《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

本流宣言掲示板」「光明掲示板・第一」「光明掲示板・第二」「光明掲示板・第三

谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
この掲示板の目的
この掲示板のルール
本掲示板への書込法
必ずお読みください
管理人への連絡
重要リンク
TOP PAGE

コピペで文字に色や下線をつけて太字にする方法
 

 

『真理は死刑の鎖も断つ』  遠藤義雄先生 (2963)
日時:2016年07月22日 (金) 01時57分
名前:地湧の浄土


     真理を生き通して無罪となった戦犯死刑囚の告白


刑の確定した戦犯死刑囚が、なぜ無罪釈放となりえたであろうか。それは奇蹟にも似た話しである。

市井の一市民・遠藤義雄氏は、戦時中、海南島の海軍司政官として警察の任にあたり、

現地工作に専念していたが、終戦とともに訪れたのは、戦犯という汚名だった。

〝残虐行為〟の名のもとに中国軍事法廷より死刑の宣告を受けたが、奇蹟的にも無罪釈放となった。

その感謝に生きる著者の誠実な告白は、一つ一つが常識を超えた物語ではあるが、

その底に秘められた真実が、読者の心を強く打たずにはおかないであろう。




     は し が き


 終戦以来ここに十三年を経過致しました。然しいまだに戦犯として他国に捕われの身になっている人々もあることは誠に同情に堪えません。

私もかつては戦犯の一人であり、しかも死刑宣告まで受けたものでありましたが、既に危いところを生長の家のみ教えに救われ奇蹟的にも生還することができました。

その死刑の宣告から奇蹟的な生還に到る足どりをここに書き連ねましたが、これはもとより戦犯制度の批判とか死刑無用論とかに言及したものではなく、又、私自身その柄でもありませんので、ここには私の通って来ました不可思議ともいえる体験を飾ることなく記述致した次第であります。

これは、真実の体験記録でありまして創作ではありません。

創作のような立派な構成もなく、表現もただ事実そのままを述べただけのものでありますが、登場の人物も場所も事柄も皆事実でありますことは創作とは又異る強さをこの記述に与えていることと思います。


 ここに記述致しましたことはかつて講演したり『生長の家』誌『光の泉』誌等に発表したりしたものでありますが、各地で誌友の方々よりこれは実に素晴らしい体験だから一冊の本にまとめて欲しい、そうしたら、み教え宣布のために大いに効果があるからとの御希望がありましたので、筆不精者にもかかわらず拙文をものした次第であります。

文体も用語も法にかなわないタドタドしいものに終始していますが、戦犯審判がいかにいい加減なものであるかの一面をうかがうこともでき、又、獄中生活においてすら、かくの如くに生長の家のみ教えが素晴らしい無礙自在力を発揮して、その結果戦犯釈放となり青天白日の身となって生還することができたという真実の体験を通じて大いなる大生命の摂理を感じとっていただけると思うのであります。

この記録を完全読了していただく時必ずその方は光明を与えられ現実を打開する強力無比の力に目ざめて頂けることと信じております。真理の生きた証しとして人々におすすめ頂くよう願ってやみません。


 終りにあたって自らは死に臨みつつ私に対して神への橋渡しをして下さった故市川大尉の霊に深く感謝の意を捧げると共に白雲山刑場に散華された六十有余名の英霊に対し遙かに敬弔の意を表する次第であります。


    昭和三十四年九月


                              遠 藤 義 雄


目   次

 は し が き

思いがけぬ死刑の宣告 3

重い足枷をつけられて 6

主従別々の監房へ 9

主従悦びの再会 11

どうせ死ぬなら花々しく 13

夜 は 生 地 獄 16

よろこびへの前奏曲 19

光 天 降 る 20

真 理 の 火 柱 22

楽に死ねそうだ 26

白熱的な読誦三昧 29

生き通しの生命の悟る 32

鉄の足枷は観音様 34

真夜中の神想観 36

幼き日の母の思い出 40

獄中に展開した極楽世界 45

刑 場 の 銃 声 51

ズボン脱ぎの啓示 52

ズボン脱ぎの伝授 55

臍 あ ぶ り 59

死     相 61

『甘露の法雨』写経 62

獄中のドブロク 68

唐    紙 70

霊    夢 71

響 き 合 う 誠 74

再審のうわさ 78

お先きにまいります 80

勝利のおとずれ 81

愛のハガキ五枚 84

獄中への密輸入 89

遂に無罪の宣言 94

釈    放!! 97

夢に見たあの寺へ 100

死を前にしての懺悔 104

心打たれた人々 108

四 つ の 夢 110

心が水浴した 113

しじみ貝とり 115

仏の忠太郎 117

南海島でのことども 118

雨  乞  い 123

南 十 字 星 126

椽の下の牢屋 133

上海での生活 136

祖国日本の土を踏む 139

む す び 141



           真 理 は 死 刑 の 鎖 も 断 つ


    思いがけぬ死刑の宣告

 昭和二十二年五月二十九日午後三時頃でありました。いかめしい武装憲兵によって警戒された広東(カントン)軍事法廷の被告席に二名の日本人戦犯が立っておりました。

両名とも長い抑留生活を続けた末であり、殊に戦犯容疑者としての心労から来る疲労憔悴の果の惨めな有様はおおうべくもない。一人は年齢五十歳前後、他の一人は見かけたところ四十歳程度。

これが最後の言渡しの日に出廷した不肖遠藤と同僚中島の姿でした。


 審判長軍法審判官陸軍少将劉賢年(リュウケンネン)氏は起立して厳かに判決文を朗読しましたが、広東語なのでその内容はサッパリ判らない。通訳官陸軍大佐曹広科(ソウコウカ)氏の流暢な日本語によって判決の言渡しの内容がやっと判ったのでありました。


「遠藤義雄中島利昭は共同し、連続且つ計画的に人を屠殺し、略奪を敢てし、ほしいままに財産を破壊せるかどにより各々死刑に処す」と主文を告げる。次に告げられた判決理由には「日本軍及偽軍を使嗾し姦淫屠殺その他悪をなさざるなく公務員及無辜の同胞を逮捕殺害したること数知れず」とありました。

 その外に種々な判決理由を述べてくれたが、それらの内容はもうどうでもよい。身に覚えのない戦犯容疑ゆえ無罪であることを信じていた私どもは死刑という極刑を思いがけなく宣告されてはさすがに大いなる衝撃を感じないわけにはゆかない。

私はしばらく呆然としていましたがこれではならじと気を取り直し何とか発言しようとするが口がこわばって舌がモツレて声が出ない。

過度の緊張のためか口中はカラカラに乾いて舌が廻らない始末。やっと勇をふるい起して、

「軍法官!只今極刑の宣告があったが、それを黙って受けることはなりませぬ。
貴官は〝死刑だ、死刑だ〟といとも簡単に言渡されたが、死刑の宣告ともある以上は確たる証拠を収集されたことと信ずる。
私は検察官の尋問、並に予審、公判を通して証拠を要求して来ました。私を死刑に処する人的、物的の証拠がある筈だ。
それを見聞させていただきたい。若しその証拠が無ければ裁判は無効である。どこの世界に証拠のない裁判がありますか」と発言をすると、

「証拠証拠と君は言うけれどもお前だって犯罪をおかさない、人殺しをしないという証拠を一つも出していない。この反証を出し得ないということはその犯罪を侵した証拠になるのだ、これが何よりの証拠だ」との答え。

「そんな馬鹿気たことが。それは証拠にならぬ。人を処罰する以上積極的な証拠が必要だ。そんな出鱈目な裁判に服従の義務はない。」

「服従しなくとも職権を以って服従させる。」

「では勝手にし給え」

ということで終り。


 その後、警戒の中国憲兵との小競り合いから身に数カ所の擦過傷を受け、その残念さはけだし筆舌には尽しがたい。敗戦国民なるが故に涙をのまねばならないのか。正に忿懣やるかたなき思いでありました。


 その日からもう死刑囚あつかいで、そのまま戦犯容疑者拘置処に帰還を許されず、小生も中島とともに軍事監獄に投獄されたのであります。


 送られる途中でも全くひどい目に会いました。トラックはないとかで徒歩で行ったからたまらない。

広東の悪童どもの好餌となり礫のお見舞で全く泣きっ面に蜂とは本当にこのことか。顔といわず頭といわず小石が飛んで来る。その時の顔は傷だらけの顔面、ザンバラ髪に無精髭、その上怒り心頭に燃えた誠に二目と見られぬ惨憺たる相貌であったことと今にして想像するしだいです。


    重い足枷をつけられて

 警戒の憲兵に護送されその日の午後四時頃軍事監獄に着きました。憲兵と看守との間で犯人の身柄引受渡しが行われ小生は六九七、中島は六九八の番号を貰いましたが「何とでもしゃあがれ」という捨鉢な心を処理しようすべもなくただぶちまけるところもない忿懣の情に身内をゆすぶられ続けているのでした。

身体検査と称して五人の看守達は素早い手つきで、時計や万年筆その他の品々を我々の身体から彼ら各人の懐中へと移動させた。アッという間のことで全く彼らの慣れた手際のよさには驚きあきれかえった次第。

それから獄内の理髪屋に案内してくれた。戦犯容疑者として捕えられてから、髪もひげも伸び放題。まるで鐘馗(しょうき)様のような恰好。殊に悪童群による投石命中で顔も頭もところどころが破れて血が流れ、あるいはミミズばれとなって軍服も鮮血で点々と汚れている。

今迄鏡もろくに見たことがなかったが、この理髪屋の鏡中にこの無惨な自分の姿を発見した瞬間は思わず叫び声を上げた程自らの姿に驚いた。これは惨酷だ、いや情けない。鏡を見詰めていられない位でした。

どっと出る涙で眼がかすんで見えない。そのまま目をつむったが、これがかつての海軍司政官、臨時政府警察顧問遠藤義雄の姿か。変わればかわるものだ。この有様を家族達が見たとしたらどんなに嘆き悲しむことであろうか。そう思うと心の中で男泣きに泣かずにはいられませんでした。

 さんざん髪もひげも伸び放題なので理髪屋に案内されたのは有難かったが、この理髪屋が正に天下一品、娑婆にはない理髪屋です。尤(もっと)もここは地獄の一丁目ですから、地獄独特の理髪屋がいてもいい筈ですが。勿論剃刀で剃るのですが、石鹸などという貴重品は使用しません。只の水を頭のアチコチ、ひげのアチコチにつけまして、しかも、特選の何年に一度位しか磨かぬような切れ味の悪いお粗末な剃刀で、ガリガリガリと仕事を進めるので、剃って貰う者は堪えられたもんじゃないです。

「痛いっ!」と叫んでも、言葉が通じないんですから平気の平左で「フギァフギァ」つまり「黙っていろ」という意味なんでしょう。両手で私の頭を邪慳にゆさぶる始末です。健康体でも痛いのに当方は石を投げられて顔も頭も傷だらけですからたまったものじゃないです。しかし理髪屋の方は少しもそんなことを計算に入れてくれる気配はない。

しかも頭の髪の毛と顎のひげとを一緒に剃り下げるという天才的技術です。バリバリバリバリと一気に髪とひげとを剃り落として、本人の方は名人気取でいるのかもしれませんが被害者たる戦犯一同こそ大迷惑です。彼氏の方は他人の痛さなんか三年続こうが、五年続こうが平気の平左といった顔つきで、つぎつぎとツルツルの坊主頭を制作して行きます。


 ここがすみますと、再び看守に連行されてある部屋に到着しましたが、ここは「足枷」と呼ばれる鉄製の鎖を脚にはめるところでした。大小さまざまいずれも新製品です。左右両足に鉄環をはめられました。その左右の鉄環の間は鉄製の頑丈な鎖で連結されてありました上、その足枷は一貫五、六百匁もあろうと思われる重さですからこれを足で持ち上げて歩行するのはなかなか容易なことではありませんでした。

「ああひどい物をつけられたなあ」と忿懣のあまり何でも、かんでもたたきつけてやりたいような衝動にかられました。「万事休す、万事休す」と、中島君と顔見合せあってお互にニヤーッと唇だけのわけの判らないやけくそな笑いをうかべたことでした。


 看守にうながされたので立ちあがって歩行しようとしましたが足鎖が重くて歩けない。それを無理矢理引きずるようにして二階に昇る階段迄来た時には既に足首の皮膚が破れて血が滲み出ている。

「こりゃあたまらん」と思った。

鎖の長さが階段の一段の高さより短いのでそのままでは昇れない。両手をついて匍匐(ほふく)して上ったがその四つばいのみっともない自らの姿に

「あァいっそのことこんな侮辱を甘んじなければならないなら、舌でも噛み切って死んだ方がましだ」とさえ思い悲憤の涙で一杯。

二階へついたら先に投獄された日本戦犯の人々が「誰れが入獄したのか」と両側の監房の覗窓からのぞいているのです。お互いにパチパチと目と目で挨拶を交すのがやっとでした。


『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(2) (2980)
日時:2016年07月22日 (金) 14時29分
名前:地湧の浄土


      主 従 別 々 の 監 房 へ

 そこへ雲突くような六尺豊かのしかも人相暴悪、眼玉のとび出た看守(後で判ったのですがこれは有名なデメ金看守長と呼ばれる男でした)が来て、第七号監房の鉄扉を開けて私にはいれと促す。

どうも様子では中島君は自分と一緒ではなく第八号らしい、「ハハァこれは別々の監房に投獄されるのだな」と咄嗟の間に気付いた二人はさっと堅く両手を握り合い。

「親父さんシッカリして下さいヨ」

「君も確かりせいヨ」

と言い合いましたが、この挨拶もこれが今生の別れかと思うと涙で目もかすみ、声もかすれて満足にはできない。せめて殺されるまでの間同じ監房で暮したいとの切なる願いもこれで断たれたのか、もはやすべてが万事休すだと思われて眼前が暗くなるようでした。

 入りますと私の第七号には既に二人の先輩がいました。懲役五年と七年の戦犯でした。此の人達は有期懲役でしたから脚は鎖はつけられていない。同監者で鎖のあるのが私だけとなると実に面白くなくて、この人達をさんざん鬱憤をはらす材料にしたわけで、今にして思うと誠に申訳ないことでした。

 一日に朝と夕に二回の点呼がありましたが、一度朝の点呼の時にチョイと失策したのをとり上げられてデメ金看守長にしたたか靴で蹴られてからはもう絶対に点呼に出ないことに致しました。

「明日にも死刑に處せられるのに点呼とは何事ぞ馬鹿馬鹿しい」と突っぱねていたので看守連中に憎まれてよく殴られたり蹴られたり、なま傷の絶えることなく、それでも「どうせ死刑だ、暴れるだけ暴れてやって殺されるのだ」とばかり頑張っていました。

 広東というところは暑いところです。しかも六月が一年中で一番暑い時節なのです。まだスコールが来ませんから、その暑さは猛烈を極め、殊に死刑囚監房というものは、赤煉瓦に鉄の扉、高い所に小さな換気窓らしいものが一つあるだけという部屋ですから素ッ裸でジッとしているだけで汗がタラタラと流れます。

毎晩の温度は三十四、五度あったでしょう。それに蚊と南京虫に攻め立てられて、全く安眠などとろうにもとれぬ生活でした。生きながら地獄とはこのことでしょう。外から肉体は苦しめられる上内なる心はムカムカして人を憎み怨んで、「死刑になったのはみんなほかの人達のおかげだ。殺されたらバケて亡霊になってやる。覚えておれ!」といった調子で誠にも地獄そのままの生活をしていたのです。


     主 従 悦 び の 再 会

 入獄してから一週間目のこと、中島君が入られていた第八号室に同監中の某大尉が死刑を執行された日です。夕食一寸前でした。

例のデメ金看守長が「ギイーッ」と鉄扉をひらいて第七号室にはいって来たので、
「コイツ奴、又殴るか蹴っ飛ばすために来たのだな」と早合点して身構えていましたら、そうではない様子です。

野球のグローブのような大きな手で私の肩先きをムンズと摑んで「フニァフニァ」と叫んで顎でしゃくって外に出ろと促します。

殺しの呼び出しかとハッと思ったが、時間が丁度四時に近い頃でしたので、まあまあと安堵の胸をなで下して、廊下に出てみると隣房の第八号室の鉄扉が開いていてデメ金は「フニァフニァ」と叫ぶなり私を押し倒すように八号室に押し込んで、入ると同時にガチャガチャと鉄扉の鍵をかけて立ち去りました。

中島君はボンヤリとして壁にもたれて何か考えているらしく私が這入って行っても気がつかないのか黙って、高いところを見つめているのでした。それも無理もないので早朝同室から死刑になる仲間を送り出しました後なので我が身のことも思いくらべて自然死刑の事に考えが集中するものなのです。

ジャランジャランと足鎖の音をさせて近付いて、「オイッ」と肩をたたくとハッと我に帰った彼は、あれっという顔で、

「何時此処に来たんですか。」

「今よ、デメ金に押入れられた。」

「イヤア驚いたな。そうですか、私と一緒にここで暮すのですか。」

「うんそうらしいね」

というわけでそれはそれは感極まってガッシリと抱き合って嬉し泣き。

「親父、会いたかった。殺される前にとてもおやじにもう会えないと思っていたのによかったよかった、親父と共犯ということになっているし、同じ監房にいるのだから殺される時も一緒だ。オヤジと一緒に殺されるなら私は本望だ。」

「うんよく言って呉れた。中島君よ、有難う有難う、此の期に及んで何も言うことはない、シッカリゆこうぞ」

と抱き合ったまま感激の涙は出しっ放し。中島君は背の高い大きな男で、私を子供をかかえるように抱いているので私は丁度彼の胸のあたりに頭を押しつけているかっこうになるので彼の流す涙がみんな私の衿首のところにボタボタ、ボタボタと落ちてくるのでした。

 この時の嬉しさは経験のない人には想像も出来ますまい。生死をともにして働いて来た上官と部下が獄舎の中で別れ別れにされ、もう死ぬ迄相会うことは出来ぬものとあきらめていたのが、全く予期も出来ぬチャンスでめぐり会うことが出来て、私達二人は全く抱き合って男泣きに泣きつくした程のよろこばしさでした。獄舎の中にもこうして歓喜は訪れ始めたのでした。


     どうせ死ぬなら花々しく

私が第八号室に移されてからは私も中島君も大いに元気を回復してしょんぼりしていたこれまでの反動のように、つきぬ思い出を楽しく語り合うのでした。台湾のこと、海南島のこと、そうして楽しい思い出を語り合いながら、いやな過去と現在の一切を忘れようと努力しました。

しかし祖国日本がどうなったのかさっぱりわからないのは残念で、このまま死んでは死にきれぬ思いでした。上司、同僚、軍法官、通訳等の人々、どの人にもよい思い出も辛い思い出もまつわりついているし、さては私を告訴した警務庁長詹(セン)少年少将等々の言葉やら態度、いやな思い出にはつい腹の立ってくる自分をおさえて、悪い姿は誰もかれもすっかり忘れるように努め続けたのでした。

