《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (2603)
日時:2016年07月04日 (月) 14時54分
名前:平賀玄米

 
           第二章 運命が修正される原理

      <神は導き給う>

○生命が、神の創造が、存在に入り来るのは愛を通してであり、それが支えられているのも愛を通してである、常に斯くあることを自分は悟ったのである。(ノールウイッチの聖ジュリアン)

眞の幸福を求むる所の人々は、やがて必ず吾々自身では何事をも成すこと能わず、吾々が幸福のために関心すべき唯一つのものは、如何にすれば神と一体となれるかと云うこと以外に於いてはない。
そして吾々を一切の制約から解除し給う所のものは唯一つ、神の摂理の調節であると云う重要なる自覚のポイントに到達するのであります。

このことは今度の第二次世界大戦によってハッキリと実証されたのであります。先ず日本は自身の経済的幸福を成就せんが為に、我意、我見をもって戦争を始めたのです。それは一時成功するかの如く見えた。しかし「神」を離れて起こしたところの行動は、「成功」と見えるものの奥に「墜落」があり、「勝利」と見えるものの奥に「敗北」があり、進めば進むほど、焦れば焦るほど「墜落」と敗北の奈落の底へ近づいて往ったのであります。

そして官自らも、軍自らも、何時その日本民族絶滅の急下降の一歩手前でその惰力的進行を停止して好いかわからなかった。その時、遂に神の愛の智慧はがこの戦争を停止に導いたのです。
それはアメリカをして原子爆弾を実用化し得る程度までに発明を完成せしめられたことだったのです。そうしてついにこの戦争は神の愛の導きに依って停止せられたのです。

つづく

      <平成28年7月4日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (2633)
日時:2016年07月05日 (火) 14時44分
名前:平賀玄米


信仰生活の最初の頃には、吾々は神の力に助けられて何事もわが望むことを成就し得るように考えるものなのです。また実際に、生長の家誌友の多くの体験談が示すように吾々が求むるものを必ず成就し得ることは驚くべきばかりであります。病気は治る、運はよくなる、欲しいと思ったものは与えられる。どんなにか吾々は奇跡を為すことが尋常茶飯事となって来ることでしょう。

人の為に祈れば吾々は他の人の病を癒し、不幸から救うことが出来る。そしてあまりに面白くて有頂天になる位です。併し之は入信当時の初歩の信仰状態に過ぎないのです。無論それは悪い事ではない、寧ろ信仰を高める上に必要な段階なのでありますが、併しここで有頂天になってはいけません。それは一つの段階であって、信仰が進んでくるにつれ、吾々は喜んでその段階から脱け出さねばならないのです。

現実人生に於いてもそうでありますが、魂の向上の世界に於いても同じことです。
吾々は吾々に与えられたる尚一層高き善きものを得んが為には、既に得たるものを放棄しなければならないのです。それは魂の蝉脱の過程であります。これは「国家」の場合でも個人の場合でも同じことであります。深き眞理を知らない為に或る人々は死力を尽くして旧き安易な境遇や幸福状態に留まろうとするものです。併しかくすることに依って却って全く自分自身を苦しめ、人生に不必要なる摩擦を生ぜしめるに過ぎないのです。

もし芋虫が蛾になって羽が生えて飛ぼうという飛躍の段階に到達した時に、それに反抗するのを見たならば、吾々はその芋虫を甚だ愚かな者であると考えるに違いありません。それが愚かであると吾々に判るのは、その変化は尚一層善きものに変化するものであると云うことを予め知っているからであります。

国家も人間も飛躍の時が来るのです。今や日本は軍国主義国家から永久平和の非軍国主義国家へと飛躍しようとしているのです。それは自分の「我」の力で出来ることではない。どんなに力んで見ても、日本自身の力をもってしては今迄の業の力、軍国主義の惰力によって、軍国主義を棄てることは出来なかったでしょう。それが神の摂理によって原子爆弾が天降って軍国主義の業因が完全に自壊するに到ったのです。

個人の人生に於いても同じことです。今迄有ちしものが失われ去るのは、過去の業の脱皮作用であり、より一層よき状態に変化する過程であります。今迄得たところのものを捨てねばならぬのは、尚一層祝福されたる広く平和なる世界に進み入る入口であります。このことを知るならば、人間は自己の運命の如何なる他働的と見える変化に対しても喜んで和解して受けることが出来るでありましょう。生長の家の神示に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とあるのは、こうした摂理への無我随順の意味もあるのであります。

つづく

      <平成28年7月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (2661)
日時:2016年07月07日 (木) 13時40分
名前:平賀玄米


キリストも次の如く言っています。
○「目には目を歯には歯を」と言えることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗(てむか)うな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。下衣(したぎ)を取らんとする者には、上衣(うわぎ)をも取らせよ。人若し汝に一里行くことを強いなば共に二里を行け。汝らに請う者に与え、借らんとする者を拒むな。(マタイ伝、第五章38~42)

先ず第一に吾々が知らねばならぬのは、「視えぬ力」を使用することに依って事物を見えざる奥底から支配する方法を知らねばなりません。この方法は過去のやり方のように、苛酷に肉体の精力を消耗しながら自己の表面の力を使用することによって事物を完成しょうとする方法よりも余程進歩した方法だと言わねばなりません。

やがて吾々は、人間の我の「力」が成し遂げ得ると見える事物が如何に一見素晴らしく、如何に一見驚嘆すべきものであろうとも、それは、結局吾々にとって好ましくなかったことだとわかるのは、ちょうど太平洋戦争の緒戦に於いて日本軍が真珠湾に当時の米太平洋艦隊を半ば殲滅しマレーに上陸し、シンガポールを席巻し、瞬くうちにビルマ国境に迫ったので、如何にも東條の「我」の力が日本の運命を素晴らしく向上せしめていたと思えた時にも、既にそれは日本の運命を傾けつつあったのだと云うのと同じことです。

「我」の力は一見強力に見えようとも、そしてそれが順調に事をやり遂げる力があるように見えている時と雖も、我の力でやったことは、それがたとい成就しても、何等吾々の人生に眞の幸福も、眞の調和も齎さないものであると云う事が遂に発見されるに相違ないのです。そこに神の摂理の御手による修正が行われており、「我」の力には最後に「無数」の審判が起るようになっているのです。

つづく

      <平成28年7月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。




尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (2746)
日時:2016年07月11日 (月) 12時20分
名前:平賀玄米


例えば、ここに人ありて貧しいと仮定します。そして彼は考えます。「自分はよき暮らしを立てる事が出来、富むことが出来さえするならば、自分の人生は実に愉快なものとなり、自ずから人生の
調和は到る処に齎されてこのまま此処に天国浄土が実現するであろう」などと考えます。

多くの人々は、私に手紙を送ってこう言います―― 「私の人生に於いて何事が是正されるべきかと言うと、何よりも先ず貧乏を是正しなければならない。先ず自分は豊富な金を持たなければならないのです。私の今日の困難、苦痛及び悩みは資金の欠乏から来ているのです。資金さえ手に入れば食糧増産も、貧民の救済も出来るのです。
それ故に先ず私には金を得ることが何よりも第一の事であります。だから先生、資金を得るには如何に真理を活用したら好いでしょうか」などと言うのであります。

初心の入信者にとっては、最初の真理の応用法として経済的苦難の克服を欲すると云うことは当然の順序に見えます。併しながらやがてその人が眞理に奥深く入って行くに従って、信仰体験によって、彼の最初の希望が間違いであったと云うことを悟らしめられるに到るのであります。

何となれば彼は彼がただ利己目的で富を要求し、それを成就したならば、それを得ざる時よりも却って遥かに彼の人生は惨めになり、彼の生活は訪問者や恐喝者で掻き乱され、家庭や社会に一層問題は多くなり、禍は重なり来たり、悲劇は続出し、自己の品性は乱れ、生活は混乱を重ねるほか致し方がなくなることを発見するのが普通であります。
このことを警告せんが為に、「致富繁栄の黄金律」の次に本章を配したのであります。

又或る読者はこう言うのです。「私の人生に於いて何が必要であるにしても何よりも先ず私は自分の健康を回復しなければなりません」と。併しながら彼が健康を求め、肉体の健康を獲得した時に、
彼には不健康のときには全然なかった他の種類の彼を悩ます色々の問題が次から次へとやって来ることを見出すでありましょう。

例せば、彼が不健康であった時には肉体の快楽は克己し自制していたのに、健康な肉体力を得た為に、色々の人生の享楽の中に迷い込み、家庭は破壊し、三角関係の桎梏の中に苦しみつつ自ら愚かな遊蕩に耽るが如きです。かくの如くして、彼の入信後の生活は入信前の身体の弱かりし時よりも尚一層悪くなっていることを発見することもあるのであります。

つづく

      <平成28年7月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (2763)
日時:2016年07月12日 (火) 13時55分
名前:平賀玄米


又更に他の読者は社会的成功を勝ち得んが為に眞理を応用するでありましょう。彼は、彼の仕事が最大多数の人類に最大多数の幸福を持ち来すところの最も価値多きものであると考えます。彼は自分の社会的又は政党的仕事が国民を救済し、国家を再建すると考えます。而も彼がその仕事の成功がほぼ得られたと見ゆる時に、色々の紛糾が彼の生活に群がり来ることを発見し、人類を救済するどころか、自分自身が少しも救済されないことを見出すでありましょう。

ヒットラーはゲルマン民族の救済を夢想して独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵入し、雪崩の如くモスコー都内に押し迫ったその時に、群がる困難は既に彼の背後に押し迫っていたのです。民族救済などと云っても、それは「我」の心で行おうとしても駄目であります。先ず、「神の国と神の義(ただしさ)を求めよ、その余のものは汝に加えられん」とイエスは言っています。

併しながら以上の如き失敗は真理をただ物質的外形的成功に応用しようとした初期の間違いであって、もっと深い信仰に入り、ただ神を求め、ただ霊的生活を送らんことをのみ努めているのにその人の人生は困難に満ち満ちたるものとなり、紛糾極るものとなり、信仰生活はただ暗黒の地獄に陥り、もうそれ以上二進も三進も進むことが出来ないような状態になることを発見することもあるのであります。

諸君の信仰生活が、上記のどのタイプに属しているかは知れませぬけれども、諸君は遂に自身の力では生活を調整することは出来ないと云うある信仰段階に到達せられることがありましょう。
そこに神の摂理による調節が始まっているのであります。神のみが常に吾々の魂の向上の順序を知り給い、今迄の環境に於いては、もう魂の向上が得られなくなった時、今迄の境涯が暗黒となり、他の光を求めしめられる神の無限の智慧が吾々の内部に働いて来るのであります。


