《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

本流宣言掲示板」「光明掲示板・第一」「光明掲示板・第二」「光明掲示板・第三

谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
この掲示板の目的
この掲示板のルール
本掲示板への書込法
必ずお読みください
管理人への連絡
重要リンク
TOP PAGE

コピペで文字に色や下線をつけて太字にする方法
 

 

【シリーズ】親子で読む物語。第2回  自分の国や社会を大切にしましょう (15566)
日時:2025年03月24日 (月) 15時17分
名前:芥川流之介

自分の国や社会を大切にしましょう


中国の唐の時代のことです。太守衛という将軍は戦いに負けたことがない強い将軍でした。ある年の冬にロシアの兵が黒竜江(アムール川)をこえて突然、唐の国を襲ってきました。太守衛は自分の国を守るため黒竜江に向かいました。太守衛の兵はわずかに三千人。ロシアの兵たちは三万人。

太守衛の軍は黒竜江の堤防にたてこもって抵抗したものの、雪が降り、風も強いために寒さで凍え、疲労も激しく、そのうえ勢力も敵の十分の一なので大敗を喫してしまいました。太守衛の兵たちは四方に逃げ去り、残る兵はわずか六騎になってしまった。ロシアの兵たちは六騎を取り囲み、激しく攻めかかり、雨のごとく矢を射かけたのでした。

それでも太守衛は奮闘して防戦につとめました。その戦う姿は鬼神のごとし。長く大きな矢を射て、その矢に当った者で射落とされない者はいなかった。太守衛は四方を囲んだ敵の軍を馬で駆け破り、囲みを抜け出て、ふたたび中へ突入する。何度もそれを繰り返し、その素早さは稲妻のごとし。太守衛と目を合せる者は一人もいなかった。敵のロシア兵たちは太守衛をたたえて、「いくさの神」と呼びました。

こうした戦闘が繰り返されるうちに、ロシアの兵たちはわずか百騎になってしまいました。それでもロシア兵たちは六騎を包囲して、すき間なく矢を雨降らせた。そうこうしているうちに百騎は太守衛のすぐ近くにまで迫り、太守衛は逃れることができそうにもなくなった。しかし五騎が死にもの狂いで四方を駆け回ったので、ついにロシア兵たちは退却せざるをえなくなったのでした。

ここに、太守衛麾下の兵に偉海陽という者がいました。太守衛の軍が敗退して将軍の行方もわからなくなってしまったので、ばらばらに逃げ散った兵たちに将軍の居場所を聞くと、「ロシア人たちに囲まれて、誰も逃れ出ることはできなかった」と答える。偉海陽は天を仰いで、こう悲しんだ。「太守衛将軍にお仕えしてはや三十年。将軍が命を落す時にあたって、自分一人が生き延びて何になろう」と。こう言って、偉海陽は敵の軍へ馬を走らせ突入した。二、三人の家来も同じく突っ込み、駆け回り、多くの敵を討ち取ったが、ついに偉海陽とともに討ち死にしてしまった。

また、超稔天という者がいた。やはり太守衛の行方がわからず、「間違いなく、敵の囲みの中で討ち死にした」と思い込み、その遺骨を拾おうと思い立ったが、「侍の姿では、敵陣に入れまい」と思い、その場で髪を剃って敵陣の中へ紛れ込んだところ、太守衛将軍にばったりと出合ったのであった。超は喜び、かつまた悲しんだ。超は将軍の馬に取りついて涙を拭った。超の出家は早まった出家であったが、国を守る太守衛への忠義の心は尊く、感動的であった。

さて、この年は太守衛の軍勢が少ないためにロシア兵を追い払うことができなかったが、次の年に三万騎の兵が太守衛の軍に加わった。これでロシアの三万騎が攻めてきても互角の戦いが可能である。太守衛はロシアの国内にスパイを放ってロシア軍のようすを報告させた。秋の終わりごろ、スパイから太守衛に報告が届いた。

ロシアの兵隊六万人が冬になると再び黒竜江をわたる準備をしているという。太守衛は、夜になると黒竜江の広い中州に唐の側から橋を三本つくらせた。中州とは、川の真ん中に土が盛り上がっているところである。さらに中州からロシア側にも橋を三本作らせた。この橋の足には燃えやすい松の木を使い、松の葉は火をつけるとすぐに燃えるので松の枝と葉もそのまま使った。

六本の橋ができあがると太守衛の軍は中州を通ってロシア側に攻め込んだ。ロシアの兵たちは太守衛の軍に突進してきた。太守衛の軍は強大なロシア軍に押されて少し戦うとすぐに退却し、また戦うとすぐに後ろへ後退した。太守衛たちは橋をわたって中洲におしもどされ、ロシアの兵たちは広い中州になだれこんだ。このとき、橋の下で小舟に乗って隠れていた太守衛の兵がロシアと中州を結ぶ三本の橋の足の枝葉に火をつけた。松の枝葉はパチパチと音をたてて燃えはじめ、すぐに足全体に火がついて三本の橋はくずれ落ちた。その一方で、唐の陸地からは唐の兵たちが橋をわたって、身動きできないロシア兵を攻めたてて中州のロシア軍を全滅させた。今年の戦闘は唐の軍の圧勝に終わった。

残念なことに、その時に一つだけ悲しい事件があった。太守衛の妻は一年前の冬に、「夫が敵に囲まれて戦死した」と思い込み、「私一人が生きていて、どうなろう」と言って、三歳になった子を抱いたまま、高い川岸の上から身を投げて死んでしまった。遺骸を目にした者のなかで涙を流さない者はいなかったという。

そののち、「太守衛は夫婦で国を守った」と、唐の人々から称賛されたということです。


(『十訓抄』第六の17を翻案)





名前
メールアドレス
スレッド名
本文
文字色
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板