《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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限りなく「生長の家」を愛す (1974)
日時:2016年06月12日 (日) 18時14分
名前:亀の子



私は「日本」を限りなく愛します。日本の現實の状態ではありません。「日本」なるものの本質を愛するのです。
(『限りなく日本を愛す』谷口雅春先生著より)


それに倣って、

私も「日本」を限りなく愛します。日本の現實の状態ではありません。「日本」なるものの本質を愛するのです。


私は「生長の家」を限りなく愛します。「生長の家」の現實の状態ではありません。「生長の家」なるものの本質を愛するのです。

また、私は、谷口雅春先生が大好きです。天皇様が大好きです。

そして、私は「谷口雅春先生原理主義者」たらんとする者です。

宗教評論家のひろさちや氏は、自ら「仏教原理主義者」を名乗っている。

氏は、そ の著『ほんとうの宗教とは何か 青の巻』で、「宗教は原理主義である」の章で、


「宗教は本来、原理主義だし、原理を外してしまったら、それはもはや宗教ではないといえます。」(P65より)

と喝破している。

現教団が2008年に開催した「生長の家教修会」のテキストであり、その前年ニューヨークでお世話になったというイスラーム法学者のカリード・アブ・エル・ファドル氏の著書『イスラームへの誤解を超えて-世界の平和と融和のために』米谷敬一訳(日本教文社刊)には、


「これまで、一般に使われてきた「原理主義者」という用語には、明らかに問題がある。イスラームのグループや組織はみな一様に、イスラームの原理を忠実に守っていると断言し てはばからないからだ。もっともリベラルな勢力ですら、自らの主義主張が根本的な教義にもっとも忠実だと主張するだろう。」(P18より)

と書かれているではないか。


現・総裁は、自らの著である『衝撃と理解へ』で、上記の本を紹介しておきながら(「7 現代のイスラーム理解のために」P214~)、

「聖典の字義通りの解釈によってテロや戦争を正当化するのが、いわゆる「原理主義的」な立場である」(『衝撃と理解へ』P22)

と断定しているが、カリード・アブ・エル・ファドル氏は、その用語には、「明らかに問題がある」といっているのである。


「原理主義者」=「悪」という決めつけ自体が、間違っているのである。

しからば、その意味において、自分は「谷口雅春先生原理主義者」たらんとする者であると言いたい。

仕事においても「原理・原則」が最も重要だと教わった。原理・原則を外したところに宗教も仕事も成り立たない。

また、「古い」=「悪」、「新しい」=「善」という決めつけも間違っている。「温故知新」という言葉さえ知らないのであろう。


先に紹介した、ひろさちや氏は前掲書の中で、

「原理主義の反対は何でしょうか。」と自ら問い、その反対語として「ご都合主義」を挙げている。


現在の教団は、「三代目ご都合主義」にしか自分は見えない。

また、逆に言えば、総裁の言葉を借りていうとしたら、現教団は、

「三代目の解釈によってエコや選挙運動を正当化するのが、いわゆる「三代目原理主義的」な立場である」

というべきか?


私は、「谷口雅春先生原理主義者」ですがなにか?と 言いえる人間でありたい。


合掌



最初に原理主義者と名指しされた人は (1980)
日時:2016年06月12日 (日) 19時57分
名前:そういえば

宮澤潔先生は

谷口雅春先生以外に師はありえないと宣言し

ときみつる会を立ち上げられた

宮澤先生は、原理主義者と言われていますよと聞かされた時に

大きな声でカラカラと笑われておっしゃった

「それはそれは光栄な事です」と

やはり本物は違うと思ったものだ

谷口雅宜総裁の定義している言葉に従えば (1984)
日時:2016年06月12日 (日) 21時19分
名前:コスモス


 谷口雅宜総裁は悪い意味での原理主義者であると我々を否定された訳ですが、それに従えば、

 今時の言葉で言うところの「雅宜チルドレン」と言っても差し支えないような、つまりフェースブックでの総裁のつぶやきが何であろうと、直ぐに「いいね」を押すような青年たちや、

