白鬚神社 目安箱(掲示板)

過去のメッセージはこちらです 【】【】【】【】【】【】【最新


[ HOMEMain Menu新規投稿管理用 ]

[104]  ●六十進法   Name:道開き   Date:2015/06/07 (日) 07:53
古代メソポタミア文明はチグリス川とユーフラテス川の間の肥沃な三日月州地域で発祥した。現在のイラクの一部に当たります。

約1万年前に最終氷期が終わると人類は定住し農業を始めますが、この地域では紀元前9,000年頃には農耕が行われていたとされています。

氷河期が終わり、広大な氷河が溶けて大洪水が頻発した際の人々の記憶が『旧約聖書』の創世記の中の「ノアの方舟」の話だとされるが、これはメソポタミア神話が元になっているらしい。(ユダヤ人の始祖アブラハムはメソポタミアの都市国家ウルの出自とされ、エデンの園はメソポタミアの都市、バベルの塔はジッグラトだともされている)


古代メソポタミアでは、シュメール、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト、古代ペルシア人等の多くの民族が各地に定住していたが、紀元前4,000〜3,000年頃に、ウル、ウルク、ラガシュ等の都市国家を発達させたのがシュメール人であり、彼らはやがて古バビロニアを建国する。

灌漑(かんがい)施設、高度な農耕器具、楔形(くさびがた)文字、ハンムラビ法典(損害賠償、負債取り消し、報酬、等価概念についても記されている)、金属の鍛錬、占星術、太陰太陽暦(後のギリシアで「メトン法」と呼ばれた“十九年七閏法”、「七曜」をも編み出した)を発達させ、他にも車輪、ワイン、ビールなどのアルコール飲料、そして六十進法が発明された。

これらは「カルデア人の智恵」と呼ばれ(カルデアとはメソポタミア地域の別名とされる)、エジプト文明、インダス文明の誕生にも影響を与え、両文明との交易も盛んに行われた。


現在、IS(自称「イスラム国」)の兵士たちが、彼らの偉大な「ご先祖様たち」が築き上げた貴重な文化遺産を破壊する映像が頻りにテレビに映し出されています。「文化大革命」当時の中国とも似た様子を呈しているが、こういった行為は全人類に対する犯罪であるとも言えそうだ。



★六十進法の「時・分・秒」はバビロニア生まれ
古代バビロニアのシュメール人たちは数値計算を得意としており、太陽の運行速度には季節によって遅速があることをも知っていた。水平線上に太陽が顔を出す瞬間から、すっかり姿を現す瞬間までの時間を、水時計から滴下する水量によって計測したとされる。

この時の水量が一日(一太陽日)で滴下する水時計の水量の約720分の1であることをも知り、さらに彼らは「六十進法」(60は2、3、4、5の最小公倍数であるために約数が多く、除算に便利)を使っていたので、720はちょうどその12倍となることから、1日の12分の1を1時間と定めた(現在の2時間にあたる)。これは太陽が直径の6倍分だけ天空を進んだ時間となります。

太陽の直径(視直径)分の進行時間×30 = 現在の1時間

[103]  ●“サ”クラの語源と「田の神祭り」   Name:道開き   Date:2015/06/07 (日) 07:52
一年の巡りは早いもので、当地にも桜の季節が訪れようとしています。

山里に花が咲く頃、日本の古え人たちは豊穣をもたらす山の神が里へ降りてきたと考えました。そして、田の神となって米作りの手助けをしてくれると信じました。

そもそも「サクラ」という名称そのものが、“サ”が「山から下りてきた田の神」のことを意味し、“クラ”は「座」で、「山の神が宿る依代(よりしろ)」ということになります。よって山の花々も、山の神の依代(よりしろ)と考えられていたようです。

日本古来の「山遊び」・「花摘み」・「天道花(てんとうばな)」といった旧“卯月八日(うづきようか)”の民俗行事はこのことに由来しています。



★山の神の性格

@山中を領有(うしは)く神

A里に水をもたらす「稲作の神(稲魂)」

B豊穣と多産をもたらす「お産の神」

C先祖の魂が籠もる山から迎え祀ることから、子孫の営む稲作を守る「祖先神」



★「田の神祭り」には日本古来の祭りの古い形態が残されています。


@ 水口祭り ( 苗代祭り・種蒔き祝い )

苗代(なわしろ)に稲種(いなだね)を播(ま)いた日に、苗代田の水口(みなくち)や畦(あぜ)に田の神の依代(よりしろ)となる柳(やなぎ)・栗・松・茅(かや)などの木の枝や茎(くき)、あるいは山吹(やまぶき)・躑躅(つつじ)などの季節の花、小正月の「削り掛け」などを刺し、焼米、洗米を供える。



