《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「侵略戦争」の真実を知りたい (3244)
日時:2016年08月12日 (金) 13時00分
名前:童子

ダイヤモンド・オンライン 8月12日(金)11時0分配信

    終戦の日の前に知りたい「侵略戦争」の真実


8月15日は終戦の日。今年は戦後71周年にあたる。 昨年発表された首相談話の際にも、さまざまな議論があったが、そもそも私たちはこの戦争をどのように捉えるべきだろうか?  マスコミで報じられているような「たった1つの戦争」という見方は正しいのだろうか? 

 この考え方について、人気ジャーナリスト・櫻井よしこ氏の最新刊 『凛たる国家へ 日本よ、決意せよ』 の中から紹介していこう


● 日ソの戦いは日本の侵略か

 8月になると、どの人の胸にも広島、長崎、2つの都市を襲った悲劇が映像としても、人々が背負った苛酷な運命の物語としても、蘇ってくることだろう。 広島、長崎の前には東京、神戸をはじめ、多くの都市が空襲を受けた。業火に焼かれた人々の無念を忘れてはならないとしみじみ思う。

 昨年の8月14日、安倍首相の戦後70年談話が発表された。 その中に「侵略」の文字をどうしても入れるべきだ、あるいは入れるべきではないという議論が続いていた。 民主主義の国である以上、主張や意見が分かれるのは当然のことだ。 そこであの大東亜戦争をどのように考えたらよいのか、一緒に考えてみよう。


 私は大東亜戦争についての考え方の基本を田久保忠衛氏に教わった。 氏は大東亜戦争が3つの戦争から成り立っていると認識することが大事だという。1 つめの戦争が日中戦争、 2つめが日米戦争、 3つめが日ソの戦いだ。

 それぞれみんな性格が違う。 性格の全く異なる3つの戦争を「侵略」という2文字でくくってしまうのは適切ではない。 侵略という言葉がいかにあてはまらないかは、3つめの日ソの戦いを振り返れば明らかだ。

 当時、日ソ間には日ソ中立条約があった。 同条約は1946(昭和21)年4月まで有効だった。 ところが、ソビエト側はこれを一方的に破り、日本に攻撃を仕掛けてきたのだ。

 1945(昭和20)年8月9日。すでにその3日前に広島に原爆が落とされ、長崎に原爆が落とされるその日をめがけて、157万人のソビエト軍が、一斉に嵐のように南侵した。 日本にとっては驚愕以外の何ものでもなかった。ソ連の裏切りである。

 日本政府は中立条約の相手国であるソ連を信じて、アメリカをはじめとする連合国側との停戦を斡旋してくれるように、最後の最後までソ連に頼み続けていたからだ。 日本国政府の意図をソ連は十分に知り、仲介するふりをしながら、日本を騙して、8月9日に突然攻め込んできたのである。


 このあたりの事情について詳しく知りたい方は、2015年8月9日付の「産経新聞」1面トップの記事を読まれるとよいだろう。 編集委員の岡部伸氏がイギリス立公文書館の極秘文書をスクープしている。

 ソビエトの対日参戦は宣戦布告なしの参戦だったことが詳報されている。 日本政府がソ連の宣戦布告を知ったのは日本時間の8月9日午前4時、すでにソ連兵の武力侵攻開始から4時間が経っていた。 日本政府が正式な宣戦布告文を受け取ったのは8月10日午前11時15分、ソ連侵攻開始から35時間以上が過ぎていた。

 日本の真珠湾攻撃は宣戦布告の文書が一時間遅れたために、卑怯な攻撃だと強く非難されてきた。 ソビエトは国際条約である中立条約を破った上に、宣戦布告もなしに日本を侵攻したわけだ。

 日本侵攻は60万人に上るシベリア抑留者の悲劇に加え、満州在住の210万人の日本人、とりわけ女性と子どもたちにとって地獄のような悲劇をもたらした。 北方領土はそのときから今日まで、ソ連によって不法に奪われたままだ。

