島病院 と淸(せい)病院 ー 爆心地となつた『生命の實相』御文中の二つの病院 (14831) |
- 日時:2023年08月03日 (木) 18時58分
名前:立葵
合掌 昭和二十年八月に廣島、長崎に原子爆彈が投下されましてより七十八年を迎へるにあたり、この災禍に遭はれて昇天なされました數知れぬみたまに對し奉り謹んで哀悼の意を捧げまつります。
米軍による原爆投下といふ未曾有の殺戮行爲につきまして、私は無論當時を直接知る者ではありませんし、兩市に地緣のある者でもありません。更に、この慘禍の爆心地について申し譯ありませんが詳しく學んできたと申し上げることもできません。 その意味で周知の事實を今更云ふと思はれる向きもあるかもしれません。しかし、その時その場に居合はせた當事者ではない日本國民がますます壓倒的な人數となつてゆく今日、記憶の風化が指摘され始めてからも久しくなりました。
そのことに思ひを致しまして、聖典『生命の實相』の御文章中に記された、爆心地にあつた島病院と淸(せい)病院とについての拙い覺え書を記させていただきます。
(謹註:「爆心地」の語は、狹義には核爆彈の落下した嚴密な一地點といふ意味で島病院の中庭だつたとのことですが、ここでは廣義での「爆撃、爆発などの中心にあたる地域。」(『日本国語大辞典』)の意として、島病院の極く近くの淸(せい)病院をも同樣に記させていただきます。)
「郵便局の前」(謹註:廣島郵便局)にありました外科の島病院、その斜向かひにありました皮膚科と泌尿器科の淸(せい)病院は、共に奇しくも聖典『生命の實相』の御記述にもゆかりのある病院でした。聖典御執筆當時、後年の原爆投下といふ慘劇をどなたが豫測出來たでありませうか。
※後者の淸(せい)病院は、聖典『生命の實相』では病院の名前ではなく院長の淸 茂基(せいしげもと)醫學博士のお名前のみが紹介されてゐます。淸 茂基博士が淸病院の院長でいらしたことは、淸博士が序文を寄せられた服部仁郎先生著『結核に惱める人々へ』(昭和13年刊)に明記されてゐます。(後述)
<島病院について> 後に(狹義での)爆心地と推定された島病院は、『生命の實相』「功德篇 寶(宝)樹華果多し(ほうじゅけくゎおほし)」に於きまして、所載の體驗發表(「光を招(よ)ぶ敎育」)をされた、舊制中學校の廣島一中(廣島縣立廣島第一中學校。現在の広島県立広島国泰寺高等学校の前身)の敎師、大地(おほち)玉留さんが入院された病院として登場します。
原爆が投下された八月六日、島薫 初代院長は偶々往診のため廣島を離れていらして難を逃れられましたが、病院にいらした方々は悉くお亡くなりになりました。 廢墟となつた病院の跡地に戻られた島院長に身元の判別できた御遺體はただお一人、金齒によつて婦長さんとわかつたのみで、他の犠牲者の身元は全くわからぬ狀態であつたといふことです。 その後、島薫院長は病院を再建され、現在も代替はりを經て一醫院として診療が繼承されてゐます。
(以下引用、昭和十年代初め) 『そりや大變だぞ、盲腸かも知れない。盲腸だと危い』といふので、歸りに郵便局の前の島病院へ寄りましたら『どうしました?』『腹が痛むのです』『それぢや、盲腸です。切りませう』『併し私は何分學校の歸りで、何と返事していいか分らない。時期が時期だし、切つちや困る」と云はうかと思つた。けれ共『よし、切りませう。盲腸位切つてもいい。物質はないんだ。何うせあつてもなくてもいいものは切つてもいいではないか』と咄嗟に思つたのであります。『直ぐやりませう』『家に何とも云つてをらん』『構はない』それから直ぐ外科手術臺に上りまして切つて貰つた。 (愛藏版『生命の實相』第18卷「功德篇」331頁、頭注版第35卷190頁)
上の描写に續いて、話者の大地さんと醫師や看護婦さんとのやりとり、隣室の男兒への心遣ひ、次々と見舞に押し掛ける生徒達への慈しみ等々、樣々な逸話が繰りひろげられます。 その樣子に隣室の子供の入院患者の母親が「廣島一中の生徒さん達はよく出來たものですねえ。」と褒める言葉もありました。
その廣島一中も爆心地から至近に位置してをり、昭和二十年に、體驗談の當時の生徒さん達の後輩にあたる多くの在校生と敎職員とが被爆死を遂げられました。 「8月6日 原爆被災,校舎壊滅し,校長他職員15名,生徒366名被爆死。」(広島県立広島国泰寺高等学校の公式サイトより) 大變痛ましい限りです。
再拜
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