A サオリ ( サビラキ・サイケ・ナエタテ・初田植え・田の神下ろし )

田の神である“サ”が下りてくるのを迎える儀礼。
水口祭り同様に、水口や畦に柳・栗・松・茅・空木(うつぎ)などの木の枝や茎を立て、餅や赤飯を供えたり、家の中の神棚や床の間・土間などに苗を三把(さんわ)と餅や赤飯を供えたりする。この場合、苗も田の神の依代と考えられる。



B サナブリ ( サノボリ・田祭り・田植え祭り・田植え休み・農休み )

“サ”が上(のぼ)るのを祝い送る儀礼。
田植えを終えた水田の水口や畦に朴(ほお)・栗・柿などの木の葉や枡(ます)を置き、餅・赤飯・五目飯・豆・昆布。御神酒などを供えたり、家の神棚や竈・土間などに稲苗三把と餅・赤飯・五目飯などを供える。そして、田植えを手伝ってくれた人たちを家に招き祝いの宴を催す。


旧暦の五月は「田植え月」であり、五月を「サツキ」と呼ぶのは“サ”の月という意味合いがあるらしい。新しい仕事着に帯・襷(たすき)をして着飾った、田植えをする女性は早乙女(“サ”オトメ)と呼ばれた。
「昼間(ひるま)」と呼ばれる、握り飯に黄粉(きなこ)をまぶした特別な食物が、「オナリ」とか「ヒルマモチ」と呼ばれる女性によって田に運ばれ、田の神に供えると同時に、田植えをする人たちにも振る舞われました。



●「太田植え」 ( 花田植え・囃し田・勇み田・牛供養 )

大地主や庄屋の田、神社にゆかりのある田でおこなわれる田植えは「太田植え」と呼ばれました。村中の人が集まって、花鞍(くら)を付けた「飾り牛」が十数頭も一枚の田に入り、「サンバイ」とか「歌大工」などと呼ばれる音頭取りのもとで、着飾った「早乙女」たちと鉦(かね)・太鼓・笛の囃子(はやし)方が一体となって、「田植え唄」が披露された。これが「田楽」を生み、やがては「能楽」へと繋がっていきます。

映画『七人の侍』のラストのシーンで描かれているのが、この「太田植え」の様子となります。

[102]  ●時の鐘   Name:道開き   Date:2015/06/07 (日) 07:51
時代劇、特に『銭形平次』『右門』『半七』等に代表される「捕物帖」「捕物帳」「捕物控」では、江戸の町民の時刻の数え方は、アリバイの確認をする上でも、事件を紐解く為の極めて重要なファクターになります。

江戸時代には、時刻を知らせる「時の鐘(鐘楼)」が各地に設けられました。鳴らす数は宮中の報鼓(時報の太鼓)と同じ数で、十二辰刻〈2時間〉の真中の「正刻」に鳴らされた。そして、時鐘と次の時鐘との間の時刻は「半」と呼ばれました。

例えば、午(うま・午前11時〜午後13時)の「正刻」は正午の12時で「九つ」であり、半時経過した午後13時は未(ひつじ・午後13時〜午後15時)の「初刻」となるが、これが「九つ半」と呼ばれました。さらに半時経過した午後14時には未(ひつじ)の「正刻」の「八つ」になります。

つまり、町民たちは時の鐘が聞こえたときが辰刻(とき)の始めと考えるようになったのでした。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

※参考

★十二支と時刻 
十二支は時刻にも配当される。中国暦では、1日を十二辰刻(しんこく)〈「辰」も「刻」も「時」の意〉に等分し、それぞれに十二支の名をつけた。つまり、暦法上の一時(とき)〈一辰刻(とき)、一刻(とき)〉は一定であって、現在の2時間に相当する。これを「定時法」という。

◆宣明(せんみょう)暦
江戸時代に日本初の国暦である貞享(じょうきょう)暦が施行されるまで、823年間の長きに渡って使われ続けた宣明暦(862年施行)では、この一辰刻(とき)を「初刻(しょこく)」と「正刻(しょうこく)」に2分している。「辰刻・時・刻(とき)」が時間の範囲を表すのに対し、その瞬間を指す言葉が「刻(こく)」であるともされているが、その区別は明確ではない。

◎「正午」の意味
今日でも昼の12時を「正午(しょうご)」というのは、十二辰刻における午(うま)の時〈午前11時〜午後1時〉の正刻にあたるからである。「午前」「午後」というのも正午を境とした呼称である。


