《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「地方講師研修会テーマ」に対する解釈学的論理分析 (試論) (14851)
日時:2023年09月21日 (木) 11時22分
名前:生長の家classics

最初から小難しいことを言うようであるが、解釈学とはドイツの神学者シュライエルマッハーや哲学者ディルタイによって提唱された、「人間の精神活動の産物(特に文章)を了解して、その人をその人以上に理解しよう」とする哲学的立場である。

次に論理分析とは、その人が展開している論理に内部矛盾がないか、あるいは飛躍がないか、あるいは形而上概念から形而下概念に勝手に往復して不合理な論理展開を行っていないか…などを吟味する行為である。

もっとも…誤解を防ぐためにつづけるが…本試論は、「『神』や『絶対』などの形而上概念を持ちだすな」と言うのではない。本試論は形而上概念を持ちだすことを否定しない。だが、形而上の世界と形而下の世界を勝手に往復して科学的と言えない論理(つまり反証の可能性がない論理)を主張することを批判するものである。

この意味で本試論はイギリスの哲学者カール・ポパ―などに代表される批判的合理主義を根柢においている。本試論は、このような解釈学的論理分析を「2023年6月・7月度『地方講師研修会』のテーマについて」(以下、「本文書」と略称)に施すものである。

…と、このような西洋の著名人を錦の御旗に掲げるような物の言い方を本当はしたくないのであるが、本試論が単なる批判や揚げ足取りと思われては困るので一言申し上げた。

もともと本試論は、学生時代からの付き合いがあった知人から、手紙とともにある資料のコピーが私のところに届けられたことがきっかけでまとめられたものである。その知人は教団のある教区で現役の地方講師をしているのだが、送られてきた資料を読んで「生長の家classics」は本当に驚いた。これを放置しておくことはできない。しかし単なる批判や揚げ足取りで終わる子供のようなことはしたくない…。その結果、解釈学的論理分析という方法論で自分自身の立場を限定したのである。この点も読者の理解を願っておく。

なお、便宜上の理由で本試論に登場する谷口雅宣氏を「雅宣氏」、谷口純子氏を「純子氏」、初代総裁・谷口雅春先生を「雅春先生」と略称し、さらに各都道府県の正副教化部長に本文書を提出した運動推進部長代行・井下昌典氏を「井下氏」と略称した。また、以下の青字が、井下氏が全国の正副教化部長に送信した本文書であり、黒字はその文章に「生長の家classics」が施した解釈学的論理分析である。


2023年4月21日
正副教化部長 各位
                          運動推進部長代行
                              井下昌典

2023年6月度/2023年7月度「地方講師研修会」のテーマについて

合掌、ありがとうございます。
貴台におかれましては、教勢発展のためにご尽力いただき、心から感謝申し上げます。


『生命の實相』や『甘露の法雨』や『生長の家五十年史』などの生長の家クラシックスを見るかぎり、「生長の家」は人類光明化運動(新天新地の神示)や、真理国家としての日本の実相顕現(五十年史476頁)のために存在している。決して自己組織の拡大・発展のために存在しているのではない。

したがって、この挨拶文は本来ならば、「人類光明化あるいは真理国家日本の実相顕現のためにご尽力いただき、心から感謝申し上げます」となっているはずである。それにもかかわらず、この挨拶文は「教勢発展のためにご尽力いただき、心から感謝申し上げます」となっている。

以上の言語事実から導き出される結論は、「すでに現教団は『自己組織の拡大・発展』だけを目的としていて、『人類光明化』や『真理国家日本の実相顕現』を無視(あるいは忘却)しているらしい」という結論である。

この結論は、谷口清超先生が総裁としてご健在の平成10年の聖使命会員数が86万人であったのに、平成21年に雅宣氏が総裁になってから急激な減少をはじめて令和3年には34万人と半分以下になったにもかかわらず、雅宣氏の「小閑雑感」や「唐松模様」などの巨大ブログのなかに、「人類光明化真理国家日本の実相顕現の勢いが落ちてしまって申し訳ない」という意味の発言がまったく存在しないことから、「間違っているとは言えない」と判断されるであろう。



さて、2023年6月度/2023年7月度の「地方講師研修会」のテーマ・テキスト等をお届けいたします。教区で開催する「地方講師研修会」のテーマ、テキストとしてご活用ください。なお、生長の家総裁・谷口雅宣先生のブログ「唐松模様」、白鳩会総裁・谷口純子先生のブログ「恵味な日々」をはじめ、ブックレットシリーズ、機関誌『生長の家』、普及誌『いのちの環』『白鳩』『日時計24』も、常時テキストとしてご活用ください。

(1)
純子氏のブログ名「恵味な日々・毎日がワクワク」は、その言葉の意味を理解しようとする者に困惑をもたらす。日本最大の国語辞典である小学館『日本国語大辞典』を含む合計10種類の国語辞典のなかに「めぐみな」も「恵味な」もない。そもそも「恵味」がない。まして「恵味な」があるはずがない。

本来、「~な」の「な」は、日本国語においては必ず「元気」「親切」などのように「状態・性質」を形容する語句に続いて用いられる(だから、「元気な」「親切な」を形容動詞という)。ところが純子氏は「~な」の上に「恵味」をもってくる。この「恵味」の意味が単なる「恵み。英語のgrace」なのか、あるいは、「恵まれた味わい。英語のtaste of grace」なのか、この点は不明だが、どちらにしても「恵味」は国語においても英語においても名詞(抽象名詞)である。

だから国語で「神の恵み食物」「深い味わいお茶」という表現が用いられたことはない。また用いることができない。本来は、「神からの恵み食物」「深い味わいお茶」というように「~」と表現する以外にないのである。

(2)
それにもかかわらず純子氏は平気で「恵み日々」という。しかも「恵み」をわざわざ国語の用例にない「恵味」と表記する。これは国語の破壊である。本来「恵み」は一語であるにもかかわらず純子氏は「恵み」と「味」の二語から成る複合名詞のように表記している。

もしもこのように恣意的かつ破壊的な表記が許されるのならば、「女性のお肌の染みが増した」が「女性のお肌の染味が増した」に変わって、女性が自分の肌の染みを見て老境を味わっていることになってしまう。また、ゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」は「若きウェルテルの悩味」となって、ウェルテルが自分の悩みを味わい楽しんでいることになってしまう。

このような国語の破壊を平気で何十年もつづけている純子氏は、かりに自分の孫が学校の国語の試験で「ねず」を「ねず」と書いて零点を食らい、さらに先生から、「君はネズミを食べたのか」と怒鳴られても、その先生に一切抗議できないはずである。

もちろん氏が学校の先生に抗議できないのは氏の自業自得にすぎない。だが氏のブログ名表記法は、まちがいなく日本国語の破壊である。この事実から解釈学的に純子氏を純子氏以上に理解するならば、谷口純子氏は言葉の正確さと美しさに無関心かつ無責任ある一方、ただおいしそうで環境と健康に役立つ料理にしかほとんど関心をもたない(その料理を見るだけで毎日がワクワクしてしまう)程度の人だ…という結論になりそうである。

(第二回につづく)




「本文書6月度のテーマ文と解説文」の詭弁的な論理構造。その1。 (14852)
日時:2023年09月21日 (木) 11時36分
名前:生長の家classics

「本文書6月度のテーマ文と解説文(全3段落)」は非科学的で詭弁(相手を言いくるめるための、ごまかし)のような論理展開を行っている。これを具体的に言うと次の通りである。このテーマ文と解説文(全3段落)は、

(1)まず、自分の本心(国政選挙で与党とその候補者を支持しない)を相手に言いくるめるために、初めは本心を隠しておき、そのかわりに誰でも納得する主張をかかげ、その次に論の飛躍や不完全な論理展開(その具体例は下に提出)を始めて、

(2)なんとなく「もっともらしく感じられる言葉」を積み重ねて、それによってあたかも合理的に論が展開しているかのように見せかけ、

(3)しかも「形而上の論理」と「形而下の論理」を混同するという重大な非科学的誤謬を犯して、

(4)最後に自分の本心(国政選挙で与党とその候補者を支持しない)を明示して、なかば命令するように自分の本心を相手に勧める

という論理構造で出来上がっている。この(1)~(4)の構造全体を「6月度詭弁構造」と名づける。

西洋ではソフィストが活躍した古代ギリシアの時代から詭弁の技術が発達し、中国では諸子百家が活躍した春秋戦国時代に詭弁的な物言いが流行したと言われているが、現代日本の本文書もきわめて詭弁的な論理構造で出来上がっているのである。次に、「本文書6月度のテーマ文と解説文(全3段落)」を提示して、(1)~(4)の順で本文書の論理分析を行う。



◎テーマ:基本的人権の大切さを再認識し、憲法改正の動きを注視しよう

第211回の国会では憲法改正に向けた議論が進められている。改憲勢力の数は、2021年の衆議院選挙、2022 年の参議院選挙を経て、衆参両院ともに3分の2 を超えており、今後、急速に憲法改正の発議に向けて政治が動く可能性もある。

自民党が掲げる憲法改正案には様々な問題があるが、中でも、「緊急事態条項」は、極度の権力集中による政府の権力濫用の危険性や、民主主義の根幹をなす基本的人権が大幅に制限される危険性がある。

そこで6月度は、生長の家の“人間・神の子”の教えと、多くの共通点を持つ「基本的人権」の大切さと、「緊急事態条項」の危険性を改めて確認する。そして、日本国憲法第12条にあるように「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」ことを認識して、今後の憲法改正の動きを注視していこう。

(下線部は井下氏)

さっそくだが、最初のテーマ文(一文)を分析する。

◎テーマ:基本的人権の大切さを再認識し、憲法改正の動きを注視しよう。

このテーマ文が、「6月度詭弁構造」のなかの、

(1)自分の本心を相手に言いくるめるために初めは本心(与党とその候補者を支持しない)を隠しておき、そのかわりに誰でも納得する主張をかかげ、その次に論理の飛躍や不完全な論理展開を始めている文

である。その理由は以下のとおり。

このテーマ文は前半部で「基本的人権」を「大切」なものだとの価値判断をくだした。だから前半部を承けた後半部は

(a)「基本的人権を今よりも安定・強化させるための憲法改正を行いましょう」
あるいは、
(b)「基本的人権を侵害・不安定化するような憲法改正を食い止めましょう」
のどちらかしかない。

もちろん、この(a)は憲法改正に関して積極的な内容であり、(b)は憲法改正に関して消極的な内容である。(なお、ここで読者にご注意をうながしておくが、今ここで「aがよいかbがよいか」を述べているのではない。ここでは合理的で科学的な論理展開のありかたを述べているのである。また、ついでにここで前もって今回の結論を申しておくと、井下氏提出の本文書はaに触れていない。また、aに触れない理由も述べていない。この点で本文書は不完全あるいは詭弁的な内容の文書である)。

ところが実際の後半部の言葉は「憲法改正の動きを注視しよう」である。この言葉の内容は(a)でも(b)でもない。このような論理展開は本来ありえない。

なぜならば…少し詳しく説明すると…この後半部の内容は前半部の内容と全く関係がないからである。前半部の、「基本的人権の大切さを再認識しよう」という「価値判断をふくんだ主張」と、後半部の、「憲法改正の動きを注視しよう(注意深くじっと見ていよう)」という「価値判断も現実行動もふくまない主張」との間には直接コネクト(接続)する関係性が何もない。

このことをあえて卑近な喩えでいうと、このテーマ文(一文)は、「赤信号で止まることの大切さを再認識して、道路交通法改正の動きを注視しよう」と説教するようなものである。「基本的人権」も、「赤信号で止まること」も、誰も文句をいえない言葉である。しかしどちらも黄門様の印籠にすぎない。

今回のテーマ文は、だれも文句をいえない印籠を高々と掲げて、そのすぐあとで印籠とは何の関係もない言葉をつづけ、「だから今から私が言うことは正しいことである。よく聞け!」との権威付けを行って、読者を自分の本心(与党とその候補者を支持しない)の方向にひきずっていくための詭弁的な機能(役割)をはたしているにすぎないのである。

…と、ここで終わってもよいのだが、まだ終わることはできない。

今からあまり知られていない事実を紹介して、本文書の詭弁性をさらに明らかにする。それは上記の(a)「(基本的人権の大切さを再認識して)基本的人権を今よりも安定・強化させるための憲法改正を行いましょう」に関する事実である。



NHK のホームページ「みんなと私の憲法」
https://www3.nhk.or.jp/news/special/minnanokenpou/seitou/ritsumin.html
は、

令和4年(2022)7月の参議院選挙のさいに、立憲民主党の泉代表が、立憲民主党は現在の「情報化時代における人権保障」のために憲法改正が必要であるかどうかを議論中であり、「国民にとって真に必要な(憲法の)改定を積極的に議論し、検討する」と断言したことを伝えている。

この泉代表の発言は、雅宣氏が本文書を介して暗に信者に投票を勧めているらしい立憲民主党(もっとも、雅宣氏の論理を突き詰めると日本共産党を勧めているのだが、それは後出)も、「大切」な「基本的人権」を安定・強化するためならば憲法改正を否定しない…ということを示している。これは立憲民主党もaをほとんど主張しているということである。

さらに、国民民主党に所属する国会議員であった菅野志桜里(かんのしおり)女史が令和3年(2021)の5月3日(憲法記念の日)の午後8時に、ウェブサイトnoteに「憲法記念日に、今、伝えたい事」(以下、「緊急条項note」と略称)
https://note.com/yamaoshiori/n/nd518592b2dc7

