《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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【論評14/15】 雅宣総裁は、中学生でも理解できるように易しく書かれた谷口清超先生の御文章を誤読していることに自分で気付いていない。 (15535)
日時:2025年03月10日 (月) 13時46分
名前:勝手に論評家

【論評14/15】 雅宣総裁は、中学生でも理解できるように易しく書かれた谷口清超先生の御文章を誤読していることに自分で気付いていない。


次郎
京子さん。総裁は本冊子のなかで谷口清超先生のご文章をみごとに誤読している。その誤読のみごとさは、「総裁には中学生レベルの読解力さえも無いのではないか」と思わせるほどの誤読なのだ。

京子
どこで誤読しているの?

次郎
本冊子の「ジェンダー関連問答集」の中だ。まず、4番目の質問として次のような質問(本冊子43頁)が提出された。

Q4
これまで生長の家で「夫にハイ」と教えられてきたことと、「ジェンダー平等を含む女性の立場から」家庭を光明化することの間には、大きな矛盾を感じます。谷口雅春先生著の『新版真理』第五巻女性篇には「夫にハイ」の説明として、次のように書かれています。これを「真理」として受け取ってはいけないのでしょうか?

     男女の基本人権が平等なのに、男性の主人ばかり自分の意見を主張して
     女性にばかり絶対無我になって従えなどと云うのは極端な封建思想だ
     と思われるでありましょうが…。…これは永久に変ることなき真理なの
     であります。
     (『新版真理』第五巻女性篇。六四~六五頁。点線は次郎による省略)

京子
ふむ…。それで?

次郎
それに対する回答が次の文章だ。ここで谷口清超先生のご文章が登場する。青色の部分が回答文。青色と青色の間にはさまれた黒字の部分が谷口清超先生のご文章だ。

…これに対し、谷口清超先生の『愛する妻と母の話』(一九八五年初版)で使われている「右手と左手」の比喩(一二六~一二七頁)は、(雅春先生の「夫にハイ」の教えよりも・・・・・・・・・・・・・・・・・)現代社会により即したものです。長くなりますが、重要なので引用します:

     最近は、女性が独立して生活することの出来る時代となりましたから、一生独身で仕事に打ちこむ女性もいます。しかし何といってもよい家庭を持ち、夫婦仲よくくらして、愛する子供を生み育てるということは、女性の最も多くが希望するところであろうと思います。そのような時、性の幸不幸を決定的にきめるのが夫婦の仲の好さの程度です。これが最高であるのと、最低であるのとでは、家庭は勿論、仕事の上でも育児上でも、大変な違いが生じて来ます。
     何故なら、人間は本来男と女とにつくられていて、夫婦は互いに協力し合い、助け合ってはじめて「完全な生活」を送りうるようになっているからです。だから夫婦が調和し合っていると、全てのことがうまく行くようになるのです。それは丁度左手(夫に当る) と右手(妻に当る) とがうまく協調して仕事をすることによって、よい仕事や作品が出来てくるようなものです。ところが左手と右手がチグハグで、一方のやる事を片方が拒絶したりすると、一体どうなるでしょう。
     食事をするのでも、茶碗を持つ手(左)の方へは箸が行かないで、アサッテの方向に右手が行ったのでは、とてもごはんは食べられませんね。右手が勝手に髪の毛をいじくりまわして、左手は茶碗を持ったままということになると、一体この人は、「何をしているのだろう」ということになる。
     勿論左と右の手は、全然同じことをするわけではないが、お互いに協力し合ってこそ、仕事をうまくやって行くことが出来るし、ものをこしらえる時でも、ピアノを弾く場合でも、うまくやれるのであって、これは夫と妻との間に於いても、同じです。

この「左手右手」の比喩は、それ以前に使われていた(雅春先生の・・・・・)「夫は針、妻は糸」という比喩よりも、人生における一つの”作品“である家庭を、夫と妻が個性と能力を出し合って協力して作り上げるという家族生活の実際をよく表しています。男女雇用機会均等法が施行されて三八年、ジェンダー平等の考えが常識化しつつある今日、「人間は性別によらず神の子である」という教えの説き方としては、(雅春先生の・・・・・)「針と糸」の喩えより優れているでしょう。
(本冊子45頁~47頁。傍点部は次郎による補足)

京子
かなり長い回答文ね。

次郎
谷口清超先生のご文章を引用しているから仕方がない。

京子
それで、総裁先生は清超先生のご文章をどのように誤読しているの?

次郎
まず確認するけれども、この質疑応答は男女の秩序に関する内容だ。簡単にいうと、昔の雅春先生が教えた「夫にハイ」や「針と糸」の関係が良いのか、それとも「男女平等」の関係が良いのか…という内容だネ?