 このことも含めて大東亜戦争がある。 大東亜戦争を「侵略」の2文字でくくることがいかにおかしいか、このことからだけでも、理解できるのではないだろうか。


● マッカーサーの証言

 アメリカとの戦争はどうだろうか。

 占領軍を率いて日本を7年弱も統治したダグラス・マッカーサーがアメリカに戻ってアメリカ議会で証言している。 日本の対米戦争は自衛のための戦争だった、と。

 日米開戦の前の段階で、フランクリン・ルーズベルト米大統領がすでに日本の暗号を読んでいたのは、歴史の事実として確立されている。 アメリカだけでなくイギリスも、日本の暗号電報を解読していた。

 そうした中で、日本がいかに戦争を回避しようと努力したか。 

 日本政府の考え方を察知したグルー駐日米大使の戦争回避努力とは対照的に、アメリカ政府は戦争を望んでいた。 日本のメディアも世論を煽り、軍部も戦争に向かって突き進むかのようだった。

 ルーズベルト大統領はヨーロッパの戦争に参戦したいと熱望し、当初、ドイツを挑発した。 ドイツに対米戦争を仕掛けさせて、ドイツへ反撃する形でヨーロッパの戦争に参戦しようとしていたのだ。

 このあたりは、アメリカ歴史学会の会長を務めた チャールズ・ビーアドの『ルーズベルトの責任[上・下]』 (藤原書店) に詳しく書かれている。

 ドイツが思うように挑発に乗らなかったとき、ルーズベルトは日本をターゲットにし始めた。

 アメリカで日本人がいかに排斥されたか。 日本を孤立させるために、ほとんどアメリカに頼っていた資源がどのように輸出禁止にされたか。 アメリカの日本に対する締め上げは、まさに苛烈だった。

 そうした中で日本は活路を拓くため、やむなく戦争に踏み切ったのではないだろうか。 戦争に踏み込んだ日本は愚かだったと、私も思う。 対米戦争は絶対にすべきではなかったと強調したい。 しかし、これが侵略のための戦争だったとは、私は思わない。 マッカーサーが議会で語った 「自衛戦争だった」 という言葉が真実に近いと考えている。


 ● 日中戦争を考える

 次に日中戦争である。 日本軍を中国に送り込んだこと自体が侵略だという人がいる。 日中戦争は満州事変から始まったのであり、そのときから1945(昭和20)年まで、日本はずっと中国を侵略し続けたという人もいる。

 日本はたしかに満州事変を起こした。 この満州事変をどう見るべきかについては、非常に勉強になる報告書がある。 当時北京にいた米公使のジョン・マクマリーの報告書だ。

 マクマリーは、なぜ日本が満州を攻撃したかについて立派なレポートを書いた。

 日本が引き起こした満州事変を、彼は厳しく非難しながらも、「満州事変は、中国が自ら撒いた種を刈り取っているようなものだ」 と書いている。 そのような分析の背景を理解するには、約10年ほど前まで遡り、ワシントン会議のことから掘り起こさなければならない。

 1920(大正9)年から翌年にかけて、アメリカの首都ワシントンで海軍軍縮会議が開かれた。 結果として、ワシントン体制と呼ばれる世界秩序が一応はつくられた。 そのポイントは、ヨーロッパ諸国もアメリカも日本も、これ以上中国を侵略せずに現状維持でいくということだ。 そのためにも、いま結ばれている条約、契約、決まり事を関係諸国がきっちりと守るという合意でもあった。

 現状維持なのだから、中国はもうそれ以上の侵略を受けないという理屈だ。 日本はこのいわゆるワシントン体制に忠実に従った。 しかし、従わなかった国が1つだけあった。 中国である。 当時の中国はありとあらゆる形で日本を挑発した。 抗日運動をし、日本人を殺害し、契約を破り続けたのである。

