| 『真理は死刑の鎖も断つ』遠藤義雄先生(2) (2980) |
- 日時:2016年07月22日 (金) 14時29分
名前:地湧の浄土
主 従 別 々 の 監 房 へ
そこへ雲突くような六尺豊かのしかも人相暴悪、眼玉のとび出た看守(後で判ったのですがこれは有名なデメ金看守長と呼ばれる男でした)が来て、第七号監房の鉄扉を開けて私にはいれと促す。
どうも様子では中島君は自分と一緒ではなく第八号らしい、「ハハァこれは別々の監房に投獄されるのだな」と咄嗟の間に気付いた二人はさっと堅く両手を握り合い。
「親父さんシッカリして下さいヨ」
「君も確かりせいヨ」
と言い合いましたが、この挨拶もこれが今生の別れかと思うと涙で目もかすみ、声もかすれて満足にはできない。せめて殺されるまでの間同じ監房で暮したいとの切なる願いもこれで断たれたのか、もはやすべてが万事休すだと思われて眼前が暗くなるようでした。
入りますと私の第七号には既に二人の先輩がいました。懲役五年と七年の戦犯でした。此の人達は有期懲役でしたから脚は鎖はつけられていない。同監者で鎖のあるのが私だけとなると実に面白くなくて、この人達をさんざん鬱憤をはらす材料にしたわけで、今にして思うと誠に申訳ないことでした。
一日に朝と夕に二回の点呼がありましたが、一度朝の点呼の時にチョイと失策したのをとり上げられてデメ金看守長にしたたか靴で蹴られてからはもう絶対に点呼に出ないことに致しました。
「明日にも死刑に處せられるのに点呼とは何事ぞ馬鹿馬鹿しい」と突っぱねていたので看守連中に憎まれてよく殴られたり蹴られたり、なま傷の絶えることなく、それでも「どうせ死刑だ、暴れるだけ暴れてやって殺されるのだ」とばかり頑張っていました。
広東というところは暑いところです。しかも六月が一年中で一番暑い時節なのです。まだスコールが来ませんから、その暑さは猛烈を極め、殊に死刑囚監房というものは、赤煉瓦に鉄の扉、高い所に小さな換気窓らしいものが一つあるだけという部屋ですから素ッ裸でジッとしているだけで汗がタラタラと流れます。
毎晩の温度は三十四、五度あったでしょう。それに蚊と南京虫に攻め立てられて、全く安眠などとろうにもとれぬ生活でした。生きながら地獄とはこのことでしょう。外から肉体は苦しめられる上内なる心はムカムカして人を憎み怨んで、「死刑になったのはみんなほかの人達のおかげだ。殺されたらバケて亡霊になってやる。覚えておれ!」といった調子で誠にも地獄そのままの生活をしていたのです。
主 従 悦 び の 再 会
入獄してから一週間目のこと、中島君が入られていた第八号室に同監中の某大尉が死刑を執行された日です。夕食一寸前でした。
例のデメ金看守長が「ギイーッ」と鉄扉をひらいて第七号室にはいって来たので、 「コイツ奴、又殴るか蹴っ飛ばすために来たのだな」と早合点して身構えていましたら、そうではない様子です。
野球のグローブのような大きな手で私の肩先きをムンズと摑んで「フニァフニァ」と叫んで顎でしゃくって外に出ろと促します。
殺しの呼び出しかとハッと思ったが、時間が丁度四時に近い頃でしたので、まあまあと安堵の胸をなで下して、廊下に出てみると隣房の第八号室の鉄扉が開いていてデメ金は「フニァフニァ」と叫ぶなり私を押し倒すように八号室に押し込んで、入ると同時にガチャガチャと鉄扉の鍵をかけて立ち去りました。
中島君はボンヤリとして壁にもたれて何か考えているらしく私が這入って行っても気がつかないのか黙って、高いところを見つめているのでした。それも無理もないので早朝同室から死刑になる仲間を送り出しました後なので我が身のことも思いくらべて自然死刑の事に考えが集中するものなのです。
