白鬚神社 目安箱(掲示板)

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[116]  ●東日本大震災時の、神社“御神体”のリレーの話   Name:道開き   Date:2021/02/06 (土) 11:20
震災からまる十年になりますので、当時の事を記したいと思います。


●東日本大震災直後の白鬚神社

大津波襲来から10日ほどが過ぎ、海水も引き、規制も解かれたので、どうにか歩いて鳴瀬川河口の白鬚神社まで行くことができました。津波の高さが10メートルにまで及んだ地域なので、社殿は流失して何も無くなっているに違いないとは思いながらも、一縷の望みは持ち続けていました。しかし、その望みはすぐに現実を前に打ち砕かれてしまいました。

暫くの間、社殿の建っていた場所に呆然と立ち尽くしていましたところ、ふと、ガレキと化した社殿の残骸の下にある、見覚えのある緑の錦(にしき)の布が目に止まりました。それは神社の「御神体」が収まっていた箱を覆っていたものでした。毎年、春と秋の例大祭前日と、お正月を迎えるための年末の大掃除の日に限って、神社の御本殿の中にまで入って清掃をしていたので記憶がありました。

ガレキの中をくぐり抜け、その場所まで行って確認したところ、「御神体」は無事に箱の中に収まっていました。おそらくは、神社の建物全体が津波によって後ろの白鬚山に押しつけられ続けたから流失しなかったのでしょう。白鬚山は、丁度、人が両腕を広げて受け入れるような形状をしていましたので。更には、神社の前には鳴瀬川の河川堤防がありましたので、津波の引き波で海まで持って行かれることもなく、境内地に留まり続けることができたようでした。他の境内末社の「御神体」の無事も確認できました。当日は一人でどうすることもできなかったので、無事を確認しただけで避難先の名取市の姉の家に戻りました。

翌日のこと、どういう訳か胸騒ぎがして仕方なく、居ても立ってもいられなくなりました。車を借りて神社まで来て見たところ、「御神体」のあった辺りのガレキがどういった訳か撤去されていて、そのすぐ側に一台の重機が横付けされていました。慌てて「御神体」を探したところ、収まっていた箱は壊されてしまっていましたが、「御神体」そのものは無事でした。どうやら、津波で傷んだ堤防を補修するための重機らしく、国土交通省の河川局で用意したもののようでした。取り急ぎ各「御神体」を車に積み込み、津波被害は受けていたものの比較的無事だった宮司宅の神殿にお遷し致しました。又、被災地では携帯が使用できない状態になっていましたので、姉の家に戻ってからすぐに県の神社庁に連絡を入れて事態の詳細を説明し、被災神社に重機などが入らないように手配してくれるようにと御願いしました。



●他の神社の被災状況

山神社、針生稲荷神社の本殿は流出せずにその地に留まっていましたが、御神体が見つからずにおりました。その状況から見て、近くに住んでいた氏子のいずれかの方かが戻って来て、一時的に何処かに保管して下さっているようにも思われました。しかし、氏子の方たちとは全く連絡が取れずにいました。

海津見神社の御神体は、神社の裏に住む氏子の方が保管して下さっていて、この目で確認することができました。大きな毘沙門天像なので運び出すことが出来ず、そのまま預かっていてもらいましたが、後日、多賀城市にある東北歴史資料博物館の文化財レスキュー隊が来て、博物館まで運んで下さいました。

昨日(4月12日)、父の持病の薬をもらいに掛かりつけの真壁病院まで足を運んだ際に、壊滅的な被害を受けた新町地区の氏子Aさんから声をかけられました。

「 山神社の隣に住んでいたT屋さんから、山の神様(木之花咲耶姫命〈このはなのさくやひめのみこと〉)の御神体を、比較的、津波の被害が少なかった中下地区に住む親戚Oさんに預けていると聞いていたが、今、待合室にそのOさんがいるので会って欲しい」ということでした。

Aさんは現在、車で30分ほど離れた場所に集団避難しているということでした。

「本当だったらこの病院に来ることもなかったのだが、この為に呼ばれたのだな〜」と語っておられました。この様な惨憺たる状況下でも信仰の灯は消すことなく、点し続けておられるようでした。

詳細を伺った後、そのままOさん宅に向かい、T屋さんからリレーされた御神体を受け取り、宮司宅神殿にお遷しすることができました。

[113]  ●白鬚神社・竣工奉祝祭   Name:道開き   Date:2017/09/02 (土) 14:49
〈日時〉 9月30日(土)   午前11時より

〈場所〉 新境内地(東松島市野蒜字亀岡38−10)

〈日程〉  
    神 事  午前11時より(約30分)

    太鼓演奏 鳴瀬鼓心太鼓  神事終了後



◆協力  復興支援団体 プラスネオ  
    
      宮城野雅楽会



※注意点

◎駐車場は「野蒜地区センター西側(旧保育所跡地)周辺」をご利用下さい。
◎小学生以下の方は保護者同伴でお願いします。
◎基本的には雨天決行ですが、各種警報が発令された場合は変更とさせていただきます。


●お問い合わせは
    白鬚神社 祢宜 亀廼井雅文 まで
    
TEL 0225(88)2327

[112]  ●「蝦夷地(えぞち)」   Name:道開き   Date:2017/06/05 (月) 07:36
NHKの安倍氏姓に纏わる番組を観て面白かったので、同じ様なことに関する以前の書き込みを再度取り上げてみます。



[184] ●土地柄こそを第一に Name:道開き Date:2014/02/20(木) 08:57 

酷く傷ついたこの被災地・野蒜の手当が本格的に始まろうとしています。3年が経過してようやく堤防や嵩上げ道路の工事が始まろうとしているのです。当地域では高台集団移転地の山土を利用して元地の諸工事のほとんどを押し進める計画なので、他の地区に比べて進捗状況がかなり遅れているようでもあります。

しかし、「今年が復興元年になるのだ」と思うと希望がふつふつと湧き上がって来るのも確かです。目に見えて復興が感じられる明るく輝いた年になるのが楽しみです。

とにかく「蝦夷地(えぞち・東北地方)」らしい、「奥松島」らしい景観に復興させていくことが第一だと考えます。何処の国のどういった地方なのかが分からなくなるような地域作りだけはしてもらいたくないのです。観光客は「奥松島」の景観や風土を求めて来訪するからです。

被災したショックで、多くの方たちが郷土に対する自信を失い、地元の良さが見えなくなっている時でもあるので、バブル期に乱立した「オランダ村」だとか「ニュージーランド村」の様な奇をてらうだけの施設などは造ってもらいたくないです。千年先、万年先を見据えた「土地柄」を大切にした町作りをして行きたいものです。


●安倍(安部・阿部)一族 

自分が現在、興味を持っているものを取り上げてみると、先ずは「縄文」であり、縄文文化を引き継いできた「蝦夷(えみし)」であり、現在の「東北」であり、そして、正史から突如として姿を消した古代氏族「物部(もののべ)氏」の祭祀ということになるのでしょう。

母親が石巻の阿部姓の家の出身ということもあって、必然的に、岩手県出身の直木賞作家、高橋克彦氏の著作に行き着くことになります。

『火怨・北の燿星アテルイ』では蝦夷の英雄・阿弖流為(アテルイ)と征夷大将軍・坂上田村麻呂を、『炎立つ』では安部貞任と源頼義・義家親子、そして、奥州・藤原氏と源頼朝・義経兄弟、物部氏の末裔たちを描いている。

氏は奥州安倍氏のルーツを「大化の改新」直後に蝦夷地遠征を行った阿倍比羅夫(あべのひらふ)にあるとしている。遣唐使の阿部仲麻呂や陰陽師・安倍晴明なども、孝元天皇の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の流れを汲む阿部=安倍一族から出てきた人たちだという。
古四王(こしおう)神社など大彦命を祭神として祀った神社が秋田や岩手に多いのはそのためだとしている。

さらには、「国つ神」を祀っていた出雲地方をルーツに持つとされる、神武天皇の東征で征伐された大和(奈良)地方の土豪・登美能那賀須泥毗古(とみのながすねびこ、一般には長髄彦〈ながすねひこ〉)の姓が安日(あび)だったということだが・・・本当だろうか???