つづく

      <平成28年7月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (2782)
日時:2016年07月13日 (水) 12時31分
名前:平賀玄米


神は吾々に完全の自由を与え給う。吾々が過てる道を選んだからと云って、吾々を強制的に方向転換せしめ給うと云うことはないのであります。神はただ「法則」の相(すがた)において内在的に働き給い、人間の生活が一方に偏ったり、一つの形式のみに固定した時自然に行き詰ってくることによって、人間自身の自由に於いて、運命の修正が行われます。

吾々はこの運命の修正に対して反抗することも出来ます。併しそうすることによって吾々の生活は苦しくなるばかりなのです。吾々が素直に神の導き給う運命の修正に随順し乗託するとき、物事はスラスラと運行して来、神の無限の力、無限の智慧、無限の愛に依って生活は立所に光明面に転回せしめられ、人生の摩擦と悩みとは消え、今迄よりも高次な極楽状態がその人の人生に現れて来るのであります。

人生の、そして宇宙の一つの法則は愛であります。されば、それに従うことは簡単なことです。
併し必ずしもそれはイージーではないのです。愛は神の法則の充足であります。吾々は又愛とは生命であり、そして大いなる癒す力であり、再建せんとする智慧であると云うことを知らねばなりません。

吾々が神の摂理によって如何なる悩みでも癒されたいと希(ねが)うならば、吾々は先ずすべての人を(吾々の敵をも含めて)喜んで愛しなければならないのです。日本の敗退は敵を愛しなかったところ(「憤激を新たにし」の詔書や、出血作戦がそれを物語る)にあり、日本の再建が嘗ての敵たりしものを「愛する」ことによって完成するのだと云うことを知らねばねりません。
多くの病気は、憤激することによって起こっています。そして感謝し、感ずることによって治っています。国家の病気も同じ原理で治るのです。

人生の實相は愛の流れであります。――祝福と調和と善の流れであります。その流れの中に吾々が従順にその波に乗って棹さすならば、総てはそのままに祝福された姿であり、調和と善とはそのままに実現するのであります。

つづく

      <平成28年7月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (2811)
日時:2016年07月14日 (木) 15時34分
名前:平賀玄米


吾々の苦痛と困難とはその流れに乗ることをせず、波に逆らい、波と衝突し、その飛沫を鼻の中に吸い込み、或は波の下を潜って自ら窒息してしまうから起るのであります。

愛は人生を支配している大生命の根本の流れでありますから、人生の凡ゆる困難なる立場を打開する所の鍵であるといえます。愛がなくなった時、吾々が實相の祝福の大生命の電波的流れと波長が合わなくなるのは当然です。太平洋戦争も日本の一部人士に言わせれば、次代の増殖する国民に食糧と面積とを与えたいと云う「愛」の心で出発したと言い得るかも知れません。

しかし戦争の継続中、その結末を急いだために、「ただ勝てば好い、どんな手段を弄しても勝てば好い」と焦るようになり、眞の愛の法則を蹂躙するようになったのです。敵の人的資源を枯渇せしめるためには、極力「出血作戦」を遂行しようと最高戦争指導方針が定まった時に、完全に日本の作戦は「生命を尊ばない」「愛を失った」行為に変わってしまったのです。大生命は日本の作戦に味方しなくなったのです。乃ちこれこそ日本の敗戦の根本因であります。

個人の運命も国家の運命も同じことであります。それは法則に支配されます。凡(およ)そ神を味方とする者は勝利し、神に背く者は一時勝利するように見えても敗北するのであります。何故ならば神のみが永遠の勝者であり、神の道のみが天下無敵であるからであります。日本敗戦をもって唯の偶然とするものは、神の愛深き摂理に対して目を瞑じる者であります。

また敗戦を以って失望し、落胆し、虚脱して為すところを知らない者は、日本敗戦の教訓を正しく受取らないものであり、随って今後日本が、新しき基礎の上に樹って再生する為の眞の神的基礎又は道徳的基礎を捉えざるものであって、眞の日本の新しき再建に何ら貢献することはない者であります。

吾々は一歩後退したと見える日本の運命に、脱線から是正されつつある機関車の如き日本を見るのであります。吾々の日本はかくて神の摂理により、新しき正しき軌道に乗り換えせしめられつつあることを知らねばならない。脱線した軌道から乗り換えて、新しき軌道に乗り、神の愛のみ懐に飛び込む者には、今こそ又とない運命の飛躍すべき時機なのであります。

つづく

      <平成28年7月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (2825)
日時:2016年07月15日 (金) 17時06分
名前:平賀玄米

諸君が人生の縺(もつ)れた糸綛(いとかせ)に引っかかって、どうしても解くことの出来ない死人の髪の毛のように複雑にこぐらかってしまった時には、どうしたら好いか。或いは諸君の生活がもうこれ以上一歩も進むことの出来ない頑とした鉄壁に衝突した時のように行詰った時、どうすれば好いか。諸君の生活にいつの間にか「愛」が失われていないかを顧みよ。

そして愛の道を再発見し愛の道を実践しなさい。これこそが唯一の救いの道であります。愛が失われて滅亡の淵に瀕しつつあった日本の太平洋戦争が、陛下の大御心の中に「自分の一身はどうなっても好い、国民にこれ以上の苦難を負わせたくない」と云う愛の心が蘇生って来た時に、日本の国に新しい平和の太陽が昇り始めたのもこの原理の実現であります。

愛は神であり、愛の動き始めるとき神の智慧との交流が始まる。神の智慧よりも少ない所の何物を以ってしても、諸君の人生の紛糾を解くことは不可能であるのです。諸君が既に進退ここに極まったと云うようなのっぴきならぬ窮境に陥った時、兎も角も、この窮境から脱しなければならぬ。と決意するならば、先ず、自己の生活が愛の生活でなかったことを神に対して懺悔せよ。

そうして神にお詫びして神に対して委せ切れ。その時神は神自身の方法に於いて吾々の苦難を解決して下さるでありましょう。このとき諸君は神の前に絶対の無我になって任せ切らねばならないのです。やがて神は神ご自身の時に於いて、神の無限の智慧、無限の創化力が発現し、神自身の方法によって、その紛糾せる問題がいとも容易に解決され始めるのです

「神自身の方法に於いて」と云っても周囲に起こる境遇と人々との動きを通してであります。
吾々の為し得る所の唯一のことは、神に対して自分自身を完全に投げ出し、解決の道を知り給う神の摂理の流れに任せきりつつ、時節の展開する力に待つことが必要です。暗雲は必ず晴れるのであって、それには神への信頼と、時の到るのを待つと云うことが条件なのであります。

つづく

      <平成28年7月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (2878)
日時:2016年07月18日 (月) 11時23分
名前:平賀玄米


快刀乱麻を断つ如く神の大いなる力が働くのはかかる自我の無条件降伏が神に対して成された時に於いてのみであります。いまだ吾々が神に対して無条件降伏しなかった以前は、吾々の自我意識が、神の救いの霊波と共鳴しないがゆえに、神は既に救い給うていられながらもその救いが成就のです。(『生命の實相』の巻頭「天地一切のものと和解せよ」の神示参照)

神に和解する唯一の道は、神そのままになること――即ち「人間我」がなくなることです。人間我が完全に撤廃された時にのみ神の力が完全に流れ入って来、完全なる調和を齎してくれるのであります。何故なら眞の調和は神自身の神聖なる内在秩序の展開であるからであります。

吾々に来たる所の祝福の流れを防ぎ止めて、吾々をして神の創造り給いしままの實相・完全の環境を実現することを妨げているのは、吾々自我の自我意識の残渣と、神に対する信頼の欠如とによるのであります。吾々がもし眞理を完全に自覚して生活し、常に實相世界の祝福の流れの中に生活しているならば、神の摂理による運命の調整などと云うことは必要ではないでありましょう。

吾々の心の波が、神の祝福の霊波と同波長の生活をし、かくの如くして吾々が完全なる神の摂理の中に生きるならば、吾々は常に實相世界(天国)の調和せる状態と琴瑟を合わせつつ、天国現前の生活を営むことが出来るのであります。けれども吾々の多くの者は、恐らく計画した事物が成就したら返って結果は宜しくないとか、健康を快復したら却って精神的に堕落するとか、富有になったら怠けるとか、或はまた性格の中に何か神の摂理に依る調整を為さねばならないことが含まれているとか云う場合が多いのであります。かかる時、神の愛による運命の調整が始まるのです。
日本国の運命にも、かくの如くして修正が行われつつあるのです。個人の場合も同じことです。

それは敗戦や失敗で現れるかも知れない。吾々の経済環境が世界的な不景気で困難になって来るかも知れない。或は誰かの間違った行いに依って、或は色々の原因の集積に依って、面白からざる環境が出現して来るかも知れない。総ての解決の扉は閉じられ、逃れる道は閉ざされ、計画せる総ての事物は蹉跌して再び起上る希望は失われたるかの如く見えるかも知れない。

戦後の日本の状態は丁度それだとも言い得る。人間の力を以ってしては解決する道はないと考えられる程すべての事物は複雑になっている。それは例えば解き解す事の中々出来ない縺れた綛糸のようにも見えるのです。併し乍ら人間が失敗し、人間のあらゆる「我」の試みが完全に阻まれてしまい、人間の努力に対する希望が失われてしまった時に、総ての事物は無限である所の神の御心の前に無条件降伏の姿で差し出されて浄められるのです

滅んだように見えている時に、本当の日本(大和の国)の蕾が芽ぐんでいるのです。人間の有限なる心が失敗した時にこそ、無限の心が安々と、そして全く努力することなしにすべての事物を達成してくれるのです。そう思って日本の戦後をご覧なさい。凡てゆる場所に神の救いの慈手が動いていることに気がおつきになるでしょう。

つづく
        
          <平成28年7月18日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (2920)
日時:2016年07月20日 (水) 06時55分
名前:平賀玄米


吾々が若し「実在」のみが「眞の存在」であり、「実在」は完全であると云うことを思い起こすならば、現象の変転は何も驚くべきことではないのであります。在りしものは滅びることはなく、滅ぶるものは本来無きものばかりである。軍国主義日本は本来無きものであり、大和の国のみ眞實の日本であるから、それが今やヴェールを破って現れつつあるのです。

不完全である所の事物は総て「絶対実在」から観れば、単に見せかけに過ぎないのである。何故なら、善のみが実在であり、「実在」のみが眞の「存在」であり、それのみが総て眞實であり、實相であるからであります。「観る」ことは創造することであります。吾らが神の心を以って、眞實の存在であるところの完全なる實相を観、眞理のみ實在であることを完全に自覚するならば、複雑と困難との外見は自ずから消えてしまうのであります。