ジャランジャランと足鎖の音をさせて近付いて、「オイッ」と肩をたたくとハッと我に帰った彼は、あれっという顔で、
「何時此処に来たんですか。」
「今よ、デメ金に押入れられた。」
「イヤア驚いたな。そうですか、私と一緒にここで暮すのですか。」
「うんそうらしいね」
というわけでそれはそれは感極まってガッシリと抱き合って嬉し泣き。
「親父、会いたかった。殺される前にとてもおやじにもう会えないと思っていたのによかったよかった、親父と共犯ということになっているし、同じ監房にいるのだから殺される時も一緒だ。オヤジと一緒に殺されるなら私は本望だ。」
「うんよく言って呉れた。中島君よ、有難う有難う、此の期に及んで何も言うことはない、シッカリゆこうぞ」
と抱き合ったまま感激の涙は出しっ放し。中島君は背の高い大きな男で、私を子供をかかえるように抱いているので私は丁度彼の胸のあたりに頭を押しつけているかっこうになるので彼の流す涙がみんな私の衿首のところにボタボタ、ボタボタと落ちてくるのでした。
この時の嬉しさは経験のない人には想像も出来ますまい。生死をともにして働いて来た上官と部下が獄舎の中で別れ別れにされ、もう死ぬ迄相会うことは出来ぬものとあきらめていたのが、全く予期も出来ぬチャンスでめぐり会うことが出来て、私達二人は全く抱き合って男泣きに泣きつくした程のよろこばしさでした。獄舎の中にもこうして歓喜は訪れ始めたのでした。
どうせ死ぬなら花々しく
私が第八号室に移されてからは私も中島君も大いに元気を回復してしょんぼりしていたこれまでの反動のように、つきぬ思い出を楽しく語り合うのでした。台湾のこと、海南島のこと、そうして楽しい思い出を語り合いながら、いやな過去と現在の一切を忘れようと努力しました。
しかし祖国日本がどうなったのかさっぱりわからないのは残念で、このまま死んでは死にきれぬ思いでした。上司、同僚、軍法官、通訳等の人々、どの人にもよい思い出も辛い思い出もまつわりついているし、さては私を告訴した警務庁長詹(セン)少年少将等々の言葉やら態度、いやな思い出にはつい腹の立ってくる自分をおさえて、悪い姿は誰もかれもすっかり忘れるように努め続けたのでした。
思い出の中にも現在の環境にも腹の立つことやいやなことは沢山あったが考えてみれば、もしたった一人で死刑を待つのだったらどんなにか苦しくもあり悲しくもあったろうに、死ぬ間際迄、二人の主従が同じ監房内で暮せるとはまことに珍しい恵まれたことでこれも二人の浅からぬ因縁によると思われたことでした。
「泣いても笑ってももう僅かしか生きることのできない身体だ。冥途とやらへの御土産に大いに朗らかに愉快に語り合い行動して余命を有効に暮そうじゃないか」と、二人の相談は一決し「しっかり行こう」「元気で行きましょう」という言葉が二人の合言葉になった。
「一つそれではこの世の名残りに思い切り大きな声で洗いざらい知っている歌をみんな歌いつくして、死のうじゃないか。」
「よし早速やれっ」
という訳で、その日からとてつもない素晴らしい大声を張りあげて、都都逸であろうと流行歌であろうと、御国自慢の民謡であろうとももう片っぱしから歌いまくったんです。
半分位とか或いは三分の一位しか知らない歌でもかまうものかというので歌いまくるのです。いくら変でも下手くそでも笑う者はいません。歌うのも二人なら聴く者もただの二人だけです。
