| [9] REASON |
創作幕末 - 2012年10月04日 (木) 22時26分
置いていっていいよと、あれは言った。 掠れきった、あの声音。 自失するほどの怒りを覚えたのは、まだほんの数日前のことだ。 人目がなければ怒鳴りつけていただろう。 身じろぎ一つも満足に出来ない体でなかったら、きっと殴り飛ばしていただろう。 一瞬にしてかっと思考を焼き切った怒りは、今も尚ふつふつと沸き立っている。 思い返すたび、腹の奥底から焦げてしまうような気さえする。 行き場のない憤怒。 それは皮肉にも、極寒の地で戦い続けている今の土方に、凄まじい熱を与えていた。
文字通り、ただ死ぬる為だけに日を過ごす身と成り果てた、伊庭。 生き永らえる道は、最早万に一つも残されていない。 だが土方は、その事を怒っているのではなかった。
戦場に身を置く武士である以上、戦場で果てるもまた本懐。命を落とすが定めであるならば、相応の傷を身に負うのもまた、逃れられぬ定めだろう。 伊庭と死を繋いだのは刀傷ではなく銃創でもなく、諸共に肉までをも腐らせる無数の木片であるという。 常であれば難なく避けられよう。 それ以前に、皮膚を破り肉の奥深くにまで入り込むなど、木屑如きが出来よう筈もない。 ──つまり、何の力も持たぬものが人の命を奪う凶器と成り果てるほどに、伊庭が深手を負ったそこは酷い戦場だったということだ。 見るも無残な骸になった者も多くいると聞いている。 なればどのような形であれ、生きて戻れたのは僥倖だったに違いない。 それが後に、如何程の苦しみをもたらす事になろうとも。
戦えなくなった伊庭は、もう土方の傍に在る事さえ叶わない。 誰かの介添えがなくては身を起こすのも侭ならぬ。 一方土方には、敗色の濃い五稜郭を支える勤めがある。 ひとつところにじっと居るなど到底許されず、例え他の全てが許したとしても、当の土方がそれを受け入れられないのは明白。 末を誓った間柄ではあるけれど、もう一緒にはいられない。 だが、今の土方にとってはそれもまた瑣末だった。 元より頑なに望んでいたのでもない。 耳に甘く心に優しい睦言は大層心地よかったが、結局のところはそれだけだ。 疑っていたのではないが、叶わぬ現実から目を背けた事もまた、一度もなかった。 心でどれほど望んでも、どうにもならない事など幾らでもある。 もし、思いの強さが全てを叶えてくれるのならば、こんな結末など絶対に迎えなかった筈で。
悲しくないわけがない。 辛くないわけがない。 しかし、それと怒りは別物だった。 伊庭の気持ちは痛いほどよく分かる。 例えば伊庭以外の人間が漏らした言葉であったなら、土方もぐっと気持ちを抑えただろう。今の自分のように怒りに身を任せている者がいたら、分かってやれと宥めただろう。 だが、相手は伊庭なのだ。 悲しみや辛さなどで誤魔化されてやるわけにはいかない。 物分りのいいフリで許してやるなど真っ平御免だ。 あれだけ何もかも奪っておいて、今更手放して貰えるなどと思っているのか。 土方は、テーブルの上の小さな硝子瓶を無造作に掴んだ。 ひやりと熱を奪う感覚には一瞥もくれず、荒々しい所作で外套のポケットに己が手ごと突っ込む。 そうしてそのまま、迷いも躊躇いも失せた足取りで自室を出た。
近づく落日を前に、五稜郭内は連日慌しい。 これまでであれば土方の感情の起伏を目敏く察知して駆けつけただろう守衛の面々も、今はそれぞれの持ち場に留まり働いている。 新撰組の名に恥じぬようにと、それは土方の望みではなかったが、彼らがそうありたいと思う心を留めるつもりもなかった。 せめて詰まらない死に方だけはしてくれねえといいんだが、と、精々がそんな程度。 土方が強欲にあれもこれもと望むのは、この世にたった一人を措いて他にはいない。 今までもずっと、そうだった。 そしてこれからもずっとそうなのだ。 突きつけられた現実に今度こそ全ての希望を失ったとして、それが一体何だというのか。 引き下がるふりで諦めようなどと── 。
「……俺の覚悟を思い知りやがれ」
呟いて、土方はまっすぐに伊庭の元へと向かう。 何もかもを射殺しかねない眼光は、唯一の執着を思い浮かべていながらひとつも緩むことはない。 ただ、外套のポケットの中、土方の手に包まれたままの硝子瓶だけがほんのりと暖まっていた。

|
|