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[42] そろそろ 区切り. ew MAIL URL
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真田三代 連載の新聞記事を、終わってから半年、置いていましたが 読み直すこともないので、紙廃品に出します。
だれか読んでくれると嬉しいけれど、渡す人もいない。
だれに言い訳しているのか?
出す日に雨が降ら内容に、忘れて二度出しそびれた。
次は
我が家の歴史を、書き残したい。
>返信する 2011年06月03日 (金) 23時01分
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[43] 更新. ew@ MAIL URL
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ここは半年書き込みしないと使えないはずだが残されている。 ここのところ、ネット買い物が増え、その他のブログなどは面倒になる。
モウリーニョの背中。肩が締まっていて良いな。
> 返信 2012年04月17日 (火) 23時17分
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[37] 青 嵐 (せいらん)(1) . ew MAIL URL
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青 嵐 (せいらん)(1) <106>
爽やかな春、躑躅ヶ崎館にほど近い真田家の屋敷で、一組の婚儀が取りおこなわれていた。 花婿は真田の名をあらためた 武藤喜兵衛昌幸。 武藤家は武田信玄の母・大井夫人ゆかりの家である。 花嫁は、遠江国人尾藤頼忠の娘の美月。 美月はすでに昌幸の子をみごもっており、武藤の名を与えられたのを機に、主君・信玄に願って正式に妻に迎える運びとなった。 信玄は、昌幸を高くかっている。まだ十九歳で昌幸に武藤家を相続させ、城下の真田屋敷の近くに土地を与えた。 婚礼には、信玄はじめ嫡子・義信夫妻、美月の実家の尾藤家、真田家と親交のある武田の家臣たちから祝儀の品々が届けられた。 信州の砥石城から母の菖蒲ノ前、兄信綱ら一族が駆けつけた。 しかし、父の真田幸隆・一徳斎は、嵩山城攻めのため、この場にはいない。 「ほんに。昌幸どのもご立派になったもの」 母は目に涙を滲(にじ)ませ、美月に向かい昌幸のことを頼んだ。 「おぬし、知らぬ間に三国一の花嫁を射とめおって」 朋輩の三枝新十郎らが浮かれて言った。
>返信する 2009年10月18日 (日) 02時48分
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[39] ちびっこ・サンボ. EW MAIL URL
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ちびっこ・サンボ
ちびくろ・さんぼ 文、ヘレン・バンナーバン ,岩波書店
あるところに、かわいい くろんぼの おとこの子が
いました。 なまえを ちびくろ・さんぼと いいました。 おかあさんの なは まんぼ、おとうさんの なは
じゃんぼと いいました。 おかあさんの まんぼは、ちびくろ・さんぼに、あか
い きれいな うわぎと、あおい きれいな ずぼんを
、つくってくれました。 おとうさんの じゃんぼは、まちへ でかけて、きれ
いな みどりいろの かさと、かわいい むらさきいろ
の くつを、かってきて くれました。 これだけ そろったら、ちびくろ・さんぼは どんな
に りっぱに なるでしょう。
ちびくろ・さんぼは、あかい うわぎと あおい ず
ぼんに、むらさきいろの くつを はいて、みどりの
かさを さして、じゃんぐるへ さんぽに でかけまし
た。すこし いくと、とらが でてきました。 「ちびくろ・さんぼ! おまえを たべちゃうぞ!」と
、とらは いいました。 そこで、ちびくろ・さんぼは いいました。 「どうぞ、とらさん、ぼくを たべないで ください!
ぼくの この きれいな あかい うわぎを あげる
から」 すると、とらは いいました。 「よし、じゃあ、こんどは、たべないで おいてやろう。
だけど、その きれいな あかい うわぎを くれなき
ゃ だめだぞ」 とらは、かわいそうな ちびくろ・さんぼの きれいな あかい うわぎを もらって、 「これで、おれさまは じゃんぐるじゅうで いちばん
りっぱな とらじゃわい」と いいながら、むこうへ
いって しまいました。 ちびくろ・さんぼが、また、すこし いくと、また
べつの とらが でてきました。 「ちびくろ・さんぼ! おまえを たべちゃうぞ!」と
、とらは いいました。 そこで、ちびくろ・さんぼは いいました。 「どうぞ、とらさん、ぼくを たべないで ください!
ぼくの この きれいな あおい ずぼんを あげる
から」 すると、とらは いいました。 「よし、じゃあ、こんどは、たべないで おいて やろ
う。だけど、その きれいな あおい ずぼんを くれ
なきゃ だめだぞ」 とらは、かわいそうな ちびくろ・さんぼの あおい
ずぼんを もらって、 「これで、おれさまは じゃんぐるじゅうで いちばん
りっぱな とらじゃわい」と いいながら、むこうへ
いって しまいました。 それから、さんぼが、また すこし いくと、また
べつの とらが でてきました。 「ちびくろ・さんぼ! おまえを たべちゃうぞ!」と
、とらは いいました。 そこで、ちびくろ・さんぼは いいました。 「どうぞ、とらさん、ぼくを たべないで ください!
ぼくの この きれいなむらさきいろの くつを あ
げるから」 けれども、とらは いいました。 「いやいや、そんな くつを もらったって、なんの
やくにも たちゃしない。おまえの あしは 二ほなだ
が、おれさまの あしは 四ほんだ。くつの かずが
たりないぞ」 そこで、ちびくろ・さんぼは、いいました。 「みみに はけば、いいですよ」 「な、なるほどね」と、とらは いいました。「そいつ
は いい かんがえだ。それじゃ、こんどは、たべない
で おいてやろう」 とらは、かわいそうな ちびくろ・さんぼの きれい
な むらさきいろの くつを もらって、 「これで、おれさまは じゃんぐるじゅうで いちばん
りっぱな とらじゃわい」と いいながら、むこうへ
いってしまいました。 それから、さんぼが、また すこし いくと、また
べつの とらが でてきました。 「ちびくろ・さんぼ! おまえを たべちゃうぞ!」
と、とらは いいました。 そこで、ちびくろ・さんぼは いいました。 「どうぞ、とらさん、ぼくを たべないで ください!