あぁ、「善」のみを見給う神の心がそこに発現する時、吾々を取巻く困難は、差昇る朝日の出現と共に消えゆく朝霧のように、雲散霧消してしまうのであります。神に任せ切るとき、神は吾々に眞理を見、實相を観る目を与え給い、現象に引っかかるならば、失望と落胆と、意気消沈と恐怖心とに満たされて、為すところを知らないであろう所の状態をも、無事不安なく生活せしめ給うのです。

諸君よ、神の愛と智慧とは、常に吾々を助け、吾々を最善の所まで導かんと欲していられるのだと云うことを記憶して下さい。自ら眼を閉じて暗いと言うな。吾々の祥福に反対して働いている力と云うものは全然ないのだ。何故なら、この世界は唯一つの善にして愛なる全知全能の神が支配し給う世界であり、吾々の生活は此の全能者の愛の慈手に委ねられているからであります。

吾々は、現象は如何にともあれ、「實相」のみ實在であると云うことを記憶しなければなりません。
「實相」より離れた所の何物も眞の存在ではないのです。そして「實相」のみ事物の眞の姿であり、
「實相」は必ず完全であり、調和であり、秩序であり、善であり、幸福でありますから、総て不完全なるもの、不調和なるもの、無秩序なるもの不幸なるものは實相に非ず、唯見せかけに過ぎないのであります。

吾々の「我」の力のみを以ってすれば眞に困難を根本的に救治することは不可能だということを知らねばならないのです。光のみが闇を消す力があるように、神と「實相」のみが吾々の困難を救治することが出来るのです。ここに吾々は自分自身の「我」の力で何事でも為そうという考えを放棄しなければならない魂の進歩の段階に達するのです。
ただ神の生命に、愛に、智慧に、そして自ずから起こる創化作用に任せ切っておればよいのです。

つづく
       
       <平成28年7月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。
 

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (2988)
日時:2016年07月23日 (土) 06時04分
名前:平賀玄米

 
     われは我が戦いを戦えるに非ず
      神と共に歌を歌えるなり


と或る詩人が歌ったように、自己努力の影もなくなり、しかも怠けているのではない、神と共に生命の讃歌を歌っているように、その自然なる動きは労苦ではなくなるようになるべきであります。例えば、此処に一人の病人があるとする。彼は癒されんことを求めているとする。

彼は人間の智慧を尽くし方法を尽くし、色々の健康法を試みたがすべて不成功に終わり、再び健康を楽しむことは永遠に絶望であると云う状態にあるとする。凡ゆる権威ある近代的薬物療法は試みられたがすべて奏功しなかった。又恐らく民間市井の色々の治療法も試みられたが等しく不成功に終わったのである。

信仰療法、祈祷療法、正しき思念法、色々の教え、総ては無駄であった。一切の救治法は試みられたが何ら効果は見えなかった。どんな変化も起こらなかった、寧ろ却って症状は増悪されたかに見えたのです。諸君よ、神に対して総てのものが投げ出されるのは、総ての試みが悉く失敗したこの時なのである。此の時こそ神聖なる瞬間であり、全てのニセ物が破壊し尽くされて神の救いが顕現し始める時なのです。
それは例えば日本の無条件降伏の時にもあたる。祖国を救おうとのあらゆる人間的試みは無効に見え一億玉砕とも見えた時に、ニセモノの軍国主義日本は破砕され、眞の「大和の国・日本」が出現し始めたのです。

病める人々よ。「神よ、御心の方法に於いて癒し給え」と祈れ。その時こそ、神は神ご自身の方法によって、神ご自身の時に於いて、神ご自身の順序によってその癒しを実現し給うに違いないのであります。素晴らしい治癒成績が起こるのは患者が総てを投げ出した時に於いてであります。

此の時こそ一切の「私」の作為なしに、太陽のただ差昇るが如く、素晴らしい活力が湧き出でて来て、すべての順序が一斉に整い、神癒が成就するのであります。神の力が現実に現れて総ての事物を完全の状態に、和の状態に、完成の状態にまで完成するのは、人間の我の心配、作為、焦燥が悉く消え去った時にであります。

言い換えれば、無限者の前に無条件に降伏した時にこそ、個我の何等の努力なしに苦しみなしに、神の聖なる智慧が齎されるのであります。尤も、未だ霊的にあまり開発されていないような人々の場合に於いては、自己の営みと云うものは無論必要であって、神の前に無条件降伏するというのは私心を去るということであって、自分が少しも働かなくなると云うことではないのであります。

つづく
       
      <平成28年7月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (2998)
日時:2016年07月24日 (日) 06時50分
名前:平賀玄米


凡そ、生かすものは神のはたらきに由るのであります。それは外からの治癒作用や自壊作用に見えようとも、実際は神の癒す力の内流であり、それは個人に於ける場合と、国家に於ける場合とを問わず、凡そ凡ての事物が健全に復するためのあらゆる種類の癒しと云うものは決して自分自身の力ではない。

吾々自身の力よりも尚一層大いなる力の流入に依って行われるのであります。では個我の力よりも尚一層大なる力を我が内に流入せしめるにはどうすれば好いのであろうか。

それは神の前への自我の無条件降伏によってであり、愛と感謝と委せ切りとの心境で「神よ、神よ、」と幼児が母の乳房に吸いつくような心境になることである。「我が為すに非ず、キリスト我に宿りて之を為さしめ給うのである」と云う自覚は、神癒を受くる者にとって、及び神癒の媒介又は媒体となるべき宗教家にとって、絶対に必要な心境なのであります。

つづく
       
       <平成28年7月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3008)
日時:2016年07月25日 (月) 07時02分
名前:平賀玄米

 
      <我を知り給う神>

吾々は病気のみならず、国家及個人の性格及び罪に関して摂理の調節を必要とすることがあります。国家の性格及びその傾向に関して神の摂理による調節が厳然として行われているのが日本の現状であります。實相日本はいまだ嘗て滅びず。ニセ物の日本の死について起こるものは實相日本の復活であります。

誤れる国家及び個人の性格は一種の罪(實相隠蔽)であります。それ故に吾々はこの「隠蔽」の解決を必要とするのであります。「罪の日本」の死は「實相大和日本」の復活である如く、實相の完全なる人間を顕現せんが為には、「罪の個我」――ハートの頑固さ、知識の間違い、反キリスト的な欲情、何事に対しても不平の心、呟く心、憎む心、恨む心、審判(さば)く心から解放されねばならないのであります。

併し、如何にせばこれ等の罪から解放せられる事が可能でありましょうか。吾々が誠実に吾々自身を反省し、心の中を点検して見る時、吾々の心の中には実に沢山な、とても自分の力では克服し難く思われる悪徳が満ちているのであります。しかし憂うるなかれ、神は吾々の罪を自壊せしめ、道徳的人格の傷を癒し、吾々の心情を新たにし、吾々の欲情を清め高めて本来の神の子の實相を顕し給うことが出来るのであります。

若し吾々が神の光をして通貨せしめ得るように迷いを自ら稀薄ならしめることに成功しなくとも、それは嘆くことはないのである。ただ神に向かって祈れ。罪は実在でないが故に、闇が光によって自壊する如く「罪の自分」は必ず自壊する時が来るのである。

真夜中はいつまでも続くものではない。必ず復活の太陽は差し昇るのである。内からと外からとの変化が必ずや諸君に又は諸君の国家に起こって来ることを見出すでありましょう。かくてニセモノの人間は消え、本物の神の子は顕れ、ニセモノの軍国主義国家は消え、ホンモノの大和の国(世界あと兄弟なる日本・これこそが日本の正体である)があらわれてまいりましょう。

つづく
       
       <平成28年7月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3014)
日時:2016年07月26日 (火) 06時08分
名前:平賀玄米


吾々は「神」が自分の中に宿っており、「神」の実現こそ吾々に約束されたる光栄ある希望だと云うことを知らねばならないのです。善にして愛であり給う神は、キリスト(又は佛教では観世音菩薩、神道では住吉大神)を媒介として我が内に入り給うて我らを支配し給うているのである
キリストを媒介として、吾が内に宿り給う神の霊に呼びかけ、吾々の総ての過てる思いと情欲とを拭い去り給えと祈る時、神は光が闇を消し去るが如く、吾々の欠点を消し去り給うて、神の子なる我が純粋の完全さをわれに顕し給うのであります。

このためには吾等自身の上にも常に絶え間なき祈りが必要なのであります。祈りと共にその日、その日の為事(しごと)を神と共に為さなければならないのです。吾々は神と協働しなければならないのです。また吾々は自分の心の中に入り来る思想、観念、印象の門戸を見張らなければならないのです。吾々は悪の暗示の一つの断片さえも流入を許してはならない。何故なら吾々の生命は「神の宮」であるからです。神の宮を掃き浄める如く吾々の心の庭を浄めねばならない。

かくて吾々は神を尊び神を迎うる準備を整えます。その時神が吾々の内に流入し給い、吾々を救い給い、解放し給い、必要なものを授け給い、すべての不幸と災厄とより護り給う。自ら浄めておいた後に神の救いの来たる時には「自壊作用」を伴わないが、浄めずして神の救いの来たる時には「汚れ」の自壊作用を伴い、一見不幸災厄と見ゆることを生ずるのです。

禍の最初の徴候が現れれば直ぐ吾々は神に、キリストに、観世音菩薩に呼びかけ、過れる思想を拭って頂き、過れる欲情を浄めて頂き、悪しき暗示を拭い去って頂くと同時に、吾が實相の純粋さ、眞實さ、忍耐、愛、深切が現れて来るように祈らなければならないのです。

神は吾々が求め、且つ予想したよりも素晴らしく豊かに吾々に恵み給い、外からと内からと、環境と自己内在の力となって吾等を救い給うのです。かくて吾等はすべて神ご自身の肖像(にすがた)なる實相円満なる姿を実現することが出来、万徳円満・光明遍照の姿を以って神の栄光の前に罪無き實相を露呈することが出来るのであります。

吾等が祈りを通してかくの如き状態に達するとき、吾等にとって最も大いなる悪魔であるところの「自我」が滅びます。そしてパウルが「最早我れ生くるに非ず。キリスト我にあって生くるなり」と云ったように、唯キリストの愛のみが、自分の中に生くる事になり、キリスト自身が自分の生命であり、観世音菩薩自身が自分の生命となり、住吉大神のみが自分に生くることになるのであります。(万教帰一)かく言えばとて吾々は決して眞の人格即ち眞の個性を失うのではないのであります。

