、獲得したはずの「剰余価値の実現」を行う「流通」過程では、絡み合う様々な要因による資本主義の独特な諸法則に「制限」される。

★「流通での価値実現の制限」は大きく分けて、(1)諸生産部門間の均衡、と、(2)社会の消費力、である。特に(2)が大問題。
 (1)諸生産部門間の均衡:「再生産表式」に示されたように、資本主義でも、潜在的に「国民経済の部門間バランス」がある。
   ・「自分の商品」の買い手は「常に他人」なので、「他人の懐具合:需要」以上に生産しても、「剰余価値は実現しない」。
    部門間不均衡の結果は「市場」に現れ、「売れない」「売っても赤字」。一つの過剰生産恐慌の発生要因である。
    しかし、それは資本主義では「宿命」であり、常時「プチ恐慌」が発生している。例えば、「コロナ・マスク」とか。

 (2)社会の消費力:実現される「使用価値の壁」が、「剰余価値の実現」を制限する。これが岩盤のように、資本を制限する。
  @「敵対的な分配関係を基礎とする消費力」:資本の「有機組成の高度化」により、「労働賃金=必要労働時間」は「剰余労働時間」
   と完全に「敵対」し侵食される。社会大衆の消費は、「労働力の再生産費という狭隘な限界」の変動可能幅の中の、「最小限」に帰着する。、
    ・「物質生活は豊か」=使用価値の側面、「1個当たり価値」が激減、新商品の誘惑。ただ、それで「適正な生活」である保障はない。
    ・「生きることは難しい」=価値・労働の側面。生産する総価値の内、以前は30%台だった搾取率は、今では45%。分配率は低下。
    ・・・先進諸国では、もはや労働者は「自己再生産」が精一杯な状況に追い込まれ、「繁殖費は出せない」、人口は減少する。

  A「蓄積衝動」:「搾取された剰余価値」も価値・資本として蓄積されてしまう。「消費・需要に回らない=剰余価値実現の制限」。
   封建制支配階級は奔放に使い果たし借金まみれになったが、資本主義では「GDPの5倍」とかの「金融資産・貨幣資本」が積みあがる。

  B「蓄積衝動」は、「資本主義的生産の法則」:単なる「自己増殖」ではなく、「より急速で大きく」という衝動」は、流通過程の諸要因により「加速」。
    ㋐「生産方法の不断の革命」:主に、新たな「協業や固定資産」。先行すれば「特別剰余価値」、遅れると「市場価格低下で資本欠損」
    ㋑「既存資本の価値減少」:より生産性が高い同種固定資本の導入は、「同型旧機種の価値を大きく低下させる」。早期の投資回収に追われる。
      ・「原料・流動資本の未使用在庫」も、さらに「生産後の商品在庫」も、需給関係や類似品の新開発等による市場価格低下で「減価」する。
    ㋒「一般的競争戦」:剰余価値増殖の実現には、「消費・使用価値シェア」をさらに拡大する必要がある。そのために競争が必然化する。
    ㋓「自己保存手段」:発展期を過ぎると、特に「負け組資本」「中小零細」にとっては、実際は自己増殖ではなく、「自己保存」に必死になる。
      ・「資本として生き残る」ためには、自身を、「社会的に平均的」な有機的組成にすることが必要であり、それを外部から強制される。
    ※これらの各要素は、㋐「人間の精神労働成果」を柱にしながら、相互の傾向・速度を刺激しあいながら、強烈な蓄積衝動を法則化する。

★国民経済は、「社会の消費力=必要な使用価値量」と、「生産諸部門の均衡=使用価値生産のための有用労働の分配」で規定されている。
   @「均質な価値・価値生産労働」という「無制限な量」を追う資本とは、全く関係ない「使用価値の自然法則」が潜在的に資本を「制限」する。
   Aさらに資本の増殖自体が、この自然法則が働く範囲を狭め、「制限を強化」している。
   Bこの「使用価値の自然法則」の制限から逃れるため、各資本は「商品価値の低減競争」を繰り広げるが、それがさらに矛盾を拡大する。
[625] 2020年05月22日 (金) 06時01分
資本論の示唆
「一般的利潤率の傾向的低下の法則」  ・・・もう一つの根本的対立:「生産」と「流通」。さらに、経済学の対象外の「消費過程」。
岩波文庫6分冊385p
「必要な生産手段・資本の十分な蓄積を前提とし、剰余価値率・搾取率が一定ならば、剰余価値創造は労働者人口
以外には何らの制限を見出さず、また、労働者人口が一定ならば、労働の搾取度・剰余価値率以外には何らの制限を見出さない。
そして、資本主義的生産過程は、本質的に、剰余価値の生産である。この剰余価値の獲得は、前記のもの以外何ら制限を持たない、
直接的生産過程をなす。搾り出せるだけの量の剰余労働が商品に対象化されれば、剰余価値は生産されているが、
この剰余価値生産は資本主義的生産過程の「第一章」である直接的生産過程が終わっただけである。
資本はこれこれの量の不払労働を吸収した。利潤率低下に表現される発展で、こうして生産される剰余価値の量は、巨大なものに膨張する。
 そして、過程の「第二幕」。総商品量、総生産物が、不変資本と可変資本を補填する部分も、剰余価値を表示する部分も、「売られねばならない」。
それが売れない・一部分しか売れない・生産価格以下でしか売れないならば、労働者は確かに搾取されたのだが、
資本家は搾取した剰余価値を実現できず、その全部を喪失することさえある。「直接的搾取の諸条件」と、この「搾取の実現の諸条件」とは、
同じではない。両者は、時間的・場所的・さらに概念的にも一致しない。」

★「資本主義的生産過程・剰余価値生産」は、@「生産:直接的生産過程」と、A「交換・分配:流通。市場」から成る。
★「社会主義的生産過程・社会的個性生産」は、@「交換・生産:生産手段と労働の共有による社会的協働」と、A「個人消費財分配」。分配前の「交換」がない。

@「生産過程」と「流通過程」、そして本来最も重要な「消費過程」。これらは、形式的にはどの社会にもある「経済活動」である。
 ・しかし、当然、その社会の「経済の目的」によって、それらの「内容」は一変する。

A「生産直接的搾取」過程で、「剰余価値獲得」の制限となるのは、㋐労働者人口と㋑搾取率である。(労働日:1日の労働時間は与えられている前提)
 ㋐ある国の搾取労働時間は、「労働者人口×1人当たり搾取時間(労働日×搾取率)」で計算できる。(抽象的労働への評価問題は別として)
 ㋑特に「労働者人口」が、基底として「制限」を与える。なのに、「馬鹿な資本」は、没落期に人口を減少させるのである。
 ㋒人口一定なら「搾取率」に制限される。ただこれは、「100%搾取しても、労働者人口の枠内」でさらに制限されている、ということである。
 ㋓だから、「一般的利潤率の傾向的低下」で「搾取率を上昇」させても、「労働者人口の減少」だけで「搾取の源泉は狭まる」ことを示している。

B「価値」に支配される資本主義では、「生産:第1幕」の後にある、「交換・分配:第2幕」も「大問題」。別の「搾取の実現の諸条件」がある。
 ・「生産労働」は「無政府的・カラスの勝手・私的行為」なので「社会的に評価できない」。第2幕の流通で、「商品自体の価値」でしか評価できない。
 ・「交換」の本質は、社会的分業の諸個人が「等しい労働」を「交換」することにある。「生産」時点ではそれができないから、「市場・価値」でやるしかない。
  「交換」の本質は、「売り:商品→貨幣」にある。売れて貨幣になった「生産労働」は、「社会的労働」になる。他方、「買い:貨幣→商品」は、「分配」である。

C社会主義社会では、「交換・分配:生産手段と労働の配置」がまず「最初にある」。生産者達の「個人分配予定(労働債権)」も決定される。
 ・社会主義では、「生産前」または生産終了時にすでに『労働が交換』されている。生産前の「社会的な生産手段・労働の配分」がなされる。
 ・資本主義での「売り」は、「共有生産者の生産計画」で、社会的に完了している。それから、「生産」がはじまるから、「交換」は終わっている。
  「生産手段も交換されない」。「共有・国有」の生産手段が、計画によって生産者たちに『占有』」される。所有は移転しない、所有の「執行・確定」でしかない。
 ・だから「流通」は、「市場・貨幣」を含まない、単なる「物流・搬送」に転化する。これは、原始共同体の生産や封建制での貢納等と全く同様である。
 ・最後に、「共有生産物の個人分配」は「生産時の労働債権」で行われ、「共有の自分の消費用生産物」を「労働債権」で「引き出す・分配を受ける」。
  これも、資本主義的な「買い:貨幣→商品」ではない。所有は「移転」しない、所有の「執行・確定」でしかない。
 ※これらの「交換」の際、当然、「価値・貨幣」は媒介・存在しない。そんなものは、「二重の手間・余計な労働」でしかない。
   価値・貨幣が出現するのは、「生産時に社会的な労働交換がなされない経済=商品経済」だけである。

D「労働銀行・労働貨幣論」の誤りについて:プルードン・オーウェン他
 ・「生産時の労働時間に対し『銀行』が『労働貨幣』を発行・市場に出る前に銀行が全商品を買い取り」、「資本主義の貨幣の害悪を排除」する理論。
 ㋐根本的に、「商品・貨幣の発生理由」を全く理解していない理論。商品経済の前提では、全く機能しない。(上記B)
 ㋑別な前提「生産労働が直接に社会的(社会主義経済)」でなければ、機能しない話。社会主義ならば、「いわゆる労働貨幣」は機能する。
 ㋒しかし、そうなったとしても、「いわゆる労働貨幣」は、もはや「貨幣」ではない。それは「価値」を持たない「劇場の入場切符」(債権)のようなもの。

Eもっと重要になるのは、国民諸個人の「生活過程・消費過程」。「経済・生産」は最優先活動ではなくなり、「諸個人の生活過程の『道具』」になる。
 ・これまでの「全ての経済=階級社会の経済」は、「少数の支配階級のための生産・経済」。国民生活を犠牲にして「生産・経済」が最優先だった。
 ・社会主義でも「消費のために生産は重要」だが、それは「消費・諸個人の現実生活の拡充」を目的とする「生産の道具化・手段化」としてである。

 ※「生産計画の前の『消費計画・生活計画』の方がより重要になる。「生産」は「消費」に連動していなければ、「意味がない」。
 ※「消費動向」に合わせた「生産変更」ができる、「生産計画」でないと意味がない。
 ※結果、「利用生産物の補充システム」、「消費から起動する『発注生産システム』」は絶対条件になる。
 ※そのためには、最低、以下の点が必要。
  ㋐「欠品防止」のため、「生産→最終分配(スーパー等)」の各段階での「適正在庫」。「貨幣計算がない」だけで、現在の物流とほぼ同様。
  ㋑各生産点・中継点・最終分配点の「経験・情報に基く『受注見込み生産計画』」。これも現在のサプライチェーンとほとんど変わらない。
  ㋒「生産計画」は、主に、「欠品防止のための適正在庫計画」の色合いが強い。
  ㋓これら計画・適正在庫は「中央統制」が全く不可能。各拠点の「アソシエーション=生産者の生産過程『占有』」で簡単に執行できる。
  ㋔各拠点の評価は「最終消費への貢献度」、「生産量」ではなく「供給量・納品量」で評価され、「不良品率・返品率」は厳しく問われる。
  ㋕「いわゆる労働刺激策」、最低でもその柱は「収入」よりも「労働時間短縮(休暇等)」に重点がある。
[624] 2020年05月18日 (月) 16時25分
資本論の示唆
「一般的利潤率の傾向的低下の法則」  ・・・B「この法則」の矛盾

岩波文庫1分冊 86p   ・・・[529]を再掲
「生産力は、つねに有用な具体的労働の生産力である。・・・有用労働(使用価値)は生産力の増加・減少に比例して増減するが、
抽象労働は同一期間に、生産力の変化に関係なく、つねに同一の価値を生む。」

岩波文庫6分冊415p
「労働者の絶対数を減少させるような、すなわち、国民全体にとってその総生産をよりわずかな時間部分で遂行することを
事実上可能にするような、生産諸力の発展は、革命を招来するであろう、というのは、それは人口の多数を不用にしてしまうであろうから。
この点にもまた、資本主義的生産の特殊の制限が、そして、それは決して「生産諸力と富の生産との発展のための絶対的な形態」ではなく、
むしろ一定の点でこの発展と衝突するに至るものであるということが、現れている。」


★「価値と使用価値の対立・矛盾」が、資本論全巻を貫徹する「最大テーマ」:「この法則」の矛盾も、そこに帰結する。
 @「一定の労働時間」では、「使用価値・生産力はどんどん増加・拡大していく」が、「価値は全く増えない」こと。
  ・「一般的利潤率の傾向的低下の法則」の最大の矛盾は、「恐慌の法則化」である。
  ・恐慌は、「一定労働時間」で見てみれば、「総量では全く増えていない・価値」で、「以前よりも膨大に増えた売れない・使用価値」
   を生産することである。

 A「使用価値の生産は無限」だが、「価値の生産は有限」、であること。:最終的に「価値」は、「人口に規定されている」こと。
  ・協業や科学の応用による機械等の固定資本開発で、使用価値・現実の富は「無限に増産可能」である。
  ・しかし、「労働時間量である価値」は、「生産人口(労働者総数)×労働日」に、「絶対的限界」を持っている。
   「最大に設ける」ための絶対的条件は、「労働時間を増やすこと」であり、資本主義はまず、世界を「人口爆発させる」。
  ・「人口」は、「搾取するための労働時間源泉」としても、「増加する使用価値の消費源泉」としても、資本を制限している。
  ・成熟した資本は、「国内人口」に限界を感じ、「世界人口」を相手に活動するが、それも「有限」であることを最終的に知る。

 B資本は、「真の源泉=有限な価値=人口」を、「自らさらに減少させる」。それは、「資本の限界」、というより「資本の自滅・自殺」。
  ・「資本の有機的組成の高度化」による」「一般的利潤率の低下」が、「世界的総需要の限界・壁」にぶつかると、どうなるだろう。
  ・「使用価値の総販売が増えない=総市場が充足」する。しかし、その中で「資本の有機的組成の高度化」の競争は続く。
   ㋐「総需要=総生産量が増えない」中で、「1個当たり労働時間」が「減少し続ける」。 =総労働時間は「絶対的に減少」するしかない。
     あるいはまた、「総労働時間は減少せず増加」はするが「総支払賃金は絶対的に減少」するしかない。
   ㋑「減少した労働時間・労働者」分は、「賃金は支払われない」。 =基本的には「失業者の増加」。
   ㋒「残存する労働時間・労働者」分は、「雇用優先の賃下げ」。  =競争により、「さらに支払労働を減少」させなければ、生き残れない。
     日本の電器産業の没落:「技術」の敗北ではなく、「安く作れないこと」による敗北。外国資本が「高い技術」を、喜んで買っている。
   ㋓失業者は「新たな職場」で「低賃金」で働き、雇用継続者は「新たな条件」で「低賃金」で働く。「全労働者が『過剰労働』を負担しあう」。
  ・「労働力の再生産費」が削られると、まず、自分自身の再生産以外の「繁殖費には回らない」。
  ・「人口減少」は個人の選択問題ではなく、「限界を迎えた資本主義からの強制」である。

 ★マルクスは、「人口減少・滅亡が傾向的法則」となる社会では、「革命が必然」になる、と考えていた。「資本対人間」の明確な対立。
  ・現代の先進諸国で一般化しつつある「人口減少」は、「資本主義の特殊の制限」の一つ、である。
  ・しかしそれは、単に「経済が悪くなる」レベルの話ではなく、「国民が死滅する」法則であり、「直接の主体的な革命条件」になる。
   これまで客観的に進行していた「いわゆる窮乏化法則」が、最終的に「集約される現実問題」である。
  ・マルクスがこれほど明確に、「革命の具体的条件」を提示したものを、少なくとも私は知らない。
[623] 2020年05月17日 (日) 17時24分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 335p    「一般的利潤率の傾向的低下の法則」  ・・・A

「資本主義的生産は、不変資本に対して可変資本の相対的減少の進展が行われるとともに、総資本のますます
「高度な有機的組成」を産み出し、その直接の結果は、労働の搾取度が不変な場合には、またそれが上昇する場合にさえも、
剰余価値率が、不断に低下する一般的利潤率で表現されるということである(なぜ、この低下が、絶対的形態ではなく、
多くは累進的低下傾向として現れるかは、後で述べる)。
かくして、一般的利潤率の累進的低下傾向は、「労働の社会的生産力の漸進的発展」を示す、
資本主義的生産様式に特有な一表現であるにすぎない。」

★「一般的利潤率の傾向的低下の法則」は、「使用価値の増産」と「労働時間短縮」の社会主義的基礎を作る、に「すぎない」。

@成熟した資本主義の本質・「相対的剰余価値の生産」は、「資本の有機的組成を高度化」し、「一般的利潤率の傾向的低下の法則」を産む。
 ・資本主義初期の「絶対的剰余価値の生産」=「剰余価値率は不変のまま」での拡大再生産。・・・いわゆる「外延的発展」期が終わる。
 ・資本主義の本質的運動である「相対的剰余価値の生産」=「剰余価値率を上げる・搾取率の増大」・・・「内包的発展」期に入る。
 ・搾取率を上げるためには、比較的高額な「機械・ロボット・IT等の固定資本」の投入が必要であり、投下資本の「生産手段割合が増加」していく。
 ・過去の「v+m=7+3:搾取率30%」が、「5+5:搾取率100%」等に上昇する、反面それと同時に、「利潤m=p」の投下総資本に対する比率は下がっていく。

A「資本の有機的組成の高度化」も、「価値」と「使用価値」の、「2面での影響」を捉えることが重要である。
 ・生産手段への投下資本の「価値・金額が2倍」になるとすれば、生産手段の「使用価値・労働の生産力・生産商品は4倍」になる、等。
  「有機的組成の高度化」は、「価値」は大して増えない(算術級数的増加)が、生産される「使用価値」は莫大に増える(幾何級数的増加)。
 ・この「使用価値が莫大に増えること=労働の社会的生産力の漸進的発展」の方に、人間にとっては「資本主義の歴史的使命・特殊な一表現」がある。
 ・「資本・価値」で見ると、「総投下額・特に生産手段価値が増える」が「総生産使用価値がより増加」するので、「1個当たり商品価値は大きく下がる」。
  つまり安く生産し、商品価格が不変なら、「(商品価格−個別生産価格)×総個数」が、「特別剰余価値」として収奪できる。

B「この法則」は、「労働の社会的生産力の漸進的発展(使用価値生産の大きな拡大)」を示す、「単なる資本主義的表現に過ぎない」。
 ・マルクスは、この法則の最も重要なことは、「労働の生産力・使用価値生産」が大きく拡大し、社会主義の基礎を作ること、と見ていた。
 ・「この法則」で「価値がどうなるか」などという、「資本主義特有の一表現」自体は、「正直大した問題ではない」。
  ただ、「資本の歴史的使命」を資本主義が果たす中心にある、その特殊・独特な法則だから、詳細に論述した。
 ・「少しの労働時間(資本主義では価値)」で、「膨大な使用価値増産」をする方法を、「実現し・徹底し・勤勉に・慣習化」させた資本主義。

C「資本の有機的組成を高度化」の成果を測る「社会的尺度」は、「資本主義では価値」だったが、「社会主義では使用価値」になる。
 ・資本主義では「算術級数」でしか増えない価値を「無制限に増産」したいから、「搾取・剰余労働時間」を最大に増やす。
  しかしその結果、資本主義は、この「莫大な使用価値という『副産物』」を捌くのに苦悩する、恐慌が法則化する。
 ・社会主義では、例えば「使用価値が2倍増産されれば、社会的欲望が充足」するなら、新開発固定資本はそのように使われる。
  Aの新たな生産手段は、「同一労働時間で4倍」生産できるから、「生産量は2倍にし、労働時間は半分短縮」される。
 ・この例示でも、もはや「価値」は何の役割も果たさず、人々の意識の中にすらないこと、「生産物と労働時間の関係」だけなのが解る。

D改めて、社会主義では、「生産物・富・使用価値と労働時間」、そのための「剰余労働時間を使った新固定資本開発」が重要。
[619] 2020年05月15日 (金) 17時13分
資本論の示唆
※「受賞生産物」× ・・・「主要生産物」

※もう一つ。「各生産単位間または各国間」の「労働に応じた平等」は、「提供労働時間」で計り、「生産物の価値」で計ってはいけない。
 ・2国間が明瞭だが、「同一生産物」の生産の「生きた労働時間=付加労働時間」が問題である、ということ。
  「死んだ労働時間=生産手段からの移転労働時間」は、「提供労働時間の評価=分配の基準」には、全く無関係だという点。
  先の例では、先進国の「20時間労働」×4個=80時間が、未発展国「80時間労働×1個と交換されるのが、社会主義の世界経済。
 ・国内諸生産点でも同じ。「生産手段による生産性」がすべて異なる中、「生産手段の『死んだ労働時間』は、提供労働時間の評価に全く関係ない」
[616] 2020年05月12日 (火) 19時30分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 188p   農業は?

「それゆえ、生産の歴史で、現代に近づくほど、ますます規則的に、有機的自然から得られる諸原料の相対的騰貴と、その後の価値減少との、
絶えず繰り返される交替を見出すのである。要するに結論は次のこと、
資本主義体制は、合理的農業に逆らうということ、または、合理的農業は、資本主義体制によって技術的発達を促進されるとはいえ、
それとは両立しえないものであって、みずから労働する小農民の手か、「結合された生産者による規制」かを、必要とするということ。」

★「合理的農業」のためには、「結合された生産者による規制=社会主義的経営」が必要である。
 ・「合理的農業」とは、「生産者の生活手段(個人消費)と生産手段(原材料)のために必要な諸農業生産物の生産」のこと。
  つまり、常に「生産物の品目と量」=「使用価値」に規定されている。その量を、「自然と労働時間」を「節約」して生産するのが、「合理的」。
 ・資本主義では「剰余価値」計算で生産されるので、「自然と労働時間」の「使用価値の節約」は全く無視され、莫大に浪費される。

@資本主義では、「農業」は一般に主要な生産部門にならず、「工業のための犠牲的部門」でしかない。これが「都市と農村の対立」を産む。
 ・工業は「生産手段+労働力」、農業は「自然条件+生産手段+労働力」で生産。「生産手段の改善」で工業利潤は「直接に利潤を生む」。
  農業は、台風・火災・地震・津波・寒冷化・温暖化等々の「自然条件の影響」が強烈で、生産手段の改善は直接の利潤増加につながらない。、
 ・「生産期間」=「資本の回転期間」が、工業では比較的に容易だが、農業は「労働対象に縛られる」。
  「コメ・稲作」は頑張っても年2回、「役畜」もそれぞれ数か月から数年等、「資本回転」の自由が利かない。
 ・「生産手段・原料」はより安価な方が良い:高い国内生産品は死滅させ、「外国・未発展国」に「奇形モノカルチャー」を押し付け安価に仕入れる。
 ・「労働賃金・生活必需品」も安価な方が良い:これもほとんどは、安価な輸入品に依存。
  主要品の「コメ」など、リスクが大きいものだけは、「国民の税」で国内自給率を維持しようとするが、「生産の社会化」等の抜本策は実施されない。

A工業生産物と農業生産物の「等価交換」、先進工業諸国と未発展農業諸国の「等価交換」、つまり「自由貿易」自体が「搾取」になる。
 ・等価「100労働時間」での交換:先進国工業品は「80生産手段+10労賃+10剰余価値」、未発展国農業品は「20生産手段+60労賃+20利潤」。
  すると、「付加価値の交換」で見れば、先進国「20時間:10労賃+10剰余価値」=未発展国「80時間:60労賃+20利潤」で交換される。
 ・つまり、等価交換では、未発展国の経済は改善見込みがない・・・「80時間を20時間の本当の等価にできない」。
 ・先進諸国では「生産手段が生産」して「搾取率が高い」が、未発展国では「労働集約生産」であり「搾取率はまだかなり低い」、ためである。
 ・「各諸国の受賞生産物」は世界市場で「保護されるのが当然」。「自由貿易=等価交換」は資本主義的搾取を行うための道具でしかない。

B極めてリスクの高い「先進資本主義諸国の産業構造」。「結合された生産者による規制=社会主義的経営」が必要である。
 ・先進資本主義諸国の「法則」として、「農業の産業占有率は、皆2%程度」まで下降する。・・・「ペティ・クラーク法則」。
 ・それは「合理的」に行われるのではなく、「生活必需品の国内生産を死滅」させている、極めて危険な産業構造である。
 ・今回コロナ騒動で再認識された、「緊急時の社会的共同消費のための備蓄・生産力維持」を、全く同じ「社会的共有」問題である。

C合理的で安定した「農業等の備蓄」は、「結合された生産者=国民の選択決定」でしか決定できない。「安倍」が勝手に指示する問題ではない。
 ・「実際に消費する者・実際に影響を受ける者が決定する」必要がある。一体としての国民経済はマクロで見て、大きな産業構造の転換が必要。
 ・その意味では、「みずから労働する小農民」も「自家消費分」を決定してきた。しかしこれは、「社会的なレベル」では使い物にならない。
 ・その決定では、現在「GDPの6割・約320兆円の個人消費」のうち、その半分「GDPの3割・160兆円」は、政府からの無償支給になるのだろう。
[615] 2020年05月12日 (火) 19時08分
資本論の示唆
生産資本の最終的な「利潤率の傾向的低下の法則」と「資本の制限・限界」・・・@

岩波文庫6分冊 407p     
「資本主義的生産様式の制限は次の諸点に現れる。@労働の生産力の発展は、一定の点に達したとき、それ自身の発展
に対して最も敵対的に対立し、絶えず恐慌によって克服されねばならない一法則を、利潤率の低下において産み出すということ。
A不払労働取得と対象化された労働一般に対するこの不払労働の比率・資本主義的に言えば利潤率が、生産の拡張または制限
を決定するのであって、社会的欲望・社会的に発達した人間の欲望に対する生産の比率が、これを決定するのではないということ。
Bだから、資本主義的生産様式の下では、「他の前提」の下でははるかに不十分は生産の拡張度において、「早くも制限」が生ずる。
この生産様式では、「欲望の充足が休止を命ずる点」ではなく、「利潤の生産と実現とがこれを命ずる点」で、休止される。」

「利潤率(平均利潤率)の傾向的低下の法則」の、総括としての結論が示されている。
★「資本主義の生産関係」が到達する・資本主義という歴史的一時期だけの独特で奇異な法則である、「利潤率の傾向的低下の法則」
★「価値増殖の結論」は、「生産力=使用価値・人間的消費」という「超えられない壁」に衝突し、それによって制限されている。
★その「使用価値の壁」は、社会主義では「社会的欲望」だが、資本主義では「賃金という狭隘な限界」に押し込められている。
★結果、過渡期や社会主義で、「社会的欲望」に対応するだけで、遊休生産力は活動し、経済は大きく成長する。

資本の諸制限・諸限界とは、
@「資本主義での生産力発展」は、「平均利潤率低下の法則」により「恐慌の発生が必然・法則」になる。
 発展した生産力はある時点(恐慌時)で、生産力が生産力自身の発展に「最も敵対的に対立:商品廃棄・倒産等の生産力破壊」、する。
 ・恐慌は、供給:「最大・限界知らずの価値量」を目指して生産される「莫大な使用価値量」が、需要:「量的限界を持つ必要な使用価値量」
 により「売れない」、跳ね返される現象。「真の経済の使用価値:人間社会」が、「馬鹿者の価値:資本」を、殴りつけ「道理を諭す」。
 ・しかしその度に、「馬鹿者の価値:資本」は逆に、「価値増殖の最大のチャンス」として、資本を集中し有機的組成を高度化させ、
 利潤率は低下するが個別商品価格を下げ、需要量の拡大・市場シェアの拡大で、販売量の拡大による実現価値の増加に向かう。
 ・資本にとっては、本当は利潤率は高い方が良い。しかし、市場の競争条件が、「利潤率の低下」を社会的に強制し、法則となる。
 ・しかし、それがさらに巨大な恐慌を招く。「馬鹿者の価値:資本」は死ぬまで道理を理解しない、だから、社会がとどめを刺す日が来る。

A「利潤率:搾取できる剰余価値」を基準に生産が行われる、のであり、「社会的欲望:使用価値を基準に行われるのではない」。
 ・「平均利潤率」に満たないなら、一般に、生産は中止される。平均利潤率は通常、「利子率」に等しいから、「生産リスク」を負うくらいなら、
  投資せず、「銀行に預けてお」くほうが良い。
 ・平均利潤率以下、とは言っても、「少ないが利潤が得られる」としても生産は行われずらい。それは零細弱小資本の役割になる。

B結果、「他の前提=社会主義」では、「社会的欲望の充足」には全然不十分な生産水準でしか、生産力は活用されない。
 資本主義で発展した生産力は、充分に高い生産力を、「利潤の生産・実現」が命じる「低い水準」で休止させてしまう。

※このあたりから、「過剰」という用語・概念が頻繁に出てくる。また、「人口」に関する記述も多くなる。
 つまり、「資本にとっての過剰」と「人間・社会主義にとっての過剰」の根本的違いが叙述されている。
[614] 2020年05月11日 (月) 15時54分
エンゲルスも示唆
[612]訂正: A「土地=自然条件から生まれる剰余労働」は「剰余価値にならない=私的に取得できない」。・・・について。

 ★「土地=自然条件から生まれる剰余労働」は「不正確な表現」でした。「土地=自然条件」は、「剰余労働や価値を産まない」、のですが・・・
  ・例えば、「人口的な水流・蒸気」を動力として「普通の生産条件」にしている生産部門では、「人口的な水流・蒸気」
   を産む「費用:労働時間」が、生産する商品の価値に含まれる。
  ・しかし、特殊な「土地=自然条件」では、それは「無償:労働なし」で得られ、そこを占有する資本は、負担すべき費用
  ・「労働時間が不要」となり、その分が「剰余価値」となる。これは「他資本が生産した剰余労働の取得」である。
  ・資本主義での倒錯した「物神性」は、「自然が価値=地代を産む」。さらには、その地代を「利子」とみなして、
   利子額を利子率で割り返し、「土地価格」という「資本価値」まで形成することになる。

 ※結果、上記の「不正確」な表現になる。しかし、これは現代のブルジョア経済学では「常識」、これは上記前提の「無知」による「誤謬」である。
  そんな「根本的に誤謬である経済学」に立つ多数の経済学者たち、がノーベル賞さえいただけるのは、資本自体が、人間の社会的労働を
  「商品に付着し商品自身が持つ価値」に転化したことから始まる、「物神性というルール」を前提に運動しているからである。
  将来の歴史では、資本主義時代の「屑」として皆「ゴミ箱行き」である。科学ではなく、資本を対象にした「チューリップ・バブル」の一種。

 ※正しくは、「土地=自然条件から生まれる『不要・軽減される労働時間』」、でした。
[613] 2020年05月10日 (日) 11時33分
エンゲルスも示唆
大月文庫「国家論ノート」46p  「住宅問題」でのエンゲルス見解:レーニンの引用。

「労働人民が一切の労働用具を現実に占取し、全産業を掌握すること・・・労働人民が家屋・工場・労働用具の相対的所有者であり、
それらのものの用益は、少なくとも「過渡期の間は、費用の補填なしに個々人または団体にゆだねられることはおそらくないであろう」。
それは、「土地所有の廃止」が「地代を廃止」することではなく、形を変えてではあるが、地代を社会に譲渡することであるのと、
まったく同様である。だから、労働人民が一切の労働用具を現実に掌握することは、賃借関係の維持を排除するものでは決してない。」

「生産手段の国有化」の意味とは何だろう・・・NO.3

★プロレタリアート政権下での「完全な国有化」でも、「資本主義下の国有=生産手段は商品」であること、のまとめ。
 @全生産手段を国有化しても、「過渡期の間は、費用の補填なしでは貸し出されない」。生産手段は相変わらず、商品である。
 A「土地の国有化=土地所有の廃止」も、「土地所有による地代」という剰余価値の取得形態は廃止できても、
   その剰余価値分は、「形を変えて」、「産業資本の利潤の増加」として社会に譲渡されるだけである。剰余労働が相変わらず、搾取される。
 B当然、資本一般が存在し、「賃労働と資本」関係による剰余労働の搾取は、公然と存在していることを前提としている。
 C経済は、いまだに「価値に基づく経済」である

★示唆されている「半面」:「社会主義の国有」への転化では、それら項目は「反転」する。
 @「社会主義経済の国有」では、生産手段は「費用の補填なしに貸し出される」。商品ではない。使用生産者が「占有」する。
 A「土地=死産条件から生まれる剰余労働」は「剰余価値にならない=私的に取得できない」。その剰余労働時間分を、
  ㋐社会的共有の消費手段の増産、または、㋑労働時間の短縮=自由時間の増加、に振り向けられる。これは社会的・政治的な選択決定。
 B当然、資本一般は消失、「賃労働と資本」関係も死滅し、「労働者は労働者であることをやめ、生産者に転化している」。
 C経済はもはや、「労働という使用価値」を柱に、「使用価値・現実的富の経済」に転化した。
[612] 2020年05月08日 (金) 19時20分
エンゲルスも示唆
大月文庫「国家論ノート」44p  「住宅問題」でのエンゲルス見解:レーニンの引用。
「どんな社会革命もはじめは事物をあるがままの状態で受け取って、既存の手段によって最も甚だしい害悪を救済するほかないであろう。」

新日本出版社「共産主義の原理」153p草案
「第17問 君たちの最初の措置はどのようなものであるか?:答 プロレタリアートの生存の確保」

新日本出版社「共産主義の原理」130p〜
「第18問 この革命は、どのような発展の道をとるであろうか?:答 民主主義的国家体制とともにプロレタリアの政治的支配を樹立する
・・・民主主義は、直接に私的所有に手をつけて、「プロレタリアートの生存を保障する一層進んだ方策の遂行」のための手段
として直ちに利用されないならば、プロレタリアートにとっては全く無用であろう。」

「第17問 私的所有の廃止は、一挙に可能であろうか?:答 可能ではない。ちょうど、すでに現存する生産能力を、
共同体の樹立のために必要なほどに、一挙に増大させられないのと同じである。それゆえ、おそらく到来するであろう
プロレタリアートの革命は、ただ漸次的にのみ現今の社会を改造するであろうし、そのために必要な生産手段の量が
創り出されたときにはじめて、私的所有を廃止しうるであろう。」

「生産手段の国有化」の意味とは何だろう・・・NO.2 「過渡期プロレタリアート政権時代」
@「プロレタリアート政権」は、まず、「最も甚だしい害悪を救済=プロレタリアートの生存の確保」にとりかかる
  ・「共産党宣言」の10項目は、主にこのために必要な施策・「国有化」だった。
  ・これは「資本主義経済下」での国有化である。生産様式は「革命されない」。

A「資本主義下の国有化」が、社会改造とともに、「漸次的に」十分進む。

B最終的に、「社会主義経済に必要な生産力に到達」した時、「私的所有は廃止=社会主義的生産様式に移行」する。

★プロレタリアート政権の、当初の第一任務は、資本主義下での「国民の生存保障」の実現であること。
★プロレタリアート政権時代の、「下部構造は資本主義」であること。
★「充分な生産力」を条件に、「資本主義下の国有」は、「社会主義的国有」に転化・止揚される。
  ・「資本主義下の国有」は、「資本のための経済」を「国民のための経済」に統制する道具となっている。
  ・「社会主義下の国有」は、「私有制の廃止=誰も生産手段は所有できない」の、「法的根拠」になっている。

 ※エンゲルスが、「プロレタリアート政権成立後に、生産力の十分な発展期間」を想定していたのは、非常に興味深い。
  ㋐資本主義政権での十分な生産力発展後、「プロレタリアート政権実現で即社会主義経済化」のシナリオではなかった。
  ㋑実際にエンゲルスが革命を目指した19世紀後半、「まだ生産力発展は不十分」という認識があったということになる。
  ㋒そこでの革命を目指していたということは、いわゆる「後進国革命」を前提にしていた、ということになる。

 ※「プロレタリアート政権成立後に、生産力の十分な発展期間」問題は、ソヴィエトの「工業化論争」との関連でも興味深い。
  ㋐一見、ブハーリンらの「ネップの継続」=「資本主義下で、充分な生産力発展を待つ」方針が正しくも見える。
  ㋑しかし、当時、「国有化」は完了しておらず、それはスターリン側の主張だった。
  ㋒「資本主義下の国有」内の問題ではなく、「資本主義下の国有工業 対 私的所有富農」との「階級対立」問題になっていた。
  ㋓その点では、「農業の国有化」はやむを得なかったかもしれない。
  ㋔その前提では、問題だったのは国有化の方ではなく、「国家による計画経済=生産者占有の否定」の方にあったことになる。

★厳密な意味での「社会改造・革命」は、「プロレタリアート政権の終焉=社会主義的経済様式への転化」であろう。
  ・プロレタリアート政権時代は、社会主義的下部構造を実現するまでの、「資本主義の最終上部構造」ということになる。
[611] 2020年05月08日 (金) 18時07分
エンゲルスも示唆
岩波文庫 「反デューリング論 下巻」
第三篇 社会主義  第二章 理論的なこと    ・・・「第二節から特に第四節」は、社会主義論の必読書。
216p
「株式会社(およびトラスト)への転化も、国有への転化も、生産諸力の資本としての性質を止揚するものではない。・・・
近代国家は、どんな形態のものにせよ、本質上は資本家の機関であり、資本家の国家であり、観念上の資本家である。・・・
しかし、極端まで行くと、それは転倒する。「生産諸力の国有は衝突の解決ではない」。しかし、それの中に
解決の本式の手段、その手掛かりが隠されている。
 この「解決は」、近代的性格と一致させること以外にはありえない。そしてこれは、「社会の手に任せる」以外、
どんな管理の手にも負えないほど成長を遂げた生産諸力を、「社会が公然と直接に掌握すること」によってのみ、果たされる。」
218p
「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまず国有に移す。
しかし、それとともにプロレタリアートはプロレタリアートとしての自由身分を止揚し、それとともにあらゆる階級差別と
階級対立とを止揚し、またそれとともに国家としての国家をも止揚する。」

★理論的には、遅くとも社会主義段階では、「生産手段の国有化」は、完了している。それでなければ、社会主義ではない。

★だが、「生産手段の国有化」の意味とは何だろう・・・NO.1
@資本主義を支持する政権下では、「生産手段の国有」は、「資本主義の性質を変えない」。
 ・主に、「資本では利潤が出ないが生産に必要な部分」、「資本に任せると社会的に大問題になりそうな部分」
  「新規戦略産業だがまだ民営には不適」「国際競争に負けるが国としての基幹部分」とうを国有化。
 ・民間資本で利潤があげられる状況になれば、概ね「規制緩和・払下げ」られる。その間、「税金が無駄に使われる」。

A「生産手段の国有化」は、「解決策」ではなく、解決策の「条件」でしかない。

B「解決策」は、国有化した生産手段を、「社会が直接に掌握すること」の方にある。
 ・「国家が」ではなく「社会が」である。ここでは、「共同する直接生産者たち」に「掌握=占有」させる意味であろう。
 ・つまり、国有することより、「生産関係を革命すること」のほうが、よっぽど重要であるということを意味している。

 ※法的・形式の「国家所有」は、実態・内容が「生産者占有」でなければ、社会主義経済は成立しない。
 ※ただし、「生産者占有」できるのは生産行為・生産過程の管理」だけであり、「生産物は社会的共有」。
 ※20世紀社会主義の、「生産者は皆、国家公務員」、「生産管理は企業長責任」の、逸脱ぶりは明瞭。

★プロレタリアート政権が実現して初めて、生産手段を国有化することができる。・・・「どのようにして?」
 ・「プロレタリアート政権」樹立とは、現実に「社会主義への過渡期・移行期」が始まった、ということ。
 ・「プロレタリアート政権」が続く間は、「政治的過渡期」にあるということ。
 ・現在の日本で「野党政権」が成立しても、それはまだ「プロレタリアート政権」ではない。
  「社会主義」を明示するかどうかは別にして、「生産手段の国有化」を明確な政策とする段階からであろう。

★「労働者は労働者ではなくなる=社会主義的生産者になる」・・・「どのようにして?」

 ※これらの問題は、具体的な政治状況で変る部分も大きいが、いくつかの目安は付けられるだろう。
  NO.2で。
[610] 2020年05月07日 (木) 18時21分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 134p   ・・・「節約」についてD

「労働者は生活の最大部分を生産過程で過ごすので、生産過程の諸条件は、大部分は彼の能動的生活過程の諸条件であり、
彼の生活条件であって、㋑「この生活条件における節約」は、利潤率を高める一方法である。それはすでに見た(2分冊93-216p)、
㋐「過度労働」が、すなわち労働者の役畜への転化が、資本の自己増殖を、剰余価値の生産を、促進する一方法であるのと、全く同様である。
労働者のために、生産過程を人間のそれらしくし、快適にし、またはせめて耐えられうるものとするための一切の設備を欠くことなどは、
資本家的立場からすれば、全く無目的で無意味な浪費なのであろう。一般に資本主義的生産が、あらゆる吝嗇(リンショク・けち)にもかかわらず、
@「人間材料」については全く浪費的であることは、他面ではそれが、商業によるその生産物の分配方法とその競争のやり方とのために、
A「物質的手段」を甚だしく浪費的に取り扱い、
そしてそれが一方で個々の「資本家のために利得する」ものを、他方で「社会のためには損失する」のと、全く同様である。」

★「価値=資本のための経済か?」「使用価値=人間のための経済か?」・・・「資本と人間(社会)」間で、対立する「2つの価値観」
★社会主義への過渡期・移行期の最大課題・テーマは、「使用価値=人間のための経済」=「使用価値による価値の支配」を実現すること。

※資本の価値観:節約とは、剰余価値最大化のための「価値の節約」であり、その手段にすぎない使用価値の「浪費」を感知しない。
 @「人間材料という使用価値」=労働力=労働者は、二重に節約される。
   ㋐「労働賃金」は固定額が支払い済みなので、「徹底的に使う節約」がなされ、できる限りの「過度労働」・「過度の剰余労働」となる。
   ㋑一生のほとんどを「豚小屋・職場」で過ごす労働者にとって、「生産手段は生活条件」の一部でもある。
    その生産手段は「生産で使った価値だけ商品に移転する」ので、極力「使わない節約」がされる。
    この「生活条件」の節約も、節約のための労働強度の増大・労働衛生環境の劣悪化等により、労働者を痛めつける。
    ここでは一見、生産手段の使用価値も「節約」されるように見えるが、それは「価値が使用価値とともにある」ことでの偶然でしかない。
    だから、「無価値・無料」の「自然の空気・水」は節約されず、売れない程の大量生産により膨大な使用価値の消費も当然になる。
 A「物質的手段」=主に「生産手段の使用価値」の節約
   ・上記㋑での、自然の空気・水の大量使用と汚染、個別価値の最小化のための膨大な使用価値消費、は資本にとって「節約」である。
   ・商業や広告等の「価値を産まない」部門への、労働力も含む「大量の使用価値の投入」も、資本にとっては「節約」。
     (1)「自社で販売費をかける」より、「商業資本に価値値引きで卸す」方が、生産資本の費用は「節約」され、残る剰余価値は大きい。
     (2)生産資本の販売費分を値引いてもらった商業資本は、総費用をその値引き総額以下に「節約」して、商業利潤を生む。