思い出の中にも現在の環境にも腹の立つことやいやなことは沢山あったが考えてみれば、もしたった一人で死刑を待つのだったらどんなにか苦しくもあり悲しくもあったろうに、死ぬ間際迄、二人の主従が同じ監房内で暮せるとはまことに珍しい恵まれたことでこれも二人の浅からぬ因縁によると思われたことでした。

「泣いても笑ってももう僅かしか生きることのできない身体だ。冥途とやらへの御土産に大いに朗らかに愉快に語り合い行動して余命を有効に暮そうじゃないか」と、二人の相談は一決し「しっかり行こう」「元気で行きましょう」という言葉が二人の合言葉になった。

「一つそれではこの世の名残りに思い切り大きな声で洗いざらい知っている歌をみんな歌いつくして、死のうじゃないか。」

「よし早速やれっ」

という訳で、その日からとてつもない素晴らしい大声を張りあげて、都都逸であろうと流行歌であろうと、御国自慢の民謡であろうとももう片っぱしから歌いまくったんです。

半分位とか或いは三分の一位しか知らない歌でもかまうものかというので歌いまくるのです。いくら変でも下手くそでも笑う者はいません。歌うのも二人なら聴く者もただの二人だけです。

三つの歌ではないが思い出しながら大きなしかも調子っばずれの音声で、歌うのですからさぞかしやかましかったことでしょうが、「近いうちに殺されるのだ、大目に見て聞こえない風に流してやれ」ということで皆さん許して下さったものでしょう。看守達も黙認の様子でした。


 昼はこうして、愉快に、楽しく、朗らかに、暮していました。しかし歌も景気の好いものを歌わないと駄目です。悲しい歌ではいけません。泣き出すようなのでは始末が悪いのです。相馬盆唄、会津磐梯山、安来節、佐渡おけさ、皆景気が良くて賑かです。

だが折角盆踊歌をやっても、踊はやれません。脚には一貫五、六百匁の鉄枷がついているので「ハアこらさっ」と口だけは威勢がよいが、脚が重くて揚がらんのです。それでも中島君がよく奄美大島の踊を見せてくれましたがこれは脚部に鎖があってもジタバタしないでそろりそろりと踊れるので「お能」の様な素晴らしい優雅な感じを与えるものです。むしろ鎖の音は一種の伴奏として大いに舞を引立てる位です。ただ一人の見物人の私が、一人で拍手かっさいという訳です。


 こんな調子で毎日毎日元気で、朗らかに、昼間は誠に威勢良く歌いまくっていたのですが、それでも同胞が処刑された日はどうしても沈み勝ちで歌えませんでした。やがての吾が身のことを考えるとシュンとしてしまうのです。ダァーンダァーン。一人を銃殺するのに射手が三人らしい。小銃の音がいつも三度きこえます。ダァーン!ダァーン!ダァーン!、すさまじい銃声――聞くまいとしても、これは否応なしに聞かされる。

自分も近いうちにやられる一人だと思うだけに、その銃声がするとハッと身体が異様に緊張して、思わず腕組してジーッとあらぬ方を見詰めてしまう。あァ今日は誰がやられたのかな、隔日に或いは三日置きに有りもせぬ罪名を冠せられ、運命とはいいながら白雲山の刑場の露と消えるとは。刑場の草々は日本人のこの尊い血潮で紅に染まっているに違いない。

戦いに負けたとはいえ、無実の人々を銃殺するとは何という暴虐なことか。その人々の心にもなり、間もなくその人々と同じ運命が我が身の上にもやって来ることを思うと、何ともやり切れぬ思いに身はさいなまれるのでした。


     夜 は 生 地 獄

 昼間そんな調子で大いに歌ったり、踊ったり、気狂い沙汰でえらい元気だったが、夜のとばりが下りると、さっぱり元気が出ない。昼の元気は何処へやら、すっかりペシャンコになって長嘆息ばかり。青息吐息の連続。監房内には燈火がないのです。電燈配線も無いから室内は真暗です。

暗黒というものはどうしても人間の心を暗くする。だから夜になるとみんなろくなことを考えない。暗い事ばかりが自然と頭へやって来るのです。

まず自分の殺されることを考える。アリアリと執行の状況を想像する。どんなに苦痛なことであろうか。ズドーンと一発、心臓の真中をブチ抜いてくれれば楽に死ねる。しかし当りどころが悪くて身体中穴だらけにされたんではたまらない。ああ畜生奴。

そして次には家族のことに思いをはせる。台北に妻と娘二人を残し私だけ海南島に渡っていた。爆弾のため妻や娘が不具になってはいないだろうか。もし、無事に故郷福島へ引揚げたにしても、戦犯で殊に死刑囚の家族とあっては親類達も近づくまい。結婚適齢期の二人の娘、嫁入先もないであろう。世間の人々から冷遇されているに違いない。思えば可哀想な家族達であった。こう思うと、涙ばかり流れ出てどうすることもできない。


 こんな悲しい思いに一人でとりつかれる一方、真夜中頃になると監房全体が実に物すごい有様を呈して来る。両側の鉄の監房内には死刑、無期、懲役二十年、三十年という日本人戦犯の人々が呻吟しておられる。みんな安らかな眠りもとれずに悪夢をみるらしい。悲鳴のような叫び、殺されるうめき声、全く惨憺たる生地獄そのものだ。

その上通風の悪い監房内は、気温はいつも三十四、五度。素裸でじーっとしているだけで流汗淋漓(りんり)の有様。のどが渇く、しかし水はない。水をくれ!と叫んでも返事もない。ハァハァと喘いでいる声が聞える。


 蚊帳はないから、蚊と南京虫に攻められるが、暑いから衣類などを着けられない。蚊と南京虫との大挙総攻撃に対して手の施しようもない。これには全く悩まされました。しかも鉄の足枷は寝ても起きても外れないので、チョイと脚を動かすと、ガチャガチャ、ガチャンと鳴り響く。全く安眠などとは縁もゆかりもない世界でした。


 中島君は、眠れぬままに起き上ってはよく座禅をやった。

 又、眠れぬ時は思わずぐちも出た。

「オヤジ、どうしても私はこの広東で殺されたくなんだ。出来るならば、祖国日本の土地で殺されたい。それが出来ない相談ならばせめて上海で殺されたいんだ。」

「上海だって、広東だって同じことじゃないか。」

「いや異いますよ。それだけ上海は祖国日本に近いじゃないか。上海は長崎県上海市で手紙が届くそうだ。それだけ親近感が深い。その近い上海なら、家族か、親類の誰かが、墓参り位して呉れるでしょうに。」

少しでも祖国日本の近くで殺されたいというこのはかない願いを聞いては、思わず共泣きせざるを得ませんでした。

こうして夜になるとペシャンコになって全く不思議な程、悪い暗いことばかり考えるし、ウトウトと眠る時は夢をみる。それも殺される夢が一番数が多いのだから始末が悪い。だがたまには楽しい夢が訪れて来ることもあった。それは、故郷福島で家族一同と一家団欒の場面などが夢の中で展開する時の楽しさ。

思いがけなくやって来た悦びの世界に引き入られるが、夢の中ですら死刑囚の自分、脚についている重い鎖が忘れられず、こんな素晴らしい楽しい世界にいられる筈がないと、夢うつつの中で手を延ばして足鎖に触わる、鉄の冷たさにヒャッと心身を貫かれ、忽ち夢覚めて、現実の悲しい身を痛い程まざまざと感ずる、こんなことのくり返しだった。


 牢獄の夜は煉獄そのもの、同じ二十四時間の筈なのにその時間の経過の永いこと永いこと。

獄屋の夜は長くて夜明けが遅い。


    よろこびへの前奏曲

 昼と夜では、全く正反対の生活。昼間は偉い元気なのに、夜はサッパリで恰も二重人格者の行動ででもあるかのよう。

しかしここに静かに考えて見ると、昼間、毎日毎日歌を唄ったり、踊ったり、愉快に朗らかに楽しく、喜んで暮したいということは実に大したことであった、
明日にも死刑の執行となるかもしれない戦犯が半分自暴自棄とはいいながら、それをすっかり忘れ去ったかの如く、嬉しく、楽しく、朗らかに、暮したことは、誠に大変なことで、間もなくやって来る光明の道も、この明るい大騒ぎに引きつけられて来たのだともいえるのであります。

当時を追憶して、ツクヅク思うのですが、もし夜も、昼も、殺されることばかり考え憎悪忿懣その他の悪感情ばっかりで、この牢獄生活を送っていたならば、恐らく此の尊い生長の家のみ教えに触れることも不可能であったに違いないと思われるのであります。

とに角、明日にも死刑になるのに、その日その日ただ愉快に、楽しく、歌を唄って、平和な喜びの雰囲気を醸しだしていたことは、生長の家のみ教えが牢獄の中に天降るそもそもの機縁となったに間違いありません。

もっともこれには守護霊及びそれ以上の高級霊の御導きのあったことは無論でありましょう。


『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(3) (2986)
日時:2016年07月23日 (土) 02時39分
名前:地湧の浄土

     光 天 降 る

 昭和二十二年七月二十八日と記憶しておりますが、此の日、元香港の水上憲兵隊長をしておられた市川大尉が死刑執行されたのです。

その少し前に各監房を挨拶に廻られました。その時、どうしたわけか私の八号室の覗窓から黒表紙の一冊の書籍を素早く投げ入れてくれたのです。大尉は悠々たる態度で、

「自分は執行ですよ。」とニッコリ笑い、

「貴方達も、死刑囚だ。死刑で今迄助かった者もない。これからも助かる者はないと思うが、今あげた御本を読むことによって、同じ殺されるのでも楽に死ねますから、どうかその御本をシッカリ読んでいただきたい、ではお先に参ります、サヨナラ」


 と大した元気で行かれました。そして次々と各監房の覗窓からゆったりした姿勢態度で、監房内の同胞に微笑しながら「サヨナラ、お元気で、サヨナラ」と挨拶し、全部の監房を廻って日本人戦犯の人々と最後の言葉を交し悠々たる態度で看守に連行されて行きました。

その姿を拝して、私は背中をどやされたような大いなる感動を受けました。自分もいよいよその日が到来した時、あの市川隊長のようにニッコリ笑って挨拶出来るだろうか、とても自信がない。偉いもんだなァと、感動を重ねたしだいです。

市川大尉が出て行かれてから、今か今かと聴き耳立てて待っていましたが待っている時間はとても長く感ずるものです。どの位たったでしょうか、ダダダァーンと三発の銃声が響いてまいりました。これが大尉とのお別れでした。


     真 理 の 火 柱

 さて市川大尉から頂いた御本を見ますと、それには黒布表紙に『生命の實相』第六巻と書かれてありました。そしてその本の間に『甘露の法雨』『天使の言葉』『實相を観ずる歌』等が鉛筆の細字で便箋に認めてあるものが挿入されてありました。


 当時無信心だった私には、何の御本だかさっぱり判りません。『生命の實相』って何の本かな、姓名判断の本ででもあるのかな、何しろ書籍は獄中では禁物で、これも見付けられたら百年目、必ず没収されるに決っている。

何だかわからぬがとられるよりはましだと、早速御本を寝台の板の下に隠匿した。何の本であろうとも、分厚いものをいただいたので嬉しくて仕方がない。明日から看守の目を盗んで充分に読んでやろうという訳で胸もワクワクした位です。


 広東の監獄は、戦犯には何一つの読み物を与えませんでした。勿論新聞やラジオ等とは全然縁のない世界でした。


 遙かなる祖国日本が終戦後どんな歩みをしているのか、戦犯の我々にはその片貌だにうかがうことは不可能でありました。


 当時残留日本人の方々により、吾々戦犯のために味噌の中に、豚肉を細くして炊き込んだものの差入れがたびたびありそれは一人残らずに行きわたるように配慮されてありました。これは実に有難いことだったのです。

獄舎の御飯はボロボロ米ながら分量は充分ありましたが、副食物には閉口していたのです。毎日毎食出て来るおかずが蓮根の尻を塩で味つけたもので油けはなしとても喰べられたものではなかったのです。だから味噌は非常に有難い差入物でありました。正に貴重品でした。

その味噌を一人前毎に分けて、中国の漢字新聞に、クルクルッと包んであります。看守はその一包を各人に配るのです。その包み紙が又貴重品でした。味噌を新聞包からとる時に丁寧に新聞を破かないようとりまして、その味噌だらけの漢字新聞をかわかして読むのです。

日本の記事がないかと、眼を皿のようにして捜す。或る時の新聞を見ますと、「日本には女性は一人もいない。進駐軍に拉致されて、人妻といわず娘といわず年頃の女は皆米兵の妾同様だ」とか、又或る時は「日本の若い男は皆睾丸をとられた。去勢された。」「日本の天皇は朝鮮へ逃亡したが、遂に切腹した」とか記載されてありました。出鱈目な中國新聞の記事とは思うもののこれを否定する何らの資料もない。

「そんなことはある筈がない」と固く信じようとするのですが、万一本当だったら一体どうしたらいいのだろう。祖国日本は滅亡したのだろうか。もし女性が皆妾同様であるならば、私の最愛の妻はどうなったか。二人の娘達も結婚もしていないのにアメリカ人の妾とは何たることか。

男は恐らく一人残らず自殺したに違いない。何の面目あって睾丸をとられておめおめ生きていられるか。そんな有様で女子供と老人ばかりとなっては、日本は滅びざるを得ない。

畜生!ヨーシ、こうなったら死刑になって死んでからもなかなか忙しいぞ、「何故忙しい?」「アメリカへも中國へも亡霊となって化けてやる。」「化け方の掛け持ちじゃワイ」と冗談まじりながら盛んに口惜しがりました。


 この味噌だらけの古新聞ですら、看守の目を忍んで見ないと没収されます。こんな環境にある時『生命の實相』第六巻が投げ込まれたのですから嬉しくって嬉しくってたとい何の本であろうとも大した喜びようでした。

まず『甘露の法雨』を読むことに致しました。

私が覗窓の側で看守の警戒を担当して、中島君に、

「その『甘露の法雨』という鉛筆書きを読んで呉れ給え。何だねその〝甘露の法雨〟というものは。」

「これは聖経と書いてありますから御経ですねェ、これは。」

「へえ、御経かい。御経というものは、大嫌いなものの一つだが、マァ何でも宜しいから大きな声で読んで下さい。」

という訳で、私が一所懸命に窓から看守を警戒し、中島君が読み方を始めました。

『七つの燈台の点燈者の神示』「汝等天地一切のものと和解せよ」と読み上げた、その瞬間です。看守を警戒しながら聴いていました私の頭のテッペンから足のつま先まで、電撃的な衝撃が突然やってきました。

「サアッー」と電流といったらいいか、電光といったらいいか、火柱みたいな何ものかが走りました。

「ブルブルッ」と身ぶるいしたので、あッこれはマラリヤかな、と思わず思いましたが、それともちがうようです。

「感謝しても父母に感謝し得ないものは神のこころにかなわぬ……」この言葉を聴いた時に又「ササアッ」と何だか判らないが体内を走り通るのです。ブルブルブルッと身ぶるいする。「何だ、これはいよいよマラリヤ再発の兆(しるし)かな」と思いました。

「中島君よ、君は体がぞくぞくしないかね。」

「いいえ、私は何ともありません。」

「自分だけならいよいよこれはマラリヤだワイ。」

と思いました。中島君はドンドン読んで行きましたが、『甘露の法雨』の半分も読み終らない頃です。声を出さず黙って口先きをモグモグさせ、ニワトリがのどに何かを詰めた時のようにケーッ、ケクッとやっている。「どうしたね?」と言うと、涙を一杯ためてやっとのことに声が出ないと言うのです。

「それでは勤務交代だ」という訳で、私が読み方。中島君は看守の警戒に当って、読誦を続行しました。交代に交代してともかくも、『甘露の法雨』『天使の言葉』を読み終りましたが、さっぱり意味が判らない。判らないが、何か尊いこと高き尊厳なることが書かれているに違いないという気持だけは致しました。

「うーん、これは不思議だぞ。獄中が何か明るい感じがする。」「光りだぞ、光明だぞ、素晴らしい聖経だ」というわけでそれからは何を見ても、聞いても、何となく明るい気持に早変り致しました。


     楽 に 死 ね そ う だ

 それまでは無信仰の代表者みたいな私でした。それでも、自分の力でない何ものかに守られていたんだなぁと、気付いたことは戦時中だけでも、数回に止りませんでした。

祖父は仏の忠太郎といわれた法華の信者であり、祖先には数々の素晴しい仏教信者がおられ、たびたび奇蹟的な事柄すら示して下さっているのに、信仰イコール迷信だ、信心する者は頭が少し変な連中で、下級な人間なのだ自分のような高級な人間は信仰なんて必要はないのだ、とすっかり思い込んでいた自惚れも甚しい私でした。これは永い間警察官として、その中堅幹部として、職掌上諸種の宗教信仰の取締に従って来た関係もあったのです。

そのような私も市川大尉からいただいた『甘露の法雨』と『天使の言葉』を読誦し、異様なショックを受けてから

「これはただ事ではない、不可思議だ。意味も内容もわからないのにドヤされるような衝撃とともに押し寄せる様な感涙にむせぶとは容易ならんことだ、これは何かあるぞ」と思い出し、

「これを読むことによって、同じ殺されるにしても楽に死ねますからしっかり読んでいただきたい、お願いしますよ、サヨナラ」


 と市川大尉が残してゆかれた最後のあの言葉が再び耳朶の奥にアリアリと響き始めるのでした。

「よーし、本当にそうだ、この様子ならこれを読めば楽に死ねそうな気がする。よし、ひとつ一所懸命に読んでみよう。」

はじめは『生命の實相』には手をふれず鉛筆で書いた、『甘露の法雨』と『天使の言葉』だけを読んでいたのですが、何やら尊いことを書いてあるとは思われるのですが、繰り返し読んでも無信仰者の自分にはその素養がないためか、さらさら意味が判らなかったのです。判らんけれども、一心不乱になって読誦していると、いつも熱い涙が一杯に出ます。

「この鉛筆書きはむつかしくてさっぱり判らん、判らんなりに有り難い。おかしなことだ。この分厚な本の方は何だ?ひとつこっちを読んで見よう。なぞがほどけるかも知らん。」

こうして『生命の實相』第六巻(黒布表紙のボロボロのもの)を読み始めました。今度は意味がよくわかりました。わかり易く説明講義してありますから難解だと思われていたことの意味がよくわかります。貪る如く、噛みつく如く、本当に文字通りの一心不乱でありました。すごいスピードで読んで行きました。

ところがこれはどうしたことでしょう。読み進んで行くに従って強力な何ものか大きな力が、頭、胸、いや全身にグッグッグッグーッと強く迫って来るような感じなのです。ウームと唸って目をつぶりました。涙が流れて流れてとどめることが出来ない。何だか知れないが、からだ中が感動の渦の中に捲き込まれたように激しくゆすぶられます。

