雅宣総裁の主張は「ジェンダー原理主義」 (全8回の2回目) (15273) |
- 日時:2024年11月01日 (金) 16時24分
名前:生長の家classics
谷口雅宣総裁は、冊子「”神の子“は性別によらず」(以下、「本冊子」と略称)の「はじめに」のなかで、
>生長の家では社会の変化に応じた運動を進める重要性を説いてきましたが、ジェンダー(男性・女性であることに基づき定められた社会的、個人的関係)の問題については、これまで十分に議論されてきませんでした。…生長の家がジェンダーの問題について議論してこなかった理由は、生長の家自身が長年、男女別による固定的な役割分担論を前提として運動を進めてきたからです。 (3頁上段)
と、述べておられる。
もっとも、この「はじめに」の二文は冊子の編集者が記入した文章であって、総裁直筆の文章ではないようなのだが、総裁の認可を得た文章であることは間違いない。よって、総裁の考え方が書いてあると理解しても問題ないはずである。
この総裁の主張はまちがっている。ここで結論だけを先に言うならば、たしかにジェンダーの概念、「男性・女性であることに基づき定められた社会的、個人的関係」は、通常用いられている概念に近いから、この「社会的、個人的関係」のすぐあとに、「さらに自己意識」を付け加えれば大きな問題はない(もっとも、ジェンダーを振りまわす人たちの論の進め方には大きな問題がある。しかし、今は直接関係ないので割愛する)。
しかし、「生長の家自身が長年、男女別による固定的な役割分担論を前提として運動を進めてきた」が間違っている。特に、生長の家が行ってきた運動のあり方を、はじめから「固定的な役割分担」だったと決めつけている点が間違っている。
なぜならば…今はわかっていただけないだろうが…太古の昔から日本人の男女関係に関する意識は欧米の男女意識とちがって極めて柔軟(下手をすると女尊男卑になりかねないぐらい)であり、また、谷口雅春先生の『白鳩』創刊号の御文章(18頁)も極めて柔軟であって、決して「画一的」なご意見ではなかったのに、
総裁は、極めて固定的(明らかに女性差別的)だった欧米から生まれたジェンダー思想を、あたかも「世界に通用する普遍的な原理」であるかのように勝手に前提して(時代が変わった…と)論を進め、結局、欧米発のジェンダー思想を信徒に押し付けているからである。
この意味で、総裁の主張の方が、谷口雅春先生の『白鳩』創刊号の御文章(18頁)よりも遥かに固定的な「ジェンダー原理主義」である。…と言っても、ここまで読んだ読者には何のことか不可解であろう。そこで読者諸賢の理解と納得をいただくために、次に、「男女関係に関する意識」を最も明瞭に表す文学作品の実態を、欧米(女性差別的な性格)と日本(下手をすると女尊男卑的になる性格)の順番で具体的に紹介して、そのあとで再び総裁の主張にもどり、最後に、総裁の主張が画一的な「ジェンダー原理主義」であることを知っていただく。
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