寧ろ眞の個性が吾々に現れてくるのです。このことはすべての宗教の眞髄であります。そしてイエス・キリストが来たり給えるは、この眞理を吾等に示さんが為であるのです。この眞理は賢き者、富める者、即ち放漫(たかぶ)れる者には隠されている神話でありますが、幼児(おさなご)乃ち心の貧しく謙(へりくだ)れる者には開かれている奥義であります。

物質的知識に誇らず、我の経済的成功や地位に奢らず、霊に依って生まれ変わりたる、心貧しき人こそ眞に霊的なる事物を理解することが出来、新しき生命の啓示の中に生長することが出来るのであります。

つづく
       
       <平成28年7月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3074)
日時:2016年07月29日 (金) 10時30分
名前:平賀玄米

  
          <正信・正行・信行の一致>

   ○唯一の實在は神と神の創造り給いし善なる事物(實相)のみである。(生命の實相)
   ○あぁ神の智慧と知識との富は深いかな。(ロマ書 第十一章 33節)

人この世に生まれて何を為すべきか、如何に生くべきかの問題位重大な問題はありませぬ。
何事を為すにも正しき道と過てる道とがあります。人の心身を駆使して事物を創造するにも、正しき道と過てる道とがあるのであります


正しき道とは「實相」より出づる道、「實相」に即した道、「實相」と波長の合う行為、想念、言葉、態度等々・・・であり、過てる道とはその反対であります。欲する事物を心に描き強き意志を以ってその実現を期する為には想像力が用いられねばならない。併し何を欲すべきか、如何に欲すべきか、如何に心に描くべきかの問題を先ず解決しておかなければ、過って良からぬ結果が現れることがあるのであります。

しかし良からぬ結果が現れた場合にも、吾等は決して心配することはない、それは「實相」に基礎をおいていないから永続的の結果ではないのであります。良からぬものは眞の神の創造ではないが故に仮相であり實相ではない。従って崩れる他はなく、やがては眞の調和せる状態が存在面に現れて来るのであります。

良からぬ結果は「神」と離れたる吾等の行為、想念、想像、言葉、態度等の結果であります。
それが故にそれらは何ら「神」の礎の上に築かれていないのでありますから、例えば砂上の楼閣の如く眞の礎を持たないが故に、イエスの言葉を借りて言えば「雨降り風吹けば倒れてしまう」のであります。

つづく
       
         <平成28年7月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3091)
日時:2016年07月30日 (土) 13時26分
名前:平賀玄米


善は栄え、悪は滅びる――こういう勧善懲悪的な思想が徳川時代から明治三十年代への日本の思想界を貫く道学であり心学でありました。それは徳川時代の心学道話や、滝沢馬琴や、近松門左衛門の戯作や明治初期及び中期の文学にあらわれています。

心は創造力を持つものでありますから、その時代の文学傾向はその時代の国民の道徳傾向を表しております。明治四十年代に入ると、自然主義文学の勃興期に入り、勧善懲悪のイデオロギー文学の排斥期に入り、自然は決して勧善懲悪的なものではないと称えられ、道徳蔑視の文学期に入り、文学は言葉の創化作用を駆使して弱肉強食、半獣主義、運命はただ偶然の所産で、道徳は何らこれを改変し得る力を持つものでないと云う事が唱導せられたのです。

此の人生観が今次太平洋戦争の温床を為していると云うことを指摘している人がないのは驚くべき無知無識だと云わねばなりません。善なるものが栄え、悪なるものが滅びると云う懲悪勧善的な道徳蔑視の思想は個人主義的傾向の増進となり、その反動として興起したのが極端国家主義でありました。その極端国家主義も道徳蔑視の上に築かれたものであったから、目的を達する為には手段を選ばないものがあり、満州事変、支那事変、太平洋戦争と発展したのでありますから、今次の戦争は、日本人の道徳蔑視の文学芸術が日本人全体の潜在意識に侵入し、その想念の力に依って、それは主として潜在意識の作用によってではあるが、「悪必ずしも滅びず」「力は善なり」の思想に発展し、現在のような不調和の状態を持ち来たしたのであります。

今次の日本の敗北は、道徳蔑視の日本人に、「大自然には勧善懲悪的法則が存在する」ことを示し給わんがための道徳律の顕現であると云うことが出来るのであります。かくて、日本国及び日本民族の運命に一大修正が加えられるに到ったのです。

明治四十年代以降の日本人の過てる想念に反対して、神は神自身の想念に随って吾々の運命を摂理の手を通して修正し給いつつあるのであります。神の智慧に一致して想念することは實相を顕現する為の正しき想念の最高形式であります。日本は何のために敗北したか、それは表面は科学力や経済力の欠乏のように見えておりますが、実は「この宇宙には勧善懲悪的道徳律なし」―――と云う如き道徳蔑視の状態に立到った日本人に神が道徳の権威を示し給うたのであります。

それにもかかわらず日本敗退と共に「神も仏もあるものか」などと云う更に道徳蔑視の風潮を増進せしめ、闇行為と利己主義行為に人間の實相をくらましてしまうならば果して今後如何なる事が惹起するか、思うてここに到れば慄然たるものがあるのであります。

日本を愛する人々よ、日本人をしてすべての悪の想念を放棄せしめよ。而して彼らをして神にまで還らしめよ。然らば神は日本の上に御恵みを垂れ給うでありましょう。何となれば彼は無限に許し給う力であり、再び神のみふところに立還って来るならば、その一匹の羊を、迷わざる九十九匹の羊よりも歓び迎え給うからであります。

つづく
       
 <平成28年7月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3177)
日時:2016年08月05日 (金) 11時31分
名前:平賀玄米

諸君の中、ある人達は日本人を道徳蔑視の無道徳な国民だということに反対せられるかも知れない。併し事実はこうであった。吾らの勧善懲悪的な道徳思想を説く団体には16頁の雑誌を一千部位刷る程の紙しか出版用紙の配給は与えられなかったが、淫売や、妾や、行き当たりバッタリ淫欲の世界を展開している無道徳の人間を描写した永井荷風の小説などを掲載している『中央公論』誌の如きは最大級の用紙配給をもらうことが出来、その永井荷風は文壇の大御所として崇敬の的となっていたのである。

かくの如き出版文化統制が戦後でさえ日本に行われていたのであるから、その日本人が戦地で強盗強姦の無道徳をやったとて何ら不思議はなかったのである。軍国主義も悪かったけれども、自由に淫欲をのさばらす本能的自然主義を謳歌した日本の文学者は、海外に於ける日本人の淫虐行為に責任あるといっても差し支えないのです。

しかも用紙の配給は戦後この淫虐思想方面に最大となり、勧善懲悪を説く吾々宗教文学方面には最小となり、しかも自ら称して輿論に問うたと云い、その輿論とは、帝都でわずか数万を発行していて日本全国にその名を知る人もない『日本読書新聞』と云う出版関係方面へ無料等で配っていた一部出版グループの機関紙へ「どの本を出版して欲しいか」と云う投書を募った事に過ぎないのであるから驚くほかはなかったのだ。

勧善懲悪の道徳律が宇宙に存在しないと主張するよりも大いなる罪はないのである。それは神の正義の否定であり、、神の目に見えざる摂理への否定である。かくの如き目に見えざる神の導きを信ぜざる人間は、一旦野放しにされるとなにをするかも知れないのであり、実際無信仰者は占領地に於いてそういうことをやってきたのである。

不幸に遭った多くの人よ。同胞を省みよ、実際多くの人たちは神の正しき秩序を破壊する如き文学を謳歌し、その思想生活は、感情生活は、そして肉体生活は決して神に調和していなかったことを
自ら悟るであろうと思います。

つづく
       
       <平成28年8月5日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3230)
日時:2016年08月10日 (水) 14時46分
名前:平賀玄米


日本の民主主義化が叫ばれ、個人の自由が許されることをよきこととして個人の不善の欲望をのさばらせることを民主主義だと思っている人がありますが、民主主義とは自己尊敬による自己生活の自律的粛正であります。民主主義化とは吾々自身が自律的に悪しき想念、(不調和の創造者)を捨て去って神に還るべく要請されているということであります。

神から離れて無道徳となり、放肆(ほうし)となることが民主主義ではないのである。神のみが調和と完全との唯一の源泉であり給うのです。吾々が民主主義化を求められるのは自主的に神の想念にまで帰ることを要求されている、換言すれば、吾々の大多数の現在の思いは神の眞の思いとは著しくかけ離れて異なるものとなっていることの啓示であります。

「わが思いと汝等の思いとは異なるが故に汝の道はわが道に非ず」とイザヤはイザヤ書で言っております。更に「天地の離れたるよりも高く、わが道は汝の道よりも高く離れたるものである。わが思いは汝の思いよりも遥かに隔たりたるものである」と。これは個我の本能(略奪本能、姦淫本能、闘争本能等)の人間の思いは眞の人間の道ではない。それは不調和、不秩序、及び苦難を生ぜしめるものである。

眞の人間の道とは神の道である。神の道のみ調和と、秩序と、美と、幸福と法悦とを生ぜしめるものであるから「神の道」に還れと神は示し給うたのであります。若し人間が「神の道」に立ち還らねばどうなるか。「神の道」のみ唯一の真実の存在の支柱でありますから、これを失うとき法則が自働して、その者は自壊するに到るのであります。

唯一の創造者は完全の神であり給う。神が人間の為に設計し給う所の人生は、既に成就せる完全の状態であるのであります。しかもそれが顕れるのは、吾々の媒介を通してであります。若し吾々が神に立ち還るならば、而して誤れる本能の道、肉体の道をすてるならば、善の状態は自ずから持ち来たされ、病気に於いては、それ自体に於いて完全なる生命の示現(神癒)となり、家庭生活に於いては主人から周囲に至るまで大調和の完全さに化して来、国家は自ずから殷富なる理想国として発展するのであります。

アメリカの光明思想家が多くの文献に於いて「不景気の観念を癒す」と云う言葉を使っているのはこの為であります。何故なら凡て摂理によって運命が癒されるのは、神の智慧の催しと導きによるのであります。国家及び個人の繁盛、殷富、祥福等は人間心の工夫や作為や努力によって一時的な拡張的効果があるかも知れないけれども、神に礎を置かない者は結局、元の木阿弥に終わるのであります。

吾々は富や金やその他日常生活に必要なる所の総てのものを得んが為に、それを一々心に描き、それらに精神を集中する必要はないのであります。(「神は無くてならぬものを知り給う」)若し余りに自己の欲する事物を熱心に心に描き、それに精神を集中するときは、自己の今欲しいと思うものは永遠の秩序から見て誤れる処方であるかも知れないために、不結果を招来することになるのであります。戦勝祈願の如きも「自己の利己的欲望」であったのであって、「神よ、み心を実現せしめ給え」とこそ祈るべきであった。かくてみ国大和の国は今や実現せんとしつつあるのである。

