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[22] 「真田三代」 川中島 <1> ew MAIL URL
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7/22 川中島 <1> , <21> ここは越後春日山城。日本海を眺め下ろすことができる。 冬ともなれば海からの寒風がじかに吹きつける。 武田軍の葛尾城攻略から二月後、城を追われた村上義清は、長尾景虎の居館にあった。 海野平の負けいくさの遺恨で、真田幸隆が利をもって属将どもを寝返らせたことに無念さをにじませた。 上段ノ間にいた長尾景虎は、雪のように白く豊かな頬に、一重瞼の切れ長の目、小さく引き締まった唇と一見して、合戦とは縁遠い容貌の青年武将だが、戦の天才であった。 それに対し、武田晴信は人遣いの天才である。 砥石城を奪い取った幸隆に強い興味を持った。
2009年07月22日 (水) 22時57分
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[25] 川中島 <3> ew MAIL URL
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7/24 川中島 <3> ,/ <23> そのころ、真田幸隆は、相変わらず戦陣に身を置いていた。 次の仕事は、尼厳(あまかざり)城の攻略である。 この城には、村上義清の残党・東条一族らが立て籠もり抵抗を続けていた。 真田郷から地蔵峠を越えてわずか五里(20キロ)の近さで、千曲(ちくま)川と犀(さい)川を見下ろす峻険な山上に築かれていた。 川中島の地方の完全掌握をめざす武田晴信が、幸隆に「城を落とせ」と命じた。 村上の味方の大半が逃亡している状況では、すぐに降伏してくるだろうと、幸隆は読んだ。 しかし、尼厳(あまかざり)城に籠もる東条一族は、調略に応じてこない。それどころか、ますます意気軒昂である。 「おかしゅうございますな、兄じゃ」 弟の矢沢頼綱がいった。 「来るのじゃな」 「長尾景虎でござるか」 「今度という今度は・・・。頼綱、塩田平へ行くぞッ!」 幸隆は叫んだ。
返信 2009年07月26日 (日) 00時29分
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[26] 川中島 <4> ew MAIL URL
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7/25 川中島 <4> ,/ <24> そのころ、真田幸隆は、尼厳(あまかざり)城の奇妙な動きを報告すべく、弟の頼綱とともに、武田晴信のもとへ向かった。 武田が陣を布く塩田平は、上田盆地の西部に位置し豊かで信濃の中心地として古くから栄えてきた。 突然、本陣にあらわれた幸隆に、 「いかがした」 晴信は不審の目を向けた。 「東条一族が降(くだ)ったか」 「それどころではござりませぬ」 幸隆は事の次第を報告した。 「景虎の出馬、間違いなかろうな」 幸隆が春日山城に放っていた草ノ者たちが、それを裏付ける情報をもたらしていた。 「はッ!すでに、軍勢八千を従え、一両日中にも春日山を発するとのこと」 春日山から川中島平へは、わずか二日の距離。 「すれば、一刻の猶予もならぬ。即刻、尼厳城の囲みを解き、川中島平に展開し、先鋒として長尾の軍勢を迎え撃つのじゃ」 晴信は命じた。 「先鋒の指揮は、弟・典厩(てんきゅう)信繁にとらせる。まずは、じっくりと長尾景虎の手並みを拝見するとしよう」 「はッ!」

返信 2009年07月26日 (日) 00時40分
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[27] 川中島 <5> ew MAIL URL
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7/26 川中島 <5> ,/ <25> 真田幸隆は、ただちに川中島平へ押し出して越後勢の来襲にそなえた。 長尾景虎は、生涯にわたって信州、関東、北陸など諸方の遠征に明け暮れることになる初めての出兵である。 「刀八毘沙門」(とうはつびしゃもん)の軍旗を押し樹(た)てた、長尾景虎ひきいる八千の軍勢が、川中島平に姿をあらわしたのは、天文二十二年(1553)八月十二日のことである。 先導役に、村上義清、高梨政頼ら、信濃勢。 小笠原の三階菱(さんがいびし)の軍旗もはためいていた。 「完膚(かんぷ)なきまでに、たたきのめしてくれましょう」 川中島平東方の妻女山(さいじょざん)から敵勢を見下ろして、矢沢頼綱が言った。 「いや、無謀な仕掛けは禁物だ」 幸隆は首を横に振った。 「いくさの矢おもてに立つわれらだけが貧乏籤(くじ)を引いてもつまらぬ」 八月二十日。 武田、長尾両軍のあいだで最初の激突が起きた。 場所は、川中島平南部の更科(さらしな)郷、布施(ふせ)。 先に仕掛けたのは、長尾方である。
返信 2009年07月26日 (日) 16時25分
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[28] 川中島 <6> ew MAIL URL