※人間社会の価値観:個人的消費・生産的消費の「使用価値」は、いつの時代にも「無制限」ではなく「適正量」がある。
   ・資本は、個別には「節約」を行うが、それを無制限に最大限に行うため「使用価値を無制限に浪費する」。「適正量」はない。
   ・しかし、「人間が消費する効用」である「使用価値量」には常に一定の限界がある。「適正量」は決まっている。
    資本のように、「不要な大量」を作って、誰かいないか他国を探したり・ネオンや音楽や映像で誘惑したり・無理して安く売る必要はない。
   ・人間社会にとって、「節約」とは、労働を含む「増加する社会的総必要使用価値を適正に維持・再生産すること」になる。

※「社会主義への過渡期経済」は、「2つの経済」:「価値の経済」と「使用価値の経済」の対立になる。使用価値が価値を支配していく。
   ・資本には「赤字のJR路線・低利潤率の農業は不要」、「メチャ儲かる原発・シェア確保のためのディーラー・コンビニ出店は必要」である。
   ・経済決定が「2つ」行われる。前者は「市場」で、後者は国民の選択決定としての「政治」で。
   ・それは過渡期の間は、総体としては「資本主義経済の中」で、「商品生産経済を基礎」として、行われるしかない。
    まるで、「資本主義内の労働協同組合」のように。彼らも社会主義以前の形態、「賃労働と資本」の生産関係で動いている。
   ・「政治的経済」が「市場経済」を統制しながら、徐々に「政治的経済」の領域を広げていき、最終的にはすべて包摂する。
   ・包摂の完了が、社会主義経済の成立であり、「市場経済・商品経済・価値・貨幣」に媒介されない、「使用価値の運動」の経済となる。
[608] 2020年05月05日 (火) 15時59分
資本論の示唆
※「第一派」ではなく、「第一波」でした。
<関連記述>  「経済学批判要綱 U」246p

「資本の側で剰余価値として現れるものが、そのまま労働者の側には剰余労働として現れる。資本の偉大な歴史的側面は、
この剰余労働を、すなわち単なる使用価値、単なる生存という見地からすれば余計な労働を創造することである。
そして「資本の歴史的使命」は、次のような事情の下で満たされる。すなわち、
 @一方では欲望が発達して、必要なものを越えた「剰余労働自体が一般的欲望」となっていて、個人の欲望それ自体から
発するようになり、―A他方では「一般的な勤勉」が資本の厳格な規律を通じて―この規律が相次ぐ世代にあまねくしみわたって
いって―新しい世代の一般的な財産として発展してきており、
―結局労働の生産力の発展、すなわち資本の致富欲を絶えず前方へとかりたてる労働の生産力の発展を通じて、
「一般的富の所有と維持」が、B一方では社会全体にとって比較的わずかな労働時間しか必要としなくなり、
C労働する社会が、進展する再生産の過程、絶えず拡張される再生産の過程に対して科学的に即応する、
つまりこのD再生産で物だけにさせておけるような事情を人が行っていたというところでは、「労働がもはや行われなくなる」
といった点まで「一般的な勤勉が進展」してきているという事情、これである。」

★「資本の歴史的使命」:労働・剰余労働のが到達する社会状況 = 社会主義の成立条件、についてのまとめ。

※資本の剰余価値は、労働者の「剰余労働」、つまり「社会的必要労働時間」を超えたる「過剰な労働時間」を意味する。
 ・日本では、約6千万人の総労働者(経営者含む)が平均1,800時間働く。約「11億時間」で「国民所得」440兆円を産むとする。
 ・直接的には搾取率45%の「年間200兆円」程度、現実には税他の再配分で、年間「100兆円」の「過剰な労働時間」が、搾取されている。
 ・総労働時間からの搾取「2.5億時間」。個人レベルでは、年平均1,800時間働くので、「必要労働は1,400時間」・「搾取400時間」である。
 ・拡大再生産と「膨大な浪費」を考えなければ、全員が「年間1,400時間」働けば、今の生活が維持できるレベルにあるということである。
 ・さらに今回のコロナ騒動で、「浪費」が最低でも2〜3割あることが明確になった。つまり、十分な拡大再生産をやっても「1,400時間」で十分。

※社会主義の条件・・・「資本主義の使命」の到達点、だから社会主義の入り口。共産主義の話ではない。
  @一方=消費面:生存必要を超える剰余生産物が、すでに「一般的欲望」=「社会的に必要な消費財」になっている。
  A他方=生産面:資本の厳格な規律で鍛えられた、「一般的な勤勉」が「社会常識・慣習」になっている。(当然、勤勉な「労働」のこと)
  こうした「労働の生産力発展」の結果により、「一般的富の所有と維持」=「国民の総必要生産物の消費と生産」が、
  B社会的な総労働時間が、大きく短縮していること。 =その分「自由時間」が増大し、その中の一部が「科学的労働」に充てられる。
  C「精神的労働=科学的労働」(主に不変資本・固定資本の開発)の活用により、生産性・生産力は向上する。
  D「肉体的労働=一般的富の生産労働」は、最低限度まで「廃絶」されていく。常識・当たり前になった「勤勉=節約」の必然的結果である。

※20世紀社会主義の「入り口」では、これらの条件=社会主義の条件、がすべてなかった。日本を含む先進諸国には「全てある」。
  @最大の動機は、「パンと土地」・「戦争の終結」・・・「必要生産物の充足」の戦いが、1950年代まで続いた。
  A「資本に鍛えられた」歴史的経験がなかった。だから「国家・国家指名の組織長」が、代わりに鍛えるしか選択肢はなかった。
    生産者大衆は、「文盲問題」から始まる「鍛えられていない状況」・基本的に「怠惰な慣習」に支配されていた。
  BGDPの半分以上を占める「生産財生産+軍需生産」のために、「消費財+労働時間」は犠牲となった。資本主義よりましだったが。
  C「精神的労働=科学的労働」は重要だったが、「全く不足していた」ため「重用」され教育されたが、解消には2世代・40年程度かかった。
    生産者大衆は、一般的にこれを担う「能力・慣習」がなく「必要労働の必要性」からも、、「一部の社会層」に独占させる方が「効率的」だった。
  D「勤勉=節約」は結局「社会常識・慣習」にならず、「怠惰が常識」になった。1970年代あたりから、「労働投入効果がマイナス」という悲惨な状況に至る。
  ★1960年代・フルシチョフ時代、やっとこれら条件を最低限満たし「社会主義の入り口」に立ったが、すでに国家・社会は「奇形が固定化・蔓延」していた。
[607] 2020年05月03日 (日) 05時45分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 131p〜  ・・・「節約」についてC
「(不変資本節約は、労働には完全に無関係な、資本の力という)考え方は、事実の外観がそれに一致するだけに、
ますます奇異でなくなる。また実際に資本関係は、労働者が、彼の労働を実現する諸条件に対して置かれる完全な無関心、
「外在と疎外」の状態のうちに、内的関連を隠ぺいしてしまうので、そのためにもこの考え方が奇異でなくなる。
 @ 第一に、不変資本をなす生産手段は、ただ資本家の貨幣のみを代表し、ただこの貨幣に対してのみ、一つの関係に立つ。
他方、労働者が現実の生産過程で生産手段と接触するのは、ただ生産の使用価値・労働手段と労働材料のであるから、
この価値の増減は、彼の加工対象が鉄か銅かという事情と同じく、資本家に対する彼の関係には触れることのない事柄である。
 A第二には、生産手段が同時に労働の搾取手段であるから、生産手段価格の相対的高低は労働者にとっては無関係であり、
それは、馬を馭(ギョ)するくつわや手綱価格の高低が、馬にとっては無関係なのと同じ。
 B最後に、前に見た(2分冊254-255p)ように、㋐「労働の社会的性格・共同の一目的のためにする労働者の労働」と、
㋑「その他人の労働との結合」に対して、労働者は「外的な力」に対するものとして、相対する。
この結合の実現諸条件は、彼にとっては他人の所有物であり、節約を強制されなければ、その浪費は、彼にとっては全くどうでもよいことであろう。
 C労働者自身のものである工場、たとえば、ロッチデールのそれにおいては、ことは全く別である。」

★「結合労働と精神的労働による節約」は、「労働者の成果」なのに、それが隠蔽され、「資本の力」という「奇異」な考え方に支配される。
  この節約=生産力は、資本に独占され、そこからの成果は利潤となり、労働力価値=労働賃金に含まれていない。
 @外在:不変資本の節約は「前貸投下資本の価値」に関する問題という点では、労働者の「外部」問題であり、意識されずらい。
  ・資本は本質的に、「価値の節約」しか気にしないから、「使用価値」自体には全く無関心であり「労働・自然の浪費・破壊」を引き起こす。
 A疎外と外在:労働者は生産手段から切り離され」・まず疎外されている、と同時に、さらにそれが資本家にとっては「搾取手段」であることは
  労働者には無関係な事情であり「外在」である。
  ※ただし、先進資本主義の発展した多くの労働者達は、この「価値計算」も認識するレベルになっている。
   会計・経理業務に限らず、営業ベースでも予算作成には下級役職者も参加し、費用金額枠に縛られる。これも反面、社会主義の主体的条件。
 B疎外:㋐社会的結合労働の「目的」、㋑「結合の動機・理由」から疎外され、単なる「外的圧力・強制」でしかない。
  ※これも現在では、歪曲された「節約手法」だが、KY活動・QC活動・コンプライアンス規定・人事評価制度等。反面、社会主義の主体的条件。

 ・@〜Bの結果、労働者には節約はほとんどメリットはなく、基本的に無関心である。資本による「監督・統制」業務が必ず必要になる。
  現在の、予算管理やQC・コンプライアンスも、資本からの強制・圧力による産物で、「労働者の自主的活動」ではない。「ロッチディールでは違う」。

★社会主義(ロッチディールはマルクスの比喩)ではどうなるのか。
 (1)「使用価値(生産手段と労働)の節約」だけになる。資本にだけ関係していた「価値の節約」は消失する。
   ・資本主義では、「価値の節約」だけが目的だが、価値が使用価値に付着しているため、価値と使用価値の「2本立て」の節約が必要だった。
   ・社会主義では、「生産物に付着している価値」は消失しているから、使用価値・富だけの節約が問題になる。
   ・ちなみに、「労働・労働時間」は、「労働力の使用価値」である。理論的にはそれを「平均的労働」に抽象化できるとはいえ、現実にはそれを把握できない。

 (2)「経営」「生産の管理・監督・統制」は、「旧労働者=社会主義の生産者」達の「占有権」になる。自主的節約が行われる。
   ・資本主義的な「外在と疎外」、さらにそこから来る「抑圧・敵対」は消失する。
   ・予算の作成・管理・統制、KY活動・QC活動・コンプライアンス規定・人事評価制度、等々も、社会主義で「正統に開花」する。
   ・これら諸制度は、「別社会では、本質的には正しい側面」を持っているため、資本主義社会での歪曲された使用に、反抗しきれない。

 (3)「官僚制=特定の専門家集団」はどうなるのだろう?
   ・マルクスがそれを想定していなかったこと、「アソシエーション内部」の組織問題としていたこと、だけは明らかである。
   ・「ソ連方式」の「企業庁は国家指名・経営権は企業長独占・そうした官僚等特権層の固定化」、は完全な「選択ミス」だった。
    それは、「生産点の全生産者」が「占有」するはずだった「生産過程」を、特定の固定階層に独占させる方式だった。
   ・その方式では、上記@〜Bの「資本家」を、「企業長・官僚専門家層」に読み替えた状況が産み出される。「外在と疎外」が残存・発展した。
   ・「ソ連方式」の「企業庁は国家指名・経営権は企業長独占・そうした官僚等特権層の固定化」、は完全な「選択ミス」だった。
   ・「企業長・官僚専門家層」⇔「生産者組織」が対立。最低でも、「アソシエーション内部に企業長・官僚専門家層も包摂する」ことが必要になる。

 (4)「党・企業長・官僚専門家層」⇔「生産者組織」の対立、さらに市場活用。だからと言って「国家資本主義」ではない。
   ・主にこの2点を柱に、「ソ連型社会主義は、社会主義ではなく、『国家資本主義』だった」とする見解が、蔓延している。
   ・しかし、「生産手段の国有化・集団化」に、「資本=自己増殖する価値」を見出すことは、不可能である。誰もこの論証をやっていない。
   ・市場に「溢れた」のは「集積された価値」ではなく、「使用価値の頻繁な欠乏」・「使用価値でも価値でもないゴミ、特に未完の固定資本」だった。
    「資本主義」であったなら、一方でのこれほどの「生産手段の浪費」、他方での生産者の最低限の「生活保障」、など「絶対に」ありえないことである。
    そもそも資本は、価値実現目的の歪曲した方法ではあるが、「最終消費の使用価値には極めて敏感」なはずだったのではないか?
    更に決定的な証拠は、「価値法則は生産を規定していなかった」こと。これは各論者認めてるのに、「価値法則に規定されない資本主義???」。
    こんな「詭弁」が、西欧新左翼諸潮流・日本のアソシエーション論者等に、まかり通る。間違いなく、マルクスの誤認か一部のいいとこどりでしかない。
   ・ソ連資本主義の復活は、共産党政権崩壊後の、1992年・国有財産の「バウチャーの国民分配=生産手段私有の復活」からでしか、確認できない。

 ※20世紀社会主義は、「誤った・失敗した社会主義」としか規定できない。他方で、「成功条件を持っていなかったこと」の方が決定的である。
  社会主義の「成功」には、「先進資本主義:充分に発展し没落・腐朽する資本主義」を経由するしかない、特にまず第一派として。
[606] 2020年05月01日 (金) 13時01分
資本論の示唆
[602]の、「表題」が抜けていました。以下のとおり。

表題 :<真実の節約―経済―=労働時間の節約=生産力の発展.自由時間と
      労働時間のあいだの対立の止揚.―社会的生産過程の正しい把握>     ・・・訳文のまま。
[603] 2020年04月29日 (水) 18時53分
資本論の示唆
<参考>前回の、「節約」についてB、のより詳細な関連記述。

「経済学批判要綱 V」660p

表題  :

「真実の経済―節約―は労働時間の節約にある。(生産費用の最低限(と最低限への切詰め))、だがこの節約は
生産力の発展と同じである。したがって享受を禁じることではけっしてなくて、生産のための力、能力を、したがってまた
享受の能力とともに、その手段を発展させることである。享受の能力は享受にとっての条件であり、したがって享受の第一の手段であって、
この能力は個人の素質の発展、生産力である。
 労働時間の節約は自由時間の、つまり個人の完全な発展のための時間の増大に等しく、またこの時間はそれ自身再び
最大の生産力として、労働の生産力に反作用を及ぼす。それは直接的生産過程の立場からは固定資本の生産と見なすことができる。
というのはこの「固定資本は人間自身」だからである。それどころか、直接的労働時間それ自体が自由時間との抽象的対立のうちに
とどまりえないということは自明である。
 ・・・自由時間―それは余暇時間であるとともにより高度な活動にとっての時間である―は、言うまでもなくそういう時間を
持っている者をある別の主体に転化するのであって、その場合彼はこうした別の主体として直接的生産過程に入っていく。
これこそはすなわち、「成長しつつある人間についてみれば訓練」であると同時に、「成長した人間については、実行、実験科学、
物質的に創造的な、かつ自己を対象化する科学」であって、この「成長した人間の頭脳の中に社会の蓄積された知識が存在」する。
両者にとって、農業でのように、労働が実践的操作と自由な運動とを必要とする限りでは、同時に体育である。」

※社会主義経済での、「真実の節約」は、『労働時間の節約=自由時間の増加』であり、それが「生産力の発展」の内容である。
※だから、「労働時間の節約」とは、「享受=社会的欲望」の禁止ではなく、その豊富化・拡大と併存して進む。
※「自由時間」は、「剰余労働時間」として「固定資本の開発」を促進し、生産力増大として反作用をする。
※「固定資本」は生産された機械・システムというより、それを可能にした「精神労働」であり、本質的に「人間自身」である。
※直接的労働時間=実際の生産労働、と、自由時間による剰余労働は、もはや「抽象的な対立」を止める。
  ・資本主義では、自由時間は資本に搾取された「抽象的」な「剰余価値」として、実際の生産労働を支配・監督。対立した。
※自由時間による剰余労働・精神的労働は、資本主義での「労働者」を、「別な主体・生産者」に転化する。
  ・資本主義では、剰余労働・精神的労働は、「資本家および学者・専門家・上級監督者等」の一部人間が独占していた。
  ・社会主義では、直接的生産過程の構成員も「精神的労働」を受け持つことで、「労働者はいなくなる」。(アソシエーション)
※直接的生産過程=現実の富の生産過程は、「成長した人間」にとっては、自分の仮説・計画の、「実証実験」となる。
  ・要は、資本主義で疎外されていた労働は、アソシエートした社会的結合労働=協業の形態として、「再び自己同一化する」。
  ・「成長しつつある人間」=若年者・未熟練者等には、将来に向けての「訓練」である。
※成長した人間達の、「過去の人類が蓄積した全知識」と「実証実験」、これが固定資本の本質ということになる。
※農業のように、まだ人間の直接の肉体労働が生産の中心であるところでは、それは「体育・強い体を作ること」でもある。
  ・前段までの想定は、「機械・大工業に関する労働」を想定しているということである。
   機械・大工業では、すでに「生産の中心は機械」であり、労働は「機械の運転・監視・補助」という「付き添い労働」である。
   農業(漁業・林業等を含む)は、最後まで、自然の中で人間の肉体労働が生産の主役である産業部門である、という意味。
  ・しかし、現代では、「工場内での水耕栽培農業」や「内陸プールでのマグロ養殖」等、農業の工業化も進んでいる。

★主には、「自由時間と労働時間」・「活動と労働」・「精神労働と肉体労働」の融合。これも、社会主義当初から徐々に開始され拡大していく。
[602] 2020年04月29日 (水) 18時48分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 126p  ・・・「節約」についてB
「他面で、「精神的生産」・ことに自然科学とその応用部面による進歩と関連した、一生産部門の労働生産力の発展は、
他諸産業部門における生産手段の価値・費用の減少条件であり、おのずからそういう結果になる。」
127p
「かの生産力発展は結局、活動させられる労働の社会的性格に、社会的分業に、「精神的労働・ことに自然科学の発達」に、帰着する。
ここで資本家が利用するのは、社会的分業体制全体がもたらす諸利益である。」
161p
「ついでに言えば、「一般的労働」と共同的労働とは、区別されねばならない。両者はいずれも生産過程でその役割を演じ、
入り混じっているが、「一般的労働とは、全ての科学的労働、全ての発見、全ての発明」である。それは、一部は現存者との協業によって、
一部は過去人の労働の利用によって、条件づけられている。「共同的労働は、諸個人の直接的協業」を前提する。」

★ここでは、マルクスが最終的に到達した「人間の労働」の根幹、「二つの労働」が、「ついでに」示される。
 (1)新たな生産手段・特に固定資に結実する「精神的労働」+(2)現実の富の生産に結実する「社会的協業・社会的結合労働」

@「理論と実践」=「精神的労働と肉体的労働」=「生産手段生産(第T部類)と消費手段生産(第U部類)」=「剰余労働と必用労働」
  ㋐「精神的生産:自然科学とその応用」 ⇔ 「現実的生産」
  ㋑「精神的労働:自然科学の発達」 ⇔ 「他の社会的分業」
  ㋒「一般的労働:科学的労働、全発見と発明」 ⇔ 「共同的労働:直接的協業
  ・これらすべては、資本主義ではまだ歪曲していて、社会主義で初めて実現する社会的労働の「二つの性格」を意味している。
  ・マクロで見れば「第T部類・第U部類」で分解できるとはいえ、実際には、細かい個別の生産労働の中でも「二つの労働」は
   行われて入り、「第U部類内部での諸改良」や「第T部類内部での生産手段生産のための協業」等、「入り混じっている」。

A「生産力の発展:消費手段の豊富化+労働の節約」は、「生産手段の発明・改善」で大きく進展する。この開発は、「精神労働」が担う。

B「精神労働」での「生産手段開発」という理論的労働には、「富・消費手段生産」を担う「社会的結合労働:協業」の実践的問題が課題を提供する。
  ・資本主義では、前者は「資本家・一部の特権者の仕事」であり、その「指示・命令・監督」の下で、労働者が後者を行う、対立・抑圧関係にある。
  ・社会主義では、資本主義的な対立関係ではなく、相互が双方を必要とする統一関係に「転化・止揚」される。
  ・それは具体的には、「一部の者」ではなく、「多数または全ての生産者」が精神労働を担うことを意味している。
   だが、この点に関しては、「社会主義での官僚制」問題・それは必然的なのか克服可能な問題なのか、が未解決で残っている。

C「二つの労働」はどちらも人間的労働の本質だが、人間性をより鮮明に示すのは「精神的労働」であり、これが「一般的労働」である、と言う。
  ・「自然の中で、法則にしたがい、精神的に・頭の中で、新たなものを創造・生産できること」が、人間という「特殊な一般性」、である。
  ・そうした「精神的・理論的生産物」を、実際の生産手段や富として実現し消費する、「実践的行為」が「協業」である。
  ・この過程は、「社会主義での社会的労働」で行われる全過程であり、社会総体として「労働は疎外から止揚され自己同一化する」。

D「社会主義での社会的労働」は、その意味で、すでに潜在的に「労働」ではなく人間の「自由な活動」の側面を持つことになる。
  ・いわゆる「第二段階・共産主義」は、社会主義が終わるところに「突然現れる新段階」ではない。
  ・共産主義で「完全に実現」する諸内容(『ゴータ綱領批判』で列記されている)は、初期的または潜在的に、
  「社会主義の当初から存在しなければならない」。つまり、2つは異なる態容をものだが、「段階」ではなく「同質」なもの、である。
  ・それらを、「まだ無理な段階」として、「他の様式を一般化させようとする」社会主義は、必然的に「失敗」する。
  そして、「失敗した場合に戻れる先」は、資本主義社会しかない。「好きな様式」は選べない、これ自体が唯物史観の正しさの証明でもある。
[601] 2020年04月29日 (水) 10時24分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 137p〜  「第五章 第二節 労働者を犠牲としてなされる労働諸条件の節約」  ・・・「節約」についてA

「資本主義的生産は、「流通過程と競争の冗多」とを考慮外に置けば、実現された・商品に対象化された労働については、
極度に節約的にふるまう。これに反しそれは、他のいかなる生産様式よりもはるかに甚だしく、人間の、「生きた労働の浪費者」であり、
肉と血との浪費者であるのみではなく、神経と脳髄との浪費者でもある。
「人間社会の意識的再組織に直接に先行する歴史時代」において、「人類一般の発展」が確保され遂行されるのは、
実際ただ「個人的発達の極度の浪費」によってのみなのである。
ここで問題とされる全節約は、「労働の社会的性格」から生ずるのであるから、労働者の生命と健康とのこの浪費を産み出すものは、
実際まさに労働のこの直接的に社会的な性格なのである。」

★「資本主義的な『労働の節約』」は、実際は「労働の浪費」でしかない。社会主義ではこの「節約」は行われない。
 だが反面では、そうした「個人的発達の極度の浪費」によってのみ、「人類一般の発展」が歴史的に進展するのである。

@「他人の労働・価値を盗み取る資本」は、実際には、極力「労働・価値を商品に付加しない」競争をしている。
 ・「価値または生産価格」で交換される場合、「労働・価値がゼロの商品」が販売できるならば、価格が100%利潤となる。
 ・大規模生産=大量の労働で大量の商品を生産するのは、「個別の商品価値」を、極力ゼロにしようとしているためである。

Aしかし、資本が節約するのは「支払労働時間=賃金=可変資本」であり、「剰余労働時間=剰余価値」は最大化しようとする。
 ・個別商品が含む「生きた労働の総量」を節約するだけでなく、そのうちの「支払労働」を特に節約しようとする。
 ・結果、生産過程では、「支払労働時間の節約」と「総労働時間の浪費による剰余労働の最大化」が、一体で進められる。

Bこうして、個別生産物の労働量がより低下する「人類一般の発展」は、「総労働時間・個人的発達の極度の浪費」で進められる。
 ・「人間社会の意識的再組織に直接に先行する歴史時代」とは、「社会主義社会に直接に先行する資本主義時代」の意味である。

Cさらに、「流通過程と競争の冗多」=流通販売と競争のために莫大な「労働の浪費」が行われている。
 ・「商品流通・広告業等」の労働は「価値を産まない」。大量生産商品を「無理して売りさばく」ため、生産した価値を商人に「分配・移譲」
  しているだけである。そこに大量の労働者が雇用されているのは、それでも大量販売で残る利潤が膨大だからである。
 ・競合他社を潰すための「無理な隣接出店」、「無理な低価格」、を担っている労働も、適性労働量を超えた浪費である。
 ・やたらに増えた「TV通販」、「ディーラー・スーパー・コンビニ・大型電気量販店・・・」、この浪費ができるほど「生産力が発展」してる
  のであり、新型コロナで大幅な生産減退があっても、「浪費」が減少するだけで、国民の必要品供給に大きな問題はないのである。

Dそれらは、資本主義=剰余価値の自己増殖のための労働、という「労働の社会的性格」の結果である。社会主義では、全く異なる。

※社会主義での「労働の節約」とは、社会的総労働時間と諸個人の労働時間の「節約・短縮」である。
 ・総労働時間の延長、剰余時間最大化のための必要時間最小化=労賃最低化の「指向性」は全く除去されている。
 ・[578]での「剰余労働」も「他者の所有」ではなく、間接的に生産者のものに転化している。
 ・だから、「個人的発達の極度の浪費」は起こらないというより、「個人的発達の極度の実現」が社会の発展動機である。

※ただし、資本主義でさえ、破壊的方法ではあるが、必要労働時間を最高度に減少させるという「時間の経済」[595]は貫かれている。
[600] 2020年04月27日 (月) 19時19分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 120p〜  「第五章 不変資本の充用における節約  第一節 概説」  ・・・「節約」について @

★「不変資本の節約」の記述。しかし、それは、「社会的な結合労働の生産性」と関連する重要なテーマである。
★マルクスの記述を要約し、まず、不変資本節約の具体的方法だけをリストアップ。

@資本にとっては、労働からの「絶対的剰余価値の増加」は不変資本を「節約」するが、「相対的剰余価値の増加」は「出費」。
  ㋐「労働日の延長」という「前者」での増産は、新たな固定資本を「節約」・現在の固定資本の回転期間を「節約」・
   さらに、固定費(監督費・家賃・税金・保険料他)を相対的に「節約」し、利潤率を上げる。
  ㋑「労働生産性の向上」という「後者」での増産は、莫大な新たな固定資本の初期投下(「有機的組成の高度化」)が必要で、
   資本にとっては新たな「出費」であり、節約に入らない。投資時期やその効果を調査・計画し、「慎重」に行われる。

A「社会的結合労働」=大規模生産、という「労働の社会的性格」自体が大きな「節約」を産むが、それは、「資本のもの」になる。
  ㋐「生産手段の共同利用」による「節約」:分散生産に比べ、より巨大な発動機がこれまでの何倍もの作業機を動かすが、
   価格は生産能力の増加ほどには増加しない。工場面積も圧縮できる、燃料・電灯・作業道具も共用で節約できる、等々。
  ㋑「開発の時間と費用の節約」:不断の改良・発明も、もっぱら、大規模な結合労働者の社会的諸経験と諸観察からのみ生ずる。
  ㋒「廃棄物の再利用という節約」:屑・産業排泄物・産業廃棄物の、他産業及び新たな生産要素への転化。
   「屑が大量であること」が転化の大きな条件である。屑が売れることで、原料費用が低下する。
  ㋓「機械の改良」という「節約」:より低廉で耐久性・能力の高い良質な機械への改良は、結合労働の経験による。
   改良とそれによる、屑の減少・固定資本摩耗の減少・修繕労働の減少等、が生産商品価格と機械自体の価格を低廉にする。

B「精神的生産」・自然科学とその応用の進歩は、「自部門」のみならず、「関連他部門」の「節約」に貢献する。
  ・科学の応用で自部門の生産商品の価値が低廉となる。それを「生産手段・不変資本として使う他部門」にとっても、「節約」
   となり、この成果を不変資本の要素とする部門の生産商品価値を低廉にする。

C交通手段の発達を本質的要因とした「流通期間の短縮」から生ずる、不変資本支出の節約

※結果として、「資本の行う節約」は、大きく「3つ」に分けられる。
 (1)「支払労働=労働賃金=可変資本の減少」。これが資本にとっての「労働の節約」であり、「総労働の節約ではない」。
 (2)「不払い労働=剰余価値」を、可能な限り節約的な仕方・僅少な費用で、実現すること。生産手段=不変資本の「節約」。
 (3)「生産手段生産部門の発展」・「交通手段発展での流通期間の短縮」等、「社会的分業の発展」という他の要因による「節約」。

※これら「節約」は、それぞれ、「資本主義的な特殊な階級性」をもって行われている。
  社会主義での節約は、一見これらと同じことに見えるが、全く異なる「節約」が行われることになる。
[599] 2020年04月27日 (月) 09時11分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 57p
「第五章 不変資本の充用における節約」

<参考:大月書店、「経済学批判要綱 T」93p ・・・資本論では明示されていない部分の補足として>
「共同体的生産が前提されたばあい、時間的規定は当然のことながら依然として本質的な意義をもつ。
社会が小麦や家畜等々を生産するために要する時間が少なければ少ないほど、ますます多くの時間を、
その他の生産〜物質的又は精神的な〜のために社会は獲得する。個々の個人の場合と同じく、社会の発展、
社会の享楽、社会の活動の全面性は、「時間の節約」にかかっている。「時間の節約、全ての経済は結局そこに帰着」する。
社会が、自己の全欲望に即応した生産を達成するために、その時間を「合目的的に分割」しなければならないのは、
個人が、適当な比例で知識を得たり、あるいは彼の活動に対する様々の要求に満足を与えたりするために、
彼の時間を「正しく分割」しなければならないのと同様である。
だから時間の経済は、生産の様々の部門への労働時間の計画的配分と同様に、依然として共同体生産の基礎の上での
「第一の経済法則」である。それは「さらにはるかに高度な趣旨ですら法則」となる。」

※唯物史観の「生産力は必然的に発展する」という前提の根幹が、「労働時間の節約」である。「生産物量の増大」より重要。
★「社会的に必要なモノを手に入れるための活動」は、「生命活動」だが、それだけでは「経済活動」ではない。
★「必要なモノを手に入れる生命活動」は前提であり、そのために、労働時間を「合目的的に・正しく分割」することが「経済」である。
★そうした、「歴史上の経済」、「人間の行っている経済」、「生産様式」は、全て本質的に「時間の節約」を目的としている。
★「経済の目的が労働時間の節約」にあるのは、「人間の労働」自体が「労働時間の節約」を目的としているからである。
★社会的欲望を充足するための「新たな生産物量の増大」も、既生産品からの「労働時間短縮・解放」がなければ、生産できない。
★以上からも、「労働」は人間性の解放のためには極めて重要。しかし、「労働は人間の目的ではなく、労働時間の短縮が目的」。

@「動物が生存のために行う活動」は、「経済」ではない。「必要なモノを手に入れる活動」だけでは、「経済活動」にならない。
A「目的に合った・正しい労働時間」を考えること自体、すでに「ムダな生活時間を使いたくない・節約しよう」という本質が現れている。
B資本主義も「労働時間の節約」に必死、特に「最も必死」な生産様式だが、その「労働時間」とは「費用のかかる労働時間」に歪曲されている。
 ・労働時間は、「必要時間と剰余時間」に分かれるが、資本にとって「合目的的・正しい」節約・労働時間の短縮が意味するのは、
  「必要労働時間の節約・短縮」であり「剰余労働時間を最大に延長すること」を目指す。だから「総労働時間は短縮させたくない」。
 ・「残業時間を100時間」に制限しても「屁でもない」が、総労働時間の短縮は「全て剰余労働時間の短縮」になるから、利潤は大きく減少する。
 ・こうした、「労働の節約」が一部の者のために「歪曲」して現れるのは、程度の差があっても、すべての階級社会に共通の現象である。
C人間の特性である「労働時間の節約」が、「一部の者」でなく「全国民」の利得になるには、「労働時間が搾取されないこと」が絶対条件である。
Dただ、資本主義の「歴史上最高の徹底した節約ぶり」は、社会主義経済の運用の重要な財産になる。
 ・「節約」の具体的内容は、別稿で。
[595] 2020年04月23日 (木) 07時45分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 57p

「商品の販売価格の最低限界は、商品の費用価格によって与えられている。」

資本主義は、特殊・独特に、「費用価格=原価を基準とした生産・分配」が行われる、「奇妙な社会」である。
社会主義を含む他の生産様式では、「費用価格=原価」は重要基準ではなく、「それ以上に重要な基準」がある。

@「費用価格」が「重大な基準」だから、「私的所有者である北海道JRは、廃線を推し進める」。
 ・JR北海道は補助金を受けながらも、「利潤が出ない」というより、「費用価格に満たない」から鉄路を配線する。
 ・単にその個別の「路線」だけではなく、「JR北海道全体」の問題として、「費用価格=原価」は絶対的基準である。
 ・「JP」は全国どんな離島にも、安い切手代だけで文書を届け、「費用価格割れ」で頑張ってて偉い、が、実際は
  郵便の「費用価格割れ」を、「保険での悪徳商法」など他部門で補填しており、ここでもJP総体の「費用価格」は絶対である。
 ・結局、資本主義は、「国民経済総体の費用価格」は問題にならず、個別資本の「費用価格」が重要、という「奇妙な社会」である。
 ・個別資本が個別費用価格におびえるのは、まさに「私有制」(自己責任)で分裂・孤立している「奇妙な特殊社会」の結果である。

A封建制時代の「独立自営農民」が、もし「費用価格」を気にしていたら、数年後には死んでいる。
 ・「今年の天候からすると、生産したら『費用価格割れ』だろう」から、生産を中止すれば、翌年には自己消費する物がない。
 ・彼らには「費用価格」の概念は成立しない。それ以上に、「自分に必要な現物の生産物量」が絶対的基準である。
 ・特に、「自分の労働=可変資本」は全くの計算外である。労働用具=生産手段は自分で作るから「無償」であり、
  生産物に費やす労働も自分でやるから「無償」である。費用価格は成立しようがない。
 ・単純に言えば、「昨年の種もみ」が、収穫時に「自己消費量+租税量+来年の種もみ量」ならOK。「使用価値計算」である。

B社会主義は総共有なので、「国民経済の総費用(総労働)」だけが問題になり、「個別生産物の費用価格」など関係ない。
 ・出産、養育、教育、医療、介護、年金、障碍者福祉、住宅、電気・水道・ガス・通信、交通、他ライフラインは「一定量まで全て無料」
 ・「一定量を超えるもの」と嗜好品の一群だけ「価格」(これは資本主義的に言えば高め)で分配する。
 ・「総費用価格」で合わせるだけなので、個別生産物の「価格」は、「メチャクチャ」で法則性は全くない。「国民の意志決定価格」である。
 ・「総費用価格」の内で、国民が自分たちの現実的生活により好ましいように、「価格」を選択する。
 ・だから、社会主義での「価格」は、資本主義での「価格」とは全く別の社会的形態であることがわかる。

C社会主義への「移行期」から始まる、「市場・価値価格」と「政治的・国民決定価格」との対立
 ・「(政治的に)社会主義国」が、Bの「社会主義経済」を完成させるまでは、「資本主義経済」ないでの「移行期」がある。
 ・資本主義経済を社会主義経済に移行させるうえで、「市場・価値」の支配範囲と、「政治的・国民決定価格」の支配範囲が対立する。
 ・前者は当然「資本・利潤の論理」で動く。後者は「国民の現実的生活の必要選択」によって動く。
 ・移行期の経済は、後者が前者を包摂していく過程である。
 ・20世紀に崩壊した社会主義国では、全て、1960年代以降、「前者に経済を預ける」という「根本的誤り」を犯している。
 ・しかしそれは「選択の誤り」という問題より、「Bを実現できる生産力発展に達していなかった」ことの問題であろう。後進国革命。
 ・さらに、この現象を取り上げて、それらは「国家資本主義」という「資本主義の一種」だった、という論者が非常に多いが、
  彼らは、「移行期経済」と「B社会主義経済」を「同じもの」とする、つまり、「移行期とは何か」が全く理解できていないのである。
[591] 2020年04月17日 (金) 17時45分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 43p・・・補足、訂正

「商品の資本主義的費用は、「資本の支出」で計られ、商品の現実的費用は「労働の支出」によって計られる。
商品の「資本主義的費用価格」は、商品の「現実的費用価格」よりも小さい。」

とは、「c」の意味するものが、「資本支出」と「労働支出」では違う、「固定資本の価値移転問題」。
そして[587]の@は、全くの「誤理解」、忘れてください。

(1)「資本」の、特に利潤率計算では、「投下総資本」が問題になるので、「生産で価値移転されていない固定資本の残存価値」
 も、「c」の計算に入っている。
(2)「労働」、諸品に対象化される労働時間、で見れば、「残存した固定資本の価値(未償却の資産価値)」は、「c」に入らない。
(3)「費用価格」は、実際には、(2)の「移転された労働」で評価され、「現実的費用価格」として機能する。
 ・そしてこの差異、「固定資本の残存価値」が、回収のスピードアップ、回転率の上昇、さらなる一期間中の過剰生産を求める。
 ・[577]岩波文庫9分冊58p、「新たに追加されたのではない不変資本は、再生産過程において素材的に見れば、
  その大部分を減殺しうるような偶発時や危険にさらされている」からである。
(4)他方で、「資本主義的費用価格=総投資価値」は、「利潤率」「一般的平均利潤率」を規定し、その計算分母になる。
 ・資本にとっては、自己増殖と同様、それを可能にする前提として、「総投下価値・総前貸し価値の回収」が、死活問題になる。
 ・だから、大きな「資本主義的費用価格」からすると、ちまちました「現実的商品価格」は、相当「いらいらする・まどろっこしいもの」
  でしかなく、その「気分」は階級性として現実の労働者に波及していき、彼らの「精神と肉体」を蝕んでいく。

(5)だから、[587]の@は、全くの「誤理解」でした。正しく言えば、以下のとおり。

@「商品価値」自体の「純費用=支払済みの過去労働」は「c」だけであり、後は「生きた労働時間・付加価値=v+m」なのに、
  「費用価格=c+v」の形態では、付加労働vが、「費用」にくくられてしまう。
 ・つまり、「新たに支出される労働=新たに生産される価値」を、「費用に計上」しているという、「おかしな・特殊な性格」を持つ。
 ・本当は全く「奇妙な形態」なのだが、資本主義の経理処理、私たちの意識の中でも、「当たり前の現実」である。
[588] 2020年04月14日 (火) 19時33分
資本論の示唆
岩波文庫6分冊 43p

「商品生産に支出した資本価値のみを補填する商品価値部分を、「費用価格」(c+v)という範疇で総括することは、
一面では、資本主義的生産の特殊性格を表現するものである。商品の資本主義的費用は、「資本の支出」で計られ、
商品の現実的費用は「労働の支出」によって計られる。
 だから、商品の「資本主義的費用価格」は、商品の「現実的費用価格」よりも小さい。
 他面では、商品の現実的費用価格(c+v)は、簿記上のみの概念ではない。この価値部分の独立化(各c、v)は、
生産資本から商品資本、流通過程を経て貨幣 資本、そして再び生産資本に再転化、つまり買い戻されねばならず、
現実の商品生産の中で、実際に自己を貫いていくものである。」

「費用価格」という考え方も、さらに「平均利潤」も、その合計の「生産価格」も、資本主義の「特殊性格」だから、
他の生産様式、社会主義経済から見れば、「馬鹿げた・消失してしまう概念・価値形態」だということ。これも重要。

@まず、商品・生産物の「現実的費用価格」は、「過去の労働時間・過去の価値=c」+「生きた労働時間・付加価値=v+m」でしかない。
 ・「資本主義的費用価格」は、「前貸資本の労働時間・価値=c+v」で構成されるので、「利潤=m」分だけ少ない
 ・つまり、「新たに支出される労働=新たに生産される価値」を、「費用に計上」しているという、「おかしな・特殊な性格」を持つ。
 ・本当は全く「奇妙な形態」なのだが、資本主義の経理処理、私たちの意識の中でも、「当たり前の現実」である。

Aさらに、剰余価値または利潤の一部である「利子」・「地代」が入ってくると、いよいよ「奇妙」な概念となる。
 ・「m」は第三巻で、「利子:貸付資本の利潤」・「地代:土地所有による利子」・「企業者利得:実生産資本の利潤」に分裂する。
 ・3つを「x」「y」「z」とすれば、「m=x+y+z」で、総付加労働は「v+x+y+z」である。
 ・「付加価値」かどうかには一切関心がない生産資本にとっては、「v労働賃金・x支払利子・y支払地代」は、すべて「費用」でしかない。
 ・結果、「費用価格=c+v+x+y」となるが、付加価値である「v・x・y」まで含まれてしまう。「利潤はzだけに見える」。
 ・さらにさらに、「z」もおかしなことになる。それは「この商品価値の一部」だが、「総投下資本に対する平均利潤率」により
  平均利潤(Rg)で分配されるようになると、ほぼすべての商品価格の中で、「Rg≠z」となる。
 ・つまり「生産価格」は、「費用価格(c+v+x+y)+平均利潤(Rg)」に転化、商品価値「過去価値c+付加価値(v+m)」とは、
  似ても似つかない、何の関係もない価格形態に転化している。

B「資本の物神性」の完成。もはや「労働価値説」は「マルクス主義者だけの幻想」として現れる。(9分冊「三位一体論」)
 ・価値補填のcは除いて、諸収入:労働賃金「v」、利子「x」、地代「y」は、もはや「労働者」・「貸付資本家」・「土地所有者」の「収入」
  であるとしか見えない。「3つの『所有者』」に「予定され個別のルールで与えられる、相互に独立した3つの『収入・変数』」にしか見えない。
  つまり「総剰余労働・総剰余価値から分配されたもの」という、労働価値説はお笑い種で、「分配前に支払われている」。
 ・さらに、「企業者利得の利潤」は、流通過程を通過することで与えられる「社会が承認した分配分・平均利潤」であり、
  これも明らかに、商品の生産労働の「搾取」などとは全く関係ない、「当然の社会的権利」に見える。
 ・資本主義の物神性は、こうして「三位一体論」として完成する。

C社会主義で、労働力商品の所有・資本所有・土地所有が無くなり、共有になると、これら「すべての概念は消失・止揚」する。
 ・特に、「価値表現としての」、c・v・m(x・y・z・Rg)、は「全滅」である。しかし、社会主義でも残るのは、「価値規定」である労働時間。
 ・「生産手段cの過去の労働時間」、「付加価値v+mの付加労働時間」だけ。この場合の「労働時間」は、「抽象的社会的労働時間」である。
 ・現実の現れ方は、「これだけの労働時間」で「これだけの現物生産物」が生産されたという、「労働時間」と「富の量」との直接関係でしかない。
  つまり、この「物」は交換されず、即、生産的か個人的に分配・消費されるので、「価値は死滅している」。