京子
そのとおり。

次郎
ところがネ。清超先生のご文章は「針と糸が良い」とか「男女平等が良い」とかいう内容ではない。そもそも清超先生のご文章は「男女の順番」や「男女の平等」について語っておられる文章ではないのだ。

京子
え…。わかりやすく説明しなさいよ。

次郎
清超先生のご文章は合計4段落で構成されている。そのなかで第1段落の内容は、女性の幸福にとって「夫婦の仲の好さ」が極めて重要だ…という内容だ。この内容は「男女の順番」や「男女の平等」と関係がない。第1段落のなかに、「男が先で良い・悪い」とか、「男女平等がよい・悪い」とかいうご発言はない。

京子
ふむ…。

次郎
第2段落には、「左手(夫に当る) と右手(妻に当る) とが…チグハグで、一方のやる事を片方が拒絶したりすると、一体どうなるでしょう」というお言葉がある。しかしこのお言葉は、「夫婦の協力が必要だ」ということを語っておられるにすぎない。このお言葉は「男女の順番」や「男女の平等」を語っているお言葉ではない。第2段落のなかに、「男が先で良い・悪い」とか、「男女平等がよい・悪い」とかいうご発言はない。

京子
なるほど。

次郎
第3段落には、「食事をするのでも、茶碗を持つ手(左。男)の方へは箸が行かないで、アサッテの方向に右手(女)が行ったのでは、とてもごはんは食べられませんね」というお言葉がある。このお言葉も夫婦の協力を説いているお言葉だ。「男女の順番」や「男女の平等」を語っておられるのではない。…もっとも、読みようによっては、「女(右手)は男(左手)の意志に従うべきだ」と教えておられるとも解釈できる。そのように解釈するならば、総裁と回答者の結論は根底から否定されてしまう。

京子
ふむ…。

次郎
最後の第4段落には、「左と右の手は、全然同じことをするわけではないが、お互いに協力し合ってこそ、仕事をうまくやって行くことが出来る…」というお言葉がある。これも夫婦の協力が必要だ…という内容だ。「男女の順番」や「男女の平等」を語っているお言葉ではない。第4段落にも、「男が先で良い・悪い」とか、「男女平等がよい・悪い」とかいうご発言はない。

京子
たしかに。

次郎
だから、谷口清超先生のご文章の内容は、「男女の順番」や「男女の平等」と関係がない。「針と糸」が良いのか、それとも「男女平等」が良いのか…という問題と関係がないのだ。…ここまでご異存はない?

京子
ない。

次郎
それなのに回答者は、谷口清超先生の「左手右手」の比喩のほうが、雅春先生の「針と糸」の喩えより優れていると述べて、それを最後の結論とした。これはとんでもない誤読だ。

京子
ふむ…。

次郎
そもそも清超先生のこの御文章は中学生でも理解できるように易しく書かれた御文章だ。その御文章をこのように誤読した総裁の読解力には致命的な欠陥があるのではないか。

京子
なるほど。

次郎
そもそも本冊子(教団冊子)は、谷口雅春先生の「針と糸」の喩えの御文章を提示していない。だから「総裁」も「回答者」も「本冊子の読者」も、谷口雅春先生の「針と糸の喩え」と、清超先生の「左手右手の比喩」と、どちらが優れているか…など分かるはずない。そもそも比較できないのだから。

京子
あ…。

次郎
それにもかかわらず総裁と回答者は、谷口清超先生の「左手右手」の比喩のほうが、雅春先生の「針と糸」の喩えより優れていると述べて、それを最後の結論とした。これは無茶苦茶な洗脳論理だ。総裁は自分の結論を信徒に刷り込むための詭弁的な洗脳論理を語っている。僕は、総裁は信徒を洗脳する目的で本冊子を信徒に読ませていると論評せざるをえない。

京子
なるほど。ごもっとも。

次郎
いや。ここで納得してもらっては困る。ぼくが言いたいことは、まだある。

京子
まだあるの?

次郎
この回答文の最後は、

   この「左手右手」の比喩は、それ以前に使われていた「夫は針、妻は糸」という
   比喩よりも、人生における一つの”作品“である家庭を、夫と妻が個性と能力
   を出し合って協力して作り上げるという家族生活の実際をよく表しています。
   …(だから)「針と糸」の喩えより優れているでしょう。


だった。回答者はこれを最後の結論にしたのだった。しかし京子さん。よく考えてほしい。本当に谷口雅春先生の「夫は針、妻は糸」という比喩が、「夫と妻が個性と能力を出し合って協力して作り上げるという家族生活の実際」を表していない・・・・・・と言えるのか?

京子
う~ん。どうかしら。

次郎
京子さん。思い出してもらいたい。「生長の家classics」さんは15402記事、
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelo...
で、雅春先生のお言葉を紹介なさった。それを思い出してもらいたい。あのお言葉は、「夫と妻が個性と能力を出し合って協力して作り上げるという家族生活の実際」を生き生きと表しているお言葉だった。

京子
そうだった?

次郎
京子さんが忘れているようだから、ここに再提示する。

   男性は縫針(ぬいばり)の如く、女性は縫糸(ぬいいと)の如くである。   
   縫針は直線的であり堅剛(けんごう)にして前進するが、縫糸は後方に
   あり、これに附随(ふずい)して柔らかくしなやかである。糸は針について
   行く事が尊い…。糸は針のあとについてさえ行けば、それで立派な着物を
   縫い上げる事が出来るのである。
   (『新版・叡智の断片』日本教文社。327頁~328頁)

どうだい。京子さん。糸(女)は針(男)のあとについてさえ行けば、それで立派な着物を縫い上げる事が出来る…。このご文章は生き生きと、ヴィヴィッドに「夫と妻が個性と能力を・・・・・・・・・・
出し合って・・・・・着物を作り上げるという家族生活の実際・・・・・・・」を表わしているではないか。

京子
たしかに。

次郎
それにもかかわらず回答者は、「清超先生のご比喩のほうが、夫と妻が個性と能力を出し合って作り上げるという家族生活の実際をよく表している。だから雅春先生の比喩よりも優れている」などと、ほざいた。

京子
うむ…。よくもぬかしやがった。

次郎
京子さんも、雅宣総裁の読解力には致命的な欠陥があると思うだろう。

京子
うん。わたしもそう思う。





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