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中国が仕掛ける「武器なき戦い」、それに加担する外務省の驚くべきやり口 (3270)
日時:2016年08月16日 (火) 12時58分
名前:童子

ダイヤモンド・オンライン 8月16日(火)11時0分配信


 中国の膨張は、軍事的な面にとどまらず、歴史や情報に関わる部分にも及んでいる。このような 「武器なき戦い」 を制するために、日本にいま、何が足りないのか? 人気ジャーナリスト・ 櫻井よしこ氏 の最新刊 『凛たる国家へ 日本よ、決意せよ』 の中から紹介していこう。


  ● 「正定事件」 に見る武器なき戦い

 2016年2月20日に発売された 高橋史朗氏 の近著 『「日本を解体する」戦争プロパガンダの現在』 (宝島社) に非常に恐ろしいことが書かれている。 中国が日本に歴史戦争を仕掛けているのは周知だが、その戦場がバチカンを巻き込んで広がりつつあるというのだ。


 話は1937(昭和12)年1月9日にさかのぼる。 中国河北省の正定にカトリックのミッションの支部があった。 1937年といえば12月に日本軍が南京に入城した年である。 中国は、日本が 「南京大虐殺」 を起こしたと主張し、研究者から見れば根拠を欠く不条理な非難を日本に浴びせ続けている。


 その同じ年に日本軍が 「正定事件」 を起こしたと、中国とオランダが共同でローマカトリックの総本山、バチカンに次のように訴えている。

 カトリックミッションに日本軍が乱入、女性200人を要求し、宣教師たちが断ると、9人の宣教師を誘拐し殺害した、というのである。

 中国とオランダは、女性たちを守ろうとした尊い行為を顕彰し、犠牲となった9人を悼み、彼らの「列福」をバチカンに申請したそうだ。 「列福」 とは 「徳と聖性が認められて聖人に次ぐ福者に昇格させること」 だ。 実現すればカトリックの世界で9人の宣教師は大層尊い存在となる。 ローマ法王は、列福された人々を高い徳を備えた聖なる人物として全世界のカトリック教徒に宣告する。

 「そうなれば、福者の栄光と、日本軍の悪辣な行為が対比され、日本国を悪者として際立たせる効果が生まれます。 空恐ろしい企みを中国は着々と実行しているのです」 と、高橋氏は警告する。


 実は、この情報を最初に日本にもたらしたのはスイス・ジュネーブの国際機関で働く 白石千尋氏 である。 彼女は中国の動きに危機感を覚え、当時、正定のカトリックミッションを庇護し、事件の調査、および事後処理を担当したフランスの資料を調べた。


 白石氏は6人の情報源の証言で報告書が作成されたことを突き止めた。 6人のうち2人がオランダ人の神父、2人が中国人だ。 しかし4人は女性の要求については一切触れていない。

 他方、ヴィエンヌという司祭は 「強盗は8人で中国人女子修道院に侵入したが、一切暴行は加えず修道院を出て、難民らから強奪した」 と証言している。

 犯人らは必ずしも日本人ではなく金目当てで、貧しい中国人修道女には興味を示さなかったと解釈されている。

 女性の要求について証言したのはスウェーデン人のヒルという神父だ。 彼はミッションの管理人リー・チャイという神父から聞いた話として、「日本兵がやってきて女性を要求」 「外国人宣教師の一人が断固拒否」 すると、「一旦去って、夜になって戻ってきて宣教師たちを誘拐し、後に殺害した」 と語っている。

 
 だが、ヒル証言はあくまでも伝聞である。加えてヒル証言には「200人」という数字は一切出てこない。

 フランス当局は3ヵ月後 「これが可能な限り集めた情報のすべてである。 これ以上真相について語ることはおそらく不可能」 と報告した。 高橋氏が語る。


 「つまり、女性200人を要求したというのは完全な捏造と見ていいと思います。 日本としてはフランス政府の資料を精査して、バチカンに詳しく報告すべきです。 資料の中には 『現場にはダムダム弾10発と中国刀一振りが残されていた』 との証言もあります。 ダムダム弾は日本軍は使っていません。 またチャイ神父は 『強盗の中に流暢な中国語を話す男がいた』 とも証言しています。 別のフランス人も、数人が 『正しい中国語を喋っていた』 と証言しています」