D「生産」と「分配」は、「社会的抽象的労働時間」でどのように規制されるのか?私も解り切ってはいないのだが
 ・ただ、「生産手段cの過去の労働時間」という概念は消失して、「生産手段cを補填するための付加労働時間」に転化されるだろう。
 ・つまり、全ての生産と分配は「生きた労働時間=付加労働時間=v+m」だけで、計算されるだろう。
 ・さらに重要なのは、「v」と「m」の概念規定も全く転化・止揚すること。「v」はもはや「労働力価値」ではなく、
  「提供した個人的労働量から個人消費分として受け取る部分」、資本主義で「m」だった部分を相当に含む概念に、転化している。
 ・「m」は「剰余労働の総取りとしての私的利潤」ではなく、岩波文庫9分冊104pで見た、一部生産に振り分けられる労働時間でしかない。
  その意味では、「v」と関連し、間接的に「v」に戻ってくるものであり、両者は「分離していない」。所有が分裂していないからである。
 ・結局、「v」が全ての生産・分配を統制する実体に転化しており、「v」は付加される「社会的抽象的労働時間」の総計であろう。
  端的に言えば、「v」は、歴史的・理論的に、初めて「労働力の労働時間」ではなく「労働の労働時間」であることが実証され、止揚・自己同一化する。
[587] 2020年04月14日 (火) 18時22分
資本論の示唆
[578]訂正。

B剰余労働にくくっていた、「直接の生産者以外の国民のための個人消費財生産」は、Aの必要労働の一つ、でした。

結果、Aは、「全国民の個人消費財を生産する労働」は「必要労働」、という結論。
[579] 2020年04月08日 (水) 15時41分
資本論の示唆
岩波文庫9分冊 104p・・・前出の58pと同内容の、より整理された表現。

「いま労働賃金をその一般的基礎に、すなわち自己の労働生産物中の労働者の個人的消費に入る部分に帰着させるものとする。
この分け前を資本主義的制限から解放して、一方では社会の現存の生産力(したがって現実に社会的な生産力としての
彼自身の労働の社会的生産力)が許し、他方では個性の十分な発展が要求する消費範囲まで、これを拡張するとする。
 さらに、社会の与えられた生産条件のもとで、一方では、保険原本および予備原本の形成のために、
他方では、社会的欲望に規定された程度における再生産の不断の拡張のために、必要とされる程度まで、
「剰余労働及び剰余生産物」を縮減するとする。最後に、まだ、またはもはや、労働能力のない社会成員のために
労働能力ある成員が常になさねばならない労働量を、「第一の必要労働」と「第二の剰余労働」とに含めるとする。
すなわち、労働賃金からも剰余価値からも、必要労働からも剰余労働からも、特殊資本主義的性格をそぎ取るとする。
そうすれば、もはやこれらの形態は残らず、ただ、全ての社会的生産様式に共通な、その基礎だけが残る。」

3巻は諸手稿からの抜粋で成っているから、同じ内容が別表現が繰り返される部分が多い。
それでも、ちょっとした表現の違いから、マルクスの別の示唆が見える。
この一文で重要なことは、「社会主義にも、『剰余労働』『剰余生産物』は残る」ことが明示されていること。
そして、社会主義の生産様式は、旧諸社会の「特殊な階級性」を全てそぎ落とした、「社会的生産様式の基礎」を表現する。

@客観的生産力が許す限り、「個性の十分な発展が要求する消費範囲まで」生産を拡張する労働は、第一の『必要労働』
 ・資本主義的な「単純な生存」を充たす生産物生産だけが必要労働なのではなく、資本主義段階では「奢侈品・剰余労働生産物」
  だったものっも、「社会の合意」で「諸個人の社会的欲望に必要」と判断されれば、「必要労働」として生産される。
 ・逆に、資本主義段階で「必要消費財・必要労働」に入っていた、例えば「スーツ・ネクタイ」のような「私は労働はしません宣言」
  のような下らないものなど、不要物として排除されるものもかなり出てくるだろう。
A結果、「共同生産者たちが、自身の個人消費のために生産するための労働」は、「全て必要労働」、という結論になる。
B第二の「剰余労働」で生産されるもの
 ・保険原資、拡大生産用の生産手段の開発生産労働、直接の生産者以外の国民のための個人消費財生産。
C書かれていない、「既存生産手段を更新するための、生産手段の生産労働」は、「必要労働」だろう
 ・生産拡大ではない、個人消費財生産を維持するために必要な「生産手段の更新」は、個人消費財生産の一環である。
D「全ての社会的生産様式の基礎」とは、階級社会の底流にあった「人類・人間が一貫して目指していた目的」ということ。
 ・「基礎」「人間の歴史過程の目的」は、階級社会では「特殊な階級性」に阻害されて、隠れて・「潜勢的」にしか見えない。
 ・マルクスは、いわゆる「再生産表式」で、資本主義でのこの「隠れた、基礎・人間の歴史過程の目的」を、明示した。
  個別には「資本の自己増殖」としてしか見えない資本主義も、人間の歴史過程の一段階で目的を担っていることが、示される。
 ・結果、社会主義的生産様式が、歴史上はじめて、人類・人間の目的を実現・顕勢した社会、ということである。

E「剰余労働」と「剰余生産物」は残るが、「剰余価値・価値」は消滅するので書かれていない。
 ・マルクスの社会主義予測に関する全ての記述に、「価値・剰余価値の残存」は記述されていない。
[578] 2020年04月08日 (水) 15時30分
資本論の示唆
岩波文庫9分冊 58p

「新たに追加されたのではない不変資本は、再生産過程において素材的に見れば、「その大部分を減殺しうるような
偶発時や危険にさらされている」(さらに価値から見ても、不変資本は労働の生産力の変化に結果として減損されうるが、
これは個々の資本家のみに関係することである)。このことに応じて、利潤の一部・剰余価値の一部・また新たに追加された
労働のみが価値から見て表示される剰余生産物の一部は、A「保険原本」として役立つ。
これは、収入のうちの、収入として費消されず、必ずしも蓄積原本として役だちもしない、唯一の部分である。
これが、蓄積原本として役立つか、ただ再生産の欠落を補うにすぎないかは、ただ偶然にかかっている。
これ(A保険原本)はまた、『剰余労働』中の、B「蓄積・再生産過程の拡大に役立つ部分」の他に、
資本主義的生産様式の廃棄後にも存続せねばならないであろう唯一の部分である。もちろんこのことは、
@「直接生産者によって規則的に費消される部分が、今日の最低限度に局限されたままではない」だろう、ということを前提する。
年齢からみて、Cまだ、またはDもはや、生産に関与しえない人々のための剰余労働の他には、
労働しない人々を養うための労働はすべてなくなるだろう。」

いわゆる「三位一体」という、「物神性の完成」、経済学的には「俗流経済学の馬鹿げた俗説」の批判の中での一節。
資本主義では、「剰余労働」は全て、「利潤」「地代」という「収入」になるが、「社会主義ではどうなるか?」を述べている。

1.資本主義の「剰余労働」のうち、社会主義でも残るのは、次の項目。
 @「直接生産者(資本主義では「労働者」と呼ばれた部分)」が、消費の必要生活手段を拡大する部分。:「生存権の完全実現」。
  ・資本主義では、労賃として最低限に抑えられたが、社会主義では、「必要労働」を自分たちで決めることができる。
  ・資本主義では「剰余労働」として利潤・地代に搾取された部分から、「生産者」の消費・「必要労働」に移る部分。
  ・個人的消費生活は、資本主義よりはるかに(例えば2.3割)豊かになる、という「量的な変化」も重要だが、それにより、
   「生存権:健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が、権利ではなく「現実になる」という、「質的転化」の問題だろう。

 A自然的・社会的災害、生産上の様々なロス等を補填する、保険原資。:国家的共有財産。
  ・資本主義でも存在。しかし、資本の私的財産(利潤・地代という収入)として、個別資本内部留保や保険会社という形態で存在。
  ・特に、稼働中の旧固定資本の生産力を、生産性の高い新たな固定資本に「振り替える」部分。

 B拡大再生産に投下される、生産手段及び労働時間:社会的共有と社会的協働
  ・消費手段の充足や社会的な判断により、既存生産部面から、生産手段と生産者を新生産部門に移動させる作業が必要。
  ・資本主義のように無政府的、自然発生的には行えないから、産別や地域や国家レベルの「大きな生産調整機関」は必要。

 C「まだ生産年齢に達しない」年少人口の生活手段:全面的な国家対応
  ・資本主義では「わずかな社会保障と親の生存権の犠牲」で行われていた部分は、国家が完全補償する。
  ・基本は、全出産・全養育・全教育・全交通・全医療・全衣食住等に、「親個人の経済的負担」はなく、国家サービスが提供。
  ・「子供を産み育てること」に、「一切の社会的ストレスがない」状態。子どもと親の生存権を完全に実現する。

 D「もはや生産に関与しえない」老齢人口・障害・疾病・労災者等の生活手段:全面的な国家対応
  ・年少人口への対応と同様。
  ・こうした社会主義社会の想定から振り返れば、社会保障を「保険方式」でやろうとする資本のいい加減さは、極めて明瞭。

2.マルクスの想定以外で、考慮されるべき項目
 @日本を含めた一部アジア的国家の過渡期、での「主婦費」:社会主義では「主婦」は死滅することだけは明らか。
 A世界的な社会主義への過渡期・資本主義世界との共存期、での「軍事費」
 B過渡期から社会主義世界体制内、での国際的な「他国家支援費」

3.理論的問題として、「社会主義で『必要労働と剰余労働』の区別」は残るのか?問題。
 ・少なくとも、マルクスのこの節では、「資本主義の剰余労働で社会主義にも残るもの」として提示されているだけで、
  それを、「社会主義でも『剰余労働』として行われる」とは、全く言っていない。そうした部分が残る、と言っているだけ。
 ・必要労働と剰余労働の区別は、「階級社会での、労働の区別概念」、「剰余労働は搾取された労働」という見解もある。
 ・他方マルクスは原始共産社会で、「自然が生活手段獲得時間以外に、原初的生産手段を作る時間を与える」という記述がある。
 ・難しい問題。だが、「剰余価値」が無くなる、廃絶することだけは明確。剰余労働と剰余価値は全く別概念。
[577] 2020年04月07日 (火) 22時47分
資本論の示唆
岩波文庫9分冊 16p

「「自由の国」は、実際、窮迫と外的合目的とによって規定された労働が無くなるところで初めて始まる。したがって、それは、
事柄の性質上、「本来の物質的生産の領域の彼方」にある。未開人が、彼の欲望を充たすために、彼の生活を維持し
また再生産するために、「自然と闘わねばならない」ように、文明人もそうせねばならず、しかも、いかなる社会形態においても、
可能ないかなる生産様式の下においても、そうせねばならない。
文明人が発展するほど、この「自然必然性の国」は拡大される。「諸欲望が拡大」されるからである。しかし同時に、
「諸欲望を充たす生産諸力も拡大」される。「この領域(自然必然性の国)における自由」は、ただ次のことにのみ存する。
すなわち、社会化された人間、結合された生産者が、この「自然との物質代謝」によって盲目的な力によるように支配されることを
やめて、これを合理的に規制し、彼らの共同の統制のもとに置くこと、これを、最小の力支出をもって、
また彼らの人間性に最もふさわしくもっとも適当な諸条件のもとに、行うこと、これである。
しかし、これは依然としてなお「必然性の国」である。この国の彼方に、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、
真の「自由の国」が、といってもかの「必然性の国」をその基礎としてその上にのみ開花しうる「自由の国」が、始まる。
労働日の短縮は根本条件である。」

「まだ必然性の国」社会主義と「自由の国」共産主義を概括した、有名な記述である。

@「唯物史観」の人間の歴史は、「自然からの窮迫での外的目的による労働」が無くなるときに終焉する。
 ・社会が「下部構造に規定される」最大の理由は、「自然と闘うこと」、「生きるための物質的条件を生産労働で確保」しな
  ければならないためである。だから人間社会は、経済問題を最重要課題として、発展してきているということに過ぎない。
  「労働」とは、「自然からの窮迫」による強制、労働したいから労働するのではなく生存のための「外的合目的」の活動である。
 ・これは「自由の国」では、「自己目的の行為」に変わる。もはや「労働」は消失し、普通の「目的活動」の一つになる。
  それは、「自然からの窮迫」が消えたことを意味し、その意味での「経済が大重要ではなくなったこと」を意味する。
 ・つまり、「下部構造が社会を規定する条件も、共産主義では消失する」ことを意味している。
 ・だから、マルクスの想定、予測は「共産主義で終わっている」。唯物史観的歴史が終焉するからである。

A「まだ必然の国」社会主義について
 ・社会化された人間の結合
 ・労働はするが、「生産者」であり「労働者」という資本主義的存在はいない。彼らは共同経営者である。
 ・重要なのは、「合理的な規制・統制」であり、それが「計画」である。細かい生産物量を決めることが計画ではない。
 ・「人間性に最もふさわしく適当な諸条件」にするには、絶対に「市場」に任すことなどありえない。

B物質的条件を満たすことが先だろうが、「労働日の短縮は根本条件である」。
[574] 2020年04月04日 (土) 18時20分
資本論の示唆
岩波文庫5分冊 210p

「他方では、再生産過程の全ての運動が、貨幣流通によって媒介されるわけではない。
その諸要素がひとたび調達されたならば、生産過程全体が、貨幣流通から隔離されている。
さらに、生産者が直接自ら、個人的にまた生産的に再び消費する一切の生産物がそうであり、
農村労働者に対する現物給付もこれに属する。」

社会主義経済で、「貨幣はどのように消失・廃棄されるか」を、極めて解りやすく書いている。

@「一つの所有または占有」の下での、「直接に連続する生産過程全体」は、貨幣を不要としている。
・資本主義でさえ、生産手段と労働力が準備された後の商品生産の過程では、「貨幣は媒介しない」。
・ある企業の社内組織が、㋐仕入課が仕入れた生産手段で、㋑生産1課が半製品を生産し、㋒生産2課が完成品を作り、
 ㋓営業課が商社に卸す場合、㋐仕入課は㋑生産1課に「等価貨幣」を要求しない。㋑と㋒間、㋒と㋓間でも、
 「貨幣は媒介しない・消失している」。そこでは「貨幣流通は消失」し、「中間生産物の物流」だけがある。
・ただし、各課の生産成果や生産性は、労働時間や使用生産手段量等の「記帳」を基に評価されてはいるが。

A資本主義では、私的所有により生産過程が分断されるため、「価値基準の商品流通」というとんでもない「無駄」がある。
・@では、㋐〜㋓間を「直線的に使用価値が流れる」だけだが、もし㋐〜㋓がそれぞれ異なる私企業が担う場合には、
 「売買行為・契約行為」がそれぞれの段階ごとに何度も繰り返される。つまり、「何度も商品流通に顔を出す」ことになる。
・更には、「使用価値の物流」での事務処理に加えて、「価値に関する簿記・処理」という事務処理が加算される。
 つまり、「契約書」、「価格・支払総額・払込口座の分類記帳」、「支払資金の準備」、「請求書発行」、「入金確認」等々
・個別には「商談を行う営業員」、「経理処理をする事務員」等が各社に配置されており、社会的に見れば、
 これら「各社の価値流通記帳の無駄」、さらに銀行が行う「ばかばかしい価値流通の無駄」は、総労働時間の1〜2割
 で収まっているだろうか?

B資本主義でも、最良の改善策「信用」により、「貨幣流通の無駄」を省くが、それは「巨大な恐慌」・最悪の害悪を呼ぶ。
・信用、単純には後払い、で流通させれば、㋐〜㋓は「直接の使用価値物流」に近づく。発展した資本主義は平常時、
 この「信用」により、形式的にではあるが「貨幣を排除」している。貨幣流通が、本当は無駄であることを知っているのだ。
・しかし、各社は信用回収を前提にさらに信用で売買を上乗せする、つまり「債権・債務」という信用自体が「価値評価」
 されて、貨幣と同じ働きをする。その順調な回収がどこか回収不能に陥ると、その連鎖で突然「現実貨幣による支払」
 が各社に求められる。恐慌。もはや「信用」を信用されなくなる。「性善説」でぼろ儲けしていた資本は、突然、「性悪説」
 の冷酷な現実主義者に豹変する。
・国民生活に使用価値を供給している「現実の生産力」のほとんどは、健全で必要なものなのに、「価値・貨幣」の回収
 ができない恐慌により、「玄逸の生産力」もまともに稼働せず、国民経済全体が混乱させられる。

C「社会主義への過渡期・移行期」には、「国家信用」で「株取得」と交換に「資金提供」
・過渡期・移行期は、当然「資本主義経済」であり、その中で「移行」するしかない。
・恐慌時の最大問題は、「信用決済するための貨幣・資金」だから、それが供給されれば、国民経済の混乱は防止できる。
・ただし、当然「現実の生産力」が機能不全や毀損するような恐慌の問題であり、90年代から続いている、または同時に
 発生する、いわゆる「金融恐慌」には、全く対処不用である。それはただ、「記録されていた価値・貨幣」が消失するだけで、
 「現実の生産力・実際の国民経済」は全く痛まないからである。
・いずれにしても、「恐慌期は生産手段社会化の絶好のチャンス」である。「極めて安価に買い取れる」。

D「生産手段の共有」は、単に「所有の消滅・階級消滅」だけでなく、「価値・貨幣・商人の消滅」を実現する。
・@の例が、もし国民経済の全ての生産部門が1社で統一されていれば、国民経済の様々な全生産過程は、
 「直接に連続する生産過程」になる。「流通」の速度と無駄だけでも、大きく改善される。
・当然、「現実の生産力」による経済であるから、恐慌という事態は発生しようがない。
・「生産手段の共有」の結果、諸生産単位間にあった「商品流通」が、排除、死滅した結果である。
[572] 2020年03月31日 (火) 21時44分
資本論の示唆
岩波文庫5分冊 195p

「再生産の資本主義的形態が排除された場合、事柄は次のことに帰着する。消費手段の生産に機能している固定資本のうち、
死滅し、現物で補填されるべき部分の大きさは各年によって変化する、ということである。しかし、年々の消費手段生産に必要な
流動資本の量は減少しないから、「生産手段の総生産」は、ある場合には増加し、他の場合には減少する。
その変動が可能なのは、ただ「継続的な相対的過剰生産」によってのみである。つまり、一方では、直接の必要以上に生産される
一定量の固定資本によって。他方では、ことに、年々の直接の必要を越える流動資本の「在高」によって。、特に生活手段について。
 「この種の過剰生産」は、それ自身の再生産の対象的手段に対する、「社会の統制」に等しい。
 しかし、資本主義社会の内部では、それは一つの無政府的要素である。」

前回の、社会主義における「適度な過剰生産」・「在庫経済」・「計画経済の内容」が、もっと明確にまとめられている。

ほぼ繰り返しになるが、社会主義経済になると、
@減価償却する「固定資本」の生産量は各年で増減する。変動に対応するには、「継続的な相対的過剰生産」が必要。
 ・今年の必要からは「10台の生産計画」なのだが、来年は受注台数が増加しそうなので、「12台の生産計画」を組む。
 ・生産したうちの「2台」は今年出荷されず、次年度の「受注増加対応用の在庫」になる。
 ・それができるのは、「生産力も適度に過剰」で、「生産・生産量も適度に過剰」であるからである。

A固定資本の増加の可能性に合わせて、原料・補助材料等の「流動資本」も、相対的に過剰生産される。
 ・今年の「総固定資本量」が100で、来年「110」に増加する可能性があるなら、増加固定資本で使用される流動資本分
 も増加生産されないと固定資本は使えない。
 ・「120の生産計画」により、100が今年度で生産的に消費され、「20」は次年度の「受注増加対応用の在庫」になる。

B特に「生活手段生産。第2部類」の固定資本・流動資本については、「相対的過剰生産は必須条件」である。
 ・社会主義経済は、結局、「個人消費の充実」を最大の目的に、つまり「消費財・生活手段の生産」のためにある。
 ・「平常時の全国民の総消費財」を正確に把握することはできない。新型コロナ対応用・大震災用・全道停電・難民支援
  等々のための備蓄や社会保障拡大用、特に重要な諸個人の欲望充足の拡大用の生産量拡大が極めて重要である。
 ・だから、第2部類の生産力、そして実際の生産は、現状必要量よりも、「継続的つまり常時」「適度に過剰」でなければならない。
 ・それらは、生産力としては「適度な遊休生産力」、生産物としては「適度な過剰在庫」で、即対応可能な状態が保持される。

C「第1部類・生産手段生産部類」向けの、「固定・流動生産手段」の生産は、一般的にはそれほどの過剰を要しない。
 ・第1部類は結局、第2部類の生産に貢献するための生産部署となる。資本主義のように、「生産手段も剰余価値を産む」ので、
  外国需要や軍需のための拡大再生産は基本的には消滅する。「第2部類からの要請に応える」だけが使命である。
 ・だから、第2部類で稼働している生産手段が「適度に過剰」であれば、第1部類自身の生産手段増大は不要である。
 ・さらに重要なことは、「生産手段は、より生産性の高い新規開発が進行する」ことである。だから逆に、「現状の生産手段」
  を「過剰」の持つことは、新しい生産性の高い生産手段が開発された場合、「全くの無駄」になる可能性を持つ。

Dだから、特に「第1部類・生産手段生産部類」の生産手段については、過剰よりも「新規開発」がより重要になる。
 ・第1、第2部類いずれの生産手段も、生産性が高まれば、「生産量を拡大しながら、労働時間を短縮する」ことを可能にする。
 ・その使命を負っているのが、第1生産部類ということである。
 ・第1部類は、「第2部類に貢献する」という使命を持つとともに、社会主義を発展させる「原動力・エンジン」でもある。
  その意味で、「諸生産手段の研究開発へのより大きな労働(活動?)投入」が重要になってくる。

E「この種の過剰生産」を実現していることが、「経済が社会的に統制されていること」=「計画経済が実現していること」を意味する。
 ・「この種の過剰生産」は、「その時点の全国民の個人消費を、充分に充足させている」。完全とは言わないが。
 ・「この種の過剰生産」を維持・発展させるための計画が「計画経済」であるのは明白だろう。

F書かれていないが「生産要素の一つ」、「生産者(労働力)も適度に過剰」でなければならない。
 ・生産手段が過剰でも、それを動かす「労働」も適度に過剰でなければ、生産は実現しない。
 ・いつでも出動可能な「労働」のためには、国民の一部は「待機労働」として「遊休」していなければならない。
 ・労働強度を低くして既存の生産に参加する方法も可能だろうが、これはモラル面で問題がありそう。
 ・それよりは、生産者全員が年間何日かの「待機労働日」を消化し、必要な社会的活動に貢献するほうが妥当か。
[571] 2020年03月28日 (土) 20時28分
資本論の示唆
岩波文庫5分冊 194p-195p

「「現物再生産される」(現物の生産手段として購入される)第2部類(消費財生産部門)の固定資本の比率が減少し、
第2部類の「摩損価値分の貨幣で補填されるべき構成部分」(償却費として貨幣退蔵される部分)が同じ割合で
増大するならば、第1部類(生産財生産部門)の再生産のうち、第2部類で再生産される(第1部類から第2部類に
現物購入される)固定構成部分の量は減少する。
したがって、「第1部類の総生産の減少」か、または「過剰」が、そして「貨幣化されえない過剰」かの、何れかが生ずることになる。
第1部類は生産を縮小しなければならず、それに携わる労働者と資本家にとっては恐慌を意味する。
それ自体としては、「かような過剰は害悪ではなくかえって利益」である。しかし、資本主義的生産にあっては害悪なのである。」

「再生産表式」での「固定資本の過剰生産」について。特に重要な、社会主義の「適度な過剰生産・在庫」原則のさわり。

@固定資本を生産する「第1部類・生産手段生産部門」では、大きな「需給ギャップ」が出やすい。
・消費財生や流動資本では、1年間の生産物は、概ねその1年で消費され、生産量と購買消費量の「差」は相対的に少ない。
・しかし固定資本は、更新投資で見れば、数年・10数年の減価償却期間を経て、初めて「現物再生産される」=買い換えられる。
 それまでは「摩損価値分を貨幣で補填」=予備基金として貨幣退蔵され=固定資本は買われない。
・つまり需要に大きな「波」がある。しかし、一般的に、第1部類は「最大の波」に対応できるような生産力レベルを維持している。
 つまり供給・生産力は「常時過剰」である。逆に言えば、毎年大きく変化する需要に、「生産力を合わせることはできない」。

A資本主義では、ある年の「突然の需要減少」は、この第1部類の生産を社会的に不要なものとし、「恐慌」「害悪」を引き起こす。
・労働者の解雇、賃金払い、企業・資本家の倒産、それと関連する信用に起因する連鎖倒産等々の「害悪」。
・ただしここで言われる「恐慌」は、「一般的な恐慌原因」というより、産業間生産力分配の「一時的不均衡」レベルの位置づけだろう。
 
B「過剰生産力自体は、害悪の原因ではない」。害悪の原因は、資本主義的な生産様式である。
・私的所有での無政府的生産が、「害悪」になるレベルまで、過剰生産を推し進めざるを得ない原因である。
・価値、貨幣での「等価交換」法則が、第2部類では潤沢にある「生活手段」を、第1部類労働者に分配することを阻害する。
・刹那的な私的利得でしか計算できない社会が、来年や再来年の固定資本として在庫購入しておく調整を阻害する。

C重要な指摘。適度な「過剰生産力」こそが「社会的利益」、社会主義の生産力のあるべき姿。
・事実は、この第1生産部類では、この年は去年のような労働力や生産手段を投入・消費する必要がない、ということである。
・労働時間や流動資本を節約できる条件が成立している。
・この生産部類の「労働が不要」となったとしても、その生産者に必要な生活手段分は、前年と同様に全く問題なく、
 第2部類が生産しているので、それを「価値交換せずに分配すれば」、彼が「生きていけない」状態にはならない。
・もし、固定的生産物自体を生産しすぎたのであれば、在庫に必要なもの以外は廃棄してしまえばよいだけである。
・多少の社会的ロスは発生するとしても、「社会的害悪」となることはあり得ない。

D「アソシエートした自由な生産」を「計画的」に行うためには、「適度な過剰生産力」「在庫規準生産」「受注生産」が重要。
・基本的には、「社会的な欠品」のない、スーパーには現在のような潤沢な「品揃え」が実現してなければならない。
・「分配・消費」された生産物は、スーパー在庫が不足する場合には、仲卸への「発注」により、即「在庫補充」が必要になる。
・在庫をスーパーに納品した仲卸は、自身の在庫に不安があれば、メーカーに発注しなければならない。
・仲卸に納品したメーカーは、自身の取り置いている「在庫に不安があれば生産」しなければならない。

※「消費」を「起動」とする、「在庫計画生産」。「国家指示」の「生産」ではなく、「消費者主権」の「生産」。
※欠品を生じさせない「計画的在庫生産」を、「アソシエートした自由な生産」で統制していくこと。
※当然、「不良品」は、それを納品した仲卸やメーカーに返品され、「赤伝処理」され、その内「受注が来なくなる」。
※「計画化」とは「適度に過剰な生産状態への統制」であり、そのためには、各生産点の客観的自由判断で十分であろう。
※他面で、最終消費までの各流通段階ごとの、「適度な在庫」が需要変動吸収の重要なクッションとなるだろう。
[569] 2020年03月27日 (金) 20時31分
資本論の示唆
岩波文庫8分冊 271p

「生産諸関係が脱皮せねばならない一点に達するや否や、(利子や地代等の)権利名義とそれに基づく一切の取引の
物質的源泉・経済的及び歴史的に正当化された源泉・社会的生活生産の過程から発する源泉は、無くなってしまう。
「一つのより高度の経済的社会構成の立場」からすれば、@「地球に対する個々の個人の私有」は、「他の人間に対する
人間の私有」と全く同様に、馬鹿げたものとして現れるであろう。
A社会全体、国民でさえも、実に同時代に存する一切の社会を合してさえも、土地の所有者ではない。
B彼らは、ただ土地の占有者、その受益者であるにすぎない。
そして「良き家父」として、C土地を改良し、後続の諸世代に残さねばならないのである。」

地代と土地価格の章に挿入された一節だが、きわめて重要な原則がいくつか書かれている。

「一つのより高度の経済的社会構成の立場」=社会主義社会では、
@「土地の私有」「奴隷の私有」、当然「生産手段の私有」も、馬鹿げたもの。存在しない。
 ・土地と生産手段は「社会的共有」。労働も「社会的共有」という意味で、人間は「社会的協同」。

A「社会的共有」にするのは、「誰も所有者ではない」状況を作る手段である。その意味で、「国有化」が最も明確。
 ・個人でもなく、生産点の生産者組合でもなく、地方政府でも、国家政府でもなく、
 ・「同時代に存する一切の社会」、社会主義世体制の全世界で、「所有者は存在しない」社会。
 ・社会主義の「形式的所有形態」がどんなに多様であっても良いが、「実質的に所有させてはならない」ことが示唆されている。
 ・さらには、社会主義世界体制は当面、各国の革命により「複数国家の世界体制」となって現れるが、
  そこでの「国家間経済関係」は、例えば、資本主義的な「為替による世界貿易」という商品関係を結ばないことも、示唆している。
 ・国際的経済関係でさえ、「所有者がいない」関係、つまり国内経済と同様に、世界的共有・協同を原則とした「物流経済」である。

B土地・生産手段は「占有」できるだけ、そしてその生産物で、諸個人の欲望充足という「受益」をするだけである。
 ・端的に言えば、「法律的な様々な『社会的所有形態』」は、「生産過程・労働だけの占有」を許す、限定的な形態だということになる。
  特に、固定資本や流動資本等の生産手段や生産物の「処分権」を、その「占有者」は持っていない。社会的組織がその権限を持つ。
 ・ただし、土地・生産手段を占有した「生産主体」は、社会絵t気に許容される「自由な生産」を行うことになる。指令経済とは異なる。
 ・「受益」できる範囲は、『ゴータ綱領批判』で明確に示されているとおり、「個人消費手段」だけであり、土地・生産手段は対象外である。
  つまり、他人を労働させてそこから自分が「受益」することは不可能な法体系を持つことになる。
 ・さらに、少なくとも「原則的には」、「相続」はあり得ない。自分の提供した「労働時間証明」をどこかの「銀行に貯蓄」して
  子孫に残す行為は、「原則的」には、その子孫がその時代の社会から他人の剰余労働を盗み取る行為の一つである。
  1人の国民の死は、「原則的」には、彼がもし「占有していた生産手段」・「使い残した労働証明」を残していれば、社会に還元される。
 ・原則はそうだが、実際の社会主義の初期段階では、このあたりは慣習上の問題からも様々な制度がとられるだろう。

Cマルクスは、十分に、「持続可能な社会」「環境」を意識していた。
 ・マルクスは「生産至上主義」で、反「環境」だとの批判がかなりあったし、いまでもその主張をする者がいる。
 ・実際は、合理的で持続可能な自然利用は社会主義でしか実現しないことを、資本論の他の個所でも触れている。
 ・ただ、少なくとも、「環境絶対主義・環境第一主義」ではないのは確かである。
[559] 2020年03月19日 (木) 21時54分
資本論の示唆
岩波文庫5分冊 153p

「結果。・・・第2部類の可変資本500Uvは、第2部類の総資本家と総労働者間で、「無媒介の形態」をもって現れる。
総資本家は500vを、労働力購入に前貸し、買い手となり、総労働者は売り手である。次いで労働者は貨幣で、
「彼自身が生産した商品の一部」の買い手となり、資本家が売り手となって、商品としての500vを償う。
「労働者の貨幣収入」と、「彼自身によって商品形態で再生産された資本家の500vとの交換」である。
このように、第2部類の資本家の可変資本は貨幣形態として帰る。
貨幣形態での等価としての収入価値が、商品形態の可変資本価値を補填する。」

いわゆるマルクスの「再生産表式」分析は、「マクロの社会主義経済」を十分意識して書かれている、最重要部分の一つ。
社会主義経済が、「無媒介の流通経済」となることを示唆する。無媒介とは、「貨幣による等価交換媒介」が不要ということ。

@「第2部類=消費手段生産部面」内の、労働者による「生産・分配・消費」は、資本主義でさえマクロ的には「無媒介形態」
 ・一国の巨大な「消費財生産部面」全てが、「一企業」と考えるとより単純。
 ・その企業で生産した生産物の一部分は、他者に売られる前に、「自企業の労働者の生活手段として分配・消費」されている。
 ・ミクロ的には「価値としての貨幣が媒介」しているように見えるが、マクロレベルでは、「自分達で作った生産物の自己消費」である。
 ・「前貸可変資本・総賃金」は、自己生産物の分配手段として機能し、「全て前貸し元に還流する」。
 ・資本主義では、この「分配手段」は「価値としての貨幣」だが、マクロ的に見れば、「各人の労働時間による分配量」が表現されて
  いれば、「社印を押したメモ」でも、「オンライン上の記帳データ」でもよく、わざわざ「価値という遠回りをする必要はない」。
 ・当然、それを行うには、生産された「総消費手段」は「社会的共有」で「社会が一括分配」できることが大前提となる。
  「生産手段の社会的所有」は「様々な形態」がある、とよく言われる。
  それは誤りではないが、「様々な形態」で行えるのは「生産過程の『占有』」、「生産は自由に行える」ことであり、
  「生産物も、それを生産した様々な形態の所有物」になるのは、社会主義ではなく今だ資本主義経済でしかない。
  社会主義では、様々な社会的所有形態が「生産過程の占有」をするが、「成果である総生産物は社会的共有」である。

A「無媒介形態」は、「第1部類=生産手段生産部面」内での、資本家による「生産・分配・消費」にも見られる。
 ・第1部類で使われる生産手段は、第1部類自身が生産する。マクロで見た形態は上記@と同様である。
 ・ただし、ここでの生産手段の「分配様式」は、@での分配様式とはかなり異なった方法を考えなければならないだろう。
 ・@の消費手段は、「個人への分配」を行う必要があるために、とりあえず「提供労働時間を分配基準」にしていた。
  しかし、Aの生産手段は「社会的生産」を行う必要のために分配されるから、「提供労働時間は分配基準にならない」。
  つまり、個人分配されないから、「使用した労働時間」とは、ほとんど関係のない「社会的分配基準」が必要になる。

B生産手段・特に固定生産手段は、「社会的生産の価値尺度」で生産・分配される。
 ・資本主義では、固定資本の「社会的生産の価値尺度」は、「より急速で大量の剰余価値の獲得」だった。
 ・社会主義では、(1)より急速で大量の社会的欲望の充足・使用価値の生産、(2)より急速で大量の労働時間短縮、
  この2点が「価値尺度」になるだろう。
 ・その尺度に大きな効果がある生産手段については、「生産のための労働時間」は大きな問題にはならないだろう。
  なぜなら、「第1部類の労働時間」は、元々、「社会的に見れば剰余労働時間」であり、「自由に処分できる時間」
  である。生産に使おうが、各人の労働時間短縮に使おうが、「自由な社会的時間」である。
  その意味では、無駄に使うことはできないにしろ、「投下労働時間の生産性」が厳しく問われるような部門ではない。

Cその意味で、社会主義の生産手段生産部類の「労働」は、「自由な労働=自由活動」の性格を強く持っている。
 ・「生産手段生産の労働」が、資本主義的な価値増殖のため・自分の生活費を稼ぐために行われるのではなく、
  新たな2つの価値尺度で行われる場合、それはもはや「労働」という性格より、「人間解放のための活動」に近い。
 ・「社会的必要労働時間の急速な短縮」と「社会的剰余労働の急速な増大」が、社会主義発展の原動力となる。
[556] 2020年03月17日 (火) 19時21分
資本論の示唆
岩波文庫5分冊 19p :一部再掲

「生産者は『例えば』指定券を受け取って、それと引き換えに、
社会的消費用貯備の中から、彼らの労働時間に相応する量を引き出すことに『なっても良い』。」

社会主義での「労働に応じた分配」は「原則」ではない。「分配方法を国民が民主的に決めること」が「原則」である。

@「例えば」、「なっても良い」とは、単に「例・一つの特殊なやり方」を示しているだけ。社会主義初期に重要。
 ・ここでは、「提供労働時間に応じて分配する」場合の例をあげているだけで、それが「正しい」と言ってるわけではない。
 ・例えば、障碍者には「認定労働指定券」が交付されてよいし、家族人数に応じて「指定券割増倍率」が設定されても良い。
 ・『ゴータ綱領批判』にあるように、資本主義から生まれたばかりの社会主義(初期)には、国民はまだ、
  労働に応じて分配を受けるという「資本主義的な価値観・習慣」に支配されているだろうから。「労働に応じた分配」が
  たぶん妥当でしょう、と言っている。
 ・ただそれは、「不平等な権利」だとも指摘している。働ける能力、家族構成、居住地域の自然条件、流通速度等々の
  様々な差異を考慮に入れず、「提供労働での平等」だけで評価するのは、本来「全く不平等」である。

A「共同分配セクター」からの「必要生活財の無償分配」の拡大に反比例して、「労働に応じた分配」の重要性は低下する。
 ・生産物のかなりの部分は「共同消費分配」の部門から提供される、基本的衣食住・電気・水道・通信・育児・教育・
 医療・介護・年金等は、次々に「共同分配」セクターから、必要一定量までは、たぶん無償分配で提供されていく。
 それ以外の「個人的消費」の分が「労働に応じた分配・指定券」で分配される。

B「共同分配セクター」は「必要生活手段を供給」し、「労働に応じた指定券」は「剰余消費手段」を提供する。
 ・Aの想定から明らかなのは、「指定券」を使う先は必要生活手段ではなくなっていく、ということである。
 ・社会主義初期には、まだかなりの必要生活手段を指定券で受け取るだろうが、その割合は下がっていく。
  同時に、指定券で受取る労働の割合も下がるが、生産力向上で「パイは増大」しており、低下は相対的に緩やかになる。
 ・結局、「指定券」でうけとるのは、社会一般では「必要と認定していない」消費手段ではない。資本主義的には剰余消費財。
  それは当然、純粋に「個人の自由」を実現する生産物である。社会主義から共産主義への発展は、この部分の拡大を
  最大の「社会的価値」の一つに置いている。詳細な個人的欲望を充たす全面的な社会的生産力の発展は、まだ遠い先にある。

C原則は、「国民が基準を自由に決めること」。しかし、決め方により、「成功」も「失敗」もある。
 ・生産力の使い方を、一部の少数階級が決めるのではなく、「国民が決める」社会が社会主義社会である。
 ・「労働に応じた分配」は、その選択肢の一つであって、社会主義の原則ではない。
 ・「国民が決める」とは、いわゆる「アソシエーション」が成立していることを意味し、「民主的」であることは一つの前提となる。
  その具体的内容は現実的には「特定の型」があるわけではない。
  実際問題としては、たぶん、国民が「自分たちで決めている」と認識しているかどうか、でしか評価方法はないだろう。
 ・直接民主制、間接民主制、一党委任(一党支配ではない)等、形態は様々な様相を持つことになるのだろう。
 ・ただ、「国民の選択・決定」は、必ずしも「正しい方向・選択」を意味しない。誤った場合の「修正能力」が確保されてる必要がある。
[553] 2020年03月10日 (火) 21時09分
資本論の示唆
岩波文庫5分冊 19p

「社会的生産においても、資本主義的生産におけると同様に、依然として、労働期間の比較的短い諸事業部門における
労働者は、比較的短期間だけ、生産物を再供給せずに諸生産物を引き上げるであろうし、労働期間の比較的長い
諸事業部門は、生産物を変換する前に、より長期間にわたって引き続き生産物を引き上げるであろう。
したがって、この事情は、それぞれの「労働過程の物的諸条件(労働過程)」から生ずるのであって、
その「社会的形態(価値増殖過程)」から生ずるのではない。貨幣資本は社会的生産においてはなくなる。
社会が労働力と生産手段とを種々の事業部門に分配する。生産者は例えば「指定券」を受け取って、それと引き換えに、
社会的消費用貯備の中から、彼らの労働時間に相応する量を引き出すことになっても良い。
この「指定券」は貨幣ではない。それは流通しない。

これまでの総括的なまとめ。社会主義の「生産」と「分配」の大原則。

@「生産」は、「労働過程の物的諸条件(労働過程)」だけがあり、「社会的形態(価値増殖過程)」は行われない。
 社会主義的生産では「貨幣資本はない」。生産手段は「不変資本に」にならず、労働力は「可変資本」にならない。

A社会主義での生産は、「生産物の受け渡しだけ」。労働時間は記帳されているが、貨幣は存在しない。
 生産財生産部面は生産手段を「生産物」としてだけ提供し、消費財生産部面は生活手段を「生産物」としてだけ提供。
 なぜなら、分配前のそれら、「全ての生産物は社会的所有」だから、誰の所有でもなく「対価」を欲しがる者もいない。

B「分配」は、労働時間の記帳を基礎に、発行された「指定券」・労働時間証明書で行われ、それは貨幣ではない。
 「社会的消費用貯備」、今のスーパーマーケットやコンビニだが、から自分の欲しいものを受け取る「分配券」。
 それらの」「店」も社会的共有になっているから、そこ以外で「券」を使う先はなく、回収されるだけで「流通しない」。
 『ゴータ綱領批判』の社会主義分配原則を、よりシンプルに書いてある。
[551] 2020年03月07日 (土) 21時07分
資本論の示唆
岩波文庫8分冊 468p

「(追加的資本投下がより大きな生産物を産む場合・投下資本の改良)は、以前より多くの資本追加で生産した場合、
または以前の生産量以上をより少ない資本追加で生産する場合を包括する。この区別は同じことではなく、
「全ての資本投下」において「重要な一区別」である。
@半分の労働で、従来と同じ生産物を上げるか、A同じ労働で従来の2倍の生産物を上げるか、B2倍の労働で4倍
の生産物を上げるか、は同じことではない。
@では、「生きた労働」と「対象化された労働」が「解放」され、他方面に利用されうる。「労働と資本に対する
処理する力」が増大する。「資本・労働の解放」は、それ自体として、富の一増加である。それは、この(解放された)
追加資本が蓄積によって得られたのと全く同じ効果を持ち、しかも、蓄積の労を省くものである。」

社会主義での「生産力拡大」の「誤った理解」が浸透している。多くがAやBを前提に語られる。
だが、社会主義は@を目的とするから、必然的に「生産力は拡大する」。これは「重要な一区別」である。

ABを、生産の一般的原則としてやってきた(というより、無意識的にそうなった)のは、資本主義社会。
 それは歴史上で、資本主義が負っていた「使命」の一つだった。
 社会主義でも当初はかなりの生産領域でABが残るが、それさえ早く@を実現するための手段である。
@一定量の生産物生産のために、「生きた労働時間がどんどん短縮」するように、「生産力拡大」を使うこと。

※マルクスの社会主義論では、常に「適度な過剰」が前提にされている。
 この節の前提は、「ある生産物への社会的欲望が充足していて、生産量が『適度に過剰』な場合」、が前提にある。

