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[12] 鬼謀(きぼう),<11>. ew MAIL URL
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7/11 <11>. 真田幸隆は、この十年という流浪の暮らしを振り返った。逆境の中で得た思想がある。 __弱小勢力とて、人は望むものをつかみ取るためなら、他人を利用することをためらってはならぬ。 武田晴信という大勢力に従い、そのもとで旧領地を回復したのも、その実践であった。 (武田をあますところなく利用し、真田の勢力を飛躍させて、天下にまで名をとどろかせてくれる・・・) 幸隆は、十五歳と九歳の息子に告げた。 「旧領地を取りもどしただけで、満足しようと思うな。」
2009年07月11日 (土) 23時17分
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[13] 鬼謀(きぼう),<12>. ew MAIL URL
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7/12 <12> 幸隆の言葉に、二人の息子は黙り込んだ。 ところが、三男で五歳の源五郎(昌幸(まさゆき))は、兄たちと違っていた。 三男にもなると,幸隆は、目を掛けてやることはなかった。この時代、家督を継ぐのは総領の男子で、それを補佐する息子がもう一人いれば、ほかの子は他家へ養子に出すか、仏門に入れるのが武家の通例であった。 源五郎は「わしは大きゅうなったら、どのような相手にも負けぬ武将になりまする」 幸隆は祝杯をあおり 「よき心がけじゃ。父子争うことになっても、この父を倒して前へすすむか」 「はい」 「これはよい」 幸隆がはじけるように笑った。
返信 2009年07月13日 (月) 02時28分
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[14] 鬼謀(きぼう),<13> ew MAIL URL
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7/13 <13> 幸隆は真顔になった。 「源五郎、そなた甲斐へゆけ」 「何ゆえに?」 母の菖蒲ノ前が眉をひそめた。 「人質に決まっておろう」 幸隆は、躑躅ヶ崎(つつじがさき)のお屋形さま(武田)へ人質をやるという。 「こたびのお働きで、おまえさまはお屋形さまのご信頼を勝ち得たはずでございます」 そこに矢沢頼綱が同調した。 「武田に、ここで卑屈な態度をとっては、侮られるのではないのか」 「馬鹿め。このようなときであるからこそ、細心の注意をほどこさねばならぬのだ」 幸隆は目を剥いた。 「われらは武田の者どもに警戒されておる。身を低く撓(たわ)めばならぬ」
返信 2009年07月14日 (火) 02時12分
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[15] 鬼謀(きぼう),<12>. ew MAIL URL
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7/14 <14> 母の菖蒲ノ前は、なおも源五郎を手放すことを渋ったが、家長たる幸隆の決定は絶対である。 「武田家をよく見てまいれよ」 幸隆は、源五郎に言った。 武田の武者どもが、なぜひとつに結束しているのか。その強さのみなもとは何か見定めてくるのだ。と言い聞かせた。 源五郎が、じっさいに甲斐へ人質に送られたのは、それから二年後の天文二十二年(1553)のことであった。 真田幸隆は、その後も武田軍の信濃先方衆(さきがたしゅう)として、精力的に動いた。 このころ、武田晴信の関心は、苦杯を嘗(な)めさせられた葛尾(かつらお)城の村上義清討滅にそそがれていた。 砥石城を失った村上は、一時の勢いを失い、家臣たちの離反に苦しむようになった。 村上義清に従っている、東信濃から北信濃の、 屋代(やしろ)、寺尾、塩崎、といった地侍たちの切り崩したのは、幸隆である。 「いま武田方に馳せ参ずれば、躑躅ヶ崎(つつじがさき)のお屋形さまも悪いようにはせぬ。落ち目の村上義清に義理立てしても、先は見えておろうぞ」 幸隆は言葉たくみに説得工作をおこなうと、屋代秀正は、渡りに船と調略に応じた。寺尾、塩崎の両名もこれにつづいた。
返信 2009年07月15日 (水) 00時11分
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[16] 鬼謀(きぼう),<15>. ew MAIL URL
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7/15 <15> 真田幸隆は、武田晴信のもとへ向かった。 この時期、晴信は甲斐ではなく、信濃国筑摩郡の、深志城にいる。 先年、晴信は中信地方の安曇郡、筑摩郡を攻略、信濃守護の小笠原長時は弟・信貞の伊那郡の鈴岡城へ逃亡したが、地侍を扇動し奪回をはかろうとしていた。 小笠原氏の警戒と、村上の討伐を視野に入れた武田晴信は、天文(てんぶん)二十二年(1553)の三月に甲府を出陣。深志城入りした。 晴信三十三歳。幸隆より八歳年下であが、晴信の器量をみとめていた。 幸隆は、村上方の調略が順調にすすんでいることを報告した。
返信 2009年07月16日 (木) 17時36分
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[17] 鬼謀(きぼう),<16> ew MAIL URL
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7/16 <16> 武田の陣中には、張り詰めた空気が流れている。 「屋代秀正、内応の誘いに乗りましてございます」 幸隆が報告すると、晴信のかたわらに侍(はべ)っていた弟の武田信繁が目を細めた。 信繁は武田きっての知謀の将であり、兄を立てつつ果敢で、家臣の信頼も厚かった。 武田家では「典厩(てんきゅう)さま」と呼ばれている。 ちなみに、幸隆の息子・昌幸(源五郎)は、武田信繁にちなみ二男に信繁と名づけている。 この真田信繁こそ、真田幸村である。 晴信の左右には、錚々(そうそう)たる武将が控えている。 「よくやったぞ、弾正忠(だんじょうのじょう)」 晴信が満足げに言った。 「村上を打てば、小笠原の残党どもも、逃散するであろう」 「しかし、そうなると越後の長尾影虎が黙って降りますまいな」 .