を投稿して、そのなかで、現行憲法への「緊急事態条項の新設」を主張している。もちろん「緊急事態条項の新設」という憲法改正は、本文書全体を通して井下氏と雅宣氏が猛反対している超重要事項である(後出)。

しかも菅野女史は同日の昼には、雅宣氏が全否定している「日本会議」主導の「第23回公開憲法フォーラム」に改憲派の人々とともに参加していた。そしてその日の夜にこの「緊急条項note」を投稿したのである。

この女史の投稿と行動にたいして国民民主党も立憲民主党(女史は2020年3月までは立憲民主党の国会議員だった)も、批判的な発言や対応を行っていない。菅野女史は「緊急事態条項の新設」という憲法改正を主張し、さらに当時の国民民主党も立憲民主党も、「大切」な「基本的人権」を安定・強化するための憲法改正を否定していない。

さらに令和5年(2023)の現在では、野党であるはずの「国民民主党」と「日本維新の会」が、大地震やパンデミックさらに外国からの武力攻撃などの緊急事態のさいに「国民の生命・財産を守ることと、内閣の暴走を防ぐこと」(どちらも基本的人権を維持するための客観条件)を実現するために緊急事態条項を憲法に新設すること(憲法改正)を積極的に主張しているのである。

それにもかかわらず、本文書は今も上記の(a)「(基本的人権の大切さを再認識して)基本的人権を今よりも安定・強化させるための憲法改正を行いましょう」に触れていない。また、触れない理由を述べてもいない。

本文書は徹底的にaを無視して、読者にaの存在を気づかれるのを避けるようにbだけを強調して論を進めている。これは非科学的な論の進め方である。いや。「詭弁」と言う方がふさわしい論の進め方であると言わざるをえない。



…ということで今回の本試論を終わることができれば幸いだが、まだ終わることができない。

菅野女史は上記「緊急条項note」のなかで、

平成24年の自民党憲法改正草案を思い出してほしいのです。あの草案そのもの、とりわけ緊急事態条項は批判にもさらされましたが、少なくとも、緊急事態に国会承認という手続きの歯止めをしっかりかけていました。しかも、開始のときは事後承認の余地を認めつつ、延長の際には100日ごとに必ず事前承認を必要としていました。国会には内閣を拘束する宣言解除の議決権すらおいていました。

と、自民党の憲法改正草案を(緊急事態条項の新設に関しては)肯定的に評価している。

しかし100%肯定しているのではない。このすぐあとで女史は、

もちろん(自民党の改憲案には)問題もあって、いったん宣言が出ると国会から内閣に立法権を移すに等しい効果をもたらすことは緊急時の措置としてもやり過ぎだと思います。

と述べて、自民党の改憲案に批判的な意見を披露している。

しかし、女史はさらにそのすぐあとで、

ただ、そこはよりよい知恵を出せばよい。

と、自民党案をベースにすることを承認するかのような発言を行い、最後には、

緊急事態条項にせよ9条にせよ、危機の国家に必要不可欠な力を、憲法上無視し続けることで抑制しようという考え方は、日本の法の支配にとって有害です。

と述べて、「緊急事態条項の新設」や「憲法9条の何らかの改正」を否定する意見を批判しているのである。

ここで、菅野女史が自民党案を好意的に語っていることは今どうでも良い。また、女史が「緊急事態条項の新設」という憲法改正に積極的であることさえも、どうでもよい。なんなら女史が「緊急事態条項の新設」という憲法改正を否定しても一向に構わない。

今ここで重要なことは、菅野女史が考えられる全てを考え、さらにすべてを公開して自分の論を展開している…という女史の態度である。これは真面目に物事を考え発信する人に当然の態度である。この態度が当たり前であることに国会議員も宗教家もホームレスも関係ない。

それにもかかわらず井下氏と井下氏に指令を発していると思われる雅宣氏はaに触れず、野党の中にaを主張している人がいることにも触れず、さらにaに触れない理由にも触れず、ただただ自民党案を否定し去るだけの、(建設案をまったく含まない)詭弁的論理を(このあとも)展開しているのである。

以上の論理分析から解釈学的に井下氏(あるいは井下氏に指令を発していると思われる雅宣氏)をご本人以上に理解しようと努力するならば、その努力の結果として見えてくる結論は次のとおりであると論評できる。

ひょっとすると井下氏(あるいは井下氏に指令を発していると思われる雅宣氏)は、自分の本心を隠して信者たちを言いくるめ、さらに非科学的で詭弁的な論理を駆使してでも信者を自分の本心に従わせようとするような、内心では信者を見下している人なのかもしれない…という結論であると論評できる。しかしこの結論的論評は速断することなく、さらに本文書を分析しながら吟味を続けて、間違いがないかを確認しなければならない。

(第3回に続く)




「本文書6月度のテーマ文と解説文」の詭弁的な論理構造。その2。 (14871)
日時:2023年10月18日 (水) 15時09分
名前:生長の家classics

今回は前回に続いて、解説文(全3段落)のなかの第1段落と第2段落および第3段落の一部を取りあげて論理分析を行う。

第211回の国会では憲法改正に向けた議論が進められている。改憲勢力の数は、2021年の衆議院選挙、2022 年の参議院選挙を経て、衆参両院ともに3分の2 を超えており、今後、急速に憲法改正の発議に向けて政治が動く可能性もある。

自民党が掲げる憲法改正案には様々な問題があるが、中でも、「緊急事態条項」は、極度の権力集中による政府の権力濫用の危険性や、民主主義の根幹をなす基本的人権が大幅に制限される危険性がある。

そこで6月度は…「基本的人権」の大切さと、「緊急事態条項」の危険性を改めて確認する。そして…今後の憲法改正の動きを注視していこう。


以上が、解説文(全3段落)のなかの第1段落と第2段落、および第3段落の最初と最後の部分である(第3段落の全文は後に再提示して論理分析を行う)。

さて、以上の文章が「6月度詭弁構造」のなかの、

(2)なんとなく「もっともらしく感じられる言葉」を積み重ねて、それによってあたかも合理的に論が展開しているかのように見せかけている文

である。

もっとも、この二つの段落のなかの第1段落は事実認識として正確である。「今後、急速に憲法改正の発議に向けて政治が動く可能性もある」という状況認識は正確であろう。しかし第2段落とそれ以降は、合理的な論理展開を行っているかのように見せかけて、実際には不完全な論理展開を行っている内容である。いや。詭弁的な論理展開を行っている内容である。

その理由は簡単である。第2段落までの内容が「自民党の(・・・・)緊急事態条項()(すなわち改憲())は危険だ!」であって、個々特殊の(・・・・・)緊急事態条項(・/rt>)(憲法改正())を論じていたのに、本文書は第3段落に入ると突然、「緊急事態条項(すなわち改憲)は危険だ」という一般論(・・・)に変わってしまい、結局、「緊急事態条項はすべて危険だ。憲法改正はみな危険だ。」という強引な「論点のすり替え」が行われているから…である。

これを具体的にいうと第2段落には、「『日本維新の会』や『国民民主党』の緊急事態条項案(改憲案)が危険だ」という主張も論証もない。それにもかかわらず第3段落ではいつのまにか「緊急事態条項の憲法記入(改憲)そのものが危険だ」という拡大された一般論に変わったままで終了している。この「論点のすり替え」によって、本文書は最後にすべての緊急事態条項案(改憲案)を一見合理的に否定しているのである。(ついでに付け加えるならば…これを言うと少し話がそれるが…この「論点のすり替え」が行われた結果、井下氏と雅宣氏は「改憲」を主張する与党に投票しないことを信者に勧めながら、同じ「改憲」を主張している野党の「日本維新の会」や「国民民主党」に投票することを勧める…という論理的不整合を発生させている)。



このことを詳しく分析するために、ふたたび第2段落を引用する。

自民党が掲げる憲法改正案には様々な問題があるが、中でも、「緊急事態条項」は、極度の権力集中による政府の権力濫用の危険性や、民主主義の根幹をなす基本的人権が大幅に制限される危険性がある。

この第2段落は、「自民党(・・・)が掲げる憲法改正案…中でも緊急事態条項…が…危険」であると主張している。その理由として本文書の5頁は、「2012 年に出された自民党(・・・)の憲法改正草案には、既に緊急事態条項の創設が記載されていますが、この緊急事態条項案に対し…憲法学者などから、その危険性が指摘されています」と述べている。ここまで本文書は自民党(・・・)の改憲案や緊急事態条項案を述べている。それに対して、「日本維新の会」や「国民民主党」など野党の改憲案や緊急事態条項案については何も述べていない。野党の改憲案が「危険だ」とも「安全だ」とも論じていない。これは、野党が発表した改憲案や緊急事態条項案など世の中に存在しないかのような論の進め方である。

そして同5頁は続けて、「そもそも緊急事態条項とは、どういうものなのでしょうか」と、読者への問題提起を行っている。ここで井下氏と雅宣氏は論点を、「自民党の(・・・・)緊急事態条項()」という個々特殊(・・・・)の「限定された論点」から、「緊急事態条項一般(・・)」という「無限定の論点」にすり替えた。これは極めて悪質で詭弁的な論点すり替えである。この詭弁的な論点すり替えによって井下氏と雅宣氏は生長の家の信者に、「世間には野党が発表した改憲案や緊急事態条項案がある」という事実を隠し通した。

…といっても、「特殊から一般へ」の論点拡大を行ってはいけないと「生長の家classics」が主張しているのではない。「特殊から一般へ」の論点拡大を行うことは論者の自由である。また、論点拡大が必要な場合もある。しかし井下氏と雅宣氏はこの第2段落で「自民党の…」という特殊を論じていたのだから、論点を一般に拡大したあとに再び、「それに対して自民党のは…」という特殊にもどって論を展開しなければならない。そうしなければ科学的な論理展開にならない。

それなのに井下氏と雅宣氏は論点を一般論に拡大したあとに個々別々の対象にもどっていない。井下氏と雅宣氏は論点を一般論に広げたあとで、「それでは自民党の緊急事態条項案はどうでしょうか」「維新の緊急事態条項案はどうでしょうか」「日本共産党はどうでしょうか」「弁護士の資格をもち、立憲民主党の国会議員でもあった菅野志桜里さんの主張はどうでしょうか」という全ての特殊論点にもどることを避けて、強引に、「緊急事態条項を憲法に記入すること(憲法改正)はすべて危険だ」と、読者を言いくるめている。これは非科学的な論理展開である。 




この点について、さらに詳しい分析を行う。

本文書は、「『緊急事態条項』は内閣独裁につながる危険性」(5頁)を持っていると主張し、その理由を4点あげている。それを引用すると、

①国家緊急権の危険性(同5頁)
②緊急事態条項は「“内関独裁権条項”と呼べる危険な内容」(同5頁)
③非常事態に対しての現在の日本の法整備<現憲法は緊急事態に対応可能>(同6頁)
④ 「緊急事態条項」が濫用された例…戦前の日本とドイツ(同6頁)


の4点である。

この4点の概要を確認すると、緊急事態条項について③だけが「必要ない」という「不必要論」である(③については次回以降に引用・分析する)。それに対して①②④は、「緊急事態条項は危険だ」という「危険論」である。ここで井下氏と雅宣氏が「緊急事態条項は危険だ」と主張することに何の問題もない。それは両者の自由である。また、危険論を主張することが必要な場合もある。しかしこの①②④はすべてが、「自民党の緊急事態条項案が危険だ」という限定された(・・・・・)危険論ではなく、「緊急事態条項そのものが危険だ」という無限定の(・・・・)危険論である。ここで「特殊から一般へ」の論点変更が行われている。しかも本文書の論点はそのあとで特殊にもどっていない。これによって「論点変更」が「論点すり替え」になった。次に①②④の具体的な内容を引用・分析して、本文書の「論点すり替え」とその詭弁性を確認する。まずは①から。

① 国家緊急権の危険性
緊急事態条項とは、戦争や大規模災害など、平時の統治機構では対処できない非常事態において、国家の存立を維持するため、立憲的な憲法秩序を一時停止して、——つまり、国民の基本的人権の保護を一時停止して、「国家緊急権」を、政府に与える法的な規定のことです。「立憲的な憲法秩序」とは、「人権の保障」と、平時の「三権分立」体制であり、これを一時的に停止して、行政府に強い権限を与えるということです。

緊急時に政府の超憲法的な行動を認める国家緊急権は、歴史上、権力者に濫用され、権力強化のために利用されたり、緊急事態が不当に延長されたりしたことがありました。国家緊急権の発動は、憲法により国家権力を縛る「立憲主義」そのものを崩壊させてしまう危険性があるのです。(後略)


以上が①の全文である(本文書5頁)。

この全文のなかに「自民党」も「日本維新の会」も「日本共産党」も「菅野志桜里」も登場していない。この①は「緊急事態条項一般(・・)」および「国家緊急権一般(・・)」を否定している。これによって井下氏と雅宣氏は、自民党の緊急事態条項案とは違う長所や短所を持っているかもしれない「野党と野党国会議員の緊急事態条項案」に触れることを回避した。結局、この①は合理的な論理展開を行っているようなふりをして、野党の緊急事態条項案と改憲論を強引に抹殺した。これは、野党は一人前の政党でないかのような論の進め方である。