 
 日本政府は情報の収集、分析、対策を急ぎ強化すべきだ。 中国の底知れぬ謀略との戦いは、武器なき戦いである。 果敢に反論し、こちら側の事実を広報しなければ、日本は敗北する。



  ● 「正定事件」 対応で確信 官邸主導での情報発信は急務


 前項で指摘した 「正定事件」 について、官房副長官の萩生田光一氏 の動きは素早かった。 日本政府の資料などをそろえてバチカンに提出することになった。


 同事件について中国とオランダは、1937(昭和12)年10月9日、中国河北省正定で日本軍がカトリックミッションに対し200人の女性を要求し拒絶されたために、シュラーヴァン司教を含む9人の宣教師らを殺害したと主張する。 女性を守って犠牲となった9人を聖人に次ぐ福者として顕彰し列福してほしいと、中国とオランダがバチカンに申請済みなのである。

 萩生田氏が語った。

 「早速調査させました。 日本外務省が1939(昭和14)年までにまとめた記録では 『満州軍により殺害』 と記されています」


 日本政府は事件後すぐに調査をし、残念ながら犯行は日本軍によるものだったとして対処したというのである。

 外務省の資料では、日本政府は事件からひと月半後の1937年11月22日、正定で営まれた「弔祭式」に参列した。 これは弔意と謝罪を表明した公の行動だと思われる。

 翌年2月27日、北京で日本軍から北支カトリックミッションに見舞金9000円、寄付金1万5000円が、同年4月6日には外務省から、正定のカトリックミッションを庇護下に置いていたフランス政府に、物的損害に対して1万5000円、寄付金1万円、その他1000円が手交されたことを示す書類も保存されていた。


 1937年、38年は日本軍が南京を攻略した年だ。 中国国民党軍は国の治安を十分に守れず、その間に日本軍は攻め入った。 そのような国情をカトリック系の新聞も報じていた。 萩生田氏が指摘した1937年11月12日の 「カトリック・ヘラルド」紙 には次のように書かれている。


  「日本軍が正定を占領した1937年10月8日以前にも中国では山賊や赤軍による外国人司教等の誘拐が繰り返し起きていた。 日本軍は地元の志願警察の助けを借りて、山賊を阻止するための網を張り巡らせる等していた」


 萩生田氏が語る。


 「これは正定事件後の報道ですが、日本軍は現地警察と協力して治安維持に貢献していたと、カトリックの新聞が好意的に書いています。 一方さまざまな資料を見ても、日本軍が女性200人を要求した事実は見当たりません。 9人の列福に日本政府は何の異存もありませんが、顕彰の理由に関しては歴史の事実を正しく反映していただけるように日本側の資料も提供したいと思います」


 中国が同事件を「慰安婦」事件であるかのように捏造し、反日の立場で利用しているのは明らかだ。 世界に強い影響力を有するバチカンの権威を中国式に政治利用することは、バチカンにとっても受け入れ難いだろう。


 今回、日本政府の対応は素早かったが、列福の手続きは2014(平成26)年に開始されている。 この間外務省は手をこまねいていたのか。

 2月16日、ジュネーブで国連の女子差別撤廃委員会の対日審査会合が開かれ、慰安婦問題で日本政府が 「強制連行は確認できなかった」 と初めて反論した。 だが、性奴隷、20万人、強制連行などの決め付けで日本を非難したクマラスワミ報告書が出された20年前、外務省は何ら反論していない。

 外交上の政治的配慮が働き反論できなかったのか。正定事件についても外務省に即応態勢は、全くない。 歴史についての真実の情報発信を外務省に頼っていては、日本は生きていけないほどの不名誉な地平に突き落とされてしまう。