三つの歌ではないが思い出しながら大きなしかも調子っばずれの音声で、歌うのですからさぞかしやかましかったことでしょうが、「近いうちに殺されるのだ、大目に見て聞こえない風に流してやれ」ということで皆さん許して下さったものでしょう。看守達も黙認の様子でした。
昼はこうして、愉快に、楽しく、朗らかに、暮していました。しかし歌も景気の好いものを歌わないと駄目です。悲しい歌ではいけません。泣き出すようなのでは始末が悪いのです。相馬盆唄、会津磐梯山、安来節、佐渡おけさ、皆景気が良くて賑かです。
だが折角盆踊歌をやっても、踊はやれません。脚には一貫五、六百匁の鉄枷がついているので「ハアこらさっ」と口だけは威勢がよいが、脚が重くて揚がらんのです。それでも中島君がよく奄美大島の踊を見せてくれましたがこれは脚部に鎖があってもジタバタしないでそろりそろりと踊れるので「お能」の様な素晴らしい優雅な感じを与えるものです。むしろ鎖の音は一種の伴奏として大いに舞を引立てる位です。ただ一人の見物人の私が、一人で拍手かっさいという訳です。
こんな調子で毎日毎日元気で、朗らかに、昼間は誠に威勢良く歌いまくっていたのですが、それでも同胞が処刑された日はどうしても沈み勝ちで歌えませんでした。やがての吾が身のことを考えるとシュンとしてしまうのです。ダァーンダァーン。一人を銃殺するのに射手が三人らしい。小銃の音がいつも三度きこえます。ダァーン!ダァーン!ダァーン!、すさまじい銃声――聞くまいとしても、これは否応なしに聞かされる。
自分も近いうちにやられる一人だと思うだけに、その銃声がするとハッと身体が異様に緊張して、思わず腕組してジーッとあらぬ方を見詰めてしまう。あァ今日は誰がやられたのかな、隔日に或いは三日置きに有りもせぬ罪名を冠せられ、運命とはいいながら白雲山の刑場の露と消えるとは。刑場の草々は日本人のこの尊い血潮で紅に染まっているに違いない。
戦いに負けたとはいえ、無実の人々を銃殺するとは何という暴虐なことか。その人々の心にもなり、間もなくその人々と同じ運命が我が身の上にもやって来ることを思うと、何ともやり切れぬ思いに身はさいなまれるのでした。
夜 は 生 地 獄
昼間そんな調子で大いに歌ったり、踊ったり、気狂い沙汰でえらい元気だったが、夜のとばりが下りると、さっぱり元気が出ない。昼の元気は何処へやら、すっかりペシャンコになって長嘆息ばかり。青息吐息の連続。監房内には燈火がないのです。電燈配線も無いから室内は真暗です。
暗黒というものはどうしても人間の心を暗くする。だから夜になるとみんなろくなことを考えない。暗い事ばかりが自然と頭へやって来るのです。
まず自分の殺されることを考える。アリアリと執行の状況を想像する。どんなに苦痛なことであろうか。ズドーンと一発、心臓の真中をブチ抜いてくれれば楽に死ねる。しかし当りどころが悪くて身体中穴だらけにされたんではたまらない。ああ畜生奴。
そして次には家族のことに思いをはせる。台北に妻と娘二人を残し私だけ海南島に渡っていた。爆弾のため妻や娘が不具になってはいないだろうか。もし、無事に故郷福島へ引揚げたにしても、戦犯で殊に死刑囚の家族とあっては親類達も近づくまい。結婚適齢期の二人の娘、嫁入先もないであろう。世間の人々から冷遇されているに違いない。思えば可哀想な家族達であった。こう思うと、涙ばかり流れ出てどうすることもできない。
こんな悲しい思いに一人でとりつかれる一方、真夜中頃になると監房全体が実に物すごい有様を呈して来る。両側の鉄の監房内には死刑、無期、懲役二十年、三十年という日本人戦犯の人々が呻吟しておられる。みんな安らかな眠りもとれずに悪夢をみるらしい。悲鳴のような叫び、殺されるうめき声、全く惨憺たる生地獄そのものだ。