② 緊急事態条項は「“内関独裁権条項”と呼べる危険な内容」
2012年に自民党が公表した『日本国憲法改正草案』には、緊急事態条項が9 8 条と99 条として盛り込まれています。しかし、その内容は、内閣が必要だと考えただけで緊急事態を宣言でき、「他の国々には見られない規模と範囲で、内閣に権限を集中させるもの」で、「内閣独裁権条項」と呼べる危険な内容となっています。

具体的には、緊急事態が宣言されると、
i)内閣は法律と同じ効力を持つ政令を制定し、
ii)内閣総理大臣は独断で財政支出することができ、
iii)地方自治体を内閣の指示に従わせ、
iv)国を守るという理由で人権侵害が許されるようになります。
一方、他国の場合、「アメリカ憲法で緊急時に大統領に与えられているのは、議会を招集する権限だけ」です。また、フランスや韓国では、大統領が立法できる要件は厳格に制限されています。


以上が②の全文である(同5頁~6頁)。

この②は、「2012年に自民党が公表した…緊急事態条項」案に限定して(・・・・)述べている。その意味でこの②は合理的な論理展開を行っている。ところが肝心のⅰ~ⅳは、「緊急事態が宣言されると(こうなる)」という説明である。これはほとんど緊急事態条項一般(・・)に関する説明である。この②でも、「自民党案が危険である理由」から、「緊急事態条項一般(・・)が危険である理由」に論点がすり替えられている。

しかも、この②も個々特殊の論点にもどっていない。この②は野党の緊急事態条項案について何も述べていない。このために、野党の緊急事態条項案が自民党案と同じ「内閣独裁権条項案」であるのか、あるいは「内閣独裁権条項案」ではないのか…これについて読者は全くわからない。つまりこの②も、「自民党案は…」という個々特殊の論点から、「緊急事態条項一般」へと論点を拡大し、そのあとで個々特殊の論点にもどることを避けて、結局、野党の緊急事態条項案(改憲案)が存在することを読者に知らせていない。あたかも野党は一人前の政党でないかのような、野党にとって無礼な論の進め方である。

④ 「緊急事態条項」が濫用された例…戦前の日本とドイツ
く戦前の日本>
宗教の分野での政府の弾圧もありました。有名なのが第一次大本事件(1921年)と第二次大本事件(1935 年) で、特に第二次の弾圧は厳しく、不敬罪と治安維持法違反の疑いで、大本の信徒は約3千人が検束や出頭命令を出され、987人が検挙され、61人が起訴されました。この61人中の16 人は、激しい拷問のため獄中で死亡し、教祖・出口王仁三郎の後継者と目されていた出口日出磨は、獄中で発狂しました。

その後、治安維持法は1941年(昭和16 年) の改正を経て、学問・思想・言論の自由をさらに制限し、反体制派を弾圧する法的根拠として猛威をふるい、1945 年に廃止されるまで、逮捕者が数十万人に及ぶ、悪名高い法律となるのです。


以上が④の全文である(同6頁~7頁)。

この④には「自民党」も「野党」も「菅野志桜里」も登場しない。ただひたすら過去に「緊急事態条項の濫用」があったことを主張するだけである。しかも井下氏と雅宣氏はこの④のなかで、自民党や野党の緊急事態条項案が危険な「緊急事態条項の濫用」を防ぐための歯止めを設けているのか・あるいは設けていないのか…そのことについて全く説明していない。あたかも憲法に緊急事態条項を記入すると、必然的に「緊急事態条項の濫用」が発生するかのような論の進め方である(これは野党だけでなく与党に対しても極めて無礼な論の進め方である)。

しかし実際には世界中の国の93%が憲法の中に何らかの緊急事態条項を盛り込んでいる。衆議院の「緊急事態等に関する論点説明資料。2022年3月31日」によれば、2013年時点で世界の国々のなかに「緊急事態条項を規定している憲法は、93.2%」(同資料7頁。詳細は次回以降)である。したがって井下氏と雅宣氏は本来ならば次のように説明するべきであった。…世界中の93%の国の憲法は「内閣独裁」「緊急事態条項の濫用」を発生させるから危険である。93%の国々は憲法から緊急事態条項を削除しなければならない!…というように信者に説明するべきであった。これが両氏にとって合理的な論理展開である。

それにもかかわらず両氏は93%の事実にまったく触れない。両氏は93%の事実を信者たちに隠したまま、ただひたすら自分の本心(国政選挙で与党に投票しない)を信者の心に刷り込むことだけに論の目的を集中して論理展開を行っている。これは日本の政党だけでなく93%の憲法に対して無礼な態度である。もちろん生長の家の信徒に対しても無礼な態度である。

以上の論理分析から解釈学的に井下氏および雅宣氏を本人以上に理解しようと努力するならば、その結論的論評は次のような内容にならざるをえないであろう。

前回に続いて今回も信者に詭弁を弄した井下氏および雅宣氏は、やはり、自分の本心を隠して信者たちを言いくるめ、さらに非科学的で詭弁的な論理を駆使してでも信者を自分の本心に従わせようとするような、内心では信者を見下している人なのかもしれない。ひょっとすると二人は自分で気づいていないものの信者を軽く扱い、心の奥底では○○にしているのかもしれない…。

しかしこの結論的論評は速断することなく、さらに本文書を分析しながら吟味を続けて、本当に間違いがないのかを確認しなければならない。


(第4回につづく)



直上にある14871記事の補足。 (14875)
日時:2023年10月21日 (土) 16時01分
名前:生長の家classics

本試論を読んで下さっている人から次のような質問をいただいた。

「貴君のいうところは一応理解できる。しかし、貴君がいう『日本維新の会の改憲案』や、『国民民主党の改憲案』などを見たことがない。おそらく多くの読者も同じだろう。一体、どこに「維新の改憲案」や「国民の改憲案」が公開されているのか」。

実は、この質問を提出した人は「生長の家classics」に本文書(地方講師研修会テーマの通達文書)を届けてくれた人ご本人なのだが、すべてご本人の言うとおりである。

前回の14871記事に「維新の改憲案」や「国民の改憲案」が公開されている場所が提示されていない。これは「生長の家classics」のミステイクであった。ここで読者諸賢に詫びるとともに「維新の改憲案」や「国民の改憲案」が公開してある場所を提示させていただく。



【 日本維新の会 】
https://o-ishin.jp/policy/pdf/kenpoukaisei.pdf
日本維新の会 憲法改正原案 (緊急事態条項については令和4年6月8日の決定案)
   pdf28コマ目の「憲法改正原案⑤緊急事態条項」で、維新の緊急事態条項に関する
   考え方を図で説明。
   同29コマ目から35コマ目に改正条文案

ついでに、
https://o-ishin.jp/sangiin2022/ishinhassaku2022.pdf
政策提言。維新八策2022 (2022 年 6 月 16 日。Ver. 2.1)
   p49(pdfの52コマ目)の内容。
   平和主義・戦争放棄を堅持しつつ自衛のための実力組織として自衛隊を
   憲法に位置づける「憲法9条」の改正、他国による武力攻撃や大災害、
   テロ・内乱、感染症蔓延などの緊急事態に対応するための「緊急事態条項」
   の制定に取り組みます。
   皇位の安定継承については、古来例外なく男系継承が維持されてきた重みを
   踏まえ、皇統に属する旧宮家の男系男子が養子として皇籍復帰できるよう
   皇室典範の改正を行います。




【 国民民主党 】
https://new-kokumin.jp/wp-content/uploads/2023/01/537ac8ab5bd513e58a05172296d8afe8.pdf
国民民主党憲法調査会。憲法改正に向けた論点整理 (2020年12月4日)
pdf55コマ目から78コマ目に改正条文案。

ついでに、
https://new-kokumin.jp/news/business/20230819_1
ニュースリリース。【憲法】3党派による憲法改正シンポジウムを開催 (2023年8月19日)
   玉木雄一郎代表(衆議院議員/香川2区)は19日、都内で開催された国民民主党等に
   よる「3党派による憲法改正シンポジウム」に登壇し…「…憲法議論の中で、特に
   緊急事態条項については、国民に対して公権力の行使を容易にするものと誤解を
   招いている。
   むしろ我々が考える緊急事態条項は、緊急時だからこそきっちりと公権力の行使を
   統制するものである」と述べ…た。


https://new-kokumin.jp/news/policy/20230619_1
ニュースリリース。【憲法】緊急事態条項について定めた憲法改正条文案について二党一会派で合意 (2023年6月19日)
   「国民民主党」・「日本維新の会」・「有志の会」が合意した条文案の内容。
   ①武力攻撃、②内乱・テロ、③自然災害、④感染症のまん延、⑤その他これらに
   匹敵する事態の発生を前提に「国民生活及び国民経済に甚大な影響が生じている
   場合又は生ずることが明らかな場合において、当該事態に対処するために国会の
   機能を維持する特別の必要がある」場合には、原則内閣による発議と国会による
   事前承認を条件に、閉会禁止・解散禁止・憲法改正禁止の効果が発生する…。
   併せて…内心の自由・信仰の自由・検閲の禁止・奴隷的拘束の禁止といった
   「絶対に制限してはならない人権」についても(条文案に)明記している。


https://new-kokumin.jp/file/DPFP-PolicyPamphlet_202206.pdf
国民民主党。政策パンフレット (2022年6月発行)
   国民民主党は2020年12月に「憲法改正に向けた論点整理」をとりまとめました。
   …コロナ禍で顕在化した憲法上の課題を解決する観点から、緊急時における
   行政府の権限を統制するための緊急事態条項を創設し、いかなる場合であっても、
   立法府の機能を維持できるようにします。
   とリわけ、任期満了時に、①外国からの武力攻撃、②内乱・テロ、③大規模災害、
   ④感染症の大規模まん延の緊急事態が発生し、選挙ができなくなった場合に、
   議員任期の特例延長を認める規定を創設します。




…さて、以上で明らかなように「維新」と「国民」の「緊急事態条文案(改憲案)」は、各県教化部長に「本文書」が送られた本年4月21日よりも半年以上まえに既に一般公開されていた。「国民」の条文案などは二年以上前に公開されていたのである。それにもかかわらず「本文書」は両党の「緊急事態条文案」にまったく触れていない。

もし井下氏と雅宣氏が両党の「緊急事態条文案」を紹介したうえで両党を批判しているのならば、それは科学的な論理展開である。しかし井下氏と雅宣氏は、「日本社会に野党の緊急事態条文案(改憲案)など存在しない」と感じさせる論理展開に終始した。これでは井下氏と雅宣氏が非科学的な詭弁を弄して、生長の家の信者の心のなかに自分の本心(国政選挙で与党に投票しない)を刷り込もうとしたのだ…と言われても仕方がないであろう。

(第4回目につづく)



そもそも「緊急事態」とか、「緊急事態条項」とは何であるのか。 (14882)
日時:2023年11月01日 (水) 14時12分
名前:生長の家classics

そもそも「緊急事態」とか、「緊急事態条項」とは何であるのか。

今回は、話を振り出しにもどすようだが、そもそも「緊急事態」とか、「緊急事態条項」とは何であるのかを確認しておきたい。なぜ今さらこのようなことを確認するのかというと、上の14871記事で紹介したように、すでに「本文書」(2023年6月・7月度『地方講師研修会』のテーマについて)の5頁が、「緊急事態条項とは…平時の統治機構…立憲的な憲法秩序…国家緊急権…です」と説明しているのだが、この説明ではとても一般人には理解できない(と思われる)からである。

…といっても、今ここで法学(憲法学)上での「緊急事態」に関する定義を提示するつもりはない。へたに「緊急事態」の定義にこだわると学者たちの論争に巻きこまれるだけである。ここでは、法学上の定義に関心をもつ読者にはネットで「緊急事態」を検索していただくようお願いしておいて、「緊急事態」の具体例として最も理解されやすい「首都直下型大地震」に関する事実(世間に広まっている情報)を提示する。

内閣府ホームページは2021令和3年2月13日、インターネット上に、
動画「首都直下地震編 全体版」
https://wwwc.cao.go.jp/lib_012/syuto_all.html
を公開した。

この動画は13分ほどで終了し、また簡にして要を得ていると思われるので直接の御覧を勧めるが、その内容は以下の通りである。

(首都圏の)内陸直下のマグニチュード7クラスの直下地震は、いつどこで起こるかよくわかっていません。言い換えれば、首都直下ではいつ大地震が発生してもおかしくないのです。首都圏に限らず、内陸直下の地震は日本全国どこででも発生します。
(02分34秒~02分45秒)

首都圏で起きるマグニチュード7クラスの地震が発生する確率は、今後30年以内に70%。
(03分25秒~03分35秒)

以下、20XX年、ある冬の日の夕方。都心南部直下でM7.3の地震発生を前提としたシュミレーション。
(以下、03分50秒から)

各所で交通施設に被害発生。山手線が脱線。道路でトラックが横転・炎上。ビル火災。空港の滑走路に亀裂が走って飛行機が離着陸不能。山間部では大規模ながけ崩れ。亀裂部から水が多量に流出。

各地でライフラインに被害発生。団地の水道管が破裂。水が数メートル吹きあがってプール状態。電柱が倒れて停電。木造住宅密集地域では広範囲な火災が発生。

帰宅困難者大量発生。道路では車が止まって長蛇の列の横を人が徒歩で帰宅努力。時間とともに各地で火の手が多数あがる。

都心部周辺に広がる木造住宅密集地での火災の多発と延焼…。道路が狭く、延焼エリアへの消防車両の進入が困難…。
(以上、06分49秒まで)