神が我々に望み給う事は、他を押し倒して自ら栄えることには非ずして、神に還ると云うことである。即ち総ての秩序と、総ての円満さとの造り主である所の神に立還り、吾々の個我の思いを全く捨て去る時、円満と完全と、調和と平和との神が、吾々を通じて永遠の善を齎し給い、広く人類と世界とに幸福を実現するように働き給うようになるのであります。

つづく
       
          <平成28年8月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3271)
日時:2016年08月16日 (火) 15時00分
名前:平賀玄米


併しその「神に還る」と云うことはどうしたらよいのであるかと尋ねる人があるでしょう。
ある人は私に手紙を書いて言う ――、「私は永年の間、全生涯をキリスト教徒として過ごして来ました。しかも先生の言われるような神に還る時一切が現実界に於いても成就するというようなことは聞いたことはないのであります。教会もそれについて何等教えてくれたことはありません。宗教は魂を救うものであるが、現実を救うものではない。主イエスさえ現実では苦難に遭われたではありませんか」と。そして諄々と魂を救うためには魂を浄めるための現実的実践(苦行的実践)が必要であると説いているのです。

それは今迄の宗教であり、受難の宗教に過ぎないのです。戦争中日本キリスト教が無力であったのも、日本仏教が無力であったのも、宗教とは魂を救うものであって現実を救うものではないと日本の宗教家は考えていたのです。そして偶々宗教は、魂は無論のこと魂の世界の反映である現実世界をも救うものだと呼号する吾々生長の家の宗教を迷信であるとして全然国事遂行に協力せしめなかった。そして依然として受難礼賛の宗教に終始していたから現実に受難がやって来たのです。

ところがアメリカは、プラグマチズムの哲学にしろニューソート、クリスチャンサイエンス、デバインサイエンス、等の宗教にしろ、それは唯の理論の遊戯ではなく、現実を離れた信仰や哲学ではなく、精神によって現実を支配する宗教であり哲学だったのです。この精神的優位がアメリカを戦勝に導いたのです。すべて隠微なる精神が現実界に及ぼす影響は、魂が準備される迄は、それを悟ることは出来ないのです。

日本の宗教は現実遊離の宗教であった。宗教が現実を支配することを拒否した。併しそれでは人類は救われないことを日本の敗戦によって神は教え給うたのです。これは神の愛の導きであります。
吾々に受難が必要でないのはキリストが既に吾々の代贖者として十字架にかかり給うたからなのです。

つづく
       
          <平成28年8月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3278)
日時:2016年08月19日 (金) 14時29分
名前:平賀玄米

     
   <現実に内在する神秘力>

現実人生に具体的に神の癒しの力を実現せしめる生活の隅々までも悉く神の円満完全さを以って充満せしめんが為には、吾々自身よりも無限に偉大なる力の存在を認め、単にそれを認めるだけではなく、「今」「此処に」「我に」その力が働き給うのだということ、しかもこの力のみが唯一の力であり善の力であると云うことを亦知らなければならないのです

諸君が、若し今なおそれを自覚することが出来ないならば、何が何でも「今」「此処」「我に」神の無限の力が働き給うと、言葉によって宣言することが必要なのです。若し諸君が敢えてかくの如く為さいますならば、やがて神の造り給いし實相世界の円満完全の状態は吾々の現実に展開せしめられて来る事を断言する。然らずしてその反対に人間は本来罪の子であるから苦しまなければ救われないと信じていると、信念の自働によってある辛き経験の中にその信念の具象化が現れて来るでありましょう。

之が起こる所の理由は、吾々の想念は事物創化の波動的力であり、實相が如何にあろうとも、想念する象(かたち)を現象界というスクリーンに映出する力を持っているからであります。だから吾々は想念を慎まなければならない。まことにも日本人大多数の信念が「海ゆかば水漬く屍」と想念して怠らなければ世界一の海の巨城と誇ったところの軍艦大和も山城も海の藻屑となって姿を消してしまったではありませんか。日本人は想念の力を知らない、これでは敗ける。何とかして、勝たせたいとて、想念の力の利用法を知らせたいと私たちは努力したけれども、政府は完全に私の口を封じペンを封じて、ラジオには放送せしめず、出版用紙すら剥奪したのであった。かくて私の憂慮した通り、日本は敗戦したのでした。

若し吾々がキリストのように「今」「此処」「吾」に神の無限力いまして働き給うのであるという正しい信念を強固に有ち続けることが出来るならば、見せかけの弱き力は悉く消散してしまい、神の、強き力が働き給うたに相違ないのであるが、それは却ってアメリカ人の方が、その信念を強く把握していたのであり、多くのアメリカの将兵はポケットの中に聖書を有っており、イエスの啓示やダビデの詩篇で信念を強めていたのであった。アメリカ人にとっては宗教は愛の力、生命の力、現実の力でありましたが、日本人には宗教はただ死骸にお経をあげるところの死の力であったに過ぎなかったのです。

つづく
       
           <平成28年8月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)② (3315)
日時:2016年08月25日 (木) 13時49分
名前:平賀玄米

  
    <天皇の御楯なる信仰と神を楯とする信仰と>

日本の天皇を眞に神様だと信じていたから、軍閥は世界侵略の野望を起こすに到ったのだろうか。考えてみれば、キーナン検事総長も指摘しているように、天皇はただ軍閥に利用せられていたのであって、ルーズベルト大統領の天皇へ宛てた親翰すら天皇には眼隠しされていて読む自由を与えられなかったのである。天皇を眞に神だと信じているものならば、天皇を利用したり、天皇を眼隠しして自分の野望を満足しょうとするはずはないのです。

すなわち日本人の権力者は天皇を案山子として人民を威脅するために使っていたのであった。生長の家以外の日本人の神観ほどへんてこなものはなかった。天皇を「神」だと言いながら、天皇のために御楯となると云うのである。これが彼らの忠義であった。

天皇が神ならば、吾々の身体の御楯で防がねばならぬなどと云う筈はないではないか。楯で防がねば傷つくような弱きものは結局、神ではない。本当の神なら旧約聖書、詩篇にダビデが歌っているように、神こそ吾等の楯であり、砦であり、城であり、吾らを防ぎ給う巌であるはずだったのです。神を人間の盾で防ぐと云うのが日本人の愚かな宗教であったが、キリスト教徒は全能の神が彼らの楯となって彼らを護り給うと云うことを信じていたのであった。

両方の宗教の優劣は日本の敗北によってハッキリしたのであります。「神の盾となる」宗教は、「神を楯とする」宗教に敗北したのです。前者は神を弱小者とする迷信であり、後者は神を無限力者とする正信であったのです。凡そ迷信は神を物質的、肉体的な存在、換言すれば弱小視するのであるから、悩み、不調和、絶望、貧窮、病気その他色々な形に於ける不調和があらわれるのである。

人々はしばしばこれらの不幸に自分自身又は集団の想念の結果として晒されるのであるが、その受難の程度は其の人等が物質的意識の中にどの程度に生きており、またどの程度に受難不可避の迷いの中に生きているかと云うことに依って定まるのです。

我々は物質意識を捨てると共に、すべての「業に支配される」という信念、「罪あり」と云う信念を捨てなければならないのであります。何故ならばこれらの物質的意識と、受難の業因と、そしてすべての不幸の原因であるところの「罪」とは阿弥陀仏とキリストによって既に征服せられているからであります。

佛教信者であるならば、一切の人類の罪を超歳劫の修行によって代贖し給うた阿弥陀仏の力を信じなければならないし、キリスト教徒であるならば、イエスの代贖によって吾らの不幸の根因は全て贖われた、だから残るところ一切皆善の實相のみである、即ち総ては完全であり、美であり、調和であり、天国である筈であります。

かくの如くして法蔵菩薩は一切の不幸の根因あるものを克服して極楽浄土を建立せられ、イエスは一切の罪を克服して世に勝ち給うたが故に、若し吾々が「信」に於いて阿弥陀仏につながり、イエスに繋がるならば、物質の法則の力から自由になり、物質に隷属する奴隷状態から解放せられるのであります。

物質の法則に縛られている限り、人間は結局、「不自由の牢獄」に投ぜられた囚人であります。この牢獄を破壊した時に於いてのみ吾々の解放は完全なるものとなり、吾々は一切の罪、迷い、及びマンモンの力から解放せられるのであります。この牢獄の破壊は唯吾々が神の善と愛と智慧と全能とを信じ、それを受け入れ、その神意を行じ実践しさえすればよいのであります。信だけでもいけない、行だけでもいけない、信行一致・信行不二でなければなりません。

信は行によって実現し、行は信によって真実の根據(こんきょ)を獲得します。正信に根據(こんきょ)しない徒らなる実践は不調和、不完全を現すほかはないのです。罪あり、不幸在り、病あり、迷妄(まよい)ありの如き力から解放し、吾々を正信に導き給わんが為に来たり給うたのがキリストであり、法蔵菩薩であり、生長の家の神様であります。

吾々がこれらの救済の媒介者(實相自覚の仲介者)を通して實相円満の意識に入る時、観られる世界は観る世界の心の具象化でありますから、吾々の観るところの環境及び境遇は「實相円満具足の状態」即ち神御自身の創造と相一致するものとなり、唯善なる世界調和の世界、愛すべき善なる世界、豊かなる供給の世界、繁栄の世界のみが、吾が環境に実現して来るのであります。

つづく
       
      <平成28年8月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3358)
日時:2016年09月01日 (木) 12時20分
名前:平賀玄米

      
     <摂理による運命の修正の秘密>

かくて吾々はラジオセットの波長を放送の波長に合わせる如く神の心に波長を合わせますと、調和と、自由と、豊かさと、無限供給とが吾々自身の心の力に依ってではなく、神のコトバによって創造られたる實相世界の智慧・愛・生命・供給・秩序等が如実に現世に実現して来て吾々自身の現実生活になって来るのであります。
併し若し吾等が神の霊波に波長を合わせない場合にはどうなるかと申しますと、イザヤ書第59章にあるように、

 「神の御手は短くして救い得ざるにあらず。唯汝等の邪曲(よこしま)なる業汝等と汝らの神との間を隔てたり。又汝等罪その面(みかお)を覆いて聞こえざらしめたり。そは汝等の手は血にて汚れ、汝等の指はよこしまにて汚れ、汝等の唇には虚偽(いつわり)を語り、汝等の舌は悪をささやき、その一人だに正義をもって訴え眞實(まこと)をもて論(あげつら)う者なし。