その上通風の悪い監房内は、気温はいつも三十四、五度。素裸でじーっとしているだけで流汗淋漓(りんり)の有様。のどが渇く、しかし水はない。水をくれ!と叫んでも返事もない。ハァハァと喘いでいる声が聞える。
蚊帳はないから、蚊と南京虫に攻められるが、暑いから衣類などを着けられない。蚊と南京虫との大挙総攻撃に対して手の施しようもない。これには全く悩まされました。しかも鉄の足枷は寝ても起きても外れないので、チョイと脚を動かすと、ガチャガチャ、ガチャンと鳴り響く。全く安眠などとは縁もゆかりもない世界でした。
中島君は、眠れぬままに起き上ってはよく座禅をやった。
又、眠れぬ時は思わずぐちも出た。
「オヤジ、どうしても私はこの広東で殺されたくなんだ。出来るならば、祖国日本の土地で殺されたい。それが出来ない相談ならばせめて上海で殺されたいんだ。」
「上海だって、広東だって同じことじゃないか。」
「いや異いますよ。それだけ上海は祖国日本に近いじゃないか。上海は長崎県上海市で手紙が届くそうだ。それだけ親近感が深い。その近い上海なら、家族か、親類の誰かが、墓参り位して呉れるでしょうに。」
少しでも祖国日本の近くで殺されたいというこのはかない願いを聞いては、思わず共泣きせざるを得ませんでした。
こうして夜になるとペシャンコになって全く不思議な程、悪い暗いことばかり考えるし、ウトウトと眠る時は夢をみる。それも殺される夢が一番数が多いのだから始末が悪い。だがたまには楽しい夢が訪れて来ることもあった。それは、故郷福島で家族一同と一家団欒の場面などが夢の中で展開する時の楽しさ。
思いがけなくやって来た悦びの世界に引き入られるが、夢の中ですら死刑囚の自分、脚についている重い鎖が忘れられず、こんな素晴らしい楽しい世界にいられる筈がないと、夢うつつの中で手を延ばして足鎖に触わる、鉄の冷たさにヒャッと心身を貫かれ、忽ち夢覚めて、現実の悲しい身を痛い程まざまざと感ずる、こんなことのくり返しだった。
牢獄の夜は煉獄そのもの、同じ二十四時間の筈なのにその時間の経過の永いこと永いこと。
獄屋の夜は長くて夜明けが遅い。
よろこびへの前奏曲
昼と夜では、全く正反対の生活。昼間は偉い元気なのに、夜はサッパリで恰も二重人格者の行動ででもあるかのよう。
しかしここに静かに考えて見ると、昼間、毎日毎日歌を唄ったり、踊ったり、愉快に朗らかに楽しく、喜んで暮したいということは実に大したことであった、 明日にも死刑の執行となるかもしれない戦犯が半分自暴自棄とはいいながら、それをすっかり忘れ去ったかの如く、嬉しく、楽しく、朗らかに、暮したことは、誠に大変なことで、間もなくやって来る光明の道も、この明るい大騒ぎに引きつけられて来たのだともいえるのであります。
当時を追憶して、ツクヅク思うのですが、もし夜も、昼も、殺されることばかり考え憎悪忿懣その他の悪感情ばっかりで、この牢獄生活を送っていたならば、恐らく此の尊い生長の家のみ教えに触れることも不可能であったに違いないと思われるのであります。
とに角、明日にも死刑になるのに、その日その日ただ愉快に、楽しく、歌を唄って、平和な喜びの雰囲気を醸しだしていたことは、生長の家のみ教えが牢獄の中に天降るそもそもの機縁となったに間違いありません。
もっともこれには守護霊及びそれ以上の高級霊の御導きのあったことは無論でありましょう。

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