『古事記』『日本書紀』には書かれていないし、もしかしたら物部氏の伝承が記されている『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』だとか、一般的には偽書とされている、古代東北の歴史が記された『東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)』などに書かれている内容なのだろうか?????

物部氏のルーツは、間違いなく天つ神の御子・饒速日命(にぎはやひのみこと)と長髄彦の妹・登美毗女(とみびめ)の間に生まれた宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)にあります。


現在の安倍晋三総理の父・晋太郎氏は「うちのルーツは岩手にあって、厨川(くりやがわ)の戦いの後、伊予に流された安倍貞任の弟・宗任(むねとう)の末裔なんだよ」と、よく人に語っておられたということです。



ルーツ話はさて置き、とにかく蝦夷たちの戦闘能力は非常に高かったことだけは確かなようです。唐の歴史書『通典』には、日本からの遣唐使が一人の蝦夷を都の長安に連れて来て第三代皇帝・高宗に拝謁した際、その前で約50メートル離れた的を射させたところ百発百中だったと記されている。
平将門が、板東において無敵の強さを誇ったのは、蝦夷との戦いを繰り広げていたからだということだが、それならば、蝦夷はいかほどまでに強かったのかということになる。


自分の「縄文」「蝦夷」「東北」「物部」に対する思いは高橋克彦氏とかなり共通するところがあるとは思うのだが、しかし、何でもかんでも「天つ神」対「国つ神」、「大和朝廷」対「蝦夷」の構図で描いたり、常に中央から搾取され続けてきた東北といった捉え方も、一面では真実ではあるのだろうけれども、歴史的・地理的必然みたいなものも勘案されるし、どこかの隣国のように何でもかんでも「反日」、みたいなスタンスだけは取りたくない。

近世のドイツやイタリアのように、個々の都市の力が強すぎて統一国家としての海外進出に出遅れてしまったという歴史もある。反中央、反権力だけでは国内がバラバラになってしまって、隣国を利するだけになると思われる。

長い間、自分たちの国家を持っていなかったユダヤ人がどれ程までに虐げられ続けて来たことか。クルド人、ウイグル人、チベット人の苦難を見ていてもそう思う。蝦夷をそれと同じ括(くく)りにしてしまうのもちょっと違うように思われます。

「地方主権」的な考え方ではなく「地方分権」こそがベストなのだと思われる。「中央集権」だと官僚組織ばかりを肥大化させてしまうのでそれも良くないです。県や市は、単なる国の出先機関になってしまうからです。

[111]  ●“意識”が変われば“社会”も変わる   Name:道開き   Date:2016/12/04 (日) 07:31
復興、町おこし、地域産業振興などの現場では、
「固定観念にとらわれない若者。枠組みに収まらないバカ者。今までのやり方を知らないよそ者。 イノベ―ション(革新、刷新)は彼らから始まる」とされているらしい。

『若者、バカ者、よそ者 イノベ―ションは彼らから始まる! 』 真壁昭夫著 (PHP新書)

「いや、それだけではうまくいかない。リーダーとなって、そういった人たちを上手に使いこなしていく経営能力を持った“総合プロデューサー”的人物の存在こそが重要なのだ」という意見もある。確かにその通りだとも思われる。

映画に例えるならば、『七人の侍』で志村喬が演じた島田勘兵衛であり、『大脱走』でいったならば、リチャード・アッテンボローが演じた、トンネル掘りの多国籍な各種プロフェッショナルたちを纏め上げた“ビッグX”の様な人物ということになるのだろうか。


山村や海辺の町で会社を運営するIT企業が増加傾向にあるらしい。社員たちが、豊富な余暇を自然に親しみながら過ごす事が出来るようになるからだ。そういった“ワーク・ライフ・バランス”の取れた経営を推し進めている会社こそが「ナウくて」「カッコよく」、そして「最先端」なのだといった意識の改革が起これば、“地方創生”にも拍車が掛かることになるのだろう。そういった経営スタイルが、至極当たり前のものになってしまえばシメたものだ。

この場合、進出企業側が“若者、バカ者、よそ者”で、インフラを整えて受け入れ体制を作り上げる側が“総合プロデューサー”といった立場になるのだろうか。



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※参考

★二宮尊徳の教え

『世界に誇る日本の道徳力』の著者・石川佐智子さんは、公立中学校教諭として15年間勤務した後、子育てをしながら家庭児童相談員、PTA役員などを経て、教育評論家として活躍されている方です。二宮尊徳の珠玉の言葉と、現在の日本が失った「経済とモラルを調和させる実践哲学」が紹介されている。

二宮尊徳は、生涯で計620カ所の町村の財政再建に成功し、多くの農民たちを救う偉業を成し遂げました。その再建手法はというと、「まず人の心に種を蒔き、人の道を教え諭すことから始めた」《 “意識”が変われば“社会”も変わる 》というものでした。


経済バブルを崩壊させる以前の日本について、当時の旧ソ連のゴルバチョフ書記長などは「自由主義陣営に在りながら、最も社会主義的経済を成功させたのが日本である」と評しました。どうして、本家のソ連や東ヨーロッパ・中国ではなく日本だったのでしょうか。

それは、 戦後の日本経済の舵取りをした政財界人たちの多くは戦前の教育を受けた方たちで、何となく皆が、二宮尊徳の“報徳思想”をごくごく自然な形で身につけて育った方たちだったからではないでしょうか。

現在、官僚や政治家、財界人のみならず、宗教者も警察も、教師も一般の父兄たちも、日本人の皆がおかしくなっているのは、戦前のように、二宮尊徳の教えを学ぶ機会がなくなった事によるものとも考えられます。