彼等は虚浮(むなしき)を楽しみ、虚偽を語り、悪しき企てを孕み、不義を生む・・・彼等の足は悪に走り、罪無き血を流すに速し、彼らの思念(おもい)はよこしまの思念なり。残害(やぶれ)と滅亡(ほろび)とその路径(みち)に残れり・・・盲(めしい)の如く牆(かき)を探り行き、目無き者の如くさぐりゆき、正午(ひる)にても日暮(たそがれ)の如くにつまずき・・・」というような状態となるのであります。

残害と破壊との爆撃後の都市を見る毎にまことに神の救いの波長に合わない邪曲(よこしま)と虚偽と不義とによって汚れ、罪無き血を流した結果は実にこの通りだと私は悲しんだのであります。併しこれは決して神罰ではない、神の救いの波長に合わない心を起こしたためなのであります。

この罪の自壊の後に、自然に霧晴れて太陽の輝き出でる如く實相円満の姿が現れるのであります。
神は「わが思いは汝等の思いと異なり、わが道は汝等の道と異なれり、天の地より高きが如くわが道は汝等の道よりも高く、わが思いは汝らの道と異なれり」(イザヤ書第55章)と嘆いていられるのであります。

これに反して神の波長に吾等の心の波長が合った時には祝福の形で神の導きはあらわれて来るのであります。イザヤはこの状態を誌的に表現して次の如く言っています。
 「汝等は喜びて出で来たり、平穏に導かれて行くべし。山と岡とは声を放ちて前に歌い、総ての野の樹木は手を打ち  て喜ばん。松の木はいばらにかわりて栄え、もちの樹は棘(おどろ)に代わりて栄ゆべし。これらは主の御名のた  めのほめことばとなり、永遠(とこしえ)の栄えの徴として色あせることなかるべし」(イザヤ書第55章12~13)

イザヤによるこの誌的なる表現は吾等の心の波長が神の霊波に一致したとき摂理に依る調節を通して全生活が完全に癒される祝福の完全なる状態があらわれることを述べたものであります。

つづく
       
      <平成28年9月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3468)
日時:2016年09月13日 (火) 22時25分
名前:平賀玄米


何故、神の救いの霊波に合わぬ心行(罪)を起こした時、不幸や難(なや)みや病気が起こるかと云いますと、そんな罪は本来存在しないから自壊するのであります。しかし自壊するには自壊させるものがなければならないのです。それは闇は「光の無」と云う消極的状態でありますけれどもそれのみでは自壊しない、光を照射すると自壊する。それと同じく、罪の自壊するその奥には、神の摂理による運命の修正があるのであります。

そのまま抛っておいたら、どれだけの血を流す罪を犯すか知れない、そこで罪を犯さしめないように敗戦せしめる――この敗戦こそ神の救いであったと云えるのであります。それは一面から、自分の蒔いた所のものを刈り取のであります。換言すれば内部の想念及び想像力の中に蒔きしものを現実世界に刈り取ったのであります。奪おうと思った者は奪われ、爆撃によって始まった戦いは爆撃されて終わったのであります。

吾々はこの敗戦の中に「神の導き」を視、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になる代わりに、神は吾等を救い給わんがために敗戦せしめられたと云う、神の摂理による運命の修正を見なければならぬのであります。そういう宗教教育を行うことが今、日本に是非とも必要である。
そうでないと、敗戦による「神も仏もあるものか」という自暴自棄観念から、日本人の道徳は愈々益々地に堕ちて、日本再興など不可能だという事になってしまうおそれがあります。敗戦の惨苦は道義地に堕ちた結果である。日本人の生活にして神の御心に随うような生活に帰るならば、いつでも其処に地上に天国が生じて来ることを直ちに信仰せしめるならば、日本国から闇は消え、利己主義は消え、イザヤがその詩的表現にて歌ったように、
「視よわれ新しき天と新しき地とを創造す、人さきのものを記念することなく之をその心に思い出
ずることなし、然れど汝ら吾が創造するものによりて永遠(とこしえ)に楽しみ歓べ」(イザヤ書第65章)というような新天新地が吾々の身辺に現実化して来るのであります。

翻って日本の現状を見るに、復員者、帰還同胞の生活は如何にすべきか、物価は戦前の五百倍に高騰し、国民の生活は益々困難を加えている。そのような時、普通人の先ず心に浮かぶ常識はがま口の口を閉めるということである。国家の財政にすれば不必要な詰らない費用は出来るだけ節約しようと考える(無論のことであるが、)必要である仕事をする者に対してもその資金の引出しに面倒な制約や許可制を設けて自由に生産活動が出来ないようにしてしまう。

そしてこの事はインフレ防止に「なくてならぬ所の已むを得ざる悪」と考えます。これは物の貨幣面又は物質面のみを見て、生命の面を見ないのであります。物は物質面から観れば「物質」でありますが、「生命(いのち)」の面から見れば「生命」の具象化したものであります。「生命」が働けば「物」が必ず生まれる。だから貨幣を放出せず「生命」を働かせないでいるよりは、貨幣をしっかり放出しても、その刺激によって「生命」をうんと働かせば、「物」が過剰に出来る。従って流通貨幣量が多くともインフレは防止出来るのであります。

個人経済に於きましても詰らなことに不必要に金を浪費的に出すと云う事は無論よくない。しかし財布の口を固く締めて、どんな慈善事業にも金を出さない。精神修養にも金を出さない。宗教の集まりにも金を出さない。こういうことでは経済界の循環流通は無くなってしまう。人を助ける為や慈善事業や、神の道に使う為に使った費用は天の倉に蓄えられてあるのであって、それは必ず数倍の供給となって還って来るのであります。それを信じないのは神が無限の力を有し給うことを知らないからであります。

必要なことの為にも、将来の出費の危険の準備として財布の口を固く締めるというような生活方法を若し吾等が採用するならば、将来の危険をおそれる恐怖心は増加し、常に神は働く者に与え給うことに対する不信は増加し、(これこそ死に値する罪である)かくの如き消極的なる心の波動は自分自身に対して神の豊かなる供給、全ての善が流れ入って来る為に必要な精神波動の共鳴を不可能ならしめます。

これに反して、若し吾々が豊かなる心を持し、ケチな心を捨て、神から流れ入る供給の通路を清めて、吾々の生活に神の豊かなる流れが流れ入る事が出来るようにしますならば、神の無限の供給は吾々に必要に応じて流れ込むのが必然であります。与えられんと欲せば、先ず与えなければなりません。吾々が善事に対して与えることを止めるならば、、吾々は神の供給に門を閉ざすことになり、如何なる善も吾々に流れ入らないことになるのは三界は吾が心の所現であるからであります。

つづく
       
      <平成28年9月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3530)
日時:2016年09月19日 (月) 16時27分
名前:平賀玄米


英国チェスター市に「生長の家」に似たサイエンス・オブ・ソート・レビュー誌という雑誌がある、
その主筆トーマス・ハンブリン氏は次の如く言っています。
「ある日同じ郵便局から配達されてきた二本の手紙があった。一通は寧ろ経済的に逼迫した状態の人からのであって、生活に困るので吾々の雑誌を購読することを止めると云うのである。ついでながらその雑誌の購読料金はと云うと一週間約一ペニーに過ぎない。それすら購読を中止しなければならないとは余程逼迫した経済状態になった訳だ。自分はそれ以後その人からは何等手紙を受取らないが、この人の心がどんなに貧乏に対して悩んでいるかは想像されるのであり、そういう窮迫した経済状態に直面した時にこそ却って必要な教えがその雑誌に書いてあるのに」とハンブリン氏は嘆いているのです。

かくの如き窮迫した状態に立至るには夫々心に原因があるのであって、恐らく善事に対して与えるということを平常忘れていた人であることは自身の心を反省すれば判る筈だと思います。吾々の雑誌の購読者にもこの種の人達が随分ある。所謂(いわゆ)る「卒業組」という人達であって、私は、もう何年も雑誌をとって眞理のことは卒業したからもう要らぬというのである。そしてその眞理を人に伝え施すのでもなく、分かったつもりの眞理が自分の心の中で実践されずに停滞し、或は他を審くためのみに利用されて心はわずらいに満ちている。

毎月自己を反省せしめるような記事や、信仰を新たに刺激する座談会等に出席しないから、眞理は深く心の底に眠っていてその上に迷いのカビが生えているのです。そうしてひとかど雑誌代を節約したつもりでいるうちに不幸はその人に襲い掛かって来る。そして生長の家も私にはきかなかったと云うのはこの種の人であります。こんな人は英国にもあると見えて、ハンブリン氏は嘆いているのです。

吾々は決して、眞理の卒業生になってしまってはなりません。眞理は無限に深いものであり、一歩進んだら次の一歩がハッキリして来るのです。第一の峰に到着したら、次の峰が霧の彼方からボンヤリと見えて来るでしょう。吾々は他の人の信仰体験談を聞いて反省し、悟りの契機とし、実践の拍車とし、勇気を揮い起こす刺激として進まなければならないのです。

つづく
       
      <平成28年9月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3545)
日時:2016年09月21日 (水) 07時16分
名前:平賀玄米


ハンブリン氏の受け取ったもう一通の手紙は或る手違いから総ての財産を失い、今は全く本当の無一物の状態である人の手紙でありました。ハンブリン氏は次のように言っています。
「彼は殆んど彼の最後の一銭までも支払って雑誌の購読を申し込んで来たのです。『私は信仰に因(もとず)く献身としてかく為すべし』と決心したと彼は書いています。すると購読料を払い込んで間もなく、殆んどすぐに私は予期しないところの百ポンド(英貨)の金を受け取ったと云うのです。批評家は言うかも知れません、何もそれは雑誌を購読したから百ポンドの金が来たんじゃない、兎も角その時、金が来るようになっていたのだと。

併し乍ら霊的生活を体験した所の信仰に生きている人々は、そんな風にはものを考えないのです。吾々はそれを信仰によって与えられたと考えるのです。無限者(神)の心は初めより終りに至るまで知り給うのであって、吾々が思うように一様に一つ一つの事件を別々に見給うのではありません。実際實在の世界に於いては時間も空間も吾々が五官で感ずるようにはないのです

されば神は束縛され給うこともなく、時間によって制限されるということもないのです。(中略)
多くの場合に私が驚くのは一時的に収入が詰まったからといって直ぐ吾々の雑誌の購読を止める人が多いことです。経済状態がドン底に落ちた場合、そういう人はどうしても購読料を払うに耐えないと考える。・・・(ハンブリン氏の機関雑誌サイエンスオブソー・ソートレヴュー誌は、英国では書店で一ヶ月4シリングで得られるのである)

かくの如き狭き心を平素に持っていることに依って、又それを実践することに依って、彼等は実際生活に於いて却って自分自身を束縛し、自分で作った経済的逼迫の束縛の縄の中に自縄自縛されてしまうのであります。」(ハンブリン氏著“Divine Ajustment”91頁)