ぼくの この きれいな みどりいろの かさを あ
げるから」 けれども、とらは いいました。 「おれは、あるくのに あしが 四ほん いる。いった
い、どうやって かさを させば いいんだ?」 「しっぽに ゆわえつけて、させば いいですよ」と、
ちびくろ・さんぼは いいました。 「な、なるほどね」と、とらは いいました。「それな
ら、かさを こっちへ よこせ。こんどは、たべないで
おいてやろう」 とらは、かわいそうな ちびくろ・さんぼの きれい
な みどりいろの かさを もらって、 「これで、おれさまは じゃんぐるじゅうで いちばん
りっぱな とらじゃわい」と いいながら、むこうへ
いってしまいました。
ひどい とらたちに、うわぎも ずぼんも、くつも か
さも、みんな とられて、ちびくろ・さんぼは おいお
い なきながら、あるいて いきました。 すると、 「ぐる・る・る」という おそろしい こえが、きこえ
て きました。 そして、こえは、だんだん おおきく なって きまし
た。 「たいへんだ! たいへんだ!」と、ちびくろ・さんぼ
は いいました。「とらが みんなで ぼくを たべに
やってくる! どうしよう?」 そこで、ちびくろ・さんぼは おおいそぎで やしの
木の かげに かくれて、いったい、どういうことに
なるのかしらと おもって、そっと のぞいて みまし
た。 すると、とらたちが みんなして、 「おれが いちばん りっぱな とらだ、おれが おれ
が」といって、けんかを しているのでした。しまいに
、みんなは かんかんに おこりだして、うわぎも か
さも ずぼんも くつも ほうりだして、つめで ひっ
かいたり、おおきな しろい はで くいついたり、お
おげんかに なって しまいました。 そして、とらたちは、ごろん ごろん、どたん ばたん
と、ちびくろ・さんぼの かくれている 木の すぐ
そばまで やってきました。さんぼは、おおいそぎで
かさの うしろへ にげこみました。 とらたちは、ふうふう いいながら、となりの とら
の しっぽに くいついて かけまわりましたので、木
の まわりに、とらのわが できて しまいました。 そこで、ちびくろ・さんぼは かさの かげから か
おを だして、どなりました。 「とらさん とらさん、どうして こんな いい かさ
や きものを すてちゃったの? もう いらないの?
」 けれども、とらは ただ、 ”ぐる・る・る・る・る・る・るるるるるるるるるる
るる” と、こたえた だけでした。 そこで、ちびくろ・さんぼは いいました。 「もし いるんなら、そう いって おくれよ。でなき
ゃ、ぼくが もってっちゃうよ」 けれども、とらは まだ しっぽを くわえた まま
でした。 それで、やっぱり、 ”ぐる・る・る・る・る・るるるる” と、いった きりでした。 そこで、ちびくろ・さんぼは また、きれいな きも
のを きて、かさを さして いって しまいました。 とらたちは、それを みて かんかんに おこりまし
た。それでも まだ、しっぽを はなそうと しません
でした。 そして、はらたちまぎれに、あいての とらを たべ
て しまおうと おもって、ぐるぐる 木の まわりを
かけまわりました。 そのうち、あんまり はやく まわったので、あしが
ぜんぜん みえなく なって しまいました。 それでも まだ やめないで、ぐるぐる まわって
いるうちに、とうとう みんな どろどろに とけて
ながれて しまいました。
ちょうど そのとき、おとうさんの じゃんぼが、お
おきな つぼを もって、しごとから かえって きま
した。そして、とけた とらたちを みて、おおよろこ
びで いいました。 「こいつは、すてきな ばたーじゃわい! うちへ も
って かえって、まんぼに おいしい ごちそうを つ
くってもらおう」 そこで、じゃんぼは おおきな つぼに いっぱい、
とけた ばたーを いれて、うちへ もって かえりま
した。 うちでは まんぼが、おおよろこびでした。 「さっそく、ほっと・けーきを こしらえて、みんなで
たべましょう!」 そこで まんぼは、こなと たまごと みるくと、お
さとうを まぜて、とても おいしそうな ほっと・け
ーきを おさらに いっぱい つくりました。 それから、それを とらの ばたーで 揚げると、ほ
っと・けーきは、ちょうど、とらのような きいろい
こんがりした いろに なりました。 それから、みんんなで たべました。 おかあさんの まんぼは、その おいしい ほっと・
けーきを、二十と 七つも たべました。 そして、おとうさんの じゃんぼは 五十五も たべ
ました。 けれども ちびくろ・さんぼは、なんと 百九十六も
たべました。とても とても おなかが へって い
ましたのでね。
-------------- ちびくろ・さんぼ 2
あるとき、ちびくろ・さんぼが、おとうさんに もら
った おおきな かなづちで、とんかち とんかち や
っていると、おかあさんの よぶこえが しました。 「ちびくろ・さんぼ! ちょっと きてごらんよ!」 そこで さんぼが とんでいくと、かわいい くろん
ぼの あかちゃんが ふたり、おおきな かごの なか
に ねていました。 「これ、ぼくの おとうと?」 「そうよ、おまえの おとうとよ」 「うれしいな! なんて なまえが いいかな?」と、
ちびくろ・さんぼは いいました。 「うん、そうだ! ちびくろ・うーふと ちびくろ・む
ーふっていうのが、いいや!」 ちびくろ・うーふと ちびくろ・むーふは、一にちご
とに おおきくなって いきました。 ちびくろ・さんぼは、かわいい おとうとたちの て
を ひいて、さんぽに つれて いったり、おふろに
いれて やったり しました。 おとうとたちの はじめての 誕生日に、ちびくろ・
さんぼは、みるくを いれる おちゃわんを ひとつず
つ やりました。 その ひとつには うーふ もう ひとつには むーふ と かいて ありました。 二どめの たんじょうびには、ながい きれいな お
びを やりました。 ちびくろ・うーふは あかい おび。 ちびくろ・むーふは あおい おび。 これで ふたりは たいへん りっぱに みえました
。 あるひ、さんぼが おとうとたちと あそんで いる
と、おかあさんの まんぼが よびました。 「ちびくろ・さんぼや、じゃんぐるへ いって、たきぎを
すこし とってきて おくれ。ばんの ごちそうに
ひつじの にくを やくんだから」 そこで、さんぼは じゃんぐるへ とんで いきまし
た。 さて、ちびくろ・さんぼの いえから、あまり とお
くない ところに、たかい たかい やしの木の もり
が ありました。 そのもりの いちばん たかい木の てっぺんに、二ひ
きの わるい さるが すんで いました。 さるたちは、いつも、ちびくろ・うーふと ちびくろ
・むーふを みて いました。そして、かわいい ふた
りを、じぶんたちの こどもに したい ものだと お
もって いました。 そこで、ちびくろ・さんぼが、たきぎを とりに じ
ゃんぐるへ いって しまうと、そのすきに 二ひきの わるい さるたちは、そっと やしの木を
おりて、ちびくろ・うーふと ちびくろ・むーふが、
おちゃわんを もって あそんでいる ところへ やっ
てきました。 そして、かわいい ふたりを さらって、かぜのよう
に、やしの木の てっぺんへ にげていって しまいま
した。 ちびくろ・うーふと ちびくろ・むーふの わあわあ
なくこえを きいて、おかあさんが とんで きまし
