《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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うつくしき。わが子やいづこ。…君のみもとに。いさみたちて。わかれゆきにけり 。ー 「神示訴訟」で眞に護らむとするものとは? (14785)
日時:2023年06月01日 (木) 18時43分
名前:立葵

谷口雅春先生三十八年祭を前に謹みて申し上げます。

合掌
 先日、東京地方裁判所に於て現在の生長の家敎團を被告とする『“新しい文明”を築こう』下卷の出版の差止め等を求める裁判で原告敗訴の判決があつたことを同敎團のニュースリリースによつて知りました。

 そして、控訴審での審理を待つことなく「東京地方裁判所で十分に審理されており、『“新しい文明”を築こう』下巻を計画通りの内容で出版することに支障は生じないものと考えて」ゐるので出版するのだと宣言(「計画通りの内容で出版させていただくことを改めて確認しましたので、生長の家信徒の皆様に謹んで報告させていただきます」)したとも受け取ることのできる文言でこの書込みは結ばれてゐます。

 勿論生長の家の御敎へを信奉する者同士の係爭はこの上なく悲しいことです。しかし私は、この裁判の今後の行方は、尊師谷口雅春先生の御昇天より三十八年に垂んとするこの時にあたつて、萬世一系の男系男子の天皇樣を戴きてあふぎまつる日本民族及び世界人類との魂の行く末にとつて重大な「たたかひ」であると確信します。

 生長の家は大調和の御敎へです。常に拜み合ひて讃歎の聲鳴りやまぬ實相圓滿の家です。しかしながら、たたかふべき時にはたたかふといふ實際行動を以てして、默つてゐないで起ち上がらざるを得なかつたこと自體を大調和でないと云つて非難することは、我が國先人が身命を賭して肉體生命を超えて家族や祖國日本を護らむと尊い一身を捧げ給うた「まこと」を眞向から否定するものであり、「大調和」の語を葵の御紋の如く掲げる執はれであり、詭辯であり、思考停止でもあると考へます。

 今、訴訟といふ形に現れてゐる現象世界の殘念な出來事は、單なるいさかひといふ意味での「爭ひ」ではなく、目に見えない大切なものを護らむがための「たたかひ」であると私は解釋してをります。

 この裁判を、恰も原告の私利私慾や團體の私物化等によつて金錢を目的とした狂氣の裁判だといふが如き圖式(といふ本來存在しない闇)を創り上げて問題の本質を原告の個人的資質や人格等の瑕疵へと矮小化する言語空間を斷乎として拒否いたします。

 この裁判の提訴内容は確かに敎團ニュースリリースに云ふ通り二つの神示「報恩行に就ての神示(自他一體の神示)」及び「久遠天上理想國實現の神示(引用者謹註・別題「『大生長の家』に就ての神示」)の無斷掲載の計畫に對する正當な著作權者からの異議申立であつたと思ひます。

 しかしそれは決して單なる金錢に象徴される利權の爲の訴訟である筈はありません。聖典『生命の實相』に掲載されてゐるこの二つの神示の著作權を明らめることを通して、この二篇の神示の他にも現敎團に著作權のあるが爲に訴状に書くことが出來ない六篇の神示を加へた計八篇の神示が『“新しい文明”を築こう』下巻に掲載されて敎團の歷史觀を遺憾なく盛り込んだ「解説」がなされ、それが今の生長の家の信徒の「必携の書」になることを斷乎阻止せんとして、容易ならざるたたかひに挑んだものと思つてをります。
 換言すれば、尊師に天降つて尊師の御手をしてこれらの神示を書かしめた「神」樣の御心を踏み躙る暴擧をこそ阻止せんとして提訴された案件であると思ふのです。

 この書籍の上卷、谷口雅宣監修『“新しい文明”を築こう 上巻 基礎篇「運動の基礎」』を購入して謹んで讀ませていただきました。そして卷頭の「監修にあたって」にある、収錄した神示の選定にあたつての説明と、「下巻(歴史・資料篇)運動の軌跡 ― 宗教と戦争を中心に」の内容説明に慄然とするばかりでした。