 このことをつぶさに見ていたのが、北京にいた米欧諸国の外交官だ。 その筆頭がアメリカ公使のジョン・マクマリーだった。彼はざっと以下のように書いている。


 「日本が満州事変を起こしたことを非難する。 しかし、原因をつくったのは中国である。 他の国々と較べて、日本がワシントン体制を守ろうと最も誠実に努力してきたことは各国の外交官全員が認めるところだ。 一方、中国は日本を挑発し続けた。 日本は耐えかねて、ワシントン体制に合意した米欧諸国にワシントン体制の見直しを申し入れた。 しかし、米欧諸国、とりわけアメリカ政府は中国側に立って日本の要請を無視した」


 以上のように書いて、マクマリーはアメリカの判断は間違いであると断じ、次のように結論づけている。


 「米欧諸国が中国の横暴な振る舞いを黙認する中、日本は満州事変に踏み切った。 満州事変そのものは日本に責任があるが、そこに至る過程を考えれば、事変そのものは中国が自ら撒いた種を刈り取っているようなものだ」


 当時の米国務省の主流は親中派だったため、アメリカ随一の中国専門家と言われたマクマリーのこの報告は無視され、放置されてしまった。


 こうしたことを考えると、日中戦争の評価の難しさを痛感せざるを得ない。 だからこそ、私たちはもう一度、歴史について学んでみることが大切だと感じている。

 ちなみに、どんな本を読めばよいのか。

 推薦するとしたら、私はジョン・マクマリーの 『平和はいかに失われたか』 と、国際連盟のリットン調査団報告書を渡部昇一氏が解説した 『全文リットン報告書』 の2冊をお薦めしたい。


 ◎『平和はいかに失われたか ―― 大戦前の米中日関係もう1つの選択肢』 
  (ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー/原著、アーサー・ウォルドロン/編著、 原書房)


 ◎『全文リットン報告書』 (渡部昇一/解説・編、 ビジネス社)



 (「言論テレビ」コラム 2015年8月10日号に加筆修正)

櫻井よしこ


【上海事変】 は中国の侵略行為 (3248)
日時:2016年08月12日 (金) 20時25分
名前:アクエリアン

【上海事変】 は中国の侵略行為
http://kenjya.org/syanhaijihen.html

●【上海戦】
蘆溝橋事件から通州事件にいたる一連の事件をめぐる和平交渉が、8月9日上海で予定されていた。
ところがその直前、大山勇夫海軍中尉と斎藤嶼蔵一等水兵が、支那の保安隊により虐殺された。
支那側は、大山が撃ってきたから仕方なく反撃したのだと主張した。現場には一支那兵の死体が横たわっていた。しかしその死体は前から撃たれたものではなく、背後から射殺されたことを示していた。つまり、前方の大山ではなく、背後の中国兵によって殺されたのだ。

●大山虐殺事件は、和平交渉を棚上げし日本を戦争に引き込むための挑発であった。というのは、蒋介石が対日戦を決意したのは、その2日前の8月7日であったからだ。
目的は、国際都市上海で日中戦争を引き起こし、外国人の目に焼き付け、否応なしに国際問題を頻発させることであった。(蒋がそのようにもらしたことを、フランス人特派員エドアール・エルセイの「支那事変観たまま」が紹介している)

●当時の上海は、支那随一の大都会にして国際都市であった。40余ヵ国の人々が租界(外国人が警察権と行政権を有する)に住んでいた。日本20,522人、ロシア11,279人、英国9,243人、米国3,809人、フランス1,647人、ドイツ1,838人(これらの国は上海に軍隊を駐留させていた) 
このように日本人ビジネスマンが多くの欧米人に交じって商業活動を行っていた。さらに蘆溝橋事件の勃発により、揚子江上流から上海に引き揚げてきた日本人の数は、2万2千人にのぼった。