た。 けれども、もう そのときは、ふたりは どこにも
いませんでした。 ちびくろ・さんぼが、じゃんぐるから かえって く
ると、おとうとたちの すがたが みえないので、びっ
くりして しまいました。 「ちびくろ・うーふ、やーい! ちびくろ・むーふ、や
ーい!」と、さんぼは よびました。 すると、おかあさんが とんできて、「ちびくろ・う
ーふと ちびくろ・むーふは、わるい さるたちが、木
の てっぺんへ さらっていって しまったのよ」と、
なきなき はなして きかせました。 「たいへんだ! たいへんだ!」 ちびくろ・さんぼは、たきぎを ほうりだして、おか
あさんと いっしょに、やしの木の もりへ かけつけ
ました。 そして あっちの木や こっちの木を したから す
かして ながめましたが、どの木にも、うーふたちの
すがたは、みえませんでした。 そのうち、さんぼは、いちばん たかい 木のしたに
、ちいさな おちゃわんが ふたつ、ころがって いる
のを みつけました。それは うーふと むーふの お
ちゃわん でした。 「おかあさん、この木だよ! うーふと むーふは、こ
の木に いるんだよ」と、ちびくろ・さんぼは、おどり
あがって いいました。 おかあさんも おおよろこびで かけてきました。 そして、じっと うえを みあげて いると、ぽたり
と ひとつ おおきな なみだが、ちびくろ・さんぼの
はなの うえに おちてきました。 それから、もうひとつ、ぽたりと まんぼの はなの
うえに、おちてきました。 それで、ちびくろ・うーふと ちびくろ・むーふが、
その木の うえに いるにちがいない、ということが
わかりました。 けれども、いったい どうやって、この たかい木の
てっぺんへ のぼれば いいのでしょう? ちびくろ・さんぼは、木の ねもとに すわって、じ
っと かんがえこみました。そして、きゅうに ひざを
たたいて、いいました。 「うん、いいことを おもいついた!」 ちびくろ・さんぼは、おおいそぎで いえに かえっ
て、おとうさんの じゃんぼに もらった、おおきな
かなづちと ながい くぎを とって きました。 そして、それを 一ぽん 一ぽん、たかい やしの木
に うちつけ はじめました。 一ぽん うっては ひとあし のぼり、一ぽん うっ
ては また ひとあし のぼって、ちびくろ・さんぼは
、だんだん たかく、のぼって いきました。 けれども、てっぺんちかく なると、やしの はが
いっぱい しげって いて、はりのような さきが ち
くちく さして すすめませんでした。 それで、しかたなく、ちびくろ・さんぼは、また し
たへ おりて、木の ねもとに しゃがんで、しくしく
なきはじめました。 ちょうど そのとき、一わの おおきな わしが、そ
ら たかく とんで いました。 とても たかい ところを とんで いましたので、
だれにも みえませんでした。けれども、わしは おお
きな よく みえる めで、したの せかいを ながめ
て いました。 そして、やしの木の したに、ちびくろ・さんぼが
いるのを みると、さっと、そらから まいおりて き
ました。 けれども、どうやら、さんぼは、ないている ようす
です。 わしは、ちびくろ・さんぼの そばへ よって いき
ました。 「どうしたんだ、ちびくろ・さんぼ? なにを そんなに
ないて いるの?」と、わしは、やさしく ききまし
た。 「この木に すんでいる わるい さるたちが、ぼくの
おとうとたちを さらって いって しまったの」と
、さんぼは いいました。「ぼくには、どうして とり
かえして いいか わからないの!」 「それじゃ、ぼくが つれてきて あげよう」と、わし
は いいました。そして、たかい やしの木の てっぺ
んへ まいあがりました。 それを みて、わるい さるたちは、びっくりして
にげて いって しまいました。 ところが、ちびくろ・うーふも ちびくろ・むーふも
わしを こわがって、やしの はの あいだに ひっ
こんで しまいました。それで、わしは しかたなく
さんぼを つれに ひきかえしました。 そして、ちびくろ・さんぼを せなかに のせて、も
ういちど やしの木の てっぺんへ まいあがりました
。 にいさんの さんぼが きたのを みると うーふも
むーふも おおよろこびで、はの なかから でてき
ました。 そこで、ちびくろ・さんぼは、ふたりの おびを と
いて、うーふと むーふを わしの くびに しばりつ
けました。 それから、さんぼは わしの ひろい おおきな せ
なかに のりました。 うちでは、おとうさんの じゃんぼが、ちょうど し
ごとから かえった ところでした。そして、まんぼか
ら、わるい さるたちの ことを きいて、どうしたら
いいかと しんぱい している ところでした。 すると、どうでしょう。 「おとうさん! おかあさん!」と、さんぼの よぶ
こえが するでは ありませんか。 じゃんぼと まんぼが、そとへ とびだしてみると、
ちびくろ・さんぼたちが、おおきな わしの せなかに
のって、そらから おりてくる ところでした。 それを みて、じゃんぼと まんぼは、どんなに よ
ろこんだでしょう。 おとうさんの じゃんぼは、ちびくろ・うーふを だ
きしめ、おかあさんの まんぼは、ちびくろ・むーふを
だきしめました。 そして さんぼは、みんなに だきつきました。 おとうさんと おかあさんは、わしに うんと おれ
いを いいました。 そして まんぼは、うちから ひつじの あしを も
ってきて、二ほんとも わしに やりました。 わしは その おいしそうな ひつじの あしを も
って、おおよろこびで いえへ とんで かえって い
きました。 わしの うちでは、かわいい わしの子が、おとうさ
んの かえりを まっていました。 そして、おとうさんが おいしそうな ひつじの あ
しを 二ほんも もって かえったのを みると、はね
を ばたばた させて よろこびました。 さんぼの うちでは、ひつじの にくを みんな わ
しに やって しまったので、そのばん、おかあさんは
、かわりに また、おいしい ほっと・けーきを おさ
らに いっぱい つくりました。 わしの うちでも、ちびくろ・さんぼの うちでも
おおごちそう でした。 けれども、わるい さるたち だけは、なんにも ご
ちそうが ありませんでした。
おわり
昭和28年12月10日発行、昭和41年7月20日第
15刷発行
---------------------- この本は、翻訳文の中に、差別用語があるという判断の
ため、発行から数十年後に、発売禁止になっていました
。 どこに問題の用語があり、どこの誰の判断で、そのよ
うな措置が下されたのかは、わかりませんが、黒人の男
の子の呼び方を、べつのものに置き換えれば、物語の内
容に問題はないものと思います。
> 返信 2010年01月13日 (水) 22時56分
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[32] 川中島 <10>. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/31 川中島 <10> ,/ <30>