結局、

被害想定の全体像
「首都直下地震の被害想定と対策について」最終報告より
(以下、08分11秒から)

死者数は最大2万3千人(直接死のみの値。阪神淡路大震災の3.5倍)。
全壊および焼失棟数の合計は最大61万棟(阪神淡路大震災の5.5倍)。
都区部で5割が断水。上水道は5割の利用者に断水が発生。5割が停電。発災直後は9割の通話規制。

主要路線の道路啓開に少なくとも1日~2日が必要。
地下鉄は1週間、私鉄と在来線は1カ月ほど運航停止。
非耐震岸壁では多くの施設が機能停止。被害の大きい湾港は復旧に2年以上必要。

道路では特に環状8号線の内側を中心として、深刻な道路交通麻痺が発生し、消火活動や救命救助活動、ライフラインの応急復旧、物資輸送などに著しい支障が発生する可能性あり。

帰宅困難者は東京都市圏で最大800万人。そのうち東京都で最大490万人(これは東日本大震災のときの約1.5倍)。避難者は断水や停電の影響をうけて、発災2週間後に最大720万人発生。

食糧は発災後1週間合計で最大3400万食が不足。
飲料水は発災後1週間合計で最大1700万ℓが不足(これは一人一日3ℓとして計算)。
断水により、十分な洗髪・洗顔ができない不衛生な状態になり、トイレもひどく不衛生な状態に。また、被災都県で対応が難しくなる入院患者数は最大1万3千人。

首都直下地震で日本が被る経済的被害は約95兆円(ほぼ日本の国家予算に匹敵)。被害想定は日本にとって非常に甚大で深刻。
(以上、10分27秒まで)

(わが国で)くりかえし発生してきたマグニチュード7クラスの首都直下地震だが、将来は、さらに規模の大きな関東大震災クラスの地震が起こる可能性もあります。大地震はいつ発生してもおかしくない。私たちは災害リスクを正しく認識し、手遅れになる前に、今こそ個人として、社会として減災への取り組みを真剣に考え、実行すべきときなのです。
(12分30秒~13分04秒)

…ということで、以上が、「緊急事態」の一例である。

このほかにも「緊急事態」としては、新型コロナ以上に強い感染力と致死率をもつ「エボラ出血熱」のような強毒性の感染症パンデミックもある。要するに「緊急事態」とは、ロックダウン(危険地域への強制的な出入り禁止措置。これは「移転の自由」を宣言した憲法第22条違反)のような、「何らかの私権制限を実施しないと迅速・有効に対処できない事態」のことである。また「緊急事態条項」とは、そのような緊急事態に迅速・有効に対処するための法律を制定・実施することを(期限や法的効果の限界などを含めて)憲法に書きこむ文言のことである。

もし憲法に緊急事態条項を追加記入することが必要であるのならば、その文言は今から国民全体が議論して決定しなければならない。その反対に、もし憲法に緊急事態条項を記入することが無意味で危険なことであるのならば(井下氏と雅宣氏は「危険だ」と断定した)、国民は憲法への緊急事態条項記入を阻止しなければならない…ということになる。

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ただし…少し話がそれるが…上記の動画「首都直下地震編 全体版」は、現実認識が甘すぎると「生長の家classics」は考える。なぜならばこの動画は津波の影響をまったく考慮していないからである。

たしかに津波の影響に言及している政府機関の発表もあることはある。2013(平成25年)12月19日に発表された、
「首都直下地震対策検討ワーキンググループ最終報告の概要」
https://www.bousai.go.jp/jishin/syuto/taisaku_wg/pdf/syuto_wg_gaiyou.pdf
は、
「東京湾内の津波は1m以下」と予測している。

しかしこの予測も甘いと言わざるをえない。なぜならば、この予測は震源が陸地の地下にあると前提した結論にすぎないからである。つまり、この「最終報告」も上記の動画も、「内陸直下のマグニチュード7クラスの直下地震」(02分34秒)を前提としている。だから、海である東京湾の地下で同じ規模の地震が発生した場合の被害を排除しているのである。

以下は地震学の素人の意見にすぎないが、もし地震の震源がJR東京駅から南へわずか4kmずれた芝浦埠頭沖の東京湾の地下にあり、しかもそれがマグニチュード7クラスの地震を発生させたならば、東京湾で5mほどの津波が発生してもおかしくないはずである。内閣府のホームページ「特集:東日本大震災」
https://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h23/63/special_01.html
によれば、東日本大震災のマグニチュードは9.0という巨大なものであったが、宮城県女川漁港に14.8mもの津波が襲来しているのである。

もし芝浦埠頭沖で5mの津波が発生すれば、その津波が瞬時のうちに東京湾を北上して、銀座や新橋などがある中央区(海抜最高4m)の道路や地下鉄を覆い、さらに北上して国会議事堂に迫るはずである(もちろん千葉・神奈川の海岸線にも迫るだろう)。国会議事堂がある永田町は海抜24mと言われているが、永田町の周辺が銀座や新橋から流れてきた瓦礫に覆われて通行不可能になり、その結果、国会を開催する現実的可能性は50%以下になるはずである(もちろん羽田空港やJRなどの鉄道網は機能不全に陥っている。このことは上記の動画も説明している)。

もし地震学者たちが「東京湾の直下では大地震が発生しない」という科学的根拠を持っているのならば話が別だが、このような予測を排除している(としか思えない)ワーキンググループの意思が「生長の家classics」には理解できない。

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…ということで、ここで話を戻す。以上のような「緊急事態」が発生したときに、はたして今の法律のままで行政機関が迅速・有効に対応できるのかどうか…これが問題となる。 

これに対して回答が二つに分かれる。一つ目は上述のように、「今の法律のままで混乱なく迅速に対応できる。だから法律を変えたり新しく法律を作ったりする必要はない」という回答。二つ目は、「今の法律のままでは対応できない。法律を変えるか新しい法律を作らなければならない」という回答。ここまでが「法律レベルの問題」である。この「法律レベルの問題」ですべてが解決するのならば、それで「めでたし。めでたし…」となる。

ところが、どうもそう簡単には行かないようである。以下のような事態を想定すると、単に「法律レベルの問題」だけでなく、そのうえにある「憲法レベルの問題」をも考えて明確な結論を出しておかないと(改憲を肯定するにせよ否定するにせよ)すべての問題が解決したとは言えないようなのである。

たとえば、東京の上野に美濃部光雲という人が住んでいた。美濃部氏は日本有数の彫刻家であると同時に、近くにある東京大学の法学部で憲法学を教える知識人でもあった。

ある秋の日。美濃部氏が日展に出品するために、ミロのヴィーナスのような美しい彫刻品を作成した。有名なミロのヴィーナスには両腕がない。しかし美濃部氏は自分のヴィーナスに両腕をつけた。美濃部氏は自分のヴィーナスに「両腕のヴィーナス」という名前をつけて惚れこんだ。

その翌日の昼すぎ。強烈な首都直下大地震が関東地方を襲った。木造二階建ての美濃部邸は目の前の「言問通り」に崩れおちた。「言問通り」は、弥生時代という言葉が出現するきっかけとなった弥生式土器が発見された東京都文京区本郷の弥生交差点から、隅田川にかかる言問橋に通じる重要な道路である。その道路に美濃部邸と近所の家屋がたくさん崩れ落ちた。「両腕のヴィーナス」は瓦礫や材木の下に埋もれて姿を消した。さらにそのころ上野の東側にある根岸とその先にある入谷などの木造密集地域で多くの火の手があがった。地震の発生時がたまたま関東大震災と同じ昼食の時間であったために、多くの火の手は東にある浅草寺にむけて一斉に広がった。

上野よりも西にある小石川消防署や本郷消防署から何台もの消防車が「言問通り」を通って根岸と入谷へ向かった。救急車もつづいた。ところが消防車や救急車が上野に入ると倒壊した家屋の瓦礫と材木が道路を埋め尽くしていた。警官がやって来て障害物を取り除いた。自衛隊も出動した。自衛隊員が瓦礫を排除していると、材木の下に埋もれているヴィーナスの左手が見えた。左腕はまだ胴部とつながっているようであった。自衛隊員がその左手首を握って材木の下から力任せに引き上げようとしたときに、「腕がちぎれる。それは私の物だ」と、美濃部氏の悲鳴とも叫び声ともいえぬ声が響いた。      

「私の物を許可なく動かすな。こわすな!」と氏はつづけて叫んだ。警官と自衛隊員は、「そんなことを言っていたら、根岸と入谷の火災を止められない。今助けられる人を助けられなくなる」と叫んだ。それを聞いた美濃部氏は、「私の貴重な芸術作品を破壊するつもりか。芸術は人の命よりも永遠なのだ」と、興奮して叫んだ。

美濃部氏は心を鎮めて言った。「君は芥川龍之介の小説『地獄変』を知らないのか。あの小説は、自分の家が火事になって妻子が火の中で死にそうになっていることを知りながら、『ありがたい。この炎を見て、初めて燃えさかる炎の描き方がわかった』といって喜んだ絵師の話がネタなのだ。そのネタ本は『宇治拾遺物語』といって、今から千年も前に書かれたのだ。どうだ。わかったか。昔から芸術は人の命よりも重いのだ」と、いささか乱暴な芸術論を語った。

それを聞いて白けた自衛隊員が言った。「私たちは『災害対策基本法』にしたがって行動しています。あなたも東京大学の法学部で法律を教えている先生でしょう。法律の先生ならば法律にしたがうことを学生に教え、あなたも法律にしたがってください」と、美濃部氏をあざ笑うかのように言った。そう言われて藝術家魂から学者魂に心のスイッチが切り替わった美濃部教授が冷静に言い返した。

「それならば、その『災害対策基本法』が憲法違反なのだ。君は憲法第29条が、『財産権は、これを侵してはならない』と宣言しているのを知らないのか。もちろん私が作った「両腕のヴィーナス」は私の財産だ。よいか。よく聞け。日本国憲法が、『財産権は、これを侵してはならない。』と定めている。その財産を毀損するような君たちの行為は明らかに憲法違反なのだよ。…それとも君は、憲法よりも法律のほうが重いとでも思っているのか。すべての法律は憲法のうえに成り立っている。君はそのようなことも知らないのか。…これだけ説明しても君が文句を言うのならば、君は今から憲法を改正して、個人の財産権にも一部例外があることを明記したまえ」と、冷たく言い放った。

そこに、たまたま近くにある東京芸術大学の学生がいた。芸大の学生は二人のやりとりを聞いていた。そしてつぶやいた。「憲法に私権の制限を書きこんだら、それを理由に政治権力が個人の人権を侵害して、のちのち危険なことになるのではないか。いくら緊急事態だといっても、今の憲法と法律のままで何とかなるのではないのか…」と、つぶやいた。

それを聞いた美濃部教授が憤然として語った。「私は『人権を制限しろ』と言っているのではない。その反対だ。私は『人権を守れ』と言っているのだ。そもそも、私は自分のヴィーナスを守ることを主張している。それなのに、どうして私の主張が『人権の制限につながる』などと君に言われなければならないのだ…」と。そう言われた学生は、「みなが同じ目的をとげようとしているのに、さかさまの結論が出た。これは変だ…」とつぶやいた。そこへ根岸と入谷から逃げてきた人たちが叫んだ。「今ごろそのような話をしていても遅い。早く火を消してくれ!」と…。

…という想定によれば、憲法に緊急事態条項を追加記入すること(改憲)が良いのか悪いのかという問題に明確な回答を出すことは必要であろう。たとえ改憲を肯定するにせよ、あるいは否定するにせよ、このような「憲法レベルの問題」までを考えて、正確な論理と現状認識をふまえたうえで最後の結論を出すことが必要なのである。 

しかも、ある人が「緊急事態条項を憲法に追加記入するべきだ」と言うのならば、その人は、どのような内容の緊急事態条項を憲法に記入するのが良いか…についても語らなければならない。

その反対に、別の人が「緊急事態条項を憲法に記入する必要などない。今のままで緊急事態に十分に対処できる」というのならば、その人は、「十分に対処できる具体的な理由」を提示しなければならない。もしその人が具体的な理由を提示せずに、「とにかく今のままで緊急事態に十分に対処できるのだ」などと主張して論を進めるならば、その人は非科学的で政治主義的な意見を述べているにすぎない…と非難されても仕方がないであろう。

…ということで、「本文書」(2023年6月・7月度『地方講師研修会』のテーマについて)に視点をもどす。「本文書」は「緊急事態条項」について、「必要ない。危険だ」と断言していた。それでは、はたしてその断言は科学的、合理的な論理展開をへた上で出てきた断言であるのだろうか。次回では、このスレッド本来の目的にもどって、「本文書」の解釈学的論理分析にもどる。
 
(第四回につづく)



「6月度のテーマ文と解説文」の詭弁的な論理構造。その3。  (14905)
日時:2023年11月19日 (日) 13時19分
名前:生長の家classics

百地章教授と日本共産党のご主張、さらに井下・雅宣氏「本文書」との比較。

今回は最初に「緊急事態条項」に関する両極端の二つの意見を紹介・比較し、その二つのあいだに井下・雅宣氏提出の「本文書」を位置づけて、最後に「本文書」への解釈学的論理分析を施す。

なぜ両極端の意見のあいだに「本文書」を位置付けるかというと、「生長の家classics」をふくむ読者が「憲法改正は良い悪い」の価値判断をとりのぞいて、客観的に(第三者的に)「本文書」を読めるようにするためである。…といっても、わかりにくいかもしれないので、