★二宮尊徳を理解するためのキーワード

【報徳】 すべてのものの徳性(価値や特性)を認め活かす(報いる)こと。

【心田開発】 何事を成し遂げるにも、まず本人のやる気を起こさせること。

【至誠】 真心

【分度】 自分の収入に応じた生活規準。

【推譲】 余財を生みだし、それを家族や子孫のために蓄え《自譲》、広く社会のためや未来のた
     めに譲る《他譲》。

【積小為大】 小事を疎かにしていて、大事を為すことはできない。




★心に響く二宮尊徳90の名言 

「米をみて直ちに米を得んと欲する者は、盗賊鳥獣に等しい。人たるものはすべからく米を蒔いて後に米を得ることである」

「金銭が多すぎるのは不便の至り」

「貧者は昨日のために今日つとめ、昨年のために今年つとめる(中略)富者は明日のために今日つとめ、来年のために今年つとめる」

「桃栗三年、柿八年というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない」

「譲って損はなく、奪って得はない」

「心が正しく平らかでなければ得た富も逃げていく」

「瓜(うり)を植えて茄子(なす)を求めるまちがいをするな」

「いい種も悪い種もすべて自分が蒔いたもの」

「その“才”があっても、その“力”がなければ行なわれないし、その“才”、その“力”があっても、その“徳”がなければ行なわれない。その“徳”があっても、その“位”がなければ、やはり行なわれないのだ」



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●古語に「三年の蓄えなければ国にあらず」といっている。国ばかりでなく、家でも同じ事で、万事ゆとりがなければ必ずさしつかえができて立ちゆかなくなる。
―富へのチャンスは風のようにやって来ます。そのチャンスを生かすには資金にゆとりが必要だというのです。―


●学問を活用することを知らない学者は世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。
―尊徳は、あくまでも“実践”を尊びました。教師が聖職でなくなり、労働者になった戦後の学校教育では子ども達の学力は著しく低下し、自然の成り行きとして学習塾がはやり、父母の負担は重くなりました。―


●およそ世の中は、「知恵」があっても「学」があっても、“至誠”と“実行”がなければ、事は成らぬものと知るべきだ。


●ひとまず放免(ほうめん)無頼(ぶらい)の貧民をさし置いて、離散滅亡(りさんめつぼう)するにまかせるのが、わが法の秘訣なり。
―怠惰な貧民は改心するまで放っておいて、心が改まったら支援を惜しまない。―


●およそ人と生まれ出た以上は、死ぬのは必定だ。長生きといっても取るに足らぬほどの相違で、たとえばローソクに大中小とあるようなものだ。
人と生まれ出た以上は必ず死ぬものと覚悟してしまえば、一日生きれば一日のもうけ、一年生きれば一年の得だ。


●天が生命の根元の徳をくだせば、地はこれを受けて万物を発生させる。親は子を育てるのに損得を忘れて、ひたすらその成長を楽しむし、子は育てられて父母を慕う。
夫婦の間でもお互いに楽しみ合って子孫が相続する。農夫は勤労して植物の繁栄を楽しみ、草木はまた喜んで繁茂する。「みんな、ともども苦情がなくて、喜びばかりだ。」
この道に則(のっと)るならば、商売のしかたは売って喜び、買って喜ぶようにするべきだ。貸借もそうで、借りて喜び、貸して喜ぶようにするべきだ。


●「身分の高い者、富んだ者が人を救うことを好まなければ、身分の低い者、貧しい者はどうして人を救う気持ちになれようか。」
万物は地に生じ、財貨は貧者の力で生ずる。けれども、地は天の恵みを受けなければ一物をも生ずることはできず、貧者は富者の力を借りなければ財貨を生ずることはできない。

「天地相和して万物が育つように、貴賤貧富が相和して財貨が生じる。」

―富める者が社会に尽くし、貧者を救うのは人間の義務である。財貨を得た者が貧困者を救う行動を起こさなければ、経済は動かず貧富和合は難しい。持てる者が多く譲ってこそ、人の道にかなうのです。社会福祉の向上とは、一人ひとりのまじめな勤労が余財を生み、弱い者、貧しい者に譲り助ける精神から出るもので、社会、国家が豊かに幸福になるための基本―


●仁というのは人道の極地であるが、この湯舟の湯のようなものだ。これを手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれども、みんな向こうの方へ流れ帰ってしまう。これを向こうの方へ押してみれば、湯は向こうへ行くようだけれども、やはりこっちの方へ流れて帰る。
少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天理なのだ。仁といったり義といったりするのは、向こうへ押すときの名前で、手前にかき寄せれば不仁となり不義となるのだから、気をつけなければならない。
「譲って損はなく 奪って得はない」


●決して疑ってはならない。信ずべきものは「積善の家に余慶あり」の金言だ。けれども、この余慶も余殃(よおう)も必ずしも、すぐに回ってくるものではない。「桃栗三年、柿八年というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない。」


●「天理」と「人道」の区別を、よく理解できる人は少ない。およそ人身であれば欲があるのは自然であって、田畑に草が生ずるのと同じことだ。堤は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる。これがすなわち「天理」なのだ。そこで「人道」は私欲を制するのを道とし、堤を築き、堀はさらえ、橋は掛け替えるのを道とする。
このように、「天理」と「人道」とは別々のものだから、「天理」は万古変わらないが、「人道」は一日怠ればたちまちすたれる。だから「人道」はつとめることを尊び、自然にまかせるのを尊ばない。
「人道」でつとめるべきことは「己に克つ」という教えだ。「己に克つ」というのは、わが心の田畑に生ずる草をけずり捨て取り捨てて、わが心の米麦を繁茂させるつとめのことだ。


●「人道」は“中庸”を尊ぶ。水車の中庸は、ほどよく水中に入って、半分は水に従い、半分は逆に回って、運転滞らないところにある。
人の道もそのように、自然に従って種を蒔き、自然に逆らって草を取り、欲に従って家業に励み、欲を制して義務を思うべきだ。


●「人は放っておくと鬼畜のようになる。」
教えを立てたり、刑罰法制を定めたり、礼法を設けたり、やかましくうるさく世話をやいて、ようやく「人道」は立つのだ。
―“躾(しつけ)”と“教育”でようやく「人道」は立つ。―


●太平が久しく続けば、奢侈遊惰(しゃしゆうだ)に流れて国家が衰廃を免れないのは自然の成行きである。


●「我というその大元を尋ぬれば、食うと着るとの二つなりけり」


●もっとも重んずべきものは住民の米びつである。


●「やりすぎては嫌われる。」
およそものごとには度合ということがある。飯をたくにも、料理をするにも、「みんなほど良い加減が肝要」なのだ。


●人にも甘い性の者があり、辛い性の者がある。これもまた偏りである。だから、でしゃばる者は控えめにさせ、引っ込み思案の者は引き立ててやり、甘い辛いを調和して、始めて世の中に容れられ、人に用いられるようになる。
―人の特性をどう活かすかはリーダーの器しだいだということです。―


★★★宇宙自然を見るとき、表裏、陰陽、プラスとマイナス、男女など、対になる反対の事象があります。それらを統合してみる「一円観(いちえんかん)」が報徳思想の基本となります。いくつかの言葉を以下に取り上げてみます。★★★


●運も不運も“循環”している。


●香(におい)あるものはその香をしらない。白きものは白きを知らず、黒きものは黒をしらず、・・・・水中のものは水を知らず、火中のものは火を知らない。
本来ことごとく外(ほか)の色あいから自分の色が知れるのである。「一切万々、自分の善し悪しは人が見ているもので、自分は案外、知らないものである。」


●「心眼で見れば見えないところはない。心耳で聞けば聞こえないものはない。」


●「犬の立場も考えよ」
―ある農家が麦を干しておいたら、犬が来てそれを食べたので百姓が怒って犬を殺そうとした。これをさとした言葉。―
  「ちうちうと嘆き苦しむ声をきけば ねずみの地獄 ねこの極楽」