「これは素敵だぞ。何というすごい本であることか。」腹わたの底のそこ迄滲み透る思いです。

「確かにこれなら楽に死ねる。」

この御本と二つの聖経の読誦に徹底することによって自分は必ず楽に死ねるという確信が全身にみなぎるようでありました。それからは獄中に於ける聖典読誦はいよいよ加速度的に白熱化して読み進められて行きました。

『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(4) (3001)
日時:2016年07月24日 (日) 15時13分
名前:地湧の浄土


      白熱的な読誦三昧

 『生命の實相』『甘露の法雨』『天使の言葉』の読誦はいよいよ猛烈さを加えて参りましたがそれは昼間だけの話で夜は無燈火ですし、その上何分にも看守の眼を忍んでのことで看守が近づくと本を隠したり遠のいたら又出したりするのですから、なかなか忙しいのです。

来る日も来る日も一人は必ず覗窓の処で看守の見張り役、一人は読み方、見張り役の合図注進でサッと御本を隠して知らん顔。看守の方も何となく変だなァと思う気配だが、別に何もないので直ぐ立ち去る、又始める、という有様。

大変能率のあがらぬ話でしたがその中でいのちの寄り処を求めて、期待とよろこびに溢れて本当の真剣そのもので読ませていただきました。


 そうなりますと、一日中読書ですから、あの大騒ぎまでやっていた歌を唄う時間がないし歌うこともすっかり忘れてしまいました。もう歌う必要も全くなくなってしまったのです。歌を唄ったとてそれは一時的にまぎれるだけで楽に死ねる力を与えてくれない。とにかく今度は読書に一所懸命でした。

或る日余りにも熱中し過ぎて、覗窓の警戒を忘れていたのです。窓で、「フニァフニァ!」と叫び声がしますのでハッと気がついた時は既に遅しで、窓にはデメ金さんの大眼玉が、グーッとこちらを覗いている。その大眼玉が〝實相第六巻〟を見詰めているのです。

「しまった!これは没収される。」一瞬胸も氷る思いでした。
殴られたり蹴飛ばされるのは、たびたびのことで慣れているが、この尊い御本を没収されたらどうしよう。

神様!仏様!全くかなわぬ時の神頼みで、私も一所懸命。じーっとデメ金に視線を合わせましての睨み合いです。

しばらくして、あの恐ろしい位のデメ金の眼玉が、スーッと、何も言わんで、隣房の方へ消えて行きました。ヤレヤレと、ホッとしました。『生命の實相』は奇蹟的にも無事だったのであります。


 しかし一回目は見逃したにしても、あの執念深いデメ金が、このまま放任する筈はない。やかまし屋の看守長に、この監房に書籍があることを知られた以上、いつかは没収を免れない。どうせ没収されるなら隠し立てしたってせんないことだ。

「よし、こうなった以上没収されたら運命とあきらめよう、と度胸をきめまして、どうせ没収されるんだからというわけで覗窓の警戒もやめてしまいただ無我夢中で読誦を続けておりました。

ところが実に不思議なのです。二時間毎に交替の看守が見廻りに来るのですが、どの看守もどの看守も一応覗窓からのぞいては見るのですが、誰も読書をとめる者がいないのです。あの味噌だらけの漢字新聞ですら読んでいると容赦なく没収した彼等なのです。

「はーてな、古新聞でさえ許されなかったのにこの『生命の實相』のようなこんな部厚い本が没収されない筈がないのに。

これは不思議だ、この本は一体何ものか?没収せず、取り上げないということは即ち黙認だ。

読誦して良いということだ。おおっぴらに読んでよいと神様からおゆるしが出たのだ!」

もう嬉しくなって、涙がポタポタ流れます。

さあ、読みましょう、とそれからの毎日は覗窓の警戒なしですから、素晴らしい能率のあがりようでした。


 夜が明けると、早速読み始め、ただただ一所懸命、一心不乱に、『甘露の法雨』『天使の言葉』『生命の實相』と読み続けました。さすがに無信仰な私でもこうして繰り返し繰り返し読誦するうちに、しだいに心がほどけてまいりました。

毎日毎日読誦を続けそれで心が開け、真理が僅かずつでもわかってまいりますと明るい心で読みますので、なお意味が良くわかる、わかるからますます有難い。有難いから一層激しく読むということで、加速度的に解らせていただき、嬉しくて、楽しくてじっとしていられない衝動にかられる毎日でした。

 一日中読書です。朝早く便器掃除で室外に出るだけ。食事は一日二回、この時食器を覗窓へ出すのみで、その他は何も用事はありません。足枷付きですから、使役もなかったことは勿論です。

すばらしい勢で、繰り返し繰り返し、読誦の日が続きました。どの位かといいますと七月から九月へかけて、ざっと八十数回『生命の實相』を読誦したようなわけで、おかげで生長の家のみ教えがおぼろ気ながら会得されて来て、自分のいのちの本体に眼覚めさせていただいたのであります。


     生き通しの生命を悟る

 来る日も来る日も、實相六巻読誦を繰り返すうちに、今度は最初何が何だかわからなかった『甘露の法雨』も『天使の言葉』の意味がわかってまいり、この聖経の限りない素晴らしさが会得されてまいりました。そこにある中心の真理は「人間とは何ぞや」という重大なことでした。

人間とは「神の子である」ということ「神の子とは何だ」「いのちだ」「生命だ」「生き通しの生命だ」「実相だ」「実相は霊的実在である」いのちは、今此処に在りながら霊的実在なるが故に見えない、聞こえない、五官の感覚器官には触れない。その五官六感を超越した世界に在るものが生命であり実相である。

いのちは父母を縁として、その父母その父母と遡り、遂に神様へと到達する。即ち大生命から神の子人間へといのちは一貫している。人間と神、我と大生命とは、いのちによって直結直通である。


 ああ、何と素晴らしいことだろう。これが本当の人間であり、霊なる私自身だったのだ。


 感動は大波の如く心内に押しよせるのでありました。


 では眼に見える肉体は何か。


 それは現象であって実在するものではない。在るが如くあらわれているに過ぎない。つまり肉体は一つの現象であり、私のいのちが使用して、何かの使命を果すための道具に過ぎない。

だから肉体という道具は使命が終ればやがては腐ったり、禿び滅びるのだ。

現象はない、肉体はない、病気もない、何もない。

神様だけが存在するのだ。神と神より出でたるもののみが存在するのだ。


 実相は神様の創造った世界、現象は心即ち想念・感情の造った仮りの世界だ。

実相に於ては皆神の子であるが、三次元世界即ち現象世界は、その人その人の想念が創造する。

幸福の世界も、貧乏の世界も、自在に顕現する。これは神様の責任ではない。人間その人その人の責任だ。


 死刑囚として、鎖の足枷をはめられている人間は無い!観世音菩薩が此処に居る!

人間は実に素晴らしいものだ。今此処で実相世界と現象世界に二股かけて生きているものだ。


 こうして広々とした、別な世界に在る私を発見してからはとても嬉しくて生き方も考え方もすっかり変ってしまいました。人間の繭である肉体はいさぎよく中国の官憲に提供して死刑囚として終ろう。

本当の人間は、生命であり、いのちは永遠久遠の実在であって、死ということはないのだ。生き通しの生命だ。それが遠藤義雄の本体だ。

こう思うと本当に嬉しさがこみ上げて来る。確かにクラーッと心は三百六十度の急転廻を致しました。

それからというものは、煉獄と見られた獄中に、パアッと光り輝く世界を見るようになり、何でも有難く感ずる自分となってまいりました。

『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(5) (3064)
日時:2016年07月28日 (木) 13時57分
名前:地湧の浄土


    鉄の足枷は観音様

 神の子人間として、永遠なるものと縦につらなる自分を知り形の世界はいのちの波動(想念)の通り現象界にあらわれるいわゆる心の法則に支配される世界であり、因果の世界、汝ら罪人の世界は、過去の念の集積であって、皆自分の責任だ!という真理を会得させていただきましてから、

非常に明るい心でものを考え、すべてを自分の責任に帰するのでありますから、他の人々を憎んだり怨んだりする必要は全くなくなってしまったのです。

 ここ迄はわかったのですが私は容易に納得出来得なかったことがありました。それは犯罪即ち殺人も、放火も、略奪も、犯していない冤罪であるのに、事もあろうに如何に敗戦だとはいえ罪名をつけられて死刑囚となり、一貫五、六百匁もある鉄の足枷をつけられている。

此の足枷は自分の責任かということでした。これがどうしても納得出来ないで苦悶したのです。しかしこの大きな疑問も実相読誦を続けるうちに氷解させていただきました。


 それは私自身犯罪は犯さなかったがそれ以上の重大な犯罪を犯していたということでした。

大生命、大自然の真理、つまり大自然の法に違反していたことでした。父母の尊さ祖先の尊厳を認めずに過した多年の生活、これでは自ら生命の流れに逆行した生活であった。自らいのちの伝導をさえぎる絶縁体となっていたのだった。親不孝をしたということだけで、足枷のねうち十分なのだ。

 現象は念の具象化であり、法則は間違いない。『生命の實相』をよんでおります時に、それらのことがパーッと光に照らされるようにわかりました。鉄の足枷という姿は何故に映るのか。それはその奥に光がある。光とは神である。すべて因果の理法、摂理、天理というものは神から出て来る。(『生命の實相』第六巻新修版二〇〇~二〇二頁)これが実相の中に詳細に書かれてあります。

あっ、これだ!そこでパアッと一切が納得出来ました。神様は私の魂の向上のため、永遠進化の目的から、ワザワザ観世音菩薩として足枷となって、顕現し給う。

この時から鉄の足枷に対し、観世音菩薩様、有難うございます、有難うございますと礼拝落涙しながらしみじみ手でなで擦るようになりました。これが毎日の事ですから鉄製の足枷は何時か白くピカピカと光るようになってまいりました。

 神はすべてのすべて。すべてのものの奥に神在す。すべての現象は、人間の修練の場であり、神はこれを愛深くみ守り給う。


    真夜中の神想観

 縦の真理――神の子。横の真理――唯心所現。これ迄この二つの宇宙真理のホンの一部を理解させていただいたのですがここから先へ行くにはどうも本を読むだけではだめらしい。神想観ということが素晴らしい有難いことで実相直視はこの神想観をせねば判らないということがたびたび書いてある。

ところが六巻にはその行法が書いてありません。ただ沢田さんという方が神想観された素晴らしい有様、その他の神想観の素晴らしさが書いてあります。(一六二~一六四頁参照)よし一つこれをやろうという訳になりましたが、勿論何も知りません。足枷があるので正座はできませんので、あぐらのまま瞑目合掌して、招神歌を一句一句棒読み、節も何もわからないままです。

「生きとし生けるものを生かし給える御祖神。元津御霊ゆ幸はえ給え。吾が生くるはわがちからならず天地を貫きて生くる御祖神のいのち」と何回も何回も、繰り返し念じます。或るときは〝實相を観ずる歌〟を棒読みしたこともあります。

しかしこうして念じますとわからぬなりに精神が統一してまるで別世界にいる気持ちになる。その時は、神様と自分とはいのちによって連結しているのだ、宇宙の万物すべてが神様とつながって生かされているのだ、という実感が湧き上ってまいります。

『生命の實相』第六巻(新修版一六二頁参照)に、谷口雅春先生が大生命を琵琶湖に例え、人間の生命を淀川の流れにたとえて、御説明下さっている一節がありますが、神想観中に「神様は琵琶湖、私は淀川、琵琶湖の水と淀川の水とが連っているのと同様、神様から自分のいのちが流れ出して直結している。だから神の子だ、神の子だ、神の子だ」ととなえておりますと嬉しさがこみあげて来るのでした。


 素裸での真夜中の神想観が毎晩続きました。看守が、深更でも獄内巡邏にやって来ます。そして覗窓から懐中電燈でパアッと照らします。獄舎内の二人は合掌瞑目して、微動だにしません。

それを見て「フニァ、フニァ」とどなる言葉は判らないが、眠れ眠れと言っているらしいのです。真夜中の暗黒の獄中で真黒い男二人が、合掌瞑目し合っているので、何か気味が悪いらしいのです。向うが気持ち悪くとも、こちらは反対に素晴らしく気持ちが良いので、一向止めません。

これが毎夜のことなので、どの看守も遂にやかましく言わなくなりました。こうして毎夜二時間三時間も神想観は続くのでした。

 この神想観の中で幼少の時代から始めて、台湾警察時代、海南島時代と過去の生活の中で憎んだ人、うらんだ人を一人残らず思い出してゆるし切り感謝致しました。殊に軍事法廷の審判官並びに通訳等々の人々で、憎み怨みの対象であった人々を神想観の中に呼び出しまして「全部私が悪かった、なにとぞ御容赦下さい」と深く深く懺悔を致しました。心の底から和解しました。

ああ、われ誤てり、

「天地一切のものと和解せよ、感謝せよ」というのが人間の道であるのに、今迄は感謝の気分などは薬にする程もなかった。恨み、憎しみ、終始一貫して喧嘩闘争を続けて来た。そのあげくの果が死刑の宣告だった。

いずれ近日中に肉体なる繭は、死刑囚として捧げるが、せめて肉体ある間に、少しでも沢山の人達に心の底から和解し切り、感謝し切り、今迄の行きがかり上の心の借金を総決算して、次なる世界に行かねばならない。そう決心して一切の人々に、一切の物に、一切の事柄に感謝致しました。


 今迄私の憎悪、怨恨の、対象となったものは、実は私の魂の発展向上を計るために、顕現し給うた神様仏様であったこともわからせていただきました。すべてみな観世音菩薩でありました。天地一切のものに感謝して一心不乱に神想観をさせていただきました。


 こうして続けておりましたら、気がつくと何時の間にかあの猛烈な蚊軍も、南京虫に、私の身体を喰べなくなっているのです。少しも刺されなくなりました。和解が成立したらしいのです。

私に向わない南京虫は、今度は隣房へ遠征です。「第八号室から南京虫を派遣しては困るよ」と怒鳴られましたが、私が別に派遣するのではなく勝手に行くのだから仕方がない。

そして早朝になると勢揃いしてゾロゾロと私の獄舎に朝帰りする。そして寝台の割れ目にはいり込んで休憩です。

私の身体には害を与えない。蚊も素裸の神想観中に身体一面にたかるのですが、少しも刺さないのです。


 帰国してからこのお話しをしたところ或る処で質問がありました「貴方は今でも蚊に刺されませんですか?」というのです。

残念ながら今は刺されるので、「明日の死刑も恐しくないというアノ澄みに澄み切った状態で神様と一つになっていたあの時は刺されませんでしたが、今はいつも心が神様の方向をむかないで時々世俗に向くためにケガレるのか今は刺されます」と御答えしたことでした。


    幼き日の母の思い出

「神に感謝しても、父母に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ」この御神示をはじめてきかせていただきました時は、電撃的ショックを受けたことでした。父母こそ元の本なる根本です。尊き父母を縁として、神様の生命、いのちを頂戴していながら、その海山の大恩を忘却して反抗して来た私……。

親を恨んだり憎んだりしているようでは、神様のいのちにつながる通路に自らが絶縁体をはめることです。幸福は神様の世界からのみ来るのに自ら蓋をしていては、幸福になれっこない。鉄の足枷をつけられるのも当然のことです。

私は配偶者である妻の両親に対しても、好感をもっていませんでした。それどころか一番感謝すべき自分を産んでくれた母を逆に一番憎んでいたのです。その憎しみに神想観をしている時気づかせていただいたのですが、この母への憎しみは極く幼少の頃に芽生え出したのです。

潜在意識に抱かれている憎しみは必ず何等かの機会に形の世界に顕われる。心の中にあるものは善かれ悪しかれ具現される。これが唯心所現の法則であって因果くらまさずということです。


 それは表面の記憶には、全く思い浮ばぬことなので母を憎んでいることすら気づかぬ程だったのですが、神想観中に奥底の心からひょっこり浮かび上って来て教えていただきました。


 私が二歳の時に父は病死をしたそうで、母はその後私が小学校へ入る時迄一緒にいて下さいました。しかし母は再婚しました。その時ただ一人捨てられ、置き去りにされたと子供心に非常に強く反感を抱いたのでした。これがそもそも間違いの始まりなのです。


 神想観中に、再婚、祝言の夜の出来事がくわしく再現されました。祝言の当日、叔母に連れられて飯坂温泉にまいりました。祝言の席上ちょろちょろされては困るからでしょう。そんな事は知る由もなく、喜び勇んで飯坂温泉へまいりました。そして昼食をいただいていたのですが、その時何となく淋しさを感じ近所の人々から聞いた噂話を思い出したのです。

「義雄、お前のおかあさん嫁コに行くぞ、知ってるか。」


 今日は叔母ちゃんだけ一緒だ、母さんは来ていない、なぜだろう。これは今夜あたりあの噂の通り嫁に行くのではないかと思うとどうしても温泉に泊っていられないような気分におそわれました。帰る、帰ると盛んに言い出していくらなだめてもその一点張りで遂に泣きながら二里程の道を歩いて帰りました。

その当時は電車もバスもありません。家に帰りついた頃はすっかり暮れていました。私はえらい勢でダダッと座敷に駆けあがりました。親類一同アッと驚いて「帰って来たか」と手のほどこしようもない有様。

見ると「お前という可愛い息子がいるのによそに嫁になんぞゆかないから安心なさい」といつも言っていた母が、チャンとお白粉をつけて、花嫁の衣装をつけて、角隠しをつけて、キチンと嫁の座についております。その側にはお婿さんらしい人も座っているではありませんか。親族の人達も各々席に着いています。

この光景をパアッと目撃した瞬間「欺まされた」との思いがこみ上げてくやし涙が目一杯にたまる。角隠しでも何でもひっぱがしてやりたい衝動にかられる。何とか事を収めなければというわけで母の弟である叔父が別室に私を連れ出し、今日かくなった次第を説明してくれました。

「お父ちゃんのいない処にお母ちゃんは何時迄もいられない。だからみんな協議の上、母ちゃんが嫁に行くようになったのだ。」

それでも私は聞きわけない。「私がいるのだから嫁に行くな。」

「お前がいたとて母ちゃんは何時迄もいられないのだぞ、判ったか。」


 そう言われても、全く子供の私にはさっぱりその理屈がわからない。叔父と押問答口喧嘩しているうちに嫁の行列は出発してしまった。あわてて座敷に来て見ると、母は既にいない。口惜し涙と共に急いで外庭に出ると闇の中はるか彼方に嫁の行列の提燈の光が点々と明滅している。

それを眺めながら子供心に何とも得体の知れない孤独感を感じたのでした。とうとうお母ちゃん行ってしまったか。こんなに恋しがるただ一人の息子を置いて嫁に行ってしまった。嘘つき母ちゃん、私を捨てていったなあ。


 神想観の中に口惜しかったその夜の光景が、まざまざと蘇ってくるのです。この母へのくやしさが奥底の心にしっかりと座を占めていたのです。私自身気づかぬうちに母を憎み出した出発がここにある。青年になりましてもなぜか心から母を尊敬出来ない。表面上の物質的な親孝行はしたのですがそれは皆表面のことでいわば嘘の親孝行なんです。世間への照れ隠しとでもいうべきものでした。