まず、今の日本には「緊急事態条項」に関する賛否両論の多様な意見が飛び交っているが、それらのうちで賛成論(「憲法に緊急事態条項を記入するべきだ」という主張)として最も明快かつ緻密な主張が、憲法学者・百地章教授のご主張である。

次に反対論(「憲法に緊急事態条項を記入してはならない」という主張)としては、日本共産党のご主張が最も明快かつ有名である。日本共産党の反対論は、論理構成の緻密さの点でも、数ある護憲集団(政党を含む)のなかで最高である。

よって、次に、その百地教授と日本共産党のご両者の所論を多方面から紹介・比較して、そのあとで井下・雅宣氏「本文書」を両者のあいだに位置付ける。これによって「生長の家classics」を含む読者が、より客観的かつ公平に「本文書」を観察する座標軸を獲得できるはず…という理由である。 

…なお、ここで一つ技術的な変更を読者に了解していただかなければならない。それは、前回まで使ってきた「緊急(、、)事態」という言葉すべてをここからは「異常(、、)事態」と呼び、また、「緊急(、、)事態条項」という言葉もすべて「異常(、、)事態条項」と呼ぶように、「緊急」を「異常」に置き換える名称変更を行うことである。

なぜこのような名称変更を行うかというと、その理由は単純である。たとえば百地教授のような改憲派にとっては「憲法改正を行わなければ対処できない緊急事態」が今の日本に存在するが、日本共産党のような護憲派にとっては「憲法改正を行わなければ対処できない緊急事態」など存在しないからである。

たとえば、下に紹介するが日本共産党は、憲法改正に影響を与える議論の場ではほとんど「緊急事態」という言葉を使っていない。そのかわりに「非常事態」という言葉を使っている。これがなぜかと言うと、改憲を認めない日本共産党にとって「緊急事態(何らかの私権制限や憲法改正を行わなければ対処できない事態)」など存在しないからである。

したがって、ここからは前回まで当然のように使ってきた「緊急(、、)事態」および「緊急(、、)事態条項」という言葉を使わない。そのかわりに、改憲派も護憲派も使っていない「異常(、、)事態」および「異常(、、)事態条項」という言葉を使う。これによって、「生長の家classics」をふくむ読者全員が「憲法改正が良い・悪い」という個々人の価値判断をさらに離れて、より純粋に論理だけを眺めることができるはずなのである(M・ウェーバーをご存じのかたは、ヴェルト・フライハイトを想起ねがいたい)。…少しむずかしいかもしれないが、この名称変更は重要な意義をもつので充分なご理解を願いたい。少なくとも、不十分な理解の上で滑稽な批判を本試論に加えるようなこと(すでに一部に見られるようである)が無いようにお願いしておく。

…ということで、以下に、

≪1≫ 今の日本に異常事態が発生する可能性があるのか無いのか。
≪2≫ 異常事態に対処する法律(憲法ではない)の改正や制定が必要か。
≪3≫ 憲法への異常事態条項の記入(憲法改正)が必要か否か。
≪4≫ 改憲を行った時の弊害(私権制限・政権独裁…等)の防止策は?
に焦点をあてて、百地教授と日本共産党の意見を紹介・比較する。

そのあとで、両者の意見のあいだに井下・雅宣氏「本文書」を位置付けて眺める。この面倒だが緻密な作業によって「生長の家classics」と読者は、より公平・客観的に「本文書」の論理を眺め分析する用語と座標軸を獲得できるのであった。…ということで、今からかなり複雑で面倒な手順を踏むことになるが、読者諸賢には我慢して付いて来ていただきたい。



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≪1≫ 今の日本に異常事態が発生する可能性があるのか無いのか。

【百地章教授の主張】
ある。

百地教授は「憲法学会」の学会誌『憲法研究』誌(2023年第55号)のなかの「鼎談」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/constitution/55/0/55_187/_pdf/-char/ja
で、次のように発言された。以下の頁数は同誌(以下、「鼎談」と略記)の頁数である。

   首都直下型大地震は「我が国の存亡に関わる」という政府の報告がでているわけです。
   この「国の存亡に関わる」というのは大変な報告でありまして,その確率もご存知の
   ように今後30年以内に70%,死者は2万3千人, 被害総額95兆円といわれています。
   しかもこれは直接被害だけですから, 間接被害を含めればもっと広がります。首都
   が壊滅する恐れがある, といわけですから。さらに首都脳全体にわたるブラック
   アウト(広域停電)が発生したら, 何日間にもわたって交通も通信も途絶え,生活
   だけでなく政治も経済も一切機能しない。
   (189頁~190頁)

   また, 南海トラフ巨大地旋についていえば直接被筈だけでも死者23 万人, 被害
   総額は220兆円と, 年間予算をはるかに超える被害が想定されている。 しかも,
   この巨大地震では東海から南紀, 南四国から九州まで壊滅状態になることが予想
   されているわけですから, 本気で対策を考えておかなければなりません。
   (190頁)

【日本共産党の主張】
ある (ただし、直接明言する文言は見当たらない)

日本共産党が「今の日本に異常事態が発生する可能性がある」と直接主張する文言は、「生長の家classics」が探したかぎり存在しない。

しかし、「『今の日本に異常事態が発生する可能性がある』と前提している」と理解するしかない日本共産党の発言はたくさんある。たとえば関東地方を襲う大地震の発生を当然の前提とする次の発言がある。

日本共産党「2022年参議院選挙・各分野の政策」 (86、防災・減災、老朽化対策)
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2022/06/202207-bunya86.html
   今…激甚化、頻発化する災害に対する抜本的対策が求められています。政府は…
   「防災・減災、国土強靭化のための5か年加速化対策(21~25年度)」を進めて
   います。…激甚化する風水害や切迫する大規模地震等への対策に12兆3000億円、
   「予防保全型インフラメンテナンスへの転換に向けた老朽化対策の加速」2兆
   7000億円などを内容にしています。

この文章は自民党政府の施策を紹介している。それにもかかわらず、日本共産党には珍しく(?)この施策に批判を加えていない。このように日本共産党は「切迫する大規模地震」が日本列島を襲うことを認めているのである。…次に、猛毒性をもつ感染症のパンデミックに関する日本共産党の文言。

日本共産党「2022年参議院選挙・各分野の政策」 (1、コロナ・感染症対策)
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2022/06/202207-bunya01.html
   世界では、AIDS(後天性免疫不全症候群)、エボラ出血熱、SARS(重症急性呼吸器
   症候群)、鳥インフルエンザ、ニパウイルス感染症、ラッサ熱、MERS(中東呼吸器
   症候群)など、「30年間に少なくとも30の感染症が出現した」と言われるような、
   新興感染症の出現
が相次いでいます。

   …とくに、はしか(麻疹)・風疹の患者が多く発生し、毎年のようにインフルエンザが
   流行して、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)・AIDS患者も増加傾向にあるなど、先進国の
   なかで屈指の「感染症大国」である日本
では、感染症対策の拡充が切実に
   求められていました。ところが(自民党政府の施策は不十分です)。

…と、ここでは日本共産党らしく自民党政府の施策に批判と改善策を語っているのだが、ともあれ、以上の文言から、日本共産党も(直接明言していないものの)今の日本に「切迫する大規模地震」、さらに「エボラ出血熱…など新興感染症の出現」という異常事態が発生する可能性があることを認めている。この事実(文言)は重要である。覚えておいていただきたい。



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≪2≫ 異常事態に対処する法律(憲法ではない)の改正が必要か否か。

【百地章教授の主張】
法律の改正や制定が必要である。

百地教授は上記「鼎談」のなかで、次のように主張しておられる。

   新型コロナ・パンデミックについて…医療体制の問題ですけれども, 我が国では民間の
   医療が大体7割を占めており, 病院の数は多い。 しかし, 民間の病院ですから, 医師
   とか看護師に対して従事命令や派遣命令を出すことはできません。 実際にあった例を
   あげますと, 千葉県では一千人規模の野戦病院(負傷者を野外で治療する野外病院の
   こと。戦争を前提としているわけではない)をつくろうと言うことで資金を集めて準備
   したのですが, さまざまな法律の壁があって実現できませんでした。 特にネックと
   なったのが医師や看護師を強制的に集めることができなかった
ことです。この問題は
   しっかり考えておかなければいけない。(188頁。括弧内は引用者)

   一方, 大規模自然災害ですが…平成23年の東日本大震災についていいますと, この
   ような大災害に備えて災害対策基本法という法律がありまして, 災害緊急事態の布告が
   できることになっています。…ところが菅(直人)内閣はその布告をしなかった
   …もし緊急政令が出せれば, 生活必要物資の石油等の買い占めや物価の高騰を防止する
   事も可能でした。したがって,(今の)災害対策基本法にも限界があります。(188頁)

   もう一つは感染症です, 先ほど言いましたけれど, 強毒性の感染症, たとえばエボラ
   出血熱のバンテミックが発生した湯合には, 現在の感染症法や新型コロナ特措法だけ
   では対応できません
。もちろん, 何もかも憲法に盛り込むのではなくて, 法律でできる
   ことは法律で定めていくわけです…。(190頁)

【日本共産党の主張】
「生長の家classics」が調べたかぎり、日本共産党は法律の改正や制定の必要が「ある」とも「ない」とも明言していない。

その理由は、次に提示するように、日本共産党が、「今の憲法と法律を完全に施行すれば異常事態に充分対処できる」と考えているためと思われる。つまり、日本共産党にとって異常事態は今のままで充分に対処できるから、「異常事態に対処するための法律の変更や制定の必要があるのか無いのか」という問題自体が意味を持たないのであ(もっとも、日本共産党は異常事態と直接関係のない問題については、多くの新法制定を主張している)。



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≪3≫ 異常事態条項の憲法記入(改憲)が必要か否か。

【百地章教授の主張】
異常事態に対処する「異常事態条項」の憲法記入(改憲)が必要である。

百地教授は「鼎談」のなかで、次のように語っておられる。

   平成23年の東日本大震災についていいますと, このような大災害に備えて「災害対策
   基本法」という法律がありまして, 災害緊急事態の布告ができることになっています。
   …ところが菅(直人)内閣はその布告をしなかった。…もし緊急政令が出せれば,
   生活必要物資の石油等の買い占めや物価の高騰を防止することも可能でした。…
   (ここには)明らかに憲法の壁があります。 この点,「なぜ災害緊急事態を布告
   しなかったのか」という質問に対して, 政府の役人は, 「憲法では国民に権利自由が
   保障されていますから, 法律に規定があってもそう簡単に出すことはできない」という
   趣旨の答弁をしている。(188頁~189頁。黒字の括弧部は引用者)

   また明らかに憲法が壁になった例として, 憲法29 条の財産権の不可侵と瓦礫の処理の
   問題があります。当時, 大量の瓦礫が(道路に)流れついた中で, 首長(知事や市長
   など)としては緊急車両を通すために緊急道路をつくる必要がある。そのため,
   すみやかに瓦礫を撤去しなければなりませんでした。 (たしかに)「災害対策基本法」
   上では瓦礫などの被災物件は除去できることになっている。 法律ではそうなっている
   のですけれど, 首長の中には「違憲の疑いがある」とされたり, 「将来憲法裁判を
   起こされる恐れがある」などといわれて躊躇した自治体の首長さん達もいました。
   となるとこの問題は法律の整備だけではなく,やはり憲法に根拠規定を定めておかない
   ときちんと対応できない
…。(189頁。括弧内は引用者)

   もう一つは感染症です。 先ほど言いましたけれど強毒性の感染症, たとえばエボラ出血
   熱のパンテミックが発生した場合には現在の感染症法や新型コロナ特措法だけでは対応
   できません。もちろん, 何もかも憲法に盛り込むのではなくて,法律でできることは
   法律で定めていくわけですが, 法律を整備しても, やはり憲法に(その)根拠
   (となる)規定を置かないと, その法律そのものも機能しません
。(190頁。括弧内は
   引用者)

ついでに、百地教授は、「異常事態のもとでは必ずそのときに急いで作らなければならない新法律が必要になるのだ」と述べて、次のような実例をあげている。

   緊急事態には, 緊急時のための立法が必ず必要になる…。 あらかじめ準備しておいた
   法律だけでは絶対に対応できないことがたくさんある
。このことは阪神淡路大震災の
   時にも, 東日本大震災の時にも証明されました。阪神淡路大震災の時には国会が機能
   していましたから, 震災発生から2ヶ月の間に14 本の緊急立法, 緊急事態に対処する
   ための法律が制定されている…。また東日本大震災の時にも発生から2ヶ月の間で11 本
   の法律が制定されました。…このように, 緊急事態においては,緊急時のための 
   (急いで作った)特別の法律によって初めて国民生活が守られます
。だからこそ,
    緊急時においても立法機能が果たせるようにして置く必要がある。たとえば国会議員
   の任期の延長は一つの方法です…。(191頁。括弧内は引用者)

…ところが異常事態のもとでは、その立法機能(国会)を召集したくても招集できないことがある。そのときは異常事態に対処する法律を制定することができない。それこそが本当の異常事態(緊急事態)である。そして、そのときには内閣が緊急政令(異常事態のもとで内閣が出す政令つまり命令。戦前は「緊急勅令」といった)を発して、迅速に異常事態に対応する以外に有効な方法がないのだ…。