●世人は蓮(はす)の花を愛して泥をいやがり、大根を好んで下肥(しもごえ)をいやがる。私はこういう人を半人前という。
蓮の花を養うものは泥である。大根を養うものは下肥である。蓮の花や大根は、泥や下肥を好むこと、この上なしではないか。
「世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。」これまさに、半人前の見識ではないか。どうして一人前ということができよう。

[110]  ●霜月祭り   Name:道開き   Date:2016/12/04 (日) 07:29
「霜(しも)月」とは、旧暦11月の呼称で、今年の場合は新暦の12月11日〜来年1月9日までの期間に当たる。 @稲の最終の「収穫感謝祭」を霜月祭りを総称する場合と、 A「湯立て神楽」を伴う芸能を中心とした祭りを呼ぶ場合とがある。


@ 「収穫感謝祭」的要素

この祭りは、実際の稲の収穫祭である「おくんち(お九日)」「十日夜(とおかんや)」「亥(い)の子」等の『刈り上げ祭り』よりは一か月以上遅くに設定されている。その理由は、重要な祭りには厳格な「物忌(い)み」が必要とされたからである。その斎忌期間が旧十月の「神無月(かんなづき)」だったのではないかともされている。

全国の神社で行われている「新嘗(にいなめ)祭」、石川県能登地方の「あえのこと」、北九州地方の「丑(うし)の日祭り」、関東・東北地方・日本海側地方で盛んな「大師講(だいしこう)」などがこれに当たる。


A 「湯立て神楽」的要素

この祭りのもう一つの特徴は、冬の陽光が最も衰弱する「冬至(とうじ)」の時期に当たるということである。ある意味、太陽が〈死〉から〈生〉へと転換する頃でもあり、各地では、“太陽”の更新、“生命力”の更新を願って「火祭り」が行われる。その際には、「湯立て神楽(かぐら)」を伴う、特徴ある芸能を持つ祭りが徹夜で行われ、悪霊を圧服し、神鬼を招き寄せて春への甦りを果たし、新たなる年の豊作が願われる。

『雪女』という古い怪談映画の話になるのだが、巫女(シャーマン)が雪女を異界の者と見破り、煮立った釜のお湯を笹(ささ)か榊(さかき)だったかで浴びせかける場面が出てくる。その背景が「湯立て神楽(かぐら)」神事であった。



つまり、霜月祭りという「ふゆ(冬)」の祭りとは、“みたま(霊)のふゆ(殖ゆ)”すなわち「神霊が増殖し人々に分割される」時期を意味し、収穫の豊かさを背景に人々がこれを身につけて、新たな春への「魂の更新」をはかるためのものということになる。




※参考

宮中においても、この時期には「新嘗(にいなめ)祭」が斎行されている。その年の新穀を諸神に供え、天皇も食するという天皇の最重要祭儀である。
その前夜には「鎮魂(ちんこん)の儀」が行われた。太陽神・天照大御神の後裔で、大御神と同魂同体の、日の御子(みこ)とされた天皇の御魂も弱くなっていると考えられ、全国からそれぞれの国魂(くにたま)を身に付けた八乙女(やおとめ)が呼ばれ、天皇の霊力を復活させ、新生させるための「タマシズメ」「タマフリ」の業(わざ)が執り行われた。

この鎮魂の儀は、『古事記』『日本書紀』等に記される「天の岩戸開き」神話に起源し、それを再現しているということになる。

つまり、天照大御神の「岩屋戸こもり」は、太陽が再生するための象徴的な死であるとされたのである。岩屋戸の前で「桶(おけ)伏せて踏みとどろかし、神憑かりして・・」舞い、「天の岩戸開き」を行った天宇受女命(あめのうずめのみこと)は“神楽の神”“鎮魂の神”、そして“巫女の守り神”“舞踏、芸能の守り神”とされている。当白鬚神社の御祭神の一柱でもある。

忌部(いんべ)氏の『古語拾遺(こごしゅうい)』には、
「凡(すべ)て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は天鈿女命(あめのうずめのみこと)の遺跡(あと)なり」とある。

[109]  ●白鬚神社・上棟祭   Name:道開き   Date:2016/06/22 (水) 19:47
〈日時〉 7月10日(日)   午前11時より

〈場所〉 新境内地(東松島市野蒜字亀岡38−10)

〈日程〉  
    神 事  午前11時より(約30分)

    餅撒き  神事終了後



◆協力  復興支援団体 プラスネオ 
 

  

※注意点

◎駐車場は「野蒜地区センター西側(旧保育所跡地)周辺」をご利用下さい。
◎小学生以下の方は保護者同伴でお願いします。
◎基本的には雨天決行ですが、各種警報が発令された場合は変更とさせていただきます。


●お問い合わせは
    白鬚神社 祢宜 亀廼井雅文 まで
    
TEL 0225(88)2327

[108]  ●「年中行事」の彩り   Name:道開き   Date:2016/01/26 (火) 15:50
「年中行事」は、われわれの生活に潤いを与え、一年を豊かに彩(いろど)ってくれる。一年365日が1本の丸太ん棒のようであっては変化に乏しく、つまらない。竹のようにところどころに節目があってこそ、平素の営みが活性化してくる。それは“ハレ(非日常)とケ(日常)”のバランスが取れてくるからだと考えられます。



1.《神との交歓》

もともと「年中行事」とは神との交歓を目的としていた。その副産物として、人々同士の交歓をはかることや生活に潤いをもたせることにもなった。



2.《核心部分は夜》

かつて1日の境は夕方であるとの認識が一般的であった。そのために日本の祭りでは神の来臨は夜であるとの観念があり、行事の核心部分は夜に営まれることが多い。



3.《満月の夜》

各行事が一か月間にどのように配置されているかをみると、正月や盆月のように、満月に当たる旧暦の十五日前後に比較的行事が多いことがわかってくる。つづいて、七日前後(上弦の月)、二十三日前後(下弦の月)が多い。日の推移を月の満ち欠けに基づいて判断していたことによる。



4.《休み日》

「年中行事」の日、一般的には平素の労働から解放され、変わり物をこしらえて食べ合い、ゆったりと休む。かつては「怠け者の節供働き」と言われたように、なぜこの日に働いてはいけなかったのか。それは、ひたすら神祭りをすべきと考えられていたからである。神をまつる以外の時間は、じっと「物忌(い)み」のときを過ごしたり、身体を休めていればよかったのだ。



5.《神人共食(しんじんきょうしょく)》

「年中行事」の同義語といってもよい「節供」が、かつて“節日の供物”を意味していたことからもわかるとおり、「年中行事」と食物とは不可分の関係にある。変わり物をこしらえる日として捉えられていることが多く、結果として楽しむ食品となったが、元来は神に供え、人々もそれを一緒にいただき、食物をとおして“神人合一”をはかるために用意された物であった。