●そうした中、蒋介石は上海の非武装地帯に、コンクリートで強固に構築したトーチカを網の目のように築いていった。その上、7月12日に広汎な動員令を発令した蒋は、上海に10個師団を急派し、3万の中央軍が日本人を取り囲んでいた。
そのため、日本は上海で衝突が起こることを危惧していた。エルセイも言うように「当初は日本の政府も軍部も交戦を回避していた」のである。
しかし上海の日本人は、いまや4万人以上にふくらんでいた。その日本人を保護する海軍陸戦隊は、わずか2,800人。このため8月11日、1,200人の陸戦隊が日本から急派された。

●日本租界を取り巻いて待機中だった支那便衣隊が、8月13日、15時55分射撃を開始した。その便衣隊に次いで正規軍も発砲してきたため、日本軍も応戦の火ぶたを切った。
8月14日にも支那空軍機が日本の領事館・陸戦隊本部・待機中の軍艦「出雲」を爆撃。また同日、国際租界にも爆弾を投下して、キャセイホテルとパレスホテルの間で死者729人、負傷者861人、交差点での死者1,012人、負傷者1,007人を出した。

…こうして日本は「支那における外国権益を渦中に引き込むを企図したる支那人に依りて、文字通り戦争に押し込まれた」(ニューヨーク・タイムズ上海駐在・アーベント特派員)のである。

●そこで8月23日、松井石根大将を司令官とする上海派遣隊が派遣された。
しかし、上海の日本軍は苦戦を強いられた。(死者15,000人)そのため新たに第10軍を増員。苦戦の原因は…
 ①蒋は支那随一の精鋭軍を上海方面に動員した。その兵力70万。日本軍はその一割程度の7万。
 ②上海のトーチカ構築を指揮し、蒋軍を訓練していたのはドイツの軍事顧問団。

●しかし日本軍は、蒋軍の防備の手薄であった杭州湾から北上して、北に60㎞の上海を背後から衝いて、11月9日に陥落させた。これに前後して70万の蒋軍は上海から四散した。その一部が南京に退却したが、その兵力は不明。

●そのため日本軍は支那の度重なる挑発に業を煮やし、首都・南京の占領を決意する。(首都を押さえれば終わると考えて)
《藤岡信勝 東中野修道 「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究 中国における「情報戦」の手口と戦略」》

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●1937年、蒋介石の上海市における侵略開始によって、日支戦争が始められた。侵略者が司令部所在地を爆撃され占領されても被害者面はできぬ。中共はシナの正式継承政体だと自他ともに認める以上、シナ事変について日本に何度も謝らねばならぬのは、北京政府の方である。断じて逆ではない。
                  《兵頭二十八 正論2004/12月号》

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●大山中尉惨殺事件なんか、ひどい。殺して死体をバラバラにして、それを道端にカカシみたいに立てて、口の中にペニスを突っ込んで…というようなもの凄い挑発行為をやっていた。
それでまた日本の世論が沸騰して、「やっぱり断固戦うべし!」となっていく。 
              《小林よしのり 「本日の雑談〈6〉」 他の著書「戦争論」》

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●とにかく中国の抱いていた計画は、国際干渉を招くことによって日本を打ち負かし卑しめることだった。1937年7月の北清事変の時、南京政府は上海地域(列強の利害が集中している)でも戦いが起こるように慎重に徴発した。

●1937年8月12日夜明け前、中国軍大部隊は上海まで前進し、国際租界の日本人居留区域に包囲攻撃をしかけてきた。

●米各紙の報道…
 ◇ニューヨーク・タイムズ(1937年8/30)…「日本軍は敵の徴発の下で、最大限に抑制した
  態度を示し、数日間だけでも全ての日本軍を兵営の中から一歩も外出させなかった。
  ただし、それによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが」

 ◇ニューヨーク・ヘラルドトリビューン(1937年9/16)…「北支での戦闘に外国列強諸国が
  殆ど注意を払わないでいた間に、中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは、
  疑う余地が無い」

 ◇ニューヨーク・タイムズ…「中国軍は、外国人の居住している地域と外国の権益を、この
  衝突の中に巻き込もうとしていた」
              《K・カール・カワカミ 「シナ大陸の真相 1931‐1938」》 