生長の家の信仰体験発表会へ来られた人は、与えれば与えるほど却って無限に供給される豊かなる供給の実例に唯々驚異の眼を瞠(みは)ることでありましょう。それらの人達はいくら眞理を知っても、もう卒業したなどとは思わない人です。だから常にその信仰は前進を怠らない、それ故に彼らの信仰は新しく常に生き生きとしている。自分の魂を助け導いてくれた所の教えに自分も協力して何らかの貢献をし、他に伝えることをどんな逼迫な状態に於いても止めないような人なのです。

そして自分が助けられた喜びを、他の人の生活に及ぼしたいという念願に満たされて、感謝報恩の心を以って他の人を常に助けるべく努力していた人々なのです。このような信仰の生き生きした人々は神の恩寵の流れ入る為の扉を常に開いており、自己の生活及び自己の周囲の出来事に、神の善なる導きを流入せしめる人なのです。

かくてこのような人は常に神の智慧に導かれ、日常生活の事々物々に神は決して神を信ずる所の人々を見捨て給わないということを実証するのであります。そして、信仰と献身と、愛行と、神への深き全託の心を通して常に祝福された状態におかれるのであります。

つづく
       
      <平成28年9月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3553)
日時:2016年09月22日 (木) 07時55分
名前:平賀玄米


その反対の心の状態にいる人々は、節約と云えば、何でも彼でも慈善事業にも教会の維持費にも、固く自分の蟇口の口を締め、そして自分自身の力によって、自分の経済状態を守ろうとし勝ちです。そういう人は、聖書の中にある次の言葉の本当の意味などは解らないのであります。
「わが宮に食物あらしめん為に汝ら什一を総てわが蔵に携え来たれ、而して之をもて我を試み、わが天の窓を開きて容るべき所なきまでに恵みを汝等にそそぐや否やを見るべし」
この句はマラキ書第三章第十節より引用したのであります。ユダヤ人が世界の財産の大半を支配しているその経済的実力は、実に彼らの大多数が信仰深く、金銭収入があれば必ず社会事業や、慈善事業や、教会の維持費に什一即ち収入の十分の一を捧げる事を怠らないからだと言われています。

ハンブリン氏も、「吾らが必ず収入の十分の一を献ぐるならば、吾々は神の恵みを実証することが出来る」と断言しているのであります。神は決して賄賂を貰って、その贈賄者に祝福を与え給うのではありません。什一税を献ぐる行為というものは、固く握って放たない心から来るものではなく、豊かに人に与える心から来るものであり、「与える心」はまた他から「与えられる」心の法則によってそれが実現するのであります。もし諸君が神から祝福せられんと思えば、諸君は先ず周囲の人々を祝福しなければならないのであります。

つづく
       
      <平成28年9月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3576)
日時:2016年09月23日 (金) 10時07分
名前:平賀玄米

 
           <常に仕事に精を出すこと>

さて、「豊かに人に与える心を有て」と申しましても、それは金ばかりではありません。吾々はイエスが、その生命(いのち)を吾々に与え給いし如く、人類に吾々の生命を献げねばなりません。
それは仕事を通して吾々の生命を人類に与えるのです。言い換えれば吾々は仕事に精出さなければならないのです。仕事は吾等の神に対する奉仕であり、人類に対する奉仕であります。
 
吾々は吾々の奉仕を出来るだけ改善し、質の良きものとし、貢献多きものとしなければならないのです。報いは結局、良く献ぐれば、また自らも献げられるということになるのです。即ちその人に必ず成功と繁昌とは来たるのです。併しかくの如く吾々は一所懸命サービスを改善し、仕事に精を出すことが必要ではあるけれども、二十四時間中の総ての時間を仕事で占めてはならないのです。そうでないと吾々は「自力誇り」に陥って全生活の方向が全く狂ってしまう事があるものです。

それは日華事変の勃発のようなものです。彼らは木戸候の日記にあるように赤化防止に無我夢中だったので、振り返って「神のみ心を聴く」ことを忘れていたのです。これではたとい善事と思ってしていることでも悪に変わってしまうのです。

一日一回、吾々は静かに座って、吾々の父であるところの神に呼びかけ、神の子としての自分自身が何を為すべきか、教え給えと念じ、「神の智慧われに流れ入りて御心を示し給う」と念じ、黙してそれを待ち、再び繰り返して「神の智慧われに流れ入りて御心を示し給う」と念じ、しばらく黙してそれを待ち、更に前の如く念じて、それを繰り返す事十数回、「神わが一挙手一投足を導き給う。吾が計画することは神が計画し給うので、わが為すことは神が為し給うのである」と幾度も念じ感謝の祈りを捧げてその一回の祈りを終わることにするのが可いのであります。

つづく
       
      <平成28年9月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3598)
日時:2016年09月25日 (日) 07時12分
名前:平賀玄米


この種の祈りを無視して、何事もトントン拍子に都合よく行くままにナポレオンやヒトラーのように「わが辞書に不可能なし」と我の力のみで押し進んで行くときには、ついにその計画は神と離れたものとなり、祖国を護る為の行動が、祖国を滅ぼすことになったり、人類への奉仕するつもりが、人類を悲惨に突き落としていたりするようになるものなのです。

諸君が祈るとき、先ず自己を富ましめ給えと祈っても祈り無き愛他的生活よりも好いのである。もし吾々が貧しくして惨めであり、肉体弱くして、何事も失敗続きであるならば、吾々は他の人を助けようと思ってもそれに相応しい状態ではあり得ないのです。だから自分の健全や、繁栄を祈るのは決して神の道にはずれたのではない。

しかし得たところのものは再び元へ返さなければならないのです。感謝と報恩の為に十分の一を捧げるというハンブリンの教えは、又同じく、グレーンクラーク氏も言っているのです。兎も角諸君が祈りによって自己の艱難を無事通過し得たという生きた体験は、またそれを語り継ぐことによって「什一税」を神に捧げたと云うことになるのです。それによって人々は信仰に励まされ、勇気づけられ霊的に堪え忍ぶ力を得ることになるのです。

まことにも人生百般の眞實の本源は霊的なるものであります。この眞理をよく悟り、会得し得た人々は、自分に富が来たからといって、他の人を自分が貧乏にしているのではないと云うことを知ることが出来るのです。

資本主義の機構の中に搾取に利用されやすい部分があっても、それは又別の問題です。
霊的に富む人にとってはどんな経済機構の中にあっても、神の供給というものは無限であり、尽くることなきものなのです。イエスに依って示されたる五つのパンを五千人に頒けて尚十二籠に山盛りのパンが余ったという聖書の物語は、神の供給が決して他からの搾取ではないということを現しているのです。

神の無限供給は水力電気の無限の供給と同じように尽きるものではないのです。又原子のエネルギーと同じように決して流れ去って無くなってしまうものではないのです。自分が一層健康になっても、その為に他の人の健康力が衰える訳ではない。生命の世界に於いては「搾取」と云う事は成立たない。神の癒しの力は決して尽きてしまうものではないので す。一人の人が癒されたからと云っててその人は決して他人の健康の分け前を奪ったという訳ではないのです。この眞理を知って実践しし、この眞理を自覚して生活する人々はイエスの言った通り真の自由を得ることが出来るのであります。

この眞理は何でもない事のようだが、深く且つ広きものです。某国が栄える為には他国を侵略しなければならぬというような考え方は、「搾取」なき世界を観ている眞理の人には實に愚かな考え方だったのです。ただ神を知らない人のみが、「搾取」や「侵略」や「強奪」で自分が栄え得ると考えるのです。

吾々は一切の人生の祥福を「人間」より得ようとする心を捨て、神に祈って神の愛より得るようにしなければならないのです。そこから摂理が展開してまいります。そこから真に自由の道が開かれ、そこから閉ざされた供給が開かれ、そこから真の解放が生まれて来るのです。

つづく
       
      <平成28年9月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3615)
日時:2016年09月26日 (月) 06時40分
名前:平賀玄米


今、何人が如何に栄えておろうとも、若し神とつながる意識の中に生活することがなければ、やがてナポレオンの如く、ヒトラーの如く、没落の時が訪れ、気のつかぬ中に失策を演じ、勝つ筈が負けてしまい、国民を救う筈が国民を溺没せしめることになるのです。

神です。一にも二にも神です。神の他に何物も実在しないのです。人類永遠の幸福の為に何人もこの眞理を知っておく必要があります。

神に祈っているならば、然り、常に神に祈っているならば、一見、自分の為に祈っているように見えているときにさえも一層善き方へ導き給うのです。ハンブリン氏も、「一時的の供給を得んが為に眞理を知ろうとして神に近づいている時にもそれが却って霊的生活に驚くべき助けとなるという事を自分は発見したのである。」と言っています。

所謂(いわゆる)三車火宅の譬(たとえ)の通り、神は、健康や財物や玩弄物のような現世利益を与えてくださりつつ、ついに吾々をして眞に神の御声を聴くいと高き霊的進歩の正しき状態に導き給うのです。それまでには幾十の信仰段階があります。先ず神は吾々を苦難の現実生活のドン底より救い給う。その時卒業したと思い過ったらそれ以後の進歩はないのです。

神は無限の善であり、吾々は神につながることによって無限に魂が向上し得るのです。その向上の行く手を導き給うのが神の智慧であり、その神の放送を受けるための受信波長をつくるのが祈りです。祈りが応えられた時に経験する吾々の喜悦、法悦は、信仰が無駄でなかったことを実証してくれつつ更に吾々を高き信仰の境地にまで導いて下さるのです。

又たとい祈りが実現しなくとも、かくて尚、神を呼ぶ心を失わない魂の進歩は一層大いなるものがありましょう。かくて吾々は祈りと共に摂理の慈手に導かれつつ、吾が魂は無限向上の道を攀じ登るのです。この眞理を諸君が自ら体験せられんことを希望したいのであります。

つづく
       
      <平成28年9月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3625)
日時:2016年09月27日 (火) 06時41分
名前:平賀玄米

 
      <魂の発達と進歩>

◇野の百合は如何にして育つかを思え(ルカ伝第十二章27)
野の百合の次第に生長するが如く吾々の信仰も生長します。吾々の信仰生活の初期時代の無邪気な頃には、即ち眞理に志した新生活の初めの頃には、吾々は「神よわれに大いなる信仰を与え給え」と祈ることによって、直ちに恰も郵便に依って一着の洋服が注文次第送られるかの如く完全にレディメイドな、いとも完全な最後的段階の信仰がやって来るだろうと予期したりするものです。