武田晴信は、塩田平から軍勢を北上させ、臨戦態勢をととのえた。 布施の戦いで、多くの死傷者を出した真田勢は、後陣を命じられた。 真田家本貫の地である小県郡を脅かすとなれば、黙ってこれを見過ごすわけにはいかない。 幸隆の意地である。 しかし、決戦を控え、直接対決は意外な形で結末を迎えた。 南下をつづけるかと思われた長尾勢が、突如、軍勢を返して、九月二十日には川中島平から越後へ引き揚げてしまったのである。 これには、武田方の誰もがおどろいた。 川中島合戦の第一次の戦いは、勝負なしという形となった。 なぜ、長尾景虎が兵を引き揚げたのか、理由は、 「京の将軍に会いに行ったそうじゃ」 その行動は、人々を唖然とさせた。
>返信する 2009年08月01日 (土) 23時40分
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[33] 川中島 <11>. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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8/1 川中島 <11> ,/ <31> 長尾景虎は休む間もなく、小数の兵をひきいて京に上洛した。 京の天皇、将軍と会い、その権威によって、みずからの地位を磐石にするためであった。 後奈良天皇に拝謁。 「戦乱を鎮定すべし」 という綸旨(りんじ)をたまわり、天盃と御剣(ぎょけん)を下賜された。 ついで景虎は、将軍・足利義輝に謁見。さらに泉州・堺に足をのばし、鉄砲や玉薬(火薬)、南蛮渡来の品々を買い求めた。 高野山、大徳寺にも参詣した景虎は、その年の暮れ、帰国の途についている。 一方。 景虎が不在のあいだ、川中島平では、武田晴信がじわじわと締め付けを強め、地侍たちは武田方に次々と切り崩されていった。 村上、高梨も、ふたたび越後へ逃げ戻った。
正月を祝うため、砥石城に真田一族が集まっている。矢沢頼綱の戦いの傷もようやく癒えた。 天分二十三年(1554)の春、幸隆は川中島での働きの恩賞として、武田晴信から小県秋和に三百五十貫の領地を与えられていた。 上田盆地への要衝であり、のち、幸隆の子・昌幸は、秋和南方に上田城を築くことになる。
> 返信 2009年08月01日 (土) 23時45分
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[34] 川中島. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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上杉が、関東管領の役を引き継ぎ、川中島を留守にしている間、武田は、またも川中島以北へ進出していた。 また、上州侵略も真田幸隆らに攻略を任せていた。 しかし、それを許さない上杉が、川中島へ。 最大の激突が始まる。
> 返信 2009年09月19日 (土) 17時43分
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[35] 川中島の八幡原. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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9/19
初陣 <17> (79)
武田信玄が軍配をつかんで立ち上がった。 「信じられませぬ」 かたわらに控えていた山本勘助が、よろめいた。 「裏の裏をかかれたか」 後ろで信玄と軍師のやりとりを見ていた真田昌幸は、脇に冷たい汗がわくのをおぼえた。 八幡原の武田本隊は八千、妻女山から下ってきた上杉軍は一万三千。明らかに不利な状況である。 鬨(とき)の声があがった。 「龍」の旗がたなびき、地響きとともに武田本陣へ押し寄せてくるのが見えた。 このとき、上杉政虎は「車懸かりの陣」と呼ばれる、大将を中芯にして全体を車輪のごとく旋回させて敵を襲う戦法をとった。 これを見た山本勘助は、とっさの判断で、信玄に進言した。 「陣形を蓑手(みのて)に変えられませ」 蓑手とは、左右の両翼を大きく伸ばした、鶴翼の陣である。それまでの武田具は、中央の部隊を突出させる魚鱗の陣をとっていた。
> 返信 2009年09月20日 (日) 02時36分
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[36] 初陣. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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9/20
初陣 <18> (80)
陣形の変更は迅速におこなわれた。 上杉勢の先鋒、柿崎景家の二千の軍勢が雄叫びを上げ、旗をなびかせながら、正面の飯富昌景、内藤らの軍勢に襲いかかった。 弓矢が飛び交い、たがいの槍隊が激突。両軍、一歩もゆずらず熾烈な白兵戦となった。 「武田三代軍旗」に、戦いのようすが書かれている。 虚を衝かれた武田軍であったが、よく戦い、当初は一万三千の上杉軍と互角の展開となった。 しかし、時間の経過とともに、武田軍は劣勢に追い込まれた。 真田昌幸、三枝新十郎ら奥近習は、主君の身を守るべく太刀を抜いて本陣の守りをかためる。
> 返信 2009年09月23日 (水) 23時49分
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[22] 「真田三代」 川中島 <1> . ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/22 川中島 <1> , <21> ここは越後春日山城。日本海を眺め下ろすことができる。 冬ともなれば海からの寒風がじかに吹きつける。 武田軍の葛尾城攻略から二月後、城を追われた村上義清は、長尾景虎の居館にあった。 海野平の負けいくさの遺恨で、真田幸隆が利をもって属将どもを寝返らせたことに無念さをにじませた。 上段ノ間にいた長尾景虎は、雪のように白く豊かな頬に、一重瞼の切れ長の目、小さく引き締まった唇と一見して、合戦とは縁遠い容貌の青年武将だが、戦の天才であった。 それに対し、武田晴信は人遣いの天才である。 砥石城を奪い取った幸隆に強い興味を持った。
>返信する 2009年07月22日 (水) 22時57分
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[25] 川中島 <3>. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/24 川中島 <3> ,/ <23> そのころ、真田幸隆は、相変わらず戦陣に身を置いていた。 次の仕事は、尼厳(あまかざり)城の攻略である。 この城には、村上義清の残党・東条一族らが立て籠もり抵抗を続けていた。 真田郷から地蔵峠を越えてわずか五里(20キロ)の近さで、千曲(ちくま)川と犀(さい)川を見下ろす峻険な山上に築かれていた。 川中島の地方の完全掌握をめざす武田晴信が、幸隆に「城を落とせ」と命じた。 村上の味方の大半が逃亡している状況では、すぐに降伏してくるだろうと、幸隆は読んだ。 しかし、尼厳(あまかざり)城に籠もる東条一族は、調略に応じてこない。それどころか、ますます意気軒昂である。 「おかしゅうございますな、兄じゃ」 弟の矢沢頼綱がいった。 「来るのじゃな」 「長尾景虎でござるか」 「今度という今度は・・・。頼綱、塩田平へ行くぞッ!」 幸隆は叫んだ。
> 返信 2009年07月26日 (日) 00時29分