◆『延喜式(えんぎしき)』
平安時代の宮中における公事や年中行事の典拠となった、律・令・格の施行細則である『延喜式』(967年施行)では、さらに一辰刻である一時(とき)を四刻(こく)〈初刻から四刻まで〉に分けている。現在で言えば、一時である2時間を30分ずつに四分したことになる。

◎「草木も眠る丑三つ時」
丑の辰刻(午前1時〜3時)の三刻目をいい、現在の午前2時頃ということになる。


さらに『延喜式』によれば、宮中では十二辰刻が太鼓の音によって知らされたとされている。その数は子の時が「九つ」で、順次、一つずつ減らして巳の時の「四つ」までくると、再び午の時では「九つ」打ち鳴らし、同様に順次、亥の時の「四つ」になるまで一つずつ減らしていく。

◎「お八つ」
「子(ね)の九つ」は真夜中となるため、単に「九つ」といえば、昼間の午(うま)の「正刻」である正午(しょうご)を意味した。昔は1日2食が普通だったので、八つ時(午後2時)に軽い間食をすることを「お八つ」というようになった。今日では午前中に取る間食をも「お八つ」と呼んでいるが、厳密にいえば間違いである。



◆不定時法
江戸時代までの一般的日本人の生活時刻は、日の出と日の入りを昼夜の区切りとする「不定時法」であった。暦法における「定時法」の一時(とき)〈一辰刻〉は1日を12等分した長さで、2時間と一定であるのに対し、生活時刻である「不定時法」の一時(とき)は季節によって異なった。つまり、昼夜をそれぞれ6等分するため、夏季の昼の一時は夜の一時よりも長くなり、冬季はその逆となるのである。

◎「明六つ」「暮六つ」とは
卯(う)の正刻「六つ」は夜明け時、酉(とり)の正刻「六つ」は日暮れ時であるという、「不定時法」だった江戸時代までの生活時刻を言い表した言葉である。


◎「お江戸日本橋七つだち」
「暁(あかつき)七つ」とは寅(とら)の正刻のことで、「定時法」では現在の午前4時頃ということになり、夏はよいにしても、冬場は真っ暗な中での旅だちとなってしまう。ところが、当時は生活時刻が「不定時法」であった為、日の出時刻である「明六つ」が季節によって移動した為、「暁七つ」から夜明けまでの時間は、冬至の日であっても夏至の日とさほど大きく違わなかったのである。

[101]  ●北斗七星は“夜空の大時計”   Name:道開き   Date:2015/06/07 (日) 07:49
 
古代中国では、一年中、ほとんど同じ位置にある北極星と、その近くにあって、北極星を中心にして天空を回転する北斗七星の姿は、極めて不思議なものと捉えられていました。
やがて、七星は神格化され、一つ一つの星に万物の運命を支配する力があると考えられるようになります。

なかでも、揺光(ようこう)・開陽(かいよう)・玉衡(ぎょっこう)の三星は、「斗柄(とへい)」(剣先星)と呼ばれ、七星の柄杓(ひしゃく)の柄(え)にあたる部分(大熊座の尻尾の部分)に位置して重要視されました。


「十二支」とは、12年で天を一周する「歳(さい)星」(木星のこと)の位置を示すためにつくられた、想像上の星「太歳(たいさい)」のいる場所に付けられた名称であるとされるが、それが「年」の呼称となり、やがて「月」の呼称としても使用されるようになります。

旧暦の月の呼称で、旧正月(寅月)が「建寅月(けんいんげつ)」と呼ばれ、日本では「寅(とら)におざす月」と十二支で読まれたりする。「建」は「尾指す(おざす)」の意味で、古代中国のある時代〈夏(か)の時代ともされている〉において、毎年、この正(旧一)月の夕刻には、北斗七星の尾(斗柄)が寅(とら)の方向を指していたことに由来する。

(斗柄が真下を尾指すと北―子(ね)の方向、真上を尾指すと南―午(うま)の方向)


ということは、「十二支」は「月」に配当される以前に、既に「方位」に配当されていたことになる。



※十二支の音読みは、

「子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)」



北斗七星の斗柄が尾指す方向の十二支を「月建(げっけん)」といい、その月建の十二支が日に配されるようになったものが暦注の「十二直(ちょく)」ということになります。

(建寅月の場合、旧正月節の最初の寅の日を初めの「建(たつ)」とし、以後は順に、「除(のぞく)、満(みつ)、平(たいら)、定(さだん)、執(とる)、破(やぶる)、危(あやぶ)、成(なる)、納(おさん)、開(ひらく)、閉(とづ)」と配当していく)