曰く、
「神示は教えの基本となる二十五を入れ、日本の戦争に関する記述が多い八つの神示は、少し性格が異なるので下巻に回し、そこで宗教と戦争の問題を扱うことにした。」(3頁)

「下巻はまだ細部が定まっていないが、生長の家が戦争と平和の問題をどう捉えてきたかを描くために、日本の戦争について示された神示とその解説を収録する。ここでは、戦争の評価をめぐる神示の内容の変遷などを振り返り、創始者、谷口雅春先生の時代の運動から、今日の運動にいたる変化がなぜ起こっているかを解説する予定である。そのため、信仰によって戦争ではなく、世界に平和をもたらすことの意義と重要性を訴えた文章を収録することにしている。」(5頁)

引用者謹註:上卷に収錄せず、下卷に収錄豫定といふ八篇の神示
  報恩行に就ての神示(自他一體の神示)
  久遠天上理想國實現の神示(引用者謹註・別題「大生長の家」に就ての神示)
  實相金剛身の神示
  梅の花の神示
  終戰後の神示
  日本の實相顯現の神示
  君民同治の神示
  大和の國の神示

 これらの八篇の神示こそが、尊師谷口雅春先生が御生涯を通して一貫してお説き下さつた、神話の御時より續く永遠の天皇國日本の「國のいのち」、そしてその神の國の日本に生きる神の子たるがゆゑに尊い「人のいのち」とを言の葉に書きとどめられた核心とも申し上げるべき大切な神示であります。
 それに對して、この御敎へを特殊な時代の產物に過ぎないとして一蹴し、聖戰といふ言葉を否定し去つて大東亞戰爭を侵掠戰爭であつたと主張するのが現生長の家総裁です。

 その唯物的な觀方しか出來ない人物にかかれば、心の眼や靈眼、靈耳によつて觀ずることに努めねばならぬ務めをも知らずに表面の言葉尻をとらへた神示解説は、その歪んだ持論を増强する好餌でしかありません。

 その深い闇(として現れた現象)を眞理の光で照破する努力は一朝一夕には報いられないとの感は拭へません。しかし、みくにを思ひたふといみいのちを捧げた數知れぬ人々の「まこと」を穢すことがゆめあつてはなりません。
 その思ひを、一曲の唱歌に托して紹介させていただきます。
  再拜


うつくしき
  稻垣千頴(いながきちかい)作詞
  スコットランド民謡(「スコットランドの釣鐘草“The Blue Bells of Scotland”」)

一、うつくしき。わが子やいづこ。
  うつくしき。わがかみの子は。
  ゆみとりて。君のみさきに。
  いさみたちて。わかれゆきにけり。

二、うつくしき。わがこやいづこ。
  うつくしき。わがなかのこは。
  太刀帶(たちはき)て。君のみもとに。
  いさみたちて。わかれゆきにけり。

三、うつくしき。わがこやいづこ。
  うつくしき。わがすゑのこは。
  ほことりて。きみのみあとに。
  いさみたちて。わかれゆきにけり。

『小學唱歌集 初編』明治十四年、文部省
文部省音樂取調掛 編、 国立国会図書館デジタルコレクションインターネット公開
https://dl.ndl.go.jp/pid/992051/1/18
(18コマ目「うつくしき」)