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[26] 川中島 <4>. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/25 川中島 <4> ,/ <24> そのころ、真田幸隆は、尼厳(あまかざり)城の奇妙な動きを報告すべく、弟の頼綱とともに、武田晴信のもとへ向かった。 武田が陣を布く塩田平は、上田盆地の西部に位置し豊かで信濃の中心地として古くから栄えてきた。 突然、本陣にあらわれた幸隆に、 「いかがした」 晴信は不審の目を向けた。 「東条一族が降(くだ)ったか」 「それどころではござりませぬ」 幸隆は事の次第を報告した。 「景虎の出馬、間違いなかろうな」 幸隆が春日山城に放っていた草ノ者たちが、それを裏付ける情報をもたらしていた。 「はッ!すでに、軍勢八千を従え、一両日中にも春日山を発するとのこと」 春日山から川中島平へは、わずか二日の距離。 「すれば、一刻の猶予もならぬ。即刻、尼厳城の囲みを解き、川中島平に展開し、先鋒として長尾の軍勢を迎え撃つのじゃ」 晴信は命じた。 「先鋒の指揮は、弟・典厩(てんきゅう)信繁にとらせる。まずは、じっくりと長尾景虎の手並みを拝見するとしよう」 「はッ!」

> 返信 2009年07月26日 (日) 00時40分
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[27] 川中島 <5> . ew MAIL URL
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7/26 川中島 <5> ,/ <25> 真田幸隆は、ただちに川中島平へ押し出して越後勢の来襲にそなえた。 長尾景虎は、生涯にわたって信州、関東、北陸など諸方の遠征に明け暮れることになる初めての出兵である。 「刀八毘沙門」(とうはつびしゃもん)の軍旗を押し樹(た)てた、長尾景虎ひきいる八千の軍勢が、川中島平に姿をあらわしたのは、天文二十二年(1553)八月十二日のことである。 先導役に、村上義清、高梨政頼ら、信濃勢。 小笠原の三階菱(さんがいびし)の軍旗もはためいていた。 「完膚(かんぷ)なきまでに、たたきのめしてくれましょう」 川中島平東方の妻女山(さいじょざん)から敵勢を見下ろして、矢沢頼綱が言った。 「いや、無謀な仕掛けは禁物だ」 幸隆は首を横に振った。 「いくさの矢おもてに立つわれらだけが貧乏籤(くじ)を引いてもつまらぬ」 八月二十日。 武田、長尾両軍のあいだで最初の激突が起きた。 場所は、川中島平南部の更科(さらしな)郷、布施(ふせ)。 先に仕掛けたのは、長尾方である。
> 返信 2009年07月26日 (日) 16時25分
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[28] 川中島 <6>. ew MAIL URL
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7/27 川中島 <6> ,/ <26> 攻め太鼓が烈しく打ち鳴らされ、雄叫(おた)びとともに、村上、高梨らの軍勢が、楯をならべ矢を射(い)かけながら前進をはじめた。 長尾勢の先鋒が信濃衆ならば、武田勢の先鋒も、大須賀、屋代、塩崎、真田、春日、といった信濃衆である。 真田幸隆は、皮肉な気持ちになった。 もっとも、長尾方についているほうが領地奪回のために必死である。 その迫力に押され、武田方はしだいに劣勢となった。 最右翼で小笠原勢と当たっている真田勢も、苦戦を強(し)いられている。 「このままでは、まずい」 矢沢頼綱が兄を振り返った。 「待て、このようなところで、無駄死にはすまいぞ」 幸隆が鉄扇で合図を送ると、後ろにいた草ノ者たちが荷車」を引き出してきた。
> 返信 2009年07月27日 (月) 22時26分
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[29] 川中島 <7>. ew MAIL URL
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7/28 川中島 <7> ,/ <27> 荷車の上には、口径五寸ほどの青銅の筒が据えられている。 「青銅胞よ」 真田幸隆は言った。 これは明国(みんこく)で製造された”小銅銃”というもので、単純な構造で命中率がきわめて低かった。 わが国に種子島銃(南蛮銃)が伝えられる前であった。 泉州(せんしゅう)堺の商人が、甲斐の武田氏、相模の北条氏などに売り込んでいた。 幸隆はこの青銅胞を、上州流浪時代に知り合った小田原北条出入りの商人から手に入れ、前線に持ち込んでいた。 「役に立つものは何でも使う」 「行けッ!」 幸隆の命令一下、草ノ者たちが荷車を引いて走り出した。 小笠原勢の側面に回り込み、筒先を敵の侍大将とおぼしき騎馬武者に向ける。 筒の中に火種が投げ込まれた。瞬間、 轟ッ と、地鳴りのような音が響く。砲弾は騎馬武者の足元に落ちたが、大音響に馬や若党も尻餅をついた。
> 返信 2009年07月29日 (水) 22時06分
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[30] 川中島 <8>. ew MAIL URL
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7/29 川中島 <8> ,/ <28> 真田方による突然の砲撃に、小笠原勢の足が止まった。 さらに、二撃、三撃の青銅砲が火を噴き、落馬する武者が続出する。 「いまぞッ!」 矢沢頼綱が、精鋭三十騎をひきいて敵中へ切り込んだ。 いままで防戦一方だった真田勢が俄然(がぜん)、優位に立った。 頼綱の一隊は、たちまちのうちに首級十五を挙げた。 「深追いはやめよ」 真田幸隆は頼綱のもとに、伝令を飛ばした。 局地戦では、真田勢が圧倒しているが、まわりを見渡せば、信濃衆は、完全に押し込まれている。 のみならず、長尾方の二陣の柿崎景家の軍勢が左翼から押し出し、三陣の甘粕長重の一隊が、戦場に殺到してくるのが見える。 これに対し、武田の二陣は動く気配を見せない。 (われらをダシに使い、相手をはかっているのか・・・) 幸隆は思った。(退きどきじゃな) と、そのときである。 長尾勢の後方から、「毘(び)」の旗指物がたなびかせ押し出してくる一団があった。 先頭に色々嚇(おどし)の甲冑の武者がいた。 「長尾景虎か・・・」 幸隆は肌が泡立つのをおぼえた。
> 返信 2009年07月31日 (金) 00時26分
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[31] 川中島 <9>. ew MAIL URL
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7/30 川中島 <9> ,/ <29> 総大将みずから、前線へ斬(き)り込んでくるなど聞いたためしがない。 長尾景虎は、矢沢頼綱の一隊がいる長尾の旗本隊に向かって突き進んでいくところであった。 「退(の)き鉦を鳴らせーッ!」 真田幸隆は叫んだ。 頼綱もようやく状況に気づいたが、時すでに遅く、「毘」の旗を押し立てた一団が、頼綱の隊に襲いかかった。 幸隆は天を仰(あお)いだ。 それから、四半刻(しはんとき、三十分)後。 矢沢頼綱は奇跡的に生還を果たしたものの、傷を負い、自陣へたどり着くと気を失った。 また、配下の精鋭三十のうち、二十一人までが討ち死に。生き残った者たちも、深手を負った。 その日の戦闘は、長尾方の勝利におわった。 「長尾景虎、手強し・・・」 敗走する馬を走らせながら、幸隆はつぶやいた。
