《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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『生命の實相』に於ける「日本の櫻」とヘレン・ケラー (15143)
日時:2024年03月31日 (日) 14時04分
名前:立葵

< 一つのものが、異る測定機に対しては折れており、同時に真直なのである。(略)どちらも正しいのであって、相異が起るのは、これは観点の相異であり、スタンド・ポイントの相異に過ぎないのである。>
(新編『生命の實相』第56巻下化衆生篇 哲学の実践64頁)(頭注版第35巻43頁)


合掌
 令和五年度も本日一日を殘すのみとなりました。明日よりは愈々新年度を迎へます。それに合はせたかのやうに、待ちに待つた櫻の花も咲き始めました。(地域差などにより時期の異なる方々には、ここでは自分の周圍の氣候で申し上げてをりますことを御寛恕願ひます。)

 今年も花開いた櫻を神樣のみいのちの惜しみないあらはれとして仰ぎ觀つつ、『生命の實相』に書き記された櫻をめぐる一節を思ひ起こしました。

◎新編『生命の實相』第56巻 下化衆生篇 哲学の実践(頭注版第35巻)より
「第二章 生命の特殊性と科学精神批判」の小見出し「二、感覚には錯誤はないか」について

 谷口雅春先生はこの項で、水に入れたコップの中に箸を入れると箸が折れて見えるし、寫眞に撮つても折れたやうに撮影されるといふ現象を例にして、物事の「正しい」とは何かについてお説き下さってゐます。(と私は感じさせていただいてをります。)
 そしてその箸が折れてゐるのか折れてゐないのかについて「本当は二つとも正しいのである。」といふ示唆深い御言葉で御説明下さつてゐますので謹掲いたします。

触覚は折れていないと主張し、視覚は折れていると主張するが、その場合そのいずれも正しいのであって、ただ触覚に触れる波と視覚に触れる波とは、一つの箸そのものを波動の根源として発する二様の波動のうちの一方だけを捉えて主張しているだけであって、本当は二つとも正しいのである。水中の箸は触覚には真直に体験され、視覚には折れて体験される。
  (以上引用)(新編『生命の實相』第56巻63頁)(頭注版第35巻43頁)


 それに續けて、谷口雅春先生は(いはゆる三重苦の)ヘレン・ケラーが日本の櫻を握つて「ああ美しい」と云つたことは、折れてゐる箸をまつすぐに感じることと同樣であると御説明になつてゐます。續けて引用申し上げます。

この点に於てヘレン・ケラーが触覚によって日本の桜を握って「ああ美しい」といったのは、視覚には折れている箸を触覚が真直に感じたと同様に視覚に桜色の花が、触覚に軟かく感じて、その柔かさを「ああ美しい」と形容しているのだとすれば、ヘレン・ケラーの住む世界は吾々の住む世界とは随分異う。水中の箸も定規を当てて測定すれば真直であり、写真機で測定すれば折れているのである。
  (以上前掲書の續き部分)


 ここで不肖私はヘレン・ケラー女史の御名前がやや唐突に出てこられたので戸惑ひました。それにつきまして、新編の脚註に「ヘレン・ケラー」と本文中の「日本の桜」についての説明がありましたので御紹介いたします。

<ヘレン・ケラー>
Helen A. Keller 一八八〇~一九六八年。米国の著述家、社会福祉事業家。盲聾啞の三重苦を家庭教師サリヴァンの指導で克服して盲聾啞者の教育や社会福祉事業に貢献した。三度来日した。著書に『わたしの生涯』等がある

<日本の桜>
ヘレン・ケラーは初来日の際、昭和十二年四月十六日に新宿御苑で開催された観桜会に出席して昭和天皇に拝謁した

 この脚註を通して、谷口雅春先生が『生命の實相』の下化衆生篇に於てヘレン・ケラーのことをお書きになつた契機の手掛かりを與へられました。

『生命の實相』の下化衆生篇は、『生命の實相』全集の黑布表紙版(二十卷本)「生命の實相:生長の家聖典全集」で申しますと、第十五卷まで揃つてから後にやや年月を經た昭和十六年になつて最後の五卷(第十六~二十巻)が相次いで發行された中の、第十八卷に收められてゐます。
 ヘレン・ケラーが來日して日本の櫻にも接したのも、この最後の諸卷の發行されるまでの間の出來事であつたことがわかりました。

 新編の脚註にありました、
「初来日の際、昭和十二年四月十六日に新宿御苑で開催された観桜会に出席して昭和天皇に拝謁した」といふ當時のニュースにつきまして、無知でありましたが故にもう少し調べてみました。その結果、當時の官報の記載が見つかり、更に『昭和天皇実録』に對應する記述がありましたので謹掲いたします。

<昭和12年4月19日官報第3086號>国立国会図書館デジタルコレクション コマ8
◎行幸行啓 天皇 皇后兩陛下ハ本月十六日午後二時三十分御出門新宿御苑ニ於ケル觀櫻會ニ行幸行啓同四時十九分還御アラセラレタリ(以下略)」