 この唱歌は、明治十四年に前年に設置された文部省音樂取調掛が發行した『小學唱歌集』初編に掲載されました。
 原曲のスコットランド民謡「スコットランドの釣鐘草“The Blue Bells of Scotland”」は祖國スコットランドを護るために斃れたかもしれない行方知れずの戀人(恋人)はどこへ行つたのかと唄ふ切ない歌詞です。この曲を日本の小學唱歌として紹介するにあたり、大切な分身に思ひを寄せた歌である點は共通してゐますが、原曲の戀人から、三人のみくにに殉じたわが子達を思ふ親の言の葉となりました。まだ日淸・日露の戰役も始まる以前の近代國家日本の黎明期にあたる時期であらうと思はれます。
 その悲痛な、しかし肉體生命を超えて大いなるものに一身を捧げたわが子らへの思ひは、作詞者によつて漢字は僅かで平假名の多い言の葉の響きに遺憾なく詠まれてゐるやうに思ひます。三番では、一切の漢字もなくなつて平假名のみになりました。文字を超えた言靈を感じます。

 文語の「うつくしき」の終止形「うつくし」は、いとしい、可愛いといふ語義だと謹解いたします。現代で云ふ「美しい」は寧ろ「うるはし」にあたる場合が多いでせう。
 以下の歌唱のリンクでは、原詞の平假名から漢字へと改めた部分を増やして理解の扶けとなつてゐる反面、「美しき」と漢字で書かれてゐるのでともすると現代語の「美しい」を聯想してしまひさうな點と、三番の「ほことりて」に「を」を補つて「鉾を取りて」となつてゐる點とが個人的には氣になりますが、素晴しい御演奏だと敬服いたします。

(御參考①)「うつくしき」歌唱へのリンク(字幕では「美しき」)
https://m.youtube.com/watch?v=8mWsAO37ftY

(御參考②)スコットランド民謡(「スコットランドの釣鐘草“The Blue Bells of Scotland”」)の原曲の歌詞や邦譯詞と解説へのリンク
https://www.worldfolksong.com/songbook/scotland/blue-bell.html

「安全地帯」は何処にあり? (14788)
日時:2023年06月04日 (日) 08時52分
名前:立葵様フアンの一人


合掌

現在、生長の家関連の掲示板、ブログでは、立葵様への総攻撃。

はたしてこれが、生長の家の御教を学んだ人達が行う所業なのでしょうか?

寄ってたかって袋叩きの様相に、大調和な精神は、何処にありや?

大調和の神示には、「省みて和解せよ」との言葉あり。

他人に、大調和の精神を説教する前に、自分の心を振り返ってみるのが、大調和の基と教わらなかったのでしょうか?

あるブログでは、立葵様が書いてもいない事を自分の思い込みで延々と書き募り、もっと勉強しろと言われているが、どれだけ勉強すれば、発言していいのでしょうか?

それこそ、「言論封殺」そのものではないか?

立葵様を批判する方々は、果たして「眞に護らむとするものとは?」との「眞に」との真意を汲み取るべきではないか?

ここ最近の生長の家関連の掲示板、ブログを見ていて、悲しくなり、あまりの酷さに一言書かせていただきました。

再拝



「大調和」の教えを楯に、他人に説教するのは誤用ではありませんか? (14792)
日時:2023年06月06日 (火) 09時12分
名前:立葵様のファンの一人

合掌

 “「生長の家」は「大調和」の教えである”とは、誠にその通りです。しかし、使い方を誤れば自分をも傷つけます。

 「真理」は諸刃の剣であり、相手が誤っていれば相手を傷つけるが、自分が誤っていれば自分が傷つきます。真理の誤用には充分、気を付けたいものです。釈迦に説法になっていることと思っています。今さら、こんな分かりきった事を書く必要も無いのでしょうが、頭で分かっているだけで、自分で実行出来ない事は他人にも言わない事です。

 「大調和」の教えを他人に説教する前に、まずは自分に「大調和」の教えに反する思いや行いがなかったかを内省すべきではないでしょうか。

 それとも自分は絶対に間違っていない。私こそ絶対だ、自分こそ正義だというのでしょうか?

 「大調和」の教えを相手に説教する道具として使うのは、御教えの誤用と思いますが、如何でしょうか。

 何故、谷口雅春先生が単なる「調和」という言葉の前に「大」という言葉をつけられたかという意味を考えられた事がありまずか?