 神想観をして母に心からの和解を致しました。

「最も尊ぶべきあなたを軽蔑して来た罪をお許し下さい。私は生長の家のみ教えに触れさせていただき、人間は素晴らしい神の子であり、生き通しの生命であることを理解させていただきました。

肉体人間はここ数日の後には死刑囚として銃殺されますが、どうかお母さん御健康で幸福に長寿をして下さい。

今迄の不孝はどうぞ御赦し下さい」

と懺悔し、心からなる感謝を捧げました。


 こうして神想観を致しましたら、今度は不思議に母に可愛がられたことがつぎつぎと記憶の底から蘇って来るのです。

 小学校に通っている時分のことでした。三年生位のことです。友達と喧嘩をすると喧嘩には勝つのですが後が悪い。負けた子供は「何だ、お前は父も母もない親無し子だ、親無し子だ」とはやしたてて逃げて行きます。親無し子とは実に痛いところなのです。口惜しさのあまり、学校からそのまま一里半も離れている母の再婚先へ行き、母をチョイと垣間見て安心します。

「アノ人がお母ちゃんだ。親無し子ではない親はあるぞ」と自分に言ってきかせます。

母は憎いのですが、一方では会いたくてよくまいりました。矛盾のようですが、そこは血の連がりと申しましょうかいのちの通う親子です。切ったって切れるものではないからです。


 母の顔見たさに、よく訪ねてゆきました。いつも小使銭として二銭玉を一つくれるのです。その時分に二銭銅貨という大きな銅貨がありました。

「義雄に二銭玉一つあげますから」と。主人つまり母の夫たる人に断ります。

「二銭玉に限らず幾らでもやんなさい」

 と言う。先方のお父うさんは実に好人物でした。

その二銭玉を与える仕草がなかなか意味慎重で、手品師のようなことをするのです。つまり二銭銅貨を、縦に指でつまんで、

「ハイ!二銭玉」

 というて、スーッと私の掌に握らせるのです、いつも二銭玉の裏には二十銭銀貨がペッタリと飯粒ではりつけてあったのです。それですから縦にしてスーッと手渡しする。お父ちゃんには、二銭の一面きり見えないのです。

二銭と二十銭はペッタリはりついて、容易にはがれなかった。ですから別れて一人になってから田舎の田圃の小堀の中に投げ入れてしばらくしてからはぎ取ったのです。

考えてみると、その二銭と二十銭を母はその時にはりつけたものではなく前々から準備して可愛い息子が来た時にあげるため懐中の奥深く、毎日毎日愛情をもって温めていたものに違いありません。だから飯粒がかわいてしっかりはりついてしまい、容易にはとれなかったものでした。

二銭銅貨の裏に隠されてしっかりはりついて容易にはがれない二十銭銀貨これこそ人前では表現の出来ぬ辛い立場にあった母の無限の愛を表現したものでなくなんでしょうか。

こんな愛深い母を恨んだとは実に勿体ないことで、神様の愛の流れに遮断機を自らおろしたも同じことで、幸福が自ずと去る結果を呼んだ次第です。

この有難い光景が神想観中にまざまざと出現して来るのです。小学生三年位の縞の着物を着た私がとじた眼の裏を動き、愛深い母の姿がそれに重なります。

私は祈りつつ、思わず涙を浮かべ、果ては泣きじゃくりながら祈り続ける有様でした。


『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(6) (3140)
日時:2016年08月03日 (水) 23時53分
名前:地湧の浄土



     獄中に展開した極楽世界

 もう今では『生命の實相』第六巻及び『甘露の法雨』『天使の言葉』の読誦は黙許公認の如く天下晴れて読めるようになり、堂々と繰り返し繰り返し読むことによって生長の家のみ教えが少々ながら判ってまいりました。「汝ら天地一切のものと和解せよ」の根本意味も少しずつ判らせていただきました。


 肉体在る間に、この獄中で出来ることはといえば感謝合掌のほかはない、一切合掌感謝して生活してみよう、と決意しまして、心で感謝の思いを念じ、これを実際に形にあらわす実践愛行をやることにしました。

眼にふれる一切に感謝感謝です。寝台さん有難う、便桶(大小便用具)さん有難う、足伽さん御苦労様、鉄扉、煉瓦壁、窓、窓を覗く雀よ、太陽よ、月よ、星よ、空気よ、水、飯盒、水筒、食器何でも有難う、中国看守諸君よ、視察見学の学生生徒諸君よ、皆有難う、有難う、有難う。

「鉄の足枷さんよ、御苦労様ですね。毎日毎日私の足首に寝ても醒めてもくっついていて下さいまして誠に有難うございます。

夜も昼もついていて下さるなんて容易なことではない。全くそんな深切さでひっついていてくれるものなんて誰れもない。寝ても起きてもひっついていてくれるのは貴方ばかりだ。本当に観世音菩薩様だ。アー有難うございます、有難うございます」

と毎日毎日素手で擦りますから鉄の足枷がピカピカ白光燦然と輝くようになりました。

 朝夕の点呼の時など、看守長のデメ金さんが不審な顔付きで鎖に触って「フニァフニァ!!」どうしてこんな白光を帯びたかを不思議がったのであります。


 次に便桶さんに感謝致しました。

暑気がむんむんする狭い監房に置いてあるのですから、臭気フンプンで鼻持ちならぬ存在です。これを毎日一回清掃せねばなりません。

木製の桶ながら大小便二人分、相当に重量があります。片手なんかではとても持てません。一貫五、六百匁の足鎖をつけていて歩行不自由な身ですが、看守が来て「フニァフニァ!!」(持ち上げろ)と命令すると、両手でその糞桶を胸のあたりまで持ち揚げて運ばねばなりません。

ソロリソロリと足枷を引きずりながら歩くと「もっと早く歩け」と看守が叫ぶ。少し早く歩行しますと、何せ桶の内容は液体が大部分ですからかなわんです。ドッピンドッピンと動揺し波立ち騒ぎますので、ピシャンピシャンと飛沫が顔へ来る。このおつりには閉口したものです。み教えを頂戴する前のことですが、口惜しくてかなわんのです。

どうせ、自分も数日後には殺されるのだ。冥土の土産にこの看守の野郎の頭っから、糞をブッ掛けてやろうと、糞桶抱えて睨みつけたことが何度あったかわかりません。そんな気持でしたから、だからその当時はしよっ中看守に折檻され通しだったのです。

それが「天地一切のものと和解」したとき、便桶の存在が、一番有難いことが痛切に判りました。

「貴方は人間の飯櫃にもなれましたのに自発的かどうか知らんですが、とにかく吾等戦犯の汚物を毎日毎日黙々として受けて下さる。誠に尊い観世音菩薩であります。有難うございます」と見えるようになりました。

この便桶が若し無かったらどうなるかと考えると、生理的現象ですから桶の有無にかかわらずまったなしに出さねばなりません。さあそう考えると、便桶は実に尊いものなんです。汚物を捨ててから内側も外側も磨きます。タワシも何もないのですから素手で磨きました。

「便桶さん有難うございます。有難うございます」と唱えながら毎日毎日実践致しましたら、これもピカピカ光るようになり、獄舎内の一隅に、光輝燦然と輝くようになりました。


 換気窓に飛んでくる雀達にも感謝出来るようになりました。親子か兄弟かは知らんが、いつも三羽来るのです。これも前には憎らしい存在の一つだったのです。中国は人間ばかりでなく鳥類迄生意気だ。鳥の分際であの三羽の雀も吾等日本人戦犯をひやかしに来ている。癪に障ってかなわんのです。見るたびに「畜生奴、帰れ!」と怒鳴りつけていたのです。

これがみ教えによって、私の心が三百六十度転廻してからというものは同じ雀なんですが、私の心が変っているために受け取り方が全然違うのです。如是我聞です。

その雀が金色に輝いて、チュンチュンと吾等を慰問にサービスにやって来てくれた。素晴らしい雀達だと見えるのです。

「雀の声は神様の御声だ、雀さんよ有難う。同じ生命に生かされている同胞である雀さんよ、貴方もお忙しいのに朝早くから私を慰問に来て下さったか、ああ、有難うございます」と毎日雀に合掌礼拝するようになりました。

そして御飯を残して雀の餌として与えるようになりましたから雀はお友達を連れてくるというわけで大した賑いです。チュンチュンチュンとその雀さん達の慰問音楽隊は毎日訪問してくれます。これは神様ですから合掌礼拝で迎えていました。実に天国浄土今此処かと思われる位明るい黄金世界が獄中に展開致しました。


 看守に対しても、同様でした。これは容易ではなかったのです。毎日のように看守達から折檻されまして身体のどこかに生ま傷が絶えない程でした。それは皆私が悪いからやられたものなんですが、そうかといって簡単に感謝も出来ません。恨めしい気持を随分沢山抱いておりました。

み教えを知ってから何とか看守を拝もうとはするのです。人間は神の子である、お互いに合掌礼拝すべきである。わかってはいても毎日蹴ったり殴ったりする神の子があるもんかと又思うのです。あのデメ金の奴!彼奴も神の子なんだろう? いや、彼奴は神の子ではない。アレは特別だ、そんな気にどうしてもなるのでした。

やっとデメ金が、観世音菩薩に見えるようになったのは随分たってからでした。肉体の死はあと数日後に迫っている。何時までもぐずぐずしてはいられない。肉体あるうちに早く拝み切って置かねば、こうしたさし迫った気持が観の転換を助けてくれたのでしょう。

デメ金さんに蹴られたということは、そんなことをされる私の心だったのだ。その自分の心と対面させられていたんだ、デメ金ではない、自分だった、こう気づいた私は或る日の朝の点呼のとき、瞑目合掌して有難うございます、と誠をこめてデメ金を礼拝しました。

デメ金さん一寸驚いて、「フニァフニァ!!」と言って隣房に廻りました。一回実行すればあとは楽です。朝夕の点呼の時、水筒に水をくれる時、御飯を配ってくれる時、看守に対して、有難うございますと合掌礼拝致しました。来る日も来る日も合掌三昧です。

そのうちいつの間にかデメ金は私の獄舎の点呼を免除するようになり、しかも、第八号室の前を通るときは、あのデッカイ眼に涙さえ浮かべウハッと最敬礼して通過するようになり、他の看守さん達もすっかり変ってしまいました。意地悪看守など実は一人もいなかったので皆大慈大悲の菩薩様ばかりだったのでした。みんな深切な情け深い観世音菩薩だったのです。


 飲む水、身体を拭く水などにも不自由しなくなりました。幾らでも要求もしないのに、看守の方から水をやろうか、と言ってくれます。御飯も山盛りです。食べ切れないのは残して雀の音楽隊に提供しました。そうなると餌が沢山ありますから雀の音楽隊の来ること来ること大した賑やかさとなりました。

 五体に対し、御先祖、父母、妻、娘、兄弟姉妹をはじめとして一切の人々、天地の万物に対し、心からの感謝を捧げたことは勿論であります。


      刑 場 の 銃 声

 み教えを頂戴する前のことです。刑場から聞える戦犯死刑執行の銃声がダダダァーン、と響きわたるとハッとしました。ドキッとして、身体は硬直する、眼はジーッと銃声の方向を睨む、否応なしに聞かされる銃声に今日は誰れがやられたかと思って実につらかった。

やがては自分も殺される運命なのですから、懲役の人達が聞く銃声と全然異うのです。実に切実です。

しかし毎日昼は聖典読誦と感謝行、夜は神想観を続け、その行が一日一日と真剣味が加わって来ると死刑囚であることも殆んど忘却するようになり、神の子の生命は永遠生き通しということを会得しました後は自分の死というものは、本当の世界ではない、死なぬ世界こそ実相なることを知りましてから、死刑の執行を恐しいとは思わなくなりました。

そして無気味な銃声を耳にしてもドキッと恐れる気持はなくなり、合掌瞑目してなくなった人の瞑福を祈るように変わりました。

『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(7) (3249)
日時:2016年08月13日 (土) 00時12分
名前:地湧の浄土

     ズボン脱ぎの啓示

 入獄の際に、足枷をつけられたために、左右の足首に鉄環がはまり、その鉄環と鉄環との間に大きな鉄製鎖で連結されて取り外すことは出来ません。鉄環は時に足首の皮膚をやぶって、血が滲み出ます。

薬もくれませんので以前はなかなか治らなかったのですが、み教えに触れてからは血が出るには出ても、一夜にして薬も何も用いないで奇麗に治るようになりました。

又何時の間に治ったものか判りませんが私は慢性下痢、蕁麻疹、痔、中島君は猛烈な神経痛が消えていたのです。病気の方がよくなったのですが、一つ奇妙な悩みがありました。

それは死刑囚と無期徒刑囚共通の悩みでズボンが脱げないことでした。投獄される時にズボンを着けた儘足枷をかけられましたので脱げません。いろいろと工夫してズボンを脱ごうとするのですが、両足首が鉄鎖で連結されていますからどうすることも出来ません。

暑気は烈しく毎日の気温は三十四、五度を降りません。睾丸も股ぐらも蒸されるので到底ズボンを穿いては暮せない。バリバリと剝いでしまいたい位ですがかけがえのないただ一枚のズボンですから、いざ死刑執行の際にパンツ一枚、ふんどし一枚の姿では、日本人としての面目が立ちませんので、ズボンを破き去ることもできないのです。

それで仕方がないからバンドをはずして、ズボンを下におろしていたのですが、股の辺は多少涼しいが、足首の処迄下されたズボンが、それから先きは脱ぐ術(すべ)がない。

歩くたびにバッサバッサと両足につき纏うので、不愉快なことは無類です。脱げないから勿論洗濯も出来ません。全身の汗と、体臭とが蓄積されていますから臭気フンプンとして、酸っぱい様な悪臭を放ちます。これは流石の戦犯勇士も実に閉口したものでした。


 そこでみ教えを知ってから考えました。

「神の子人間は無限力、本来自由自在なり」ではないか。「鎖があるからズボンが脱げない」と考えているのは自己限定ではないか。だから神の知恵が出てこないのだ。現象界にあっては神様の御心が人間の心を通してすべて具現する。神の子人間がこんな臭いズボンを着けて、バサバサしている必要はないじゃないか。

こう思いまして、一所懸命に夜の神想観のときに祈りました。

「神様、あなたの知恵は何と素晴らしいことでしょう。どこも痛むことなく、奇麗にズボンを脱がせていただきまして有難うございます。」


 毎晩こう神想観を続けておりますと、或る夜、雀がくる換気窓が黎明の光に白々としてきた頃、ズボンの脱ぎ方をハッキリと判らせていただきました。一陣の風の如きものが吹き通った感じがしたとき、

「ズボンはこう脱げよ」

と声なき声とでもいうのでしょうか、何者かの声なき声がして、ハッと気付いて眼を開けますと、ズボン脱ぎの光景がアリアリと、心の底に見えました。


 神様から教えられた通りにやってみましたら、あれだけ難しかったズボン脱ぎがいと簡単にズボンはどこも損耗することなくスポッと脱げました。これは素晴らしいぞ、思わず歓声を揚げて喜びました。

やり方をいうと左足のズボンをまずめくるのです。つまり裏返にしてグルグル引張り、鎖を中心にして左ズボンを裏返しのまま右ズボンの上に重ねて穿きます。二枚重なる訳です。その二枚のズボンを右足首と鉄環の間をひっかからぬように静かに静かに厚さを平均にして通します。

ズボンをいためず、ボタンをひっかけず一尺、一尺五寸と出てまいります。こうして安々とズボンは脱げました。裏返しにして重ねてあった左ズボンを裏をかえせばもとのズボンであります。しかしこれは大変な作業で、何でもないようですが、時には一時間位もかかるのでした。

嬉しかった。褌一つになって涼しいこと涼しいこと。中島君も脱ぎました。


 その時何とはなしに、瞬間にひらめく思いがありました。

「鉄の足枷も必ずはずれる!!」と。


     ズボン脱ぎの伝授
 
 とうてい脱ぐことは不可能だと思っていたズボンを神想観中に教えられて脱ぐことに成功した私は実に欣喜雀躍です。

涼しい涼しい、股ぐら戦線異状なしというところです。

このことあってから神我一体ということ、自他一体ということ、神人合一ということが如実にしみじみと判らせていただいたようです。

つまり、神様と人間はいのちで連繋されている。しかも神の自己実現が人間として顕現している。だから自分が思考することは、神様が思考されることであり、神人合一こそ真実の姿なのだ、というのが実感でした。


 上衣もズボンも脱いで、褌だけの裸の獄中生活です。暑さに変りはないが前よりはとても楽になりました。しかも見るもの、聞くもの、皆感謝の対象で、有難うございますで暮しており死の恐怖もない。毎日を感謝合掌で送りました。

 その頃日本人戦犯の多くの人々がこのズボンが脱げないで皆困っておられたのです。この脱ぐ方法を伝授することが神様の御心であるから何とでもして教えてあげよう。

しかし各監房には厳重な錠前がかかっていて連絡がつかない。散髪日が好いかな。いやこれは極く少人数に限られているから駄目か。うーん、と考えて、それでは「運動に出よう」と気づいたのです。

それまで死刑囚ですから運動には出ませんでした。健不健にかかわらず、どうせやられるのだから運動なんかしても仕方がないと思っていましたから。しかし無期以下の人達はやがては祖国日本に帰れるという大いなる希望をもっていますから、足首から血を出しながら運動に出ていたようです。


 そこで中島君に言いました。

「今日から屋外運動に出てズボンの脱ぎ方を同胞の方々に伝授するよ。」

「神様の御心です。それは素晴らしいですネ」


 というわけです。運動時間がまいりますと、中廊下を看守が、何かワメキ廻ります。運動希望者は獄舎内から鉄扉をノックしますと看守が開けて出してくれるのです。そして集合終ると中庭に連行されるのです。私もノックしましたら直ぐに開けてくれました。

素裸の褌一本で飛び出して行きました。偉い勢いです。

「どうです、神の子!」

と叫んでニコニコして行きますと集合していた人々がモゾモゾ私語しているのが私の耳によく聞こえます。

「あの親父神の子だなんていうてゲラゲラ笑っているが、頭に来たと違うか。クルクルパーになったと違うか。」

「無理もないよ。死刑囚の中でも今では古参株だからなあ。」

「気が触れたに間違いないよ。アリァ、褌一本でいるよ。気狂いだからズボンは苦しまぎれにバリバリ引っ剝がしたんだ。かわいそうに。」


 皆私の耳にはいります。今に見とれ、どちらがかわいそうか。悪臭フンプンのズボンを穿いているそちらの方が余程可哀想ではないか、と思ったものです。


 中庭で日光浴をするのですがサンサンたる太陽の光は有難いものです。空気は甘い。 (空気には味がありますよ)胸一杯、腹一杯の深呼吸。名も判らない南方の鳥が素晴らしい声で啼いてくれます。庭の草々、石コロ皆話しかけてくれる感じでただ嬉しい。