 今回、正定事件に関する情報発信が素早かったのは、繰り返すが官房副長官の萩生田氏を軸とする官邸主導だったからだ。 ならば、首相直属の情報発信本部をぜひ設置し、担当大臣を任命し、その下に多くの専門家、研究者、翻訳者の一群を揃えて、政治主導で情報発信大国となるべきだというのは、誰が考えても当たり前のことであろう。

 

  ● 【追記】 驚くべき日本外務省のやり口


 上記の記事が 「週刊ダイヤモンド」 に掲載されてしばらくしたとき、読者の 中林恵子さん と 熊岡醇さん のお二人からお便りと資料をいただいた。 資料には、なんと正定事件に関して、「当時の日本政府は日本軍の犯行と認めていなかった」 ということが認められていた。

 外務省が萩生田光一氏に渡した資料には、「『昭和14年2月28日現在、支那事変に関連する在支第三国 (英米を除く) 財産被害調査表』 には、9名は 『満州軍により殺害』 との記述」 がなされていると書かれている。 満州軍、すなわち日本の支配下にあった軍の犯行だという説明である。 ただし、女性200人を要求したということではないという説明ではあったが、日本側が殺害したことは認めるものだった。 取材の結果、私はそのように記事に書いた。 ところがそれは事実と異なっているというのだ。


中林、熊岡両氏提供の資料の第一は、1938(昭和13)年2月13日付の日本大使館・森島参事官が北京のフランス大使館のフランシス・ラコステ氏に宛てた書簡である。

 そこには正定事件について、「(犯行は支那敗残兵の残党が犯人であるとの) 推測を覆す証拠は見つからなかった。 日本政府は本件及び占領地で起こったすべての件について責任を取りかねる」 「しかしながら、東洋の平和と秩序を望む日本政府は同様の高貴な使命に身を捧げた宣教師の方々が、日本軍が戦った地で不運に見舞われたことに深くお悔やみを表明する。 日支戦闘の最中にこのような不幸が発生したことに心より遺憾の意を表明する」 と明記されている。

 日本側の哀悼の意を表するために日本軍が追悼ミサに代表を送り、供花したこと、被害者への同情を表すために弔慰金を送ることなども、森島参事官の書簡には明記されている。 日本政府は明確に、犯行は中国側の敗残兵によるものであり、日本軍は関わっていない旨を伝えたのだ。


 さて、この書簡に対して、同年4月6日にフランス大使館から日本大使館に覚書が届いた。 それについて 「外務省欧亜局第二課」 が翌1939(昭和14)年2月28日付のまとめで次のように記している。

 「(昭和)13年4月16日付仏大使館覚書を以て本件に関しては今後何ら問題を提起せざる旨、申越」

 
 これが中林、熊岡両氏に送っていただいた第2の資料だ。 フランス側は森島参事官の書簡を受け取り、反論なしに、今後この件を問題にすることはないと書いてきた。 つまり、正定事件は日本軍による犯行ではないと、フランス政府も認めていたのである。


 だが、萩生田氏の 「調査せよ」 との指示を受けて、外務省が2016年2月にまとめた資料には前述のように、満州軍の犯行だと明記されていた。 加えて外務省は、当時の「タブレット紙による詳細な記述」として、「日本の当局は、徹底した捜査を行った結果、これら宣教師は正規軍の日本兵 (Japanese soldiers of the regular army) によって殺害されたとの結論に達した」 などの情報を合わせて萩生田氏に渡している。 当然、読む側は犯行は残念ながら日本軍によるものだったと思うだろう。


 外務省が政治家を騙したと言えば言い過ぎであろうか。 憎っくき人々である。

 日本軍が殺害したのではないと、当時の外交官がきちんと説明し、フランス政府も納得していたことを、なぜ、現在の外交官らは事実を曲げて日本国をおとしめるのか。 このような外務省は許せないと、心底、思う。

          櫻 井 よ し こ

  (『週刊ダイヤモンド』2016年2月20日号の記事に加筆修正)








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