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[2] 「真田三代」 前書き ew MAIL URL

連載小説・「真田三代」

  信濃毎日新聞は2009年7月1日から、大河ドラマ、天地人の作者・火坂雅志[ひさかまさし]さんの新たな歴史小説「真田[さなだ]三代」を連載します。信州を拠点に戦国の乱世を縦横無尽に駆け抜けた真田一族。幸村の祖父から始まる物語で、幸村と直江兼続の交流も絡め、描かれる予定。

◇信毎: http://www.shinmai.co.jp/

信州上田にて
 真田幸隆の三男,昌幸が家督を嗣ぐ。
父の真田昌幸は、武田家に仕えるが、武田家が滅びると独立。上田城(長野県上田市)に本拠を構える。
幸村は1567年、昌幸の次男として生れる。
本名は信繁(のぶしげ)
幸村は上杉の人質などを経て、豊臣秀吉に仕え関が原の戦いの後、九度山に篭もる。 大坂冬の陣、夏の陣の戦いにより、後世まで名を上げる。
 資料:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91
  、「真田は日の本一の兵ぞ!」=「さなだは、ひのもといちの、つわものぞ!」
 テレビドラマ、風雲!真田幸村 :http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%9B%B2!%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91
 
一方
真田十万石の城下町信州松代(まつしろ)は長野インターから5分、、真田幸村の兄・松代藩初代藩主真田信之が徳川家康に上田城から松代への移封を命ぜられてから250年間真田家が統治しました。
 wiki: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B
 家計図
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/sanada-db/s-keizu/s-k-hanshu-kei/index.htm#sanada-masayuki

2009年07月01日 (水) 23時02分


[3]   鬼謀(きぼう),<1> ew MAIL URL

 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
概略のみを書き込みます,
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 「真田三代」 
   鬼謀(きぼう),<1>
 五月雨(さみだれ)の中、鳥居峠の林の中に39才の真田幸隆が馬に乗って現れる。
目が少し血走り、目頭はいつも充血しているのが特徴。胸板が厚く体には精気がみなぎっている。
 鳥居峠は長野県小県郡真田と群馬県吾妻郡の境である、

◇上田城, 
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Ueda/index.htm
 : http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/koushinetu/c-1-3-4-2-siro-UEDA.html

返信 2009年07月01日 (水) 23時16分


[4] 鬼謀(きぼう),<2>- ew MAIL URL

7/2
<2>
 しばらくして幸隆は、山伏が寝泊りする籠屋(こもりや)に到着した。
中から、千代と呼ばれる、さほど若くはない巫女が迎え入れた。
幸隆は女を抱き寄せると
「武田晴信(のちの信玄)さまが、わしにお約束下されたのよ。砥石城を攻め落としたあかつきには、わが真田家に一千貫の土地を与えるとな」
と話し出した。

7/3
<3>
 砥石城は埴科郡葛尾城主、村上義清の支城である。
村上は、北信濃への進出をもくろむ甲斐の国の武田の前に立ちはだかった。
天文17年(1548)の上田原の戦いでは、武田は屈辱的な大敗を喫している。
その二年後、30歳になった武田晴信(のちの信玄)は、砥石城攻略に執念を燃やした。
この城攻めに、真田幸隆も参戦している。
しかし、村上は敵対していた高梨氏と和睦、武田は退却。村上勢の追撃を受け一千兵が打ち死にするという,またも大敗北となった。
 世に言う、「砥石崩れ」 である。

返信 2009年07月03日 (金) 21時32分


[5] 鬼謀(きぼう),<4> ew MAIL URL

7/4
<4>
 真田幸隆は、まだ砥石城攻略をあきらめていなかった。
「ふふ、相変わらず、あなた様はしぶとうございますこと」
と、禰津の巫女頭(ノノウ)の千代が笑った。
 真田氏は平安から続く信濃の古族で、「滋野一門」の滋野三家と呼ばれる、海野、望月、禰津の三家のうち、真田氏は総領家とあおがれる海野氏の流れをくむ。
真田と称するようになったのは、地名である真田郷を根拠地にしたからである。
禰津の千代と、幸隆は根をたどれば同族ということになる。
紋は海野氏と同じ六連銭(六文銭)を用いた。
 その海野氏は、いまから十年前、武田、村上、諏訪の連合軍の攻撃を受け敗北し、没落した。

返信 2009年07月04日 (土) 22時03分


[6]  鬼謀(きぼう),<5> ew MAIL URL

7/5
<5>
 砥石城は東太郎山の南へ伸びた尾根の上に築かれ、東は絶壁、西も斜面が厳しく堅固な城である。
 真田幸隆は、武田晴信に城の攻略を直訴し、東側絶壁の神川(かんがわ)をへだてた東岸に陣を布(し)いた。
 兵の数は、城兵二千に対し、真田の手勢は八百足らずだった。
 そもそも、この砥石城は幸隆が築いたものだった。それを勢力を伸ばしてきた村上義清に奪われ、砦程度の城を、広い台地の上に三つの城が建つ要害に作り変えられていた。
 幸隆は、陣内に弟の頼綱を呼んだ。
五歳年下の矢沢頼綱は婿養子に入って、その性を名乗っている。若い頃に鞍馬山に入り、刀術、早業を学んだ眼光鋭い、目鼻立ちの整った顔立ちをしていた。

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雑感*
 戦国時代とはいえ、地方でも、これほどの犠牲者を出していたのかと始めて知った。
 あらためて戦争の愚かさを感じるし、わが地元の近くでの惨状にショックを受けた。

返信 2009年07月06日 (月) 01時11分





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