九月一日。 再度、両軍がぶつかり合った八幡(やわた)の戦いでも、武田勢は長尾の連合軍を前に押しまくられた。 これにより、武田軍は川中島平から撤退を余儀なくされる。 長尾勢は、屋代秀正の持ち城、荒砥城を戦わずして開場させ、同月三日、中信の筑摩(ちくま)郡へとなんかした。 塩田平の武田晴信は、事態の推移を見守ったまま、なかなか腰を上げようとしない。 ようやく晴信が動きだしたのは、長尾方の別働隊が、小県郡に近い南条へ侵攻をはじめたときだった。
> 返信 2009年07月31日 (金) 00時41分
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[12] 鬼謀(きぼう),<11>. . ew MAIL URL
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7/11 <11>. 真田幸隆は、この十年という流浪の暮らしを振り返った。逆境の中で得た思想がある。 __弱小勢力とて、人は望むものをつかみ取るためなら、他人を利用することをためらってはならぬ。 武田晴信という大勢力に従い、そのもとで旧領地を回復したのも、その実践であった。 (武田をあますところなく利用し、真田の勢力を飛躍させて、天下にまで名をとどろかせてくれる・・・) 幸隆は、十五歳と九歳の息子に告げた。 「旧領地を取りもどしただけで、満足しようと思うな。」
>返信する 2009年07月11日 (土) 23時17分
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[13] 鬼謀(きぼう),<12>. . ew MAIL URL
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7/12 <12> 幸隆の言葉に、二人の息子は黙り込んだ。 ところが、三男で五歳の源五郎(昌幸(まさゆき))は、兄たちと違っていた。 三男にもなると,幸隆は、目を掛けてやることはなかった。この時代、家督を継ぐのは総領の男子で、それを補佐する息子がもう一人いれば、ほかの子は他家へ養子に出すか、仏門に入れるのが武家の通例であった。 源五郎は「わしは大きゅうなったら、どのような相手にも負けぬ武将になりまする」 幸隆は祝杯をあおり 「よき心がけじゃ。父子争うことになっても、この父を倒して前へすすむか」 「はい」 「これはよい」 幸隆がはじけるように笑った。
> 返信 2009年07月13日 (月) 02時28分
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[14] 鬼謀(きぼう),<13>. ew MAIL URL
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7/13 <13> 幸隆は真顔になった。 「源五郎、そなた甲斐へゆけ」 「何ゆえに?」 母の菖蒲ノ前が眉をひそめた。 「人質に決まっておろう」 幸隆は、躑躅ヶ崎(つつじがさき)のお屋形さま(武田)へ人質をやるという。 「こたびのお働きで、おまえさまはお屋形さまのご信頼を勝ち得たはずでございます」 そこに矢沢頼綱が同調した。 「武田に、ここで卑屈な態度をとっては、侮られるのではないのか」 「馬鹿め。このようなときであるからこそ、細心の注意をほどこさねばならぬのだ」 幸隆は目を剥いた。 「われらは武田の者どもに警戒されておる。身を低く撓(たわ)めばならぬ」
> 返信 2009年07月14日 (火) 02時12分
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[15] 鬼謀(きぼう),<12>. . ew MAIL URL
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7/14 <14> 母の菖蒲ノ前は、なおも源五郎を手放すことを渋ったが、家長たる幸隆の決定は絶対である。 「武田家をよく見てまいれよ」 幸隆は、源五郎に言った。 武田の武者どもが、なぜひとつに結束しているのか。その強さのみなもとは何か見定めてくるのだ。と言い聞かせた。 源五郎が、じっさいに甲斐へ人質に送られたのは、それから二年後の天文二十二年(1553)のことであった。 真田幸隆は、その後も武田軍の信濃先方衆(さきがたしゅう)として、精力的に動いた。 このころ、武田晴信の関心は、苦杯を嘗(な)めさせられた葛尾(かつらお)城の村上義清討滅にそそがれていた。 砥石城を失った村上は、一時の勢いを失い、家臣たちの離反に苦しむようになった。 村上義清に従っている、東信濃から北信濃の、 屋代(やしろ)、寺尾、塩崎、といった地侍たちの切り崩したのは、幸隆である。 「いま武田方に馳せ参ずれば、躑躅ヶ崎(つつじがさき)のお屋形さまも悪いようにはせぬ。落ち目の村上義清に義理立てしても、先は見えておろうぞ」 幸隆は言葉たくみに説得工作をおこなうと、屋代秀正は、渡りに船と調略に応じた。寺尾、塩崎の両名もこれにつづいた。
> 返信 2009年07月15日 (水) 00時11分
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[16] 鬼謀(きぼう),<15>.. ew MAIL URL
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7/15 <15> 真田幸隆は、武田晴信のもとへ向かった。 この時期、晴信は甲斐ではなく、信濃国筑摩郡の、深志城にいる。 先年、晴信は中信地方の安曇郡、筑摩郡を攻略、信濃守護の小笠原長時は弟・信貞の伊那郡の鈴岡城へ逃亡したが、地侍を扇動し奪回をはかろうとしていた。 小笠原氏の警戒と、村上の討伐を視野に入れた武田晴信は、天文(てんぶん)二十二年(1553)の三月に甲府を出陣。深志城入りした。 晴信三十三歳。幸隆より八歳年下であが、晴信の器量をみとめていた。 幸隆は、村上方の調略が順調にすすんでいることを報告した。
> 返信 2009年07月16日 (木) 17時36分
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[17] 鬼謀(きぼう),<16>. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/16 <16> 武田の陣中には、張り詰めた空気が流れている。 「屋代秀正、内応の誘いに乗りましてございます」 幸隆が報告すると、晴信のかたわらに侍(はべ)っていた弟の武田信繁が目を細めた。 信繁は武田きっての知謀の将であり、兄を立てつつ果敢で、家臣の信頼も厚かった。 武田家では「典厩(てんきゅう)さま」と呼ばれている。 ちなみに、幸隆の息子・昌幸(源五郎)は、武田信繁にちなみ二男に信繁と名づけている。 この真田信繁こそ、真田幸村である。 晴信の左右には、錚々(そうそう)たる武将が控えている。 「よくやったぞ、弾正忠(だんじょうのじょう)」 晴信が満足げに言った。 「村上を打てば、小笠原の残党どもも、逃散するであろう」 「しかし、そうなると越後の長尾影虎が黙って降りますまいな」 .
