[374] ●東日本大震災時の神社“御神体”のリレーの話 Name:道開き Date:2021/02/06 (土) 11:16 |
震災からまる十年になりますので、当時の事を記したいと思います。
●東日本大震災直後の白鬚神社
大津波襲来から10日ほどが過ぎ、海水も引き、規制も解かれたので、どうにか歩いて鳴瀬川河口の白鬚神社まで行くことができました。津波の高さが10メートルにまで及んだ地域なので、社殿は流失して何も無くなっているに違いないとは思いながらも、一縷の望みは持ち続けていました。しかし、その望みはすぐに現実を前に打ち砕かれてしまいました。
暫くの間、社殿の建っていた場所に呆然と立ち尽くしていましたところ、ふと、ガレキと化した社殿の残骸の下にある、見覚えのある緑の錦(にしき)の布が目に止まりました。それは神社の「御神体」が収まっていた箱を覆っていたものでした。毎年、春と秋の例大祭前日と、お正月を迎えるための年末の大掃除の日に限って、神社の御本殿の中にまで入って清掃をしていたので記憶がありました。
ガレキの中をくぐり抜け、その場所まで行って確認したところ、「御神体」は無事に箱の中に収まっていました。おそらくは、神社の建物全体が津波によって後ろの白鬚山に押しつけられ続けたから流失しなかったのでしょう。白鬚山は、丁度、人が両腕を広げて受け入れるような形状をしていましたので。更には、神社の前には鳴瀬川の河川堤防がありましたので、津波の引き波で海まで持って行かれることもなく、境内地に留まり続けることができたようでした。他の境内末社の「御神体」の無事も確認できました。当日は一人でどうすることもできなかったので、無事を確認しただけで避難先の名取市の姉の家に戻りました。
翌日の事、どういう訳か胸騒ぎがして仕方なく、居ても立ってもいられなくなりました。車を借りて神社まで来て見たところ、「御神体」のあった辺りのガレキがどういった訳か撤去されていて、そのすぐ側に一台の重機が横付けされていました。慌てて「御神体」を探したところ、収まっていた箱は壊されてしまっていましたが、「御神体」そのものは無事でした。どうやら、津波で傷んだ堤防を補修するための重機らしく、国土交通省の河川局で用意したもののようでした。取り急ぎ各「御神体」を車に積み込み、津波被害は受けていたものの比較的無事だった宮司宅の神殿にお遷し致しました。又、被災地では携帯が使用できない状態になっていましたので、姉の家に戻ってからすぐに県の神社庁に連絡を入れて事態の詳細を説明し、被災神社に重機などが入らないように手配してくれるようにと御願いしました。
●他の神社の被災状況 山神社、針生稲荷神社の本殿は流出せずにその地に留まっていましたが、御神体が見つからずにおりました。その状況から見て、近くに住んでいた氏子のいずれかの方かが戻って来て、一時的に何処かに保管して下さっているようにも思われました。しかし、氏子の方たちとは全く連絡が取れずにいました。
海津見神社の御神体は、神社の裏に住む氏子の方が保管して下さっていて、この目で確認することができました。大きな毘沙門天像なので運び出すことが出来ず、そのまま預かっていてもらいましたが、後日、多賀城市にある東北歴史資料博物館の文化財レスキュー隊が来て、博物館まで運んで下さいました。
昨日(4月12日)、父の持病の薬をもらいに掛かりつけの真壁病院まで足を運んだ際に、壊滅的な被害を受けた新町地区の氏子Aさんから声をかけられました。
「 山神社の隣に住んでいたT屋さんから、山の神様(木之花咲耶姫命〈このはなのさくやひめのみこと〉)の御神体を、比較的、津波の被害が少なかった中下地区に住む親戚のOさんに預けていると聞いていたが、今、待合室にそのOさんがいるので会って欲しい」ということでした。
Aさんは現在、車で30分ほど離れた場所に集団避難しているということでした。
「本当だったらこの病院に来ることもなかったのだが、この為に呼ばれたのだな〜」と語っておられました。この様な惨憺たる状況下でも信仰の灯は消すことなく、点し続けておられるようでした。 詳細を伺った後、そのままOさん宅に向かい、T屋さんからリレーされた御神体を受け取り、宮司宅神殿にお遷しすることができました。
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