 沈黙が原則の日光浴で看守があちこちに立番監督しておりますので、言葉を出してズボン脱ぎを伝授することが出来ません。しかし話が出来なくとも意思を伝える方法はいくらでもあります。

眼、顔、口等の表情や手旗信号、或いは手真似で仕草をしたり。こうして言葉を出さずにズボン脱ぎの方法を伝授しました。

中国には手旗信号はないらしい様子で「いくぞ」と眼で知らせて、信号を送るのですが、中国の看守には何をしているのかさっぱり判らないらしい。送信者と受信者の手振りを見て「ファファ」と笑って見ているだけです。


 ズボン脱ぎ伝授のために毎日運動に出ました。今日五人、その次ぎ十人と、つぎからつぎへと伝えて約十日か十五日の間に、日本戦犯(死刑、無期刑囚)全部の人々が皆褌一本となりました。

看守は仰天して「アイヤーッ」「アイヤー」を連発していましたが、一体どうしてぬいだのだろうと不審に思ったらしく足枷の精密検査をやることになり、小さなハンマーを持って来てカンカンと叩いてみていましたが、鎖や鉄環には一向異状がないのですから怒るわけにはまいりません。鎖はそちらのものでもズボンはこちらの物ですからね。日本人は実に不思議なことをするものだと思ったらしい様子です。

このズボン脱ぎが出来るようになってからというものは、非常に皆さんに喜ばれ感謝されました。臭気もなくなったし、第一水浴場にも行けます。今迄はズボンが脱げないばっかりに、水浴は出来ませんでした。飯盒の水で手拭をぬらして身体を拭くのがやっとだったのです。それでも一日に数回ふかぬと暑気の烈しいところですから、直ぐに汗臭くなります。

皆さんからはすっかり有難うと感謝されることになりました。


 ズボンの脱ぎ方を伝えに出るのには足枷をひきずって出なくてはならず、足首から血を出しながら毎日の運動に出たのですが、人に喜びを与えることは足首の傷位にはかえられませんでした。


 人に深切をすることに没頭する時、知らぬ間に自分の好運がひらけて来るものですが、私どももこの運動に出たために実に素晴らしい神様の御恵みを頂戴したのであります。

それは運動に行った時、事務所の窓下から私と中島君とが相前後して、小さな鉛筆の芯を拾ったことなのです。

此の鉛筆の芯がその後の大きな私達の運命好転の鍵となったのであります。

『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(8) (3275)
日時:2016年08月18日 (木) 14時55分
名前:地湧の浄土

    臍(へそ) あ ぶ り

 軍事監獄には、吾々日本人ばかりでなく、準日本人という意味かも知れませんが、日本に協力した、本島人(台湾同胞)が五名位いたようです。その一人なのですが、便桶掃除の際や廊下掃除の当番の時など、八号室の覗窓から懐しそうに眺めている五十歳前後のニコニコ顔があり、馬鹿に懐しそうなので、さて誰だったかと思うがどうも思い出せない。

彼はこちらを知ってるらしいがこちらは思い出せないまま数日を過していると、或る日便器掃除のとき出遭いました。彼が言うのは、

「貴方は若い時、台湾の高雄市で自動車運転手の試験官をしていた、遠藤さんではありませんか。」確かにそうなんで、「その通り」と答えると、

「貴方のような方が死刑とは驚きました。出鱈目ですよ。私も犬の子三匹搾取したというかどで、懲役十五年です。実に滅茶苦茶な裁判ですね。」

「敗戦だもの仕方がないさ。日本に協力した貴方達こそ気の毒だと思っております。」

「私も進駐軍(蒋介石軍)から要求された五百ドルの現金を出せばすんだのですが、彼らの要求が余りにも人権を無視したやりかたで、つっぱねた結果、かくなりました。懲役だからそのうちには何とかなりますが、貴方は死刑では困りましたな。全く無茶ですよ。貴方随分身体が悪いのと違いますか。」

「大したことはないが胃腸が痛んで下痢したんだ。今は良くなったので身体は次第に肥るでしょう。」

「そんなら私の老眼鏡をあげるから太陽の熱で腸を温めなさい。」

 こう言って彼は老眼鏡をくれました。


 牢獄の中では太陽の光線をいただくのはわずかの時間で、光の入って来る換気窓が小さいのですぐ光は当らなくなります。愛念を無にしてはならぬと考えまして、いただいた老眼鏡で太陽の光線を集中して臍に焦点を合わせ、あまり強く集中すると焼け過ぎて痛いですからホノボノと、ぼかしてあぶりますと、なかなか気持ちが良い。

これは良いと思っておりましたが、その治療効果がわからないうちに、老眼鏡を看守に没収されてしまいました。戦犯の一人が、老眼鏡を使用して拾った煙草の吸殻に点火して吸っていたのを発見され、全部の老眼鏡が没収されるはめになったのです。

 この本島人は、台湾恒春県の人で、張昆池(チョウコンチ)という自動車会社の経営者だった人で、若い頃、運転手免許の実地試験の際同乗の試験官だった私が、好い助言をしてあげたので合格となり、その後事業も進展して大をなしたのだそうで、私は大恩人だというわけで獄中でもいろいろ物質的な御世話になった次第です。

み教えの通り、徳は孤ならずで、天の倉に積めば間違いなく知らぬ時知らぬ場所で報いられるので、計算して得たものと違い思いがけぬ恵みは実は嬉しいことであります。差入物のおすそわけなどたびたびでありました。


    死  相

 獄舎には鏡はありませんので自分の顔は飯盒の水の水鏡に写して見るほかはありません。自分の顔はよく見られませんが、こういう処にいるとカンが鋭くなるのか、ひとの人相はよく判るようです。

死刑の近づいた人の身体は、何となくぼやけて見えます。便器掃除の際など、桶を抱いたまま横転したりして、看守に叱られておる人がありましたが叱る方が無理です。既に魂は出ているか出かかっているのでしょう。肉体だけがそこにあるのですから、不始末をするのは當然とも言えましょう。

廊下を歩む足鎖の音色も何とはなしに力なく、かぼそく聞こえます。

「ああアノ人は気の毒に、近いうちに死刑になるね」と話題になると、必ず殺されるのです。

獄舎の人達は、常人では考えられぬ位神経が敏感になっていまして、歩いている足鎖の音色で遠くからその人が誰であるかを知ることができます。鎖も大小さまざまであり嵌めている人の心、気性気質も異りますのでその特徴をよく知っておりますので、その音色を聞くだけで今のは誰であるか見なくとも判るのでした。

気性の荒いせっかちの人は「ガッチャンガッチャン」と聞こえ呑氣な方は「チャランカチャンチャン」とノンビリとした音色が致しますので大体適中するのです。肉体も環境も心の影と教えられておりますが、こうしたところで如実にその真理を感じさせられました。


   『甘露の法雨』写経

『生命の實相』第六巻『甘露の法雨』と『天使の言葉』の読誦はいよいよ猛烈さを加えて八月半ばを迎えました。

もうその頃は肉体の死、何ものぞという覚悟が出来上っておりました。何時死刑が執行せられるとも何ら恐れるところはない。何時(なんどき)なりとも白雲山の刑場において必ず立派な、沈着な態度で死の座につき得る充分なる心構えが出來上っておりました。軽々とした楽な気分で刑場へも行ける。

こんな気持になったのですが、それにつけても、ここ迄心を高めてくれた『生命の實相』第六巻、筆写した『甘露の法雨』及び『天使の言葉』を御恵み下さいました市川大尉の霊に深く感謝を捧げたのでありました。


 一日一日と死は迫ってまいりますが、肉体のことは全然念頭に上りません。心はひたすら神と共に生きることのみに注がれていました。


 しかしいただいた聖経は、鉛筆を用いての筆写であり私達が余りにも感動して落涙しながら拝誦したため所々消えかかったり、文字が正確に読めない部分ができてまいりましたので、死刑になる迄に、これを写経し直して読誦し易くして次の人にゆずり渡そうと考えました。

勿論牢獄のことですから、紙も、筆も、何もない。しかしあのズボンの脱ぎ方を教えていただいてからというものは、神我一体、神人合一の観念が高まり、自分の心からなる正しい願いは必ず神様の考えと一致しているから成功しない筈はないという熾烈な信念が生れて来ておりましたので、紙も筆もきっと与えられると信じておりました。まず紙を求めようと思いました。

そして以前運動に出たときに拾っておいたあの鉛筆の小さな芯で左手掌に「紙を恵んでいただきたい」と書いて待ちかまえていました。


 獄中の合掌感謝の生活を徹底するようになってから、看守長のデメ金さんをはじめ、どの看守さんも深切にいたわってくれるようになり鬼の姿から大慈大悲の観世音菩薩様に変って下さいました。

殊に阮(がん)さんという、二十四、五歳の青年看守が特別深切にしてくれましたので、この人に頼めばきっと道が開けるという感じが強くしたのです。


 そこで 阮さんが巡って來た時に、鉄扉をノックして「御願いします」という意味の合図をしますと、覗窓から阮さんが「何か用かネ」と言いたげに深切な顔を出しましたので、前に書いて準備してあった掌を窓へヒョイと出しました。

阮さんは、それを読みとり早速自分の手帖に「紙は毎日やってあるのだが何に使用するのか」と書いて渡しました。それで鉛筆書きの『甘露の法雨』を手渡しまして、手真似でそれを筆写するのですという様子をして合掌礼拝しておりましたら、阮さんは又手帖に書いてくれました。

それには「この『甘露の法雨』を筆写するならば紙だけでは駄目じゃないか。硯と墨と筆とが要るのじゃないか」と書いてあるのです。

驚きました。「要ります、要ります、どうぞお願いします」と合掌しておりましたら、暫くして紙と筆と墨壺(矢立)を与えてくれました。本当に嬉しかった。


 早速とその日から聖経筆写が始まりました。一心不乱と申しましょうか、ただ筆写に熱中しておりますと、阮さんは第八号室前に立番して写経を護ってくださるのです。硯、筆などは獄中ではやかましく禁じられているものなんです。ですから写経しているのを見られたらまずい。それで護ってくれるのです。

人が来るのを発見しますと外から「コンコン」と阮さんが鉄扉をノックして合図してくれます。私は素早くそれらを隠匿して知らん顔の半兵衛をきめこみます。

巡って来た人が遠くへ去ってもう大丈夫だということになる、又鉄扉をノックし「好呀(ハオ)!」「宜しいぞ書き方やれ」と阮さんが合図してくれます。

有難いことで今になってその当時のことを思い出しても自然に涙がこぼれて来ます。

阮さんの勤務時間が終ると筆も、墨壺も返してしまい、翌日又阮さんの時間になると貸して呉れます。

こうして、毎日毎日の『甘露の法雨』『天使の言葉』の写経は続けられました。実に実に尊い毎日でありました。

私が今日所持しております『甘露の法雨』及び『天使の言葉』はこのような環境と条件のもとで作成されました尊いものなのであります。

自分でいうのも変なものですが、あの牢獄の中で明日をも知らぬ死刑囚として筆写したものとしては文字も生き生きとしているし、すべてのものを超越した生命の躍動の姿が覗われるようであります。

 こうした困難な環境下に聖経筆写を完成致しました。

遂に出来たか。肉体ある間に間に合ってよかった。

ようし、大いに馬力をかけて読誦しよう、とここに再び白熱的な読誦が始まったのです。字も大きく読み易くなりました。狭い獄舎である上に煉瓦の壁だから声の反響はすさまじい位です。しかも二人一緒に出来るだけ大きな声を出して読誦するのですから、反響に反響して、素晴らしい大音響となり自分等の声とは思われぬ程、心身にピーンと響きわたり、何ともいわれない荘厳世界を現出したのであります。

看守さん達も余りに一所懸命の読誦の真剣味に感動したものか、毎日のことでもあり、一寸覗窓から一べつを加えるのみで、一切黙認の形でありました。


 ここで一つ、聖経読誦光景のことで書いておかねばならぬことがあります。獄舎にはよく視察とか見学とかで多くの中国人の諸団体がまいりました。その多くは、見学というより一種の見世物見物という気分が濃厚でした。或る日聖経を誦げて一心不乱になって続けておりましたところ覗窓から声がするのです。それも流暢な日本語です。

「モシモシそのお経は何というお経ですか。一寸拝見させてくれませんか」と言っているのです。見ると若い中国人の男の顔が見えます。

「これはね『甘露の法雨』というお経ですよ」と答えたら

「仏教のお経ですか」と聞く。

「仏教もキリスト教も日本神道も儒教も、一つであるという万教帰一の教えである生長の家の『甘露の法雨』『天使の言葉』というお経です。」

「今貴方達の上部に後光が射していましたので不思議に思ってお尋ねしたのです」
と彼は言って立ち去りました。

 宇宙を貫く大真理のコトバでありますから、これを一心不乱に読誦しましたら、中国人にも見える光が現われたのも当然のことでありましょう。


 生長の家のみ教えをいただく前には、視察団とか見学団には全く悩まされました。冷かし半分、報復気分で来るらしく、喧噪そのものです。いつでも窓とは反対の壁に向って小さくなっていたものです。絶対に鎖を彼等に見せたくなかったのでした。


殊に悪戯のひどいのは広東の女子大学生でした。もっとも群集心理もありましょうが、覗窓から、悪口三昧です。こちらには、その悪口は判りません。

「クシャクシャ!!」の連続でハナをかんだ紙を投げ入れる者、手の中指だけを突き出して罵声を飛ばして行く者(これは女性としては最大の男性侮辱表現)或いは痰をパーッと覗窓の中へ吐きかける者、それはそれは徹底的な憎悪を表した行動でした。

敗けたが故に、見世物同様の侮辱を甘んじなければならないのか、と口惜し涙を流したものです。


 それが生長の家のみ教えにふれてからは、光り輝く世界をみるようになり、人間の尊厳さもわかり、この世界は一切善のみの世界であって悪いものは存在しない、悪ありと見るは、自己の心の反映である、と判らせていただいてからは、少しもこの視察団や見学団を恐れなくなり、まるで国元からの慰問団でも来てくれたような嬉しい心で迎えるようになりました。

女子大生などが来た時は私の娘達が訪問に来たように喜んで、覗窓に顔を出して、有難うございますと、合掌礼拝するようになりました。

そうなると痰も吐きかけられることもなくなり悪口されることもすっかりなくなってしまいました。まったくこちらの心の通りに現われる世界です。

 いつ頃であったか記憶がありませんが、視察団の一人が「月餅」を入れた新聞包を投げ入れてくれたことがあります。月餅は西瓜の種子を入れた、月見時に必ず食べる菓子で実においしい。

砂糖の味も忘れたくらいのときですからその甘く感じたことといったら。思わず合掌していただきました。こんなこともかつてなかったことです。


    獄中のドブロク

 こうして天地一切のものに感謝し、一挙手、一投足、皆ことごとく有難いものばかりで、獄舎が光明燦然と輝くばかりの生活となって、死の恐怖より離れた悦楽世界に暮していたその頃の話です。

 食事の時に食後に飲む糊湯(中国の飯の炊き方は、熱湯の中に米を入れ、グラグラ煮沸させてから飯を全部ザルに取って蒸す、残りの湯はお茶代りに糊湯として用いる)を配ってくれるのですが、それが沢山残っているからというので水筒に一杯貰って、三、四日も忘れていたことがあります。

暫くして思い出して水筒から出して飲もうとしたら、とても芳醇な香りがしてくるのです。確かに酒の香りです。中島君に話したところ、

「奇妙ですね、腐らないで酒になるとは変ですね」ということでしたが、

「どうなるかひとつ二日程放っておいてみよう」ということになって、

寝る時にも肌につけてだいておりましたら暫くして立派なドブロクが出来上ったのであります。


 これは愉快だ、ここは天国世界だから、神様はお祝いのお酒迄醸造して下さったというわけでそのドブロクをいただいたのでした。この酒は少しずつ元酒にして、つぎつぎと糊酒に混ぜて置きますとそれが又立派な酒になりました。

暑い処ですから普通は腐って酸っぱくなる筈ですのにこれも不思議なことの一つでした。


    唐   紙

 広東の獄中で、阮(がん)看守から情けの贈り物である便所用紙をいただき、礼拝して『甘露の法雨』を筆写したことは前述の通りでありますが、その『甘露の法雨』と『天使の言葉』とは既に十カ年以上も、毎日携帯して、講演会場で、皆様の光覧に供しているにもかかわらず、大して破損もせずに当時の形を保っております。

あまり耐久力が強いので不思議に思っておりましたが三年前に、山形県の天童にまいりました時、表具師をしておられる誌友さんがそれを見て申されました。

「先生この紙は普通の便所用紙ではありません。それだからこそ今日迄保存されたに違いありません。

これは唐紙(とうし)というもので、我々表具師仲間で欲しがる得難い貴重品です」

 と証明して折紙をつけてくれました。神様のお使いである阮(がん)さんは特に貴重なものを下さったものと、今更ながら感謝の念を深くしたわけであります。


    霊   夢

 八月二十日となりました。死刑はドンドン執行されて行きました。その当時で四十数名の方々が、鬼籍につかれたと思います。

私も朝が来ると今日かな、と思う。何事もなく午前中を経過しますと、これはきっと明日だな、と思うのです。こんな気持で毎日を過ごしておりました。午後から死刑執行は滅多になかったのです。

 こんな日の或る真夜中頃に不思議な夢をみました。私が天を飛んでいる夢なのです。夜の光景で、晴れわたった天空に数多の星々にいろどられて満天光り輝いており、月はありません。

その夜の中空を私が飛翔しているのです。それが鳥のように羽があって水平に飛んでいるのではなく、直立したまま手も拡げず足のダラリと下げて、えらい勢いで前方に向ってダーングーンうなりを生じて飛んでいます。

すると私よりももっと高い上空に、大きな空一杯の大文字が表われました。

「  南  無  妙  法  蓮  華  経  」

と大書されています。

そして折り重なるように

「  戦  犯  釈  放  」

と書かれており、その字が、私と同一進行方向にこれもうなりを生じて進んでおります。

この満天に輝きわたる墨書の名号を眺めながら飛んでいる光景は何ともいえない荘厳なものでした。

下界を見下しますと、広東の上空です。

ああ、白雲山の「刑場」が見える、と思うと今迄天空一パイに拡がっていた南無法蓮華経の七字の名号は、たちまちのうちに集合してトンネルの形となり、私はそのトンネルの中をだんだんと下向して、白雲山南麓の或る立派なお寺の山門にヒューッと吸い込まれるように降りて、その途端に夢は醒めました。アー夢だったか。