   国会議員の任期を延長してもそれだけでは不十分で,そもそも国会が開けなくなった
   ときはどうするかという問題に帰着します。例えば, 首都直下型の大地震が派生した
   ために国会が召集さえできない, このような時こそ本当の緊急時だと思う…。戦前に
   は大正12年の関東大震災の時, 首都東京は壊滅状態でしたから, 3ヶ月間議会は招集
   できませんでした。 そこで(当時の)山本権兵衛内閣は, 9 月1 日から1ヶ月で緊急
   勅令を12本発令しています
。…(今、国会議員の)任期延長の話を(与野党の国会
   議員が行っているが、そのような話を)するんだったら, そもそも国会が機能できない
   ような緊急時にはどうするかも議論すべきだ, 緊急政令の問題まで立ち入らなかった
   らダメだ…。(190頁~192頁。括弧内は引用者)

しかし今の憲法には「緊急政令」という概念も言葉もない(189頁)。したがって、異常事態における最後の手段として、憲法に「緊急政令」を認めて位置づける文言を記入することが必要なのである。それを具体的にいうと、今の憲法に、「平時のルール(法制度)」から、「緊急時のルール(法制度)」ヘの切り替えを明記することである。

   (緊急政令を憲法に位置付けるためには)、「平時のルール」から「緊急時のルール」
   ヘの切り替えを…。 そのヒントは身近な道路交通法なんです。道路交通法では何も
   (事故が)ない時と, いざ事故が発生した時の特例…例えば信号を無視して緊急車両が
   走れる…とかを区別している
わけですね。 そういう…説明をすると, 一般の方々は
   非常にわかりやすいって言うんです…。(192頁。括弧内は引用者)

【日本共産党の主張】
異常事態条項の記入(改憲)は不要である。

日本共産党は、「今の憲法と法律を完全に実施すれば、異常事態に充分に対処できる」と、間接的に主張しておられる。

2016参議院議員選挙・各分野の政策 39、憲法
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2016/06/2016-sanin-bunya39.html
   改憲派は、大規模災害への対応を改憲の口実としていますが、災害対策を理由とする
   改憲の策動には、東日本大震災の被災地から厳しい批判の声が上がっています。

   東北弁護士連合会(2015年5月16日)、「…そもそも、日本の災害法制は既に
   法律で十分に整備されている。…したがって、国家緊急権は、災害対策を理由としても
   その必要性を見出すことはできない
」と。

   福島県弁護士会(同4月17日)、「東日本大震災において、政府の初動対応は極めて
   不十分だったと評価されているが、それは、法制度に問題があったからではなく、事前
   の対策が不足し、法制度を十分に活用できなかったからである
…」と。

それでは、今の憲法と法律のままで、日本共産党自身が認めた「切迫する大規模地震」(上記)や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」(上記)に充分に対処できるのであろうか…。残念ながら、対処できるという理由や具体的な方法について、日本共産党は全く語っていない。

しかし、上記の「東北弁護士連合会」と、「福島県弁護士会」が語っているかもしれない。そこで、まず「東北弁護士連合会(2015年5月16日)」
https://www.t-benren.org/statement/43
を見ると、残念ながら東北弁護士連合会も、今の憲法と法律のままで「切迫する大規模地震」や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に充分に対処できるという理由や具体的な方法について語っていない。

次に、「福島県弁護士会(同4月17日)」
https://www.f-bengoshikai.com/topics/t1/2194.html
を見ても、やはり全く語っていない。良し悪しを別にして、憲法に異常事態条項を記入することに反対する政党と弁護士は、そのほとんどが、今の憲法と法律のままで「切迫する大規模地震」や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に充分に対処できるという理由や具体的な方法について語っていないようである。

ただ…しつこいようだが…日本共産党はこの記事(39憲法)のなかで注目すべき主張を行っている。それは、「今の災害対策基本法や災害救助法を利用すれば充分に異常事態に対処できる。なぜならば、災害対策基本法や災害救助法は異常事態に対処するための私権制限を認めているからだ…」という主張である。

   災害対策で一番重要なことは、災害の現地で直接指揮をとる機関に、できるだけ権限を
   持たせることと、徹底的な情報公開です。いまある災害対策基本法、災害救助法などは
   実際に、市長村長や都道府県知事の強制権による私権制限などを明記しています
…。

つまり、この主張によれば、たとえ今日、異常事態が発生しても、県知事や市長村長が、すでに「私権制限」を認めている災害対策基本法や災害救助法を根拠にして、県民や市民に「強制」的に従わせて異常事態を解決できる…のである。それならば、日本共産党が主張するように、今の憲法と法律のままで異常事態に対処できるかもしれない。

ただ、この主張は二つの面倒な論理的問題を発生させる。それは、

   ①もし災害対策基本法や災害救助法が本当に「私権制限」を認めているのならば、
   人権を最重要視する日本共産党は今からでも災害対策基本法や災害救助法を廃止
   させるべきではないか。それにもかかわらず日本共産党が災害対策基本法や災害
   救助法を遂行させるような主張を行っているのは、主張が矛盾しているのでは
   ないか。

   ②災害対策基本法や災害救助法が「私権制限」を認めている理由は、通常、憲法
   第22条や29条第2項ほかに規定されている「公共の福祉」にあると考えられて
   いる。これは簡単にいうと、「公共の福祉のためならば、個人は自分の人権が
   多少制限されることも我慢しろ」ということである。日本共産党もその考え方を
   認めている(次の≪4≫をご参照)。
   それならば日本共産党は、同じ「公共の福祉」を目的として「異常事態条項の
   憲法記入」を認め、公共の福祉のために実施される多少の私権制限も認めるべき
   だ。まして、異常事態条項を憲法に記入しておけば、災害対策基本法の法的根拠
   がより明確になり、それによって災害対策基本法の法的安定性も高まるではない
   か…。

の二点である。ただ、ここでそれにこだわると話がそれてしまい、しかも、「公共の福祉とは何か」という学者の論争に巻きこまれるので、この二点に関してはここまでとする。

…さて、ここで少し話がそれるが、ここまで登場した憲法学者は改憲派の百地章教授だけである。護憲派の憲法学者が登場していない。これでは護憲派にとって不公平であろう。そこで公平さとバランスを期して、護憲派と思われる憲法学者の意見を紹介する。

百地教授と同じように大学で憲法学を教えている首都大学教授の木村草太氏は、朝日新聞デジタルの「論座」(2016年3月16日公開)の記事、
緊急事態条項の実態は「内閣独裁権条項」である
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2022070200003.html
のなかで、

   災害対策基本法109条には、状況に応じて、供給不足の「生活必需物資の配給又は譲渡
   若しくは引渡しの制限若しくは禁止」や「災害応急対策若しくは災害復旧又は国民
   生活の安定のため必要な物の価格又は役務その他の給付の対価の最高額の決定」、
   「金銭債務の支払」延期などに関する政令制定権限までもが定められている。
    これらの規定は、かなり強力な内容だ。過剰だという評価はあっても、これで不足
   だという評価は聞かれない
。さらに、これらの法律ですら足りないなら、不備を
   貝体的に指摘して、まずは法改正を提案すべきだ。 

と、主張しておられる。

これは簡単にいうと、「今のままで異常事態に対処できる。だから異常事態条項の憲法記入は必要ない」という主張である。

しかし木村教授が信用している災害対策基本法は、教授が説明しておられるように、「異常事態のときには、生活必需物資を勝手に売るな。自由な引き渡しも行うな」、および「国民生活の安定のために必要な物の値段を勝手に値上げするな。被災した弱い立場の従業員の給料を下げるな」、さらに「被災者には借金の支払い期限を延ばしてやれ」くらいしかない。

つまり、「災害対策基本法」は、感染が猛烈に広がっている地域への出入りを強制的に禁止する「ロックダウン」を認めていない。また、道路を埋め尽くしている瓦礫や「両腕のヴィーナス」(前回14882記事)を強制除去する根拠が憲法に規定されていない(だから前回記事の美濃部光雲氏のように「憲法違反だ」と非難する声が絶えず、その結果、救助が遅れる。最悪の場合、救助が止まる)のである。この点で木村教授の主張は、「今の憲法と法律のままで、『切迫する大規模地震』や、『エボラ出血熱など新興感染症の出現』に迅速に対処できるという理由や具体的な方法」を語っていない…と判断せざるをえない。

良し悪しを別にして、憲法に異常事態条項を記入することに反対する政党と弁護士と憲法学者は、なぜかそのほとんどが、今の憲法と法律のままで、「切迫する大規模地震」や「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に充分に対処できる理由や具体的な方法について語っていないようである。

…ただ、憲法学者・木村草太教授の記事は有料記事である。賛否にかかわらず極めて有意義な記事と思われるので、読者諸賢には、「論座アーカイブ」
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2022070200003.html
から、料金を支払って、全文を確認されることを勧める(以上、朝日新聞と木村教授のための広告終了)。



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≪4≫ 異常事態条項を憲法に記入した時の弊害(私権制限・政権独裁…等)の防止策は?

【百地章教授の主張】
そもそも異常事態条項の憲法記入は、異常事態から国民生活と国家秩序を守るためだけでなく、立憲主義(憲法に基礎を置く法の支配)を維持することによって、可能な限り人権を守り、独裁政治を防ぐための手段でもある。

百地教授は、異常事態時に人権を守りながら独裁政治を防ぐための法的手段をいろいろ提言しておられる。

   「憲法に緊急事態条項を」という問題については世論調査でも国民のかなり高い支持が
   示されています。緊急事態条項は言うまでもなく, 緊急時においても立憲主義を維持
   するためであり,だからこそ憲法にきちんと書いておく必要があると言うことです

   …(そのような意味の緊急事態条項として)明治憲法には第8 条の緊急命令など
   いくつかの規定がありましたが, 日本国憲法には何もありません。(189頁。括弧内は
   引用者)

   国民に対して緊急事態条項の必要性を訴える際には,やはり分かりやすい理論づけ,
   理論的な説明が必要です。 そこで, 「緊急権の立憲化」のための理由を整理して
   みました。 以下三点あげますと, 第一に国民の命を守るために, 憲法に根拠規定
   を(記入する), ということで, たとえば外出禁止とか医師の派遣命令なども
   必要となります。 これはもちろん, 反対派がいうような国民の権利制限や義務を
   課すこと自体が目的ではなく, あくまで国民の命を守るため
です。(190頁。
   括弧内は引用者)

   第二に 国民生活を守るためには国会の機能を維持する必要がある。国会の機能維持は
   …緊急時においても国会の立法機能を維持し, それによって国民生活を守る
必要が
   あるからで, 国会議員の任期あるいは身分の保障自体が目的ではありません。
   …私は繰り返し言っているのですが, この問題は…国民の生活を守るためであって,
   国会議員の身分保障のためではありません。もしそのように勘違いされたら憲法改正は
   実現しません。(191頁~192頁)

   最近では憲法の中に緊急事態においても制限をしてはならない権利を明記している
   も登場してきましたが,このやり方は, すでに世界人権規約やヨーロッパの人権条約
   でも採用しています。そこで, 私もさまざまな提言をしております…。(193頁)

…ということで、残念なことに「生長の家classics」は、この引用部の最後にある「さまざまな提言」の具体的な内容を知ることができない。よって断言はできない。しかし百地教授は人権侵害や政府独裁を防ぐために、「世界人権規約」、あるいは「緊急事態においても制限をしてはならない権利を明記」することなどを考えておられるようである。もちろん、異常事態下の国会の開催可能性を最大化する方法も考えておられる。よって、次のように結論づけることができるであろう。百地教授は異常事態に対処するために必要なすべての法体系を提示したわけではない。しかし少なくともプラス(迅速に異常事態に対処すること)と、マイナス(人権侵害や独裁政治を防ぐこと)のバランスを取った最良の法体系を構築しようと努力しておられるのだ…と。

【日本共産党の主張】
異常事態条項など、危険極まりない。その異常事態条項を葬り去れば、余計な問題は発生しない。

日本共産党は異常事態条項の憲法記入(改憲)に反対すること、きわめて熾烈・猛烈であられる。(百地教授に対すると同様に尊敬語を使った)

日本共産党2016年参議院議員選挙・各分野の政策 (39憲法)
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2016/06/2016-sanin-bunya39.html

   「自民党改憲案」は、「緊急事態条項」の創設を明記しています。…(これは)
   首相が「緊急事態の宣言」を行えば、内閣が立法権を行使し、国民の基本的人権
   を停止し、国民に命令への服務義務を課すなど、事実上の「戒厳令」を可能に
   するものです
。…自民党改憲案のように…総理大臣に巨大な権限の集中を許す
   「緊急事態条項」は、諸外国の例と比べても突出した危険なものです。(括弧内は
   引用者)

NHK みんなと私の憲法 
参議院選挙での各党の主張。日本共産党 (2022年7月)
https://www3.nhk.or.Jp/news/special/minnanokenpou/seitou/kyousan.html

   日本国憲法の前文を含む全条項を守る…。(自民党の改憲案の)「緊急事態条項の
   創設」…は、新型コロナ対策を口実にしているが、憲法には「公共の福祉」という
   形で一定の私権制限ができる規定がある。(それなのに新型コロナ)災害に乗じて
   改憲を図ろうとする(のは)火事場泥棒ともいうべき暴挙
だ。(括弧内と下線は
   引用者)