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> 返信 2009年07月16日 (木) 20時40分
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[18] 鬼謀(きぼう),<17>. . ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/17 <17> この当時、甲斐から信濃の武田晴信の周辺には、有力な戦国大名がひしめいていた。 南の境、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)には、今川義元と軍師の太原雪斎がいる。 雪斎の辣腕もあり、義元を今川家当主にすえると、三河国の混乱に乗じ、その大半を併呑、松平広忠の遺児・竹千代(のちの徳川家康)を人質にとっている。 いまのところ武田家と今川家の関係は良好だった。武田晴信の嫡男・義信のもとに、昨年十一月、義元の息女が輿入れしている。 その東には、伊豆、相模、武蔵の小田原城主・北条氏康がおり、侮れぬ存在である。 現在は停戦状態であった、その翌年の天文二十三年(1554)、晴信は娘を北条氏康の嫡子・氏政に嫁がせて講和を成りたたせた。 そして、いま武田家ともっとも緊張が高まっているのが、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)であった。
> 返信 2009年07月18日 (土) 23時08分
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[19] 鬼謀(きぼう),<18>. . ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/18 <18> 長尾景虎は、享禄(きょうろく)三年(1530)、越後の長尾為景の二男として春日山城で生まれた。 父・為景の死後、兄の晴景が家督を継いだが、病弱なうえに国人衆を統率することができず、越後国内は混乱がつづいた。 混乱をおさめるため、国人たちが十九歳の景虎を担ぎ出すと、兄を破り、守護代の座についた。 その後も、晴景派の反乱がつづき手を焼いたが、天文二十年(1551)、越後はほぼ平定された。 景虎はいま、二十四歳、武田晴信よりも九歳年下である。 真田幸隆はうなずいた。 「あの若さで越後の内紛をおさめた手腕なかなかのものと・・・」 幸隆は、西上州に身を寄せたこともあり、北関東の情勢にくわしい。 北条氏康が上州に進出すると、関東管領・上杉憲政は平井城から逃げ出し、長尾景虎に助けを求めたが、景虎は出兵には応じなかった。 憲政は潜伏し機会をうかがっている。 「気がかりなのは、信濃の村上義清、高梨政頼、小笠原長時らが、景虎へしきりに使者を送っていることです」 「長尾景虎に、信濃に兵を出す力があるとは思えぬな」 武田の重臣・飯富(おぶ)虎昌が言った。
> 返信 2009年07月18日 (土) 23時11分
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[20] 鬼謀(きぼう),<19>. . ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/19 <19> 飯富(おぶ)虎昌は、先代・信虎のころより武田家に仕える古参である。筆頭家老として家中をまとめている。 飯富(おぶ)の家臣たちは全身を赤の武具でかため、武田の象徴とされている。 飯富(おぶ)虎昌が、真田幸隆を冷めた目で見ると、幸隆は動じることなく答えた。 「じつは、越後の春日山城へ草ノ者(忍び)を放っておりました」 「ほう・・・」 「景虎は、ひそかにいくさ支度(したく)をはじめております。村上、高梨らの使いと密談を重ね、北信濃出兵の準備ではあるまいかと」 「信じられん」と、虎昌が主君・武田晴信を振り返った。
> 返信 2009年07月19日 (日) 16時06分
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[21] 鬼謀(きぼう),<20>.. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/20 <20> 「いや、景虎は来るやもしれぬ」 武田晴信はゆっくり言った。 「お屋形さまッ」 飯富(おぶ)虎昌が顔色を変えた。 「しかし、恐るるには足りぬ」 「頼もしきお言葉」 重臣の馬場信春が晴信を仰ぎ見た。 いまは、村上、高梨、小笠原らを邪魔者があらわれる前に、信濃を平定する 「出陣じゃッ!」 「御意(ぎょい)ッ!」
ただちに武田軍は出陣し、北信濃の川中島へ兵をすすめる。 真田幸隆は、別働隊(べつどうたい)として東信濃の小県郡から埴科郡へすすみ、村上の葛尾城下にせまった。 その千曲川の対岸に、孤落(こらく)城という支城が防衛線となっていたが、幸隆の調略で寝返った大須賀の攻撃で、あえなく落城。 さらに屋代、塩崎の有力者の降伏が明らかになり、信濃の地侍たちも武田に走る者が続出した。 さしもの村上義清は、一族、重臣とともに逃亡。 ここに、長年、武田晴信を苦しめた、葛尾城は陥落した。
> 返信 2009年07月20日 (月) 21時55分
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[7] 「真田三代」 鬼謀(きぼう),<6>.. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/6 <6> 「浦野玄蕃(うらのげんば)の件、たしかであろうな」 矢沢頼綱が兄と向かい合い 「念にはおよびませぬ。浦野玄蕃は金三枚(三十両)にて、われらへの内応を約束いたしました」 浦野玄蕃は米山曲輪(こめやまくるわ)の守将(しゅしょう)である。彼が真田と呼応すれば砥石城も内部から崩れるだろう。 それから、四、五日。 真田勢と村上勢は、神川をへだてて矢弾(やだま)の応酬を繰り返した。 五月二十六日、戦闘の発展もなく、真田幸隆は陣を引き払い撤退をはじめた。 砥石城の将兵たちは勝ち誇ったように高笑いした。だが、それこそ幸隆の思う壺であった。 夜になって雨が上がると、新月に近い晩で、星明りだけである。 戌ノ刻(午後八時)ごろ、戦勝の祝いを申し上げたいと禰津のノノウ(歩き巫女)たちが砥石城にやってきた。
>返信する 2009年07月06日 (月) 16時49分
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[8] 鬼謀(きぼう),<7>.. ew MAIL URL
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 3,045 円
> 返信 2009年07月08日 (水) 01時55分
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[9] 鬼謀(きぼう),<7>. <8>. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/7 <7> 砥石城内では、楽の調べが流れ唄や踊りの鉦(かね)の音が響いていた。 ノノウの千代が、城代の村上刑部にしなだれかかるように酒をすすめ機嫌をとっていた。 そのころ、城の外では、真田幸隆の命を受けた山伏が東側絶壁の岩にクサビを打ち込んで足掛かりを作っていた。