※「適度な過剰」までは「資本主義の歴史的役割」でしかなく、その後が「社会主義の役割」
 この前提は、「なぜ先進資本主義国でしか、社会主義は実現しないか?」の答えでもある。
 「適度に過剰」となった生産力は、「労働時間の短縮」と「不変資本の節約:自然との持続的共生」に貢献する。
 「解放された労働時間」等は、当面、「他方面・他の諸生産物」に使われる。
 まず、目指されているのは「全社会的必要生産物で『適度な過剰』を実現すること」(無償)であり、
 その次には「社会的必要労働時間」を可能な限り短縮すること、であり、そのための「生産力拡大」であること。

※「生産力拡大はもう十分」という見解は、真の社会改造を否定する、俗説。
 生産量は足りていて「これ以上の生産力発展は不要」とかの、「定常社会」「里山資本主義」等を、浅はか。
 国民が「全然足りていない」のは明らか。「足りている」ように見えるのは、「賃金という支払能力の枠内」に
 閉じ込められた欲望しか実現できないだけの話で、もし、すべて「無料」なら、ほとんどの生産物が「全然足らない」。
 さらに、国民はいまだに「奴隷と同じレベルで働いている」認識がない。
 人間の歴史は、「生きるため」には「働くしかない」という、「自然条件から強制される労働」・社会的必要労働時間
 の問題を、ずっと引きずってきている。そこから「解放」されていくためには、社会主義という新たなシステムが必要。

※とにかく、いたるところで、「労働時間の短縮」「労働からの解放」、である。
[550] 2020年03月03日 (火) 17時42分
資本論の示唆
岩波文庫4分冊 468p

「社会を資本主義的ではなく共産主義的なものとすれば、@まず第一に貨幣資本は全くなくなり、
Aしたがって、それを通じて入ってくるいろいろな取引の仮装もまたなくなる。
事柄は簡単に次のことに帰着する。すなわち、鉄道建設のように、B比較的長期間にわたって生産手段も生活手段も
また何らの効用も供給しないが、年々の総生産物から労働・生産手段・生活手段を引き上げる事業部門に、
社会がどれだけの労働・生産手段・生活手段を何らの損害もなく振り向けうるかを、社会はあらかじめ計算せねばならない。
これに反して、「社会的な知恵」が事後に初めて実効を示すのを常とする資本主義社会においては、
絶えず大きな攪乱が生じうるのであり、また生ぜざるを得ない。」

「生産手段生産(第一部面という)」の、特に「長期の固定資本」への「労働時間投入の計画」は重要問題。
@しつこいが、「貨幣資本は全くない」から「市場社会主義などありえない」。ただし、移行期ではなく「社会主義段階」の話。
A「取引の仮装」:貨幣資本が行っている諸機能と派生する資本主義的概念、「労働力・不変資本・商品の売買市場」や、
 「減価償却」「利子」「地代」や、「土地価格」「株価・有価証券価格・国債価格」等の「幻想的空資本」は、全て消失する。
 結局、「国民経済」が行うことは、「自然条件と現物生産手段と生きた総社会的労働」をどう合理的に運用するか、
 でしかない。マルクスは、「再生産表式」で、その資本主義的な「様式」を詳細に分析している。
B「生産手段生産部面」を「第一部面」、「生活手段生産部面」を「第二部面」と呼ぶ。
 第一部面に投下された生産手段と労働時間は、「一切、生活手段・消費財を生産しない」。
 第一部面の生産者たちの生活手段は、第二部面の生産者たちが供給しなければならない。
 この構造は、資本主義も社会主義も、そしてあらゆる社会様式に共通である。
 社会主義社会では、両部面への生産者の配分・総労働時間の配分を、適度に行う必要がある。
 
※一般的には、第一部面への投入が多いほど、生産力・生産性は大きく向上し、富は増加・労働時間は短縮する。
※しかし、計算を間違え、あまりに第一部面に傾斜しすぎると、第二部面・生活手段生産がおろそかになり、
 国民の消費生活は窮乏化していく。特に、「軍需生産部面」は、経済的には「全くの害悪」でしかない。
 第一部面は将来、第二部面に大きく貢献するが、「生産された軍需品の消費」は生産資源や生産力の破壊である。
※それが旧ソ連で行われた。国民経済の資源配分は、㋐軍需が第一優先、㋑第一部面が第2順位、
 ㋒第二部面は最低順位で㋐㋑の調整部面として扱われた。軍需部面だけで2割を超えていた時期もある。
 第二部面への資源配分は、通常、全体の5割に達することはなく、大戦期には3割にも達していない。
 充分な生産力が実現していないのに、彼らは「計算違い」していたのであり、失敗の最大要因の一つである。

※正確ではないが、簡略化すれば、第二部面は「社会的必要労働」を主に含み、第一部面は「社会的剰余労働」
 を主に含んでいると言える。「剰余労働時間」で、いかに「社会的必要労働時間」を短縮するかが、社会主義の
 「価値尺度」になる。
[549] 2020年03月02日 (月) 21時04分
資本論の示唆
追記: もう一つの「巨大な後進国・中国」の「ファーウェイ」問題。

この問題も、「社会主義での固定資本の利用」の典型、という側面を持つ。

@中国は、「進出企業の先進技術を盗む。」、と評判だが、それは「当然」で「そうあるべきこと」。
 人間・国民のことを本当に考えていれば、有効な先進技術を「急速に採用」しない手はない。

A世界2位のGDPとは言っても、「1人当たりGDP]はまだ70位、ブラジル・メキシコ水準にある。
 そうした国が、通信の新世代・5Gで世界のトップを走っていることは、これも「一つの奇跡」である。
 いかに中国社会主義が、「新技術を急速に一般的に採用」したかが窺える。
[547] 2020年02月28日 (金) 21時23分
資本論の示唆
岩波文庫4分冊 250p 固定資本

「労働手段の大部分は、産業の進歩によって絶えず変革され、当初の形態ではなく、変革された形態で補填される。
しかし、@一面では「耐久期間に拘束される大量の固定資本」は、新機械を採用できない一原因をなし、
改良された労働手段の急速な一般的採用にたいする一障害となる。
A他面では、競争戦が決定的に行われた場合、古い生産手段は自然的死滅以前に更新が強制される。
そのような早期設備更新を、大きな社会的規模で強要するのは、主として恐慌という破局である。」

生産力拡大・生産性向上の「一つの主役」である固定資本は、社会主義でこそ、より発展的に活用できる。

@資本主義経済は、一面では、「改良された労働手段の急速な採用の障害」となっている。
 ㋐「特許制度:新薬」「企業秘密」等。これらの制度は、社会的に貢献度が大きい発明・技術を、私的に独占して
  「私腹を肥やす手段」にすることを「法的に許可」している制度でしかない。こんなものは社会主義ではなくなる。
  当然、「急速な一般的採用」が社会的欲望のより大きな充足、労働時間短縮に大きく貢献することが明らか。
 ㋑特に、好況期や再生産が順調な場合で、十分な利潤があげられ釣るときには、資本主義は既存固定資本に
  投下した価値の回収を優先し、改良された新技術は更新期まで先送りする傾向を持つ。
  資本は「自己増殖・利潤」のためにも、「投下資本の回収」に必死になる。利潤と同様に、「費用価格」の実現
  回収に必死になる。
  こうした「姑息な」現象は、「マイクロソフト・アップル・新車」等の、「スケジュール化されたバージョンアップ」
  で「新機能の小出し」等として現れる。1cmずつバーを上げたハイジャンプ選手もいたが。
 ㋒社会主義では、「固定資本」も当然「価値は持たない」から、「価値移転を考える必要もない」。
  過去にどれだけ大きな労働がそこに注がれたかとは関係なく、「改良新機械」がより効率的・高生産力ならば、
  いとも簡単に「急速な一般的採用」がされる。
 ㋓失敗したソ連型社会主義でも、一面では、「巨大な後進国ロシア」が「先進資本主義に約30年でキャッチアップ
  したこと」は、世界的奇跡として多くの識者が評価する。その条件が、ここに示されている「生産手段の社会化」である。

A資本主義では、「改良された労働手段の急速な採用」さえ、「私的独占」を高めるためにしか使われない。
  恐慌期に市場支配力を高めるために、支配的生産方法とするために新技術を投入する、脅威となる競合他社を
  打ち倒すために大規模な新システムを投入する等々。その瞬間以外は、投下資本回収のために、新技術は温存される。

※「岩波文庫2分冊 359p」での、固定資本活用の資本主義的限界、も含め
  「社会主義では没落期の資本主義以上に、生産力は急速に発展せざるをえない。」
[546] 2020年02月28日 (金) 20時54分
資本論の示唆
岩波文庫4分冊 198p

「(いずれも価値を産まない流通費という「空費」だが、)簿記諸費用と売買期間諸費用とには区別がある。
後者は生産過程の特定の社会的形態から生ずるにすぎない。「過程の調整と観念的総括」としての簿記は、
過程が社会的規模で行われ、純個人的性格を失うほど、ますます必要となる。
資本主義生産より、共同体的生産において一層必要となる。
しかし、簿記費用は、生産集積と、簿記の社会的簿記への転化により、減少する。」

「簿記」は、社会主義では、「一層必要」になる。だが、この示唆する内容の理解は、極めて難関。

※簿記以外の「空費」である流通費は、時々の流通の方法で変るから、改善されれば不要となっていく。
※しかし、「簿記」という社会的空費は、生産集積で減少することはあっても、「ますます必要」である。
@まず、当然「資本主義的簿記」と「社会主義的簿記」が同じであることはない。
 ・資本主義的簿記の前提は、あくまで当然「商品経済」での、「使用価値」と「価値」である。
 ・「使用価値」の性状により「勘定科目」に分類されてはいるが、問題にされているのは、「価値計算」だけである。
 ・資本主義的簿記の目的は、あくまで「剰余価値・利潤」の正確な計算、確定にある。
A社会主義的簿記の条件は?「労働の記帳」
 ・前提は、「社会主義は商品経済ではない」から、「生産物(使用価値)の生産と分配」を目的とする記帳である。
 ・特に、「社会的必要生産物総量」を、どれだけの「総労働時間」で生産しているか、「労働の記帳」が問題となる。
 ・そこには、「生産労働の効率性」が一つの大きな目的としてあるのは確かだが、その根源的目的は
 資本主義的な「剰余価値・利潤」ではなく、「総労働時間の短縮」を目的とする効率性、そのための記帳になるだろう。
B生産手段全てが、「資本主義的価格」と似た、「労働時間評価」がなされている必要がある。
 ・生産で使用した「固定資本」「流動資本」「補助材料」全てが、「労働時間評価」されていなければ記帳できない。
 ・その時間には、搾取されていた「剰余労働時間」は含まれていないから、現在から考えれば、かなり「安い」。
 ・仕入れた「過去の労働時間」の合計に、各企業で付加した「生きた労働時間」合計が加算され、総生産物量となる。
C個別生産物の労働時間評価は、「仮説的抽象労働時間」で計算されるだろう。
 ・以前「岩波文庫8分冊82p〜83p」で見たように、抽象的労働時間は「仮説的」にしか接近できない。
 ・生産物A1個が、「仮説抽象時間」10時間とすれば、その生産を行う諸企業の「簿記」の結果、
  企業㋐は5時間、企業㋑は10時間、企業㋒は15時間で生産した場合、総労働時間は30時間。
  生産手段は同じもの、生産物は標準品質なら、㋒の生産過程には何か問題があるのは明らかで、対策が必要。
  ㋐の労働強度に問題がないかの検討が必要だが、問題なければ、㋐の生産工程が㋑㋒に適用されるだろう。
 ・結果、総計30時間は、15時間労働に「短縮できる」。
Dそうは言っても、現実の複雑な国民経済総体の中での「簿記」は、かなり大きな「困難」や「課題」を抱えている。
 ・現実には、「全く同じ生産手段」という条件はない。使用する機械も生産場所や気候等の自然条件も、更に
  生産者たちの質も異なる中で、付加される「生きた労働」を「仮説・抽象時間」に評価することはかなり困難。
  ここは、「大体」でやり調整を続けるしかない。
 ・より優良な、生産性の高い生産手段の利用が最も効果的。ということは、反面、生産労働を行う生産者たちは、
  「高い頻度で職場が変わる」。資本主義的に言えば、「労働市場は非常に流動的」に保持されなければならない。
 ・前提どおり、「時短の推進」が目的なら、「労働市場が流動的であればあるほど、労働時間は急速に短縮する。」
 ・社会主義への移行期の関連では、資本主義経済の「商品・価値評価」から、社会主義経済への「労働評価」
  への転換はどう行うかの問題もある。基本的には、「生産手段の社会的所有」を完了した部門から開始する
  しかないが、国民経済としては資本主義経済と「結合」されて運動していくことになる。
  この点は、現存社会主義の経済運用が大きな示唆を与えてくれるのではないか。
E資本主義と同じではなく、「一層必要になる」。
 ・資本主義は結局、価値・利潤しか気にしない。使用する「生産手段」「資源」「自然環境」、生産する「商品」
  の量や質、膨大な空費である広告・販売労働等には、本質的に「全く無関心」である。社会主義では、
  自然環境・必要な社会的生産量・労働の有効度等を、合理的に判断する条件ができる。
 ・同じ結果を産む別の側面だが、「私的生産」を無政府的に行う資本主義では、「社会的影響」については、
  本質的に「全く無関心」であり、社会的には全く不要な、いわゆる「くだらない仕事」(金融・CM等)が膨大にある。
  そんなくだらない労働は、社会主義では「生産的労働」に使用できる。
 ・それらを、調整、点検する上でも、簿記は一層必要になる。
[545] 2020年02月26日 (水) 20時38分
資本論の示唆
岩波文庫3分冊 415p

@生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外皮とは調和しえなくなる一点に到達する。
外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。
A資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有様式は、したがって資本主義的私有は、
「自己の労働に基づく個別的な私有」の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一種の自然過程の
必然性をもって、それ自身の否定を産み出す。それは否定の否定である。この否定は、私有を再興するのではないが、
しかしたしかに、資本主義時代の成果を基礎とする、すなわち、「協同」と「土地及び労働そのものによって生産された
生産手段の共有」とを基礎とする、「個別的所有」をつくり出す。

有名な一説。「協同労働」と「生産手段の共有」を基礎とした「社会主義経済」は、「個別的所有」を作り出す。

@否定されるのは「資本主義的私有」
 ・「爆破」は、現実的には、「政治的な国家権力の掌握」が条件になる。
 ・「外皮」とは、「資本主義的私有」だけでなく、その支配を可能にしていた商品市場・法・諸組織等々を含むだろう。
 ・現実としては、一夜で様式転換することは不可能なので、ある程度の「過渡期・移行期」が必要になる。
A新たに作り出される「個別的所有」とは、どんな内容なのか。
 ・諸個人は、勝手には、つまり私的には、「自分の労働」や「生産手段」は使えない。
 社会的承認の上で初めて、協同労働を行う。単独生産の場合も、承認されていることが前提となる。
 ・「自己の生産物は他者のため」、「自己の消費生産物は他者の生産物」。自己の生産物を「取り戻す」様式ではない。
 「個別的私有」への回帰という封建的社会主義、ウィリアム・モリスのアーツ&クラフトとは異なる社会的様式となる。
  ただし、それらの自己目的「活動」は、「労働」を終えた後の「自由時間」を使って可能になるのは確か。
 ・生産労働は「アソシエーション(協同体)」として、「自由な社会的個人の結合」で行われるので、
 彼は、奴隷や労働者のように強制されることなく、自己目的をもって自分の労働を提供する。
 ・労働の主たる目的である分配消費では、社会的な共同消費分を含めて、彼は提供した労働の等量分を取り戻す。
 ・結果、生産から消費までの過程をとおして、彼が「個別的所有」するのは、「彼が提供する社会的労働」である。
  そのような様式で、生産者は「疎外された労働」を止揚する。
B完全な「個別的所有」の実現は、「自由の王国:共産主義の高い段階」まで未完成である。
 ・「低い段階」の社会主義社会では、まだ、かなり多量の「社会的必要労働量」が必要である。
 ・各個人は、例えば年間1,000〜1,200時間は、当面労働しなければならない。
 ・この量は、「必要性は理解」できても、自然から要求される苛酷な量であり、十分に「自己目的」になるには遠い。
 ・「自由の王国」への最大の社会的課題は、「労働時間の短縮」になる。
[543] 2020年02月20日 (木) 19時11分
資本論の示唆
少し飛ぶが・・・ 岩波文庫8分冊 82p〜83p

「@社会の資本主義的形態が止揚されて、社会が意識的で計画的な協力体として組織されたと考えれば、生産物は
その生産価格に含まれているのに等しい一定量の独立の労働時間を表すであろう。従って、社会はこの土地生産物を、
それに含まれる「現実の労働時間」以上では買い取らない。・・・・・・・・・・・・・
A現在の生産様式が維持され差額地代は国家に帰属するものと前提する場合、
「土地生産物の価格は同じままである」というのは正しいとしても、
「協力体をもって資本主義的生産に代えても、諸生産物の価値は同じままであろう」、と言うのは間違いである。
B「同種の諸商品について市場価格が同一である」ということは、資本主義的生産様式と一般に
個々人相互間の商品交換に基づく生産の基礎の上で、価値の社会的性格が貫徹される仕方である。」

差額地代の中での記述。81pから読めば、より明確だが、「市場社会主義は成立しないこと」がここにも書かれている。

@生産手段の生産性が異なる企業で、「1人で等量の社会的労働100」で生産し、1個・2個3個の同じ商品を生産する場合:
 資本主義では、合計300労働で6個だから、労働「50の価値・価格」で買い取り、1社は倒産・1社は特別利潤を上げる。
 社会主義では、「現実の労働時間」でしか、「買い取らない」から、「1社の1個は100労働」、「1社の2個を100労働」、
 「1社の3個」を100労働として買い取るということである。つまり、「1個の価格」はバラバラで平均化されない。
A生産手段を国有化したが、資本主義経済を続ける場合、上記の生産物は、相変わらず「1個50の価値・価格」
 のままである、というのは正しいが、「社会主義経済に代えた場合」、諸生産物「価値」はそれを生産した企業ごとに、
 全く異なるものになる、ということである。
Bそのまとめ、「価値・価格」が商品種別で「統一」されるのは、資本主義を含む商品交換社会での「価値」のせいである。

※明らかに、「生産物は統一価値・価格を持たない」。この条件を満たす「市場社会主義」は、不可能としか言いようがない。
 文中表現の、「買い取る」「価値は同じまま」「価格」等の表現は、あくまで、資本主義との相違のための「便宜的表現」である。
※本来は、各社が「共有生産物(商品ではない)を社会に納品する」ために、「それぞれ100労働時間」を支出し、
 「社会が共有する総生産物は6個」だったというだけで生産は終わる。
※「100時間提供」した各社の労働者は、「100時間証明書」を受け取り、共有倉庫で自分の分配分を受け取る。生産物には、
 「1個50時間労働」と書いてあり、各人2個づつ分配されるだろう。商品・価値・価格・貨幣・市場・商品交換は全く不要である。
※特に重要な点は、
 ㋐市場社会主義の「統一価値」は、「生産手段の差」により、同一労働量を提供した生産者分配に「搾取」を産むこと。 
  上記の例では、1個生産者には50、2個生産者には100、3個生産者には150の分配権が付与されることになる。
  1個生産者の労働の半分が、3個生産者の特別剰余価値として「搾取」されている。
  これが、「ユーゴスロバキア」の「社会主義」が戦争まで対立を深めた根本原因である。
 ㋑「生産に消費された労働量」を、「平均・抽象・統一の価値」として「物に持たせる・対象化する」こと自体が、
  「搾取」である、という点。
 ㋒「物は単なる共有生産物」で「何も持たないこと」。「持っている」のは、実際に労働を提供した「生産者側」、
  「労働給付証明書」という、分配権だけである。
 ㋓他方、過去からの大問題として、この「労働量」をどのように「平等に計量するか?」という問題がある。
  実際に計測できるのは「個別具体的労働時間」だけでしかなく、「抽象的社会的労働」はある程度長期の平均でしか
  認識できない、というのがマルクスの結論でもある。
  つまり、「具体的総労働時間」を「社会的経験」で、「仮説的」に評価し分配するしか、方法がないということになる。
 ㋔その場合、資本主義では、「価値が未知」で競争による諸商品価格の価値偏倚をとおして価値に接近したように、
  社会主義では、諸生産での「仮説的労働分配量」という「価格のようなもの」が、「抽象的社会的労働量」という
  「価値のようなもの」を中心に、偏倚・波動を表すことになるのだろう。
 ㋕その観点からは、「提供労働による平等分配」という社会主義原則は、現実には「常時、多少、多かったり
  少なかったり」しながら、「ある程度長期の平均」としてのみ、「抽象的社会的労働量」に接近することになる。
 ㋖商品の「価値評価」の運動が、生産者の「労働評価」の運動となる。「物神性」は消失する。
[542] 2020年02月08日 (土) 21時33分
資本論の示唆
岩波文庫3分冊 217p

「労働者階級の就業部分の過度労働は、彼らの予備軍の隊列を膨張させ、逆に予備軍が競争によって就業労働者に
加える増加圧力は、彼らに過度労働を強い、資本の指揮への屈服を強いる。
もし、(社会主義経済で)労働が合理的な程度に制限され、また労働者階級の種々の層に対して、
さらに年齢と性とに適応して等級分けされるとしたら、国民的生産を今日の規模で続行するには、現存の労働者人口
では絶対に不十分である。いまの「不生産的」労働者の大多数が、「生産的」労働者に転化されねばならないであろう。」

生産手段等の生産条件が同じなら、「同一時間の労働生産性は、絶対に、資本主義には勝てない。」
@資本主義では、「労働力」だけを見た場合、生産性が高い理由は、
 ㋐失業者の中から、より適任である「労働者の特殊な層」を選択できること
 ㋑失業者・就労者との労働者間競争により、「労働強度を不合理な限界」まで高められること
 ㋒そうした「不合理に高度な労働力」を、失業者との競争により、「非常に安価」に買いたたけること
A同量の生産物を生産するための「総労働時間」は、「絶対に社会主義の方が多くかかる」。これは当然、利点である。
 ㋐「労働能力がある者全員で、少ない労働時間を負担しあう」から、「有能な特殊労働層」に限定できない。
  これは他方で、「官僚主義」のような、一部の特殊層が「特権」を握ることを防ぐ、一つの条件でもある。
 ㋑「人間の生活に合理的」な労働を国民が決定できる。失業者はほとんど存在せず、「首をかけた競争」はない。
 ㋒買いたたかれることはないので、生活必需品の生産は、資本主義よりもかなり多くの量・労働時間が必要。
Bそれでも、社会主義になれば、すぐにでも「労働時間は大幅に短縮できる」。
 ・「41p〜@」では、「現状の2000時間」と同じ水準を、「1200時間」で可能だろうと計算した。
  これに、「41p〜A42p」のとおり、現在の2割が不要な労働ならば、実際は「1000時間」で可能になる。
 ・だがそれは今の「きつい労働条件」前提だから、「4割緩和」すれば、「1400時間」で可能だろう。
 ・さらに、生産参加してない「生産能力ある者」が労働を負担すると、2割程度負担は減り、「1200時間」で十分だろう。
 ・結果、「ストレスが3〜4割」軽減した労働を、年間「1200時間」みんなでやれば、今より高い水準の生活ができる。

C重要なのは、社会主義の条件には、さらに急速に労働時間が短縮していく条件が内蔵されている。
 ㋐誰でも労働負担は軽いほうが良い。「能力ある全員の労働負担」という条件が、強烈な「時短要求」となって現れる。
 ㋑「岩波文庫2分冊 359p」で示されている、資本主義では利用されない、山積みの生産手段開発。
 ㋒「特許権は廃止される」。労働時間を大きく短縮できる技術・機械を長期に渡って独占できる制度は、
  「私的所有」の顕著で特異な制度である。社会的効果が大きいものほど、即公開され、急速に普及する。
[540] 2020年02月06日 (木) 21時07分
資本論の示唆
岩波文庫3分冊 143p

「剰余価値を収入と資本に分割するのは、資本家の意志である。資本家は「人格化された資本」
である限りにおいてのみ、一つの「歴史的価値・歴史的存在権」を有する。
ただその限りでのみ、彼自身の「経過的必然性」が、資本主義的生産様式の「経過的必然性」のうちに潜むのである。
しかしまたその限りでは、使用価値と享楽ではなく、交換価値とその増加とが、彼の推進的動機である。
人類に生産を強制し、社会的生産力の発展を強制することで、
「『各個人』の完全にして自由な発展」を根本原理とする、より高度な社会形態の「『唯一の』現実的基礎」をなしうる
物質的生産諸条件の創出を強制する。」

@歴史上一時期に現れる、いわゆる「資本の文明化作用」と呼ばれる、資本主義の一側面。
A「社会主義かどうか」の根本は、その「体制・形態」ではなく、「個人の完全な自由な発達」を目指すことにある。
Bその社会の実現を可能にする、「唯一」の現実的基礎は、高度に発展した物質的生産諸条件である。

@資本主義・資本家に「歴史的意味」があるのは、「一時期・経過的必然性」だけである。
 ・剰余価値を可能な限り、「物質的生産諸条件の発展・現実の生産力の発展」に、費やす時期だけである。
 ・その期間だけ、「個人の能力の発展」「生産諸力の発展」に貢献するという、「文明化」の側面を持っていた。
 ・しかしその時期が過ぎると、資本家は膨大な剰余価値を自己の消費や資産に費やす、
  資本も膨大な剰余価値を「現実の生産力・産業資本」発展に投下せず、金融投機に向かうようになる。
 ・その段階が、資本主義の衰退・没落期であり、「歴史的価値・使命」の終焉である。(146p〜)
 ・これは、「格差社会」「膨大な過剰貨幣資本の金融投機経済」として、現在の先進資本主義に実現している。
A「諸個人」としての全国民が、完全ではないが、「人間らしく生活できている」と感じられることが、必要条件。
 ・歴史上明らかだが、社会主義を目指している国家には、「成功も失敗もある」。当然、ソ連社会は失敗した。
B先進資本主義革命、「高度に発展した物質的生産諸条件」でしか、社会主義は実現しない。
 ・社会主義の実現に「成功」する、国家意思とかではない「現実」の、そして「唯一の必要条件」は。、
  資本主義の十分な発達の中で実現する、「高度に発展した物質的生産諸条件」である。
  日本にはそれがあるから次は社会主義だろう、中国は今「資本主義での高度生産力」の創出を実験中である。
 ・マルクス、レーニン、トロツキー、そしてたぶん今の中国。皆知っていたのは、後進国では、政治革命は可能でも、
  先進資本主義国の支援(その成果)がなければ、社会主義には到達できないという結論である。

※ここでも、後に「信用の発展」で明瞭になるが、資本主義の衰退・没落期の「二重経済」が描かれる。
 「現実の経済:産業資本の富・使用価値生産」と、「幻想の経済:膨大な価値・貨幣資本による金融経済」
 という「二重構造」。前者が「人類」が基盤とできる「現実の経済」であり、後者は、資本主義だけで
 「存在しているように見える」だけ」の、少なくとも人間にとって何の価値もない「シャボン玉」でしかない。
[539] 2020年02月05日 (水) 21時07分
資本論の示唆
岩波文庫3分冊 41p〜B42p

「労働の強度と生産力が与えられたものであるならば、全ての労働能力ある社会成員のあいだに、
労働が均等に分配されていればいるほど、労働の自然必然性を一社会層が自己自身から他の層へ
転化しうることが少なければ少ないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分は短くなり、
したがって、個人の自由な精神的及び社会的活動のために獲得される時間部分は大きくなる。
労働日の短縮に対する絶対的限界は、この方面から見れば、「労働の普遍性」である。
資本主義社会においては、一階級にとっての自由な時間は、大衆の全生活時間を労働時間に転化
させることによって産み出されるのである。」

「労働」と「活動」は違う、社会主義段階においても、「労働・労働時間」は「自然に強制された活動」である。
@「労働の自然必然性」・・・ある時代の社会が、自然から富を生産する場合に、最低限提供しなければならない
 労働時間、つまり「社会的な最低必要労働時間」を指す。社会主義になっても、この部分は当然残る。
A資本主義までの階級社会の歴史では、この他に、「労働の社会必然性」として搾取が行われ、
 「支配階級にとっての自由時間」が、「労働者の全生活時間を労働時間に転化すること」で生み出されていた。
B対象となる生産部面は、「物質的生産を中心とする関連部門」」に限定した「必要労働時間」である。
B社会主義では、「労働能力がある国民」は、「社会的必要労働」を「社会的平等・国民が決める量」で
 可能な限り広汎に負担すべきである。「全員が同じ必要労働時間を負担する」という「労働の普遍性」が、
 各個人の労働時間が最も短縮する、限界となっている。
Cだから、「必要労働」とは言えない「活動」は、「必要労働を負担しながら」行うことになるだろう。
 「天皇はコンビニでレジ打ちしてから、天皇をする」「首相も魚をさばいた後、政治をする」「スポーツ選手も
 労働を負担する」・・・現実には、「国民が決める基準」で割り振られるから、他の社会層がこれらの人々の
 労働時間を負担することが合意されるなら、彼らは「労働から解放される」こともできるだろう。
D個人分配は、この「労働時間」の提供量を主な基準として行われることになる。
E他方、解放された「自由時間」で、天皇・首相・諸サービス・スポーツ・芸術・研究等が行われることになるが、
 これらは「収入目的ではない自由活動」となる。これに対しては、その成果により「社会的報酬」が支払われる
 だろうが、「時間」で評価されるものではないだろうし、かなりの低額になるだろう。
F原則として、「労働能力がある者」は「労働能力がある期間」は「社会的必要労働を負担する」こと、が重要。
 一発当てたから・特殊専門職だから一生労働しない、という志向は、「他人労働で自由時間を得よう」とする
 階級分化の前兆でもある。

※唯物史観の根幹・「下部構造に規定される社会」、という命題は、「労働の自然必然性」を軽減・克服して、
 「自由活動時間」による「人間解放」を実現していく、「人類の自然能力」を意味している。
[538] 2020年02月04日 (火) 07時09分
資本論の示唆
岩波文庫3分冊 41p〜A42p

「労働の生産力が増大すればするほど、労働日は短縮されることができ、
また労働日が短縮されればされるほど、労働の強度は増大することができる。
社会的に考察すれば、労働の生産性は労働の節約にともなっても増大する。労働の節約は、
生産手段の節約を含むのみではなく、あらゆる無用な労働の回避をも含む。
資本主義的生産様式は、各個の事業においては節約を強要するが、その無政府的な競争制度は、
社会的な生産手段と労働力の全く無制限な浪費を産み、また現在では不可欠であるが、自体としては
余計な無数の機能を産むのである。」

「社会主義の優位性」がここにも。
@生産力増大で必要老の生産時間は短縮し、「労働時間は短縮する」。
A「短い労働時間」は、集中力を高める・疲労を蓄積させない等、自然と「労働強度の増大」となって現れる。
B短時間生産は、生産手段と無駄な労働(待機時間等)を節約し、生産性を向上させる。
C資本主義は、各事業所での節約を強要するが、社会的生産力を「とてつもない浪費」に使用する。
 半分以上は不要であろう「コンビニ乱立」、自動車価格を高騰させるだけの「ディーラー制度」、
 捨てる前提の「アパレル生産」、ほとんど機能してないように見える政府系「膨大な事務官僚体制」
 官僚退職者や資産家親族のための「共済機構・財団法人・社会福祉法人」等々。
 インフラを人質にした電力・通信の高給、半分程度は意味をなさない「TV番組」と、浪費の塊である「広告業界」、
 特に、深夜の「詐欺的通販CM]はすでに「犯罪」レベルの代物である。
※こうした資本主義の浪費は、就労の2割では足らない範囲だろう。
※これらも、社会的価値の一つを「労働時間の短縮」にするという、「価値尺度の転換」により消失していく。
[537] 2020年02月03日 (月) 23時35分
資本論の示唆
岩波文庫3分冊 41p〜@

「一般に、労働日(1日の労働時間)の絶対的最小限度(最低必要労働時間)は、「必要であるが収縮しうる生活手段」
の構成部分で形成される。
全労働日がそこまで収縮すれば剰余労働が消滅するから、それは資本の支配下では不可能である。
資本主義の廃止は、労働日を必要労働だけに制限することを許す。しかし、必要労働は、その範囲を
拡大するだろう。一面では、労働者の生活諸条件が豊かになり、その生活諸要求が大きくなるからである。
他面では、現在の剰余労働の一部分が必要労働に、すなわち社会的準備・蓄積原本の獲得に、
数えられるであろうからである。」

社会主義の具体的目的は、@「物質的生活諸条件の豊富化」、と、A「労働時間の短縮・自由時間の増大」、にある。
 ・現在の労働分配率は「6割」を切っており、税や社会保障で所得の3割を国に治めている。2000時間働いて、
  現実の「個人消費=必要労働時間」は、「4割・800時間」の計算である。
 ・社会主義では、最低限度なら、「年間800時間労働」「だけに制限すること」も選択可能になる。
 ・だが、生活諸条件を決めるのは国民になるから、国民は、資本主義で「最低」に圧縮された生活条件を
  まずは3割くらい拡張するだろう。さらに社会保障や新規の生産手段生産のための労働時間が追加される。
 ★総計では、「大体、年間1,200時間」程度の労働で、現在以上の生活が「保障される」。
 ★他方、「800時間」でこれまでやってきた「浪費」、そこからの「無意味なお金の生産」は、一切なくなることになる。
 ★「具体的な二つの目的」が向かっている、本質的な内容は、「やっと本来の『人間』として生活する」ことにある。
  資本主義からの移行の観点から見れば、社会主義は「労働者の国」ではない。
  それとは真逆の、「労働者をやめて」、やっと「人間になる」社会ということである。
 ※それにしても、マルクスは資本論のそこら中で、しつこいくらい「労働時間の短縮」を叫んでいる。
[536] 2020年02月01日 (土) 06時13分
資本論の示唆
岩波文庫2分冊 359p

「ⓐ生産物の低廉化の手段としては、「機械の生産に要する労働(時間)」が、この機械の使用で
「節約される労働(時間)」より少ないことが、機械装置使用に対する限界となる。
ⓑしかし資本にとっては、この限界は更に狭い。資本が支払うのは「充用労働(時間)」ではなく
「充用労働力」の価値」だから、資本にとっての機械使用は、「機械価値」と、それにより変えられる「労働力価値」
との差、によって限界づけられる。」

限界を迎えた資本主義に対しての、「社会主義の優位性」の、大きな一例が示されている。
ⓐ労働時間で見た場合、
 @以前、「移転生産手段価値100時間+必要労働価値100時間+剰余価値100時間」・剰余価値率100%、
  で生産していた。商品価格は「300時間」価値ということ。
 A新らしい機械は高いから、50時間の価値(「機械の生産労働」)を追加移転し、生産性を上げた結果、
  「移転生産手段価値150時間+必要労働時間60時間+剰余価値60時間+特別剰余価値30時間」
  、合計で商品価格は「300時間」価値で以前と一緒。
 B以前「300時間」かかった生産は、50時間の機械導入で「270時間」と、1割労働時間が軽減した。
  ★社会主義では、画期的な新生産手段として速やかに普及するだろう。

ⓑ資本主義の後進性
  「1時間=1万円」で計算すると、
  @以前は、「移転生産手段価値100万+賃金支払100万+利潤100万」総投下資本200万・利潤率50%、
  A新機械では、「移転価値150万+賃金支払60万+総利潤90万」総投下資本210万・利潤率43%
  B資本主義ではこの開発機械は、「利潤を食う、ろくでもない不良品」で、完全に廃棄される。
  C新機械の移転価値50万で、「労働者賃金50万以上」減らせない新技術は、「使われない」のだ。
  ★単純計算では、300時間の旧生産を250時間以下、116%以上軽減しないと「使われない」。
  ★発展とともに、「必要労働・労賃」比率が極めて低下している中、「使われない技術が山積」している。

※没落した資本主義からの社会主義移行により、、資本が捨てた「遺産」だけでも、大きな生産力増進が見込める。
※さらに、労働者への影響も、全く異なる。
・社会主義では、ⓐの「時短」は、労働者全員の「1割時短」として「自由時間」が増加するだろう。
・資本主義では、この「時短」は、不要となった労働者の「首切り・死刑」にしか使われない。
[535] 2020年01月31日 (金) 20時13分
資本論の示唆
岩波文庫2分冊 70p

「必要労働時間を超える労働過程の第二期間、は、労働者に何らの価値も産まない。無からの創造という
全魅力をもって、資本家の剰余価値を形成する。労働日のこの部分を、剰余労働時間・剰余労働と名付ける。
 剰余価値の認識にとって、それを単に剰余労働時間の凝結、単に対象化された剰余労働と理解することが
決定的である。この剰余労働が、直接的生産者の労働者から搾り取られる形態こそ、
他の経済的社会形式を賃金労働社会から区別するのである。」

「剰余価値」は「資本主義だけの概念」であること、「社会主義経済には存在しない」こと、を明示。
@歴史的な全経済社会形式に、「剰余労働・剰余労働時間」は存在する。
Aしかし、それが「剰余価値」になるのは、「直接的生産者の労働者から搾り取られる形態」の社会だけである。
 つまり、資本主義経済・「賃労働と資本による搾取様式」があ、特殊な歴史段階だけである。
B社会主義経済について、いわゆる「市場社会主義者」たちは、この部分だけでも、一体どう処理するのだろう?
 ㋐マルクスを理解してない「自称・マルクス主義者」か、㋑非マルクス主義者ではない、かのどちらかだが、
 どちらにしても、「マルクス主義者ではない」ことは共通する。
 例えば「これからの社会主義」(ローマ―)は、㋐の典型である。彼は、全生産手段の所有権を「クーポン」に分割
 して国民に配布しようというが、それを可能にするには、クーポン配布以前に「全生産手段を国有化」しないと
 不可能なことさえ気づいていないようだ。というより、「階級闘争」を否定しているから、民主的に簡単に社会革命
 ができると考えている。クーポンでも、「剰余価値」が搾取され、それを他者が所有する「経済的社会的形式」は
 全く変わらないことなど「全くの意識外」に消え去っている。「労働価値説」すら捨て去っているのである。
Cただし、「市場社会主義」は、社会主義への「移行期・過渡期経済」として大きな示唆に富む。
 問題なのは、「移行期・過渡期」で、まだ経済体制が「資本主義」なのに、「社会主義」を名乗ることである。
 この点で、最も注目しなければならないのは、移行期の軽重を理解しながら実験を行っている、中国の実験
 かもしれない。中国は、当然まだ「社会主義経済」ではないが、それを目指す国家であることは明らかである。
[534] 2020年01月28日 (火) 21時48分
資本論の示唆
誤字だらけなので再掲:岩波文庫1分冊 168p

「(注50)なぜ貨幣が直接に労働時間そのものを代表しないか、オーウェンの「労働貨幣」が浅薄な空想であること、
それは『経済学批判』で述べた。さらに追記すれば、「労働貨幣」は「劇場切符(前売券)」のようなもので
、「貨幣」ではない。彼は、「商品生産」と全く正反対の、「直接に社会的な労働」を前提にしている。
こうした労働証券は、共同生産物の消費分に対する個人的要求分を確証しているだけである。」

社会主義(「直接に社会的な労働」)での、いわば「社会主義貨幣」の本質を書いている。
@「社会主義貨幣」は、「直接に社会的な労働」(社会主義的生産)を前提にしか、存在しない。
 生産前から、分配以前に、「社会的に必要な労働」として承認・合意された生産労働にだけ、使われる。
A「社会主義貨幣」は「価値がない・価値を持たない」、権利書。
 資本主義的に言えば、「すでに支払いは済んでいる」貨幣、「受取の権利書」「債権書」である。
 だから価値支払を終え、使用価値の権利を示す「劇場切符」のようなもので、それ自体は価値を持たない。
Bつまり、資本主義的な「貨幣」・「信用」ではない。
 ・「権利」でしかない。資本主義ではそれも「価値評価」されて売買されるが、恐慌時には価格暴落で
 「価値などなかったこと」が証明される。(株券・有価証券等の「空資本」)
 ・また、「価値・貨幣」を貸し「利子」を得る、手形や貸付等の「信用」でもない。支払われているのは
 「直接的労働」だけであり、分配に「利子」はつかない。
 だから細かい話だが、「価値」を支払って手にいれた「劇場切符」でもない。「のようなもの」でしかない。
B機能する範囲は、総生産物の一部、「個人消費財の一部」だけである。
 この点は、『ゴータ綱領批判』に書かれている。生産手段・共同消費財等には「使えない」。
C「総労働時間」=「総支払証券額」=「総分配個人消費財量」、で計算された「生産物価格」で分配。
 ・この等式は、全期間とは言えないが、実際にソ連計画経済で分配の大原則として使っていた「等式」である。
 ・目的は、支払った「総証券額」で、社会的欲望に対応した「総個人消費財」の分配ができる価格を付けること。
 ・当然その計画どおりにはいかないから、「修正機能」は必要(スーパーの値引きと同じだろう)。
 ・重要なのは、この「社会主義価格」は、生産物ごとの「価値」とは、全く関連がないことである。
  重要な生活財は、投下労働量が大きいとしても無償や極度に低い価格が付けられる。(JRは赤字が当然等)
  生産量が少なく社会的に必要性が薄いと判断されるものには、かなり高い価格がつくだろう。
 ・存在するのは、「労働時間計算」だけであり、それは「物が持っている『価値』とは関係ない。
  ただ、「抽象的労働での評価」という、価値にも適用されていた「規定性」だけが共通、というだけである。
  つまり、「社会主義の総抽象的労働時間」は、「資本主義の総価値が示す総抽象的労働時間」と同量、というだけのこと。
D以上、オーウェンの「労働貨幣」的空想は誤りとはいえ、「社会主義の分配手段」として機能する。
[533] 2020年01月28日 (火) 19時58分
資本論の示唆
岩波文庫1分冊 168p

「(注50)なぜ貨幣が直接に労働時間そのものを代表しないか、オーウェンの「労働貨幣」が浅薄な空想であること、
それは『経済学批判』で述べた。さらに追記すれば、「労働貨幣」は「劇場切符(前売券)」のようなもので
、「貨幣」ではない。彼は、「商品生産」と全く正反対の、「直接に社会的な労働」を前提にしている。
こうした労働証券は、共同生産物の消費分に対する個人的要求分を確証しているだけである。」