…というように日本共産党は、異常事態条項を主張する自民党ほかの政党の改憲案を批判することに極めて熱心である。しかし、(たとえその他党批判がすべて正しいとしても)日本共産党は、自分が危惧する「切迫する大規模地震」や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に対処する具体的方法をまったく提示していない。上の≪3≫で確認したように、日本共産党は今の憲法・法律のままで異常事態に対処できる理由や具体的な方法を何も提示していないのである。

…さて、以上のように百地章教授の主張と日本共産党の主張を比較すると、両者の間には多くの相違点が見られるが、それらのなかで最も大きな相違点が次の相違点であろう。

百地教授は日本共産党が危惧する「切迫する大規模地震」や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に対処するための具体的な方法(つまり異常事態条項の憲法記入と、さらに個々の法律作成)を主張し、みずから実行しているのに対して、

日本共産党は自分が危惧する「切迫する大規模地震」や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に対処するための具体的な方法を(一般的な常識から判断して)まったく提示せず、「とにかく今のままで対処できる。学者や弁護士もそう言っている」と主張して、他の政党を批判しているだけ…という相違点である。

この相違点から判断するかぎり、百地教授の主張は日本共産党の主張よりも遥かに科学的かつ常識的である。また、百地教授の主張のほうが将来の日本国民の安全に責任を持とうとする意志に貫かれた主張である。

なぜならば、もし今の憲法と法律のままで首都直下大地震が発生して甚大な被害が発生したならば、百地教授は、「私の主張が実現していたならば…。その点では私の努力不足でした」と言えば済むだけのことである(場合によっては前半だけをつぶやいて、実際には胸を張ることもできる)が、

日本共産党の場合は国民から、「おたくは今のままで対処できると言ったではないか…」と問われたときに返す言葉がないからである。もしも日本共産党がどこかで「切迫する大規模地震」や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に対処するための具体的な方法を提示しているのならば、「生長の家classics」は日本共産党に調査不足を詫びる。しかし現状では、日本共産党の主張を「科学的な主張だ」と評価することはできない、また、「国民の安全に責任を持とうとする意志に貫かれた主張である」と認めることもできない。



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≪5≫ 井下・雅宣氏「本文書」の主張と、その非科学性、無責任性

さて、視点を井下・雅宣氏「本文書」にもどす。

すでに上の記事14871で紹介したように、「本文書」の6頁は、
③非常事態に対しての現在の日本の法整備 <現憲法は緊急事態に対応可能>
と主張していた。

その③の全文は次の通りである。

③非常事態に対しての現在の日本の法整備
<現憲法は緊急事態に対応可能>
では、国家の非常事態に対して、現在の日本では、どのような法整備がされているのでしょうか。まず、最初に言えることは、「平時の統治機構では対処できない」として挙げられている「戦争・内乱・恐慌・大規模自然災害」について、すべて平時の統治機構により対処できる詳細な法律規定があるということです。(後略)


まず、この引用部の最初の、「では、国家の非常事態に対して…」から、最後の「法律規定があるということです」までに合計二つの文があるから、この引用部を「二文」と名づける。

次に、この「二文」のすぐあとに書いてある「後略」とは、「本文書」を各県教化部長に提出した井下氏の文言である。もともと「本文書」は、各県の教化部長にテキストとして『憲法を知ろう』(谷口純子氏監修)を参照するよう勧めていた。実は、「二文」はその『憲法を知ろう』の36頁の引用なのである。しかし実際の36頁にはさらに文が続いている。『憲法を知ろう』は最後が49頁まである。だが、これ以上引用を続けると文章が長くなってしまう。だから「二文」のあとの文は省略した…ということで「後略」と井下氏が書き込んだわけである。

さて、それではこの「二文」は、「切迫する大規模地震」や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に対して平時の統治機構で(つまり今の憲法・法律のままで)対処できる理由や具体的な説明を語っているのであろうか。誰が読んでもわかるように、全く語っていない。「二文」は何も説明していないのである。

しかしテキストに指定された『憲法を知ろう』には「二文」の続きが書いてある。そこに書いてあるかもしれない。だから『憲法を知ろう』も見て確認しなければならない。…ということで、次の引用が「二文」の続きで、しかも異常事態条項に関する記述である。

…地震等の大規模災害に対しても、災害対策基本法、災害救助法などの法律により、政府が強い権限で災害対応にあたれる体制がすでに存在しています。
東日本大震災の際、政府が初動時に迅速な処置ができなかったとして緊急事態条項を憲法に創設すべきとの見解がありますが、それは憲法に緊急事態条項がなかったからではなく、緊急事態に対処する法律があるにもかかわらず、十分な準備がなされていなかったことが原因と言えます。(『憲法を知ろう』37頁)


このすぐあとは、上の記事14871で紹介した
④ 「緊急事態条項」が濫用された例…戦前の日本とドイツ
につながっている。

それではこの部分に、「今の憲法・法律のままで異常事態に対処できる具体的な理由や説明」が書いてあるのだろうか。やはり書いてない。井下・雅宣氏「本文書」も、谷口純子氏『憲法を知ろう』も、「とにかく今のままで充分だ。異常事態に対処できるのだ」と決めつけて、一方的に論を進めているのである。

ただ…またまたしつこいようだが…「本文書」はサブテキストとして、『人間神の子は立憲主義の基礎』(谷口雅宣氏監修)を読むことも教化部長に勧めている。そこで、『人間神の子は立憲主義の基礎』(以下、『基礎』と略称)にも目を通さなければならない(どうにも手間のかかることである)。

その『基礎』のなかで異常事態条項に触れている部分は53頁から61頁である。…もう読者も面倒に感じておられるだろうから…先に結論を言うと、このなかに、「今の憲法・法律のままで異常事態に対処できる具体的な理由や説明」は書いてない。これが事実である。この事実を確認するには読者諸賢に『基礎』を購入して読んでもらう以外に方法がない。ここまで読んでくださった諸賢には、ぜひ『基礎』を購入することをお願いする(…と、これで雅宣氏のための広告終了)。

ともあれ、『基礎』のなかにも具体的な理由や説明は書いてない。『基礎』は上記の憲法学者・木村草太教授の「論座」論文を引用して自民党の改憲案を批判しているだけである。しかも、(その教授の自民党批判がすべて正しいとしても)「今の憲法・法律のままで異常事態に対処できる具体的な理由や説明」は、『基礎』の初めから終わりまで全80頁の中に全く書いてないのである。

そもそも…すでに確認したように…木村教授が信頼する災害対策基本法や災害救助法は私権制限をともなう強制的なロックダウンを認めていない。…もっとも、瓦礫や「両腕のヴィーナス」の除去に関して、たしかに災害対策基本法は、「やむを得ない必要があるときは、その必要な限度において…障害物を処分することができる」(第七十六条の六の4)と規定している。しかしその結果、「今、やむを得ない必要など存在しないではないか」、あるいは、「必要な限度を越えているではないか…」という批判にさらされて、責任者がなかなか瓦礫の除去を実施しない(あるいは実施できない)事態も実際に発生したのだった。さらに、これらの実態を別にしても、はじめから日本の法的実態が欧米の法的実態とは大きく異なっている。これが事実である。

たとえば産経新聞デジタルの記事、「緊急事態条項がない憲法は欠陥」
https://www.sankei.com/article/20230806-V37G2NHLLFMQXBWLL37AWMZUUE/
は、百地章教授の発言を紹介して、

   ヨーロッパはロックダウンした。違反したら罰金で、人権を制限しても共同体を守る
   ことに、国民も従う。米国では大統領が指揮を執り、財政出動をはじめ自動車会社で
   人工呼吸器を作らせるなど強い権限を発揮した…。

と報告している。

しかし日本の「災害対策基本法」ほかの法律に、欧米のような強い権限を政府や総理大臣に与える文言は存在しない。日本の総理大臣がトヨタやホンダに人工呼吸器の製造を命令する…このようなことは想像することもできないほど現代日本の憲法体制は「異常事態の発生」を法体系の前提から排除しているのである。

…ということで話をもどす。以上の理由で、井下・雅宣氏「本文書」も、谷口純子氏『憲法を知ろう』も、谷口雅宣氏『基礎』も、日本共産党と同様である。とても「科学的な主張だ」と評価することはできない、また、「国民の安全に責任を持とうとする意志に貫かれた主張である」と認めることもできない。なぜならば、もし今の憲法と法律のままで首都直下大地震が発生して日本国内に甚大な被害が発生したならば、総裁夫妻は教化部長と信徒たちから、「ご夫妻は、今のままで異常事態に対処できるとおっしゃったではないですか…」と言われて(実際にそのような度胸のある教化部長と信徒がいるのかどうか知らないが…)、そのときに総裁夫妻は信徒たちに答える言葉がないはずだから…である。

もちろん、もし総裁夫妻がどこかで「切迫する大規模地震」や、「エボラ出血熱など新興感染症の出現」に対処するための具体的な方法を提示しておられるのならば「生長の家classics」は総裁夫妻に調査不足を詫びる。しかし現状では、総裁夫妻の主張は(異常事態条項に関して)日本共産党の主張とまったく同じであると断言せざるをえない。

…ということで、ようやく解釈学的に雅宣氏夫妻を夫妻以上に理解することができる段階に到達した。その結論的論評は、以上の内容から次のような内容にならざるをえないであろう。

前々回と前回に続いて今回も信者に非科学的かつ無責任な論理を展開した雅宣氏夫妻は、やはり、自分の本心を隠して信者たちを言いくるめ、さらに詭弁的な物言いを行ってでも信者を自分の本心に従わせようとするような、内心では信者を見下している人なのかもしれない。ひょっとすると二人は、自分たちが信者を軽く扱い、心の奥底では○○にしていて、しかも日本共産党とよく似た主張を行っている…と、第三者に思われかねない言動をとっていることに自分で気付いていないのかもしれない…。

しかしこの結論的論評は速断することなく、本当に間違いがないのかを確認しなければならない。特に、宗教家を自称する雅宣氏夫妻が、唯物論的宗教批判を思想の根底にもつ日本共産党と、異常事態条項だけでなく自衛隊や憲法九条に関しても極めてよく似た主張を行っている…という事実は、誰にも奇異の感を与える不思議な事実であろう。

それでは、その不思議な事実は偶然に発生したものであるのだろうか、それとも雅宣氏の思想の内部に日本共産党あるいはフランクフルト学派などの新左翼思想に共鳴する何かがある結果であるのだろうか、あるいは全く別の原因に由来するものであるのだろうか…。実は、「生長の家classics」は、全く別の原因に由来していると考えているのだが、それはともかく、次回からは、そのあたりに焦点を絞って、井下・雅宣氏「本文書」(特に「人間神の子信仰」と左翼的思想との関係)に解釈学的論理分析を施していくこととする。


(第5回につづく)



「6月度のテーマ文と解説文」の詭弁的な論理構造。その4。 (14906)
日時:2023年11月19日 (日) 13時21分
名前:生長の家classics

谷口雅宣氏と純子氏は、「形而上の概念」と「形而下の概念」を同一次元で直結するという非科学的で致命的な誤りを犯している。

今回は井下・雅宣氏「本文書」のなかの「宗教と政治」に言及している文言に論理分析を行い、それによって、

「本文書」が「6月度詭弁構造」のなかの

(3)「形而上の論理」と「形而下の論理」を混同するという重大な非科学的誤謬を犯して、
(4)最後に自分の本心(国政選挙で与党とその候補者を支持しない)を明示して、なかば命令するように自分の本心を相手に勧める

という詭弁(というよりも、もはや無知)を語っている事実を指摘する。

これによって「6月度のテーマ」が終了。
次回からは「7月度のテーマ」に入る。

…ということで、

最初から一般論になるが、日本人の宗教に関する態度のなかで最も多い態度は、「宗教を批判はしないが、特に信じることもない」という態度であろう。このタイプの人たちをここでは「一般人」と呼ぶ。多くの「一般人」は、ご近所に何かの宗教を信じている人がいたら、その人とは出会ったときに挨拶をかわすぐらいにしておいて、なるべく深い付き合いはしない…という人たちであろう。

それでは、なぜ一般人が宗教信者と距離をおくのであろうか…。その理由は多々あるだろう。だが、その理由の一つに、「宗教家や宗教信者のなかには、時々あぶないこと(非科学的なこと)を言う者がいるから…」という危惧もふくまれるはずである。

一般人がこのような危惧の念を抱くのは当然である。「生長の家classics」は谷口雅春先生の教えに感謝する者であるが(いや。未熟者だから、どこまで体得しているか怪しい者にすぎないが)、一般人がこのような危惧の念を抱くのは当然だと考える。

さらにまた、もし宗教家や宗教信者が自分の信仰の「科学性」を意識しないようになったならば、それはその人の信仰や悟りが高慢になった証拠である…とも考える(だから谷口雅春先生は常に体験談を重視された。重視された理由には、体験談が一般人の信仰や悟りを深化させてくれることも勿論あるが、体験談が生長の家の教えの科学性を実証する…という理由もあったはずである)。 

その意味で、井下・雅宜氏の「本文書」も科学的な吟味のふるいにかけなければならない。つまり、「本文書」が非科学的な論の展開を行っていないかどうか…これに関する科学的な論理分析を行わなければならないのである。この論理分析は、当然のことだが、一般人の発想に立った考え方で行われなければならない。まちがえても、「生長の家ではこれが正しいことになっているのだ」とか、「雅宜先生がおっしゃったから正しいのだ…」などと、自分勝手な前提をもうけた論理分析であってはならない。