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返信 2009年07月16日 (木) 20時40分
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[18] 鬼謀(きぼう),<17>. ew MAIL URL
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7/17 <17> この当時、甲斐から信濃の武田晴信の周辺には、有力な戦国大名がひしめいていた。 南の境、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)には、今川義元と軍師の太原雪斎がいる。 雪斎の辣腕もあり、義元を今川家当主にすえると、三河国の混乱に乗じ、その大半を併呑、松平広忠の遺児・竹千代(のちの徳川家康)を人質にとっている。 いまのところ武田家と今川家の関係は良好だった。武田晴信の嫡男・義信のもとに、昨年十一月、義元の息女が輿入れしている。 その東には、伊豆、相模、武蔵の小田原城主・北条氏康がおり、侮れぬ存在である。 現在は停戦状態であった、その翌年の天文二十三年(1554)、晴信は娘を北条氏康の嫡子・氏政に嫁がせて講和を成りたたせた。 そして、いま武田家ともっとも緊張が高まっているのが、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)であった。
返信 2009年07月18日 (土) 23時08分
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[19] 鬼謀(きぼう),<18>. ew MAIL URL
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7/18 <18> 長尾景虎は、享禄(きょうろく)三年(1530)、越後の長尾為景の二男として春日山城で生まれた。 父・為景の死後、兄の晴景が家督を継いだが、病弱なうえに国人衆を統率することができず、越後国内は混乱がつづいた。 混乱をおさめるため、国人たちが十九歳の景虎を担ぎ出すと、兄を破り、守護代の座についた。 その後も、晴景派の反乱がつづき手を焼いたが、天文二十年(1551)、越後はほぼ平定された。 景虎はいま、二十四歳、武田晴信よりも九歳年下である。 真田幸隆はうなずいた。 「あの若さで越後の内紛をおさめた手腕なかなかのものと・・・」 幸隆は、西上州に身を寄せたこともあり、北関東の情勢にくわしい。 北条氏康が上州に進出すると、関東管領・上杉憲政は平井城から逃げ出し、長尾景虎に助けを求めたが、景虎は出兵には応じなかった。 憲政は潜伏し機会をうかがっている。 「気がかりなのは、信濃の村上義清、高梨政頼、小笠原長時らが、景虎へしきりに使者を送っていることです」 「長尾景虎に、信濃に兵を出す力があるとは思えぬな」 武田の重臣・飯富(おぶ)虎昌が言った。
返信 2009年07月18日 (土) 23時11分
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[20] 鬼謀(きぼう),<19>. ew MAIL URL
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7/19 <19> 飯富(おぶ)虎昌は、先代・信虎のころより武田家に仕える古参である。筆頭家老として家中をまとめている。 飯富(おぶ)の家臣たちは全身を赤の武具でかため、武田の象徴とされている。 飯富(おぶ)虎昌が、真田幸隆を冷めた目で見ると、幸隆は動じることなく答えた。 「じつは、越後の春日山城へ草ノ者(忍び)を放っておりました」 「ほう・・・」 「景虎は、ひそかにいくさ支度(したく)をはじめております。村上、高梨らの使いと密談を重ね、北信濃出兵の準備ではあるまいかと」 「信じられん」と、虎昌が主君・武田晴信を振り返った。
返信 2009年07月19日 (日) 16時06分
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[21] 鬼謀(きぼう),<20>. ew MAIL URL
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7/20 <20> 「いや、景虎は来るやもしれぬ」 武田晴信はゆっくり言った。 「お屋形さまッ」 飯富(おぶ)虎昌が顔色を変えた。 「しかし、恐るるには足りぬ」 「頼もしきお言葉」 重臣の馬場信春が晴信を仰ぎ見た。 いまは、村上、高梨、小笠原らを邪魔者があらわれる前に、信濃を平定する 「出陣じゃッ!」 「御意(ぎょい)ッ!」
ただちに武田軍は出陣し、北信濃の川中島へ兵をすすめる。 真田幸隆は、別働隊(べつどうたい)として東信濃の小県郡から埴科郡へすすみ、村上の葛尾城下にせまった。 その千曲川の対岸に、孤落(こらく)城という支城が防衛線となっていたが、幸隆の調略で寝返った大須賀の攻撃で、あえなく落城。 さらに屋代、塩崎の有力者の降伏が明らかになり、信濃の地侍たちも武田に走る者が続出した。 さしもの村上義清は、一族、重臣とともに逃亡。 ここに、長年、武田晴信を苦しめた、葛尾城は陥落した。
返信 2009年07月20日 (月) 21時55分
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