《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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11月22日 尊師谷口雅春先生   「この誕生日にわれわれの団体の指導精神となるところのものを書いておく」 (4015)
日時:2016年11月22日 (火) 13時30分
名前:童子

『生命の實相』 頭注版 第38巻 幸福篇 下  


 
 今日はわたしの誕生日である。

 この誕生日にわれわれの団体の指導精神となるところのものを書いておくのも無駄ではあるまい。

   
 われわれを指導する者は、たった一つ神の意志である。 神は人の悪口(あっこう)を言うことを許さないのである。

   
 悪口を言ったとき、その人はもはやわれわれの同志ではないのである。

   
 しかしわれわれは寛大である。 一度悪口を言った人でも、再び神の意志にしたがって、人々を賞め讃(たた)え感謝しあうことができるようになったら、われわれはいつでもその人をわれわれの同志として迎えるのである。

   
 「悪」 は積極的存在でないから、それが 「悪かった」 と気がついたときたちまち消えてしまうのである。

 過去を過去として過ぎ去らしめよ。 われわれは日々新生するのである。 新しく生れる者は、他(ひと)の旧(ふる)き悪に捉われるものではない。

 
 われわれの同志は、同志としての権利と義務とを自覚しなければならぬ。
   
 それは、一日でも早く光明思想によって目覚めた者は、神から一日早く光明思想を生活に行ずべく指名せられたる者であるということである。


 われわれの指導者は 「神の意志」 であるから、神がわれわれにかく行ずべく光明思想を知らせ給うた以上は、この無上の指導者の意志に従わねばならぬ。

 われわれは一日早く光明思想を知らされたがゆえに、後至者 (あとよりきたるもの) に一人でも多くこの光明思想を次に伝うべき義務を有する者である。

   
 義務は、われわれに対してあるのではなく、「神の意志」 に対してあるのである。
   
 そしてその義務を遂行するための協同体としてわれわれの教化団体はあるのである。


   
 誌友会や、白鳩会や、その他の集会で ある一人が他(ひと)悪口を言った場合には、それに対して相槌を打つことは、われわれの協同体においては禁ぜられている。

   
 ある人が某(それがし)の人の 「悪」 を言った場合にはわれわれの協同体に属する人の言うべき答えは 「いいえ、あのひとはけっしてそんな悪い人ではありません。 あの人は本当によい人です」 と証言することである。

   
 すべての人が、一人の人を 「善人」 であると証言するならば、その人がたとい 「善」 から踏み外れようとしていた場合でも、言葉の力によってその人は 「善」 にまで呼び戻されて来るものである。


 われわれの協同体は 「神の意志」 によって組織されているのであるから、定(さだ)められたる役役はそれぞれの上置されたる位置の者に絶対に服従しなければならぬ。


 たとい自己の意見が上置者の意見と相異していようとも 「そのまま素直にありがた」 とそれに対して従順に従うのが 「神の意志」 である。
   
 この場合、上置者は私人として上置せられているのではない、公の意志によって上置せられているのである。

 理窟はどうにでもつき、また立場にしたがって意見はどうにでも変わるものである。 意見は立場の変わるだけ複数にあるであろう。 いちいちの意見を主張していたら紛糾を重ねて収拾することができなくなるだろう。

 ただ上置された時は、その下(しも)のものに対して絶対の命令権を持ち、下(しも)の者は絶対の従順をもってそれに服するとき、そこに 「神の意志」 が行じられるのである。

   
 有利に見える 「我(が)」 の意見を通すよりも、不利に見える上置者の命令に黙々服従する方が、神において価値が認められるのである。

  
  定(さだ)められたる勤務時間には1分間でも遅刻なく必ず出勤すべきものである。 それは仕事の分量のためではない。 仕事の分量のためならば自宅でたくさん仕事をしてきて出勤は遅刻してもよいであろうが、そうではない。

 それは法則に従順であるためと、法則を定(さだ)めたる上置者に対する従順の美徳のためである。 美徳は仕事に上置せられる。


 さらにわれわれ協同体においては厳重である。 定(さだ)められたる出勤時間よりも十数分も早く出勤して、定刻が来るまでに自分の室(しつ)や、自分の机の回りを掃除して、室と机に感謝し、定刻が来るとともに直ちに仕事を始められるように 準備するほどの者でないと、われわれの協同体の役員ということはできないのである。

  
 われわれの協同体ではみんなそれをやっているし、われわれはそれを尊敬しているのである。

 われわれの協同体のこういう習慣に反対である者は、いつの間にかわれわれの団体にはいづらくて去って行くのである。

   
 ヒットラーは 「規則の侵犯は自由の損失と国民性の破壊を招来することになつ」 と言った。

 われわれの協同体は理想によって 「神の意志」 を行ずるために集まってできたのである。

 われわれはこの協同体に属することを名誉とし、みずから進んでその仕事に生命(せいめい)を献(ささ)げているのであって一人として報酬のために、生計のために集まっている者はない。

   
 報酬は協同体から与えられているが、それはその人の働きが協同体の意志すなわち 「神の意志」 に協(かな)っていることが認められているからである。 報酬は結果であって目的ではないのである。

 もし報酬が目的である人がまちがえて内部へ来るならば、間もなくそういう人は恥ずかしくなって去ってしまうのである。

 われらは名誉と矜持(ほこり)とをもってわれわれの協同体に属しているのである。

 われわれはわれわれの属している協同体の世話になったり寄生したりする者ではないし、またそうあってはならないのである。

 われわれの属している協同体は、人類光明化の公な使命を現実にまで持ち来たすために選ばれた団体なのであるから、この協同体の世話をやくことは矜持(ほこり)であるから、この団体に加わっているのであって、逆にこの協同体から何かの利益を得るためでも、寄生するためでもないのである。

 われわれはこの協同体をより大きく、より力強く、より立派に築き上げることに 「神の意志」 を感じ使命を感じているものである。

  
 自分はこの協同体に寄生し、私利を貪ろうとする者や、この神の意志を行じようとする協同体に害を与えようとする者には、いつでも全力をもって闘う用意ができているのである。

 われらの本部が巍然として美しく聳(そび)え立つことは、形は内容の影とするならば、われわれの内容が次第に巍然として聳えてきたことを表わしているのである。 これはわれらの本部であってわたしの本部ではない。

 われわれの同志は外に対して強くならなければならぬ。 内部に対して寛大でなければならぬ。

 寛大であってもルーズであってはならぬ。 寛大とルーズとは似ているけれども根本的に異なるのである。

 れらは内に黙々としてジムを抜目ない注意深さで執(と)るが、外に向かっては猛烈なる闘志をもって光明思想の普及をなすべく働きかけるのである。

 内に黙々たる従順さのある者は尊敬せられ、外に対して猛烈なる働きを示す者は讃嘆せられる。


 わたしは個人的な理由で、わが協同体に属する何人にも差別待遇を与えない。 差別があるのは能力と天分と置かれたる役割とにおける等差によるのであって、この等差あるによって協同体の仕事が順調に運びうるのである。

 
 私的感情で偏愛することも偏憎することもありえない。 何人もわたしから一番愛されていると信じてさしつかえないのである。 何人(なんぴと)も一番愛されながら別々の位置に置かれ、いろいろの役割が分担せしめられているのである。


 



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