しかし夢にしては余りにも判然とし過ぎる。終っても不思議さにしばし呆然としておりました。


 中島君にこの夢物語りを致しましたらところ

「それは素晴らしい夢ですね、だがオヤジ、貴方のはいったところはお寺ですか?」

「どうもお寺らしいぞ」

「ははあお寺にはいった以上こりゃいよいよ来ましたぞ。この二、三日のうちにいよいよ死刑ですよ」

というわけでした。


 そこでますます猛烈な勢いで『實相六巻』『甘露の法雨』『天使の言葉』を拝誦致しました。

そうして身の廻りの品々を整理して何時でも死刑の呼び出しに応じられるよう準備を致して置きました。


 その翌日早朝、六発の銃声が響きわたりました。二名が死刑の執行を受けたことを意味します。
指折り数えてみますと、これで、私と中島君は死刑囚中の最古参者となったのです。今度「ライア!」と看守に声をかけられて連れ出されるのはまず自分達です。いよいよ順番が廻って来たというので、毎日所持品の整理をして、呼び出しを待っておりました。死刑の執行は大体朝早くです。七時から九時の間が多いようでした。


 ズボンを穿いて軍服を着用し、汗をタラタラと流しながら『甘露の法雨』を静かに静かに誦げながら、死刑の換び出しを待っておりました。

勿論獄舎内は磨き抜いてあります。「飛ぶ鳥、後をにごさず」死に臨んで慌てた有様を見せたくありません。整頓整理は十分やってありました。

家族に対して遺言も今井豊平という人にお願いし、今日か明日かと待っていたのであります。


 廊下の奥に看守詰所があり、そこの時計がボンボンとなります。朝、その時計が九時を報じますと、こうして覚悟はしていてもさすがにホッとするのです。

もうその日は死刑の執行はないのですからそれで一日のびた、とやはりそう思います。


    響 き 合 う 誠

 九月二日がまいりました。快晴です。

私の前に殺されるべき人は全部やられてしまいました。次ぎの処刑者は私と中島君しかありません。


 朝、阮(がん)看守がやって来てノックした上、鍵で錠前を外そうとガチャガチャやっております。

「いよいよ来たな」と私と中島君は眼と眼で知らせ合い、ズボン穿きをやっておりましたところへ、

阮さんがはいって来て、ニコニコしております。

てっきりこれはお迎えだなと思い込んでいるので私が右手で首筋をチョイト撫でて、バッサリ殺される仕草をして

「お迎えでしょう」

と日本語で言いましたら、

彼は、これを読みとったか、慌てて手を横に数回振りながら、「モウモウ」決して左様な用件で来たのではない、と否定の表現をして自分の手帖を出して、

「貴方達は神様だから死刑になることはできないぞ」

と書いてニコニコ笑っている。

執行の換び出しでないと解り、ほっとすると同時に早合點したことのおかしさに呵々大笑しました。


 彼は私達に一本ずつ煙草を与えて、監視していてやるから早く喫めとすすめるのです。只一本の煙草ですが、実に愛のこもった贈物で実においしかったことでした。

まったく嘘のような事実です。筆談はなお続けられました。

「 毎日毎日の行動を観察していると

   あなた方はまるで神様と同じだ。

  だから死刑になることは絶対にない。

  死刑になる人を沢山見て来たが、皆死相を表している。

  貴方は光顔魏々と輝いて死刑になる相貌をしていない。

  どうして死刑囚となったのか? 」

と問うので、

「無実のことで私は全然犯罪をやっていません。何も証拠がない、当然無罪なものです。」

「無実の罪ならどうして黙っているのか。」

「不服の申し立てをしましたのに無理矢理投獄されたのです。」


「 ここの軍事法廷は駄目だ、

   神様を死刑にするなんてとんでもない。

  そして、訴状は出したのか。」


「残留日本人の手を経て再審訴状を出した筈です。」


「 ここの軍事法廷はたよりない。恐らく正規の手続をしていないのだ。

  日本人の戦犯各位は片っ端から殺されているではないか。

  貴方を救い出す道がただ一つある。それは南京中央政府に直訴状を出す。

  南京には相当の人物がいるから必ず無罪となる。 」


「その御深切は有難いが既に明日にも殺される順番が来ています。毎日こうしてズボンを穿いて(その時半分穿きかけでした)待っているのです。貴方も危険なところに立ち入らない方が良いですよ。」


「 大丈夫、神様を助けて、そんな悪いことが来るはずはありませんよ。

  若し万が一間違いがあっても、それを私は甘んじて受ける。

  私は貴方を救けるために生命を賭しているのです。 」


 かれ阮さんは、一所懸命なのです。本当に命をかけているのです。

国が異うとか、人種の違いとか、言葉が通じないとか、いろいろいうがそんなことは問題にならない。

それを乗り越えた世界に、人類は皆一つの生命に生かされている、

イノチとイノチのふれ合い、人の誠と誠は必ず響き合う。


 どやされるような感動におそわれて涙で先が見えません。

なおも阮さんは誠実をおもてにあらわしつつ

「日本文章でよいから、その事実を簡明率直に書きなさい。訳文して訴状として出してやる。急ぐから今書きなさい。」

こう言ってすすめてくれるのです。


熱烈なる愛念、生命を賭しての救援です。


そこで筆、硯、紙をいただいて冤罪であることをのべ、且つ再審訴状の内容となる事項を箇条書にして阮さんに出してお願い致しました。


 その訴状の内容は大体次のようなものでした。

(一)主文に示された犯罪事実は全部無実である、即ち犯罪事実なし。

(二)判決理由の一部に、日本軍、偽軍(日本に協力した中国の軍隊)を煽動して主文の如き犯罪を犯さしめたとあるが、その私に煽動された日本軍及び偽軍の部隊名は何というか。何月何日に煽動したか、いかなる方法をもって煽動したか。及び、これらの挙証責任は裁判官側にある。

(三)海南島を実地調査すれば判明する。私達は昭和十四年より終戦迄七年間、海南島の各地に在勤した。
海軍司政官として或いは臨時政府警務庁顧問としていかなる政治を行って来たか、中国民衆は良く熟知している。

この調査を乞う。


 以上の三項を書いて阮さんにお渡し致しました。勿論これもアテにしてはいけません。もう既に死刑囚として最古参のトップに立っているのですから、明日にも死刑執行されるかもしれないのです。


阮さんは、その翌日「昨夜のうちに友人に翻訳して貰って今朝緊急郵便(速達のことらしい)で南京政府へ出したからもう無罪になるのだから安心しなさい」と書いた紙片を投げ入れてくれ無罪になったように喜んでいる。

私達としてはそんなことは思いもよらぬことですからあてにはできません。

しかし一面では阮さんの一念で或いは救かるのではないかなとフト思ったりも致しますが、すぐ打ち消されました。

しかも南京から再調命令でも来たらそれこそ阮さんに迷惑をかけることになる。これは困ったことになった。自分が死刑になるだけではなくこの素晴らしい、神の如き青年看守を道連れにする結果となりはせぬか。これは大きな心配の種でした。

しかし、いくら心で心配してもどうにもなるものではありませんから、そこで一切すっぱり神様におまかせし、もうどうにでもなれ、と投げ出しておりました。

このことがあってからも、毎日毎日ズボンを穿いて、軍服を着け、死への招待をまっていたのですが、不思議にも毎日毎日一向お迎えがまいりません。死刑囚の先頭を歩いての毎日だったのです。


 朝の九時の時計の鐘を聞きますとホッとする。

「中島君、九時が鳴ったようだな。」

「ハァ九時がなりました。」

 その日もうこれで執行がない。

「今日もまた九時がなったか。肉体をつけて暮らすか。ズボンを脱げ!」

とたわむれに号令の真似をしてズボンを脱いで悠々となり、

又々『甘露の法雨』『天使の言葉』の拝誦をくりかえし実践致しました。

夜はもっぱら神想観を行ずる。これもますます白熱的となりました。

『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(9)  (3338)
日時:2016年08月27日 (土) 15時00分
名前:地湧の浄土


    再審のうわさ

 その頃、便器掃除とか理髪の際、或いは運動に出ました際、日本人戦犯の人々に会う毎にだれいうとなしに「貴方達には再審命令か、裁判のやり直しの噂がある」と伝えてくれました。噂が噂を生んで「再審が決定した」というようなことを教えて呉れる人もありました。何しろ私を先頭にして死刑執行がピッタリ中止されていたので一種のデマが飛び、真らしく伝えられたのでしょう。


 その当時のこと看守に引率されて水浴して理髪もやって貰ったのですが、理髪の徒弟をしている日本語を片こと位は話す十五、六歳位の子供が、私の頭を剃りません。頭の周囲だけを剃り、頭部の毛髪はケシの実のような格好に残しておくのです。

「全部剃ってくれ。こんな頭では困るから」と申しましたら、

「あなた達二人(私と中島君のこと)は近く無罪になって日本に帰るのだから、その時、『坊主頭』で出ては恥しいだろう。だから今からてっぺんはのばしておいた方が良いのだ」

と言って妙な頭にしてくれて、看守もこれを見て笑っておりました。実はそれ以来ズーッと頭髪を伸ばしたままで無罪となって釈放されました。今はどうか知りませんが、その当時は「和尚頭」といって丸刈頭は軽蔑の対象となっていたものです。


    お先にまいります

 九月二十二日がまいりました。覗窓から「お先にまいります」という声。窓際に行くと○○伍長です。

「お先にまいります? 執行ですか?」

「そうです。ではサヨナラ」

 一寸私の心持ちが動揺しました。その方は若い陸軍の兵隊で、タイ国から送られて来た方でした。此の人は、私の次の判決の人で順序を飛びこえて死刑を執行されたのです。

気の毒だなあ。身体の方もあの人は大分健康を害していた様子だったが。――思いに沈むうちに三発の銃声が………。

 死刑の執行は再び隔日数日おきに続行され出しましたが、先へ先へと進み、私と中島君は中間に取り残された形でさても不思議なこともあるものだと首をかしげて思ったのであります。


    勝利のおとずれ

「汝ら何を喰い何を飲まんと思い煩うこと勿れ」と聖書にありますが、

私達も天地一切のものに感謝して明るく生活し、牢獄の中に天国浄土を発見して心変れば此処そのまま極楽世界であることを如実に感得し、

愉快に、朗かに、明日をも知れぬ肉体生命も忘却し、平和に誰とも調和調和で暮しているうちに、何時の間にか健康をとり戻し、肉体も日増しに頑丈になって来ました。

健不健は食物の質・量できまらない。毎日蓮根のシッポの副食物を喰っていては普通ならば栄養失調ともなるのに、我々はこうして健康になる。みんな心の持ち方一つでどちらにでもなることを知らせていただきました。


 先にも書きましたが、中島君の神経痛は猛烈なものだったのです。真夜中頃に痛みの発作が来て油汗を流して苦痛と闘っておりましたが、見ているだけでも痛さを感ずる位でした。脊柱、脊骨に指圧してくれといわれましたが私の力ぐらいでは収まりません。

しかも二人して足枷の鎖をつけられていてそれがじゃまになって脊骨の上から跨げないので、完全指圧が出来ないのです。殆ど毎日の発作で苦しみましたが、生長の家のみ教えを行ずるようになってから、いつの間にかこの激しい神経痛がなくなってしまったのであります。


 九重節(旧九月九日)の当日でした。早朝から『甘露の法雨』を誦げておりました時です。覗窓で声がします。「健康にかわりないか」日本語です。見ると軍事法廷の曹広科大佐(通訳)です。

「遠藤も中島も達者で何よりだ。あなた達のために良いことがあるから身体を大切にして待っていなさい。サヨナラ」


 大佐は、こう言って立ち去って行きました。何のことか?阮さんの直訴状が受納されたのか? イヤ受付けられる道理がある筈がないと思うが――。


 獄中生活は極めて殺伐で、人の情けとか情愛などは滅多に示されません。情愛に飢えております時に、しかも懐かしい日本語で「身体大切に、いいことがあるから安心しておれ」などと情け深い言葉をかけられてはたまったものじゃない。涙がボロボロ流れて来ます。

「ああ曹大佐お赦し下さい。通訳のしかたが悪いため死刑になったと貴方を一時は恨みに怨みました。亡霊となって化けてやるなんて思いまして誠に相済みませんでした。生長の家の教えの通りすべて愛深き人ばかりであったのです。どうぞお赦し下さい。」

丁度その時に阮さんがおりましたが、日本語で話したので阮さんにはサッパリわからない様子です。

「今、曹大佐は貴方に何を話したか」と筆談です。「良いことがあるから安心しろ」と話されました、と書きましたら阮さんはアイヤッ!と奇妙な声を張りあげて飛び上って喜び、

「よかった、よかった、貴方勝ちましたよ。南京から再審命令が来たのです。それでなければ安心して待てなどとは言う筈はない、アイヤッ無罪無罪、やっぱり神様だ。無罪ですよ。」

 阮さんは既に無罪宣言でも下されたように独りで喜んでおりました。

「あの曹通訳が貴方にそんなに好意をもっているとは知らなかった。これからは毎日私達看守の仲間から連絡員を出して情報を得よう」というわけで、それからは毎日毎日いくらでも全部の情報が入手出来るようになった。縛られても自由自在とはこのことで獄中で何事でも判る。

看守さん達は私を監視する役目なのに逆に私のメッセンジャー・ボーイとして活躍したような形になってしまいました。


 或る日曹大佐より通信をいただきました。その紙片は鉛筆の走り書きの日本文で、

「南京からの命令書が来ていたが、葉(ヨウ)という審判官が格納して見せないので内容が判らなかったが、今日ようやくぬすみ読んで判った。葉が便所に立った留守の数瞬に机上の書類を早いとこ読んだのでくわしいことは判らないが内容はコレコレ」

と摘記してあります。それが又不思議にも私が直訴状記載の資料として摘記して、阮さんにお願いしたものと同様なので実に驚き入りました。

 これはえらいことになった。人間は死なない生き通しの生命だ、と実相の世界のみを見詰めて暮して来たが実相のみが生き通しなのではなく、肉体人間の方も死にはせんぞ。

この調子なら肉体のまま、肉体をひっつけて祖国日本へ帰れるぞ。曹大佐の連絡によれば無罪は間違いない。大喜びと同時に限りない大愛に感謝を捧げました。


    愛のハガキ五枚

 〝笑う門には福来る〟との古い諺がありますが、次々起る良いことの連続によろこびと感謝を続けておりましたら、なおよろこばしい訪れがきびすを接してやって来るのでした。

 これまで、夢の中では自由に家族に会うことも出来ました。生長の家のみ教えをいただかない以前にも、よく夢で故郷に帰り、一家団欒のよろこびを満喫して楽しんでおりました。

夢覚めてみれば、現実には足枷をつけた死刑囚の身で夢の世界が楽しかっただけに、ひとしお強く悲哀の情をもよおしましたが、それでも夢の世界は楽しいものでした。

やっと夢の中でのみ出会うことのできた家族のたよりが獄中にも訪れて来ました。

最愛の妻と二人の娘が出してくれた五枚のハガキが到着したのです。十一月二十九日のことでした。

その現し身ではなく紙に字を書いただけのハガキでしたが、消息もわからず心を痛めていた矢先きでしたから、その嬉しさは天にも昇るばかり。

暫くは妻子のハガキ五枚を抱き締めて涙にくれました。

「お前達も生きていてくれたか! お父さんも生きているよ。生きて帰れるよ。」

現実に妻子に会った以上の悦びでした。


 この五枚のハガキによって妻子は無事台湾台北を引揚げ、郷里福島に帰っていることがはじめて判りました。これで味噌だらけの漢字新聞の記事が嘘だとハッキリ致しました。誰も妾になっていない、みんな無事なのだ。

死刑囚の一番気がかりなのは家族の安否でしたが、それまでは全く音信不通で日本国内全体の様子さえわかりませんでした。殺されるにしてもせめて家族の安否を知ってから死にたい、と切実に思っていたものでした。

五枚のハガキの内容は皆同じで

「台湾を無事引揚げ、故郷で三人共健康で暮らしているから、お父さん安心して下さい」

と書いてある。

ハガキの表も裏も郵便局の消印だらけ。その中の一枚には四川(シセン)省の消印さえあるものもあり、五枚のハガキは一ヵ月から三ヵ月も投函の日付が異っています。日本も敗戦のゴタゴタ、中国も勝ったとはいえ、内戦継続中のさ中、その中をめぐりめぐって獄中に到着したのです。


 妻子のハガキを手にして以来、身体中に不思議な活力が充実して来ました。家族達が無事に故郷にいる! よし、こうなればどうしても自分も肉体をつけて、無罪となって無事に日本に故郷福島に帰るぞ。

大した元気です、胸を叩いて「ドンと来い」と素晴らしい勢いです。

女性の力は大したものです。夫たる男性をたちまちのうちに蘇生させますからね。

なぜ五枚とも同一内容の文面のハガキを出したかということを復員してから家族達にたずねました。すると今井豊平さんのお話では「家族が心配で死に切れんというている。無事でいることを知らせてあげて下さい」ということだったので、どのハガキが着くか判らないので同じ内容のものを百数十枚、毎日投函したと判明したのです。

このハガキを持って来てくれたのが阮さんです。

「家族の手紙で嬉しいでしょう。」

「ええ天にも昇る心地です。」

「それはそうでしょう。〝今朝子〟 〝蔓(のぶ)子〟 〝喜代子〟とありますがみんな貴方とどんな関係の人々ですか。」

「今朝子は私の妻、愛妻の名です。蔓子は長女、喜代子は二女の名前です。」

 こういうと阮さんは、

「ノブ子さんは幾つですか?」とたずねますので年を教えますと、

「美人ですか。」という質問、

「素晴らしい美人です。」

「キヨ子さんはどうです?」

「これも姉におとらぬ美人です。」

「アー謝々(シエシエ)」といったわけでひどく大はしゃぎ。

「貴方ばかり嬉しがらんで国元の家族の人達に、こちらから手紙を出して喜ばせたらどうですか」と阮さんはすすめてくれる。

「それは喜びますが、第一金が無い。」

「お金は心配せんでよい。私が出してあげる。日本はどんなに遠い国かわからないが、中国の郵便切手を、たくさんはったらきっと届くに違いはありません。」

 こう深切に書いてくれるので、一枚の封緘ハガキのようなものを貰って妻宛に出しました。これが十二月二日です。この只一枚の手紙が故郷福島の吾が家に届いていたのであります。

復員後この手紙を妻から示されて驚きました。私はどうせ届く筈はないと思っていたので、すっかり忘れておりました。後で読み返してみると、内容はなかなか徹底したことを書いているのです。一部を引きますと、

「前略……僕は大丈夫生きて帰るから安心して呉れ。来年春頃になるだろう。

僕の再審公判も明三日であるが、凱歌は吾にあることは間違いない。お前達の無事を知って私は勇気百倍しているから難関は必ず突破することは間違いないと確信している。

……この手紙が届いてもこの宛名で出さんでよい。その頃は内地に向っての途中になるだろうから。……あとは手紙出さぬ。身体が帰るのが早くなるから」

といった調子で自信満々、神と一つなるが故にいかなる難関も突破出来るとの心境は今になって自分で自分の手紙を見て驚きます。

実際は十二月八日に無罪の判決があったのですが、既に一週間前の手紙に日本に帰ることを述べてあります。

その一枚の手紙にはりもはったり中国切手二千円がはってありました。

いかに物価が高いところとは言え、めくら滅法に二千円も切手をはってくれた阮看守の愛の深さには頭が下がります。この死刑囚の家族にどんなことがあっても通知してあげようとの切々たる愛念の裏付けがなければこのハガキも届く筈がありませんでした。


