| 「与党とその候補者を支持しない」を読んで (1975) |
- 日時:2016年06月12日 (日) 18時29分
名前:昔の平の本部職員
合掌、ありがとうございます。 私も読んでみました。皆様も様々な立場で色々な感想を持たれたと思いますが、いつもどこにでも突っ込める所がある、というのが「三代目先生の文章」「本部の通達」であります。何と言いますか、私としては別に文句も言いたくはないのですが、ついつい書きたくなってしまうくらい、「おもしろい通達」なので書き込みます。 大前提として、政治活動から離れていたはずの教団が、今回、事実上の野党支持を訴えていること自体が異例(今までの先生個人の意見は別として)ですし、その方針転換の理由は具体的にはどこにも書いてありません。ただ、三代目先生の意向を受けて通達を出したというところでしょう。こうしておけば、講習会でも大っぴらに政権批判もできるということなのでしょう。そのうち、自民党支持の会員は自動的に退会させられてしまうかもしれません。
しかし、私が一番疑問を感じたのはそこではありません。「日本会議」のメンバーの中に元信者がいるという話から、
(以下引用) 当教団は、元生長の家信者たちが、冷戦後の現代でも、冷戦時代に創始者によって説かれ、すでに歴史的役割を終わった主張に固執して、同書(「日本会議の研究」)にあるような隠密的活動をおこなっていることに対し、誠に慚愧に耐えない思いを抱くものです。 (引用終了)
あのー、それは元信者ですよね。教団から離れた方が仮にどういった思想・信条を持って行動しようと関係無いのではないでしょうか。それを言うなら、「現教団とは何の関係もありません」と書けばそれで済む話だと思いますよ。また、全くの第三者が書いた同書の内容についてもどうかと思いますし、それを根拠に判断しているのも誠に情けない限りです。 それに現在は全く教団と無関係の個人に対して、「誠に慚愧に耐えない」という表現はどうなのでしょう。失礼だと思わないのですか。「慚愧に耐えない」=「心から恥ずかしく思う」くらいの意味でしょうが、私からすれば、立教記念日に総本山の壇上で実相額を白い布で覆い、偉い先生方が土足で上がる場面こそ、「誠に慚愧に耐えない思い」を抱いたものです。
さらに、
(以下引用) 私たちは今回、わが国の総理大臣が、本教団の元信者の誤った政治理念と時代認識に強く影響されていることを知り、彼らを説得できなかった責任を感じるとともに、日本を再び間違った道へ進ませないために、安倍政権の政治姿勢に対して明確に「反対」の意思を表明します。 (引用終了)
ここでまた疑問なのは「彼らを説得できなかった」とあることで、それではそうする機会があったということでしょうか。それは、「わが国の総理大臣が、……影響されていることを知り」の後なのでしょうか、前なのでしょうか。それがよく分かりません。 いずれにしても、何度も言いますが、既に信徒でもない方が如何なる思想・信条を持って行動することも自由なのに、なぜ現教団と同様の「思想」を持つことを説得(言い換えれば強制)されなければならないのでしょうか。現教団はそんな事をするような団体なのでしょうか。 「責任を感じる」とかいっても、元信徒なのだから、前述したように「現教団とは関係ない」というだけで済むことです。そんな意味不明な事を言う必要はありません。 そして、「日本を再び間違った道へ進まないために」という野党が使う浅薄な常套句と合わせて安倍政権に反対だといいますが、もっと他に言い方が無かったのでしょうか。
この通達は「まるで昔の大学生が書いた学生運動のビラ」のように思えます。安倍政権が悪いからとか、現教団(つまりは三代目先生)の「思想」に反するからとかいった大義名分を振りかざして政権に反対すると言いながら、本当の目的は、自らは名前を特定せずに、元信徒の方への個人攻撃をすることのようにみえるのです。(実名は第三者の著書で特定させるという点が、いつものように中々「賢い」点です。これが七者への贈呈や、協会での取り扱い、信徒への推奨の理由です) 実は大義名分などはどうでもよく、この通達によって教団が世間からどう評価されようともどうでもよい。山梨の田舎の山麓で、切歯扼腕しながらこれを書かれた先生の姿が目に見えるようです。余談ですが、先生ももう若くはないのですから、歯は大切にされた方がいいと思いますよ。確か清超先生も歯はあまり丈夫ではなかったと私は記憶していますから。
再拝
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