<宮内庁編『昭和天皇実録』第七>昭和十一年至昭和十四年 東京書籍株式会社、平成28年3月。ISBN 978-4-487-74407-7 322頁
(昭和十二年四月)十六日 金曜日(観桜会/ヘレン・ケラー/ニールス・ボーア)
  (以上二點引用)

 これらを拜讀しまして、『生命の實相』で、ともするとさらりと讀み流してしまひさうになる一言にも、その行間には由緒ある歷史の中を生きてこられた方々の生命が漲つてゐたことを改めて感じました。

 更に、昭和十二年四月十六日の新宿御苑に於ける觀櫻會といふ出來事に言及されたこの「下化衆生篇 哲學の實踐 生命の特殊性と科學精神批判」が現在の全集版の基となる二十卷本黑布表紙版『生命の實相』第十八卷として出版されるまでの間には、管見では先行して六種の御本に發表され、最後に第七番目として黑布表紙版が發行されました。その發表順は以下の通りです。

 ①『人生必ず勝つ』昭和13年6月23日 第五章179~206頁
 ②(聖書型九卷本)『生命の實相』證の卷 事變版 昭和14年3月15日 下化衆生篇 第二章43~70頁
 ③(聖書型九卷本)『生命の實相』證の卷 人造羊皮版 昭和15年2月20日 下化衆生篇 第二章43~70頁
 ④『人生必ず勝つ』普及廉價版 昭和15年3月20日 第五章179~206頁
 ⑤携帶版叢書(袖珍清楚裝)『哲學の實踐 附:甘露の法雨』昭和15年5月20日 第二章43~70頁
 ⑥菊裝版(菊判裝)『生命の實相』第十二卷 昭和16年5月15日 下化衆生篇 第二章207~226頁
 ⑦黑布表紙版(二十卷本)『生命の實相:生長の家聖典全集』第十八卷 昭和16年10月25日 第二章43~71頁

 以上のやうなことにのめり込んでしまひましたのも、聖典『生命の實相』を拜讀するにあたり、二通りの讀み方があると痛感するからです。
 一つには、信仰の書として、小理窟や註譯に捉はれずに直觀でそのまま眞理の御言葉を讀み進めること、
 二つには、雅春先生がとりわけ聖經『甘露の法雨』の御講義などで强調なさいますやうに、意味がわかつて讀むとより功德があるので文意を學びながら拜讀すること、

 ではないかと思ひます。それはどちらも眞理であるのではないかと考へます。時と處とに應じて自在に拜讀すればよいのではないかと思ひます。
 ただ、下化衆生篇のヘレン・ケラーの櫻の逸話につきましては、この御文章が執筆された背景を知るべく、自ら雅春先生のレベルに少しでも近づかうと努めるやう(貴きものを自らのレベルに引き摺り下ろすのではなく)、畏くも雅春先生から叱咤激勵していただいてゐるかのやうに感じさせていただきました。

  再拜

頭注版と新編をくらべて読んでみた感想。 (15161)
日時:2024年04月08日 (月) 20時30分
名前:通りすがりの“おっさん”信徒


合掌ありがとうございます。
初めて投稿させていただきます。

立葵さんの投稿を拝見し、早速手元にある“頭注版”と“新編”『生命の實相』における下化衆生篇、「第二章 生命の特殊性と科学精神批判」の小見出し「二、感覚には錯誤はないか」を中心に、改めてくらべて拝読させていただきました。

というのも私は、立葵さんの仰る“信仰の書として、小理窟や註譯に捉はれずに直觀でそのまま眞理の御言葉を讀み進めること”を続けてきていたためです。

頭注や脚注というものは、言葉の意味などを明らかにするために付されるものでしょうから、あまり目にとめていませんでした。

ヘレン・ケラーについては“頭注版”“新編”のどちらにも、言葉は違いますが説明はありますが、「日本の桜」については“新編”にしか説明がありません。

改めて、“頭注版”の頭注と“新編”の脚注を見比べてみると、私個人の感じたところは、“頭注版”は言葉の意味に重点が置かれている印象です。もとよりそういうためにある頭注なんだとは思います。
(出版前に中学生?に意味のわからない言葉に線を引かせたというのをどこかで聞いた覚えがあります。間違っていたらスミマセン)

対して、“新編”は“頭注版”の頭注にはない脚注が多数挿入されていて、言葉の意味だけではなく、文章の解釈、本文の補足など、立葵さんのお書きになられたような、その書かれた背景なども知る事ができるのが“新編”の脚注であると感じました。

「ヘレン・ケラー」と「日本の桜」というワード。
私は立葵さんとは違い、唐突にもなんにも感じずに、ただただ読み進めていていました。
「ヘレン・ケラー」と「日本の桜」というワードから、ヘレン・ケラーが出席して、天皇陛下に拝謁した観桜会のことを脚注に加えた事に代表されることは、読者を脚注を通して、御教えの更に奥深くへと導くとともに、『生命の實相』を読むことへ味わいを加えることになるのではないでしょうか。

