| 谷口雅春先生が 「生長の家」 の信仰と思想を創(ひら)かれるまでの、先生の心の歴史が録されている『聖道へ』を拝読しましょう (3127) |
- 日時:2016年08月02日 (火) 14時16分
名前:コスモス
「愛国本流掲示板」より転載させて頂きます。
今日は2年ぶりに大阪教化部に行った。 書籍売り場には下記の三点が堂々と置かれている。 ①『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(中島岳志・島薗進 著) ②『「憲法改正」の真実』(樋口陽一・小林節 著) ③『日本会議の研究』 (13962) 日時:2016年08月01日 (月) 10時08分 名前:志恩 山ちゃん1952様ブログより
2016年07月31日
〝『限りなく日本を愛す』『聖道へ』と左翼書〝
今日は2年ぶりに大阪教化部に行った。
書籍売り場には下記の三点が堂々と置かれている。
①『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(中島岳志・島薗進 著)
②『「憲法改正」の真実』(樋口陽一・小林節 著)
③『日本会議の研究』
谷口雅春先生関連の書棚には『限りなく日本を愛す』がある。 『聖道へ』がある。
なんとも言われない気持ちが奥深くに沈んだ。
なんとも言われないというのは
全く 真逆な本が 書籍売り場に 置かれてある ことである。
どうして反対できないのであろうか?
己の良心というのはなんだったんであろうか? 生長の家を一生に捧げて貫こうという気持ちが折れてしまったのか。
とりわけ教化部長の久利さん。恥ずかしくないのかこんな書物を置いて… 私の先輩でもある久利さん。
雅春先生が歩まれた道をもう一度勉強して欲しい。 本当に勉強すればこんな本は置けないはずである。
役員を集めてどうして決起しないのであろうか?
今の生き方は「生長の家」の生き方ではない。 単なる背教の総裁の尻尾に付いている紐ではないだろう。
色々な人にそんな思想で講話したらダメである。
私の知り合いでも子供が幼いからまだ辞めること出来ないと 我慢しながら奉職されている。
子供のことを考えるとそのまま職を続けたほうがいいと勧めた。 だが彼は3年後には辞めるという。 生長の家に一生を捧げた人が多いが決起して欲しい。
『聖道へ』は一篇は大正11年8月末であったが、 その後控訴院の要望で『お筆先』『大本神諭』に不敬罪に当たる箇所が ないかチェックするために依頼され、約40日間その作業に追われる。
その後東京へと引越しするが当初「東亜公論」という会社へ入社したが 半月でやめられ、11月中頃から再び残りお9篇を1ヶ月半で完成させ 『聖道へ』という本を出版されるのである。
若き日の谷口雅春先生の「生長の家」の確立のための御本である。
以下は、私の尊敬してやまない阪田先生の言葉がある。 それを掲載させていただきます。
【 生長の家長崎北部教区教化部長 阪 田 成 一】
「青少年時代の読書の種類によってその人の将来の運命を決することにもなる」 とは、よく言われることですが、私にとってもまさにその通りでありました。
中学3年生の時に手にした、谷口雅春先生の著書である 『限りなく日本を愛す』 と 『聖道へ』 は、 今の私へと導いてくれた掛替のない書物です。
昭和35年5月、未だ祖国日本に復帰されていない沖縄に行く機会を 与えられました。
私の出身県である兵庫県の坂本勝知事が 「沖縄へやまびこの鐘を贈る運動」 を提唱され、 県下一斉に1円募金が展開されました。
兵庫県民の真心をこめて贈られた “やまびこの鐘” の鳴りぞめ式に 子供の代表として沖縄に行くことになったのでした。
その際に訪れた先の戦争の大激戦地であった南部の戦跡、 とりわけ若きいのちを祖国防衛のために捧げられた人々を祀る “健児の塔” と “ひめゆりの塔” に詣でて、
その時聞いた数々の悲話に、当時の私は強い衝撃を受けました。
終戦の年に神戸に生まれた私は、こうした祖国の防波堤となって下さった 人達がおられたからこそ、 自分がこうして生きてることが出来るのではないかとその時気づいたのでした。
沖縄から帰った内地では、日米安保条約の改正をめぐって、 日本全体が安保反対の赤旗に埋まり、文字通り革命前夜の騒乱の場と 化したあの “60年安保闘争” が、激しくなろうとしていました。