そういう場合、吾々は信仰とは吾々の心に何等の準備も訓練もなしに、神から配給的に与えられる所の一定不変の特殊の霊的恩寵であると思ってい勝ちであります。そして吾々にとって必要なことはただ「神よ、われに大いなる信仰を与え給え」と神に祈るのみにて突然大信仰の人となることが出来る、即ち「大信仰」が配給されると想像しがちなのであります。

それでは、全く事務所のボーイが、会社に入社すると同時に総支配人に対(むか)って「私に最高の地位を与えてくれ」と祈っているのと同じことです。事務所のボーイも必ずや勉強次第、努力次第で会社の最高地位になることが出来るでしょう。もし彼が正しく自己に内在する素質を培養し自己努力と自己訓練とを続けて行きますならば、何物も彼が会社の最高支配人になることを留めることは出来ない筈です。

会社の最高地位は総ての社員にとっては「得られる最高の可能性」として既にあるのです。併し乍らその可能性を現実にする為には彼は先ず今居るところの事務所のボーイとして、最善のボーイになることが必要なのです。その次には最善の下役の事務員となり、その次には主任救の事務員として最善のものとなり、その他様々の段階を経て、やがて彼の可能性の最高の目標点に到達することが許されるのであります。

親鸞聖人は「大信心は仏性なり、仏性即ち如来なり」と涅槃経の一句を引いて吾々自身の内に、既に如来の大信心が宿っていることを指摘せられましたが、それにしても同じ真宗の同信者にしてもその開発せられたる信仰の程度には等差があるのです。各人は各々その魂の発達に応じて、自ら信心開発の道を昇り行かなければならないのです。そして吾々は最後の信仰の段階に達しても戎も定も慧も要るのです。親鸞聖人と雖も、常に「南無阿弥陀仏」と唱名念仏することが、持戒であり、禅定であり、如来の正慧を受ける為の精進だったのであります。

つづく
       
      <平成28年9月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3637)
日時:2016年09月28日 (水) 13時35分
名前:平賀玄米

            .
かくの如く信仰生活の新しき道に登るには絶対他力の真宗の信仰であってさえも念仏行の如き行持を必要とするのであり、その行持を通して吾々は吾々自身の心境を自ら開拓し、忍耐強く一歩一歩正しき方向に登って行かなければならないのです。祈りや称名念仏は吾々に方向を誤らしめない神仏の導きを喚び起こすものなのです。

祈りながら、吾々は向上の心を失わず、常に精進努力し、色々の信仰上の試練に耐えなければならないのです。極楽浄土に往生してから後も、文殊・観音・勢至等々の薫陶を経てやがて最後の仏位に到達するのだとせられています。況や現世に於ける修行に於いては吾々は自己の信仰を鍛える為に、日常生活中に敢えて冒険であると思われるような仕事にもぶつからなければならないことも多いのです。

戦場に於ける生活や、空襲下の生活はまことにそのような信仰陶冶のための神の導きだったとも言えるのです。吾々はかくて日常生活を通して何事かを学びつつ遂に最高自由の境界に到達し、に自己内在の完全神性(仏性)を開発し得るに到るのです。而して最後に孔子の所謂「心の趣く処に随って矩を越えざる」底の自在境に入ることが出来るのです。嘘ではない。

吾々が大信仰の畏敬すべき人々に出会う時感ずることは、これ等の人々が皆大なる人生経験の体験者であると云う事です。ローマは一日にして成らず、大いなる信仰は西洋松茸のように一夜にして生長し得たものではないのです。大いなる信仰は実に多くの信仰上、及び実際生活上の血と汗と祈りと行との体験を通して生長し来たった所のものなのです。

つづく
       
      <平成28年9月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3642)
日時:2016年09月29日 (木) 07時21分
名前:平賀玄米

 
    <悔悟の修養について>

眞理の道に入信した後、まだ深い信仰が得られないという人々よ。絶望することはないのです。深い信仰が得れれない嘆きがあるのは、内在の大信心が眼を覚ましつつ、現実の浅い信心に警告を与えている証拠なのです。何か呪文を唱えて魔術的方法によって深い信仰が喚起せられるかと思ったが案に違って失望してしまう人が多いのですが、信仰というものはそういう安価なものではないのです。

信仰というものは恐らく全く自分の自力の力が殆んど破壊されつくして神を心に呼ぶ他仕方がないというような人生体験に接した時におのずから湧き出て来るものなのです。敗戦の苛烈な現実に直面して或る人は言うかも知れない、「私は信仰を失った、神も仏もあるものか、神は私の祈りに応え給わないで日本は敗戦したのである」と。併しそういうように一時考える人たちも、やがてそれは神が我が国の行くべき道を正しくせしめ給う為の摂理であったのだと、神の愛深き導きに感謝出来る日が来るに違いないのです。此の時その人の信仰は低い段階からもう一層高い段階に進歩したのです。

日本戦勝の希望が打ち破られたということは、誤れる祈りは効無しという体験によって、神が正しき信仰に導き給うところのものなのです。およそ苛烈な難(なや)みある人生体験ほど却ってその人の信仰を発達せしむるものなのです。吾々がもっと安易な生活を実現すべく祈るということは名誉ではないのです。吾々は本当の信仰にまで高め上げて頂く為に祈らねばならないのです。

吾々が為すべき所のより一層賢明なる祈りは、「御心を吾に於いて示し給え、御心を吾を通して実現せしめ給え」と祈ることです。吾々が何事でも眞に大切なる事柄を成就することが出来るのは、ただ神の御心に随い、神の御心を実現するときのみなのです。信仰に依ってのみ、吾々は真に人類を生かすところの偉大なる事業を為すことが出来るのです。

「われ自らにては何事をも為し得ず、神の霊われにいまして之を為さしめ給うのである」とはイエスの自覚だったのであります。かくてイエスは全世界の大半の人類を今も尚救っていられるのです。吾々の信仰を高め上げてくれる筈の人生の体験をなるべく避けようとし、唯のらくら楽の生活につこうとするならば、吾々は自分が嫌で避けようとした所の人生の出来事よりも、尚一層手痛い、もっと苛辣な人生の体験に会うように自然と導かれて来るものなのです。学校は卒業しなければならない。人生は魂の学校であり、自分勝手に退学してのらくらしていることが許されないのです。

誠にも吾々が避け又は拒んだところの人生の出来事は、若し吾々が感謝して協調的な精神でそれを迎えるならば、何等苦痛を伴わないで、自分を高めてくれるものとなるのです。

つづく
       
      <平成28年9月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)②  (3644)
日時:2016年09月30日 (金) 06時43分
名前:平賀玄米


神は人間に「艱難」を課しているのではありません。人生は決して吾々に苦しむべく求めているのではないのです。神は体験を通して吾々の魂を向上せしめたく希望していられるのです。人生の色々の体験は吾々を高めてくれる魂の課目です。それを次々習うことによってあぞなたの魂が次の段階へと到達することが出来るのです。

神が望み給う所は吾々をより高き喜びに導くことなのです。総ての経験を感謝して受けよ。避けようと思うな。若し吾等が人生総ての体験に「素直にそのまま有難く」協調してその出来事や仕向けられたる悉くを受け入れるようにするならば、「眞理は汝を自由ならしめん」。自由への道は喜びに満ちた姿をして吾々の眼の前に展開して来るに違いないのです。

繰り返し申しますが、人生それ自身は吾々の實相円満境の展開と顕現とに必要なる諸課目を行い学ばしむるところの魂の学校です。吾らが辛い人生の科目を避けようとする習慣がある為に生活は却って難しく苦痛に満ちたものとなるのです。数学でも基礎知識が出来たら応用問題も難なく解ける筈なのに、その科目をエスケープしているから、いつまで経っても数学が難しいと同様です。

人生に出て来る経験は實に同じものは二つない、實にそれを享受するのは絶好の機会であり、吾々はそれを享受することを人間の特権として悦び受ける覚悟がなければならないのです。

如何に吾々の人生が退屈であろうとも如何に苛辣に吾々の環境が閉ざされていようとも、それはすべて心の法則によるのであって、特にある特定の人々のみを神は愛し給うのではないのです。それは実業界の大立者にも、総理大臣にも、会社員にも、いと小さき雇人にも当てはまるのです。
そこには自分自身の「心」に似た環境が附きまといます。環境は心の法則に随って顕れ、法則は神が我らのために普遍的姿をあらわし給うたもので、利用厚生に役立つように現れているのです。
科学界の成功者が法則の完全なる利用者であるように、人生の体験に於いては「心の法則」の完全なる利用者が、より高き魂の進歩を勝ち得るのです。

吾々が何をしようとも、何処に居ろうとも、如何なる立場に置かれようとも、吾々の前には神が「法則」といういと従順な姿で吾々にサービスし給うべく顕れていられるのです。「与えよ、然らば与えられん。」「審判くなかれ、汝も審判かれん。」「自分自身の心の角で怪我をするな。」「笑う門に福来る。」「泣き面に蜂が螫す。」「奪う者は奪われん。」「侵略する者は侵略せられん。」諸君がどの道を選ぶかは自由であるが、法則は算術のようにハッキリと答えを示してくれるのです。諸君は法則によって何を選び取るか。どちらにせよ、総ての機会を与えられているのです。

今、吾々日本人は開闢以来の最大艱難に直面しているのです。けれど、これこそ神の愛深き智慧の導きであり、神の摂理により、日本国は方向転換を余儀なくせしめられたのです。私はこれについて神の深き愛を感ずる。神が日本国の運命の上に摂理による修正を行われたのです。

仏典や聖書や色々の預言者の文書が間違っていたのではない。日本の軍閥が誤れる行動をとり、神を無視し、人命を何とも思わなくった時、摂理による運命の修正は、強力な方法を以って行われた。それはアッツの玉砕に端を発し、ガダルカナルの敗戦となり、以後恢復することも出来なかった。神は中途半端で日本に講和の機会を与えなかった。若し生殺しにしたら、前の過誤の日本が復元するからです。そして徹底的に無条件降伏へとうちのめされたのです。神は日本を憎んでうちのめされたのではない。神は日本を愛する故に打ちのめされた。

私はこの敗戦の中に深き神の愛の摂理を感じ、再び日本がかかる過程を犯さないように宗教教育を施すべきことこそ吾らの責任であると感ずるのです。「汝らを悩め責むる者ある時、悦べ。神は汝らの為に導き給うのである。」
終りに本章の国家の運命の修正に関しては、ハンブリン氏の著述に負う処多き事を付記し、同氏に感謝の意を表するものである。

今回にて<第二章 運命が修正せられる原理>は完 次回から<第三章 神癒力ある科学的基督教>です。

         <平成28年9月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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