 今回の「野党に投票を」にすぐさま応えて拍手しているような白鳩会員や相愛会員の皆さんは、立派な「谷口雅宜教=今の教え原理主義者」であると言えますね。

 こちらの原理主義者はあくまでも『生命の實相』や『真理』『甘露の法雨』など沢山の聖典がありますが、「今の教え原理主義者」の皆さんは、その根本聖典があるのでしょうか。「大自然讃歌」? 「観世音菩薩讃歌」? 「唐松模様」? よく解りません。


「原理主義者」というレッテル (2001)
日時:2016年06月13日 (月) 08時04分
名前:山ちゃん1952

私は雅宣総裁の「原理主義者」というのはイスラム教を例えて言っていることに違和感を感じているのです。
日本には「原理主義者」というのは存在しないというのが私の考えです。
というのは神社に行けば二拝二拍手一揖(一礼、一拝)をする形式といえばそうであるが、それが古今東西変わっていない。また古いしきたりや、決まりなどそれぞれに則ったものがあるのです。
憲法などの考えもそうです。今や改憲派といわれる国民は半分を超えています。
そういう人は「原理主義者」ではなく「改革派」であると思っています。時代に憲法がそぐわないことを自覚しての世論結果であると思っています。

しかし総裁は
>元生長の家信者たちが、冷戦後の現代でも、冷戦時代に創始者によって説かれ、すでに歴史的役割を終わった主張に固執して、同書にあるような隠密的活動をおこなっていることに対し、誠に慚愧に耐えない思いを抱くものです。先に述べたとおり、日本会議の主張する政治路線は、生長の家の現在の信念と方法とはまったく異質のものであり、はっきり言えば時代錯誤的です。彼らの主張は、「宗教運動は時代の制約下にある」という事実を頑強に認めず、古い政治論を金科玉条とした狭隘なイデオロギーに陥っています。宗教的な観点から言えば“原理主義”と呼ぶべきものです。私たちは、この“原理主義”が世界の宗教の中でテロや戦争を引き起こしてきたという事実を重く捉え、彼らの主張が現政権に強い影響を与えているとの同書の訴えを知り、遺憾の想いと強い危惧を感じるものです。<

たとえば冷戦時代と現在の国際的状況と何が変わったのでしょうか?中国の台頭と東シナ海におけるロシア南下政策、北朝鮮の核ミサイル。国際テロ組織アルカイダの動向とテロの時代。
事態は悪化しているといわれるのが国際的世論の体制です。

そこでアルカイダは原理主義なんでしょうか?

アルカイダはとりわけアメリカを名指しに批判をしています。アメリカの敵国としてテロを繰り返しています。

だから、イスラム教の根本主義のようなものを嘲弄するような考えがあるのをイスラム原理主義といっているのですが、それならばイスラム教に失礼であると思います。あくまでイスラム経典にアルカイダは則ていないのです。こうしたテロが起こるたびにイスラム教は自分の組織とは無関係だと主張しています。

元々「キリスト教過激派」の組織を「イスラム原理主義」といったのであって、原理主義の人達には過激派が多く存在したためそういうレッテルを貼られた。しかしイスラム教というより民族主義的なものがあり、日本にはそうした組織などない。

生長の家の古参や私のような人間を「原理主義者」というならば
古い考えを持つような人やレッテル貼りのような人は全て原理主義者である。

仏教の教えを学ぶ者は亀の子さんが言っているように全て原理主義者となるのです。

しかし国際的に「原理主義者」という用語を使用しなくなっています。前に書いたように一種の「差別用語」であり、現在ではイスラム主義とかよんでいます。

それと雅宣総裁は雅春先生の否定が根本的にあるから、そういう考えになるのです。
大上段に雅春先生を否定出来ないため、雅春先生の教えを忠実に守ろうとしている人を蔑むように「原理主義者」とよんでいるのです。

そういうレッテル貼りこそ「原理主義者」であると私は思っています。

私は何故ここまで「原理主義者」というのを否定するかといいますと、『hanada』7月号という月刊雑誌(頁261)に山田直樹という人物が”原理主義グル-プ”と間違った言葉で名指しに批評しています。
言葉というのは悪影響を与えてしまうことがあります。
個人が「原理主義者」と呼ばれるのは一向に構いませんが、組織となるとその風評を追い払うのに大変です。