…ということで、井下・雅宜氏「本文書」く2023年6月度>のなかの、「宗教と政治」に関する文言を次に引用する。

===================================

(4) 「人間・神の子」の教えは基本的人権が尊重されるべき根拠

5ページで述べたように、立憲主義の役割は、基本的人権を保障することにあります。基本的人権とは、人が生まれながらにして持っている権利と自由のことです。この権利と自由は、どんな人でも持っている、決して侵害してはならない基本的価値です。
人間に価値を認める考え方は、宗教にも見られます。
(中略)←この「中略」は井下氏が記入した二文字

このように宗教は、人間にはもともと神や仏と同じ貴い性質が宿っていると説きます。つまり、宗教が説く人間の価値は“どんな人でも生まれながらに持っている”“神や仏の本質を宿している=侵すことができない”という点で基本的人権と共通しており、基本的人権が尊重されるべき根拠だと考えることができます。

<“人間・神の子”の教えと基本的人権>
「人間は神の無限の表現として一人ひとりがかけがえのない絶対価値を持つ」と考える生長の家の“人間・神の子”の教えも、基本的人権が尊重されるべき重要な根拠となります。その基本的人権を保障するのは、立憲主義ですから「“人間・神の子”は立憲主義の基礎」だと言うことができるのです。基本的人権の尊重は、1948年に国連で採択された世界人権宣言によって世界共通の理念となっています。つまり、“人間・神の子”の教えは、人類共通の理念を宗教的に基礎づけていると言えるのです。
(井下・雅宣氏「本文書」4頁)


さて、さっそくだが、今回の表題となっている冒頭の一文を分析する(今回は、冒頭一文の分析だけで全文言の論理分析が完了する。それに疑問や不満をお感じの人には自分でお考えになるようお願いしておく)。

冒頭の一文は、

(4) 「人間・神の子」の教えは基本的人権が尊重されるべき根拠

であった。

まず、結論から言うと、この一文は、「宗教的世界の言葉(形而上概念)」と、「俗人的世界の言葉(形而下概念)」とを同一次元で対等に扱う…という非科学的な論理構造になっている。

本来、「形而上の概念」と「形而下の概念」は、この一文のように直接接続することが絶対に(、、、)できない隔絶した関係なのである(たとえば、聖経「甘露の法雨」の冒頭の聖句、「創造の神は五感を超越している(、、、、、、)。六感も超越している(、、、、、、)…」をご想起ねがいたい。「神の子」も同じである)。

それにもかかわらず、この一文は、「形而上の概念(人間神の子)」と、「形而下の概念(基本的人権うんぬん)」を直接接続している。このように両者を直接接続して自己主張を行うと、最後には必ずその自己主張が自分を否定する結論を発生させるのである。

…と言ってもわかりにくいかもしれない。また、「甘露の法雨」の聖句を誤解していただいては困る。よって次に、一般人の論理と主張に基いて、この一文の論理構造を分析する。

(4) 「人間・神の子」の教えは…。
これは素晴らしい。
人間は神の子である。人間はみな神の子だから、
 他の人を苦しめず、
 他の人から苦しめられることもなく、
 この国は神の子ばかりだから、この国は「神の国」である。
 しかも必要な物と健康と自由と調和は、親である神様からいただいている。
これは素晴らしい。
この教えこそが人間解放の真理である
…という一般人の理解と喜びを踏まえておいて…

(4) 「人間・神の子」の教えは基本的人権が尊重されるべき根拠(である)
(A) これはおかしい。
上にあるaの理由で、権力者も神の子である。神の子が国民を苦しめるはずがない。聖経「甘露の法雨」の「人間」の項には、「神は愛なるがゆえに人間もまた愛なるなり。…まことの人間は愛なるがゆえに…罪を犯すことあたわず」と書いてあるではないか。 

だから権力者が「基本的人権」を尊重しようが尊重するまいが、神の子(権力者)が国民を苦しめるはずがない。それなのに、「基本的人権が尊重されなければ大変なことになる…」と言い、あたかも「権力者は神の子でない」と信者に思わせるようなことばかりを語っている井下・雅宜氏は、本当は「人間神の子」を信じていないのだ。

(B) やはりおかしい。
上にあるbの理由で、神の子である国民が、権力者)から苦しめられることはない。それなのに井下・雅宣氏「本文書」は、もし緊急事態条項が憲法に記入されたならば国民が「激しい拷問のため獄中で死亡し…獄中で発狂」(6頁)するようなことになるぞ…と、信者を脅すようなことばかりを語っている。

しかし『生命の實相』の「道場篇」には、「人は自分が主人公なのですから、何者にも支配せられるものではない」(頭注篇第34巻。新編第54巻)と書いてあるのだ。それにもかかわらず、人間が政治に縛られて苦しめられるようなことばかりを言って信者を脅している井下・雅宣氏は、自分の政治道楽(与党に投票しない)を信者に洗脳して実行させるために「人間神の子」という言葉を利用しているにすぎない。

(C) 何度考えてもおかしい。
上にあるcの理由で、この国は「神の国」だから、「人権」とか「基本的人権」などという言葉があるはずがない。そもそも「人権」とは、「これは俺の権利だ」「いや。それは私の権利だ」などという「奪い合い」の主張である。そのような「奪い合い」や「権利の主張」は「神の国」に必要ない。必要がないから「神の国」にあるはずない。

それなのに井下氏と雅宣氏は、「緊急事態条項は…立憲主義そのものを崩壊させてしまう(から)危険…」(5頁)と言ったり、あるいは、「人間神の子の教えは基本的人権が尊重されるべき根拠」などと言ったりして、「立憲主義」や「基本的人権」がなければ「神の国」が出現しないようなことを言っている。

しかし聖経「甘露の法雨」の「人間」の項では天の使いが、「神の国は汝らの内にあり…汝らの内にのみ神の国はあるなり。…物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして、永遠に神の国を建つる事あたわず」と断言しているではないか。神の国は今ここにある。自分の内にすでにある。心の反映にすぎない物質や法制度によって神の国が現れるのではない。これが生長の家の本当の教えである。

それにもかかわらず、生長の家の信者にむかって、「物質や法制度を改革しなければ神の国が現れない。『神の国』が『閻魔の国』になってしまうぞ~」と、脅すようなことを何度も言っている井下・雅宜の両氏は、『生命の實相』や「甘露の法雨」を本気で拝読したことがないのだ。もちろん、「人間神の子」さらに「この世は神の国」という谷口雅春先生の深遠な教えがわかっていない。信じてもいない。両氏は自分の政治道楽を信者に実行させるために、雅春先生の教えを信じているふりをして利用しているにすぎない。

…ということで終わることができれば良いのだが、まだ終わることはできない。

次のXYZも「生長の家classics」がふざけて言っているのではない。ABCと同様に合理的な論理展開を示しているだけである。

(X) 井下・雅宣氏は正しい。
「生長の家classics」がまちがっている。「生長の家classics」が何といおうと、世界中の先進国はみな「基本的人権」を尊重しているではないか。だから「基本的人権を尊重しよう」と呼びかけている井下・雅宣氏は正しい。それでは、なぜ先進国が「基本的人権」を尊重しているのか…。それは、世界中のどの国でも国民が油断すると権力者が「基本的人権」を抑圧して、国民を苦しめるからである。この事実を正確に認識している井下・雅宣氏は正しい。これが合理的結論というものである。

だから井下・雅宣氏はまちがっていない。人間は神様ではないのだから、ときには悪い権力者を生み出すこともある…。この事実は、「生長の家classics」がうるさく言う「科学的な認識と論理展開」による正確な結論である。井下・雅宣氏は決してまちがっていない。間違っているのは「人間神の子」である。

(Y) やはり井下・雅宣氏が正しい。
そもそも「科学的…」とか「合理的…」とか偉そうに言っている「生長の家classics」のほうが非科学的である。「生長の家classics」よ。今回のテキストに指定されている『憲法を知ろう』(谷口純子監修)を拝読せよ。この本が科学的に説明しているではないか。過去の日本の政府は緊急事態条項(緊急勅令)を利用して国民を苦しめた(38頁)。これは事実である。実際に、1928(昭和3年)に田中義一内閣が「治安維持法」を改悪しようとした。しかし議会に反対されて改悪できなかった。それで田中義一内閣は緊急勅令(緊急事態条項)を発動して、強引に「治安維持法」を改悪したのだ。

谷口純子先生が『憲法を知ろう』のなかで正確に指摘しておられるように、「治安維持法」はそのあとも改悪がくりかえされた。その結果、ついに宗教団体「大本」の幹部16人が激しい拷問のために獄中で死亡した。教祖の後継者と目されていた出口日出麿は獄中で発狂した…。さらにそのあとも日本の権力者は「治安維持法」を武器にして、日本の学問・思想・言論の自由などを厳しく制限した(井下・雅宣氏「本文書」6頁~7頁)。以上の事実はすべて間違いのない科学的事実であろう。

「生長の家classics」よ。よく聞け。谷口雅宣・純子両先生が、このような科学的事実をふまえた解説をおこない、そのうえで危険な権力者の発生を警戒して「緊急事態条項」に反対しておられるのは当然である。それなのに、この両先生をしつこく批判するお前が間違っている。両先生は正しい。しかも科学的である。間違っているのは、お前と「人間・神の子」である。賢明なる両先生は、明日になれば、「人間・神の子」の「神」の左側に「不完全な」の4文字を加えて、雅春先生よりも素晴らしい説教を行われるであろう。

(Z) 何回考えても、雅宣・純子の両先生が正しい。
どう考えても、何回考えても、谷口雅宣・純子の両先生は正しい。それに対して、「生長の家classics」が間違っている。しつこく「科学的…」を振りまわす「生長の家classics」の論理こそ非科学的な論理である。おい。「生長の家classics」。早く信仰や先入観をすてろ。ありのままの世界を見よ。今も昔もこの世界には争いが満ちているではないか。「これは俺の権利だ」「いや。それは私の権利だ」という「権利の衝突」で満ちあふれているではないか。小さくは家の中での夫と妻の争い。大きくは国家と国家の争い。

そもそも人類の歴史をふりかえると、地球上に「争い」や「権利の衝突」が存在しない時は一瞬もなかった。谷口雅春先生がご誕生になる前も、ご生存時も、ご昇天のあとも、地球上から「争い」と「権利の衝突」が完全に消えた時はなかった。小さな一件の家のなかを見ても同じである。親と争って、親を不自由な目にあわせる親不孝者がゴロゴロいる。お前は最近、急速に広がった有名な話を知らないのか。

どこかの親不孝な男が母親と意見があわなくなって母親を東京から高知県に追いやってしまった。しかしその母親は百歳の長寿をまっとうした。人徳の功徳であろう。ところが、その男は母親が危篤になったときに母のところへ見舞いに行かず、なんとその母の葬式にも出席しなかった。世間のうわさでは、その男は宗教家らしい…ということではないか…。宗教家でさえこのていたらくである。なにが「人間・神の子」だ。「生長の家classics」よ。お前はまちがっている。今の日本には「争い」と「親不孝」がたえない。これがお前のいう「科学的・合理的な真実」だ。

このような日本の国を平和と親孝行の国にするために雅宣・純子両先生が、「人間神の子の教えは基本的人権が尊重されるべき根拠」を宣言なさった。この大宣言は正しい。考えてもみよ。この大宣言は科学的な論理構造で出来上がっている。「生長の家classics」がしつこく言う「科学的で合理的な論理展開」で構築されているのだ。「生長の家classics」がいかように「科学的…」「合理的…」を振りまわそうが、「人間神の子の教えは基本的人権が尊重されるべき根拠」は、絶対に正しい。「神」の一文字を「罪」に置き換えさえすれば…。偉大なる両先生は、明日から「人間・罪の子」をお説きになるであろう。

…以上は、「生長の家classics」がふざけて言ったのではない。

すでに本記事の結論として説明したように、

「形而上の概念(人間神の子)」と、「形而下の概念(緊急事態条項や基本的人権がどうたらこうたら)」は、直接接続することが絶対に(、、、)できない隔絶した関係であり、

まんいち「形而上の概念」と「形而下の概念」を直接接続して自己主張を行ったならば、必ずその自己主張が自分を否定する結論を発生させるのである。

このようなことは、少し思想や宗教を考えたことのある者にとって「常識」である(宗教や哲学を考えたことのある人には、カントのいわゆる「理性批判」やアンチノミーを想起されたい)。それにもかかわらず雅宣夫妻は、「形而上の概念」と「形而下の概念」を同一次元で直接接続するという非科学的で致命的な誤りを犯した。雅宣夫妻は宗教に関する「常識」さえ持っていないようである。…以上の事実から次のような結論的論評が出てくる。

宗教団体「生長の家」の頂点にいる雅宣・純子の両氏は、宗教家を自称しながら宗教に関する「常識」も思考力も持っていないと論評できる。しかし、もし両氏が「常識」や思考力を持っていて、それでもなお、「人間神の子の教えは基本的人権が尊重されるべき根拠(だ)」と信者に説教したのならば…もしそうならば…両氏は、「自分の道楽(与党に投票しない)を他人に実行させるためならば平気で科学性を棄て去り、さらに死ぬまで詭弁を語り続けるような人間類型」に属する人たちである…と、論評することができるであろう。

しかし、この結論的論評も速断することはできない。まだ「本文書」く2023年7月度>の論理分析が残っている。ひょっとすると、7月度の論理分析を行った結果、これまでの本試論の結論的論評をすべて否定するような意外な結論が飛びだしてくるかもしれないのである。





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