《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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文学作品としての古事記神話        【4】みそぎ (15812)
日時:2025年11月10日 (月) 20時55分
名前:比較文化の好事家

【4】 みそぎ   

そこで「いざなぎの神」は、「私はひどく汚い国へ行ってきたので、水に入って、禊(みそぎ)をして体を清めよう」といって、筑紫の日向の国へ行き、禊祓(みそぎはら)いをしました。川に入るために、まず神様が杖(つえ)を投げ棄てると、杖から別の神様が生まれました。次に帯(おび)を投げ棄てるとまた別の神 様が生まれ、服を投げ棄てるとさらに別の神様、袴(はかま)を投げ棄てるとさらにまた別の神様……と、たくさんの神様が生まれました。

「いざなぎの神」が、「上流は流れが速すぎる。下流は遅すぎる」といって、真ん中にお入りになって体を清めたときに、 「八十禍津日(やそまがつひ)の神」と「大禍津日(おおまがつひ)の神」という穢(けが)れの神様が生まれました。その次に、その穢れを直すために、「神直日(かむなおび)の神」と「大直日(おおなおび)の神」と「伊豆の女(め)の神」が生まれ、さらに他の神々がたくさん生まれました。

続いて「いざなぎの神」が左の目をお洗いになると、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が生まれ、右の目をお洗いになると「月読(つくよみ)の神」が、鼻をお洗いになると「すさの男(お)の命(みこと)」がお生まれになりました。

「いざなぎの神」は大変お喜びになり、「私は子供をたくさん生んだが、最後に三人の貴い御子を得た」といって、かけていた勾玉(まがたま)の首輪をはずし、玉をゆらゆらと揺らし、丸い柔らかな音をたてて、それを天照大御神に与えて、「あなたは天の国・高天(たかま)の原を治めなさい」と、お命じになりました。

次に、月読の神に、「あなたは夜の国を治めなさい」と、お命じになりました。最後に、すさの男の命に、「あなたは海の国を治めなさい」と、お命じになりました。

それで、二人の神様は命令された国々を治めていたのに、すさの男の命だけは命令された国を治めず、長い間大泣きに泣いていました。そのため山の緑が腐って枯れてしまうほど、海や川の水がなくなるほど泣いていました。それで、悪さをする神々が一斉に動きだして、地上のすべての蝿(はえ)が唸りをたてて飛び回るように、すべての禍(わざわい)が突然地上に広がりました。
 
「いざなぎの神」は、すさの男の命に、「なぜあなたは命令された国を治めずに、ここで泣き喚(わめ)いているのか」と、尋ねました。すさの男の命は、「私は海ではなく、母のいる黄泉の国(地底の国)へ行きたいから泣いているのです」と答えました。それで、「いざなぎの神」は大変お怒りになって、「そのようなことを言うのならば、あなたはもうこの地上の国にいるな」といって、すさの男の命を追い払ってしまいました。


 この話は、日本神話が持つ大きな特徴を語っています。それは「みそぎ」で、「みそぎ」とは、「身そそぎ」と言われていて、体を川の水に濯ぐことにより、罪や穢れを流し去る行事です。しばしば「みそぎ祓い」とも言われるのは、「みそぎ」も「お祓い」も体に付いた罪や穢れを「払い落とす」行事で、ともに大自然の浄化力に対する絶対的な信頼、いや信仰を前提にしています。

 だから、今回の「みそぎ」の話は、「人間(神?)は罪や穢れを生じるが、それらは叩けば落ちたり、川につかれば流れて消えていく。人間の罪や穢れは消極的な物にすぎない。逆に言うと、人間は本来清浄なものであって、人間に生じた罪穢れは人間の本性を大きく穢すものではない。」という楽天的な、見ようによっては好い加減な人間観を語っています。このような楽天的な人間観や罪観は、古代日本に実際にあったようで、たとえば「六月晦の大祓」という祝詞(のりと。祈りの言葉)は、つぎのような内容になっています。

     すべての罪穢れは、祝詞を称えることによって、風が大雲を吹き払う
     ように、あるいは港の大船を海に押し放す様に、『瀬織り姫』という神が
     大海原へ流し出してしまう。すると、海の神様である『速開きの姫』が
     大海原へ流れ出た罪穢れを丸ごと呑みこんでしまう。そして呑みこんだ
     あと、『いぶき戸主の神』が根の国(地下の国)へ一気に吹き出してしまう。
     一気に吹き出してしまうと、根の国の『速さすらひめの神』という神が、
     どこかへ失ってしまう。

 このように失ってしまえば「全ての罪穢れがなくなる」と考えていました。これは良くいえば明るい人間観。悪く言えば好い加減な人間観です。これをキリスト教の思想(といっても色々な思想がありますが)の「原罪」思想とくらべた場合、多くの日本人は良い加減かもしれないが明るい人間観に親しみを感じるのではないでしょうか。そのような宗教的センスは古事記が書かれたときに既に確立していたのだ…と言うことができるでしょう。


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