 今まで投稿された記事の中に、他人を批(う)つ言葉はありませんでしたか?事実確認せずに自分の思い込みで相手に不快な思いをさせたのではないかと考えた事はありませんか?

 世阿弥は「離見の離」を説き、自分の立場から離れ、観客の立場から自分の姿を見ることを説きました。

 夏目漱石が晩年の理想とした心境で「則天去私」を説き、天に則り、私心を捨てる境地を説かれた事は、ご承知の通りです。

 谷口雅春先生の大調和の御教も、同じだと思います。大調和の神示の「省みて和解せよ」との御教えも、単なる「調和」から「大調和」へ向かう道は、小さな我執(私心)を捨てて神の視点に立っての自己内省からはじまると私は思います。

 真理によって人を審(さば)いてはならない。「汝は真理にそむいている」と人に言ってはならない。と私は谷口雅春先生の聖典から、練成会から、また自身の実体験で学びました。

 私も真理の誤用には充分、気を付けたいと思います。


再拝


立葵様へ

この投稿がお邪魔なら言ってください。削除します。

礼拝




おそるおそるうかがいます。 (14796)
日時:2023年06月06日 (火) 21時24分
名前:通行人

「立葵様のファンの一人」さま

上の14792の投稿についてですが、最初のところで

   >私も「何度でもいう」事にします。

と、おっしゃっているのですが、立葵様は「何度でもいう」とはまったく言っておられないような…。



また、「立葵様のファンの一人」さまは14788では立葵様に同情しているのに、14792では激しく立葵様を非難していらっしゃるようで…。

なにがどうなっているのか、さっぱりわけがわからないので、私のような者にもわかるように書いて下さるとありがたいのですが…。



ご指摘ありがとうございます (14798)
日時:2023年06月06日 (火) 22時50分
名前:立葵様のファンの一人

通行人様へ

合掌

御指摘ありがとうございます。

大変失礼しました。

分かりづらい投稿で、申し訳ありません。

「何度でもいう」以下の言葉は、立葵様への言葉ではありません。

立葵様の投稿を批判されておられる投稿に対しての言葉です。

立葵様を批判する意図は、全くありません。削除訂正させていただきます。

どうやら私だけが熱くなってしまったようです。

訂正しお詫び申し上げます。
申し訳ありませんでした。

これ以上は投稿は控えます。

再拝



斷想 (14799)
日時:2023年06月07日 (水) 05時31分
名前:立葵

(再掲)
主を誤るものは弟子であり、敎祖を誤るものは却つて信者である。(愛藏版第18卷90頁)
主を誤るものは弟子であり、教祖を誤るものはかえって信者である。(頭注版第35巻85頁)
主を誤るものは弟子であり、教祖を誤るものは却って信者である。(新編第56巻126頁)
  ―『生命の實相』下化衆生篇 第三章「世に勝つ原理」より ―

合掌
 このたび、生長の家關係の他のネット空間では、本投稿も原因の一つに加はり(自意識過剰?)阪田先生の御事や、發信者情報開示請求の事案があるらしいとのお話で大變多くの御發言が飛び交ふ事態となり、それも日に日にエスカレートする樣相を呈してゐます。
 それについての率直な御意見を返信としてここにお書き下さいました投稿者樣、ありがたうございました。

 以下に、他のネット空間での御反響の中で、私はどう思ふのかをお答へするやうにと求められてゐる事柄について申し上げます。

 大變申し譯ございませんが、本スレッドに於て私は阪田先生への提訴について何も申し上げてをりません。たとひそれぞれの裁判のそれぞれの原告の一部が生長の家社會事業團であるといふ共通事項があるとしても、私は宗敎法人生長の家との間で爭はれてゐる『“新しい文明”を築こう』下卷の出版の差止め等を求める裁判についてのみ申し上げました。