なんと言っても代表は餅( 鏡餅・年玉・三月節供の菱餅・・)である。つづいて赤飯、粥( 七草粥・小豆粥・種まき粥・・)、団子( 盆・彼岸・十五夜・五月節供の笹団子 )、ぼた餅、めん類( 盆のそうめん・年越しそば・・)、酒、魚(正月魚)・・・・
他にも、正月のお節料理、福茶、節分の豆、五月節供のとろろ芋、粽(ちまき)、十五夜の里芋、十三夜の栗と枝豆、冬至の南瓜(かぼちゃ)と柚子(ゆず)・・・・等があげられる。




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※参考

★日本の“おもてなし”文化 

小泉内閣が打ち出した “ビジット・ジャパン構想”は、海外からの観光客の来訪を促そうというもので、現在では円安の追い風を受けて非常に功を奏しているようにも見受けられます。ここ数年は過去最高の来訪者数を更新し続けています。

“おもてなし”という言葉で表わされる日本独特の「ホスピタリティー」文化は、来訪する神々や御先祖さまを四季折々の食材で饗応した、日本古来の“おまつり”文化とも関連性があるようです。アカデミー賞を受けた宮崎アニメの『千と千尋の神隠し』の舞台になっていたのは八百万の神々を“おもてなし”する湯宿でした。



●お盆

正しくは【盂蘭盆(うらぼん)】、あるいは【盂蘭盆会(うらぼんえ)】といい、古代インドの梵語(ぼんご)(サンスクリット語)の、「さかさ吊(つ)り」を意味する「ウランバナ」を語源とする。これは、亡き母が地獄でさかさ吊りの苦しみに逢っていることを知った釈迦の弟子のひとりが、釈迦の教えにより七月十五日に衆僧に供養し、その功徳によって苦しみから母を救ったという盂蘭盆(うらぼん)経の説話に由来している。

しかし、お盆の行事の中には、仏教と関係のない要素も多分に含まれており、日本古来の、初秋におこなわれていた【祖霊祭】の名残りともされる。正月から半年後の旧暦の七月の満月のころ、祖先の霊が訪ねて来るという信仰は元々あったもので、その際に供物を載せる容器を日本の古語で「ボン」といったことから、盆になったという説もある。

現在では、【旧盆】(旧暦の盆)ではなく、新暦八月十三日〜十五日(又は十六日)の【月遅れ盆】で行っているところが多くなっている。以前までは、七夕と重なる七日ごろに「墓掃除」や「盆道作り」が行なわれたり、魂(たま)祭り前の“禊(みそぎ)”の意味から「井戸さらい」のような水に関連した行事が行われ、精霊迎えの「七夕馬(たなばたうま)」が作られた。これを【七日盆】と呼び、この日から盆の準備を始める地方も多い。

「盆の入り」の十三日の夕方には「迎え火」を焚いて、【精霊(しょうりょう)】(祖霊)や【新精霊(あらじょうろう)】(新仏〈しんぼとけ〉)、一緒に家までついてくる【外精霊(ほかじょうろう)】(無縁仏)をも迎え入れ、十五日(又は十六日)の夕方の「送り火」で送り出して「盆明け」となる。


盆棚(ぼんだな)には真菰(まこも)で編んだ茣蓙(ござ)を敷き、麻幹(おがら)やきゅうり、茄子(なす)で作った牛馬や盆花が据えられ、うり・すいか、なし、ぶどう等の季節の果物、菓子や素麺(そうめん)などが供えられ、四隅に立てられた青竹に引き回された縄には、ホオズキや稲苗、サヤ付きの豆類が吊し下げられた。

また十三日には「迎え団子」といって、餡(あん)のついた団子を、十五日(又は十六日)には「送り団子」といって白い団子を供える風習もある。



●正月

十二月八日(又は十三日)を過ぎた頃から、一年のケガレを祓い落とす「煤払い」や「道具納め」、松飾り用の「松迎え」、「餅つき」などの一連の正月を迎えるための行事が行われる。正月行事の基本は、「トシ(年)神」と呼ばれる神格を家々に迎えまつることにある。

この神の性格は複雑で、「トシ」とは「稲」を表す古語でもあり、農耕を行って来た人びとの間では「農耕神(穀霊神、田の神)」としての性格が強く、個々の先祖としての性格が浄化され大いなる神へと高まった「祖霊神」としての性格も見られる。

十二月の大晦日の晩に来訪されて、ほぼ半月間家々に滞在し、一月十四日の夜から「小正月」と呼ばれる十五日の朝にかけて(又は、七日の「飾りおろし」の日)、松飾りを焼く「ドント焼き」の煙に乗って、神の世界へと帰って行くとされている。

人々は「餅」や若水で作った「お雑煮」、「おせち」などを供えて年神をもてなしました。年神に供えた「鏡餅」には年神の霊が宿り、それを食べることで一年の無病息災が保証されると考えた。「お年玉」も同様に、年神の魂(タマ)を分与してもらった丸餅に由来する。



●彼岸(ひがん)   

日本独特のもので、日本古来の先祖の霊を供養する習俗に仏教行事の彼岸会(ひがんえ)が結びついたもの。春、秋の二回あり、春分の日、秋分の日を中日とし、その前後三日間をさす。

彼岸のころは、太陽が真東から昇って真西に没するが、後に、この方向に阿弥陀如来の極楽浄土があるという西方浄土説と関係づけられました。「彼岸」の名称は、仏典の波羅蜜多(はらみった)という梵語(ぼんご・サンスクリット語)を漢訳した「到彼岸」という語に由来したもの。「生死の世界である此岸(しがん)の煩悩から解脱して涅槃(ねはん)の世界に至る」という意味。

春の彼岸には「牡丹餅(ぼたもち)」が、秋の彼岸には「お萩餅(おはぎもち)」がお供えされる。

[107]  ●谷根千(やねせん)   Name:道開き   Date:2016/01/26 (火) 15:48
文京区から台東区一帯の谷中(やなか)・根津(ねず)・千駄木(せんだぎ)周辺地域を指す総称で、谷根千(やねせん)とは、谷中・根津・千駄木の頭文字をつなげたもの。この地域は戦災の被害をあまり受けず、また山手線の内側にありながら大規模開発も免れたため、一昔前の街並みが残っている。

もしくは、その地域を扱った谷根千工房が発行している1984年創刊の地域雑誌を指す。新宿、渋谷、原宿のような若者が集まるところでもなく、開発が進むところでもない、ごくごく普通の3つの地域の歴史や文化などの話題や生活情報を掲載する。地域を新しい価値観で見直すことを提唱したものである。その後全国各地で誕生した同種のリトル・マガジンのお手本となった。


現在、その谷根千の地域内にある簡易宿泊施設「ゲストハウス」を多くの外国人旅行者が訪れているらしい。彼等はそこで、昔ながらの日本にじかに触れられることに魅力を感じているということだ。
(また、私も学生時代には足を運んだことのある、かなり怪しい感じがした新宿のゴールデン街に立ち並ぶ狭苦しいカウンターの飲み屋が、外国人旅行者の間では大人気なのだという。こういった飲み屋街は海外にはないらしく、非常に日本的なものに感じるらしい)




これらは東日本大震災後の、観光地としての再出発を迎える野蒜・奥松島地域の町作りにとって、非常に参考になる事例であると思われる。

とにかく、こざっぱりしていた方が良いとは思うのだけれども、不必要によそ行きの装いをしたモダンな町にすることはせず、その地域の歴史、風土、土地柄といったものを活かしていくことにより多くの力を注ぐべきだと思う。