そうした中で、明石で戦前より熱心に 「生長の家」 の活動をしていた 伯母の書棚にあった 『限りなく日本を愛す』 の御本に出会ったのでした。
中学生の私にはとうてい読み通すことの出来ない難しい内容では ありましたが、題名の 『‘限りなく’日本を愛す』 という言葉が、
沖縄に行って、いわゆる日本人としてのアイデンティティに目覚めつつあった 私の心に強く共鳴したのでした。
この本との出会いによって、当時結成されて間もない 生長の家高校生連盟 〈略して 生高連〉 に入れて頂くことになりました。
因みに生高連が結成されたのは、昭和35年5月1日のことです。 神戸市の西の端にある舞子に住んでいましたが、 明石の生高連に入っていました。
生高連活動を通して、 「生長の家」 の御教えを学んで行きましたが、 その頃私達の指導をして下さったのが、 今も兵庫県で特務講師として活躍しておられる 福島正俊講師 でした。
この方より神想観をすることと、 『生命の實相』 を 読むことの大切さを徹底して教えて頂いたことは、 実に有難いことでありました。
そして素晴しい先輩にもめぐまれ、多くのことを教えて頂きました。 教化部長として活躍しておられる 森田征史さん、 中田安里さん、 亡くなられた 濱田雄作さん、 これらの方々は大学生として
高校生、中学生の育成に献身的に尽して下さいました。 私も大学生になって、先輩達のようになろうと思った人は多かったに 違いありません。 私もその中の一人でした。
その年の年末から正月にかけて、私は、 「伊勢神宮奉仕実践練成会」 に参加いたしました。
これは昭和34年9月26日の夜半から27日にかけて、 東海地方を襲ったいわゆる伊勢湾台風によって愛知、三重、岐阜の3県は 史上未曾有といわれる大被害を受けました。
この時、日本民族のふるさとである伊勢の皇大神宮も甚大なる被害を 受けました。
神域を包んでいた樹齢何百年という杉の大木が根こそぎ倒れ、 或いは裂け、手のつけられぬような荒廃ぶりでした。
それは、日米安保条約をめぐって国論が左右に分かれ、 国民の精神が大揺れに揺れていた当時の日本を象徴している感がありました。
しかし現行の日本国憲法は、伊勢神宮を一介の宗教法人としてしまった が故に、その荒廃を国家予算をもって修復することを許さなかったのです。
こうした時、谷口雅春先生は 『理想世界』誌 を通じて 「われ愛国の青年に嘱望す」 という御文章を発表され、 それに応えて実施されたのが 「伊勢神宮奉仕実践練成会」 でした。
この練成会には全国から愛国の熱情溢るる青年たちを中心に、 生長の家信徒が続々と馳せ参じ、
遠くブラジルからも奉仕団が結成されて参加されて、 誠のかぎりを尽して復旧作業にあたったのでした。
谷口雅春先生は、とくにこの練成会のために 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 を授けられました。
それは天照大御神の大生命と一体なるわが生命を観ずるものでした。
昭和35年12月31日から元旦にかけて、 伊勢神宮の内宮の内陣の玉砂利の上で行なわれた神想観は、 私にとって終生忘れることのない尊い体験でした。
この伊勢練成会の帰り道のことです。
5月に開かれる生長の家青年会全国大会で行なわれる弁論大会の予選に出る ことを勧められ、兵庫県での予選に出場することになりました。
まだ中学生でしたから本当は出場権はないのですが 〈当時は 「中学生ジュニア友の会」 はなかった〉 4月には高校生になるというので認められました。
兵庫県の教化部で行なわれた県の予選大会で、沖縄での体験を中心に発表しましたところ、優勝してしまいました。
中学生であるということが採点に有利になったに違いありません。 その時に賞品として頂いたのが、 谷口雅春選集第7巻 『聖道へ』 であったのです。
主催者は、 よもや中学生にこの本が手渡されるとは思ってもみなかったのでしょう。
「あなたの好きな本と替えてあげよう」 と言って下さいましたが 、内容の難しい本であるとも知らず、 『聖道へ』 という
今まで見たことのない題字に、強く惹かれてそのまま頂きました。
私はその時、口には出しませんでしたが 「せいどうへ」 と読んでいましたし、むろんそれが如何なる意味であるか 知るよしもありませんでした。