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●当時の客観的な事実を比較検討してみると、こと「上海戦」に関する限り、蒋介石の方から積極的に攻撃を仕掛けてきたことは、ほぼ間違いない。この「どちらが仕掛けたか」については蘆溝橋とは違って、1980年代以降に中国で出版された本の多くは「上海戦の第一発は中国軍から行われた」と記述されている。中には「88師の易瑾営が最初に発射した」と具体的に名前まで書いてあるものもある。

●また大山事件も、50年近くも経った1987年、中国文史委員会が出版した「8・13淞滬(上海)抗戦」では、「ここで日本側に見せた死体は、実は上海で死刑が確定し処刑された囚人である史景哲をそこに連れてきて、大山中尉が撃ったように見せかけたのである」と記述されている。
     《鈴木明 「新『南京大虐殺』のまぼろし」 他の著書「「南京大虐殺」のまぼろし」》

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●華中を戦場としたのは蒋介石の戦略である。日本軍が北平(北京)から南下すると、首都南京は袋のネズミになって撃滅されてしまう。そこで日本軍の主力を南東の上海に誘導した。その間、蒋軍は大陸を西へ西へといくらでも後退でき、そのうち日本軍は消滅してしまう。(その通りになってしまった) 
  ①7月中旬から上海への軍隊集中を顕著にした。(約12万名)
  ②中国保安隊が夜間演習を行うなどして緊張を高めた。
  ③中国保安隊が大山中尉と水兵一人を射殺した。→これで上海の均衡が破れた。 
       《田原総一朗 「日本の戦争」 他の著書「誰もが書かなかった日本の戦争」》

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●そもそも国家には、国民の生命と自由を保護する義務がある。帝国憲法下でもこのことは同様で、だからこそ在外邦人の保護は内閣の命運を左右しかねない重要な問題として取り扱われてきた。
        《江藤淳 「日本よ、何処へ行くのか」 他の著書「閉された言語空間」》

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●第二次大戦は1939年にヒトラーがポーランドに侵攻して始まったのではない。1937年の支那事変から始まったのだ…とエドウィン・ライシャワーは自著「ライシャワーの日本史」で説いている。そのライシャワーはしかも、1937年8月13日の蒋介石による帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃こそが、日支事変開戦の日であったと認識している。
当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は、多めにみても5千人。対する国民党軍は、すでに無錫・蘇州などに25万人以上が待機していた。(7月7日の「蘆溝橋事件」は、いわば街頭の喧嘩にすぎない。ヤクザの銃撃抗争と国家間の戦争を一緒にするな、との立場)
                《兵頭二十八 正論2005/8月号》

●侵略戦争とは…
 ◇条約や協定で駐留権を得ていた相手国内で、軍隊を移動させたり、そこにまた増派する
  こと、それだけでは侵略戦争を構成しない。
 ◇動員や集中、展開、開進も、侵略戦争を構成しない。
 ◇国境警備隊指揮官の脊髄反応も、侵略戦争を構成しない。  
 ◇脳内で他国を害する案を考えるのも、侵略戦争を構成しない。
 ◇ただ、国家指導部が周到に計画(作戦計画)し、平時に自国軍隊をして敵国軍隊を殲滅し、
  既存の条約を蹂躙せんと決心し、下命し、発動し、実際に国境を越えたり、敵野営地を襲撃
  したり、泊地にいる敵艦を撃沈したりすることによって、侵略戦争の構成要件は満たされる。
  これであてはまるのは、蒋介石による8月13日の上海総攻撃なのである。
                  《別宮暖朗  〃  》

●7月28日に現地軍が「シナ軍追い立て作戦」を発動した。それは侵略戦争ではなく治安回復作戦である。 
                   《兵頭二十八  〃  》