キー・ポイントは、そこに住む人たちが普通に生活を営んでいる風景があることだと思われる。商店の前でお年寄りの方たちが立ち話をしていたり、田んぼで稲作の作業をしていたり、浜で漁業の網の修理をしていたり・・・・と。そういったコンセプトで町を再出発させていった方がよいのだろう。

そして、外国人に話しかけられたりしても逃げずに、フレンドリーな対応することだと思う。

更に加えるならば、独りよがりにならないよう、女川町がやっているみたいに、外部のプロの知見を取り込むことも肝心なことだと思われる。やはり「餅は餅屋」なのだろうから。




JR上野駅を挟んで西側が「谷根千」地域、東側が浅草方面に向かう地域です。今回の大震災後、チームを率いて多大なる支援活動をして下さっている阿倍明徳宮司さんの下谷神社がある辺りです。

学生時代に上野駅から浅草に向かって歩いていた際、神仏具店が数多く建ち並ぶ街の風景に驚かされたことを記憶しています。その地域にある下谷神社さんから御支援を戴いているということに、何か深い神縁のようなものを感じてなりません。

[106]  ●被災地から『地方消滅』を考える   Name:道開き   Date:2016/01/26 (火) 15:47
昨年後半頃からよくテレビで取り上げられ、『神社新報』にも推薦図書として掲載され続けていることもあって、日本創世会議座長で、元岩手県知事の増田寛也編著『地方消滅』〈中公新書〉をじっくりと拝読させていただきました。正直、あくまでも直感的ではありますが、自分にも何となく漠然と感じていた事柄が、豊富なデータベースを活用して、より明確に、そして、考えていた以上に深刻な内容で記されていました。

東京は「人口のブラックホール」のようになっており、地方から若者たちを引き寄せて、やがて自らも収縮し、日本は破綻してしまうことになるというのです。


◆◆◆

「高齢者までもがいなくなり行き詰まる地方」  「防衛のやり方としては“撤退戦”を本気でやること。 “反転戦”のところまでは考えなくてよいのでは」  「地方に去る若者に見るかすかな希望」  「現代版“参勤交代”で国と地方を俯瞰する − スキル人材の再配置− 」  「東京への人口流出を止める地方中核都市の“ダム機能”の強化」  「グローバル経済とローカル経済」  「東北の被災地の姿は、将来の日本 − 人口減が前提の復興になる」

◆◆◆


国や地方の行政が、どれだけ改善の為の政策を推し進めても、結局は、本社機能を東京に集めてきたり、社員の「働き方」を大きく変えようとしない、「企業文化」「企業制度」が変わらないことには、人々の「暮らし方」そのものを変えることはできないということになるのでしょう。つまり、ワークライフバランスの推進のカギは企業側にあるようです。




現状から目を背けて、恐ろしい物を見ないようにする為に、穴の中に頭を突っ込むダチョウの様になってしまっては(実際のダチョウには、こういった習性はないらしい)、後々大変なことになることは解っていますが、当サイトはそういった内容を詳しく取り上げるサイトではありません。

よって、そんな暗澹たる内容の中にも幾らかでも希望の感じられる、解決策としての“地域が活きる6モデル”といった記載もありましたので、その要点のみを抜粋させていただきました。


@ 《 産業誘致型 》

工場や大規模商業施設などを誘致して財政基盤の安定化を図る。従来から存在するモデルだが、企業業績や経営に大きく左右されるリスクがある。



A 《 ベッドタウン型 》

大都市や地方中核都市の近郊に位置することを生かす、最も多いモデル。地方中核都市が凋落するとまともに影響を受けるし、高齢化が一気に進むリスクも懸念される。



B 《 学園都市型 》

若年人口の継続的な流入を実現し、ローカル経済を持続させているモデル。愛知県日進市などは、名古屋商科大学、愛知学院大学、名古屋学芸大学、名古屋外国語大学、椙山女学園大学といった多くの大学が位置する「田園学園都市」として有名。



C 《 コンパクトシティ型 》

将来の人口減少を見据えて、従来の街の機能を中心地に集約する。被災地の宮城県女川町が注目されている。(須田善明町長は、「働く場は石巻でいい、女川には寝に帰ってくれれば」と割り切られているとのこと)



D 《 公共財主導型 》

国家プロジェクト規模の大規模施設の立地を契機とする。「研究都市開発」としては茨城県つくば市が有名。



E 《 産業開発型 》

地域の特徴ある資源を活かした産業振興を実現し、雇用の拡大や住民の定着を実現する。「自立型」といってもよく、どの自治体も目指したいモデル。



●秋田県大潟村 〔農業モデル〕

農業の大規模化、産業化が進み、農村部からの若者流出に歯止めをかけている極めて重要な事例。



●福井県鯖江市 〔中小製造業モデル〕

激しいグローバル化の波にもまれつつも、絶えず立ち向かうチャレンジ精神旺盛な企業経営者が多いと言われている。



●岡山県真庭市 〔林業モデル〕

山間地域に位置するも「バイオマスタウン真庭」を謳い、エネルギー革命の最先端にある。バイオマス関連の研究・人材育成拠点も設立されている。



●北海道ニセコ町 〔観光モデル〕

世界でも有名なパウダー・スノーに人気が集まり、外国人観光客が集まるようになった。まずはオーストラリアからのスキー客、および同国からの投資が盛んになり、さらに、アジア諸国からの観光客も増加した。今や、冬だけでなく、ラフティング、カヌーといった夏の観光産業も活発になり、通年型の世界的一大リゾート地に変貌を遂げつつある。

外国人観光客の動きを敏感に捉えた自治体や地元商工会、そして、アウトドア事業を推し進めたオーストラリア人の一人のリーダー、ロス・フィンドレー氏の存在が大きかったという。とにかく必要なのは、多くの人々を迎え入れるにあたっての地元の熱意と柔軟な思考である。同様なモデルとして、長野県白馬村がある。




特に、6つのモデルの中の《 産業開発型 》−〔観光モデル〕を参考として、被災したこの野蒜・奥松島の未来について思いを巡らしてみました。

「奥松島」は“奥”の「松島」なのだから、「松島」よりも“ディープ”なものでなければいけないと思います。当然、「松島」観光あっての「奥松島」観光なので、常に「松島」を補足する立ち位置にあるのは仕方ありませんが、しかし、「松島」と同じやり方をしては決していけないと思います。つまり、これまで長年かけて築き上げてきたものの方向性は間違っていないと思うのです。

歴史的に見ても、「松島」が伊達政宗公や瑞巌寺に代表されるように「中世」を前面に出しているのに対し、「奥松島」は世界史的に見ても貴重な貝塚群に代表される「縄文時代」を前面に出しているのは非常に良いと思われます。“縄文海進”が終えた当時の風景を、今でもそのまま残している地域は極めて貴重で、非常に“ディープ”だと思うのです。

観光面から見ても、大型遊覧船、瑞巌寺を中心にした土産店街、林立するホテルで賑わう「松島」に対し、島巡りの小型遊覧船、洞窟くぐりのできる漁業船、民宿街、点在する釣りスポット、カヌー、サイクリング、地引き網等の、所謂「体験型観光」は非常に“ディープ”。