社会主義(「直接に社会的な労働」)での、いわば「社会主義貨幣」の本質を書いている。
@「社会主義貨幣」は、「直接に社会的な労働」(社会主義的生産)を前提にしか、存在しない。
 生産前から、分配以前に、「社会的に必要な労働」として承認・合意された生産労働にだけ、使われる。
A「社会主義貨幣」は「価値がない・価値を持たない」、権利書。
 生産前から、分配以前に、「社会的に必要な労働」として承認・合意された生産労働にだけ使われる。
 資本主義的に言えば、「すでに支払いは済んでいる」貨幣、「受取の権利書」「債権書」である。
 だから「劇場切符」のようなもので、それ自体が価値を持っているものではない。
Bつまり、資本主義的な「貨幣」・「信用」ではない。
 ・「権利」でしかない。資本主義ではそれも「価値評価」されて売買されるが、恐慌時には価格暴落で
 「価値などなかったこと」が証明される。(株券・有価証券等の「空資本」)
 ・また、「価値・貨幣」を貸す手形し、「利子」を得る、手形や貸付等の「信用」でもない。支払われているのは
 「直接的労働」だけであり、分配に「利子」はつかない。だから細かい話としては、「劇場切符」でもない。
B機能する範囲は、総生産物の一部、「個人消費財の一部」だけである。
 この点は、『ゴータ綱領批判』に書かれている。生産手段・共同消費財等には「使えない」。
C「総労働時間」=「総支払証券額」=「総分配個人消費財量」、で計算された「生産物価格」で分配。
 ・この等式は、全期間とは言えないが、実際にソ連計画経済で分配の大原則として使っていた「等式」である。
 ・重要なのは、この「社会主義価格」は、生産物ごとの「価値」とは、全く関連がないことである。
  重要な生活財は、等価労働量が大きいとしても無償や極度に低い価格が付けられる。
  生産量が少なく社会的に必要性が薄いと判断されるものには、かなり高い価格がつくだろう。
 ・存在するのは、「労働時間計算」だけであり、それは「物が持っている『価値』とは関係ない。
  ただ、「抽象的労働での評価」という、価値にも提要されていた「規定性」だけが共通だ、というだけである。
D以上、オーウェンの「労働貨幣」的空想は誤りとはいえ、「社会主義の分配手段」として機能する。
[532] 2020年01月26日 (日) 19時47分
資本論の示唆
岩波文庫1分冊 141p

「自由な人間の協力体(社会主義社会)を考えてみる。共同の生産手段で労働し、個人的労働力を意識して
一つの社会的労働力として支出する。この協力体の「総」生産物は一つの社会的生産物である。
その一部は生産手段として使われて依然社会的だが、他の部分は生活手段として成員に分配され費消される。
分配様式は変化するが、資本主義との比較のために、分配は労働時間によって規定されると仮定すると、
労働時間は二重の役割を演じる。一方では、各種の欲望に正しく比例するように労働時間の社会的・計画的分配
を規制する。他方では、共同生産物のうちの個人的消費部分を、共同労働に対する諸個人の参加労働時間の
比率で測る尺度として役立つ。個人的参加分の尺度。ここでも労働と生産物の関係は、簡単明瞭である。」

社会主義での、生産と分配のマクロ的原則が描かれている。
※「社会主義での生産」について
@「自由な人間」の「協力体」であることが、「大前提」:「賃金をもらうため」の「雇用契約」ではない、また、
 社会が必要とする社会的労働に諸個人を「配置」するのではない。
 「アソシエーション論」が言う、「諸個人の合理的自由意志による結合」が基本組織形態である。
 だが、「アソシエーション論」の問題は、以下の諸点の問題を全く解けないことである。

A「生産過程」は、共有の生産手段の一部を「個別協力体(企業)」が、社会の承認を得て「占有」して行われる。
 生産手段は「社会所有」であり、「個別協力体」の所有ではなく、「占有」するだけ。なぜなら、

B生産手段が社会的共有だから、成果である「総」生産物も社会的共有。「個別協力体」の所有にはならない。
 つまり、各企業は「生産過程・生産活動」だけを「占有」して行うが、生産物は全て「社会に納品する」。
 「販売・市場で売る」ことなどない。「総」生産物が共有だと明確に書いている。さらに、

C提供労働時間に対する分配は、参加した「個別協力体」から受け取るのではない。
 「総労働時間に対する比率」として、たぶん社会的統一組織から証明書が支給される。
 資本主義的に言えば、「貨幣」は存在しない。諸企業自体は、対価もなく納品し、賃金さえ支払わない。

Dその条件の下で、「各種社会的欲望に比例した労働力の計画的分配」を行わなければならない。
 「個人の自由就労意志」と「社会的必要時間」とを調整する、大きな社会的機関が必要になる。

E「労働と生産物との関係は簡単明瞭」とは、「商品・価値・貨幣」がもはやないこと、を示している。
 ここで提示した文章はすべて、「物神性」の節の中にある。「商品の物神性」と「貨幣の物神性」という、
 倒錯した「不明瞭な」支配状態が、消滅してしまう経済様式を述べている箇所である。(136〜138p)
[530] 2020年01月25日 (土) 19時27分
資本論の示唆
岩波文庫1分冊 86p

「生産力は、つねに有用な具体的労働の生産力である。・・・有用労働(使用価値)は生産力の増加・減少に比例して増減するが、
抽象労働は同一期間に、生産力の変化に関係なく、つねに同一の価値を生む。」

第1章のこの記述は、資本論の結論ともいえる、「資本主義の限界」と「社会主義経済」を、すでに示唆している。

@生産力は「使用価値・効用」、つまり「人間的欲望」にしか関係していない。
 価値・資本は、本質的に「使用価値には興味がない」。価値の「運び屋」にすぎない。だから、本質的に「生産力にも興味がない」。
 人間だけが、使用価値に興味がある。生産力は、人間的欲望そのものだから、「発展せざるをえない」。

A一定時間での、生産量・使用価値量は増加し続け、しかし価値は永遠に同じ量。そんなことが何十年も続くと、
・「必要な消費量の生産」を達成した商品は、増産されなくなる。
 さらに生産力が上がれば、この商品の生産時間はどんどん短縮されていく。
 最終的には、「生産してない」レベルまで進む。
・つまり、ほとんど「労働しなくても」、必要な生産物が消費できる処に行かざるをえない。
 それは「人間の本質」で、だから「生産力は発展し続ける」。

B「価値の増殖」にしか興味がない「無知な資本」は、限界を迎え「本当は使用価値・人間」に支配されていることを知る。
・「価値」とは「労働時間」にすぎないから、生産時間が短縮されるにつれ価値量は減少し、そのうちほとんど増殖できなくなる。
・自分が「手段」とし「支配」していたはずの、「使用価値・人間の消費」の枠内という制限の中でしか、発展できないことを知る。
・使用価値という「釈迦の手のひら」で暴れる「孫悟空」でしかない。
・でも資本は、もはや「ほとんど不要となる労働時間」を、最後までむさぼるしかないという、「卑しい本性」に縛られている。

C人間には喜ばしいこのこと。だが、資本は人間を道連れにして死のうとする。
・生産力発展は二重に作用する。一方で、人間の消費財はより十分になり、他方でそれに合わせて生産労働時間が減り自由時間が増える。
 「より拡大する消費生産物の無償」と「労働時間の短縮」が社会主義経済の根幹になる。
・しかし資本は、死滅しながら、「減った労働時間」分しか賃金を支払わないというやり方で、人間を道ずれにする。
 先進資本主義、特に日本の「人口減少問題」は、偶然や選択の問題ではない。
[529] 2020年01月25日 (土) 05時22分
「これからの社会主義」のための資本論の示唆
岩波文庫1分冊 50p 英語版序文

「1825年から67年の間繰返された停滞・繁栄・過剰生産・恐慌という10年の循環は、たしかにそのコースを走り終えたように思われる。
その結果は、ついにわれわれを、継続的で慢性的な不況という絶望の泥沼にもっていってしまったのだ。
好景気という待ちこがれた時期は来ないだろう。われわれはあんなにもしばしば好景気を予告する徴候を見たと信じた。
しかし、あのようにしばしばそれはむなしく消え去った。
・・・少なくともヨーロッパにおいては、イギリスが全く、平和的な合法的な手段をもって、不可避的な社会革命を遂行しうる
唯一の国であるということである。もちろん彼マルクスは、次のようにつけ加えるのを決して忘れなかった、自分は
イギリスの支配階級が「奴隷制擁護の反逆」もしないで、この平和的合法的革命を甘受するであろうとは期待しない、と。」

このエンゲルスの短文にも、少なくとも、「三つ」、根本的な示唆がある。

@資本主義の「景気循環」は、「いつまでも続くわけではない」こと。
 「継続的で慢性的な不況という絶望の泥沼」という段階、
 過去の歴史では、人類は2回の世界戦争で「泥沼」を「焼野原」に変え再出発した。
 「3回目」は30年前からの「今」、目の前でもがき苦しんでいる。
 「好景気という待ちこがれた時期は来ない」段階、戦争の焼け野原か「社会主義への移行」しかない、段階に至っている。

A平和革命が可能であること。
 「合法的な手段をもって、不可避的な社会革命を遂行しうる」。
 この半世紀、約2世代の間に、「平和革命は反革命?」という、馬鹿げた命題が消え失せたことは、喜ばしい。

B資本側は、死に物狂いで「新たな社会」を破壊する。
 合法的サポタージュでは済まない・マスコミ総動員のデマ宣伝・経済活動のロックアウト
 故意的な株価や市場価格の激震操作・大量資産の海外逃避
 反革命の買収によるテロ・犯罪・扇動
 それを耐え抜く「国民の意志」が試される。


[528] 2020年01月25日 (土) 03時49分
甲斐正
道央地方協学習会
「山川均論文集『政治的統一戦線へ!』」
   「方向転換」と福本イズム批判

◆「うめ草すて石 思い出の人びと」 荒畑寒村、向坂逸郎著
      1982年(昭57)2月25日第一刷発行 至誠堂刊 より
◎「共産党の起伏」
・第一次共産党は大正11年(1922年)に組織された。
・正式に解党が決定されたのは大正13年(1924年)であったが、大正12年(1923年)の暮れにはすでに事実上、死滅していたのである。
・大正11年(1922年)1月、山川は、堺、荒畑、西雅雄、田所輝明、上田茂樹らと共に、月刊『前衛』を発行し、その誌上で「無産階級の方向転換論」を発表。
・その要旨は、社会主義者がいたずらに観念論にとらわれることなく、すすんで大衆運動に参加し、大衆の日常利害のために活動し、もって大衆の間に影響力を強めなければならぬということにあった。

・『前衛』は、共産党の理論雑誌というような形になりましたが、はじめは山川君が個人で創刊したもので、別に党が出したものではありません。
・方向転換論ののった時分は、まだ山川君の個人経営であった。
・方向転換論は、共産党がコミンテルンの方針にもとづいて山川君に書かせたという説が伝わっているが、これはまったく憶測であり、山川君個人の見解である。

◆日本大百科全書の解説
@日本共産党結成前後の実質上の機関紙的月刊雑誌。
・1922年(大正11)1月創刊。
・山川均(ひとし)を中心とする田所輝明(たどころてるあき)、上田茂樹(うえだしげき)ら「水曜会」のグループが編集・発行した。
・当時のアナキスト大杉栄(さかえ)らとの論争、すなわち「アナ・ボル論争」では、ボルシェビキ(マルクス主義)の立場の最有力誌であった。
・第2巻第1号(1922年8月)に掲載された山川均の「無産階級運動の方向転換」は、これまでの少数の自覚的部分の運動から、大衆との結合による運動の大衆化を訴えた。
・翌1923年4月から、山川の手を離れ、『社会主義研究』『無産階級』と合併、『赤旗(せっき)』として再出発した。

A第二次世界大戦後の日本共産党の理論政治誌。
・1946年(昭和21)2月に創刊、同年11月より月刊になり、今日に至る。
[460] 2019年05月13日 (月) 10時22分
甲斐正
道央地方協学習会
「山川均論文集『政治的統一戦線へ!』」
   「方向転換」と福本イズム批判
以下の本から資料として抜き書きしました。

山川均自伝  (編者 山川菊栄 向坂逸郎  岩波書店 S36.11.20発行)
※方向転換論とその背景
・『前衛』大正11年7・8月合併号 「無産階級運動の方向転換」
・それまでの「無産階級運動における二つの方面―――社会主義運動と労働組合運動、社会党(無産階級の政治団体)の運動と労働組合(無産階級の産業的団体)の運動についての反省から始まる。
・これまでの社会運動についていえば「思想的に徹底し」純化した少数者の運動であり、「資本制度の下におこる一切の制度を、ただ片っ端から口先や筆先で否定する」だけで、実際においては「資本制度そのものには小指一本もふれて」いない運動であった。
・20年の歴史の間に思想的に徹底純化するという社会主義運動の一歩はふみしめたが、第二歩をふみだすことを忘れていた。組合運動についても「組合運動の最後の目標を明確に見きわめる」という第一歩をふみしめただけで第二歩をふみ出すことを忘れている。
・ここでいう「第二歩」とは無産階級運動の目的に向かって大衆を動かすことである。「前衛たる少数者が、徹底した純化した思想をたずさえて遙かの後方に残されている大衆の中に再び引きかえしてくること」である。
・従ってかかげるべき新しい標語は「大衆の中へ!」でなければならぬ。
・その実現のためには、もし無産階級の大衆が資本主義の撤廃を要求していないで、目前の生活改善を要求しているならば、無産階級の解放が究極的には、資本制度の撤廃による以外にないことは当然としても、「無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的な勝利を目的とする運動」を一層重視して当面の運動を行わなければならぬ。
・この意味で、新しい標語の実現は運動の方向転換である。

・しかし、「大衆の中へ!」の標語は、革命主義から改良主義への堕落ではない。
・「大衆の行動を離れては、革命的な行動はなく、大衆の現実の要求を離れては大衆の行動はない」のであって、革命主義と改良主義の岐れ道は、「日常当面の運動の上で大衆の実際の要求に譲歩するか譲歩せぬかにあるのではなく、斯かる実際の運動と実際の闘争の間に、大衆の要求を高めて、最後の目標に進ませることに努力するか否かにある」からである。

・ブルジョア政府に対しても、ブルジョア政府であるから「その政治に何物も期待せぬ」「彼等の政治をそっくり否認すれば、沢山である」などという、結果的には「ブルジョアの政治を肯定し支持する」のと変わらない態度を改め、積極的に闘争する態度をとるべきである。
・「資本主義の支配と権力との発露するあらゆる戦線において、無産階級の大衆の現実の生活に影響する一切の問題に対して」消極的、懐疑的、虚無主義的態度をすてて、積極的、戦闘的、実際的に闘争し、大衆の利益を闘いとる態度にならねばならない。
・これが、日本の無産階級が「全線にわたって行わねばならない方向転換」なのである。
                     <向坂逸郎 記>

※福本イズム
<編者まえがき>
・「福本イズム」について説明しておきたい。大正14年10月、雑誌『マルクス主義』に「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか、我々はいまそれのいかなる諸過程を過程しつつあるか」と題する論文が掲載された。
・筆者は福本和夫であった。福本によれば、方向転換とは経済闘争から政治闘争への発展過程であり、この方向転換を達成するためには、その組織方針として「分離・結合」せねばならない。
・「一旦自らを強く結晶するために『結合する前に、きれいに分離しなければならない。』『単なる意見の相違――同一傾向内の』とみえたところのものを『組織の問題』にまで、従って単に『精神的に闘争する』に止まりしものを『政治的、戦術的闘争』にまで開展しなければならない。(『マルクス主義』8号)
・そしてこの無産者結合に関する「マルクス的原理」を闘いとるために、当面は理論闘争の範囲に制限しなければならないが、結局は「理論的克服は、実践的克服とならなければならない。かくて、理論的闘争は、政治的・組織的闘争とならずにはいない」というものである。

・大正15年12月山形県五色温泉で、共産党の再建大会が開かれたが、党はここで福本の方針に従うことを確認し、以後、政治運動面では分裂後の労農党をその他の無産政党と対立闘争させ、組合運動面では労働組合評議会をしてその他の労働団体と対立抗争させたのである。
・それは、無産階級戦線を極端な分裂のなかになげこむ分裂主義となって、昭和2年コミンテルンによって批判された。

・福本和夫の著書としては、『社会の構成=並びに変革の過程』(大正15年白揚社)、
『唯物史観と中間派史観』(大正15年希望閣)、『理論闘争』(大正15年白揚社)、『経済学批判の方法論』(昭和2年白揚社)、『方向転換』(昭和2年白揚社)があげられる。
                      <向坂逸郎 記>


「寒村自伝」(下巻)  荒畑寒村著 (岩波書店)
  8.『労農』十年のたたかい
           福本イズムの優勢  より
・昭和2年1月12日、私は先に出所していた堺さんに迎えられて巣鴨を出た。
・先生の話では、前年から西雅雄君編集の雑誌『マルクス主義』にほとんど毎号寄稿していた福本和夫君が、山川君の『方向転換論』を折衷(せっちゅう)主義と批判して、「結合する前にまず分離しなければならぬ」と論じている。どうも最近、共産党の再建が行われ、そして福本説が新党のいわゆる指導精神となっているらしく、理論的にも組織的にも山川君の折衷主義論攻撃がさかんだ、というのである。
・私は福本君を知らなかったが、『マルクス主義』にその論文が現れ出した頃、ああ晦渋(かいじゅう)な文章では労働者にはとても論旨(ろんし)が理解されまいと、西君に注意したことがある。西君もそれはよく承知しているのだが、「何しろ原稿の集まりが悪いので、いつも編集に苦労しているのに福本君だけはキチンと原稿を送ってくれるから、ツイ掲載せざるを得ないのです」と本音(ほんね)を吐(は)いた。
・その難解な、ペダンチックな論文を、私は辛抱してふたたび読み返さなければならなかったが、私の得た印象では、レーニンが『何をなすべきか』の中で強調した「結合の前の分離」論のお粗末な複製に外ならない。
・レーニンはロシア社会主義運動の修正派、経済派といわれた合法主義者と分離して、職業的革命家の秘密組織を主張したのであるが、福本イズムと呼ばれるようになったこの議論は、労働組合や当時の無産政党のような大衆運動にこの原則適用し、そしてそれを「左翼的主体条件」を獲得する、すなわち共産党を組織する前提としている。
・このような議論を実践に移した結果は、当時すでに起こりつつあった無産政党の分裂を助長し、労働組合運動に二重組合主義の弊(へい)をもたらし、ひいては党自身を孤立におとしいれて一般無産階級の努力を弱めるだけであろう。
・こんな見やすい分裂主義の誤謬(ごびゅう)にもかかわらず、それが一時、党の指導精神として左翼派内でもてはやされたのには、それだけの理由が存在していた。極左的な態度のために孤立せざるを得なくなっていた左翼陣営は、これによって理論的是認(ぜにん)を与えられたと感じたからである。
[404] 2018年10月03日 (水) 15時10分
甲斐正
「21世紀の社会主義」の学習会で、モンドラゴン協同組合が出ていたと思う。
以下、ウィキペディアから抜き書きしてみました。

※モンドラゴン協同組合企業
・スペイン、バスク州のモンドラゴンに基盤をおく労働者協同組合の集合体。
・カトリックの聖職者が開設した小さな技術系学校が、地元企業の熟練労働者、技師、管理者の養成所となっていった。
・1955年、この聖職者が若者5人を選び、(ファゴール社の前身となる)パラフィン・ヒーターを製造する小さなワークショップ、ウルゴール社を開設。
・1956年に組合を設立。
・1959年、組合の一事業として、信用組合を設立。
・1966年、社会福祉事業として保険業設立。
・1969年、地元にあった9つの消費者生活協同組合を統合して、スーパーマーケットチェーンを設立。
・1997年、教育機関として、モンドラゴン大学を開校。
・2009年末時点では、金融・工業・小売・ナレッジ(情報産業)において、256の会社で働く、85,066人の雇用を生み出している。
・労働者主権に基づいて運営される。
・協同組合は、その労働者組合員によって所有されており、権力は一人一票の原理に基づいている。
・モンドラゴンでは、労働者経営、すなわち、経営に携わる仕事をする組合員と、それ以外の労働し最低賃金を得る組合員との間で、賃金比率の同意がある。平均で5:1、すなわち、ジェネラルマネージャーは、支払われる最低賃金の5倍を稼ぐ。
・2010年において、総収入で148億ユーロ(1兆6000億円)を達成し、10万人の労働者を雇用しており、スペインでは、工業で4番目、金融で7番目の規模の集団である。

◎生産手段は共有のものであるのだろう。
・1955年設立の会社が、ファゴール社(大型家電製造企業)へ発展し、モンドラゴン協同組合企業の一部として運営されていたが、2013年11月に倒産した。
◎このように、資本主義体制の枠内にある。社会主義ではない、のである。
◎改良闘争としては、進められる意義はあると思います。
◎しかし、変革は必要、と思います。
[381] 2018年08月25日 (土) 23時55分
義務教育
憲法が禁止するプロレタリア独裁

 >甲斐性さん−が引用してくれたように、プロレタリア独裁論を「機能と形態」とに分けて整理しておくのが現在での、無難な解決策です。私もだいたいそういう使い方をしてきました。でもプロ独論を否定すると「お前はマルクス主義者じゃない」と言われるのを嫌うという制約要因が強いように思います。
 でもさすがに政治家は、あからさまにプロレタリア独裁という「議会制を否定する」政治用語でもあるこの言葉は使えませんね。「しょせん学者や活動家の学説的な見解だ」と言われます。

 >固定資本さん−の考えはユニークです。私見と断りがありますが「現代での『プロレタリアート独裁』は、『移行期での社会民主主義政権』のこと」と述べられています。この言葉を、社民主義の政党や政権が使うわけはありませんから、本質・機能論の主張なのですが…。?

 協会が国際交流の相手としているドイツ左翼党は、当然ですがプロ独論を放棄しています。
 ドイツ憲法(基本法)は、ナチズムと共産党を禁止しています。憲法第21条(政党)第2項は「政党で、その目的または党員の行動が自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危くすることを目指すものは、違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所が決定する。」とあり、この規定によってナチス党と共産党が禁止対象とされました。
 
 ですから左翼党を結成するにあたり、旧東ドイツ社会主義政党SEDからのグループPDS(民主社会党)は「資本主義的搾取、環境破壊、政治的抑圧および犯罪的戦争に対する闘い…中略…この闘いを行うにあたり、社会主義と共産主義の名において行われた犯罪と断固として対決し、独裁の手段によって進歩を達成しようとするいかなる試みも拒否する。」との綱領を策定し、左翼党との合流結成にのぞみました。
 
 それでも左翼党は、ドイツ議会で保守側から、執拗にこの点(自由と民主主義、プロレタリア独裁など)を追求されていましたね。ちなみにドイツ共産党は、1968年9月に「基本法を承認する合法政党」として承認されましたが、ほとんどはPDSそして、後の左翼党に合流した模様です。
[367] 2018年08月16日 (木) 17時16分
甲斐正
プロレタリア独裁について

「向坂逸郎評伝 下巻 石河康国著より」
・ソ連共産党「新綱領」に規定された「全人民の国家」
・「ソ連は階級抑圧の国家から、全人民の国家に移行している」旨。
・『ゴータ綱領批判』からすれば、共産主義の第一段階(社会主義社会)においてはプロレタリアによる階級支配が存続し、第二段階(共産主義社会)になってはじめて国家(階級抑圧の機能)は完全に死滅すると考えられる。
・そうすると「全人民の国家」なるものは、厳密にどちらに近いものか。
・第一段階をすでにこえたというならば、果たして「各人はその能力に応じて働き、その必要に応じて受取る」状態に接近するほどソ連が生産力を発展させているのか、精神と肉体の労働分業も克服される「自由な共産主義共同体」に接近しつつあるのか等々が問題となる。
・中国共産党が「プロレタリア独裁が不用となった」と言うのは尚早ではないかと批判した。
・向坂は、「(全人民の国家という)名称が適当であるかどうかを別にするとしても、ソ連邦の社会が、敵対的な階級構造をもつ社会でないことは確かである。しかし、商品交換を規制するのと同じ原理が支配的である点においても、経済、道徳、精神のあらゆる面で共産主義的原理が行われているとはできない。国家の抑圧的性格が失われ、しかも尚、共産主義社会というには遠い社会発展の時期を『全人民の国家』と名付ける、といっても良い。マルクス、エンゲルスは社会主義社会には生きなかったのだから、ロシアの現実的発展が、マルクス、エンゲルスが充分に推測しえなかった国家形態の推移を示しても、目に角を立てるに当たらない。教条よりも、事実の発展を正確にとらえることが大事である。」とした。

労働大学 古典シリーズ4
 ゴータ綱領批判 解説 近江谷左馬之介著より
・……ここで、共産主義社会の二つの段階が想定されている。
・第一段階、ふつう「社会主義社会」といわれる段階と、より高度な共産主義社会の段階である。

社会主義協会出版局 プロレタリアート独裁
第2章「プロレタリアート独裁とはなにか」 福田豊著より
・マルクス「ワイデマイヤーあての手紙」
・階級闘争は必然的にプロレタリア階級の独裁に導く。
・この独裁それ自身はいっさいの階級の廃止への、階級のない社会への過渡をなすにすぎない。
・「ゴータ綱領批判」
・資本主義社会と共産主義社会との間には、前者から後者への革命的転化の時期が横たわる。
・それにはまた一つの政治的過渡期が照応し、この過渡期の国家はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない。
・「共産党宣言」より。
・労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級までに高めること、民主主義を闘いとることである。
・プロレタリア階級は、その政治的支配を利用して、ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるだろう。
・このことは、所有権への、ブルジョア的生産諸関係への専制的干渉なくしてはできようがない。
・その方策は、全生産様式への変革の手段として不可避なものとなる。
◎要約すると、プロレタリアート独裁は資本主義から共産主義(階級のない社会)への過渡期の国家である。
・プロレタリアート独裁のもとでなされるべきことは@ブルジョア階級から全資本を収奪し、生産用具を「支配階級に組織されたプロレタリア階級の手に集中」すること、Aブルジョア的生産関係にともなういっさいの社会関係を廃止すること、B同時に、それらの社会関係からうみだされたいっさいの観念を変革すること、などである。
・生産手段の私的所有の廃止をはじめ、資本家的諸関係の廃止に対して資本家階級が無抵抗であることはない。
・政治的、経済的、社会的諸手段によってなんらかの抵抗を試みることは必至である。
・したがって、プロレタリアートの権力は、これらの抵抗をおさえ、社会の社会主義的変革を達成しなければならない。
・エンゲルス「ベーベルあての手紙」(1875年3月)
「プロレタリアートがまだ国家を必要とするあいだは、それを自由のためにではなく、その敵を抑圧するために必要とする。」
・政権を獲得したプロレタリアートは、ブルジョアジーの反革命的抵抗を「抑圧」し、社会的変革を達成しなければならないのである。
・マルクスは、プロレタリアートが社会主義的変革を達成しようとする以上、どこでも当然とおらなければならない過渡期の国家として、プロレタリアート独裁を規定した。
・(当時の)社会党は、党大会において、プロレタリアート独裁と社会主義的民主主義の関係を、つぎのようにした。
・「日本における社会主義建設のための階級支配は、武力革命をおこなったソ連や中国と異なるが、それはプロレタリアート独裁の本質における相違ではなく、機能のあらわれ、形態の相違であることを明確にした。」
・つまり、社会主義建設のための階級支配は、日本においても中国やソ連と同じようにプロレタリアート独裁であり、ちがうのはその形態にすぎないという理解が確立されたのである。
[364] 2018年08月14日 (火) 14時36分
固定資本
>甲斐正さま

★重要な点なので、触れておきます。以下の見解だけは、明確に「誤り」でしょう。

『・「資本主義から共産主義への過渡期」、これは社会主義社会のことではないか。
・その「政治過渡期」、この「過渡期の国家」がプロレタリアート独裁である。
・社会主義国家=プロレタリアート独裁、の整理で良いと思います。』

※「プロレタリアート独裁」に触れた『ゴータ綱領批判』の中で、マルクスは「社会主義」と「共産主義」を分けていません。
そして、生産物分配のところのように、「ここで問題にしているのは、『それ自身の基礎の上に発展した共産主義社会』では
なくて、反対に、『資本主義社会からうまれたばかりの共産主義社会』である。」と表現します。

※『資本主義社会からうまれたばかりの共産主義社会』=社会主義社会、です。
つまり、「資本主義と共産主義の間」とは、「資本主義と社会主義の間」です。


※一般的には、「社会主義への移行期」。その国家機能(階級抑圧機能としての国家部分)です。

※歴史的には、この問題は大きな「中ソ論争」になりました。
ソ連が、私の書いた見解、
中国が、甲斐正さんの書いた見解(確か、今の中国見解も)、
ただ、ソ連も「社会主義は成立したが、国民の意識等に『資本主義の残滓』がある。」とかの『屁理屈』で、
「プロレタリアート独裁の継続は必要」という逸脱をしました。
結局、両国とも、「一党独裁」を正当化するために、マルクスのこの理論を利用しているのです。

★以上ですが、私見では、現代での「プロレタリアート独裁」は、「移行期での社会民主主義政権」のこと、が私の結論です。
[361] 2018年08月10日 (金) 04時39分
義務教育
甲斐性さん−反応してくれてありがとう。

少し、このテーマについて、一緒に考えてみませんか。
あなたの引用は、だいたい、良いところを引っ張ってきていると思います。
 協会としての考え方は、
石河さんの紹介している「平和的無産階級独裁とはどういう様相のものであろうか。このことを考察するのは不可能に近い。われわれは、歴史上まだ民主主義の確立を前提として成立した『無産階級の革命的独裁』の例をもたないからである。」と、向坂は慎重である。−−との語りがほぼ全てを語っているようです。

 要するに、議会と対立するプロ独論の有効性を、具体的にはイメージできないのです。向坂先生自体がそう言っているのです。福田さんは、その後はプロレタリア独裁否定論になりました。
 
 協会テーゼには、第3節「国家権力の平和的移行」で、プロ独について触れています。あなたが要約的にまとめたとおりのことが書いてあります。
 ただしテーゼが書かれた1968年から、今年は50年にもなるのですね。この間にもあまりにも多くの歴史的変化がありました。
 プロ独論は、私たちの仲間内の学説的な議論としてやっているなら全然構わないでしょうが、対外的に、公然と主張できるようなものではなくなりました。内容は、だいたい分かると思います。それを考えなければなりません。
 
 これが私の考えです。もう既にだいぶ長くなりましたので今回はここまでにします。
 ご意見。批判をお聞かせください。
 
[360] 2018年08月09日 (木) 20時17分
甲斐正
プロレタリア独裁の整理について

向坂逸郎は、
・平和革命と無産階級の独裁制とは。
・個人や徒党独裁ではない。勤労大衆の独裁は、社会主義社会を内外の旧社会に対して守るために必然的に成立するものである。
・それは、少数の資本家による支配とは反対に、圧倒的多数者による支配であり、旧支配階級の権利を制限するが、勤労大衆に対しては政治的に、経済的に、不平等を撤去するものである。この意味では、プロレタリア独裁は旧社会におけるより、より広範な民主主義の支配形態である。
   と、している。
・プロレタリア独裁の思想は、政治思想の本質的部分をなすものと考えている。
・「平和的移行」の可能を説き、「プロレタリア独裁」を本質的なものと説くことは調和するのだろうか。
・向坂は、「何ら矛盾も存しない」と、断言する。
・エンゲルスの「エルフルト綱領草案評注」に「民主主義的共和国は無産階級独裁のための特殊なる形態」だと想定したことを援用し、マルクスとエンゲルスは「独裁」を「固定して動かしがたい概念であると考えていない」し、民主主義の確立に応じて「幾多の形態がある」と考えていると、説く。
・しかし、「平和的無産階級独裁とはどういう様相のものであろうか。このことを考察するのは不可能に近い。われわれは、歴史上まだ民主主義の確立を前提として成立した『無産階級の革命的独裁』の例をもたないからである。」と、向坂は慎重である。
「向坂逸郎評伝 上巻 石河康国著 より」

『プロレタリア独裁  社会主義協会出版局』(1977年1月)
◎第二章プロレタリアート独裁とはなにか(福田豊著)
・プロレタリア独裁は、科学的社会主義の基本的概念である。
・マルクス「ワイデマイヤーあての手紙」(1852年3月5日)「……近代社会における諸階級の存在やその階級間の闘争を発見したという功績はぼくのものではない。ぼくよりずっと前に、ブルジョア歴史家たちは、この階級闘争の歴史的発展を叙述し、ブルジョア経済学者たちは階級の経済的分析をなしていた。ぼくが新たになしたことは、1.階級の存在は生産の特定の歴史的発展段階に結ばれているにすぎないこと、2.階級闘争は必然的にプロレタリア階級の独裁に導くこと、3.この独裁それ自身はいっさいの階級の廃止への、階級のない社会への過渡をなすにすぎないことを証明したことである。」
・「ゴータ綱領批判」資本主義社会と共産主義社会との間には、前者から後者への革命的転化の時期が横たわる。それにはまた一つの政治的過渡期が照応し、この過渡期の国家はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない。
◎以上のことから、要約するとつぎのとおり。
・第1、プロレタリアート独裁は階級闘争の必然的帰結として導かれるものであること。
・第2、プロレタリアート独裁は資本主義から共産主義(階級のない社会)への過渡期の国家であること。
・第3、プロレタリアート独裁のもとでなされるべきことは@ブルジョア階級から全資本を収奪し、生産用具を「支配階級に組織されたプロレタリア階級の手に集中」すること、Aブルジョア的生産関係にともなういっさいの社会関係を廃止すること、B同時に、それらの社会関係からうみだされたいっさいの観念を変革すること、などである。
・革命によって国家権力を掌握したプロレタリアートはその政治的支配を利用してブルジョアジーの所有する生産手段を社会化し、ブルジョア的社会関係とブルジョア的観念の変革のために最大の努力をおこなわなければならない。
・生産手段の私的所有の廃止をはじめ、資本家的諸関係の廃止に対して資本家階級が無抵抗であることはない。政治的、経済的、社会的諸手段によってなんらかの抵抗を試みることは必至である。したがって、プロレタリアートの権力は、これらの抵抗をおさえ、社会の社会主義的変革を達成しなければならない。
・わが国では、議会を利用して平和革命を達成することが可能である。したがって、わが国でおこなわれるプロレタリアート独裁の政治形態はソビエト型のそれではない。プロレタリアート独裁の理論に対する正しい歴史的考察をつねに忘れてはならない。

◎第三章プロレタリアート独裁の歴史的経験(向坂逸郎著)
・日本の歴史に社会主義社会が、どのようにして、いつあらわれるか、いま細かくのべる条件を、われわれはもたない。
・しかし、その社会がプロレタリア階級の独裁の社会であることに相違はない。
・その形態は、国により、時代により、千差万別であろう。
・しかし、そのおのおのが、パリ・コムミューンからまなぶであることはまちがいあるまい。



※プロレタリア独裁の整理について。
『プロレタリアート独裁は資本主義から共産主義(階級のない社会)への過渡期の国家である』
・「資本主義から共産主義への過渡期」、これは社会主義社会のことではないか。
・その「政治過渡期」、この「過渡期の国家」がプロレタリアート独裁である。
・社会主義国家=プロレタリアート独裁、の整理で良いと思います。
・これからの社会主義を考えるということは、どのような形での社会主義の国家体制・社会主義社会を進めるか、旧支配階級からの防御、社会主義革命後の経済及び文化等の発展のための方策を進める上で、すべての、あらゆる、あるがままの労働者階級の意思による政権の確保・維持のための力を持つということであると思います。
・これからの社会主義、その体制を維持するための方策(プロレタリアート独裁の形態)は、同時に検討・研究されるべきと思います。
[359] 2018年08月08日 (水) 12時04分
義務教育
プロレタリア・ディクタトゥーラ

 塩野七生の「ローマ人の物語」に、古代ローマ時代に根ざすこの二つの単語の正確な意味が出てくる。
 市民権を持つローマ人は財産により5つの階級に区分され、階級外の市民として無産者・プロレターリがあった。紀元前509年王制が廃止された共和制のローマでは、王に代わって二人の執政官(コンスル)による統治が行われ、非常時にその中の一人が独裁官(ディクタトゥーラ)が半年間の期限付きで絶対権力を任された。
 塩野は「独裁官は、共和制であったからこそ考え出された官職であった」「(危機管理システムとして)ケルト族襲来の紀元前390年までの119年間で7回しか指名されていない」と語っている。
 
 プロレタリアもディクタトゥーラも、マルクス主義の特有の政治用語として使用され、労働者・社会主義運動に持ち込まれた。ご承知のようにプロレタリア独裁と訳される。「この単語を使わない者はマルクス主義者ではない」とされてきた。日本共産党は「プロレタリア執権」と曖昧化した。資本主義体制内で、今でもこの言葉に限りなくこだわっているのは我が社会主義協会だが、そろそろチャンと整理しておいた方が良いと思うのだが、どうだろう?
[340] 2018年07月05日 (木) 19時02分
甲斐正
月刊「社会主義」2017年9月号(第663号)
『ロシア革命の「一般性」と、その今日的展開』加藤繁秋さん

◎「格差是正」を基本に、「医療、介護、教育」などについて、漸進的改革として「社会民主主義」を位置づける。
◎社会民主主義政権とは。(新田俊三さん)
・一党支配、民主集中制とは無縁。自由と民主主義は、保守と共通の価値観。
・政治体制――資本主義を肯定。「資本主義の廃絶、社会主義建設は捨てる」、市場メカニズムへの介入。
・「社会改革の徹底」・社会的不平等の解消・生活環境問題の改善。
◎政権を担う→社会主義革命を行うわけではない。
 《資本主義体制内での政策(論)》
◎社会民主主義を研究する。漸進的改良政策をつくる。
◎「変化」「要求」を先取りして、それへの「対応」「実現」を積み重ねていく社会。
「目指す社会民主主義像」
◎市場の重要性を認めつつ、市場原理主義とは違った形での枠組み。
◎社会民主主義=体制内改良を進める。
・生活者の状態を少しでも改良していくことを主目的とする。

※良くはわかりませんでした。今日的課題として、まずは社会民主主義を打ち立てる政権をつくりあげていくということでしょうか?
※しかし、社会民主主義=社会主義ではないと思います。

☆「現代の資本主義と金融」伊藤修さん
◎現代の社会主義者は、社会民主主義的な方向への社会の組み換えを当面の目標とし、社会主義を最終目標とする。
◎選択の関係ではない。二段階論(二段階戦略)でもない。
◎これは、労働運動において、「賃金奴隷制の廃止」を最終目標とする思想の普及に努めながら、労働条件の改善を日常の活動とすることと同じ関係である。
☆社会主義 2018年1月号  第667号
 「日本の経済情勢」  伊藤修さん
・今日において左派の中心は社会民主主義であり、社会主義派は、《当面、左派・リべラルの強化を図りつつ、その先に社会主義の展望を堅持し準備する》を確固たる戦略とすべきである。

※左派・リベラル政党に対して、社会民主主義政権・統一戦線政府的政権の確立のために、現在の社会主義者が、社会民主主義的政策の提言を行い、福祉国家的政策の実施ができる状況をつくり出すことが必要なのでは。

☆さらには、「21世紀の社会主義」山崎耕一郎さん。
・資本主義批判の中心点は、生産手段の私有制である。この最大の問題点に対する結論は、マルクス、エンゲルスに限らず多くの人が「社会的生産に見合う生産手段の社会的所有=国有」で一致していた。
・ソ連社会主義は失敗した。国有化された生産手段を動かすために、国家機関が決定した計画どおりに経済を動かすことを、全国民に強制した。多様な意見の選択、多様な要求の同時並行的な実現を、事実上、禁止してしまった。
●しかし、「生産手段の社会化」は必要。生産手段の社会化で真の平等を実現する。
・ソ連社会主義の失敗をくり返さない。社会化=全面的国有ではない。平等=画一ではない。統一=個性の否定ではない。
・社会主義への信頼をとり戻す。=平等化の実現
・不平等を容認する諸制度が定着している社会(資本主義社会)を変える。
・現実の不平等を当然視した国家、社会(資本主義国家・資本主義社会)の中で生きている人々の賛同を得なければならない。
・全員が一斉に賛同することがありえない以上、反対する人々を説得し、説得に納得しない人々の抵抗を克服しなければならない。
●社会主義の実現のためには、賛否両論に分かれる勢力の激しい衝突をへなければならない。すなわち、「革命をへなければ、資本主義から社会主義への移行は不可能なのである。」
●強権に頼らない革命。
・合意にもとづかない決定はしない。
・多数決による決定も、十分な討論をへて国民の理解を得る。
・どんな場合でも国民の合意を得るための最大限の努力が前提でなければならない。
・社会の仕組みはすべて法律で決められる。一つの法律を変えるのにも、長い時間の研究・議論が必要となる。
・議会を通じた革命であるので、その実行は長期のものとなる。
・実際の社会変革を法制化するには、長い長い討議が必要である。
●その途中の期間は、社会主義的制度と資本主義的な制度が共存する。
・その折衷的な状態に対応できるように、暫定的措置に関する決定も必要である。
・それも、一つひとつ国民的合意を得なければならない。
・その過程は急いではいけない。
●社会主義者を中軸とする統一戦線的な政府が、支持率を低下させることなく、途中で政権交代となることのないようにしていかなければならない。

※【これからの社会主義】『資本主義の矛盾(現象)の改善→社会民主主義=体制内改良闘争=政策の提言→社会民主主義的政権の確立と、社会民主主義的政策の実施、福祉国家的政策の実施。→生産手段と生産物が共有財産とならなければ、これらの政策が実施不可能であること、あるいは、社会民主主義的政策の実施、福祉国家的政策の実施のなかで、実質的平等が必要であることがすべての労働者階級の理解されるものとなり、あるがままの労働者階級(の手)による、社会主義が打ち立てられる。』のではないか。
[338] 2018年06月24日 (日) 23時25分
固定資本
>義務教育さま

結局、「社会主義社会には、資本主義と異なる生産様式と生産関係がある。」という、唯物史観として当たり前の基本規定なのです。
なのですが、この「内容」と「具体化」が難解で、「入口」を間違えるととんでもない結論にたどり着くことになるでしょう。

「社会主義の生産は、『労働』で行われてはならない。」
その場合、以下のような、いくつかの前提を理解しておく必要があると思います。

@「労働は、超歴史的な人間活動」という形式より、問題は、「労働が生活の手段でなくなる」という社会的内容。
・たしかに、「労働」をその活動だけで見れば、超歴史的です。しかし、ここで言っているのは、その「社会的内容」のことです。
・「社会主義以前の全ての労働」は、「必要生活財を獲得する」ための活動=「とりあえず生きる目的のための手段」でした。
 これが「労働を媒介・手段とする社会」の根本問題です。社会主義からの「労働」は、必要生活財のための「手段」から、「脱却・転化する」。
 具体的には、「自然からの支配」と「社会からの支配」を人類が克服したこと、を意味します。
 「必要生活財は無償で全員に分配」されるから、労働は生活財のための「手段」から「解放」される。労働の目的が変わる。
・基本的には、人類の歴史上ではじめて、「労働は純粋に生産自体を直接目的とした人間活動」になる。
・この点は、客観的な「社会主義的労働の性格」の話なので、個々人が目的意識を持つかどうかの「主観的問題」とは、また別な側面。
・当然、ここで支給される「給付」は、資本主義的「賃金=労働力価値」でないのは、明らか。それは脱却している。

A「生産」が行われるのであり、「土地(自然を意味する)・生産手段」から分離された「労働」、は廃絶され、もう行われない。
・資本主義では、「土地・生産手段」と完全に分離されたものとして、「労働」「労働者」が存在していた。
・「土地・生産手段」が社会的所有となり、共同労働として「社会的所有」となった労働と、直接結び付くことで、「生産活動」としてしか現れない。、
・資本主義的労働の終焉、労働者の消滅。その結果、旧労働者は、「社会主義的生産者」(共同で土地・生産手段・労働を一体で占有する)になる。
・いわゆる、資本主義的な「疎外された労働」もここで克服される。