 家族から来た五枚のハガキは今一枚も残っておりません。運動に出た時に余り嬉しくて戦犯の同胞諸氏に見せましたところ、我も我もと持って行ってしまって誰も返してくれません。

皆さんはこのハガキが日本製だ、日本から来たのだというだけで祖国日本懐かしさの余り、他人の女房の手紙を抱き締めて泣いているのです。

五枚共誰の手に渡ったのか次から次へ渡って私の手もとへは遂にかえって来ませんでした。

外地にいた人々、殊に戦犯受刑者の方々がいかに祖国日本を愛していたかという一つの証左としての面白いエピソードだと思います。


    獄中への密輸入

 十月下旬から十二月六日迄、前後四回、再審の予審と公判があるというので、軍事法廷からの喚び出しに応じて出頭致しました。或る日はトラックで或る日は徒歩で出廷致しました。


 徒歩でも足枷はそのままです。監獄と軍事法廷との間は約半里の道程ですから鎖の足枷をつけたままでは容易じゃないのです。そこで窮余の一策を遂に案出致しました。褌の耳をさいてなって紐を作り、これを足鎖の真中頃に結んで、その一端を手に握り、歩行のたびに紐をつり上げつつ、鎖の重量を手に受けて歩きますと大変楽に歩けるのです。


 此処は思い出の道路です。かつて入獄の当日は悪童共に石をぶつけられて、血を流しながら惨憺たる有様で通った道路です。今は輝く世界を見て、何を見ても嬉しい、楽しい、有難いで合掌礼拝しての往復です。

考えればその道の付近には私に投石した悪童が必ずいるに違いないのですが、今は一人としてそんな悪童などはおりません。街行く人達はみんな深切で深い愛をたたえた人々ばかりです。

まことに「立ち向う人の心は鏡なり」と教えられている真理の正しさを身をもって体験させられたのでした。

石を投げられるのは、私の心の影であることに間違いなかったのであります。


 眼に見える世界の出来事はことごとくおのれの責任である。良いことだけはおのれに帰し、悪いことはひとの責任だ、と逃げることは唯心所現の法則を自分勝手に都合のよいように利用していることになるのだろうと思います。


 法廷へまいりますと、いつも深切な曹大佐(通訳)が迎えてくれます。心からの深切で、たとえば着くと、

「いやあ、御苦労様です。実はね、まだ海南島から回報が到着しないので、開廷は出来ない。奥の日本間は、そのまま畳のへやになっているからそこでゆっくり夕刻迄休養したまえよ。警戒の憲兵にも話をしておくから」

 といったようなことで深切極まる待遇をしてくれ、涙なしには受けられない程でした。この有難い人を鬼か蛇のように恨んで「殺されたら貴様のところヘイの一番に化けてやる」なんて脅していた。顧みて全く穴があったらはいりたい位の恥しさに襲われたことでした。


 畳の座敷というものは何ともいわれぬ落ちつきがあり。獄舎のコンクリートの床に寝起きしていた者にとっては座っているだけですっかりくつろいでしまう位でした。

 そこへ残留日本人の方、特に婦人の方もお集り下さいまして、御馳走を持ち寄って下さり、大変歓待を受けました。

「これから無罪になって日本に帰るのだから身体を大切にして下さいよ。」

「法廷は必ず無罪にするが、第一、再審を受ける貴方自体がしっかりしなけりゃあ」

と肩を叩いての激励です。涙が出る程嬉しい。獄中では見ることも出来ぬ新聞を読んだり、抑留以後の日本の情勢等を語り合ったりして夕刻近くまでゆっくり休養致しました。

婦人の方々が「煙草をもっていらっしゃい」とおっしゃるので、

「検査が厳重で、通過の見込みがないからいりません。朝からいろいろな煙草をいただいて、もうお尻から煙りが出る位喫ませていただきましたから当分効きめがありましょうから」というと、

「検査の時に発見されたら、看守さんに差し上げたら良いですよ」というわけで、軍服の四つのポケットへ一杯外国煙草を入れて下さいました。

「煙草ばかりでは駄目です。マッチも携行せねば」とて、薬のついた棒を短く折って、戦闘帽の内側に隠して植えつけてくれ「臍を出しなさいマッチの薬紙で臍を隠すと素晴らしいまじないになるから」と、言って、臍にそれをはって貰いました。少しこそばゆい感じですね。


 憲兵に連行されて、監獄に帰りました。身体検査の時どうなるかと思っておりましたところホンの形式だけで、ポケットから煙草がはみ出して見えているというのに、看守はその煙草の入っていない所ばかりを、チョイチョイと触わって「好呀!」よろしいということで無事通過してしまったのです。

中島君も私も沢山の煙草を持って無事に通過したのです。実に不思議なことで、それが一回だけならまだしも前後四回とも、同じようにパスしたのであります。勿論臍などの詮議はありません。臍の方も無事安泰でありました。


 監房に近づくと吾々の足鎖の音を聞きつけた同胞が房内から、

「八号室のお父ちゃん、公判の結果はどうだったか」と心配そうにたずねます。

「公判はなかった。海南島よりの回答がまだ来ないそうです。畳の室で休養して来た。そこで日本の女性に会ったよ」というと、

「ヘエ、うまいことをしたな」という者、「女性って若い人かい?」と聞く者。

「四十がらみの年配の人達だ。」「そうかとにかく良かったな。自分も殺されるまでに、一目で良いから、日本のその女性に会いたいな。」


 若い死刑囚は日本女性ということばを聞いただけで自分の母を思いしのんでもう泣いているのです。

そこで「今日は皆さんにおみやげをやろう」というと「何ですか」という質問。

「何だか夜になればわかる」といい置いて八号室に帰りますと、早速臍からマッチの薬紙をとって、寝台の裏の適当のところに飯つぶではりつけ、煙草は寝台の下などに隠匿致しました。

二百本余の煙草ですから、大量に仕入れたわけです。さて、このタバコを獄中からどんな風にして、日本と台湾の戦犯の人々に分配したかを申しあげましょう。


 話は少しさかのぼりますが、八月頃のことでした。運動に出たときにいろいろな方法で隣房同士が、密談し会って、右から何枚目、上から何枚目の煉瓦に穴をあけると申合せ、古釘や硝子の小片、針金など拾って来て、その申し合わせた煉瓦に両房から穴をあけたのです。


 外側の一枚だけが、本物の煉瓦ですが、中程はしっくいや、石炭で施工してあるだけですから、そこまでほればあとは箸の先でも容易に穴をあけることができます。こうして、次から、次へと小穴を通しました。

この穴がそれ以後は実に便利な役をしたわけです。コンコンとノックする。応答が来る。「第何号室に電報だぞ」といって伝達すると次々と送られる。暇つぶしによくそんな戯れをしていたものでした。勿論看守に発見されたら叱責ものですが、そこはさすがに日本軍人だけあって精密検査の時も、各室とも無事通過しました。平常は小穴に紙をはって煉瓦の粉を使って同じような色に染めてありましたから、一寸見ただけでは気付かないのです。長い間に一回も発見されたことがありませんでした。


 その連絡孔を煙草の配給に使ったのです。真夜中になりますと、看守の巡邏も数少くなり、獄中の暗いのもまた幸いなるかなというわけでまず戦闘帽に植付けてあるマッチ棒と、寝台裏の薬紙とによって点火し、煙草にも火をつけて、隣房に合図を送る。そして箸の先きに火のついた煙草を突きさして、ソーッと送り出して伝達する。

「煙草は沢山あるぞ。此の監房全員分ある。煙草は火の消えないように一寸吸って直ぐ箸の先で隣へ隣へと送れ。」

 こういって火をつけては送り、つけては送り、イヤハヤ発送係はとても忙しいことでした。しかし皆さんが喜んでくれることを考えると実に嬉しいことでした。真夜中に堂々と大っぴらに、モウモウとけむる程煙草を吸ったのは、実に愉快でした。二百本余は忽ち一夜にして配給を終りました。


    遂に無罪の宣告

 予審だ、公判だ、ということで、前後四回にわたって出廷したのでしたが、海南島から未回報のためということで一回も訊問もなく経過しました。遂に十二月八日となりましたところ、今日は予審も公判も行わず、すぐ判決言渡しがあるからとの通知を受けました。

予審と公判を省略しての判決言渡しとはちょっと変ですけど、裁判やり直しの再審だから、又々死刑の言渡しもあるまい、海南島からの回答は必ず私達の利益になることに間違いない、そう信じておりましたので落ちついて憲兵に連行されて、軍事法廷に到着致しました。


 法廷の内外は、なごやかな雰囲気です。死刑の宣告を受けた当日とは雲泥の差で、着剣の武装憲兵は一名もなく、審判長席には真紅のカンナの花鉢が置かれてある。その空気だけで「今日は無罪だ」という感じを受けとりました。控室には、残留日本人が多数おられて、必ず無罪だと励ましてくれます。その上曹大佐が来られて、

「九分九厘まで大丈夫だと思うが必ず余計なことを言わんように」と深切に注意をしてくれました。


 開廷の振鈴と共に入廷。被告席に着いておりましたら、通訳曹大佐、検察官、審判官、審判長の順に入席、心なしか皆にこにこしている感じです。


 審判長陸軍少将劉賢年氏が中国語で判決文を朗読して無罪を宣告しました。通訳曹大佐がそれを日本語に訳して無罪の言渡しをしてくれました。すべての人々が、ニコニコ顔です。全くあっけない位五分間もかからずに、無罪の宣告がくだったのであります。その瞬間でした。審判長の前に「バァーッ」とまん円い光の輝くのを感じました。その瞬間「ああいよいよ肉体をつけて日本に帰れる!」と思われて涙がどっと大波のように押しよせ押しよせ、ただただ合掌礼拝したのであります。


 審判長は深切に「何か言うことはないか」との問いですので、海南島で一緒だった平林少尉も当然無罪の人で、犯罪人ではない旨を申し上げました。

「それでは日本文でよいからその証明書を書いてくれ」とのことですので、早速その由を書いて置いてまいりました。

「海軍少尉平林勲氏は終戦二十日前に、海南島の勤務地璟山(ケイザン)に到着した。その当時は日本軍は全然戦闘せず、この間に死刑に値する犯罪を侵すことは不可能である」

 と証明書を認め、署名拇印して差出したのです。(平林少尉は岐阜県の人、無罪になって生還致しました)控室に待期しておられた残留日本人の方々も非常な喜びです。

「無罪は当然のことだ!万才、万才」と胴揚げです。有難うございます、有難うございますと私はただ感涙のみ。

言渡しの際曹通訳は無罪判決の「理由」を力を込めて、訳読してくれ、南京中央政府の命令書内容を続いてのべてくれましたが、その内容は、

「敵軍偽軍を教唆して犯罪を実施せしめたりとあるも、その当該敵軍偽軍とは如何なる名称の部隊なるや。被告の直接指揮する部隊なりや、抑も被害人は何処の者にして又何人なるや、ひとしく判明せず。尚犯罪の具体的事実を指摘せず、又何等具体的証拠を挙証せず。」


 そんなことで、死刑を言渡し得ないという、きびしい詰問状同様の南京からの指令書なのです。全く驚きました。南京では私の直訴状と同様のことを詰問している。実に素晴らしい有難いことでありました。


     釈   放 !!

 中国は、ノンキというか、「のんびり」しているというのか、全く「漫々的(マンマンデ)」なところがあります。吾々を無罪と宣告したので、そのまま戦犯収容所へ帰すのかと思っていたらそうじゃないので、鎖の足枷もとってくれません。釈放もしてくれません。又々憲兵に連れられて、もと来た道を今度は気だけは軽く、自然チャランカチャランカと鎖の音も軽やかに監獄に向いました。「これはどうも道がちがうのじゃないかな」と思うのですが致し方ありません。

又々第八号室の住人となりました。獄中の日本戦犯の方々はみんな、無罪だよかったよかったと祝福して喜んで下さいました。「無罪だというのに元の室に入るとは少し変だね」と言って笑っていました。そのうち何か指示があるだろうと思っておりましたが、十二月九日もなしのつぶて、十二月十日の朝食を終えても何の話もない。

「何の音沙汰もないが忘れちまったんじゃないかい?」と私が言いましたら、中島君がうまいことを言いました。

「オヤジさんよ、まァ宜しいですよ。こういう処は滅多に来られる処じゃないから、ゆっくりと一つ休養して行きましょう」それですっかり愉快になって爆笑してしまいました。


 十日の夕食(午後四時夕食)直前のことでした。あの有名なデメ金看守長がやって来て最敬礼をして「どうぞ出て下さい」というような丁寧な仕草を致しました。中味が空に等しいリュックサックを携えて、監房の皆様に別れの挨拶を致しました。

この別れは最もつらいことでした。死刑だ、無期だと宣告された数多の日本の方々がおられます。自分だけが助って帰るのでは挨拶もロクに出来ない。コソコソと逃げるように出ましたが、後髪を引かれる気持ちでした。

「日本に帰ったら、『広東の戦犯全員が無実の罪で泣いている』と必ず日本の皆様に伝えて下さい、お願いします。」と号泣している声が後ろから聞えるのです。

 デメ金に連れられて、足枷の室にまいりました。挺子で二人の看守が、エッサエッサと鉄の鎖を足首から外してくれますが、容易に取れません。エイサエイサとやっております姿を見て、感慨無量でした。入檻の時には、ドカンドカンと大きな鉄鎚でドヤされ締めつけられて、生きて再び鎖を取るなんて考えても見なかった。

それが無罪釈放で鎖を外して貰えるとはまったく夢のような有難いことでした。

看守らが余りに力を出して、エイサエイサとやったものですから、そのうちに鉄環がふたつともボッキリ折れてしまったのです。一貫五、六百匁の鉄製の足枷はここに百九十六日ではずされました。

観世音菩薩として足枷を毎日礼拝して磨いておりましたので、ピカピカ白く光っております。神想観の導きでズボン脱ぎに成功した瞬間心の底に「この鉄の鎖もはずせる」とチラッとひらめきましたが、そのひらめきが現実となってあらわれて来たのです。実に感無量でありました。

半年以上も、寝ても起きても離れることがなく、まるで身のうちの一部分にすらなってしまったような鎖さんにもこれでいよいよお別れかと思うと一寸感傷的になり、惜別の情すらわいてくるのでした。

今まで寝る間も起きる間もつけ続けていた一貫五、六百匁もある鉄鎖をにわかに外しますと、あんまり足首の方が軽過ぎて、フラフラして歩行出来ません。習慣とは恐ろしいものです。しばらくは一、二、三、四と号令をかけて歩く練習です。まるで頭でっかちになったようで足がフラフラ致します。鉄環で摺れて、足首に白い環が出来ていましたが痛みはないのです。


 そうして遂に歩行にも成功したので職員にもお別れの辞を述べて正門から釈放されました。

そこから憲兵に連れられて船待収容所にまいりました。祝福されたる十二月十日午後三時でした。

監獄よさらば!

すべての人々に幸多かれ!

一足お先に日本に帰ります。


『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(10) (3733)
日時:2016年10月08日 (土) 14時00分
名前:地湧の浄土

    

    夢に見たあの寺へ

 憲兵六人にまもられて、白雲山の南麓の一寸小高い処にある立派な山門のある大寺院にまいりました。

その山門を仰ぎ見て驚きました。それは八月二十日の夜半、南無妙法蓮華経の七字の名号と、戦犯釈放の文字が大きく浮かんで重なった夢を見て自分はグワーン、と空を飛んで終りに山門に突入して夢がさめたのでした。

が、この時連れられて来た山門があの時の夢の中の山門に正しく間違いないのです。不思議なことがあればあるものです。


 ここは「虚無観三元宮」という道教のお寺です。金銀その他の貴重なものがピカピカちりばめてある竜宮城を思わせるような荘厳な姿で、あたりには名もわからない珍鳥数知れずさえずり廻っております。信者達が放鳥したのがしだいに繁殖したものでしょう。極楽世界とは正に此処だろうかと思われた位美しい景色でした。


 この三元宮には「谷神(こくしん)」という神様を祭ってあり一切のもの谷より生れるという道教の思想では谷神は生みの神様であり、したがってお産の神様なのでしょう。

妊娠しているご婦人(中国人)の参拝者は毎日数百人を下らず、大した繁昌ぶりであります。私達は何も用事がありませんので、毎日日光浴をして暮しておりました。


 参拝者達は、道教の神々に、供物を捧げ終ると、私達にも焼肉とか、赤いまんじゅうとかを供えて礼拝します。最初は面喰っていましたが、毎日のことですからだんだん慣れて、しまいには、「有難うございます」と合掌礼拝して応じるようになりました。

その時のお供えものが憲兵さん六名と、私達二名計八名ではとても食べ切れない位沢山ありました。そなえる方はまさかついこの間迄死刑囚だった人間だとは知りません。

乞食は三日したらやめられないと申しますが、確かにそういう気持になるに違いないと思われる位豊かに恵まれました。


 この寺に二月の中頃までお世話になっていましたが、その頃は日光浴するには丁度よい時節でポカポカと実に暖かいのです。護ってくれる憲兵さんも、お寺の道士さん達も、参拝に来る一般民衆の方々も、皆深切な方々ばかりでした。


 約一ヵ月位たった時、七名のやはり日本人で死刑を宣告された戦犯が無罪になって釈放され、我々と寺に同居するようになりました。大分県の人々でした。

どうも私達が無罪になってから軍事法廷は相当いろいろ考えたらしい様子です。「疑わしきは被告の利益に帰すべき」ことが「愛の裁判の根本義である」ことを真剣に考えたらしい。その後、懲役の方達が又々無罪になって出て来ました。


 又、憲兵小隊長の好意で「判決書」をいただきました。そして日本軍から受領したテントと蚊帳が山のように三元宮に野積みにしてありましたので、そのテント布で憲兵達が手製の「リュックサック」を作ってくれまして、その時背負紐に判決書を折り畳んで縫い込んでくれたのです。そうしないと、波止場で検査の際没収されると聞かしてくれました。


 私が只今所持している判決書はこうして織り込まれたものを、吾が家に復員後リュックを解いて取り出したもので、今は紙で裏打ちしてあるのであります。


 あの阮看守さんも、時々慰問に来てくれました。会っても言葉は通じませんから筆談です。

「貴方達神様を助けたから、私の任務も完了しました。日本人を中国から追出したので中国は赤化して滅びるほかはない。私は山奥の故郷へ帰って百姓をします」

というので、私は、

「あなたはいのちの大恩人です。将来も文通したりしたいし、又再会の機会がないとも限らない。あなたの百姓される故郷はどこですか。どうぞ教えて下さい。」

そうお願いしますと阮さんは、

「問う勿れ。貴方は日本再建のために一所懸命に働いて下さい。そうして私という中国人がおったことを時々思い出してくれたら、私はそれだけで満足です」

と書いてくれたのです。私は思わずうなりました。感極って涙すら流れる程でした。


 曹広科大佐も時々来訪してくれました。軍事法廷審判長劉賢年少将もわざわざ来て下さって通訳を介して、

「あんた達を六ヵ月以上も鉄の鎖でつないだが、それは決して報復として苦しめたものではないのだから、諒解して下さい」と申されました。わざわざ諒解をうるために来られたらしいのです。