北半球における星座は、北極星を中心にして反時計回りに一日で1回転する。北斗七星の尾もまた、一時間に約15度ずつ回転することになるので、時計代わりにも利用されました。

ここから、北極星(北辰)を天帝(太一神)、北斗七星を天帝の乗り物である神として崇める、北斗信仰が生まれることになりました。




※参考

●十二支の由来

「支」の字義は、「枝」の仮借字であり、樹木の小枝を一本手に持った形象であるとされている。「十二」という数は、一太陽年内の十二回の太陰月の循環に則って割り出された数であるとか、十二年で天を一周する「歳(さい)星」(太陽系の五惑星のうち、最も尊貴とされた木星のこと)の位置を示すために天を十二分した数であるともされている。その起源は十干よりも古いとされ、十干と組み合わされて殷(いん)の時代〈紀元前15〜12世紀〉には既に使われていた。

木星は、太陽や月とは逆に、西から東へ移動するので、木星の仮の存在とでもいうべき星を設けて、日月同様に東から西へ移動させることにした。この想像上の星は神格化されて「太歳(たいさい)」と呼ばれ、この太歳のいる場所に付けられた名称が「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の十二支であるともされている。これが年の十二支(十二辰)である。



●三正論    

旧11月が十二支の最初の子(ね)の月になっているのは、立春正月〈寅(とら)月正月〉が定着した中国の漢(かん)代以前の、周(しゅう)代から戦国時代(紀元前11〜前3世紀)の頃に、冬至(とうじ)を含む月が年初とされていたから。

夏正−寅(とら)月 、 殷正−丑(うし)月 、 周正−子(ね)月

[100]  ●数え年   Name:道開き   Date:2015/01/23 (金) 10:16
もともと日本の民俗では、[満(まん)」で年齢を数えるという風習はなかったようです。よって、個人ごとに誕生日を祝うこともありませんでした。

「数え年」というのは、
@人が生まれた時点で、まずは1才と数える。
Aその後、年を取るのは新年を迎えるときとなる。

例えば、12月30日に生まれた子供は二日後の元日には2才になる。大晦日の夜を「年取り」と呼ぶのはそのためで、世の中の人たち皆揃って年を重ねることになる。


※解り易い数え年の[数え方]
その人が、その年の誕生日を迎えるとなる「満」年齢に1才加えた数が、その年の「数え年」となる。

例えば、平成19年5月20日生まれの人の場合、平成21年の5月20日で満2才となるので、それに1才を加えた3才がその年の「数え年」となる。誕生日以前でも数え年は3才、誕生日を迎えた以降でも数え年は3才ということで変わらない。



※トシ(年)神

お正月に各家々で迎え祀る「年神」とは、

@人々に年齢をもたらす歳月の神であり、

A「稲」を表す古語「トシ」の神、つまり、農耕神(穀霊神、田の神)であり、

B個々の祖霊としての性格が浄化され、大いなる神格へと高まった「祖霊神」である

といったように、複合的に捉えられていました。



◆◆◆◆◆◆◆◆

●初正月
以前までは人が年を取るのは新年を迎えるときとされていました。よって、「初正月」は子供にとって初めての年取りであり、数え年2歳の祝いでもあった。


●初節句
「初節句」は生後初めての節句のお祝いのことで、女子は三月三日の雛祭りに、男子は五月五日の端午の節句に行う。但し、もともとは男女の明確な区別はあまりなく、七夕や八朔(はっさく・旧八月一日)、亥の子(旧十月亥の日)などに行なう所もあります。

内輪の祝いというよりも子供が社会に仲間入りしたことを表わし、人々に今後の加護を乞うためのお披露目の儀礼でした(生後二十一日以前の場合は、翌年に行うのが通例となっている)。「節句始め」ともいう。


●初誕生
「お誕生」ともいう。生後一年目の、初めての誕生日の祝いの儀式。数え年で年齢を数えてきた日本の民俗では個人ごとの誕生日を祝う風習はなかったが、「初誕生」だけは祝われました。

「力もち」の意味から「祝い餅」を搗(つ)いて、健康で力のある子どもに成長していくことを祈る。地方によっては、子どもに一升餅や一升米を背負わせて歩かせたり、「餅踏み」といって大きな鏡餅を踏ませたりする風習もある。

[99]  ◆更新履歴◆   Name:道開き   Date:2014/10/30 (木) 07:14
2014/10/28 
白鬚神社/フォトグラフに「古写真=昭和の一コマ=」の写真を追加しました。

久しぶりです。

[98]  ●仮本殿   Name:道開き   Date:2014/10/22 (水) 14:20
本日、神社本庁神社復興支援事業による、伊勢神宮の間伐檜(ひのき)材を使用した仮の本殿が建立されました。

