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[32] 川中島 <10> ew MAIL URL

7/31
川中島  <10> ,/ <30>

武田晴信は、塩田平から軍勢を北上させ、臨戦態勢をととのえた。
 布施の戦いで、多くの死傷者を出した真田勢は、後陣を命じられた。
 真田家本貫の地である小県郡を脅かすとなれば、黙ってこれを見過ごすわけにはいかない。
 幸隆の意地である。
 しかし、決戦を控え、直接対決は意外な形で結末を迎えた。
 南下をつづけるかと思われた長尾勢が、突如、軍勢を返して、九月二十日には川中島平から越後へ引き揚げてしまったのである。
 これには、武田方の誰もがおどろいた。
 川中島合戦の第一次の戦いは、勝負なしという形となった。
 なぜ、長尾景虎が兵を引き揚げたのか、理由は、
「京の将軍に会いに行ったそうじゃ」
 その行動は、人々を唖然とさせた。

2009年08月01日 (土) 23時40分


[33] 川中島 <11> ew MAIL URL

8/1
川中島  <11> ,/ <31>
長尾景虎は休む間もなく、小数の兵をひきいて京に上洛した。
 京の天皇、将軍と会い、その権威によって、みずからの地位を磐石にするためであった。
 後奈良天皇に拝謁。
「戦乱を鎮定すべし」
という綸旨(りんじ)をたまわり、天盃と御剣(ぎょけん)を下賜された。
 ついで景虎は、将軍・足利義輝に謁見。さらに泉州・堺に足をのばし、鉄砲や玉薬(火薬)、南蛮渡来の品々を買い求めた。
 高野山、大徳寺にも参詣した景虎は、その年の暮れ、帰国の途についている。
 一方。
 景虎が不在のあいだ、川中島平では、武田晴信がじわじわと締め付けを強め、地侍たちは武田方に次々と切り崩されていった。
 村上、高梨も、ふたたび越後へ逃げ戻った。

 正月を祝うため、砥石城に真田一族が集まっている。矢沢頼綱の戦いの傷もようやく癒えた。
 天分二十三年(1554)の春、幸隆は川中島での働きの恩賞として、武田晴信から小県秋和に三百五十貫の領地を与えられていた。
 上田盆地への要衝であり、のち、幸隆の子・昌幸は、秋和南方に上田城を築くことになる。


返信 2009年08月01日 (土) 23時45分


[34] 川中島 ew MAIL URL

 上杉が、関東管領の役を引き継ぎ、川中島を留守にしている間、武田は、またも川中島以北へ進出していた。
 また、上州侵略も真田幸隆らに攻略を任せていた。
 しかし、それを許さない上杉が、川中島へ。
 最大の激突が始まる。
 

返信 2009年09月19日 (土) 17時43分


[35] 川中島の八幡原 ew MAIL URL

9/19

   初陣 <17> (79)

武田信玄が軍配をつかんで立ち上がった。
「信じられませぬ」
 かたわらに控えていた山本勘助が、よろめいた。
「裏の裏をかかれたか」
 後ろで信玄と軍師のやりとりを見ていた真田昌幸は、脇に冷たい汗がわくのをおぼえた。
 八幡原の武田本隊は八千、妻女山から下ってきた上杉軍は一万三千。明らかに不利な状況である。
 鬨(とき)の声があがった。
「龍」の旗がたなびき、地響きとともに武田本陣へ押し寄せてくるのが見えた。
 このとき、上杉政虎は「車懸かりの陣」と呼ばれる、大将を中芯にして全体を車輪のごとく旋回させて敵を襲う戦法をとった。
 これを見た山本勘助は、とっさの判断で、信玄に進言した。
「陣形を蓑手(みのて)に変えられませ」
 蓑手とは、左右の両翼を大きく伸ばした、鶴翼の陣である。それまでの武田具は、中央の部隊を突出させる魚鱗の陣をとっていた。

返信 2009年09月20日 (日) 02時36分


[36] 初陣 ew MAIL URL

9/20

   初陣 <18> (80)

陣形の変更は迅速におこなわれた。
 上杉勢の先鋒、柿崎景家の二千の軍勢が雄叫びを上げ、旗をなびかせながら、正面の飯富昌景、内藤らの軍勢に襲いかかった。
 弓矢が飛び交い、たがいの槍隊が激突。両軍、一歩もゆずらず熾烈な白兵戦となった。
「武田三代軍旗」に、戦いのようすが書かれている。
 虚を衝かれた武田軍であったが、よく戦い、当初は一万三千の上杉軍と互角の展開となった。
 しかし、時間の経過とともに、武田軍は劣勢に追い込まれた。
 真田昌幸、三枝新十郎ら奥近習は、主君の身を守るべく太刀を抜いて本陣の守りをかためる。

返信 2009年09月23日 (水) 23時49分





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