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(アクエリアンコメント)
某教団の某法統継承者氏は、日本軍が中国に駐留していたことが、そもそも国際法の見地からみて、日本軍の侵略なのである、という論理を展開していなかったですか。どうもそういう記憶があるのですか・・・・・。恐ろしく、幼稚な、幼稚園児なみの論理だと、苦笑していたのですが、もう、憲法論から始まって、宗教論、歴史認識論、メチャクチャですね。

まだGHQの洗脳に縛られている日本人 (3259)
日時:2016年08月14日 (日) 13時21分
名前:アクエリアン

ケント・ギルバート氏著「まだGHQの洗脳に縛られている日本人」

内容紹介
「WGIPをご存知ですか? あなたの歴史観は根本から間違っているかもしれません」と本書の帯で謳うのは、40年近く日本に住む米国人弁護士のケント・ギルバート氏だ。
戦後占領期にGHQ(連合国軍総司令部)は、日本に施した「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」というマインド・コントロールによって日本人を徹底的に洗脳し、「愛国心」と「誇り」を奪った。それから約70年、日本人はその洗脳にいまだ縛られており、それに乗じて近年では中韓の反日工作が凄まじいが、それらがとんでもない捏造であり、悪質なプロパガンダにすぎないことを確信した著者は読者に、こう強く訴える。〈一方的な「嘘」や「プロパガンダ」に負けないでください。そして、今こそ日本人としての「愛国心」と「誇り」を取り戻してください。そのために必要な「知識」を学び、それを堂々と主張できる「勇気」を持ってください。〉
全日本人、必読!


米国人弁護士のケント・ギルバート氏による、東京裁判史観にいまだに呪縛されている日本人へのメッセージだ。

現在の生長の家教団は、開祖谷口雅春先生の歴史認識は間違っているという見解であり、大東亜戦争侵略論の立場である。

しかし、この書を読めば、いかに、現在の教団の歴史認識、歴史観は間違っているのか、ということが、理解されてくるのではないか。

戦後、GHQの洗脳を解く、という愛国運動を行ってきた生長の家教団の立場からすれば、このケント・ギルバート氏の著書を世界聖典普及協会で取り扱い、大々的な頒布活動を行ってもいいはずだ。

しかしながら、トンチンカンな教団トップは、なんと、ケント・ギルバート氏と同じ歴史観に立つ、「日本会議」批判の書「日本会議の研究」の頒布活動を行っている。

いまだに、教団トップの大東亜戦争侵略論を信じている信徒の方は、一刻も早く、ケント・ギルバート氏の本を読んで、本来の生長の家の歴史観に立ち返ってもらいたいものだ。

「日本は満洲を中國から奪った」「日本は満洲を侵略した」というのは全くの嘘出鱈目である (3285)
日時:2016年08月20日 (土) 08時21分
名前:アクエリアン

四宮正貴氏のこの記事はなかなか日中関係近現代史の勉強になります。
倉山満氏は、日本が謝罪するとしたら、満州を暴力団である中国共産党に取られてしまったことにある、と述べているが、まさに至言だと思います。この満州が五族協和の理想国家として繁栄していたら、世界の歴史も大きく変わっていたことだろう。朝鮮戦争の悲劇は起きなかっただろうし、戦後の北朝鮮による拉致事件も起きなかっただろうし、何よりも、人類の大きな悲劇の一つである、中国共産党がシナ大陸を支配することを防げただろうし、チベットやモンゴル、ウィグルに対する侵略は起きなかっただろうし、大東亜戦争の目的の一つであるアジア民族の解放が実現されていただろう。

2016年8月19日 (金)
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2016/08/post-0c7d.html
「日本は満洲を中國から奪った」「日本は満洲を侵略した」というのは全くの嘘出鱈目である

満洲建國は断じてわが國の侵略ではない。侵略とは、「他國の支配下の土地等を、侵入して奪い取ること」と定義される。しかし、満洲は本来的に支那の領土ではない。また、満洲は独立主権國家ではなく諸民族が混在する無主の地であった。・・・・・・・




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