Bそうした条件と、「労働時間の長さ」や「諸個人の教育・知識」条件の結果として、各個人が「労働を自己活動」と認識できる可能性が広がる。
・社会主義の初期では、そう感じて労働(生産)できるものは少ないだろうが、順調に社会が進めば徐々にあるいは急速に増加する。

C「個人の労働」には、人類の歴史的「時間」が凝縮している。・・・ポストンの主張。
・私たちが行う労働は、人類発生時点の自然的労働とは全く違う。
・使用する生産手段も含めて、労働は、過去の「人類が発展に費やした時間」を基礎に、「個々人の労働」として行われる。
・その意味で、「労働するのは個人」だが、彼の労働「時間」は決して個人的なものではなく、「類的時間」である。
 そうした、人類の「歴史的時間」を理解しておくべきだとポストンは言う。確かに重要な指摘だが、その意味合いはよくわからない。
・それより、似たような表現で、マルクスが言う「人間自身が固定資本である」という表現の方がわかり易い。
 自然界に存在しない「機械・技術等の固定資本」を生み出すのは、結局、過去の科学的成果を使った「人間の精神」活動だという意味である。
 「生産手段に使われる労働活動」も必要だが、「固定資本」として機能する活動にこそ、より人間的自由が現れるという結論になっている。

D「そうは言っても、社会主義の始めからそんな理想状態は創れない。」という件について。
・私は、@とAは社会主義の最初から、不十分かもしれないが、意識的に創らなければ、失敗すると考える。
 逆に、社会主義が成功する最大条件が、@Aだと言っても良い。
・最初からはつくれない、とか、より高い共産主義段階の話、というのは、「BCが一般的となる状況」のことを指すのでしょう。
 @Aは最初からやらないと、「それに代わる別な上部構造」(官僚層等)を出現させることになり、それに支配されて失敗する危険性がある。
 この点で、杉本氏の「外部の専門職『層』」・「階級の存在」という考え方には、少々疑問があります。
 「アソシエーション」「協同組合的組織」の考え方のように、そうした専門職も外部ではなく、「その生産単位内部の共同構成員」であるべきでしょう。

[323] 2018年05月22日 (火) 20時11分
義務教育
>固定資本さん

 少しご無沙汰しました。ポストンの「時間・労働・支配」は分厚くて、難解で、結局はよく分かりません。でもご指摘のように、彼の主張の最大のポイントは「労働」論ですね。
 とくに注目するのは、あなたの以下の要約的記述です。
 C社会主義の生産は、「労働」で行われてはならない。「労働」で行われると、「支配」―「被支配」関係・階級支配が、再現する。
 D重要なのは、「生産活動」を、「労働」ではない、新たな「人間活動」としてどう組織するか、である。「社会主義の生産活動」自体が、「資本主義とは異なる方法」で組織されなければならない、という点だと思う。

そこでまたご指摘のあった杉本氏の「革命期ロシアにおける労働者統制をめぐって」(『資本論と社会主義、そして現代』)を読み直してみました。赤線は引いてあったのですが、深く読み込んでいませんでしたが、
 「資本制社会後の社会では、指揮・命令・管理の機能を、現場の労働者たちが、経営等の専門的機能を担う層に『委譲・委託』するという経路が必要となる。そのあり方が資本制社会の経営・生産過程との差異の一部をなすだろう。」
 さらに最後の「(こうした方向は)たとえば剰余労働のの社会化(分配・利用の統制)などの方向もあり得よう。新しい社会は無階級社会でも無対立社会でもありえない。利害の対立、差異の存在を認め、統制(あるいは調整)することが、生産現場でも社会全体でも重要である。」とありました。

 ウーん。相当な含意のある指摘がされていたことに、あらためて気がつきました。少なくとも、ポストン君とは切り込み方は違いますが…。

[321] 2018年05月20日 (日) 10時12分
固定資本
>義務教育さま

1.社会主義社会は個人「主義」、と言うのは、確かに私の言い過ぎでした。

 「主義」というと、その他の国民と違う、「特殊な人」ということになってしまいますね。
 表現したかったのは、「個人」そのものが、最も重要にされる社会、ということです。
 逆に、「労働者としての階級意識」とか、「特定政党の指導」とかでまとめようとすることの、「誤り」を表現したかった、のです。

 多少、「へたくそ」でも、普通の国民「個人」が、政治・経済を担当する社会が必要、と思うのです。
「十分な生産力」が背景にあれば、「最高「最大」を追う「非人間性」は不要でしょう。
 「本当の階級性を意識化した人たち」「マルクス主義者」は、権力を取らず、オブザーバーに徹し、「信任」「権威」を目指すべきです。
 簡単に言えば、昔の「長老」的な。マルクスも、「普通の個人」が「社会化」していく過程だけを考えていたと思う。
 発達した資本主義が、すでに、それを準備してるはず・・・・先進資本主義からしか、社会主義は出現しない、というマルクスの指摘は重要でしょう。

2.「解放の個人性」と「個人的頭脳」は、切っても切れない直接的関係です。
 単純な唯物論の話です。「満足」「自由」は、どう感じるのか?  「個人の精神」・「個人の頭脳」しかない、ということです。
 社会が、「我が国は自由だ」「国民は満足している」、という表現は、「諸個人の多数の同意」がある場合だけ、正しい。
 「社会が『正しい』と考えること」を、「国民諸個人に『強要』する」場合、それは当然、「満足」「自由」の共感は得られない。

 この単純な「唯物論」さえ、20世紀社会主義は完全に無視するしかなかった、という悲しい未発展性があった。

3.ポストンの見解 ・・・「時間・労働・支配」1993
 彼の主張の主なポイントは、以下のとおりと思います。
  @資本主義の矛盾の根源にあるのは、「労働」を社会の最重要基準にすること。「労働に媒介される社会」。当然、搾取のため。
  A「労働」=「外部の何かに、強制された自分の活動」を、マルクスは、批判した。
  B「階級闘争」はこの、根源的矛盾の一現象でしかなく、「労働者階級」を「肯定」することは、「現状肯定」であり、誤り。
  C社会主義の生産は、「労働」で行われてはならない。「労働」で行われると、「支配」―「被支配」関係・階級支配が、再現する。
  D重要なのは、「生産活動」を、「労働」ではない、新たな「人間活動」としてどう組織するか、である。

 彼の結論は、この抽象的結論で終わっていて、少し物足りないのだけど、
確かな指摘は、「社会主義の生産活動」自体が、「資本主義とは異なる方法」で組織されなければならない、という点だと思う。

 彼も、批判の中心が、「ソ連型社会主義」「伝統的マルクス主義」にあった。
  ・「生産は社会化」されてるのに、「私的所有」。私有財産制が問題で、「生産は問題ない。」・・・この「伝統的」理解は、反革命とする。
  ・「生産の段階」で支配が行われている、という、重要な視点だけは持っている、ということです。

 この辺りは、「アソシエーション論」や、杉本氏の「工場委員会」研究と関連していく部分と考えます。
[308] 2018年04月19日 (木) 01時25分
observe
なんか、難しいけどおもしろい議論がされてるなあ。
[307] 2018年04月18日 (水) 09時02分
義務教育
>固定資本さん

昨日から掲示板を留守にしていたのですみません。
一杯書き込みがあって、理解不足なのに、オーッと、わくわくして読んでいます。
 でもよく理解できないことが結構あって、少し時間をかけて勉強してみますのでおつきあい下さい。

1.「個人主義」へのこだわりについては、やはり何か違うような気がします。マルクスの言う「社会的個人」ということではあると思うのですが、未来社会では、個人の「主義」ではなくなる、「主義」という意識が必要なくなる−のじゃないかと思います。

 孔子の「仁」については、その通りだと思います。儒教は、共同体・社会の維持を、人間にモラルを持たせるために考えられてきたのが徳目だと思いますから、当然、保守的な体質を持っていますが、人間と社会における理想的状態を考えた、という意味で「仁義礼智信」をひっくるめて、人間論として「通ずるものがある」ように思います。もっとも将来社会には、そういうモラルとか徳目も、意識する必要がなくなるのだと思いますから、これも「なくなる」のでしょう。

2.解放が個人主義的である−ということも、こ説明では、よく分かりません。感じるのが「個人的頭脳」というのは、何か関係あるのかな?

3.ポストン君の説は、本当に分かりません。
これは、少し時間をかけて勉強したいと思います。「時間・労働・支配」という本を図書館から借りだして、一生懸命勉強しようとしたのですが、全然駄目です。どうも私の概念では理解するのは困難なようです。すごく哲学的で、観念的な操作が必要な方のようですね。あきらめたわけではありませんが、根気が続かなくなるかも知れないと言うような気がします。

少し時間をおいて、また考えてみたいと思います。何でも、ご指摘いただければ幸いです。





[306] 2018年04月17日 (火) 16時16分
固定資本
「成熟した個人主義」「社会的個人」に関連して 〜「労働」と「自由」の問題について。

 「労働」をどう考えるか 〜これが20世紀後半期以降の、マルクス主義の、かなり重大な論点となっていると思う。

 モイシェ・ポストンというフランクフルト学派の後継者の、明快な記述、
「(支配とは)究極的には、一つの歴史的に特殊な社会的媒介の形態に根ざしており、
この媒介の形態は、歴史的に特異な労働の形態によって社会的に構成される。
 ここでは支配は、時間による人間の支配という形態をとる。
 労働は、批判の立脚点ではなく、批判の対象である。
この自由を束縛する形態こそが、マルクスの経済学批判の中心的な対象であった。」

 簡略すれば、歴史的に「支配」を可能にするのは、「労働」の存在だ、という点。
 「自由」を束縛するのは、「労働」に媒介される社会である、という認識。
 マルクスは、「労働を媒介にした支配」を分析し、「労働」は「自由」を束縛するものであり、その否定を目指した、という理解をする。
 だから、「労働」自体が批判されなければならない。
 
 ポストン自体は、マルクスを不正確にしか理解していない論者だが、この指摘は、私は「当たっている」と考えている。
 ここでの「労働」の概念は、「生存のために外部から強制される人間活動」を意味している。
「生存のために外部から強制されない」人間活動は、「自由活動」であり、階級社会では支配階級だけが享受している。
 社会主義は、全国民が早急に「労働」から脱却すること、そして諸個人の自発的「自由活動」としての生産活動に転換することを目指している。

 その点で「労働が主役」という誤解に立脚する、一部の「伝統的マルクス主義」の誤りが指摘されている。
労働者が闘うのは、「労働者でなくなるため」であるはずだったが、
「20世紀社会主義」は、革命後も国民を「労働者階級」として位置づけた。
諸個人が理解していない、生産計画のやめの社会的「労働」の遂行が、社会的正義とされた。

「生産の発展は、種々の社会階級がこれ以上存続することを時代錯誤にする(記〜労働者階級も)。
社会的生産の無政府的状態が消滅するにつれて国家の政治的権力も衰える。
人間はついに人間に特有の社会的組織の主人になったわけであって、
これにより、また自然の主人になり、自分自身の主人となる。
― 要するに自由となる。」(「空想より科学へ」岩波文庫92p)

[305] 2018年04月17日 (火) 09時29分
固定資本
>義務教育さま

「成熟した個人主義」社会の内容が、難しく、私の理解も全然不十分ですが、少しリストアップすれば、

※「個人的所有」できるのは、「消費」(消費財・サービス・自由時間)だけ。それを拡張するのが、社会目的となること。
 「労働」と「自然」「生産手段」、つまり「生産」は、共有にすることで、「誰のものでもないもの」になる。
 イメージ的には、自然・社会の土台の上に「諸個人」が立ち、土台から提供される生産物・自由時間を享受する。
 過去の社会は、自然・社会の下にあったイメージ。

※個人化:「成熟した個人主義」は、「類的存在としての人間」とほぼ同じですが、その最終発展段階ということ。
 後期マルクスでは、よく「社会的個人」「社会化された人間」と表現されてます。
 「類的人間」の発展は、 @「個性」のない家族・共同体の「一部」・・・原始共同体 
   → A「生産手段の私有・階級支配社会」での「個人」の分離と「社会」との対立。資本主義が最高潮。
   → B社会主義では、「個人」と社会の対立終了。共同構成員として、社会的責任を理解した上での「個人」。
 いわゆる弁証法的な、「即自的→対自的→止揚・統合」的な発展をする。(「資本主義に先行する諸形態」等)

※「仁」の概念との関係では、「似てはいても、異なる概念」と考えるのが妥当ではないでしょうか。
 ・儒教は上記のA初期の共同体時点の思想。「共同体を維持すること」を最大目的とする、保守的なもの、では?
 ・「成熟した個人主義」は、「個人の自由な発展」が最大目的で、そのために共同体を手段化する、、発展的なもの。
 ・「共同体の重要性」は共通するから、「相互理解」的な共通する内容もあるでしょうが、目指すものはかなり違うのでは。

※個人化の内容:歴史は、「自然」と「社会」からの、人間解放(社会的個人として)、というのが唯物史観の結論。
  @「自然制約からの解放」:端的には、「生存ギリギリ」からの解放、あり余る「剰余生産力」の実現。
  A「社会制約からの解放」:剰余生産力を、「一部階級が独占する社会」からの解放。
  B社会主義社会:「剰余生産力」が、公平・自由に各個人に分配され消費できる社会。
  「諸個人の自由な物質・時間の消費」が実現する。社会は、諸個人の「自由な消費活動」のための手段となる。

※解放が「個人主義」的である理由:これは極めて明白で、解放を感じるのは諸個人の「個別頭脳」しかないから。
 当然「社会の許容範囲内で」だが、好きな生産物・サービスを消費し、好きに自由時間を使い、個人が満足するしかない。
 それ自体が、更なる生産性の拡大動機となる。(もっと多様な品種を多量に・もっと短い労働時間で・もっと自由時間を)

※個人が「社会的」である理由:「共有」「協働」が、個人的生活のための絶対条件であるという認識が重要。
  ・「生存費のために労働」するのではなく、「社会の必要物を生産するための労働」へ。「生存」は無条件に保障。
  ・「どの会社のどの部分」に分業特化せず、社会的必要に応じて「今はこの職種、この前までは別な所」
   例えば、ある地域の生産全般を、その地域の労働者が共同管理するとか、職種は一時のもの。
  ・分業固着化は、階層→階級分化の温床となる。生涯で様々な複数職を経験する。
  ・継続的にやりたいことは、大きく増大する「自由時間」での自分の「自由活動」としてやる。そこに必要な資材も、社会が提供する。
  ・生産力は、最大必要時のために「過剰・遊休」が基本。労働者の一定部分も、何年に一度か「待機労働」(緊急時出動)部分が必要。
  ・様々な役職は、定期的任期での、ほぼ「輪番制」になる。全員が、労働者であり管理者でもある。
[304] 2018年04月16日 (月) 16時54分
義務教育
>固定資本さん 「個人的所有と個人主義」と類的存在

 なつかしい気分になって思わず参加しました。
とくに異論を挟むつもりはありませんが、「個人主義」とか「個別的所有」とか言う文言が、つい気になってしまいました。

 資本論24章「いわゆる本源的蓄積」では『資本主義的所有と個人的所有』をめぐって…ここでは「個別的所有」と記されていますが、かつてマルクス、エンゲルス、レーニン解釈をも巻き込んだ派手な論争があったようですが、残念ながら、私には、よく分かりません。

 ただ末尾に、成熟した「個人主義」社会をめざす…とあることに、少し違和感を感じてしまいます。もっとものように思えるのですが、どういう社会なのか、分かりません。

 若い頃のマルクスが、将来社会における類的存在としての人間論を展開しているのは有名ですが、この指摘も、同じことなのでしょうか?勉強不足でモヤモヤしています。

 私は、東洋思想では、孔子の説く徳の第一にある「仁」は、マルクスの言う類的存在論と符牒が合うように思いますし、「未熟な人間がめざさなければならないもの」という意味では、他の偉大な思想や宗教でも、同じ意味をめざす言葉はあるのでしょう。

[301] 2018年04月13日 (金) 19時17分
固定資本
「最後の鐘が鳴り、収奪者が収奪された」後・・・新たな「個別的所有の創造」

「資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」という一文は、『資本論』の極めて有名な記述である。
しかし他方で、これは、マルクスが「所有形態の歴史的変遷」を記述した「資本主義的蓄積の歴史的傾向」
という「節」の中の一文章であり、実は、それが「結論」ではない。
その後の文章、「結論」は、以下のように書かれている。

「資本主義的私有は、自己の労働に基づく個別的な私有の第一の否定である。
しかし、資本主義的生産は、一種の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を産み出す。それは否定の否定である。
この否定は、私有を再興するのではないが、しかしたしかに、資本主義時代の成果を基礎とする、すなわち、
協同と土地及び労働そのものによって生産された生産手段の共有とを基礎とする、個別的所有をつくり出す。」

所有形態は、歴史的に「否定」されながら発展していく。
 @資本主義以前の「個別的私有」
 A資本主義的な「私有」
 B社会主義的な「個別的所有」

つまり、マルクスの最終結論は、資本主義の成果を基礎とする「個別的所有の創造」、である。
社会主義とは何か、を考える場合には、この「個別的所有」とは何かが非常に重要となる。
「収奪者の収奪」は、その前提条件でしかない。

つまり、社会主義社会では「新しい様式での個別的所有が誕生する」。
他の著作での表現も含めて、「自然や生産手段を社会的に共有としたうえで、労働も社会的に行われる。」のが社会主義経済と考えて良いが、
そうした基礎で実現されるのが、「個別的所有」である。「共有・協働を基礎とした個別的所有」というのが、マルクスの社会主義像である。

この結論の具体的な形はわからないが、いくつか、重要な原則は表現されているのではないか。つまり、
 @「生産手段の共有」は、社会主義の「目的」ではなく、あくまで社会主義実現の「手段」でしかないこと。(「基礎」でしかない)
 A社会主義社会の「目的」の一つは、「個別的所有」の実現であること。そして、この具体的内容が重要であること。
 B様々な条件を除いて極論すれば、社会主義社会は、「全体主義」とは対極にある、成熟した「個人主義」社会を目指していること。
である。
[299] 2018年04月09日 (月) 16時05分
Japan ranking
World Happiness Report 2018 --Japan ranking as No54

The World Happiness Report is a landmark survey of the state of global happiness. The World Happiness Report 2018, which ranks 156 countries by their happiness levels, and 117 countries by the happiness of their immigrants, was released on March 14th at a launch event at the Pontifical Academy of Sciences in the Vatican.

The overall rankings of country happiness are based on the pooled results from Gallup World Poll surveys from 2015-2017, and show both change and stability. There is a new top ranking country, Finland, but the top ten positions are held by the same countries as in the last two years, although with some swapping of places. Four different countries have held top spot in the four most recent reports- Denmark, Switzerland, Norway and now Finland.

1. Finland (7.632) /2. Norway (7.594) /3. Denmark (7.555) /4. Iceland (7.495) /5. Switzerland (7.487) /6.Netherlands (7.441) /7. Canada (7.328) /8. New Zealand (7.324) /9. Sweden (7.314) /10. Australia (7.272) /11. Israel (7.190) /12. Austria (7.139) /13. Costa Rica (7.072) /14. Ireland (6.977) /15. Germany (6.965) /16. Belgium (6.927) /17. Luxembourg (6.910) /18. United States (6.886) /19. United Kingdom (6.814) /20. United Arab Emirates (6.774)

23. France (6.489) ////26. Taiwan Province of China (6.441) ///42. Poland (6.123) ///43. Bahrain (6.105) ///46. Thailand (6.072) ///47. Italy (6.000)

54. Japan (5.915)
[289] 2018年03月16日 (金) 14時47分
甲斐正
・現代の社会主義者は、社会民主主義的な方向への社会の組み換えを、当面の目標とし、社会主義を最終目標とする。
・…………選択の関係ではない。
・二段階論(二段階戦略)でもない。
・これは、労働運動において、「賃金奴隷制の廃止」を最終目標とする思想の普及に努めながら、労働条件の改善を日常の活動とすることと同じ関係である。
   「現代の資本主義と金融」伊藤修さんより
[284] 2018年03月13日 (火) 23時54分
甲斐正
社会主義2015−641 2015.11月号 善明建一さん
「社会主義への移行形態を考察」より

・ロシア革命。当初、所有形態には手をつけず、労働者が5人以上いる企業の生産、生産物の保管、売買を労働者が監督・統制する「労働者統制」を導入した。
・「労働者統制」は長続きしなかった。資本家が統制に従わず、サボタージュにより、生産が止まってしまったり、労働者が企業を私物化し、国民や住民の要求に応えきれず、社会に無秩序と混乱を引き起こしたからである。
・そこで、「記帳と統制」を打ち出した。企業長の責任制の導入。「単独責任制」、「仕事中」は指導者の意思に「服従」することを求め、さらに、官僚主義を排し、社会主義建設の「創造的な仕事」とした。
・その後、モスクワ、ペトログラード等、重要な地域の企業は、最高国家会議の直轄化におかれ、単一の計画のもとに活動するようになった。
・さらに、ロシア革命を守るために「戦時共産主義」を打ち出す。(1918~1921の3年間)
   ◎小規模企業を含めた工業、運輸の全面的国有化
   ◎私的商業の廃止
   ◎農民に対する「食糧割り当て徴発制」の導入(「徴発部隊」の組織)
・1921年3月、ロシア共産党第10回大会。
  現状の状況から「戦時共産主義」の誤りを認め、「中間的段階」が必要との認識
  新経済政策ネップを提起し、実践していく。



「資本論と社会主義、そして現代」
   ・革命期ロシアにおける労働者統制をめぐって
          杉本龍紀さん、  より。
・革命期のロシアは、人工の4分の3以上を農民が占め、賃金労働者は20%にも満たなかった。
・また、かなりの割合の労働者たちは読み書きができなかった。
・生産の流れ、経営等を知り、動かすことは困難であった。
・他企業、産業全体の連関を把握することは、不可能だった。


日本における社会主義への移行形態を考えるために。
[277] 2018年02月24日 (土) 20時19分
T.K.
※「【これからの社会主義】『資本主義の矛盾(現象)を鏡にうつし、裏返す。→社会民主主義=体制内改良闘争=政策の束→あるがままの労働者階級により打ち立てられる社会主義』として考える。」


※社会主義 1月号  2018/第667号
 「日本の経済情勢」  伊藤修さん
・総選挙では、……<保守>対<左派・リべラル>という「極」に整理され始め、国民には選択肢がはっきりし始めた。……かつての「みんな」のように「維新」や「希望」といった実質タカ派保守「野党」は分裂しつつ消滅に向かうであろう……、そうして<左派・リべラル>と対立軸をはっきりさせなければならない。
・……こんにちにおいて左派の中心は社会民主主義であり、社会主義派は、《当面、左派・リべラルの強化を図りつつ、その先に社会主義の展望を堅持し準備する》を確固たる戦略とすべきである。


※2016.9.これからの社会主義<再整理・提起>
(1)問題意識をどこにおくのか。
   A最終目標(社会主義)の前の中間ターゲット(社会民主主義的な社会)をめざす。


※社会民主主義政権の樹立をめざす。
・このための、社会民主主義的な、修正(資本)主義的な、改良主義的な政権のめざす政策を提示していくべき。
・社会民主主義的な闘い=体制内改良闘争のある時点までの闘いは、社会民主主義者、社会主義者は共有できる、と思う。
[260] 2018年01月31日 (水) 08時35分
「社会主義」2017.10月号・批評・清水哲男さん 北欧諸国「福祉国家」 デンマーク ・医療費無料・大学までの教育費無料・67歳以上全員年金受給・福祉施設等公共施設の使用料無料

「ウィキペディア」
デンマーク   首都はコペンハーゲン
高福祉高負担国家であり、市民の生活満足度は高く、2014年の国連世界幸福度報告では第1位であった。
2011年の総選挙で社会民主党を中心とする野党の中道左派連合が僅差で勝利し、同年10月3日にヘレ・トーニング=シュミット内閣が発足。
2015年6月18日の総選挙で社会民主党は議席を上積みしたが、他の連立政党が議席を大幅に減らしたため与党中道左派連合は敗北。ヘレ・トーニング=シュミット首相は辞任した。また、長い間中道右派連合の中核を担ってきた自由党 も振るわず結党以来最低の議席数となったが、連立相手の政党である右派のデンマーク国民党や中道右派の 自由同盟が議席を増やしたため僅差で中道左派連合を上回り、4年ぶりに政権に返り咲くこととなった。

「とあるツィートより」
・立憲民主党よ、民進党よ、希望の党よ。ここを統一点として、各関連の法律改正案、法律案を共同提出してはいかが?


2016.10.31「望ちゃん」さん投稿
◎「世界で最も幸せな国」ランキング1位はデンマーク
・「社会主義をめざす」ということは、要するに、人間として、労働者として「不安のない」、もっと積極的に言えば「幸福な」社会づくりをすると言うこと。
・アメリカ大統領選挙で若者の支持を集めたサンダースは「民主的社会主義だって!? デンマークを見ろ」と言っていた。
・デンマークは立憲君主国(女王)で、1924年に社民党が政権を担い民主的社会主義の道を歩み始めた。現在は2015年の選挙で右派ブロック政権になっているが、現在に至る国の骨組みは北欧諸国同様、社民党・左派ブロック政権が担ってきた。
◎国連「世界幸福度報告書」2016年版
・2016年度版の国連「世界幸福度報告書」で「最も幸せな国」は1位デンマーク
・一人当たりの国内総生産(GDP)・健康寿命・社会的支援(困ったときに頼れる人の存在)・信用性(政治やビジネスにおける汚職のなさ)・人生における選択の自由・寛容性の6要素で判断されるという。
◎デンマークの世界ランキングあれこれ
@国連の幸福度1位(2016, 2014, 2013年)、3位(2015年)にランキング
A住みやすい都市1位…コペンハーゲン。
B 一人当たり名目GDP 8位。$52,114…26位日本$32,485
C労働時間の少なさ 4位…(2013年)1位ドイツ1366時間、4位デンマーク1473時間、18位日本1729時間
D平和度指数 2位…(2016年)1位アイスランド、2位デンマーク、9位日本、
E貧困率の少なさ 1位…OECD中1位デンマーク、2位スウェーデン、ワースト4位日本(最悪はメキシコ)
F子供の幸福度 6位…(2007年ユニセフ)1位オランダ、2位スウェーデン6位デンマーク※日本は該当無し→日本版(2013年日本流に評価し直し?)では、6位に日本(教育、生活リスクが1位)、14位デンマークということのようだが…。
G汚職の少なさ 1位…(2015年)1位デンマーク、2フィンランド、3スウェーデン、18位日本
H民主主義指数 3位…(2010年)1位ノルウェー、3位デンマーク、22位日本
I 男女平等度 14位…(2015年)1位アイスランド、2位ノルウェー、14位デンマーク(前年度5位)、28位米国、75位ロシア、91位中国、101位日本
J社会寛容度 10位…(2010年)1位カナダ、10位デンマーク、26位日本
K報道の自由度 4位…(2016年)1位フィンランド、4位デンマーク、72位日本、、176中国、179北朝鮮
L 技術革新力14位…(2016年)1位アイスランド、2ノルウェー、3フィンランド、4スウェーデン、11位ドイツ、14位デンマーク、15フランス、101位日本
M国際競争力 13位 …(2013年)1位スイス、2シンガポール、3位米国、4位フィンランド、5位ドイツ、6位日本、13位デンマーク
N経済的自由度 12位…(2016年版)1位香港、2シンガポール、3ニュージーランド、4スイス、5オーストラリア、12位デンマーク、17ドイツ、22位日本
◎ただし、社会的負担は高い(幸福度に対する代価?)。
@物価の高さ 3位、A消費税率 3位、
 ※(2015年版) 1位 ハンガリー 27% /2位 アイスランド 25.5%
 3位 クロアチア,スウェーデン,デンマーク,ノルウェー 25%
 7位 ルーマニア,フィンランド 24 %/
 9位 アイルランド,ギリシャ,ポーランド,ポルトガル 23 %
141位 日本
B国民負担率 2位…国民負担率=租税負担率+社会保証負担率。ダントツ1位のルクセンブルク85.2%に次いで、国民負担率67.7%と、かなりの高負担国家である。
 ※(2011年)1位ルクセンブルク85.2%、2位デンマーク67.7%、7位フィンランド61.1%、10位スウェーデン58.2%、11位ノルウェー55.2%、27位日本39.8%
[236] 2018年01月06日 (土) 13時23分
T.K.
※2016.9.これからの社会主義<再整理・提起>
(1)問題意識をどこにおくのか。
   A最終目標(社会主義)の前の中間ターゲット(社会民主主義的な社会)をめざす。
(2)いくつかの整理すべき(整理を迫られる)課題として
   ・スウェーデン1983年「労働者基金制度」
   ・西ドイツ 1951年「労使共同決定法」


※共同決定法とは。
・1951年西ドイツで制定された共同決定法。
・株式法、労働協約法、共同決定法、経営組織法、職員代表法といった各種の法律にまたがって規定されている。
・その後、1972年の経営組織法の改正を経て、1976年には拡大共同決定法が施行された。
・これにより、2000人以上の労働者を擁する経営体は、労使同数の代表を監査役会に送り込むことが規定されたので、労働者の権利は大幅に伸長したといわれる。

・労働者代表が、経営者とともに、取締役会や監査役会などの企業の最高意思決定機関に参加する共同決定制度を、法的、公的に制度化したもの。
・ワイマール時代以来、ドイツを中心に発展してきた。
・西ドイツにおける工場委員会の共同決定権の強化。(1906年)
・スウェーデンにおける、事業所レベルでの協議権と交渉権の強化を意図した共同決定法の制定(1977年)
・オランダでの同様な主旨の工場委員会法の制定(1971年)


※ワイマール共和国
・第一次世界大戦末期、キールの水兵反乱に端を発したドイツ革命は、1918年12月の第1回全国労兵レーテ大会において、(1)国民会議の召集、(2)軍隊の民主化、(3)鉱山の社会化を決議した。
これは、さしあたり、議会制民主主義の導入に賛成しつつも、第二帝政の主柱であった、反民主的な軍部・重工業を解体しようとしたものであったが、しかし、多数派社会民主党首脳の支配する人民委員政府は、@国防軍首脳と多数派社会民主党首脳のいわゆるヒンデンブルグ=エベルト同盟、A資本家団体首脳と自由労組首脳のいわゆるシュティンネス=レギーン協定(中央労働共同体協定)をてこに、一方において、直ちに社会主義共和国を樹立しようとするスパルタクス団=共産党らの蜂起を鎮圧するとともに、他方、労働者・兵士大衆の要求する重工業社会化・軍事民主化をも封殺し、こうして、ワイマール共和国の基礎を作ったのである。

・ドイツ革命に伴い成立したドイツ共和国の通称。
社会民主党、中央党、民主党が連立内閣を結成、ワイマール憲法を制定。
政局は常に不安定で、保守勢力が根強く残り、世界恐慌の直撃を受け、ナチスの政権獲得で、消滅した。(1919−1933)


※ジョン・ロールズ  財産所有制民主主義
    「ロールズの財産所有制民主主義についての一考察」
      魚躬正明さん
 ・(この稿ではどのような政治的平等が
望ましいかといった問題は取り扱わない旨)
・不平等や福祉は、市民が自分自身を社会の一員としてどのように見なすかという点においても重要な意味を持つ。
・社会的・経済的不平等は、政治的不平等の拡大に―――不正義、特権等。
・政治的平等がすべての市民に保障されなければならない。
財産所有制民主主義
 ・福祉給付
 ・社会的・経済的不平等への規制
о社会のモデルとしては、
 ・自由民主主義的で、資本主義的な福祉国家
 ・改良された自由民主主義に基づく福祉国家的な資本主義
оロールズは、その諸制度についての、社会主義的制度構想を参照するよう、指示している。
оロールズは、マルクスおよび社会主義思想を、依然として重要なものと考えている。


◎日本において、非自民政権の成立はあっても、社会民主主義政権の樹立というものは、まだ、ないのでは。
社会民主主義政権・福祉国家をめざす政権樹立を目標とした運動の推進が必要。
・このための、社会民主主義的な、修正(資本)主義的な、改良主義的な政権のめざす政策を提示していくべき。
・労使決定法、年収上限法、資産制限法、相続制限法等々。資本制の否定ではなく、単なる非自民の政策でなく、労働者国民への学習の意味を含めて。
[226] 2017年12月25日 (月) 11時55分
たか
2017.12.25ツィート

社会主義国日本における報道機関とは。
  どうあるべきか。組織は。主な役割は。

社会主義国日本においては、資本家階級そのものが存在しえないのであり、報道機関は、労働者・人民のものである。

社会主義国における報道機関は、営利追求の企業体ではない。公共?のもの、労働者・人民のためのものである。中立性?中立的?あくまで、労働者・人民のものである。

時の権力、政治的指導者等には、その活動は左右されない。
常に、どうあることが、労働者・人民のためであるかを中心軸として、運営される。

取材費用等、報道機関の維持・運営のための費用は、確実に保障され、時の権力、政治的指導者等により圧力をかけられたり、左右されるものではない。


社会主義国日本における報道機関の役割
@人民への情報の提供
・天気予報、事故、今後の予定等々
A労働者・人民の民主主義の拡大、不正追及
・ワイロ、生産のサボリ・停滞、ギャンブル・かけ等の私腹をこやす等の不正の追及(「世の不正」とは何かを含めて)
・労働者・人民の民主主義を守る
B教育機関・研究機関との連携による、生産力・科学の発展への寄与
・大学等の研究室、企業体の調査・研究開発室等々の研究等を、人民に、視覚的・簡略化し報道することにより、その産業全体の生産力を増大させる
[225] 2017年12月25日 (月) 11時51分
固定資本
社会主義は、「緊張しない」で、生きられる。
「生きることが苦しくない」、それだけあれば、だれもきょひするはずがない、「安心な社会」。

「研究」するやつらは、「めんどくさい」ことに「精一杯」で緊張感、満載だ。
だれも、シンプルに生きるコンプレックスな、「俺たち」のことなんか、真剣に考えてない。
「俺達は、研究対象」でしかない!!!

 最近の数十年間、「失われた歴史」とかが、「問いている」のは、
「お前は、本気で言ってるの?」という、本気。
「見え透いている」んだ!という本気。

 俺が今わかっているのは、「この世は、イカレテいる」こと。
でも、どうしたらいいのかは「知らない」、誰かに教えてほしい。
 更にでも、俺は忙しいから、「俺は誘わないでね、お願い!」。
[191] 2017年11月17日 (金) 02時37分
N.K.
「【これからの社会主義】『資本主義の矛盾(現象)を鏡にうつし、裏返す。→社会民主主義=体制内改良闘争=政策の束→あるがままの労働者階級により打ち立てられる社会主義』として考える。」

【社会民主主義について  高木郁郎さんの本を見た。】
・社会主義の主流ともいえる民主主義的な社会主義が、社会民主主義である。
・ソ連、東欧型の社会主義は崩壊した。先進工業国の共産主義運動も過去のものとなった。
 →それらは社会主義の一つの変種の崩壊に過ぎない。
・社会民主主義の共通の性格(2点に要約できる。)
@近代の資本主義が生み出した貧困や格差やその他の非人間的な状態を解決して、自由、公正、連帯といった理念にもとづいた社会をつくりあげていく。
Aこのための改革は、革命ではなく、漸進的に、しかも主として議会制民主主義を通じて実施していく。また、政治的にはあらゆる独裁に反対して、民主主義を発展させる。
・社会民主主義とは、市場経済にかわる国有化とか計画経済とかいった内容の体制ではない。
・社会民主主義は、福祉国家体制をつくりあげてきた。
・社会民主主義が求めているものは、人間的な価値が最大限に実現されていく状態なのであって、社会や経済の仕組みとしての体制はその手段にすぎない。
・マルクス主義の資本主義の崩壊のあとにくる別の社会体制というのではなく、経済体制が資本主義であり、市場経済の中であっても、一つ一つの人間的な価値を実現していくこと、そのために必要な生産や仕組みを考え、実行することが社会民主主義なのである。
・英国。1942年。戦時連立内閣。保守党、チャーチル首相。ベバリッジ委員会。戦後の社会保障プランを明らかにした。労働者階級に、戦争への協力をとりつけるため。
・労働者たちは考えた。保守党がどんな約束をしても、戦争が終われば、約束は反故にされる。約束を実行するためには、自分たちの代表の内閣をつくる必要がある、と。
・1945年5月、ドイツとの戦争が終えん。7月の総選挙で労働党の政権を誕生させた。
・労働党、アトリー内閣。労働組合から支持を得ている労働党。
・ナチス・ドイツと戦う第二次世界大戦は、まさに全国力を動員した戦争であった。労働者たちの協力がなければ、とうてい勝利を得ることはできなかった。
・国の支配層は、上・中流階層だけではなく、労働者たちからも全面的な協力を必要とした。そのために、この戦争が全体主義に対抗して、民主主義を守るためにいかに必要であるかを国民に説いた。
・しかし、それだけでは不十分であった。この戦争の勝利の暁には、いまは貧困にあえぐ労働者たちにも、幸せな将来を築くという約束をしなければならなかった。
・ベバリッジ委員会が、イギリスの戦後の社会保障のプランを明らかにしたのだ。
・1945年7月、労働党政権、アトリー内閣。この時から、イギリス、福祉国家の形成が始まった。「ゆりかごから墓場まで」。この英国労働党政権が実施した社会福祉制度の中身である。
<社会民主主義政党の政策体系>
@全生涯を通ずる所得の保障。国民生活の最低限だけは維持できる国民年金。
A医療の国営化、無料の国民医療制度。
B平等化の推進。国民医療制度のため、社会保険料でなく、累進課税による所得税。
C完全雇用政策の促進。ケインズ経済学を政策理論とする経済成長策。
D重要産業の国有化。国家が株式を所有して、公社をつくって運営。対象……電力・石炭(エネルギー産業)・鉄鋼産業。 
・混合経済体制
 西ドイツ―――労働者の重役会参加による共同決定への道がもとめられている。
 スエーデン―――共同決定の他、特別の基金をつくり、株式を保有。
・ナショナルミニマム
 社会的サービスの供給。累進課税を加えた平等化。完全雇用。国有化と参加を軸とした混合体制。
・福祉国家
  国民の福祉を増進することを目的とした国家。

※福祉国家の行き詰まり=新保守主義の抬頭。

◆以上、適当にメモしてみました。

『社会民主主義=体制内改良闘争=政策の束→あるがままの労働者階級により打ち立てられる社会主義』として考える。

1.コミュンテルンと第二インター。両者は、非和解的であった。生産手段を国有化して経済的平等=実質上の平等を実現しようという社会主義と、資本主義のなかで改良を積み重ねて、経済的平等を少しずつ実現しようという社会民主主義とが、対立しあうという状態が続いてきた。どちらも、労働者階級の立場に立つと言いながら、お互いに相手を否定しあってきた。(「21世紀の社会主義」山ア耕一郎著)
2.国民政党論、右派社会党・民社党、構造改革論、「参加と介入」、ニュー社会党、「協会規制」等々。これまで、マルクス・レーニン主義から、社会主義思想により、先達は論争を進めてきた。資本主義体制内での改革・改良では、労働者階級の解放はありえないがゆえに、ある意味、痛烈な批判を展開せざるを得なかったし、仕打ちも受けてきた(?)のではないか、と思います。
3.「社会主義政党内閣の成立が何度繰り返されたとしても、それは社会主義革命にはならない。労働者階級による政権の獲得が社会主義革命を意味するものとなるためには、労働者階級が政権をにぎったというばかりでなく、その獲得した政権が確立されなければならない。議会における絶対多数、党が国民大衆の利害を真実に追求し、その信頼を獲得し、労働組合、農民組合、その他一切の大衆組織を党へ有機的に結びつけ協力させることにより、安定化、恒久化する。議会においては、安定した絶対多数の上にたって、社会民主主義的改良を進め、国民大衆の信頼を獲得し、議会における絶対多数と、その安定化を、恒久化としていく。強力的な社会民主主義的な闘い=体制内改良闘争が必要となる。」
『資本主義の矛盾(現象)を鏡にうつし、裏返す。→社会民主主義=体制内改良闘争=政策の束→あるがままの労働者階級により打ち立てられる社会主義』という前提に立つならば、そして、「資本主義のなかで改良を積み重ねて、経済的平等を少しずつ実現しようという社会民主主義」の運動が、現在、ほとんど見えない状況において、社会民主主義的改良を進め、国民大衆の信頼を獲得し、議会における絶対多数と、その安定化を、恒久化としていく、強力的な社会民主主義的な闘い=体制内改良闘争の強化が、必要となっているのではないか。
・そして、社会民主主義的な闘い=体制内改良闘争のある時点までの闘いは、社会民主主義者、社会主義者は共有できる、と思う。

※英国「ゆりかごから墓場まで」の社会福祉制度や、重要産業の国有化等が、戦後の労働党内閣成立させた、自ら「俺たち」といっていた労働者=労働組合の力によって誕生したことを、初めて知った。
※社会民主主義的な闘い=体制内改良闘争の必要性と、今回の総選挙における、「希望の党」について。
・「北朝鮮問題をテコとした憲法改悪、集団的自衛権=戦争法の廃止」「森友・加計問題」「アベノミクス→格差の拡大」という状況下において、政権交代という集約点で、このために、選挙闘争に勝利し、政権の獲得のため、十分な議論と納得できる政策の合意とがあれば、一つの大きな有意義な政治転換へと結びついたのかもしれない。
・しかし、少なくとも、今回の経過は、組織的なものではない、少数の者の思いつき的なもので、十分な議論と、政策の合意のないものであったと思われる。
・社会主義政党と、各級議員のあり方、「政策、各課題の法制化」については、各議員の考え方でころころ変えられるものではなく、社会主義政党としての筋を通したものでなければならないと思う。(政策の確認もないのに、議員だけで、「そっくり合流」なんて。社会主義政党でないから、あり得るのか?)
・社会主義政党の組織論、綱領はどうあるべきか。国民的統一戦線政府綱領等の学習も、課題となると思う。
[190] 2017年11月15日 (水) 18時18分
N.K.
「【これからの社会主義】『資本主義の矛盾(現象)を鏡にうつし、裏返す。→社会民主主義=体制内改良闘争=政策の束→これからの社会主義』として考える。」

北海道の鉄道はどうなるのか?

