| 【論評8/15】 雅宣総裁の発言とその論理を分析すると、「総裁の関心は『組織の頂点に立ちつづけて自分の政治嗜好のままに生長の家の組織と教義を改造すること』にある」という結論に到着する。さらに、「それ以外にない」という結論にも到着する。 (15513) |
- 日時:2025年02月27日 (木) 12時46分
名前:勝手に論評家
【論評8/15】 雅宣総裁の発言とその論理を分析すると、「総裁の関心は『組織の頂点に立ちつづけて自分の政治嗜好のままに生長の家の組織と教義を改造すること』にある」という結論に到着する。さらに、「それ以外にない」という結論にも到着する。
次郎 まず、総裁は「生長の家の組織」を壊したり組み立てたりして「改造」を続けてきた。その結果は17年後に起りそうな「組織消滅」だ。
京子 ふむ…。
次郎 それだけではない。総裁は「生長の家の教義」までも子供がいじくり遊ぶように「改造」してきた。その極端な一例が、「石上げの行」だ。
京子 石上げの行…?
次郎 総裁は「唐松」2020年7月26日 の記事、「石と信仰 (1)」 http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2020... のなかで、自分が考案した「石上げの行」を紹介している。
去る7月24日、山梨県北杜市にある生長の家国際本部“森の中のオフィス” では、「天女山への石上げと自然解説」という行事が行われた。これは、 標高1300mにあるオフィスから同1529mの天女山の頂上まで、 参加者である職員有志が石を背負って自転車で登るという行事である。
…「石を背負う」というと、何か苦役を強いるような印象があるかもしれ ないが、背負う石は片手で持てるほど小型のもので、それを各自が常日頃 通勤で使う背負いカバンに入れて登るのである。…そして、天女山頂に全員 が登ってから、石を所定場所に納める儀式を行なった。
京子 これは何かの「おふざけ」か「お遊び」なのでは…?
次郎 はじめはみながそう思う。しかし、これは「生長の家の行」なのだ。総裁は同ブログ2020年8月1日の記事、「石と信仰 (3)」 http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2020... のなかで、「石上げの行」が「生長の家の行」であることを語っている。少なくとも「生長の家の正式の行事」であることを語っている。
…このような学問的なアプローチを採用すれば、生長の家が「石上げなど の行事」を通じて岩石を利用する場合、また自然解説/文化遺産 解説の 過程で岩石に言及する場合も、教義との矛盾を起こさずに行えるだろう。 言うまでもなく、生長の家は唯一絶対神を信仰する宗教だから、上記の ①(信仰対象)の意味で岩石を使用することはあり得ない。しかし、 ②(媒体)の観点から利用することに教義上の矛盾はないのである。 (括弧内は引用者)
京子 神想観や聖経読誦のほかに「石上げの行」という行が加わった…ということ?
次郎 どうも、そうらしい。
京子 あきれた…。
次郎 そもそも、「物質なし。肉体なし」という深遠なお悟りを中核に秘めている「生長の家の信仰」から、どうして「石を持ち上げる」などという行が生まれるのだ。もしも総裁が「物質がないからこそ、石を持ち上げても物質を持ち上げているのではない」と小理屈を言うのならば、総裁は率先して巨大な岩石を持ち上げてみるがよい。
京子 本当にネ。
次郎 ぼくが前回紹介した総裁の詭弁的ブログ記事「生長の家と政治的立場」でも、総裁は「神示」を詭弁によって否定し、みずから「神示」に背いたのだ。
京子 え…?
次郎 ここで繰り返しになるが、総裁はあの記事のなかで次のように聴衆に語っていた。
生長の家の信仰の原点は、「大調和の神示」が説くように、「神の創造になる 実相世界には利害の対立は本来ない」ということである。…その前提に 立てば、「政治的対立の一方に与する」ことで何かが解決すると考えること は、生長の家の信仰の本道から逸れているのである。しかし…。
この「しかし…」につづく総裁の言葉が、「信者の質問に回答しないのは責任逃れになるから」という詭弁だった。この総裁の態度は、総裁が少しも「生長の家の教え」を信じていないことを示している。そもそも総裁は谷口雅春先生の教えを信じようと欲していない。このことを明瞭に示しているのだ。
京子 ふむ…。
次郎 生長の家総裁・谷口雅宣氏にとって「生長の家の組織と教え」は、自分が壊したり組み立てたりする玩具にすぎない。総裁の関心は、自分が組織の頂点に立ちつづけて自分の政治嗜好のままに「生長の家の組織と教義」を壊したり組み立てたりすることだけだ。それ以外のことに総裁の深い関心はない。谷口雅宣氏に「人類光明化運動」とか「日本の実相顕現」とかいう関心は深くない。
京子 ふむ…。
次郎 そもそも総裁に、「信者の不幸を癒して、幸福になってもらおう」という宗教家として最低限の関心さえもない。これが事実だ。この事実は、総裁谷口雅宣氏が生長の家の信者数の激減に関して一度も「お詫び」や「慙愧の念」を語ったことがない事実を見れば明らかだ。総裁は「生長の家の大神」にも、「生長の家の職員」にも、「生長の家の信徒たち」にも、一度も「お詫び」や「慙愧の念」を語ったことがない。僕はこの事実を思うときに深い悲しみを感ぜざるをえない。
京子 まあ、そのように暗く考えずに…。明るく考えていきましょうよ。
次郎 うん。そうしよう。
京子 あ…。
次郎 なに?
京子 今気がついたけれど、教団冊子『神の子は性別によらず』から話がそれているわ。
次郎 あっ。そうだ…。急いで本冊子(教団冊子)の話にもどろう。
京子 そうしましょう。…ところで次郎さん。
次郎 なに?
京子 まえから思っていたのだけれど…言ってもよい?
次郎 どうぞ。
花子 実はネ、総裁先生が主張する「ジェンダー平等」と「社会の変化に応じた教義の解釈」を承認すると、どうしても、「総裁は『総裁』の立場を純子奥様に譲り、自分は『白鳩会総裁』にならなければならない」ということになってしまうの。
次郎 え…。なんとも奇想天外な…。
京子 だって、そうなってしまうのだから仕方がない。
次郎 京子さん。落ち着いて。落ち着いて。気をたしかに。…人間、落ち着きが肝心だ。冷静に話し合おう。
京子 あなたのほうが取り乱しているわよ。
次郎 とにかく、次回は教団冊子の続きから入ろう。
|
|