どなたであったか忘れましたが、 「この 『しょうどうへ』 と言う本は、
谷口雅春先生の若き日の求道論文集で、生長の家を深く知るためには、 ぜひ読まなければならない本である」 と教えて下さり、 その時 『しょうどうへ』 と読むことを知ったのでした。
全国大会での弁論大会に出場するには、 さらに上の予選大会を突破しなければなりません。
どういうわけか兵庫県は近畿地方であるにもかかわらず中国ブロックの 予選大会に出場することになっていて、
尾道で開かれた予選大会に出場しました。
その時は春休み中で、既に高校受験にパスしていましたが、 残念ながら優勝はむろん入賞することも出来ませんでした。
因みにその時の優勝者は、後に 劇団「春の鳥」 を作り、 谷口雅春先生や谷口清超先生の戯曲を上演された 島根県代表の 青砥洋 さんでした。
ところで 『聖道へ』 を頂いた私は、 その日早速紐解きましたが、目次を見て今の自分には到底読み進んで行くこと すら困難であろうことが直に判りました。
と同時に 「生長の家」 をより深く知るために必ず読まねばならない 本であることも肝に銘じたのでした。
幸いにもその内容が少しでも理解できる機会が その後すぐにやってきました。
それは、私がはじめて参加した、その年 〈昭和36年〉 の青年会全国大会のテキストの一つが 『聖道へ』 であり、
さらに尊師谷口雅春先生が、この 『聖道へ』 をテキストにされて 「若き日の求道生活」 と題してお話し下さったからでした。
その御講話も当時の私には難しいものでしたが、 また幸いにも、この青年大会の主要な講義がのちに本として出版されたのでした。
それは 『真理は人間を解放する』 と題する本で、 これによって 『聖道へ』 の内容が少し分ってきました。
さらに有難いことにちょうど 『理想世界』 誌上でも、 『聖道へ』 をテキストにした御講義がつぎつぎと発表されてゆき、 徐々にではありますが、 『聖道へ』 の内容も、理解されて行きました。
この本を読み切ることが出来たのは、 生涯を人類光明化運動に捧げたいと決意して、
飛田給練成道場の練修生になってからで、 大学2年になる春休みに一気に読み通しました。
そもそもすべての存在は、 歴史的現実として今ここにその姿を表わしているのですから、
歴史を切り離しては、正しく理解することは出来ません。
「生長の家」 も同じであって、「生長の家」 を正しく理解するには、 生長の家が出現するにあたっての、
谷口雅春先生の信仰・思想史を知る必要があります。
この 『聖道へ』 には、谷口雅春先生が 「生長の家」 の信仰と思想を創(ひら)かれるまでの、 先生の心の歴史が録されています。
生長の家の説く有神論は、現象宇宙 〈物質宇宙〉 の創造神を、 仏教的な無明縁起によって完全に否定し去った後に、
肯定されたる有神論ですが、それに至る先生の思想の発展の過程が 『聖道へ』 に書かれています。
谷口雅春先生ご自身も 「生長の家思想の骨髄を知って貰うためには、
その思想の淵源を知らなければならぬ」 〈『佛教の把握』 “はしがき”〉 と言われましたが、
私もこの機会に自分の生涯の方向を決めた、この2冊の書物を読み直し、 「生長の家」 を正しく把握して行きたいと思います。
因みに 『聖道へ』 が出版されたのは、大正12年2月13日のことです。
私は偶然にもその初版本をふと入った古本屋で見つけましたが、 その時の感激と言ったら言葉で表わすことが出来ません。
現在それは 温故資料館 に展示されています。
谷口雅春先生は 「偶然は一つもない。 若し偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が何処かにあると云うことを 認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対する甚しい冒涜となるであろう」 〈『日輪めぐる』〉 と言われました。 私はこのお言葉を大切にして行きたいと思っています。
『生長の家』誌 昭和63年2月号より】
山ちゃん1952様ブログ http://tecnopla1011.blog.jp/archives/64471954.html
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