| 【シリーズ】親子で読む物語。第10回 つねに知恵を磨きましょう。 (15618) |
- 日時:2025年04月27日 (日) 20時48分
名前:芥川流之介
つねに知恵を磨きましょう。
今から見ると昔のこと。京都の愛宕山(あたごやま)の寺に仏道修行を熱心に続けているお坊さんがいました。その坊さんは頭がよくて何でも知っている人でした。その寺では『法華経』を大切にして、深く信仰しているのでした。『法華経』は今も深く信仰されている尊いお経です。このお坊さんは『法華経』の文句を覚えていて、自分が何でも知っていることを村の人たちに自慢をして威張っていました。
その山寺を下った西のほうに、漢字も平仮名も読めない猟師がいて、いつも狸(たぬき)や雉(きじ)を獲って暮していました。秋になると新しい米や野菜といっしょに狸や雉を持って山に上り、寺の坊さんに届けていました。その猟師は坊さんを心から尊んで、坊さんの『法華経』とお説教をいつも聞いていました。
ある秋の日のことです。この猟師は長らく坊さんの寺に行けなかったので、いつもよりも多くの食べ物を袋の中に入れて久々に山寺へやって来ました。坊さんは喜んで、しばらく会わなかった懐かしさであれこれ話をしていましたが、やがてそっと膝を前に進めて、
「最近、じつに尊いことがあるのじゃ。わしが長い間、『法華経』を信じているおかげか、毎晩毎晩、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が現れなさるのじゃ。だからあなたも今夜はここに泊まって菩薩様を拝みなされ」と言いました。普賢菩薩とは光輝く知恵の仏様です。猟師は、「それはまことに尊いことでござります。このままここにいて私も菩薩様のお姿を拝ませていただきましょう」と言って、山寺にとどまりました。
さて、この坊さんの弟子に幼い童がいたので、この猟師がひそかに童に聞いてみました。「お前さんも菩薩様のお姿を拝見したのか。」「はい。五、六回は拝見しました」そこで猟師は、「それならば無知な私でもお姿を拝見できるかもしれない」と思って、その夜は坊さんの後ろにいて寝もせずに菩薩様が来るのを待っていました。
秋のさかりだから夜がたいそう長い。今か今かと二人が待っていると、真夜中を過ぎたと思われるころに、東の峰のほうから月が上ってくるように白々と明るくなり、峰の嵐がさっとあたりを払って強く吹くと、この寺の中にも月の光がさし込んだように明るくなりました。二人が見ると、光輝く姿の菩薩様が白象に乗ってしずしずと降りておいでです。その姿はまことにありがたくも尊い。普賢菩薩は地上におりて、寺の正面にお立ちになりました。
坊さんは泣きながら普賢菩薩を礼拝し、後ろにいる猟師に、「どうじゃ。そなたも拝みなさったか。」と言いました。猟師は、「まことにありがたく拝みました。」と答えましたが、心の中では不思議でした。「お坊様は長いあいだ『法華経』を読んでおられるから、菩薩の姿が目に見えるのは当然のことだろう。しかし私のようにお経の文句を知らない者に姿が見えるのはじつに怪しい。この菩薩様が本物かどうかを試してみることも私の信心を強めるためだ。決して仏罰を受けることにならないだろう。」と思って、とがった矢を弓につがえて、坊さんがひれ伏して拝んでいる体の上越しに、強く弓を引き絞ってビュンと矢を射ると菩薩の胸に命中した…と思うやいなや火を吹き消すように辺りの光も消えうせました。それと同時に、谷の方へ地響きを立てて逃げていく足音がしました。
坊さんが驚いて、「いったい何をなさったのか」と言って、大声で泣き騒ぎました。猟師は、「お静かになさいませ。私はどうにも合点がゆかず怪しい気がしたので、試してみようと弓で射たのです。」と宥めたが、坊さんの嘆きはおさまりません。朝日が昇ってから菩薩が立っておられた所に行ってみると、たくさんの血が流れていました。その血のあとを尋ねていくと、1㎞ほど下った谷底に、大きな猪(いのしし)がとがった矢で胸から背にかけて射抜かれて倒れ死んでいました。これを見てお坊さんはようやく嘆きの心が消えうせたのでした。
のちにこのことを知った村人たちは、「たとえお坊さんでも威張るための知恵を持つ人は猪にだまされ、文字が読めない猟師であっても、本当の智恵があれば猪の化けの皮をはぐことができるものだ」と言って猟師を誉め讃えたということです。
『宇治拾遺物語』巻八の6「猟師、仏を射ること」を翻案して現代語訳。
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