10月5日道新主催、公開討論会より。
【大地】
・JR北海道の赤字は、国が積んだ経営安定基金の運用益不足が原因。
・税法を改正して、JR東日本、東海、西日本、九州の法人税の1割をJR北海道支援に回す。
・政治の名において、北海道のレールを全て残すべきだ。
【立憲民主】
・貨物の割合が多い北海道の鉄路は傷みやすく、他のJRに比べ保線にお金がかかる。
・赤字になれば廃線にするのは経営者として知恵がない。
・政府の言うことばかり聞かず、「これはおかしい」と声を上げる時期です。
【自民】
・国がJR問題で、道や自治体に責任を押し付ける形の議論は間違っている。
・鉄道建設・運輸施設整備支援機構の改革を考えていかねばならない。
・JR北海道のために資金を捻出できるか、機構の収入や支出、事業を分析する。
【公明】
・鉄路を残す議論に加え、利用するかしないかの論点もある。
・通学生が多い駅と駅の間など、代替え交通を考えることも重要。
・必要な路線をどうやって残すか。
・国も含めて手当ができるような議論をしないといけない。
【共産】
・資金ショートするから廃線するというJRのやり方は一方的だ。
・国が国民の移動する権利を保障することが大事で、国の責任で廃線を止めるべきだ。
・JRグループや国が出資し、鉄道を維持する基金制度を提案する。
【維新】
・「住民の足」は絶対に確保しないといけない。
・国が中心となり、鉄道を守る努力が必要。
・JR北海道の企業体質にも問題がある。もっと利益を求めることに貪欲になり、採算が取れない路線に回すべきだ。
【希望】
・JRは30年前から、約40%人員を削減し、がんばってきた。
・国鉄民営化で、7分社化したことが、そもそもの間違い。麻生財務相も(JR北海道の経営危機は国鉄民営化が招いたと)失敗を認めた。
・国が支援しないとダメだ。
【社民】
・国鉄民営化が間違いだった。
・JR東日本が、欧州の会社などと共同で英国の鉄道事業の運営権を取得した。これに使われる資金は、日本の鉄道の維持のために使われてもいい。


・JR北海道の赤字は、経営安定基金の運用益が不足して、補てんしきれなくなったから?
・JR北海道の企業体質=利益を求めることに貪欲になれ!!
・赤字になれば廃線。経営者としての知恵がない。
・資金ショートするから廃線とするというJRのやり方は一方的だ。
・台風の災害により、国道や鉄路の復旧が求められる時、何故、鉄路だけが放り投げられたままなのか?

    『何故?――――資本主義だから』


≪自民党も含めて、現状を改善していくには。≫上記の発言から。
・税法を改正して、JR東日本、東海、西日本、九州の法人税の1割をJR北海道支援に回す。
・鉄道建設・運輸施設整備支援機構の改革。資金捻出のため、機構の収入・支出、事業の分析。
・代替え交通。
・JRグループ、国からの出資。支援。
・基金制度の創設。
・JR東日本の英国鉄道事業の資金を、日本の鉄道の維持のために使用する。


≪社会主義・共産制の社会では≫
・鉄道は、生産物と人民の生活上の移動の必要に応じて措置される、という当然のことでしかないのではないか。
・もうかる、利益が上がるからではなく、「必要」だから、鉄道事業が進められるのだ。
・資本主義社会であるから、赤字→廃線が出されている。
・社会主義、共産制の社会では、保線や鉄道運行においては「赤字」はないのであり、「赤字」を理由としての廃線はない。
・しかし、その必要性を点検せずに、漫然と鉄道を運営されてはいけないのである。
・ソ連的社会主義の品質の悪い生産物が、在庫の山となってしまった状況と同じように、鉄道事業で「利用の少ない」のに、何も考慮されずに運営されて良いとはならない。
・日本最北端の地・稚内(北方領土が日本最北端の地になるので、「日本最北端の地」を使うなというが、何とバカげたことを言っているのか。稚内市長よ、高橋知事よ、怒れ!日本最北端、宗谷岬と言っちゃいけないのだそうだ。)までの鉄路は、豪華な客室の列車をつくり、かつての寝台車のように「予約待ち」の状況をつくれば良いのでは。
・(根室まで、ビール4社が共同で鉄道輸送したように、)人のみならず、物資の輸送の活用を図り、必要と利用が存在すれば、鉄道の維持・運営が可能となるのでは。
・稚内において、宗谷牛、利尻のウニ、枝幸のカニ、温泉を満喫できる(日本全国の企業・労働組合の福利厚生としての)旅行を設定することにより、必要と利用量の増を図ることができないか。
・サハリン(ロシア)の天然カス、風力発電等からの水素生産等々の産業を発展させることから、鉄道事業の必要性も興していけるのではないか。
・鉄道事業においては、現状の資本主義国日本では、マイナス思考で終わってしまう。社会主義への移行こそが、問題の解決への道ではないか。
  
≪どうです。ワクワクしてきませんか?≫
[184] 2017年10月27日 (金) 00時31分
N.K.
【これからの社会主義】
『資本主義の矛盾(現象)を鏡にうつし、裏返す。→社会民主主義=体制内改良闘争=政策の束→これからの社会主義』の図式で考える。

【現代日本資本主義における改良闘争の課題として。】
テレビ「党首討論」等から、共産党、立憲民主党、社会民主党の
発言の内容等を中心に。
   (資料を示しての発言ではなく、言われた数字等の確認は
できていない。)

・労働者の実質賃金、10万円の低下。
   家計消費一世帯あたり、22万円低下。
     経済の土台の冷え込み。
・内部留保。
  大企業は史上空前の利益を上げ、400兆円を超えて、内部留
保を積み増している。
・上位40人の富裕層の資産は、株も上がって、2000億円から
4000億円と、2倍にとなった。目もくらむような、格差の拡
大だった。
・大企業や富裕層の利益が、いずれは庶民にまわってくるというや
り方は失敗した。
 国民のくらしを応援して、経済を良くしていく、格差と貧困を減
らす、正す。
 1%の富裕層や、大企業のための政治ではなく、99%の国民の
ための政治に切り替えていく。
・アベノミクスは、実は、終わっている。強い者をより強くし、豊
かな者をより豊かにすれば、そこから豊かさがしたたり落ちてい
くというのが、アベノミクスであったが、ところが5年たって
も、それがいっていない。
・安定成長、成熟社会においては、実は、強い者をより強くすれ
ば、格差が広がる。格差が拡がって、貧困層へ行ってしまった。
強い者たち以外の人達は、可処分所得が減って、その分消費が落
ち込んで、それ以来、ずっと消費不況が続いている。
・消費不況を脱却するためには、可処分所得を増やす以外にはな
い。可処分所得を増やすのに、現金をバラまけばよいのか?これ
では、持続可能性はない。労働者の賃金の引き上げ等による可処
分所得増である。実質賃金の引き上げである。
・(これを政策的に進めていくには、)ニーズがあるのに供給が不
足している労働部門がある。保育、介護部門である。しかし、保
育士・介護士ともに低賃金である。市場社会ですから、本当はお
かしい。需要があって供給が少なければ、価格は上がる。保育士
や介護士の賃金は上がらないとおかしいのだが、これは、公的に
抑制しているからである。そこに公的なお金をまわして、そこか
ら循環をつくっていく。そして、消費を増やし、消費不況を脱却
する。
・保育士・介護士等、この間の労働法制をおかしな方向へ緩和して
きたことにより、不当に安く抑えられている賃金を、公的な資金
 で底上げしたり、規制を強化して長時間労働等を規制していくこ
 とが求められている。
・世論調査でも、国民の8割が、景気回復の実感がない、より生活
 が厳しくなったという声である。
・アベノミクス……異次元の金融緩和を日銀がやって、国債の4割
 を日銀が保有。5年連続の100兆円規模の予算。法人税率も、
 実効税率29.97%で、安倍政権になって7%下がっている。 しかし、実際、法人税率を下げても、企業の内部留保は406兆
 円で、設備投資や賃金へ向かっていない。国民の生活に行きわた
 る、家計があたたまるということがない。
・実質賃金の低下が、パート・非正規の労働者が増えて全体の実質
 賃金が低下したのだというが、しかし、大企業の労働者も8万円
 下がった。
・消費税を8%に上げて、このことによって、消費不況が起こっ
 て、なおかつ、所得が減って消費が冷え込んでいる。消費税の
 10%引き上げを中止する。富裕層や大企業に応分の負担を求
 める税制改革を行う。
・ベーシックインカム。全国民に一定額の現金を給付。月5万〜7
 万円×1億2000万人=年間約72兆円〜100兆円。(北欧
 の国で実験的に実施されている)
将来的な考え方として一考に値すると思うが、議論して、導入・スタートまでに、5年〜10年くらい。今の年金制度等からの移行等では、30年〜50年かける話で、足元の経済対策・景気対策とは関連するものではない。
……………………………………………………………………

◎社会民主主義的、改良主義的政策としては、労働者・勤労者にとって良しとなる経済政策は、色々あるのでは。
もっと言えば、反独占・反自民の立場から、中小・零細企業主の利益となる政策の検討・提言も必要ではないのか。(例えば、内部留保の一部を中小・零細企業の赤字補てん、貸付制度等の法的整備等)

◎ベーシックインカムが出ていたが、………………。
 ※2016.10 支局研究会にて。
  ・国民一人当たり、国から毎月5万円、年間60万円、
   無条件で支給。
    ×1億2700万人→年間80兆円くらい。
   GDP500兆円の15〜16%。
   80兆円は、毎年資本が純益でもっている利潤とほぼ
   同じ金額。
   社会主義になったら、この倍、毎月10万円ぐらい配分可。
 ・生まれながらの平等の相続金―――
                相続上限、一人2000万円。
   相続がないと見込まれる者には、1000万円支給される。
     生まれたことにより、最低1000万円、多くても、      2000万円の相続金。
  このため、高額所得者の資産からの課税による基金をつくる。
※社会主義国日本における年金制度について
  ・社会主義体制下では、生活必需品が平等に配分される。
   したがって、現行年金が受けられる「事故」がおきても、
   あえて年金の支給がなくても良い。社会主義国日本におい
   て年金制度については不要となる。
  ・年金は、今より少額で残るのではないか。
   生活必需品ではなく、余暇消費、旅行、孫の小遣い、学術、
   芸術等々を享受するための原資として。
[182] 2017年10月12日 (木) 14時55分
N.K.
【これからの社会主義】
『資本主義の矛盾(現象)を鏡にうつし、裏返す。→社会民主主義=体制内改良闘争=政策の束→これからの社会主義』の図式で考える。

◎今総選挙闘争のなかで、公約・政策として、「内部留保への課税」――国家財政・税収入の増→政策項目実現の財源確保が言われている。

◎(あるテレビの放送では、)
・内部留保とは、企業の貯金である。
・2016年には過去最高、約406兆円。(財務省「法人統計調査)
・これに対する批判として  
     税金を二重取りすることになる。
     先行き不安に備え、企業が貯蓄しているのだから税を徴
収するのは……
・(反対に、)フローからストックへ、課税の重点を移すべきの意見。(「出回る」金でなく、「たまっている」金に税金を。「出回る」金に課税=消費税等は、経済活動にブレーキをかけるから。)

◎社会主義10月号、又市征治さんの提起では。
・アベノミクスのもたらしたもの。この4年半、大企業は毎年過去最高益を更新し、今や内部留保(利益剰余金)は400兆円(国家予算の4倍!)と、莫大な富を貯めこんでいる。
・大企業の内部留保を、外形標準課税対象として、2%程度課税→約7兆円の税収に。

◎「日本経済<悪い均衡>の正体」伊藤修さん。
P130〜P133
・資金剰余=企業部門が、高い利潤を得て、内部留保していること。
・内部留保(企業貯蓄)が、高水準にある。

著しく膨張した内部留保を取り崩して、賃金(あるいは投資)に回せという主張がある。
 ・理論的には誤り。資本金が、……現物で存在するわけではな
い。       [だから、外形標準課税対象?]

 ・内部留保には、年々の付加価値のうち、分配しない分というフ
ローの概念がある。
 ・年々、賃金に回さずに、過大に留保利潤としてことが問題なの
であって(ストックはその結果である)、先の主張は、このフ
ローの次元で、毎年、より多くを賃金に回せ(配分せよ)という
のが、正しい。
[どういうことか? 良くわからず、今後の学習が必要]

≪社会主義においては、・内部留保そのものがあり得ない?・計画経済の中で、毎年の生産と消費の調整をみていく必要があるのではないか。その結果により、次年度に向けて、開発・改良、生産、もしくは生産ストップを考えていくこととなるのではないか。≫
[180] 2017年10月08日 (日) 17時16分
中田 海星
社会主義8月号(2017/第662号)
田部 徹 さんの投稿からの、勝手な<<bナす。

・未来の、資本主義に代わる(社会主義)社会の現実的経済運営(に)は、20世紀社会主義が果たしえなかった計画経済の困難(性)――需給関係(必要と生産)の掌握、労働と技術改良・移転のインセンティブ、労働の適正配置、――を(克服することを)可能とする経済システム・・・。それを可能とする柔軟な政治・社会システムが不可欠となる・・・。

・(ソ連の経済)フルシチョフ時代にはじまる成長率の低下、停滞に対する経済改革の試み(1965年)は、70年代ブレジネフ体制下では、物財バランス計画の困難が、より一層、深まっていった。

・80年代後半以降、ゴルバチョフによるペレストロイカが始まるが、市場経済導入の試みは成功せず、ソ連邦の崩壊、計画経済体制の崩壊へ。

・崩壊した社会主義計画経済は、集権型指令経済であった。それは、「不足の経済」が状態化し、悪循環に陥るものであった。そして、需要と供給関係(必要と生産)が正しく機能しない計画経済システムであった。

・「不足の経済」の状態化=東欧社会主義経済のソフトな予算制約。(資本主義経済体制においてはハードな予算制約)
東欧社会主義では、公定価格を基本にしており(資本主義社会では需給関係が価格の変動によって生産調整)、需給関係(必要と生産)に反応して生産を調整していく経済システムが形成されていない。

・東欧の社会主義国において、経済の計算単位が、主として物量・数量によって行われ、資本主義社会のように価格の変動による需給関係の状態掌握が機能的には行われていない。

・国家による損失補てん=温情主義が、「不足」の経済を恒常化していった。

・「赤字」化の救済、技術革新、生産性向上のインセンティブの欠如。
 市場(需給)調査・推計・生産計画への反映が取り入れられず、より良い生産物を開発していく、生産性向上・技術開発・移転や生産計画に対する労働のインセンティブの形成に成功しなかった。

・「不足の経済」の抱える問題。
 企業の原材料確保において、余剰状態が常態化する。
 ソフトな予算制約下では、生産主体である企業が、「不足」に対して、常に過剰な原材料の確保を図る。

・生産者が独裁者の(独占的な)立場に立つと、生産革新への動機が失われる。―――技術革新インセンティブの欠如。

・「特殊な長期需要」(不足=行列)(例として、自動車購入に10年先の予約)が、逆に、生産・技術のインセンティブをゆがめてしまった。長期需要=行列が、新製品導入、技術開発のインセンティブ、生産意欲を失わせた。

・買い手(需要)のイニシアティブによる生産計画、調整が不可欠である。

・歴史の事実
「市場社会主義信奉者によって、社会主義計画経済体制が崩壊し、歴史の過去に押し流されてしまった。」
[168] 2017年08月02日 (水) 20時37分
運輸業
>中田 海星 様
主要な点は同感できます。「計画経済」は、資本主義に対して社会主義の優位性を示す、最大の武器と言っても良いでしょう。

でも、ソ連型の計画経済の総括は、もう少し内部を見た方が良いと思います。特に、

ソ連方式の計画経済の実態。
 @最優先部門:軍事部門・・・「第一部門」と言われ、無条件に必要物資・優秀な人材が供給された。
 A第2優先部門:生産財生産部門・・・特に重化学工業。消費財生産財、農業生産財は、完全に劣後順位。
 B最後の残りで、消費財生産計画・・・上位の「隘路」・問題あれば、最優先でカットされた。

「個人消費を犠牲にしたこと」が最大の特徴です。
 ソ連の個人消費は、GDP比で30〜40%程度(様々な見解ありますが、大体で)しかなかった。軍事力・生産財に注ぎ込まれたからです。先進資本主義国でさえ60%はあります。
 「発電所の話」が、もし第一優先の軍事用だったら、生産関係者は、全員処刑されていた事でしょう。「民生用」だったはずです。
 行列は、弾丸が買えない軍人の行列ではなく、生産財が買えない経営者の行列でもなかった。
 パン・卵・精肉・鮮魚等々、「生活必需品さえ買えない国民」の行列だったはずです。「経済(消費)が豊かな水準に達していた」というのは、今や世界の常識となった「幻想」です、「死なない程度に供給された」だけです。
 

ですから、必要なことは、
@経済計画の最優先を「個人消費財」に置くこと、GDPの70%程度を必ず消費財に回すことが必要。ソ連の順位は逆転していた。そうすれば、ソ連が世界的軍事大国になれたように、世界的消費大国の実現が可能でしょう。

A「個人消費財」、特に必要品は、「過剰生産」が必要。「生産と需要を合わす効率的計画」は1完全に無理ですから、常に「必要量の120%〜130%を供給」、残ったら捨てるしかないのです。それでも、日々とんでもない量を廃棄している資本主義よりはるかに効率的なはずです。
 
[167] 2017年08月02日 (水) 11時15分
中田 海星
「学習古典解説」で、伊藤修さん。
・1989年〜91年にかけて、ソ連・東欧の社会主義は崩壊した。
・なぜだったのか。
・どこを修正して、今後の社会主義像を描かなければならないのか。
・ソ連・東欧の崩壊をどう考えるのか。教訓は。
・政治面で非民主的だったこと。それに対する国民の猛烈な反発が命取りになった。
・権力に対する牽制(チェックアンドバランス)の仕組みを政治の中に組み込むことが(絶対に!)必要である。
・民主主義の保障が追求され、公開で透明に事が進められなければならない。
・経済制度の面での教訓。
・搾取と支配の源である生産財の私有の廃止、公有化が基本である。この点は理論的に間違いがなく、いっさい揺るがない。
・その上で、計画経済の仕組みについては、総括と修正が必要である。
・「私有財産制、市場、競争を欠く経済制度はもともと無理だったのだ。」というのが社会主義批判論の中心である。
・しかし、社会主義経済は、その前半は高い成果をあげていたのだ。
・旧社会主義経済は、国民が必要とする各種の物資の生産を、当局(ソ連ではゴスプランといった。)が計画して各企業に指示する仕組みであった。
・この仕組みは、消費水準が低い段階ではうまく機能した。資本主義より急速に人々の生活水準を引き上げていった。
・問題点が出てきたのは、経済(消費)が豊かな水準に達してから、だいたい1960年代以降のことである。
・人々の好みは無限に細かくなり、複雑になった。
・そうした無限に細かく複雑な需要を当局が把握し、生産指示することは、極度にむずかしく(というより無理に)なってきたのであった。
・そうすると、必要と生産のあいだにズレが出る。あちらには売れ残った物の山ができ、こちらには品不足の物への行列ができる。
・これが深刻になって、イライラがつのるところへ、情報自由化(グラースノスチ)で西側の豊富な品揃え・・・われわれにしてみれば、みんなが買えるわけでもないのだけれど・・・の情報が入ってきた。
・不満は頂点に達し、積年の政治的不満と相まって、体制を吹き飛ばした。
・大筋は計画で、末端は市場で。
・今後のポイントは、人々の必要(需要)と生産(供給)をよくマッチさせる仕組みを取り込むことにある。
・大筋は計画で。末端は市場で。この組み合わせをうまく工夫する。
・この基本に沿って、より詳しく研究を詰める任務が、われわれにはある。
「ソ連的社会主義の総括」・・(ソ連の経済的崩壊過程)で、山崎耕一郎さん。
 一方では生活必需品の不足に対する不満が高まると同時に、他方では生産された商品が品質の悪さを嫌われて大量に売れ残り、しかもなおかつ生産され続けた。
 生産された農産物を、貯蔵、輸送の手段がお粗末で腐らせてしまう。
 「欠点がわかっていながら、明白な欠陥が直されないまま、改革の議論だけが騒がしく行われた」
 新型の「火力発電ボイラー」→金属使用量25%減。設置に要する土地、建物も縮小可で、工期も半減する。燃料消費量の減、有害廃棄物の放出の減少。だが、この新製品は採用されなかった。→ボイラー製造工場において、鉄を多く使わない。→工場の産出量の低下となるため。(金属使用量で算出量を図るため、算出量が低く評価されるため。)
 結局、この優れた新製品は採用されず、新火力発電所には、旧式な巨大ボイラーがつくられた。発電所自体も巨大化。当然、このため金属使用量多くなった。工事費もかさみ、効率の悪い発電所ができた。
 せっかくの新技術が採用されず、莫大な資源、労働力・資源の浪費が行われた。古い設備のまま。社会主義的合理化が実施されなかった。
 「権威主義的、官僚主義的」であった。
 政治家が決めた「計画」が、国民の要求「需要」とずれていた。

『マルクスと日本人』で、山ア耕一郎さん。
・エンゲルス、「空想より科学へ」の中、「矛盾の解決」ということで、労働者が権力を握ったら、生産手段は国有化して、国民の共有財産に。商品はなくなる。これが、社会主義の原理と考えた。
・社会主義市場経済。・・・・社会主義は崩れたという見方。
・平等が目的なのだから、「平等と計画」が成り立てば良い。平等→完全平等でなく、「大体平等」。計画も、「大体計画的」であれば良い。
・ソ連は、第一次から第三次五カ年計画ぐらいまでは、鉄の生産に力を集中して、鉄鋼の生産では西側の国々と並ぶ力を持てた。
・そういう力を集中する計画というのは、細かいことを決めることに意味があるわけではなく、資源とか資金とか労働力を計画的に重点的に使えるというところに意味があるのだ、というふうに考えれば、そういう政治は大いにやるべきことではないかというふうに思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「生産財の私有廃止、公有化は基本」
「計画経済の仕組みについて、総括と修正が必要」
「経済(消費)が豊かな水準に達して、人々の好みは無限に細かくなり、複雑になった。当局の把握(需要)がむずかしくなった。」
「売れ残りの山、品不足の物への行列」
「大筋は計画、末端は市場で」
「人々の必要と生産をマッチさせる。」
「計画と需要のズレ」
「大体平等、大体計画的」
・ソ連が、社会主義体制を残し、経済運営の修正をはかれなかったのは、つくづくも残念と思います。
・中国、ベトナム、キューバ等々は、「計画経済の仕組みについて、修正し」、社会主義国として、再スタートはできないのか。
[166] 2017年08月01日 (火) 22時56分
たかしゃち

山ア耕一郎さんの本が発行されたようです。

「漱石と『資本論』」祥伝社新書
    小島英俊さんとの共著とのこと。

どなたか、書評を載せていただければと存じます。




[165] 2017年07月30日 (日) 12時42分
望ちゃん
>運輸業さん

 アソシエーション理論とは、言葉だけは聞いたことがありましたが、先にご指摘のあった「国家機能は、死滅に向けて徐々に縮小していく」が、これは「NPO・NGO等、協同組合が官僚に換わる」という下りが、妙に気になって伺った次第です。追記していただいた説明は、私にとっても納得のいくものでした。ありがとうございました。

 これからの社会主義は、いわば未来社会論の組み立て直しからだと思うのですが、なかなか全体イメージがまだぼやけてしまっています。このアソシエーションの理論も、そのためのひとつのパーツとして大事にしておくべきものなのでしょうね。

 マルクス主義ではない別の社会主義論との「親和性」については、私は気にしませんが、ご指摘にある「国家権力について不明」「国民経済ととしての一体性」云々というところを補うには、どうしたら良いのか…。理屈としては一番難しいところですね。

 いい加減な歳になった私には、未来社会論を描き直し、理論的に解明し続けるだけの能力も気力もありませんが、市場社会主義論や、北欧などの「温和な社会主義」の理論と実体などのパーツを組み合わせたら、結構良いものが出来上がるように思っています。ロシア革命から100年、ソ連崩壊からそろそろ30年近くなりますから、そろそろ、若くてピチピチした人材が現れてきてくれることに期待したいですね。
[147] 2017年06月29日 (木) 20時12分
郵便も運輸業
アソシエイション
※マルクスは社会主義を、諸個人の「アソシエイト」された社会と表現した。その内容を問う理論ということでしょう。
※核心は、「自立した諸個人の自由で対等なネットワーク的連合」を指す。
※通常「共同体」と訳されるが、この訳語は、「20世紀社会主義」のマイナス・イメージを引きずっているいるという観点から、
 それとは別物という批判を込めて、アソシエイション・協同体・連合体等と表現。
※幅の広い理論だが、最もラディカルなものとしては、松尾匡氏ら、
・社会革命は、旧社会内の「新たな生産関係」が勝利すること、という唯物史観から、
・資本主義内の「アソシエイション」、生協・労働組合・NPO・NGO等の自主的組織、
・これらが一国、又は世界経済の中心に成長し、資本主義から支配権を奪取することで革命が起こるとする。
※既存社会主義がいわゆる「一部の前衛」「上から」だったことのアンチテーゼとして、「自由意思の諸個人」「下から」の革命を説く理論。

★ただ、オーエン主義的協同組合論、サンディカリズム、アナーキズム等と親和性が強く、「国家権力」について不明。
★同じ事の別面だが、参加も離脱も「個人の自由意志」の社会が、いかに「国民経済」としての一体性を保てるかの法則性がない。
[146] 2017年06月28日 (水) 03時29分
望ちゃん
>運輸業さん

年金問題に引っかけて?「アソシエイション理論」なるものが紹介されました。大変興味があります。

用語解説として、次のURLでの紹介もあります。
建設的に勉強する意味でも、問題提起があればお聞かせくださると幸いです。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_aso.html
[145] 2017年06月27日 (火) 15時24分
運輸業は特殊
>年金について
※年金はたぶん、今より少額で、残るんじゃないかな。
・年金が生活必需品しか出せないのは、資本主義の特徴。
・人間は、「活きてれば良い」だけの存在じゃない。
・社会主義の年金は、余暇消費、旅行・孫の小遣い・学術・芸術・・・
 それを享受するための原資として、残るでしょう。
・当然、生活必需品は無償給付された上での話です。

※国家機能は、死滅に向けて徐々に縮小していく。
・社会保険庁の業務はかなり単純、軽量になり、大きく縮小して残るでしょう。
・生産力が上がり、無償支給枠が拡大すれば、業務量はどんどん減っていくでしょう。
・こうした現象は、全特殊官庁の一般的な道筋となるはずです。

※NPO・NGO等、協同組合が官僚に換わる。
・死滅を促進する、もう一つの流れ。「ボランティア」、自主活動の拡大。
・年金支給活動は、「賃金」をもらわない、希望者が担うでしょう。「謝礼」程度は、あるのでしょうが。
・この辺は、近年「アソシエイション理論」として、語られている部分です。
[129] 2017年06月13日 (火) 16時04分
たかしゃち
2017.6.13  S−1
※社会主義国日本における年金制度について
・現状、年金は、障害、遺族、老齢に対して給付が行われている。社会主義国日本においてはどうあるべきか?
・社会主義体制下では、生活必需品が平等に分配される。したがって、障害、遺族、老齢の生活状況の変化が生じたとしても、生活必需品を受けることに特段の支障は生じない。
・ゆえに、社会主義国日本において、年金制度は不要となる。年金制度がないということは、これを管理運営する社会保険庁等は不要となる。これらの相当の職員等は、他の管理事務、生産労働に充てることができる。
[128] 2017年06月13日 (火) 06時05分
タクちゃん
{社会主義の一構想」:勝負は「自由時間」

<社会主義の本質・使命:必要労働時間と剰余労働時間・自由時間>
「歴史」という概念が意味しているのは、「固有の科学的発展」である。
「人間の歴史」とは、人間固有の科学的発展、を意味する。
「自然と人間だけが歴史を作る」のは、人間以外の全存在は「自然発展・本能的発展にくくられてしまう、モノの運動」であり、
人間だけが、自然史的発展とは異なる、固有の発展をする。端的には「自然界には存在しない人工物」を作る。

固有の発展・「自然界には存在しない人工物」の、根源の動機は人間固有の「欲望」であり、最高の成果は「剰余労働時間」である。
他の生物は、「必要」が充たされてしまえば狩りをやめ、「剰余」を求める「欲望」能力がない。
マルクスがいうとおり、「結局、全ての経済は、『自由時間』の創造」、「剰余労働時間とは自由時間」そのものである。
「剰余時間」とは、「余った」「余分な」「本来不要な」時間であり、「人間が自由に処分できる時間」を意味する。

ちなみに、「労働」概念には、「義務・強制性」が含まれている。「必要労働」は、自然の支配下での「自分のための義務・強制」活動であり、
「剰余労働」は、本来、人間個人の「自由時間」が、社会的支配下で「他人のための義務・強制」になっていることを表現している。
必要労働は超歴史的に存在するしかないが、剰余「労働」時間という実体・概念は、階級支配時代で死滅する。
「剰余労働時間という特殊歴史的実体を、潜在的可能性だった、国民の自由時間に現実に転化すること」が、社会主義の使命である。
社会主義の使命は、「生産力の拡大」ではなく、それを手段とした「自由時間の拡大」、「物質消費と時間消費の拡大」である。

<歴史の動因、人間の根本矛盾:「必要労働時間」対「剰余労働時間=自由時間」、「労働者」対「人間」>
生産では、常に、「必要労働時間」を超える部分が「剰余労働時間」となるが、両者の関係はそんな甘いものではない。
人間の時間が常に有限であるから、実際の歴史は、常に「剰余労働時間を拡大したい=必要労働時間を短縮しなくちゃ」形態をとる。
つまり、「必要労働時間」対「剰余労働時間=自由時間」は絶対的な対立関係にある、「人間固有の根本的矛盾」である。
マルクス唯物史観の「生産力は発展する」という規定は、「発展する人間的欲望」を動機とした、この根本矛盾の運動法則である。
さらに、人間固有の根本的矛盾だから、超歴史的であり、階級支配時代も社会主義社会でも「自由時間は発展する」。
それに失敗すれば、資本主義に戻るしか道はない。

「必要労働時間」対「剰余労働時間」の矛盾から派生する他の表現は、
「労働時間」対「自由時間」であり、さらに、「労働」対「自由」であり、「労働者」対「人間」である。
人間史は、「自由への欲望」のために、生産力を発展させながら、間接的に「労働の廃絶」を求めている。
ロボット化・自動化・人工知能、「労働の廃絶」の客観的条件は、かなり現実味を帯びている。

<社会主義計画の原則:「必要労働時間」と「自由時間」の計画的運用>
社会主義最大の課題は、「自由時間の拡大」による「国民各個人の自由時間消費」となる。
第一義的計画は、国民の総活動時間の、「労働時間」と「自由時間」の意識的配分、自由時間の拡大計画(労働時間短縮計画)でなければならない。
この計画は二面的、(1)経済・生産計画:個人消費財をどう生産するか、(2)非経済的・活動計画:個人の自由活動時間の消費をどう保障するか、である。

(A)「必要労働時間」はいまだ「労働」であり、国民の全「必要生産物」を生産する。この部分は、自然的人間・動物としての人間の生存、を保障する。
  生存保障は無条件・絶対的だから、無償分配される。だから、常時必要量より過剰に生産されなければならず、貨幣・市場は不要である。
  「保障・無償」だから、「必要」という範囲内だから、ソ連的型計画経済で十分生産可能。
  現状の「家計簿」を分析すれば、たぶん、総個人消費の7〜8割はこの部分。「計画生産・無償分配が経済の一般原則」である。
  これにより、歴史上はじめて、国民全員が無条件に自然支配から脱却する。画期的だが、この部分はまだ、社会主義の基礎でしかない。
  国民にとって、無償分配は「空気の存在」と同様となり、すぐに、特に意識しない「当たり前」になる。本当の勝負は(B)にある。

  生産労働は「実現した生産量=社会的労働量」で、国民が決める「社会主義的賃金=分配権利票」の「収入」を得る。
  この「分配権利票」は、必要生産物の分配ではなく(無償分配だから)、(B)の「剰余生産物」の分配手段として使われる。
  この「分配権利票」は、「社会的労働量」を表現する「社会主義的貨幣」といって良いが、マルクス経済学的な「価値」「貨幣」ではない。  
  「分配債権」であるから、交換されるのではなく、自分の個人的分配分を、「倉庫から引きとる」証明書でしかない。
  引き取られる生産物側にも「社会主義的価格」があるが、それは同一労働量を示すのではなく、生産物の円滑分配の手段・形式の「価格」である。
  これらは「社会主義的市場」を構成するが、「社会主義的市場・貨幣・価格」は、資本主義のそれら概念とは本質的に別物である。
  もっとも単純に言えば、「社会主義的市場には『商品』が存在しない。分配の債権と債務の決済場である。」

(B)「自由時間」、未稿。この部分が最重要なのは分かっているが、誰も・私も整理できていない。
[103] 2017年04月23日 (日) 23時30分
タクちゃん
>「革命的情熱」について

革命家の「革命的情熱」が、「革命時点」ですばらしい点では、キューバに限らず、ソ連・東欧・中国・北朝鮮も同様だったのでしょうね。
ほぼ「全てを投げすてて革命の一点に集中する姿」は、被差別大衆の解放という点で、歴史的に高く評価されなけらばならないと思います。

ただ、ゲバラのように「革命的情熱」、「全てを投げすてて革命の一点に集中する姿」を維持・持続する必要があるのは、彼のように、「革命を起こすということに、人生をかける人」の特徴でしょう。
特に、民主主義的な平和革命ではなく、武力闘争による革命を目指す場合に、この緊張は頂点に達するでしょう。
平和革命にも大きな「情熱」はあるでしょうが、「人々を教育する」という「上から目線」は逆に「危機」を孕んでいると言えるでしょう。

革命後の社会主義建設には、そのような「革命的情熱」は不要とまでは言いませんが、あまり意味がないのではないのでしょうか。普通の国民は、革命の翌日から、緊張から解放され、「のんびり楽しく」生活したいはずです。

「教条主義の危機」「自分の弱さの危機」で、独裁や特権やらの「腐敗」に感染していくのを防ぐのは、「革命的情熱」の維持ではなく、「普通の国民」による、冷静に設計された「民主主義的な法や社会制度」でなければならないと思います。
さらに、情熱に支えられた「プロレタリア国際主義」等々の諸原則を、「我々が」(誰?)「人々を」(国民のことでしょうね。)教育しようとすると、「前衛党の指導による国家運営」の条項がある憲法だとか、「ブルジョア的マスコミの弾圧」だとか、「西側スパイの大虐殺」とかになりやすいでしょう。

「労働者民主主義の陥穽」です。

「社会主義的な国民的価値観」は、誰かが国民に「教育する」のではなく、民主的な社会生活の中で、自然と育まれる意識でしょう。
社会主義政党は、国民を指導・教育するのではなく、国民から有能な社会建設集団として、「信認」を受けることに努力を集中させるべきだと思います。
[99] 2017年04月07日 (金) 13時53分
北斗星
「チェ・ゲバラ名言集」エルネスト・チェ・ゲバラ 原書房

最近「チェ・ゲバラ」を何十年振りに読んだ。「ロシア革命」(岩波新書)も同時進行で読んだ。
キューバ革命家のすばらしさと凄さ、旧ソ連、東欧、中国、北朝鮮等の革命家との根本的違いが改めて思い知らされた。ほんの一部分だけ紹介し、味わってみたい。
「革命思想の駆動力である革命家は、社会主義の建設が完全に達成されない限り、絶え間ない活動により消費され死にいたる。革命熱が冷め、革命家がプロレタリア国際主義の考えを忘れてしまったとき、彼が率いる革命は前進をやめ、安眠状態に陥り、相いれない敵である帝国主義の拡大を許してしまうだろう。プロレタリア国際主義は義務であると同時に、革命にとって不可欠な要素だ。これが我々が人々を教育する方針だ。
 もちろん、現在の情況にも危機は潜んでいる。教条主義の危機や、偉業の途中で大衆との関係が冷え切る危機だけではない。我々の弱さに陥ってしまう危機もある。もし誰かが、革命に人生のすべてを捧げるのだから、その見返りとして自分の子に不足しているものがある、子どもの靴がすり減っている、家族に必需品が不足しているなどといった心配事から自分は解放されるべきだと考えるなら、それは彼の精神が未来の腐敗の病原菌に感染していることを意味している。
 我々は、自分の子が一般の人々の子がもつものしかもたず、一般の子がもたないものはもたないように心がけてきた。我々の家族のことを理解し、そのために闘ってきた。革命は人によって成し遂げられる。そのためには毎日欠かさず革命精神を奮い立たせなければならない。」
[71] 2017年04月04日 (火) 10時57分
中田海星
2017.3.22
 『マルクスと日本人』から
  ・(ソ連末期では)1日3時間労働、週休2日、夏は2か月休暇をとって、生活ができていた。
  ・洗面器とか、プラスチック素材がうまく切れていなくて、カミソリみたくなっているので、指を切る危険性がある。だから、洗面器は、まず、周りを注意して見て、指が切れる可能性があるなら、ナイフで削る等、必要となる。
  ・一回金を払ったら、取り替えてくれない。ホーロー鍋に穴があいていないかとか注意して買わなければならない。電球なんかも、最初から、中の電線が切れているのが多い。だから、電球を買う現場の場所で、電気を通して、つくかどうか、全部、チェックする。大体、3割ぐらいはつかない。
  ・「社会主義的商品」
   例えば、ボールペンにしても、コップにしても、最初から値段がすり込まれている。値段が変わらない。
   どこで調整されるか。良いものはすぐに売れてしまう。数が少ないから、朝早くから行列ができる。悪いものはいつまでも棚ざらしにされている。価格が動くというかたちではなく、こういう行列というかたちで調整が行われた。
  ・卵10個、1ルーブル30カペイカ。(卵はソ連時代は高級品。)一方で、1ルーブル10カペイカの卵、58カペイカの卵がある。違いは鮮度。ソ連人は58カペイカの卵は絶対に買わない。一定期間が過ぎたら廃棄。
  ・ゴルバチョフの時代に「生活の質の向上」ということをソ連共産党が言い出した。そうしたら計画経済の欠点が一緒に出てきて、ソ連の信用がなくなったんだというように見えた。

 ※投稿から 1
  ・ソ連東欧の経済建設の目標は、アメリカ帝国主義に追いつき、追い越すことに。
   生活部門の領域では資本主義国の生産物に比べ明らかに見劣りするもの。
   その原因は量的指標に基づくノルマ型生産
   そこでは、使用価値としての品質(具体的有用労働)や生産技術の改善は軽視されるものとなっていた。
   需要と供給をコントロールし、労働のインセンティブを高める方法は、ノルマ型、指令型経済計画では限界。
   それに代わる経済計画と管理が求められていたが、社会主義的経済計画・管理制度はついに構築されず、経済の内包的・質的成長への転換は実現されなかった。
            (『生産力発展の動機』  インセンティブ=行動を促す動機付け)

 ※投稿から 2
  ◈ 「資本主義体制における失業、不況・恐慌、搾取」の裏返しとしての社会主義。
    これからの社会主義=理想的な社会主義体制。
    新しい商品が次から次と出てきて、暮らしていて楽しいと思える社会主義。
    そのためには、どういうシステムを作るべき?