7/8 <8> 砥石城内のものたちは真田方の動きに気づかない。 鉄のクサビを打ち込むと、山伏たちが岩壁の上から縄梯子を垂らした。 矢沢頼綱にひきいられ、真田の兵たちが岩壁をよじのぼってゆく。崖の下に落ちれば命はない。 頼綱は闇の中で物見櫓(ものみやぐら)に近づくや、番卒を一刀のもとに切り捨てた。 油断があったため、警戒はさほど厳しさがない。 同じころ、大広間では、ノノウの千代と、若い巫女たちが舞をおさめ、暇乞いの辞儀をする。 「まだ、よいではないか」酔っている刑部に、 「まことの宴は、これからでございましょう」 そのとき、外で叫び声がした。 「敵襲じゃーッ」 「火がまわっているぞー」 将兵たちが驚きあわてている隙に、歩き巫女たちは姿を消している
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> 返信 2009年07月08日 (水) 16時32分
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[10] 鬼謀(きぼう),<9>. . ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/9 <9> 砥石城内では、大混乱になった。 矢沢頼綱の精鋭隊は、厨から米蔵、味噌蔵と次々に火を放ってまわった。 城の内側から、大手門、搦手(からめて)門のカンヌキが開けられた。 門外に待機していた真田幸隆の本隊が城中になだれ込む。 激しい戦いがはじまった。真田方は数の上では城方に劣っていた。村上刑部は酔いも吹き飛び鬼の形相で味方を叱咤し勢いを盛り返してきた。 そのとき、南の方から、わーっと歓声が上がった。米山曲輪の守将・浦野玄蕃が、手筈どおり真田方に寝返ったのだ。 幸隆は、さらに混乱に陥(おとしい)れるため、城中に 「浦野殿、謀反(むほん)!」 「甲斐の武田が後詰(ごづ)めに来るぞーッ!」 と、叫ばせてまわった。 城方の兵たちは度を失い逃亡するものが続出、指揮系統は乱れ、浮足立っていたところへ、真田と浦野の両勢が攻め立て、ついに、櫓(やぐら)に追い詰められた村上刑部は自刃。 幸隆は、武田勢でさえ落とせなかった砥石城を独力で奪ったのだ。
> 返信 2009年07月10日 (金) 00時44分
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[11] 鬼謀(きぼう),<10>. . ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/10 <10> 真田幸隆が一躍、世にの名を上げた戦いは、『高白斎記』に、「__五月廿六節、砥石の城真田乗取(のっとる)」と簡略にしるされている。 知らせを聞いた武田家中には、驚きが広がった。 「あの要害堅固な砥石城が一日で落ちただと」 そして、武田晴信は約束どおり、幸隆に上田周辺に一千貫の領地を与えた。 真田幸隆は本拠を真田本城から砥石城に移した。
合戦から二月あまりが過ぎた、八月上旬。 砥石城の月見櫓(やぐら)に真田の一族が集まった。 当主・真田幸隆 二人の弟、矢沢頼綱と三弟の常田隆永(たかなが)、 元服したばかりの十五歳の幸隆の嫡男、源太左衛門信綱、(のちに、武田二十四将のひとりの剛勇) 二男、徳次郎(昌輝(まさてる))、九歳 三男、源五郎(昌幸(まさゆき))、五歳 幸隆の妻で三人の息子の母、菖蒲ノ前(しょうぶのまえ)、 頼綱の妻・瑠璃(るり)、隆永の妻・小百合 菖蒲ノ前は信濃の豪族・河原隆正の妹で幸隆より八つ下の三十一歳。 海野平(うんのだいら)合戦に敗れ所領を失い信濃国を遂(お)われてから十年が過ぎていた。
> 返信 2009年07月10日 (金) 23時49分
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[4] 鬼謀(きぼう),<2>-. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/2 <2> しばらくして幸隆は、山伏が寝泊りする籠屋(こもりや)に到着した。 中から、千代と呼ばれる、さほど若くはない巫女が迎え入れた。 幸隆は女を抱き寄せると 「武田晴信(のちの信玄)さまが、わしにお約束下されたのよ。砥石城を攻め落としたあかつきには、わが真田家に一千貫の土地を与えるとな」 と話し出した。
7/3 <3> 砥石城は埴科郡葛尾城主、村上義清の支城である。 村上は、北信濃への進出をもくろむ甲斐の国の武田の前に立ちはだかった。 天文17年(1548)の上田原の戦いでは、武田は屈辱的な大敗を喫している。 その二年後、30歳になった武田晴信(のちの信玄)は、砥石城攻略に執念を燃やした。 この城攻めに、真田幸隆も参戦している。 しかし、村上は敵対していた高梨氏と和睦、武田は退却。村上勢の追撃を受け一千兵が打ち死にするという,またも大敗北となった。 世に言う、「砥石崩れ」 である。
> 返信 2009年07月03日 (金) 21時32分
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[5] 鬼謀(きぼう),<4>. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/4 <4> 真田幸隆は、まだ砥石城攻略をあきらめていなかった。 「ふふ、相変わらず、あなた様はしぶとうございますこと」 と、禰津の巫女頭(ノノウ)の千代が笑った。 真田氏は平安から続く信濃の古族で、「滋野一門」の滋野三家と呼ばれる、海野、望月、禰津の三家のうち、真田氏は総領家とあおがれる海野氏の流れをくむ。 真田と称するようになったのは、地名である真田郷を根拠地にしたからである。 禰津の千代と、幸隆は根をたどれば同族ということになる。 紋は海野氏と同じ六連銭(六文銭)を用いた。 その海野氏は、いまから十年前、武田、村上、諏訪の連合軍の攻撃を受け敗北し、没落した。
> 返信 2009年07月04日 (土) 22時03分
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[6] 鬼謀(きぼう),<5>. ew MAIL URL
△Topメニュ-へ
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7/5 <5> 砥石城は東太郎山の南へ伸びた尾根の上に築かれ、東は絶壁、西も斜面が厳しく堅固な城である。 真田幸隆は、武田晴信に城の攻略を直訴し、東側絶壁の神川(かんがわ)をへだてた東岸に陣を布(し)いた。 兵の数は、城兵二千に対し、真田の手勢は八百足らずだった。 そもそも、この砥石城は幸隆が築いたものだった。それを勢力を伸ばしてきた村上義清に奪われ、砦程度の城を、広い台地の上に三つの城が建つ要害に作り変えられていた。 幸隆は、陣内に弟の頼綱を呼んだ。 五歳年下の矢沢頼綱は婿養子に入って、その性を名乗っている。若い頃に鞍馬山に入り、刀術、早業を学んだ眼光鋭い、目鼻立ちの整った顔立ちをしていた。
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雑感* 戦国時代とはいえ、地方でも、これほどの犠牲者を出していたのかと始めて知った。 あらためて戦争の愚かさを感じるし、わが地元の近くでの惨状にショックを受けた。
> 返信 2009年07月06日 (月) 01時11分
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>返信する 2009年06月21日 (日) 03時06分
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