竣工祭は11月5日 11時からの予定です。

[96]  ●植樹祭   Name:道開き   Date:2014/04/27 (日) 07:35
〈日時〉 6月15日   午前11時30分より
      《開始時間が、午前10時から11時30分に変更されました。》

〈会場〉 新境内地(東松島市野蒜字亀岡38−10)

〈日程〉 神 事    午前11時30分(20〜30分)
     記念植樹   神事終了後



主催 白鬚神社・海津見神社
協力 イオン1%クラブ
   復興支援団体 プラスネオ
   宮城県神社庁桃生支部


※注意点
◎駐車場は「野蒜地区センター西側(旧保育所跡地)周辺」をご利用下さい。
◎小学生以下の方は保護者同伴でお願いします。
◎基本的には雨天決行ですが、各種警報が発令された場合は中止とさせていただきます。
◎スコップ、軍手は主催者で用意します。雨具、帽子、水筒などはご用意ください。

●お問い合わせは
    白鬚神社 祢宜 亀廼井雅文 まで
    TEL 0225(88)2327


◆◆◆◆◆◆◆◆◆


●端午(たんご)
【端午】の端は、「初め」の意。午(ご)は「五」と同音で同じ。つまり端午は、もともと「月の初めの午(うま)の日」のことをいい、「毎月の上旬の五日」の意味もあり、古くは、五月以外の月の五日にも使われていた。

立春(寅月)正月が定着する漢代以前の古代中国の周の時代においては、冬至を含む月が年初とされた時代があったため、旧暦十一月に十二支の最初の子(ね)が配当され、旧暦五月は午(うま)の月となった。

したがって、五月の端午は、午が重なるめでたい日であり、午(ご)は「五」に通じるために、月と日の数が重なる日を祝日にする風がある中国では、五月五日を【端午】として祝うようになった。


古代中国では五月を“悪月(あしげつ)”と考え、この日に薬草を摘んで「薬猟(くすりがり)」をしたり、臭気の強い 菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)で作った人形を家の戸口に掛けたり、菖蒲酒を飲んだりして邪気を払おうとする行事がおこなわれた。これが平安時代に日本へ伝わり、貴族の間からしだいに民間へと普及し、菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒につるしたり、菖蒲湯に入ったりするようになった。

日本では古くから五月を“斎月(いみづき)”、“つつしみ月”などと呼び、【五月忌(さつきいみ)】と称して、田植えが始まるこの時期に、女性たちが早乙女(さおとめ)として家に籠(こも)って身を清め、田の神を迎え祀(まつ)る神事がおこなわれていた。これには成女戒を受けるという意味もあり、「女の家」「女の宿」の習俗として今日まで残っている。

つまり、五月の節句は、日本古来の【五月忌(さつきいみ)】と、中国伝来の【端午の節句】が一緒になったものとみることができる。

江戸時代以降は五節句の一つとして重んじられ、菖蒲(しょうぶ)は「尚武(しょうぶ)」に通じることなどから【尚武の節句】【男児の節句】とされ、雛(ひな)人形にならって「武者人形(五月人形)」などが飾られ、「鯉のぼり」を立てるようになった。

「鯉のぼり」は、中国の故事「鯉は竜門の滝を登ぼって竜となる」(「登竜門(とうりゅうもん)」)に由来し、立身出世を祈ることから来ており、 粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べてお祝いした。



●八十八夜 
立春から数えて八十八日目のことで、新暦の5月2日頃にあたり、三日後に「立夏」となる。遅霜の時期でもあり、農事上の重要な節目とも考えられ、茶摘み・苗代の籾(もみ)蒔きなどの目安とされてきた。



●入梅   
「つゆいり・ついり」ともいい、梅雨の季節に入る最初の日をいう。現在では、太陽が黄経80度を通過した日を入梅としており、新暦6月11日頃にあたる。これはあくまでも暦の上でのことで、気象庁が出す「梅雨入り宣言」とは直接の関係はなく、実際にこの日から梅雨が始まるとは限らない。

旧暦では、「梅雨入り」を二十四節気の五月節・芒種(ぼうしゅ)の後の最初の壬(みずのえ)の日とし、「梅雨明け」を小暑(しょうしょ)の後の壬(みずのえ)の日とする(『本草綱目』)としていたが、異説もある。「入梅」の語源は、梅の実が熟する頃に雨季に入るところからきている。


[ HOMEMain Menu新規投稿管理用 ]




copyright(c) 2000-2010 お祓い/占い/四柱推命/五行易/風水 白鬚神社 all rights reserved.

SYSTEM BY せっかく掲示板