 ※投稿から 3
  ・「個人消費」を最重要目的に。
  ・「動物的必要消費」(・・・必要生活財)
  ・「人間的自由消費」(社会的抽象労働の量に応じた)「社会主義的賃金」――分配債権で支給される。 
  ◈生産統制
  ・「消費」による生産統制。
  ・消費組織(国民的組織)。流通組織。計画生産や生産手段の発注更新を行う。 
  ・経済組織全体が消費、受注に拘束される。
  ・最終目的が「利潤」ではなく「個人消費」実現である。
  ◈社会的共通消費財の量的生産計画と人間的自由消費財の販売努力。
  ・消費組織が指示する総生産量を受けて、各生産団体が企業別の義務的生産量指示。     
  ◈自由消費財の生産がどう組織されるかが、最も困難な問題。
  ・消費組織の調査に基づく指示。
  ・各企業の新規開発品・開発営業努力。
  ◈システムが機能する根幹は、実現される消費量・額に貢献することが、各生産者の社会的評価をたかめると   いう点が、生産者の生産動機となる。

     ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
            ・21世紀における社会主義の発展形態
             社会民主主義運動・改良闘争の推進
             現在の社会主義を標榜する国々への発信
[70] 2017年03月26日 (日) 16時39分
北斗星
ソ連・東欧の崩壊に関して −その3−
 1993年「社会主義協会」編から、当時発表された見解を紹介する。
 各氏とも、詳しく丁寧に分析した結果を、たったの数行で表現するなんて、乱暴かつ失礼極まりないが、どうかご容赦。
@「崩壊の根本要因は、官僚主義と市場経済」(山藤彰氏・当時社会主義協会事務局長)
A「ソ連・東欧社会主義の敗北は、ML主義&科学的社会主義の誤りではなく、それからの重大な逸脱の結果」(小林晃氏)
B「官僚と異端審議官が取り巻くスターリン体制が、レーニン主義を破壊、人民を抑圧、支配する富国強兵国家として、社会主義・民主主義とは無縁なものとした」(坂牛哲郎氏)
C「60年代発展の転換点での経済改革の失敗と帝国主義の経済攻勢」(川村訓史氏・当時DDR留学)
D「階級民主主義論の陥穽(わなorおとし穴)−自由・平等・民主主義の欠如」(中島章夫氏)
E「崩壊の原因は、多くの要素がからみ合いながら、ブレジネフ時代に蓄積されてきた、経済改革の停滞と、国中に蔓延した腐敗」(山崎耕一郎氏)
F「技術革新の決定的遅れ、軍需部門への過大な投資で資本主義国に敗北」(戸沢二郎氏。当時SY東京地本)
G「社会主義的民主主義を長年にわたって形骸化、放置し、官僚的、指令的、命令的管理システムという泥水と一緒に、人民権力としての社会主義国家権力、計画経済という『赤ん坊』まで流してしまった」(佐藤保氏)
H「社会主義の建設には『民主主義の確立』が不可欠、官僚主義と『計画経済の発展』は両立しえない」(原野人氏・当時SP政策審議会)
I「現実の社会主義に欠陥があったとすれば、ソ連の歴史(スターリン体制が形成・確立された時期)において、崩壊の素地は作られた」(布上泰氏・当時SY中央常任)
[65] 2017年03月16日 (木) 09時32分
タクちゃん
重要ポイント:1
「科学」、社会科学でも自然科学でも「科学」と言われますが、根本的な差別があります。

 自然科学では、余程不可能でない限り、「実践・実験で証明」しなければ認められません。だから、自然科学者は、「自分の理論を証明しようと実践する」のは「当たり前」です。「自分の理論を実践・証明しようともしない学者」など、通常、ただの「クズ」です。
 社会科学の「学者サン連中」はどうでしょう。自然科学者と違って、俺たちは利害関係のど真ん中に居るから、実践しちゃダメなんだ、「科学は客観的に中立であるべき」とか、まるで「神様」気取りの・・・・「クズ」であふれています。
 「理性の道具化」(を批判した人達がいますが)は、社会科学系では、現在、目を覆う状態です。マルクスは、「実践・証明しようとしない『科学者』」を痛烈に批判しています。
[48] 2017年02月08日 (水) 00時43分
北斗星
>タクチャンへ
 さっそく批評いただきありがとう。懸命に理解しようと何回も読みましたが、私の頭では理解に至りません。もう少し時間ください。
 ただその国の理念が「社会主義である」「社会主義を目指す」と明確にしている(憲法などで)国に対し、「現状が社会主義の政策をとっていない」「とても社会主義の国とは言えない」と、ダメ出しする権利はないという主張を、私は昔からしています。

 ソ連・東欧の崩壊に関して −その2−
 前回の続き「20世紀の社会主義とは何であったか」−えるむ書房−第一章・ソ連社会主義の形成・改革・崩壊で、杉本龍紀氏が提起している「スターリン体制の特質」が興味深いので、簡潔に紹介する。
@体制に批判的であると体制側が見なした人々を『敵』として処する。−いわゆる「粛正」−
<北斗星の感想>
 スターリン後の社会主義国で、特に目立った行為だ。資本主義側からは、秘密警察を含め、「自由がない」「人権弾圧」「違う人格を認めない」「一党独裁」等の批判を常に受け、我々の側は有効な反論が出来なかった。「資本主義国でも似たようなことをやってる。」「発展途上の社会主義国は、常にアメリカ(CIA等)を頂点とする資本主義の干渉・攻撃を受け続けており、やむを得なかった」等の言い訳は、「社会主義嫌い」を助長することになったと思う。
A精神的同質性の強要
 ・社会の多様性の拒否
 ・「一党独裁」〜社会・政治面での同質性
B共産党が「同質な社会全体の利益」を体現し、指導する。
−結果として、党と国家機関が、比較的容易に癒着する。
<北斗星の感想>
 社会主義国だけでなく、資本主義国でも同じではないか。今の日本でも、自民党(自公)政権を見れば、政党政権と政府の区別がつかない。
(次回につづく)

[47] 2017年02月07日 (火) 10時52分
望ちゃん
杉田氏急逝の報が「労働者運動資料室」サイト管理人のHPにも掲載されていた。
 Old Socialist氏からの弔論でも紹介されているが、このサイトの「これからの社会主義」研究・討論の結果を集約していただく上での重要な人を、また一人失ってしまった。「頭一つ低くなった」「廻り道や、一時的、部分的な錯誤が増大する」ことは避けられなくなるのだろうが、残った人で前に行くしかない。

−2017年1月29日日曜日
杉田憲道社会主義協会代表急逝−

社会主義協会代表、熊本学園大学教授の杉田憲道さんが1月24日急逝されました。24日夜大学研究室で倒れているところを発見されたとのことです。享年67歳。
杉田さんは、大学での専門は会計学で、社会主義理論研究の分野でも社会主義会計論争やソ連崩壊後の社会主義理論探索に成果をあげていました。社会主義協会では、長く理論部会常任幹事、九州支局代表、全国運営委員などを務め、2014年からは全国代表の任にありました。社会主義協会では杉田さんを中心にして資本論150年・ロシア革命100年を記念する論文集の刊行準備を進めているところでした。杉田さんのご逝去は社会主義理論研究にとって大きな打撃です。
杉田さんのご葬儀は、28日(通夜は27日夜)熊本市内にてしめやかに行なわれました。社会主義協会からは、通夜に小笠原福司事務局長、告別式に善明建一顧問(前事務局長)ほかが参列しました。杉田憲道さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
追記
今後、社会主義協会としての偲ぶ会が開催される予定です。決まり次第お知らせいたします。
−以上「労働者運動資料室サイト管理人」より
[46] 2017年02月06日 (月) 10時52分
old socialist
 追悼 −杉田さんへの弔論−これからの社会主義を考える

 去る1月24日夜、現存したソ連・東欧社会主義総括を研究テーマとしてきた杉田さんが突然逝去した。彼は独自の立ち位置(批判会計学)から、現実の社会主義崩壊の経済学的根本要因について、60年代改革が不成功に終わったことを軸に展開してきた。彼は最後の小論を月間社会主義の2017年1月号巻頭言に書き残した。
そのなかで彼は、社会主義協会の歴史的総括(提言の補強2002年3月)の次の文を引用する。「略−60年代改革は経済指標の改善などの短期的成果はあげた。しかし、・・・一方では社会主義における商品・貨幣・利潤などの利用に関する理論的未成熟によって、他方では国家経済管理機関の官僚主義や企業の不適切な利潤極大化行動などにより歪められ、中途半端のまま短命に終わった。ソ連・東欧社会主義崩壊の主要因は、・・・60年代改革で追求された課題が未達成で温存され、70年代後半以降に経済的・政治的、社会的矛盾が蓄積したことにあった。生産力の高まりに応じた社会主義的経済計画・管理制度はついに構築されず、経済の内包的・質的成長への転換は実現されなかった。」
 
杉田氏は、上記の社会主義における商品・貨幣・利潤などの利用に関する理論的未成熟について、資本論第三巻に書かれる、@商品の現実の費用(労働の支出)とは異なる A商品の資本家的費用(資本の支出)の範疇(費用価格)を解説し、東ドイツでは@が商品に対象化された労働の貨幣表現である社会的生産コストとして概念化され、「今日労働支出全体の直接的な把握のための諸前提は存在しない。社会主義の条件下で労働支出全体の客観的に不可欠な測定は、それゆえに価値の独立的部分にもとづいて、すなわち原価、純所得ないし利益にもとづいて行わなければならない」とした東ドイツの理論的到達点を紹介する。

 60年代から70年代にかけてのソ連東欧社会主義の、生産力の発展、再生産の拡大を妨げた経済的崩壊要因について、次の二つの総括視点の掘り下げを私達に要請している。以下筆者の考えを記し杉田氏への弔論としたい。

 1)社会主義建設が外延的拡大・生産力発展を遂げていた時代(革命後20世紀前半から半世紀)には  現出しなかった問題が、なぜ一定の発展段階で現れたのか、その基本的問題は何だったのか。
   革命後のソ連東欧の経済建設の目標は、経済的にも軍事的にもアメリカ帝国主義に追いつき、  追い越すことにあった。その目標は半世紀の間で達成されたかに見えた。しかし、一方での軍事  科学技術の発達に比べ、生活部門の領域では資本主義国の生産物に比べ明らかに見劣りするもの  となっていた。その原因は量的指標に基づくノルマ型生産の行き着く結果でもあった。
   そこでは、生産物(商品)の価値が交換価値と使用価値との統一物であり、使用価値としての品  質(具体的有用労働)や生産技術の改善は軽視されるものとなっていた。需要と供給をコントロー  ルし、労働のインセンティブを高める方法は、ノルマ型、指令型経済計画では限界を表し、それ  に代わる経済計画と管理が求められたのである。
   それは、資本主義経済における価値の実現を象徴する貨幣表現である価格変動を、生産計画に  反映・利用することによって可能となるものであった。又企業競争を取り入れた労働・生産のイ  ンセンティブ、技術移転、労働の再配分をはかっていくシステム、消費者に迅速に応える生産と  流通のシステムが求められていた。すなわち供給主導型生産・計画から需要主導型生産・計画へ  の転換であった。そのためには、逐次消費者が必要としている生産物の需要動向調査を行い、生  産計画に反映していくシステムがもとめられたのである。
それは、資本主義社会においては交換(売買)の結果として需給結果が現出し、物神化された現  象として現れるのに対し、社会主義ではあらかじめ予定される生産計画としての正確を持つもの  となる。資本主義生産に見られる膨大な無駄はそこには生じない。(実際にはいくつかの試行錯誤  は避けられないが)
このような消費者重視の生産に移行できなかった要因は、冷戦下の社会主義経済が軍事産業の  比重が高く、生産財生産が優先され、消費財生産を重視していくのに転換出来なかった恣意的ノ  ルマ型計画経済にその原因があった。

 2) このような意味で私は資本論辞典に書かれる社会主義における価値法則が、一挙に廃棄される  性格のものではなく、資本主義の母斑を伴いながら価値−貨幣−価格という資本論に示される価  値の本質と現象関係は、社会主義の相当の期間においても続くものであって、それを応用してい  くことが求められる、として書き換えられなければならないと指摘した。
杉田さんにも生前にそのことを述べた。結論的に言うと、社会科学においても自然科学自然法  則と同様に、社会法則を人間が掌握し応用していく以外にはないということ、全て人間が万能で  あるかのような行為は、いつかしっぺ返しを喰らうということ。ソ連東欧の崩壊はそのことを示  したということである。
ソ連東欧解体後四半世紀が過ぎた。資本のグローバリズム化に対し、資本主義は再びナショナ  リズムへの回帰を呈し始めた。歴史は形を変えて繰り返す。資本主義の矛盾の蓄積は、資本主義  を変化させていく動因でもある。21世紀の社会主義は、先進資本主義が到達した社会民主主義  諸国が、共同して次の社会経済体制を目指す試みのなかから作られていくと考えるのである。
それは、崩壊した20世紀社会主義と形の異なる政治経済体制となるのは当然である。

(OLD SOCIALIT)
[45] 2017年02月03日 (金) 17時42分
old socialist
sさんが急死した。彼はソ連東欧崩壊の経済的根本問題について、批判会計学の立場から論点を提起した。直近の月間社会主義の巻頭言で、「1960年代までに達成された生産力の発展を、70年代後半以降経済のの内包的・質的成長へ転換していく社会主義的経済計画・管理制度は実現されなかった」ことを根本要因としている。私は実現した社会主義建設を担う「労働者」(そこでは社会の主人公)が、生産力発展の動機、技術発展の移転・拡大について計画化・管理化できなかったことが根本問題であったと考えます。それは生産力発展に向けた価値(労働)の再配分をいかに行うのかという課題です。
 残念ながら、実現した旧ソ連・東欧では、その動機の試みを行ったが成功しなかった。即ち人為的経済操作では成功しないという事実です。ここに原理的問題が所在します。価値(本質)−価格(現象)=貨幣という普遍的関係をおろそかにした社会主義原論の総括が不可欠です。生産力発展の動機、技術移転の進行は、対峙的な価格変動を応用した需給関係の掌握、市場の利用によって、次の生産・労働配分の計画化、見通しを計るという以外にはない、という事実です。
 sさんの研究提起を深めて旧社会主義総括を完成させていく作業が、少し早かった彼の死に応えていくことであると思います。
[43] 2017年02月02日 (木) 23時31分
タクチャン

>36 北斗星さん、社会主義論の諸見解について

「成功する社会主義」原則論1

「資本支配を廃絶した国家は、社会主義である」でまとめましょう!

 「社会主義論」には、様々な「現実の社会主義評価」が提案されている。国家資本主義とか、前期社会主義とか、非社会主義とか。そのすべての前提には、「正しい」社会主義とは何なのかという、「社会主義の絶対的前提」が、無意識的に想定されており、結局、その絶対的前提との比較という手法で、現実の社会主義国家に対する様々な評価が提出されている。この点では多分、どの研究者にも異論はないはずである。

 だから、この、「学者たちの主観的」議論の本質的論点は、誰が言っている「社会主義の絶対的前提」が正しいのかという一点に集中する。

 ただ、そんな主観をよそに、「社会主義を志向する国家」という現実は、様々な形態で展開したし、そして今現在でも展開しながら、客観的に人類の歴史を刻み進展させている。

 「自分は社会主義を実践しない」学者の主観の見地に立てば、歴史的に展開され展開されている「社会主義志向国家」の中で、「どれが本当の社会主義なのか」の認証を与えるために、「君はまだ条件を整えていないから、”前期社会主義資格”しか付与できません」ということになる。結果、「本当の社会主義認定」はほとんど皆無になる。

 現実の実務として歴史上に社会主義を刻む「社会主義志向諸国」にあっては、「社会主義の絶対的前提」なる「学者の観念的創造物」が自国にないことは十分承知であるが、より重要なのは、「不十分な自国の国家が社会主義を志向していることは明確」であるし、「歴史上、自分たちの不十分な現状のこの国家が、『社会主義国家』と評価されるだろうということは認識している」という、現実である。

 簡単に総括すれば、学者どもの様々な社会主義観念規定も、実存したまたは実存する社会主義志向国家も、「ほとんどすべて社会主義」なのである。

 「唯物史観」の立場からは、現在の歴史段階で、可能な社会選択は二つしかない、「資本主義か社会主義か」、それ以外はそれらに庇護された非独立の旧社会形態を除いては、絶対に現象しない。というより、現象する基盤は完全に消失しているということである。

 その根拠となる最終的な源泉規定は、マルクスが提示した、「資本主義は階級支配の最終型」、その後の社会は「自由な社会的個人の共同体」=社会主義社会になるだろうという仮説である。資本主義の先には、少なくとも「人間が決定する社会主義社会」しか存在できないという規定である。

 だから、「資本による国家支配を廃絶した国家」は、それだけで無条件に「社会主義国家」、「人間が選択するしかない国家」であり、「下部構造をどう組織するか」などという、「特殊経済学者的興味」は人類にとっては副次的問題だ、ということである。現象は、上部構造は社会主義で、下部構造には資本主義的生産様式が残存する、と対立して見える、いわゆる「過渡期状態」である。が、下部構造のその時点の選択決定権は人間が持っていて、資本が持っているのではない<しょうがないから当面戦時共産制を選び、今度はネップにしようよ、トラブってきたから次は集団化だなとか、そんな選好ができる社会は人間が決定権を持っている社会しかあり得ない>。そして、ソビエト・中国その他、こうした社会的構造を実現した国家を、人類は歴史的に「社会主義国家」として取り扱い、つまり「社会主義として認定している」現実がある。

 学者どもの絶対的社会主義規定が有効であるとすれば、それは社会主義建設の「将来の指標」になりえるかどうかの問題でしかなく、現状の社会主義国家を「社会主義かどうか」を選別する基準には、全くなりえない、ということである。

 <結論>
 現実の社会主義には、二つの道しかない。「成功する社会主義」か、「失敗する社会主義」かである。資本主義の後は「人間が決める国」だから、存続できるかどうかは「必然ではなく偶然」であり、失敗もあり成功もあり、中間の歴史段階はなく、その二つしかない。
 社会主義を志向し資本支配を打倒した国家は、その時点で「社会主義国」となる。
 それを曖昧にして、わけもわからない中間的「何らかの段階」を規定したがる者たちは、社会主義社会が安定するまでの間隙をついて、自己保身と蓄財を求める新興宗教教祖に似た、形而上学者であることは間違いない。
 この前提では、ソビエトも中国も、皆が話題に出したがらないポルポトも北朝鮮も、すべて純然とした社会主義であることは、明確である。

 課題設定は明確である。「明確に社会主義であったポルポト政権は、何故失敗したのか」、「明確に社会主義である北朝鮮政権は、存続できるのか」「明確に社会主義である中国は、どのような社会を創造するのか」である。自分が実践的に参加もしない奴らが、「これは社会主義ではないんです」と言ってみても、人類の歴史がそれを認めない。

 社会主義は、人類が初めて自然や社会という客観的支配条件から脱出した後の、人間本史としての歴史創造に挑戦する過程を表現しているのである。
[38] 2017年01月29日 (日) 04時47分
北斗星
ソ連・東欧の崩壊に関して −その1−   

社青同や道央地方協では、山崎耕一郎さんの「21世紀の社会主義」をテキストに学習会が始まり、G33でも、都度サロンの重要テーマとなっている。「これからの社会主義は、若い人が考え、研究し、議論されなければならない」ということであり、私たち年配者は後ろから助言する立場でいいということである。若い人たちには「社会主義」そのものがよく分からない面もあり、少し手助けも必要だろう。言い出しっぺで、若い人たちがほとんど知らない「ソ連・東欧の崩壊」について、私が簡潔に整理することになった。

1.ソ連・東欧社会主義崩壊についての諸説

 ソ連・東欧の崩壊の原因については、世界中で、そして日本でも各界の様々な研究機関、研究者、学者などの膨大な説があろう。主に次の書籍から整理した。
 @私はこう考える「ソ連・東欧社会主義崩壊の原因と教訓」1993年、社会主義協会
 A「ソ連・東欧の社会主義経済はなぜ崩壊したのか?」2001年、高林正廣著
 B「20世紀の社会主義とは何であったか」2001年、社会主義協会、えるむ書房

2.「社会主義」の何が崩壊したのか? B序章(細井雅夫氏)から

@「国家資本主義」論
 ・旧ソ連・東欧で成立していた社会体制は、「社会主義」を自称していただけで、実質「国家資本主義」だった。
A「特異な社会」論
 ・旧ソ連・東欧は、「社会主義でも、それへの過渡期でもなかった」。
 ・ソ連に従属してきた東欧の支配体制の崩壊は、「科学的社会主義の失敗ではなく、それから離反した覇権主義と官僚主義、専制主義の破産」である。
 ・旧ソ連・東欧は「指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態として、社会主義に到 達しえないまま、その解体を迎えた」。
B「現実に存在した(現存)社会主義」論−社会主義協会、他
 ・旧ソ連・東欧は「社会主義」国であった。
 ・労働者階級、その政党による国家権力の掌握、生産手段の社会的所有と計画経済を通じた、経済社会体制の社会主義的改造を特徴とする社会。
・しかし、この経済社会体制が生産手段の所有形態の転換後も、商品・貨幣関係を残存さ せ、マルクスの理論・構想とは相対的に乖離し、異なった社会となった。
Cその他
 ・「マルクス主義からの逸脱」論
 ・「ペレストロイカ主犯説」論(ゴルバチョフ指導部の社会主義「裏切り」説)
(次回へつづく)
[36] 2017年01月25日 (水) 10時29分
タクチャン
※体制間移行期ではなく、本格的社会主義建設の戦略として〜

1.経済計画は「個人消費」を最重要目的に組織されなければならない。計画は「消費」計画であって、「生産」計画ではない。
※社会主義が人間的社会であるための、最重要課題の一つが「個人消費」の発展である。
※個人消費の二面性:「動物的必要消費」と「人間的自由消費」
 ・動物的必要消費は、資本主義では労働者賃金としてあった生存のための必要生活財の消費である。
  社会主義では賃金としてではなく、「社会的共通消費財」として、一定の決められた量が、社会的倉庫から原則無償で分配されるだろう。
 ・人間的自由消費は、資本主義では資本家が搾取した剰余生産物の消費である。
  この部分はまず、個人が提供する社会的抽象労働の量に応じて、「社会主義的賃金」という分配債権で支給される。
  この分配債権により、各個人は各人の自由な欲望に応じて、社会的分配倉庫から自分の消費財を引き出すことができる、この場合、有償分配(社会主義的価格による分配)となる。
  ここで重要なのは、「社会主義的賃金」は原則「剰余生産物」だということ、だからこそ自由消費が可能だということ。さらに賃金・価格は「分配権」であり、「貨幣」「価値」ではないという点である。
※最終流通の具体的イメージ
 ・現在のスーパーマーケットイメージで十分可能で、簡単である。マイナンバーを持って買い物に行き、無商品と有償品が並ぶスーパーでお買い物。
 ・ポスレジにマイナンバーと買上商品をとおす。
 ・無償分配品は消費組織のデータベースにある、個人別無償分配量から差し引かれ、有償分配額はマイナンバーに登録された個人預金口座から引き去る。
 ・無償分配品の量が、個人分配量を超えている場合は、当然、有償の自由消費財として価格計算された額が預金から引き去られる。

2.消費による生産統制
※生産組織を消費が統制するためには、実現された消費量で、生産組織や賃金等の評価がなされなければならない。
 ・消費組織(国民的組織)は具体的な品揃え構成指示を、全最終流通組織(スーパー・コンビニ等)に出す。
 ・最終流通組織は、自己の経営責任による消費予測に基づき、仲卸に発注する。販売量・額がこの組織の社会力として評価される。
 ・仲卸の評価は、最終流通への納品量・額(不良品返品は当然マイナス)であり、それを実現するために自己責任でメーカーへの予測発注や設備更新を行う。
 ・メーカーも自己責任での受注予測に基づき、計画生産や生産手段の発注更新を行う。評価は実現した出荷量・額である。

 ・経済組織全体が消費、受注に拘束されていること、「川下にベクトルがある」ことがポイントである。
 ・その意味では資本主義的「市場」と同様の質を持つが、最終目的が「利潤」ではなく「個人消費」実現であることが決定的な相違である。

※評価に基づき、必要に置応じた、賃金・資源分配の見直しが行われる。
 ・不良品、返品、生産ロス等が社会的基準を超過する場合、その生産での労働は、「社会的抽象労働」ではない。支給される総賃金は、翌期、減額されるだあろう。
 ・販売が低下する最終消費組織、納品が縮小する業者に対しては、取扱品目の削除や生産手段等価枠の削減が行われるだろう。

3.社会的共通消費財の量的生産計画と人間的自由消費財の販売努力
※社会的共通消費財は、消費組織が人間の生存に必要な品目と量を決めるから、それより過剰な生産指標で生産される。
 消費組織が指示する総生産量を受けて、各生産団体が企業別の義務的生産量指示に分解する。
 基本的に、この計画編成は旧ソビエトでの手法で十分である(当然、この生産での評価はしない。未達成の場合は評価マイナス)。
 無償分配品であるから、価格計算は不要、量的生産計画。仕入れ先は計画で指示せず、各企業責任、納品量が評価基準だから、いわゆる買い手市場。

※自由消費財の生産がどう組織されるかが、最も困難な問題と思われる。基本は、消費組織の消費動向調査に基づく指示と各企業の開発営業努力。
・既存品は、消費組織の調査(ポスレジ販売データ等)から、国内または地域的な状況把握が可能。かなり細かい品揃え指示が可能となる。
・ただし、新規開発品については、企業側から消費組織または納品先への自主的営業活動が中心になるだろう。
・いずれにしろ、このシステムが機能する根幹は、実現される消費量・額に貢献することが各生産者の社会的評価をたかめるという点が、生産者の生産動機となるということである。
[33] 2017年01月14日 (土) 12時08分
old socialist
1/20でトランプが米大統領に就任する。
その政治経済路線は米の利益を最優先とするnashonalism。
他方でニューヨーク州から州立大学授業料無料化政策が実行されていく。
一方での資本利益優先と他方での貧困平等政策の実行という相反した米政治経済の姿をどう見ていくべきか。
資本主義は社会民主主義政策をとりいれていく以外には生き延びていけないとことか。
[32] 2017年01月10日 (火) 21時04分
望ちゃん
◎世論調査での「2016世界幸福度調査」-1位はコロンビア

・国連調査とは別に、世論調査などによる多分に主観的な幸福度調査があります。
 昨年マスコミでは「世界一幸福な国」としてブータン王国が宣伝されたことがありますが、これはブータン独自の調査「国民総幸福(GNH=Gross National Happiness)」によるものだそうで、各国比較にはなりません。
 さらにブータン国内ではGNH調査は、マイノリティのヒンドゥー系ローツァンパへの抑圧から、世界の目をそむけさせるものと、の主張もあるようです。
・ギャラップなどの世論調査機関(米国)が実施した国際比較できるものがあります。
これでは、1位がコロンビア(85)。コロンビアは今年のノーベル平和賞を受賞・サントス大統領(52年の内戦終結、反政府ゲリラと和平の合意)した国ですね。/2位フィジー(82)/2位サウジアラビア(82)(79)/10位中国(74)などの順だそうです。日本は28位。先進国は、42位アメリカ(43)/47位ドイツ(40)/54位 イギリス(37)/57位フランス(33)/57位イタリア(33)などと低ランクです。
※カッコ内の数字は純粋幸福度(「幸福を感じている人の比率」-「不幸を感じている人の比率」)です。調査対象国は68カ国で、純粋幸福度の平均値は56。
[25] 2016年10月31日 (月) 18時56分
望ちゃん
◎「世界で最も幸せな国」ランキング1位はデンマーク
・「社会主義をめざす」ということは、要するに、人間として、労働者として「不安のない」、もっと積極的に言えば「幸福な」社会づくりをすると言うこと。 
・今年4月来日した「世界で最も貧しい大統領」(ウルグアイ前大統領ホセ・ムヒカ氏)も、「日本国民は幸せなのか?」と問うていた。
・アメリカ大統領選挙で若者の支持を集めたサンダースは「民主的社会主義だって!? デンマークを見ろ」と言っていた。
・デンマークは立憲君主国(女王)で、1924年に社民党が政権を担い民主的社会主義の道を歩み始めた。現在は2015年の選挙で右派ブロック政権になっているが、現在に至るの国の骨組みは北欧諸国同様、社民党・左派ブロック政権が担ってきた。
◎国連「世界幸福度報告書」2016年版
・2016年度版の国連「世界幸福度報告書」で「最も幸せな国」には1位デンマーク、2位スイス、3位アイスランド、4位ノルウェー、5位フィンランド、10位スウェーデンと、上位の多くを北欧諸国が占めた。内戦が続くシリアは157ヵ国中156位、日本は53位。
・一人当たりの国内総生産(GDP)・健康寿命・社会的支援(困ったときに頼れる人の存在)・信用性(政治やビジネスにおける汚職のなさ)・人生における選択の自由・寛容性の6要素で判断されるという。

◎デンマークの世界ランキングあれこれ
@国連の幸福度1位(2016, 2014, 2013年)、3位(2015年)にランキング
A住みやすい都市1位…コペンハーゲン。
B 一人当たり名目GDP 8位。$52,114…26位日本$32,485
C労働時間の少なさ 4位…(2013年)1位ドイツ1366時間、4位デンマーク1473時間、18位日本1729時間
D平和度指数 2位…(2016年)1位アイスランド、2位デンマーク、9位日本、
E貧困率の少なさ 1位…OECD中1位デンマーク、2位スウェーデン、ワースト4位日本(最悪はメキシコ)
F子供の幸福度 6位…(2007年ユニセフ)1位オランダ、2位スウェーデン6位デンマーク※日本は該当無し→日本版(2013年日本流に評価し直し?)では、6位に日本(教育、生活リスクが1位)、14位デンマークということのようだが…。
G汚職の少なさ 1位…(2015年)1位デンマーク、2フィンランド、3スウェーデン、18位日本、
H民主主義指数 3位…(2010年)1位ノルウェー、3位デンマーク、22位日本
I 男女平等度 14位…(2015年)1位アイスランド、2位ノルウェー、14位デンマーク(前年度5位)、28位米国、75位ロシア、91位中国、101位日本
J社会寛容度 10位…(2010年)1位カナダ、10位デンマーク、26位日本
K報道の自由度 4位…(2016年)1位フィンランド、4位デンマーク、72位日本、、176中国、179北朝鮮
L 技術革新力14位…(2016年)1位アイスランド、2ノルウェー、3フィンランド、4スウェーデン、11位ドイツ、14位デンマーク、15フランス、101位日本
M国際競争力 13位 …(2013年)1位スイス、2シンガポール、3位米国、4位フィンランド、5位ドイツ、6位日本、13位デンマーク
N経済的自由度 12位…(2016年版)1位香港、2シンガポール、3ニュージーランド、4スイス、5オーストラリア、12位デンマーク、17ドイツ、22位日本、
◎ただし、社会的負担は高い(幸福度に対する代価?)。
@物価の高さ 3位、A消費税率 3位、
 ※(2015年版) 1位 ハンガリー 27% /2位 アイスランド 25.5%
 3位 クロアチア,スウェーデン,デンマーク,ノルウェー 25%
 7位 ルーマニア,フィンランド 24 %/
 9位 アイルランド,ギリシャ,ポーランド,ポルトガル 23 %
141位 日本 8
B国民負担率 2位…国民負担率=租税負担率+社会保証負担率。ダントツ1位のルクセンブルク85.2%に次いで、国民負担率67.7%と、かなりの高負担国家である。
 ※(2011年)1位ルクセンブルク85.2%、2位デンマーク67.7%、7位フィンランド61.1%、10位スウェーデン58.2%、11位ノルウェー55.2%、27位日本39.8%
[24] 2016年10月31日 (月) 11時01分
たかしゃち
管理人様。
これを載せるのがまずければ、すぐ削除願います。
提起のあった、共産党宣言10箇条をみてみました。

【岩波文庫マルクス・エンゲルス共産党宣言大内兵衛・向坂逸郎訳第47刷】

プロレタリア階級は、・・・すべての資本を奪い、すべての生産用具を・・・プロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるだろう。
・・・その方策は、・・・全生産様式の変革への手段として不可避なものとなる。
この方策は、もちろん、それぞれ国が異なるにしたがって異なるだろう。
とはいえ、もっとも進歩した国々にとっては、次の諸方策はかなり一般的に適用されうるであろう。

1.土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。
2.強度の累進税。
3.相続権の廃止。
4.すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
5.国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、信用を国家の手に集中する。
6.すべての運輸機関を国家の手に集中する。
7.国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良。
8.すべての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために。
9.農業と工業の経営を統合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目ざす。
10.すべての児童の公共的無償教育。今日の形態における児童の工場労働の撤廃。教育と物質的生産との結合、等々、等々。
 
発展の進行につれて、階級差別が消滅し、すべての生産が結合された個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。・・・。プロレタリア階級が、・・・、支配階級として強力的に古い生産諸関係を廃止するならば、この生産諸関係の廃止とともに、・・・、階級対立の、階級一般の存在条件を、・・・廃止する。
階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である。
[28] 2016年10月23日 (日) 02時11分
望ちゃん
生産的資産の「所有権」を分解することによって平等主義経済を達成する−との主張がある。それによると
@投資者「資産からの資金的収益の権利」
A労働者「資産の使用から解雇されない権利」
B地域社会「資産の一定の使用法を拒否する権利」(環境権など)
C経営者「資産の運用に意志決定を行う権利」
D利害関係者「資産の使用にどのような契約が取り結ばれるかを決定する権利」
我々が現代の民主主義社会で、「資本家から収奪」ないしは「規制」するのは、とりあえずは@とCを、法的にどうするか決められれば良いのだから、昔のイメージで、暴力的に奪い取る−というイメージは払拭することができるね。
カイチャンの「誰も所有しない」「皆が占有・所有する」ことが社会主義だからね
[30] 2016年10月21日 (金) 02時13分
カイコウソウ
「社会化」は、「社会が所有」というイメージか?
所有者・「社会」が解らなくなる。「法人所有も社会化?」
「共同所有」なら、何となく自分も入っているかな?
たぶん本当は「誰も所有しない」状態のこと。

「誰も所有しない」から、皆が「占有」してる。
「所有」は「法律」で権力が強制すること。
「占有」は、今だけお借りしていること。

単純に言えば、「所有」は「法的」に「相続」される。
「占有」は、死んだら全て残して、返す、人類に。
子孫が心配なのは皆同じ、
でも死んだあとは、全子孫、一から出直しでいいんじゃない?
[29] 2016年10月19日 (水) 02時12分
タクチャン
社会主義の歴史的役割は、二つある。
 @資本主義廃絶=階級支配の歴史の終焉=「人類の前史の終焉」:「労働者」が主役。
 A社会主義の建設=「人類の本史の創造」:労働者は資本とともに廃絶され、「人間」が主役。
だから、社会主義を考える場合は、「人間(人類)のための社会とは何か」という視座になる。

<今すぐとりかかるべき日本の重要課題>
(1)人間的生活のための労働時間の圧倒的短縮。(当面、年間1人「1,000〜1,200時間」)
※当然、現在の所得水準は維持される。
※単に「労働時間が長い」ということではない、重要なのは「労働者であることを拒否すること」
※「労働者」「労働する動物」「労働が人性の最大事」であることの否定、「もう一つの自分の人生」の確保。
※労働時間の短縮で、年間1,000時間程度の「自由時間」・・・人間らしい自由人生を手に入れる。

(2)「生存権」(憲法25条)の完全保障政策:全国民に毎月1人当り5万円を無条件に政府から支給。
※「窮乏化」の根幹は、「確実に増大する生存・生活の不安」であり、これが精神の根幹で人生をつまらないものにする。
※まだ少ない額だが、これだけでも、人生を前向きに考える・国家は自分のためにあると感じる契機になる。
※新生児から犯罪受刑者まで、国民である条件以外は「無条件」に国家支給。2名世帯は月10万、3名世帯月15万、無条件の所得増加。
※年60万×1億2,700万人=76兆円、GDP500兆の15%程度でやれる。インフレで逃がさぬよう物価スライドさせる。
※ちなみにこの額は、ほぼ資本が毎年搾取している純利潤額で、その意味で「すでに支給できる状態」である。
※特殊条件「可哀そうな人だけ」の社会保障から、「可哀そうなほぼ全員」への無条件のセーフティネットへ。

(3)次世代のための公平な社会制度=「生まれながらの平等」への本気の取り組み
@相続額の「生まれながらの平等」。(子供1人、最低1,000万・最高2,000万・それ以上は全て相続税徴収)
※「何億円」も手にして生まれる子と、「借用書」を手にして生まれる子の差別など、絶対あり得ない。相続格差を2倍以内に封じ込める。
※相続額1,000万以下の子は、不足分を政府が補てん。たぶん相続税徴収が莫大だろうから、全く問題ない。
※毎年の新生児は約100万人×1,000万=10兆円程度の話である。
※20〜30年しっかりやってしまえば、個人の過剰資産はすべて国有化される。

A国債は「資産課税」だけで返済し、租税は一切使用しない。(2億以上の資産保有者・企業に20%課税、3年間)
※国債で払いだした金は、最終的に資本の懐にある。「借用書」だけが「政府」にある。「ほとんどの国民」は払う義務は全くない。
※国債の恩恵を実際に受けた者たち・高額資産を保有する「個人」「法人」に任せておけばよい。
※もし政府が返済できないなら、「デフォルト」すれば良い。過去の資本が残した借金を、返すかどうかは時の政府に決定権がある。
※こんなメッセージを公党が掲げた時点で、脆弱な金融市場はパニックだろう。
※1,000兆超の国家債務残高。私たちが払わなかった借金のせいで、子供たちが「1人1,000万の借用書を手にうまれてくる」のである。
※当分の間は、「最低でも1,000万相続」との相殺で勘弁してもらうしかない。
※国債残高は、1世代で返済可能な程度に上限を法で規制する。(スウェーデン方式)

(4)人口減少との「闘争」、資本と人類の「無理心中」拒否。(養育・教育・就業等関連策全般)
※単に「減ってきてる」のではなく、先進国では「資本が人類を廃絶しようとしている」、資本との戦いである。
※一時的な「恐慌」ではなく、先進国で価値増殖できる条件がなくなり、慢性的な限界・減少期に入っている。
※「資本が自分自身(価値増殖)に限界を感じてる」段階、生産が伸びない中でも相対的剰余価値・特別価値の追求は進展する。
※自動運転技術はドライバーを、ロボットは工場労働者を、ス−パーでは自動レジがレジ係を駆逐する。
※先進国では人類はもはや不要になりつつある、この本質原因は、生産資本自体が減少・死滅していく過程にある。
※生産で増殖できない資本の死滅・逃避が、人類を道連れにする、「無理心中」
※中央での税収減少、地方を先駆けとする「自治体崩壊」が、社会サービスの劣悪化という追い打ちをかけるだろう。
[31] 2016年10月04日 (火) 02時14分
望ちゃん
ずいぶんと昔の話ですが、こういう本が出ていました。「これからの社会主義」を考える索引として参考に出来るのではないかと紹介します。

「社会主義への疑問に答える100問100答」
(社青同学習シリーズ/3 1977年9月発行)
目次 まえがき
第1章賃金と生活
1賃金−社会主義と賃金/労働に応じた分配/社会的ファンドと賃金/資本主義と社会主義の賃金の比較/社会主義国の賃金額/賃金格差/賃金の引き上げ/賃金からの控除/貯金/年金
2消費−生活必需品の価格/価格変動/行列/流行
3住宅と結婚−広さ/家賃/住みかえ/住宅環境/個人住宅/結婚/離婚
4医療・環境−医療費/予防/医療労働者の労働条件/薬公害/環境保護
5教育・文化・スポーツ−教育制度/教育費/進学と職業選択/スポーツ/休暇の過し方/入場料/ギャンブル
第2章 労働組合と労働条件、婦人
1労働組合と労働条件−労働組合の任務/ストライキ権/労働紛争の解決/国家機関と労働組合/労働条件/残業/労働条件の改善/青年部・婦人部/労働災害・職業病予防/生産性向上/機械の導入/社会主義的競争/学習活動/休暇の利用/病気の保障
2農業労働者、農民−労働条件/農業の集団化/計画化/豊作・不作/農村の生活
3婦人−婦人の地位/なぜ働くか/男女の格差/生理休暇/母性保護/出産費・扶養手当/育児休暇/保育所/家事/家庭の民主化
第3章 経済と政治のしくみ
1経済のしくみ−計画経済/生産手段の社会化/計画の決定/価格の決定/需要の充足/失業
2資源・エネルギー・農業−資源は有限か/資源開発の特徴点/原子力発電所/農業は不振か/穀物の輸入
3政治のしくみ−プロレタリアート独裁/働くものが主人公/プロレタリアート独裁の批判/一党独裁か
4社会主義と自由−社会主義と自由/言論の自由/批判の自由/信教の自由/異端派と弾圧/搾取する自由
5軍隊と国境問題−社会主義の軍隊/戦争観・平和観/国防予算/軍隊の目的/ベルリンの壁/亡命
6平和共存とプロレタリア国際主義−平和共存策/平和共存と武器援助/「三つの世界」論/中ソ対立/チェコ事件
あとがき
[23] 2016年09月25日 (日) 19時05分
たかしゃち
資料を送付いただきありがとうございました。
早速読ませていただきました。
社会主義のイメージに少しでも近づくことができれば、と思います。

「協同原理にたって、貧困や抑圧から解放された社会」
「生産手段の公有制と労働力商品化の克服する道」
「20世紀型社会主義の限界とゆがみをのりこえて----権力装置としての国家の死滅にいたる、社会主義への道」

  ソ連社会主義の肯定的側面。組織された労働者にとって、強大な社会主義体制の存在は、その欠陥はともかく社会主義を現実的なものに意識させた。
  生産力の高度の発展がなければ、賃金形態の分配から消費原資による分配に移ることはできず、また現実の社会主義社会において価値法則の残滓は消滅しない。一方、価値法則が残っているから「直ちにソ連が社会主義ではない」と結論できるとは思わない。
  ソ連の「生産財生産部門」優先政策や農業の社会主義政策など多くの失敗を含むジグザグの経験を、日本でも実際に社会主義経済を実行する際の参考にすることが大事である。
  日本の社会主義運動を前進させるためという観点に徹して、ソ連は生産力を発展させ諸欠陥を克服していけると見なした。
  ソ連は崩壊し、爛熟した資本主義国での社会主義は未だなのだ。
  社会主義とは数千万人の大衆の仕事であり、その経験を通じてしか理論は検証されない。大衆的な規模での試行錯誤にも注目したのだ。
  どこまで「これからの新しい社会主義」の議論に生かせるのかわかりませんが、何度か読み直してみたいと思います。ありがとうございました。
 
さて、例えば、社会主義の下での原子力発電等、考えてみてはと思いました。泊の発電がなくとも、必要な発電量は満たしている。もんじゅは廃炉の方向。風力・太陽光発電電気で水から水素を取り出し、これを燃焼させての水素発電。二酸化炭素も出ないしオゾン層も破壊しないとか。もうけるためには原発しかないというのが資本主義社会での結論では?

みなさんそれぞれ身近なことから社会主義を考えてみてはと思います。
自分でいえば、年金。保険料は集めなくてもいいな。生まれて働きだしたらもう年金の権利はつくとか。年金額は保障されていて、オリンピック等で優秀な成績を出したり、優秀な技術が認められたり、物の発明や改善で評価されたら年金額がアップしていくとか。
それぞれ皆さんがたずさわっている職種ごとに社会主義の具体像を作り上げていってみても良いのではないでしょうか。

研究会でお会いできることを楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。
[22] 2016年09月11日 (日) 00時39分
たかしゃち
これまでのメモ-2

※社会主義政権
※社会主義的政権
※社会主義的的政権
※欧州のような「社民主義」政権
※中道左派政権
※よりましな政権 等々

失業からの解放
労働者階級の社会−−−階級のない社会へ
生産財の社会的所有
搾取のない社会
社会主義 3月号 座談会 48ページ上段 - 2015/03/
マルクスの『ゴータ綱領批判』の「協同組合的社会」こそが真の社会主義だと理解し、これを目指して進む以外に、格差、貧困、失業、飢え等々から真に抜け出す道はないということを、われわれとしては、繰り返し明らかにする必要があると思っています。 山藤彰さん
[21] 2016年09月08日 (木) 00時36分
優しい気持ちで
ダーチャが国有化されて、会議室みたくなったからではないかと思います。
私はダーチャを持っていませんが、社会主義国になって、ダーチャが国有化されたら、不満を言いたくなります。
[27] 2016年09月07日 (水) 02時09分
バターサンド
王様、ご無沙汰しております。
王様に付けて頂いたこの名前も何年目になったのかな。

良き独裁が実現するのか=人間の欲望とどう正対するかという課題を整理することが必要でしょう。
社会主義は、人間の理性に期待・信頼しているから、成り立っているようにも感じます。
理論が正しいから実現するとはならないジレンマ・・・。
[26] 2016年09月04日 (日) 02時09分
たかしゃち
これまでのメモ

【これからの新しい社会主義の研究】
【社会主義像の明確化】
【新しい社会主義のイメージを構成する。】
【若者に魅力ある社会主義のイメージを提起する。】
※青年は社会に何を求めているのか
・将来不安(結婚・出産・老後)
・平和な社会になってほしい
・職場の人員が足りない
・所得の差をなくしたい。最低賃金を上げてほしい
・貧富の差が激しい。平等で幸せな生活を送れる社会
・非正規労働者が増えている。貧富の差が増大
・家庭を持って子供が生まれたときに初めて社会に目を向ける
・奨学金を返済する人が増えている。将来、子に同じ思いをさせたくない
・子育て政策

※社会主義とはどのようなイメージか
・社会主義は「怖い」「独裁」「閉鎖的」「失敗」のイメージ
・指導者は必要なので完全に格差がなくなるのは難しい
・人には感情があるので完全な社会主義社会は無理
・資本主義ではダメ、かといって社会主義でいいのか
・今より生産力が低下するのでは
・必要最低限のものしか得られない社会になるのでは
・北海道だけで社会主義国家をつくってみては
・どこからが社会主義なのかわからない
・搾取のない社会がイメージできない
・(商店を直営にして町から社会主義にしてしまえば?)生産物が行きわたるためには流通がしっかりしていなければ消費者のニーズに対応できないのでは?
・JRを必要とする自治体は多い。赤字路線を自治体で補てんするのであれば国有化でいいのではないか
・北海道で生産された農産物を加工する工場はほとんどが本州だし、電力を含めた地産地消が必要でないか
・社会主義社会になった時に自治体の職場はどうなるのか
・社会主義にどのように移行させていくのか。完全に移行するには教育・医療・介護だけではなく、交通網の整備や電力の確保など、さまざまな課題もある

「これからの新しい社会主義」イメージの構成
☆理念・考え方・整理の方法
・ポスト資本主義
・未来社会論としての肯定的新社会主義
・階級と差別のない平和な社会
・巷間の未来社会論―「持続可能な社会」「定常型社会」論
・牧歌的な里山資本主義
・過去の綱領的文書
  共産党宣言の10箇条
 「自由・公正・平等・連帯の社会」
  ベルリン綱領
  ストックホルム宣言
  ドイツ左翼党綱領
  社民党95年宣言
  2006年社民党宣言 等々
☆政権政策プロジェクトへのワード
・国家構造/政治/平和軍事
・自由と民主主義、平等主義
・議会主義、政治革命と社会革命との区別
・非同盟平和主義(9条堅持)、国際関係、自治体、法制度改革、政党政治
・労働・男女平等/生活/年金/医療・福祉・教育の社会的保障責任(基本は無料化、子供・障害者などの権利保障)
・労働者の諸権利(経済民主主義、労使共同決定制度、労働時間・雇用・権利)
・女性の権利拡張
・経済・税/環境・エネルギー
・格差の限界、市場と統制、富裕税など税制度、脱原発
・巷間の未来社会論―「持続可能な社会」「定常型社会」論
・最終的な「所有問題」に対する政策化
☆その他
・マスメディア、余暇・スポーツ ・その他
[20] 2016年08月24日 (水) 19時57分



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