更には、東北地方有数の長い海岸線を持つ野蒜海岸があります。長い砂浜を利用した、パラ・セーリングやサンド・モービルなどがもっと盛んに行われても良いのではとも考えられます。

震災後は、これまで以上にアクセスが便利になるみたいだし、後は、「立案」「調整」「宣伝」等の総合プロデュースを行える「リーダーシップ」が、行政や協会、個人の有志などによって取られるかどうかなのではないでしょうか。地元の若い人たちの頑張りを期待するだけです。

やはり一番なのは、『るるぶ』『じゃらん』のような有力な旅行情報誌や旅行ガイドブックに、いかに情報提供がうまく出来るかだろうなあ〜とも考えられます。






P.S.   数日前、NHKスペシャルで「ネクストワールド」シリーズの最終章を見ました。
「ネクスト東京」というプランが紹介されていました。一瞬、「ハァ〜?」とも思いましたが、国や東京都などによるプロジェクトではなく、六本木ヒルズを設計したという外人建築家の、あくまでも個人によるものだったので安心しました。なぜなら、この「地方消滅」の問題をさらに助長する内容の計画だったからです。

東京湾上に50万人が居住できるという高層都市のデジタルCG映像は、私には『旧約聖書』の中に出てくる“バビルの塔”のように見え、日本を破綻させる象徴的な高層建築物にしか見えませんでした。
「極点で上に伸ばそうとせずに、もっと横に広げてくれ」と言いたいです。全国に都市ネットワークを構築し、「アクセス」方法をより発達させた方が、「未来都市トウキョウ」の理想的な姿のように思えました。

[105]  ●「二十四節気」はエレガントな科学   Name:道開き   Date:2016/01/26 (火) 15:45
「旧暦」文化に関する話になります。 


秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる 


藤原敏行が「秋立つ日によめる」、『古今和歌集』の中の余りにも有名な歌である。
日本に暦が伝わってから約350年後の、当時の教養人が「暦の上の季節」と「実際の季節」との微妙なズレ感を美しく歌に詠み上げたものです。

この時代から1000年以上が経過した現在でも、同じ内容のことがテレビ画面上で毎年繰り返し発せられているようでもあります。
「暦の上では今日から春なのに、まだまだ寒い日が続いています」「暦の上では秋なのに、日本列島は酷暑の真っ只中にあります」と、立春や立秋の日に必ずと言っていいほどに発せられるコメントは、まるで慣用句のようになっている感もあります。


東日本大震災が起きた2011年の5月に、日本気象協会が「日本版の二十四節気をつくります」と、言語学者文化人、気象関係者からなる専門委員会を設け、一般からも意見を募って検討を始めたそうだ。これに対し、俳句界や日本語研究者、暦研究者などからは「歴史的、文化的意義を無視するな」という猛烈な反発の声があがり、一年ほどで「季節のことばの公募」という形に方針転換したらしい。

私の様な暦に関わる端くれ者にさえ、「何で、畑違いの一つの財団法人にすぎない日本気象協会が、何千年も続いている旧暦の根幹を成す二十四節気を作り替えなければならないのか」と思われたほどですから、暦に深く関わる専門家たちの反発たるや、いかばかりのものであったかは容易に推察されます。

この件について強く憤られた「暦の会」の石原幸男氏などは、翌2012年の1月10日には、早くもPHP研究所から『暦はエレガントな科学 −二十四節気と日本人』といった著書を出された程です。


恐らくは、昨今の暦ブームの火付け役となった冲方丁(うぶかたとう)氏の『天地明察』の主人公で、初の大和暦「貞享(じょうきょう)暦」の編纂者・渋川春海(安井算哲)が、「本朝七十二候」を作成しているので、安易な考えから、同じように「日本版二十四節気」を作ろうとなったのではなかろうかと思われます。これは「二十四節気」が如何なるものなのかを知らない人たちの発想だと思います。

「二十四節気」の中の、冬至、夏至、春分、秋分の「二至二分」については、誰もが科学的に理解していることでしょう。「冬至は一年で最も昼が短く、夜が長い日」「夏至はその逆」「春分、秋分は昼と夜の長さが同じ日」と学校で習っているからです。

問題とされているのは、立春、立夏、立秋、立冬の「四立(しりゅう)」や他の節気の名称のようです。それは中国発祥の陰陽五行説的観念思想に過ぎないだとか、中国といった大陸的気候による名称だとか受け取られ、だから実際の日本の季節感とズレてしまうのだと思われている節があるのです。


実際のところは、「四立」も同様に科学的なもので、「二至二分」によって決まる天文学的概念なのです。「太陽南中高度」や「昼の長さ」を計算すればすぐに解ることなのですが、「四立」は「光の季節」区分の良い指標といえるものなのです。

では、どうして実際の季節感との間にズレを生じるのか、といった疑問を持たれる方も多くおられることでしょう。それは「気温の季節」は「光の季節」よりも少し遅れるというところにあります。特に四方を海に囲まれている日本列島は、大陸に比して海水の熱容量が大きいため、熱しにくく冷めにくいのです。これが「光の季節」である二十四節気と実際の「気温の季節」との間にズレ感を生じてしまうのです。



さらには、誰もが暦の季節に違和感を持つ理由がもう一つあります。
子どもの頃、「何でお正月番組なのに〈新春!スター隠し芸大会〉なのか?」「どうして年賀ハガキに“初春”“迎春”の文字が入るのか?」「冬の真っ只中で、雪の季節はこれからが本番なのに、“春”の到来はさらにその先のことなのに」・・・・と思われた方は多いと思います。「桃が咲くまでにまだ一月はあるのに、何で3月3日を〈桃の節句〉というのか」「七夕が何で、天の河が見えにくい梅雨の7月7日の時期なのか」・・・・と、取り上げたらきりがありません。

こういった暦の季節に対する違和感は、偏に明治政府のあまりにも性急な近代化政策がもたらしたものなのです。日本はアジアで最初にグレゴリー暦を採用したのですが、旧暦を禁じ、これまでの年中行事を総て新暦の日付にしてしまったことによる弊害がこれなのです。それが暦の季節感を複雑でややこしいものにしてしまっているのです。

新旧の暦の併用こそがベストだったのだと思われます。現在、正月や節句を西洋暦で祝っているのは、アジアでは日本だけのようです。中国などは旧暦を「農事暦」として大切に扱っています。アジアとの関係をより強め、相互理解を深めていくためにも、旧暦を重視する政策を、国策として行っていった方がよいように思われるのです。暦は契約社会の重要なインフラなので、より真剣に考えた方が良いと思われます。


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※参考  

◆二十四節気

暦日と季節の推移との間にずれが生ずるという太陰暦の欠点を、太陽暦の要素を加えることによって補ったのが太陰太陽暦となる。中国暦の場合、二十四節気がそれに当たる。
二十四節気とは、気候の推移を示すための黄道上の二十四の基準点のことをいい、それぞれに季節にふさわしい名称をつけたもの。