先日の谷口雅春先生を学ぶ会における先祖供養祭での、前原代表の挨拶においても「お経は意味がわかって読んだ方が、祖先の最高の救いになる」旨伺い、前原代表も“新編”の脚注に触れていました。
https://youtu.be/11ddT4wV53Y

「日本の桜」とわざわざ谷口雅春先生が「日本の」と書かれたことの背景を、書かれた時期と「ヘレン・ケラー」というワードから、「観桜会」のことを脚注に加えるような編集をされている、「谷口雅春著作編纂委員会」の皆様、光明思想社の社員の皆様、とりわけ光明思想社の○○女史の、最高の真理を最高な状態で、尚且つわかりやすく伝えようというような、使命感というか、心意気というか、そのようなものを感じました。

新編『生命の實相』が今年全65巻刊行されることによって、御教えが後世に誤ることなく、頭注版のそれ以上に素晴らしく伝わっていくことを期待せずにはいられません。

昭和末期に生まれ、平成に育ち、御教えに触れ、令和を生きている40代中盤の自分は、“頭注版”で御教えを学んできましたが、この年になって、新編『生命の實相』で御教えを学び直しています。自分は老眼でもなんでもないですが、書かれている真理は同じでも読みやすいということは素晴らしい事ではないでしょうか。

私をはじめ、これまで“頭注版”で御教えに触れ、学び、育ってきた人が多数おられるように、これからは谷口雅春先生の御教えに、新編『生命の實相』で触れ、新編『生命の實相』で学び、新編『生命の實相』で育つ人たちが続々と生まれることを願わすにはいられません。

私も自分の子どもには責任をもって、新編『生命の實相』で谷口雅春先生の御教えを伝えていきます!

よい「気づき」を与えて下さった、立葵さんに心から感謝申し上げます。

ついでに、前原代表にも感謝申し上げます。『顕浄土成仏経』の「昼夜六時」「迦陵頻伽」。新編『生命の實相』の“脚注”まで読んでいるからこそ、知ることができることがあるとは、感動しました。

なんだかめちゃくちゃな文章ですいません。お許し下さい。

再拝

ありがたうございます (15163)
日時:2024年04月09日 (火) 20時06分
名前:立葵

通りすがりの“おっさん”信徒樣

 合掌 ありがたうございます。御返信をありがたうございました。

 通りすがりの“おっさん”信徒樣が御指摘下さいましたやうに、それぞれの版の註釈類にもそれぞれの方針のやうなものがあると思ひますので、それぞれのスタイルでよいのだと思ひます。
『眞理』の頭註などは、實にシンプルで端的な一言で説明して下さつてゐるものが多いことにハッとさせられます。(頭註のあつた舊版『眞理』は新版『真理』(日本敎文社刊)、新裝新版『真理』(光明思想社刊)では元の頭註をそのまま本文中の括弧内に割註に)

 頭注版の頭注は、各卷の凡例に「東京都港区立城南中学校国語科教諭河口暎氏の好意ある協力」を得た事への感謝の言葉がありますね。
 更に頭注版第一卷の卷頭の谷口雅春先生の御文章「『生命の實相』の頭注版に序して」には、

「今度、頭注を付し、新仮名遣いを採用し、終戦以来、歴史的仮名遣いを習ったことのない年齢層のためにも解りやすい形で出すことにしたのが本書である。頭注は中学生六人に本文を読んでもらい、意味のわかりにくい語にしるしを付けてもらって、その説明を上欄に書くことにしたので、辞書を引く世話もいらぬし、国語の学習の補足にもなると思う。若い人が、読んでいるうちに感化されて次代を背負う日本国民の心が光明化される事を想像するだけでも悦びである。」

との御記載があります。谷口雅春先生御自身の國語表記の傳統護持への强いお氣持はひとまづ措いて、頭注版といふ形を通して「若い人が、読んでいるうちに感化されて次代を背負う日本国民の心が光明化される事を想像するだけでも悦びである。」とお書きになられたことに肅然とさせられます。

 頭注版を生み出された方々への敬意と感謝の念は有(も)つ者です。
(と申し上げながら、一つだけ餘談を失禮いたします。「有(も)つ」といふ漢字の讀み方は、ほとんど全卷と申してもよい位『生命の實相』に頻出しますが、頭注版では平假名の「もつ」となつてをりますので、私も頭注版を拜讀してゐた頃には谷口雅春先生が「有(も)つ」といふ文字表現をよく使はれることをそれほど氣に留めませんでした。今でも輪讀會などでルビ無しの「有つ」が出てくるとお互ひに讀み方を確認し合ふことがあります。)

 拙稿は決して頭注版へのアンチではありません。しかし、逆に、新編へのアンチといふただそれだけで、頭注版が編まれた約六十年前の御勞作を時代の必然として見直すことを拒む方々がいらしたなら、殘念なことだと思ひます。
 その意味で、拙稿に共鳴していただき感謝申し上げます。ありがたうございました。
    再拜



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