 二月中旬に、リバティー船に乗せられ、他の人々と共に上海に送られました。

乗船に際し所持品の検査があり、身体検査がありました。『生命の實相』第六巻と筆写した『甘露の法雨』と『天使の言葉』とは警察、税関、省政府、保安隊と多くの中国検査機関を通る時合掌礼拝しておりましたら、いつの間にか無事通過しておりました。


 携帯品は何も持っていません。三元宮にいる時に作った蚊帳の蒲団だけで、ほかに隠す処がないので『實相六巻』と『甘露の法雨』を筆写したものとを最上部に出して別にかくそうともせず検査の時には出して見せました。

中国では官庁間の横の連絡がないのか一つの機関が検査するのではなく、何種もの各機関から多勢の役人が検査にまいります。まず警察、次に税関、省政府、市政府、何々何々と大変な回数です。その度毎に全部合掌礼拝で検査をパスしました。

質問されても言葉がわかりません。「フニァフニァ」何の本かというらしいのですが、答えようがないのでジーッと合掌しています。しばらくして目を開けると、役人は遠くへ行って、『實相』は残っている。

或る強気な役人は「フェニァフェニァ」容赦はせんぞ、との態度で『實相』を持ち去ったのですが、瞑目合掌して神様神様と感謝しておりますと、しばらくしてからわざわざ『實相六巻』を返しに来ました。

 判決書はリュックサックの背負紐の中に縫い込んでありますので、無事安泰でありました。



 以上でいよいよ帰還の道はついたのですが、以下に戦犯生活中或いは海南島時代のいくつかのエピソードをお伝え致したいと思います。何ともいえぬ人情もあって一人だけの心にしまって置くのはもったいないのです。



    死を前にしての懺悔

 広東軍事監獄生活中私の隣房に顔(ガン)某という台湾戦犯がおりました。どんなことで投獄されたか詳しいことはわからないのですが、もと顔さんは台湾の公学校訓導であったが、海南島にいち早く来島し、海口(カイコウ)市で大きな食堂を経営していたのを憶えています。

この人が獄中でアミーバ赤痢に罹って、重態に陥り、命旦夕に迫った時、それを自分でも認めたのでしょう、或る日私がその室の前を通りましたら彼の室の覗窓から細い青い手が、かすかに震えつつ出ております。不審に思って覗きましたら、

「遠藤さん、顔は悪い男でした。このことを、日本人にお話しして死にたいと思っていたのです。私は今アミーバーにやられて今日か明日かの寿命です。

実は囲州島(いしゅうとう)に、フランス軍を侵入させ、日本軍警備隊を全滅させた、その道案内をした、つまり内応したのが私なんです。このことをお話ししないでは死んでも死に切れない感じでした。

ああ、これで安心した。私は日本人に引立てられて出世もした。金も出来た。その反面私は、日本に対して反逆的行動ばかりして来た。囲州島で無念の涙をのんで殺された海軍将兵に深く深くお詫び致します。」

 以上のことを息を切らし、喘ぎながら懺悔したのであります。この顔という人は、余り好感をもてない方でしたが、囲州島事件の密告者とは驚きました。


 海南島と雷州半島との中間に、囲州島という小さな島が在り、海南島から一コ小隊位の陸戦隊を派遣して警備していたのです。それが終戦幾日前だったかよく記憶はないが、フランス軍が上陸して、陸戦隊は全滅したと聞いておりました。顔が手引きしたことを本人より獄中で懺悔されたのです。


 顔はその夜七顚八倒の苦しみを致しました。隣房に只一人いたので、ドタン、バターンと鉄扉や壁、寝台などに激突する音がまる一夜つづいたのです。明朝看守がのぞいた時には、堅く硬直した、死骸となっていたということです。

獄中で病気になっても、医者もなし、薬もなしで重病者は死ぬより情けない状態でした。しかし顔さんも最後に懺悔して心を浄めてあの世へ旅立って行かれたことがせめてものなぐさめでした。


 海南島にいる当時でした。私の部下であった、海軍巡査某に対し現地応召の赤紙(召集令状)がまいりました。即刻本人の駐屯地へ電話で知らせ、令状は警務庁顧問室に保管してあるから、応召について遺憾なきよう申し送りました。

ところが本人はそれっきり行方不明となり、逃亡してしまったのであります。期日が来ても、更に姿を現わしません。警務庁関係者は青くなって捜索に努力したが、とうとう発見出来ないで終戦となり、責任者たる私が部隊から始末書をとられた上、副官からさんざん殴られてそれで事件は済んだ形になっていました。

二十年十一月頃になりまして、彼が逃亡兵として、中国側に逮捕され、璟山監獄に投獄中だとの情報を得、捨てても置けませんので中国側と交渉しましたが、結局は「金八十万元で出してやる」とのことでした。当時集中営生活中の私達にそんな金の工面が出来る筈もなし、放任してありました。二十一年三月十三日私達は戦犯として拉致され、広東に護送されて戦犯収容所に拘禁されました。


 二十二年二月頃の寒い日のことでした。海南島から逃亡兵達が護送されて来たのです。二十名位でしたが、満足に軍服を着用しているものはなく、南京袋(米袋)をかぶったり、ひっかけたり、まるで着物の形をしておりません。その上寒さのためブルブル震えています。

その時今井豊平君が、その中の一人が確かに○○巡査だと言うので、みんなしてヨクヨク見ましたら、やっぱり本人なのです。

骸骨みたいに痩せ衰えた姿は、自業自得とは申しながら余りにも無惨なので、皆からシャツでもパンツでも良い○○巡査が寒くないように与えなさいといってわけ与えたところ同僚達(戦犯者)からの切々たる温情を感じたか、

「皆さん有難う。遠藤顧問には何としても合わす顔はない。どうぞ私が悪かったとお詫びしてくれ」と言って泣いたそうです。


 その夜彼が重態との報せで同僚数名と共に急行した時は既に人事不省の状態でした。極度の栄養失調のためです。苦しい息の中から、

「顧問、遠藤顧問、誠に申訳ない。私が逃亡したため、御迷惑をかけてすみませんでした。死の最後に当り深く御詫び申し上げます。皆様のおられる此の広東で死ねることは誠に有難い。どうかどこでも良いから土葬にして下さい」
 と申し終って息たえました。

「この男は、最後のトコトン迄世話をやかす奴だ。葬式迄頼んで行くとは正に徹底した奴やなあ」とかつての同僚達はぼやきながら土葬をしておりました。


    心打たれた人々

 ある公司(コンス)の支配人中村三郎氏(当時三十三歳位)は実に立派な人でした。

海南島戦犯中只一名の民間人であり、只一人の民間人の死刑囚でした。○○薬草栽培の全責任を負って死んだ人でした。

まだ広東の収容所にいる時に、「海南島の特務部は終戦書類の中に○○栽培の書類を入れてあって、証拠を握られているのだから、自分は全責任を負う心算だ」と話をしていました。前々から深い覚悟をしておられたらしいのです。

軍法官から「お前以上の責任者がある筈だ」と追究されても、「自分だけだ、勝手に栽培したことは間違いない。私を死刑に処すれば事足るのだ」と主張して絶対に他に責任を転嫁しなかった。実に立派な態度で、古武士を偲ばせるものがありました。

 その時現に収容所にいる人々の中に、中村さんの一言によって、死か、生かをさ迷う一、二の方がおられ、その方達は中村が余計なことを言いはせぬかとまるで神経衰弱のようになっていたのにひきかえ、中村さんの言動には全く立派なもので思わず襟を正さしめるものがありました。


 もう一つ感心したのは恩を忘れぬ及川さん(憲兵軍曹?)のことであります。

終戦後は、何処でも下剋上の行動が一般通念となっていました。元憲兵司令官○○少将は死刑囚でありましたが、健康を極度に害されていた様子でした。及川さんは、何から何迄全部まめまめしく看護しておりましたが、実に他から見て立派だなあと感じました。

「部下をいじめた天罰だ。世話などしてやる必要はない」と言っている元の部下の方もいる中で及川さんの態度は光っておりました。残念なことにこの司令官は死刑をまたず病死(獄死)されました。


 獄中には昼間だけ使用を許される便所があります。横の仕切りはあるが前に扉のない便所です。看守が監視し易く建ててあるらしい。長く跨って用便し急に立ち上がると眼がクラクラするのです。衰弱していますからね。或る日私が蹲っている隣りの便所から立上ってバターッと倒れられたのです。

及川さんが駆けつけて「司令官、司令官、閣下確かりして」と声をかけられても、それっきり動かれませんでした。及川さんは万策つきて死骸を抱えて司令官の獄舎へ運ばれました。実に尊い姿であり立派な心だと思いました。

その頃はかつての上官をそのように大切にする人はなかなかいなかったのです。報恩の行動ほど立派なものはありません。利害得失を離れた行為は誰が見ても清らかな立派なものにうつります。  


    四 つ の 夢

 海南島から広東へと戦犯拘留処を廻されているときはむしゃくしゃな気持の連続で夢だって良い夢などみる筈はなく取りとめもない夢を数々見て苦しんでいたのでした。

しかし、その頃、ハッキリとまとまった夢を四晩連続して見たことがあります。今考えますとこれは確かに高い霊界からの導きの夢だったと思われます。


 一つは、或る夜私が古釘のようなものを袋に入れたかなり重量のある荷物を背負って頑張りながら、或る小川に架けられてある土橋を渡ろうとしてる光景から始まります。

小川の向側には母が心配そうな顔をして私を見守っている。四辺には人は誰もいない片田舎の風景。遙か後方に焼けて廃墟となった町の姿が遠望される。重い袋の品物はその廃墟から持ち出した感じがするのです。
 
 その相当の重量の荷物を背負って、土橋を渡ったが、橋が朽ち腐っていたので、左足でずぶりと土橋に穴をあけてしまい、足が突き通りめり込んで歩くことが出来ない。

右足を踏み込めば、左足同様になりそうなので、困った表情をして対岸の母を見上げると、母は頭を左右に振り乍ら両手を拡げて、押し戻すような仕草をする。無理するなよ、戻れ、戻れ、と母が無言で言っているようです。
 ここで夢は切れてしまいました。


 第二はそのあくる晩のことでした。或る大河に架けられた鉄橋の上を徒歩で歩いている私がまず出て来ました。鉄橋の橋脚は次々とものすごいまでの大洪水による濁流に呑み込まれて、流れ去る。前も後も橋脚が次々に無くなり、私が立っている一基だけとなり、これも不安定にグラグラしている。

心細いこと限りないが、どうすることも出来ないでいる。濁流の上に父の姿が顕われてじーっと私を見つめている。そして、「濁流中に飛び込め!思い切って飛び込め!」と父が指示する。一かばちか、眼をつぶって飛びこんだところが、下は水のない河原であった。
 ここで第二の夢は醒めています。


 第三の夢では、最初私は厦門(アモイ)のコロンスの岩山に立っていました。アメリカの艦艇からの猛烈な艦砲射撃をこうむり、大きな岩のかげに隠れ、射撃される反対側、反対側と、岩を廻り廻って逃げました。その時、最後まで助かった者は、私のほか一名のみだったという夢でした。


 第四はダグラス機の乗客の一人として私が機上にいるのです。搭乗員が言うには「香港空港は敵に占領されて着陸できないから、或る大ビルディングの屋上におりる」と放送し、屋上に降下着陸しようとして失敗し、転覆して乗客は飛行機もろとも、その高層建築物の屋上からガラガラと墜落惨死をとげました。ところが私は転覆の際いち早く窓から飛び出して危く建物の鉄柵のようなものに掴まることが出来て、その柵を伝わっているうちにとうとう救援隊に助けられたという夢でした。


 どの夢も真に迫るものがあって、目覚めて後も心臓がドキドキして夢とは思われぬ程、強い実感の伴うものばかりでした。


 今回の戦犯容疑の件も、丁度以上の夢のように、相当ひどい目に会うという予感がしてはいました。そして一旦入獄となるかも判らないが、そのうちに講和成立ということで、きっと助かるという暗示的な筋書を御先祖様が夢を通してお導き下さったのだ、と思われます。


    心が水浴した

 まだ、戦犯拘留処にいたときのことでした。ここは広東の珠江(シュコウ)に面した、倉庫地帯にある倉庫の一つで、そこに丸太を敷き、板を渡してその上に日本戦犯容疑者が起居していたのです。

璟崖(けいかい)政府建設庁の参事官をしていた、相川某氏が、或る夜腹痛のため眠れなくて朝を迎えたが一寸その眼を見ると、容易ならぬ苦悶の色があるので、只の腹痛でないようだから軍医に診察して貰うことをすすめました。

その結果盲腸炎だから即時切除のため開腹しなければというので切開したのですが、「盲腸が無い」と医者が言う。綿密に探していたが、発見できない。もう既に腐ってしまったのだと言うのです。つまり手遅れということです。

腹膜炎となり俗に脳に上ったといいますが、本性を失った、ちょっと精神異状のようになってあらぬ言葉を口ばしるようになりました。それで海南島政府関係者で交替で看護に当りました。


 十一月頃のことで暑さは大したことないのですが患者本人は熱い熱いと喘いでいるのです。水枕をやり、ぬれ手拭で身体をふいてやるがそれでも熱がるのです。身体にさわると冷えてつめたいのです。そして、

「珠江へ飛び込んでザンブと水につかったらこの熱病は治るのだがなあ」と叫ぶのです。

真夜中頃にどうしても珠江に飛び込んで水浴する、と言って何と言って聞かしても、わからんのです。毎夜のことで当直の看病人はすっかり困ってしまいました。


 相川さんはこうして四昼夜程苦しみまして、遂に死亡されたのです。その相川さんが入室中に不思議な事件が起きたのです。

それは真夜中に容疑者全員の不時点呼がありました。綿密な夜間点呼です。

「日本戦犯者の一名が珠江に飛び込んだ、声をかけたら、そのまま水中にもぐり込んだのだから一名逃亡したに違いない」ということであります。

この収容所の監視兵が確かに一人飛び込んだのを見た、というのです。ところが点呼の結果人数は合致して不足していないことがわかりました。これと同じことが二晩も続いたのでみんな不思議に思っておりました。


 ところが今度はこの水泳の姿を日本戦犯の人で見たという人が出て来たのです。そして、その泳いだ人は盲腸手術をした相川さんだというのです。私達は否定しました。

「看病人がつきっきりで看護しているのにそんなことはない」と言うと、

「いや、間違いない。それは当夜下痢して監視兵の許可を行て便所(珠江の水中に落ちるように造られたもの)で用便中、確かに此の目で見た。頭は坊主刈で、しかも虫食い頭(相川さんは頭にところどころハゲの跡がある人でした)なんだから間違いない」

と見た人は主張する。

丁度その時刻相川さんは珠江に飛び込みたい、飛び込みたいと念願してそれを口走っていた。

生長の家の教えにふれてから、なる程あのことは有り得ることだと納得出来たのでありますが、その当時ただうす気味悪くてその後は夜中の便所には誰も行かなかった位でした。


    しじみ貝とり

 その珠江岸壁の倉庫にいた時のこと。広東に護送されてからまる一年、何の取調べもなく、拘禁のしっ放し。何の事件かさっぱり見当もつかない。

多額の所持金を持っている者など一人もあるわけもないし、みんなその日その日の小使銭もなくなって困っていました。

私は幸い海南島を出るとき、婇舅(モークー)女史から五万元貰って来ることが出来て、非常な助けとなったが、しかしこの先きどの位長いのだか見当もつかないのだからと思って倹約して使っていました。しかし部下六名と一緒に使う上、物価高の広東ではマッチ一個の値が二百元也という有様で、他の物価は推して知るべしというようなわけで、一年の間に一文なしになってしまいました。

こうなるとまことに心細いものであります。煙草も買い、時々は油菓子も買って食べたりしたのだが、もうそれも出来ないことになった。財布は全くのカラッポ。

ここでは昼間の或る時間は監視兵付きではあるが、岸壁散歩が許されることもありました。タン民の行商舟が集って来る。金があれば、何でも求められる。しかし金のない者は見るだけの眼の正月。


 そこで何か変った食糧を得たいと思っていたところ、或るヒントにぶつかった。珠江ではシジミ貝がたくさんとれる。毎日、職業として採取しているタン民もある。よし、ひとつ我々も監視兵にお願いして、一回幾名と限定して、日本人でシジミの採取をやろうというわけでシジミ貝とりが始まった。

三十分間位水中に入って取ると一升位のシジミが採れる。売ってもうける程にはならなかったが副食物として上る位はとれるようになった。

私も率先してシジミ貝採取をやりました。採りながらも自分の身辺をふりかえってみてつくづく考えたものです。

「落ちぶれたなあ。旭日昇天の勢いであった海軍司政官も臨時政府顧問官もやれやれシジミ取りとは。情けないことになったものだ。」

 するとその時に祖父の声らしきものが聞えました。

「夢を毎晩見ただろう。その通りなるよ。シジミ取りはまだよいぞ。これからだ。」

この祖父の声は事あるごとに私を導いてくれたもので海南島でも、時々奥地で難関にぶち当ると、祖父は何時もよいことを指示して下さってそれに従うと決して間違いはなかった。

祖父はいつも私の中にあって私を導いてくれたのでした。


    仏 の 忠 太 郎

 ちょっとここで私の家のことを申し上げましょう。こうした導きも、或いは生長の家を知るようになったことも、私の先祖と無関係ではないと思われるからです。


 私の家は曾祖父が分家して一家を成したもので、私で四代目となります。遠藤の姓を冠する家は部落内に現在十二戸ですが、みな先祖の代から曹洞宗に帰依している家柄でありました。

しかも祖父忠太郎はどんな事情かよく判りませんが一人だけ法華に帰依し、いわゆる一代法華信者となっていたものであります。

素晴らしい妙好人であったらしくひとのために名号をとなえて下さり祖父はよく妙法の功徳力で「血止め」「火傷治し」など修法して多くの人々を救いました。

祖父は、毎日私達の無事息災のため南無妙法蓮華経をとなえて祈って下さいました。戦地でもたびたび奇跡的な導きによって守護されましたが、それは祖父の霊が導いてくれたのであるとしか思われません。

このように妙好人であった祖父としてはその晩年は決して幸福ではなく八人もあった子女にことごとく早世されたのであります。私の父を初めとして、バタバタと若くして死亡したのであります。

神通力を持っていた祖父といえどもやはり祖先の信じた宗教を変更したことが不幸を招く大きな原因になっていたと思われるのであります。




名前
メールアドレス
スレッド名
本文
文字色
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板