二十四節気は、ある時期、突然に発明されたものではなく、段階的に整備されてきたものであり、「二至二分(二分二至ともいう)」などはかなり古くから認識されていたと考えられる。殷の時代(BC16世紀〜BC11世紀)には既に、素朴なかたちの太陰太陽暦が使われていた。

戦国時代末期(BC3世紀頃)の『呂氏春秋』から「四立(しりゅう)」である立春・立夏・立秋・立冬の語が使われ始めていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。二十四節気の全名称は前漢の『淮南子(えなんじ)』において出揃っており、「八節」をさらに三分割したのは、月と対応させるためであったとされている。



●「節(せつ)」と「中(ちゅう)」

     《節》         《中》

正月  立春(りっしゅん)   雨水(うすい) 
二月  啓蟄(けいちつ)   春分(しゅんぶん)
三月  清明(せいめい)   穀雨(こくう)

夏  
四月  立夏(りっか)    小満(しょうまん) 
五月  芒種(ぼうしゅ)   夏至(げし)
六月  小暑(しょうしょ)  大暑(たいしょ)

秋  
七月  立秋(りっしゅう)    処暑(しょしょ)
八月  白露(はくろ)      秋分(しゅうぶん)
九月  寒路(かんろ)     霜降(そうこう)

冬  
十月  立冬(りっとう)     小雪(しょうせつ)
十一月 大雪(たいせつ)     冬至(とうじ)
十二月 小寒(しょうかん)    大寒(だいかん)


二十四節気の内、第一段に属するものを「節(せつ)」(又は「節気(せっき)」)といい、第二段に属するものを「中(ちゅう)」(又は「中気(ちゅうき)」)と称し、正月節・立春、正月中・雨水、二月節・啓蟄(けいちつ)、二月中・春分というようにした。
特に、二分(春分・秋分)・二至(冬至・夏至)・四立(立春・立夏・立秋・立冬)の「八節」が暦上では重要な節気の位置を占めている。

立春から奇数番の十二節気である「節(せつ)」は、四立(りゅう)を含んでいて、季節の指標を示したり、各月の始めを意味するものである。偶数番の十二節気である「中(ちゅう)」は、二至(冬至・夏至)二分(春分・秋分)を含むことでも理解できるように、月の名称や位置〈月序〉を決める(「正月中」「二月中」のその通りに、その存在によって「正月」「二月」などになる)。したがって、もし中気を含まない月が生じた場合には、月名を付けることができなくなるため、その月は閏(うるう)月とされた。


※「月切り」と「閏(うるう)月」について

●月の大小
月の地球に対する公転の長さは平均29.530489日(朔望(さくぼう)月)なので、約0.5日の端数が生じる。この端数を処理するためには、29日の「小の月」と30日の「大の月」とを繰り返せばほぼ満足できるのだが、33.3か月ごとに一日分の誤差が生じてしまう。そこで、「大小大小大小・・・・・」という組み合わせを33か月(2年と9か月)続け、それに一回の「大の月」を重ねることでほぼ解消できる。
つまり、この周期の終わりに「大大」と二か月「大の月」を重ねる方法を「連大(れんだい)」といい、実際の月の朔望(さくぼう)に暦月を合わせるための調節を行った。このやり方を「平朔(へいさく)法」といって、中国では唐の時代まで用いられた。


◆定朔(ていさく)法
しかしながら、実際の月の運動は不規則で、秋から冬にかけては遅く、春から夏にかけては速いため、「平朔法」では、朔(さく)や望(ぼう)などがずれることが起き、日食が月の1日ではなく、月食が月の15日か16日でない日に起こったりもすることになる。その後、天文学の発達とともに、暦月の大小の組み合わせを複雑にすることによって、月の実際の朔望に暦を正確に合わせる「定朔(ていさく)法」が取られるようになる。


●置閏(ちじゅん)法
太陰暦の一朔望(さくぼう)月は平均29.530589日であるから、その12か月である1年は354.367068日となる。この日数は1太陽年(365.2422日)に比して約11日(10.8752日)短い。いいかえれば毎年約11日ずつ暦日が進むことになる。つまり、11日ずつお正月が早くやって来ることになり、16、7年も経つと真夏に新年を迎えることになってしまう。このようでは農耕その他の社会生活に不便を生じてしまうことになる為、ほぼ3年毎に閏月(うるうづき)を設けて、暦と季節とのずれを補正した。


◆十九年七閏法
紀元前六世紀頃の中国では、19年に7回の閏月を置く「十九年七閏法」が発見され、19年を1章としたところから「章(しょう)法」と呼ばれた。ギリシアでは、西暦前5世紀のアテネの天文学者メトンが提唱したとされて「メトン法」と呼ばれた。
中国では、「章法」が正確に運用されている証として、章の始めの11月朔(1日)が冬至と重なる「朔旦(さくたん)冬至」という現象が起きることになっていて、宮廷において祝賀の行事が催された。日本では、桓武天皇の延暦三年(784)以降にその記録がある。


◆破章法
一九太陽年=二三五朔望月=一章とする「章法」が、中国では約一〇〇〇年間にわたって用いられた。但し、章法では端数が無視されているために、冬至や春分といった暦象は一九年ごとに二時間ずつずれていくことになる。よって、章法に従わない暦法、すなわち一九太陽年と二三五朔望月を等しいとみなさない暦法である「破(は)章法」が南北朝時代から唐の時代にかけて採用され、一年の長さを少しずつ実際に近づけていきました。




●「平気法」と「定気法」

◆平(恒)気法
単に一太陽年を、冬至から始めて時間的に二十四等分し、その分点に二十四節気を配した。これを「恒(平)気法」という。この方法だと、地球の公転軌道が楕円であり、運行する速度も一様ではないことから、春分・夏至・秋分・冬至は、天文学上の実際と一致しなくなる。

◆定気法
明代末以降、中国に西洋天文学・暦学が紹介されるようになると、清朝の時憲(じけん)暦からはケプラーの法則が採り入れられ、太陽の黄道上の春分点から、黄経(春分点と太陽との角度)を十五度ずつの二十四等分に分け、太陽がこれらの分点を通過する瞬間を二十四節気に配するようにした。これを「定気法」という。この定気法では、各節気間の時間は等しくないが、暦面上の春分・夏至・秋分・冬至と正しく一致することになる。


※「節切り」と「閏(うるう)月」(置閏(ちじゅん)法)について 
古い時代には年末に閏月を置いたが、二十四節気が用いられるようになると、中気を含まない月を閏月とした。

「平気法」では、「節」から次の「節」まで、「中」から次の「中」までの日数は、15.218日と各気の間隔はいつも同じで、「節月」(30.44日)が「暦月」(30日、又は29日)より長くなるため、中気を含まない月が生じることになる。この月を閏(うるう)月とした。

「定気法」では、1節気の間隔は約14.72日から15.73日の間を移動するようになり(近日点〈一月二日頃〉に近い頃は間隔が短く、遠日点〈七月六日頃〉に近い頃は間隔が長くなる)、暦の上の1か月の中に、中気が2つ入ったり、中気がなくても閏(うるう)とはならない月が生じたりする。

そこで、現行の暦法(天保暦)では、春分は必ず二月に、夏至は五月、秋分は八月、冬至は十一月に配されるようになっていて、閏(うるう)月はこの規定に反しないように挿入される。


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