例えば、谷口雅宣総裁を「サヨク総裁」というのがこの掲示板でも言われていることです。しかし確かに左翼的な考えが潮流にありますが、それを講習会などで必死に反論しています。
だから言葉というのは大切なのです。確かに「サヨク総裁」ですが本当はそんな言葉を使ってはいけないと思います。

しかし何故言われるかといいますと、ご存知の通り、いままで頑張ってきた生長の家信徒を罵るかのように「原理主義者」と叫んでいた。その”業の反発”ではないかと思っています。

業の流転こそがそうしたコトバを書き込みされる要因だと思っています。

ただ、ここで拝むだけではいけない、如何にそれに反発して否定するだけの知識を携えなければならない。

山ちゃん1952様へ (2063)
日時:2016年06月14日 (火) 20時22分
名前:亀の子

山ちゃん1952 様

合掌、ありがとうございます。
拙稿をお読みいただきありがとうございます。またアメリカで悲しい事件が起こってしまいました。総裁は、また「原理主義者」という言葉を持ち出すのでしょうか。

心から哀悼の意を表したいと思います。

さて、

>私は雅宣総裁の「原理主義者」というのはイスラム教を例えて言っていることに違和感を感じているのです。

>日本には「原理主義者」というのは存在しないというのが私の考えです。

これは、おっしゃる通りだと思います。

雅宣総裁の『信仰による平和の道』(現在、品切れ-絶版?)の第一章の書き出しも「イスラム原理主義」を取り上げていますが、

「原理主義者(ファンダメンタリスト)」という言葉は、もともとキリスト教のプロ テスタント運動から生まれたといわれているので、イスラム教にも仏教にも、ましてや、

>日本には「原理主義者」というのは存在しない

とおっしゃることは正論だと思います。

それなら何故、上記のような投稿をしたのかというと、今回の投稿は、「与党とその候補者を支持しない」等の総裁・教団発表の通達を読んでの、あくまでも私個人の心の叫びであり、決意表明というか、覚悟の表明というべき投稿です。

私自身、本流派といわれる組織には所属しておりませんので、それらの組織・会員の人達には全く関係ありません。日本会議にも関係ありません。

全く私事ですので、誤解なさらないでください。また、不快に思われた方には、深くお詫び申し上げます。

はじめは、「原理主義者」という言葉を使うことにも悩みました。


山ちゃん1952 様が書かれているように、

>それと雅宣総裁は雅春先生の否定が根本的にあるから、そういう考えになるのです。

>大上段に雅春先生を否定出来ないため、雅春先生の教えを忠実に守ろうとしている人を蔑むように「原理主義者」とよんでいるのです。

私も常々そう感じておりますので、異議を唱えるつもりはありません。


「与党とその候補者を支持しない」を読んだ私の天邪鬼が動き出して、敢えて「私は「谷口雅春先生原理主義者」たらんとする者です。」という言葉になった次第です。

『宗教問題14号』『hanada』7月号も昨日、購入し該当箇所を読みました。確かに悪いイメージの印象しか受けませんでした。

また、昨日は、平成15年度の教修会の記録『歴史から何を学ぶか』の「原理主義(者)」の箇所を抜き出し、如何に雅宣総裁(当時、副総裁)は、雅春先生の教えを忠実に守ろうとしている本部講師(補)に「原理 主義(者)」という悪いイメージを植え付けたかのを検証しておりました。

前掲のひろさちや氏の文章から引用させていただければ、

「そもそも宗教における原理主義とは何かと言えば、神や仏などの超越者によって示された絶対的な原理に忠実に生きようとする考えであり、姿勢です。

宗教は本来、原理主義だし、原理を外してしまったら、それはもはや宗教ではないといえます。」(P65より)


という意味に於いて、私は、谷口雅春先生の説かれた原理・御教えに忠実に生きたいという決意を込めて、敢えて、
「私は「谷口雅春先生原理主義者」たらんとする者です。」という言葉になったことをご理解ください。


「ねばならぬ」を解放する御教えですので、もともと「原理主義者」という言葉に固執するつもりもありません。

また、「原理主義(者)」=「悪」という誤ったイメージを払拭したいという意図もあり、敢えてその言葉を使ったという一面もあります。


感謝 再拝




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