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7/27 川中島 <6> ,/ <26> 攻め太鼓が烈しく打ち鳴らされ、雄叫(おた)びとともに、村上、高梨らの軍勢が、楯をならべ矢を射(い)かけながら前進をはじめた。 長尾勢の先鋒が信濃衆ならば、武田勢の先鋒も、大須賀、屋代、塩崎、真田、春日、といった信濃衆である。 真田幸隆は、皮肉な気持ちになった。 もっとも、長尾方についているほうが領地奪回のために必死である。 その迫力に押され、武田方はしだいに劣勢となった。 最右翼で小笠原勢と当たっている真田勢も、苦戦を強(し)いられている。 「このままでは、まずい」 矢沢頼綱が兄を振り返った。 「待て、このようなところで、無駄死にはすまいぞ」 幸隆が鉄扇で合図を送ると、後ろにいた草ノ者たちが荷車」を引き出してきた。
返信 2009年07月27日 (月) 22時26分
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[29] 川中島 <7> ew MAIL URL
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7/28 川中島 <7> ,/ <27> 荷車の上には、口径五寸ほどの青銅の筒が据えられている。 「青銅胞よ」 真田幸隆は言った。 これは明国(みんこく)で製造された”小銅銃”というもので、単純な構造で命中率がきわめて低かった。 わが国に種子島銃(南蛮銃)が伝えられる前であった。 泉州(せんしゅう)堺の商人が、甲斐の武田氏、相模の北条氏などに売り込んでいた。 幸隆はこの青銅胞を、上州流浪時代に知り合った小田原北条出入りの商人から手に入れ、前線に持ち込んでいた。 「役に立つものは何でも使う」 「行けッ!」 幸隆の命令一下、草ノ者たちが荷車を引いて走り出した。 小笠原勢の側面に回り込み、筒先を敵の侍大将とおぼしき騎馬武者に向ける。 筒の中に火種が投げ込まれた。瞬間、 轟ッ と、地鳴りのような音が響く。砲弾は騎馬武者の足元に落ちたが、大音響に馬や若党も尻餅をついた。
返信 2009年07月29日 (水) 22時06分
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[30] 川中島 <8> ew MAIL URL
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7/29 川中島 <8> ,/ <28> 真田方による突然の砲撃に、小笠原勢の足が止まった。 さらに、二撃、三撃の青銅砲が火を噴き、落馬する武者が続出する。 「いまぞッ!」 矢沢頼綱が、精鋭三十騎をひきいて敵中へ切り込んだ。 いままで防戦一方だった真田勢が俄然(がぜん)、優位に立った。 頼綱の一隊は、たちまちのうちに首級十五を挙げた。 「深追いはやめよ」 真田幸隆は頼綱のもとに、伝令を飛ばした。 局地戦では、真田勢が圧倒しているが、まわりを見渡せば、信濃衆は、完全に押し込まれている。 のみならず、長尾方の二陣の柿崎景家の軍勢が左翼から押し出し、三陣の甘粕長重の一隊が、戦場に殺到してくるのが見える。 これに対し、武田の二陣は動く気配を見せない。 (われらをダシに使い、相手をはかっているのか・・・) 幸隆は思った。(退きどきじゃな) と、そのときである。 長尾勢の後方から、「毘(び)」の旗指物がたなびかせ押し出してくる一団があった。 先頭に色々嚇(おどし)の甲冑の武者がいた。 「長尾景虎か・・・」 幸隆は肌が泡立つのをおぼえた。
返信 2009年07月31日 (金) 00時26分
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[31] 川中島 <9> ew MAIL URL
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7/30 川中島 <9> ,/ <29> 総大将みずから、前線へ斬(き)り込んでくるなど聞いたためしがない。 長尾景虎は、矢沢頼綱の一隊がいる長尾の旗本隊に向かって突き進んでいくところであった。 「退(の)き鉦を鳴らせーッ!」 真田幸隆は叫んだ。 頼綱もようやく状況に気づいたが、時すでに遅く、「毘」の旗を押し立てた一団が、頼綱の隊に襲いかかった。 幸隆は天を仰(あお)いだ。 それから、四半刻(しはんとき、三十分)後。 矢沢頼綱は奇跡的に生還を果たしたものの、傷を負い、自陣へたどり着くと気を失った。 また、配下の精鋭三十のうち、二十一人までが討ち死に。生き残った者たちも、深手を負った。 その日の戦闘は、長尾方の勝利におわった。 「長尾景虎、手強し・・・」 敗走する馬を走らせながら、幸隆はつぶやいた。
九月一日。 再度、両軍がぶつかり合った八幡(やわた)の戦いでも、武田勢は長尾の連合軍を前に押しまくられた。 これにより、武田軍は川中島平から撤退を余儀なくされる。 長尾勢は、屋代秀正の持ち城、荒砥城を戦わずして開場させ、同月三日、中信の筑摩(ちくま)郡へとなんかした。 塩田平の武田晴信は、事態の推移を見守ったまま、なかなか腰を上げようとしない。 ようやく晴信が動きだしたのは、長尾方の別働隊が、小県郡に近い南条へ侵攻をはじめたときだった。
返信 2009年07月31日 (金) 00時41分
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