 よつて、阪田先生は個人でいらして原告は團體であるのにたたかひをしてよいかどうかとか、阪田先生の御高説をどう思ふかなど、本投稿とは別問題であり、私などにはそのやうな畏れ多い命題をここで(インターネット空間で)あげつらふやうな資格も資質もありませんのでここで申し上げる意思も全く持ち合せてをりません。

 發信者情報開示請求の件をどう思ふかについても同樣です。本スレッドでは私はそのことについての賛否またはどちらとも云へない等の見解を申し上げてをりません。
 全くの素人の分際でインターネット空間で下手な妄言を曝す意思はございません。

 本投稿をさせていただいたきつかけは、別スレッドの「靖國安寧」樣が『“新しい文明”を築こう』下卷の出版の一審判決について「全面勝訴!」と、生長の家敎團がニュースリリースで使用された表現(教團の立場を顯はにした言ひ廻し)をそのまま紹介なさつたことでした。

 一審が被告の勝訴、原告の敗訴であつたことは紛れもない事實です。それ自體は否定のしやうがありませんので否定いたしません。
 しかし、下卷の内容が豫告の通りであるとしましたならば、それが出版されることによつて「靖國」の英靈は「安寧」を妨げられて、祀られてゐるみたまの尊嚴は、吾々が靈界からの祖國日本への御守護を忝くも被る(かがふる)ことが出來なくなるほど無慘にも貶められることになります。
 みたまをお祀り申し上げる者の心にみたまへの畏怖が間違つた敎義によつて薄められて、みたまとの波長が合はなくなることが豫想されるからです。

 本スレッドの起草は、そのことに對する耐へがたき思ひを抱いたことに起因します。

『“新しい文明”を築こう』は、これまで生長の家信徒必携の書として多くの信徒の座右にあつて讀み繼がれてきた『聖光錄』に代はる「生長の家会員必携」として編まれたとのことです。既に上卷と中卷とが頒布されてゐます。
 すると、現在はもとより今後初めて生長の家といふ名の付くこの敎團に緣あつて次世代を擔ふ會員となられる方は、生長の家の歷史觀とは日本が侵掠戰爭をしたといふ占領下の呪縛そのままであるとの自覺もなく、それを正しいと信じ込まされたまま疑問もなく受け容れることが當然豫想されます。

 その結果、生長の家の御敎へをお創め下さつた尊師谷口雅春先生は間違つたことをお説きになつたのだといふことが、どんなに體裁よく言ひ繕つても刷り込まれることになります。
 これは靖國の英靈となられた無數の先人と尊師谷口雅春先生、雅春先生の薫陶を受けてこられた敎への先達等々の尊顔に泥を塗る暴擧の他の何物でもありません。

(以下引用)
上卷「監修にあたって」より
>本書三巻の編集に際しては、これら(引用者註:『聖光錄』『新編 聖光録』)を参考にし、宗教運動として現代に不可欠のものは残したが、そうでないものは歴史的に重要であっても割愛するなど、収録文章を大幅に入れ替えた。(5頁、6頁)

 尊師谷口雅春先生の御敎への全貌を虛心に學ばうとする志を持たない現敎團の幹部先生のお眼鏡に適つた「現代に不可欠のもの」のみが殘されて「そうでないもの」と斷罪された谷口雅春先生の御敎へは「歴史的に重要であっても割愛」された必携書が出版されること、とりわけ下卷に収錄するといふ八篇の神示の取扱ひを憂慮せずにはをれない聲なき聲は澤山あることと信じます。

 そのやうな事態が現實となりました暁には、そのやうな歪んだ歷史の斷罪をされて「この人に申し譯ない」といふ、自分の心の中に生きてゐる今は亡き方々に顔向け出來ません。
 人生の現役世代たる私達の思想的混迷は益々加速するばかりです。そして後世に誇りある日本民族の心を歪みなく傳へることがより困難に陷れられることが懸念されます。

 この書籍の出版は聖なる谷口雅春先生の御敎へを護り傳へる聖なる道に立ちはだかる大問題を孕んでゐることを非常に憂ふる一人です。

  再拜



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