《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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新編『生命の實相』の復權を希ふ思ひを整理する機會を與へていただき感謝いたします(其の一) (14665)
日時:2023年03月15日 (水) 07時18分
名前:立葵

合掌

はじめに
 新編『生命の實相』が不幸にして貼られたレッテルを象徴する古典の言葉として、道元禪師の御言葉だと云ふこととしての
「發心正シカラザレバ萬行空シク施ス」があります。
 云はんとしてゐることは、第一卷の出發(發心)が正しくないのでその後の全ての編纂出版の營爲(萬行)は無駄であるといふところでせうか。

 私には、「發心」についての各自のお考へ以前に、この一文が新編否定の恰好のスローガンであるかの如く獨り歩きしてゐることに忸怩たる思ひがあります。
 何故なら、この言葉は道元禪師の御言葉ではないからです。『學道用心集』第五の冒頭
「第五 參禪學道可求正師事」(第五 參禪學道ハ正師ヲ求ム可キ事)の見出しを受けて「右古人曰」として「古人」の言葉を引用してゐるのであり、道元禪師御自身の御言葉ではないことが原典を讀めばわかります。

「第五 參禪學道可求正師事」(第五 參禪學道ハ正師ヲ求ム可キ事)
「右古人曰發心不正萬行空施」(右古人ノ曰ク發心正カラ不レハ萬行空ク施スト)
(以上二項の送り假名は以下のリンクによる)
https://dl.ndl.go.jp/pid/822900/1/1
(国立国会図書館デジタルコレクションインターネット公開 明治十年刊『學道用心集』10コマ目)

「發心」(初心の意)とは、ここでは、「正師」を求めるべきことだと説いてあります。續けてその理由がわかりやすい例を引いて説かれてゐます。
(「古人」とはどなたなのかついて、亀の子樣が道元禪師の御言葉を探求して檢證されてゐる御記述に出會つて敬服してをります。)

 つまり、道元禪師の『學道用心集』第五より傳へられてゐることは新編の篇の構成を決めることが「發心」ではなく「正師」を求めることが「發心」であるにも拘らず、この言葉によつて浩瀚な『生命の實相』を編輯出版する事業の全てを否定することには大變な違和感を持つてをります。
(念のためお斷りしておきます。「正師」とは谷口雅春先生ではないか、新編は正師に反するではないかといふ論法はお控へ願ひます。ここでは道元禪師の引用文に卽して申し上げてをります。)

 新編を論ずるのなら、まづ、この道元禪師の御著書中の「右古人曰」に始まる言葉の引用文を、途中から始めて振り翳すことを御遠慮願ひたいのです。

 さて、この後改めまして前稿に對して投げかけられた諸點について申し述べます。

  編纂者名の記載について
  第一卷について
  新編の本文の定め方(「文字の變更」と云ふ場合の根據、とりわけ「定本」意識の稀薄さ)
  等、その他

 日々のなりはひの中、本日一氣呵成には出來ませんでしたが順次申し上げて參りたいと存じます。
 續けて子記事として繫げていきたいので、それまではこのスレッドへの書込みは御遠慮賜りますやうお願ひ申し上げます。

  再拜

(其の二)聖典『生命の實相』の繼承を本氣で考へる秋(とき) (14666)
日時:2023年03月18日 (土) 18時09分
名前:立葵

合掌

 新編『生命の實相』が發刊した當時、私はその刊行をめぐつて先生方の應酬がおありでしたことも、併行してネットの世界でも物議を釀してゐたことも存じ上げませんでした。その頃の私のやうにそのやうな先入觀もなく、新裝なつた聖典を有難く買ひ求めて眞理の御言葉を拜讀する求道者は決して少くないと思ひます。
 新編が出発にあたつて相應に歡迎されずにその逆の念を常に浴びてゐると申さざるを得ない現狀は遺憾です。

 第一卷の構成(篇の順番。「章立て」とは同義とせず)をどう考へるか、それを申し上げることは蹈繪のやうです。賛否の判明する蹈繪を突き附けられたなら、それを蹈ませようとする方々のうち、我こそは本當に眞理に透徹した者だと謂ひ得る方のみがそれを要求なさつて下さいと申し上げたいです。

 第一卷をめぐつては二つの面からの御指摘があると思つてをります。
 一つには著作權の範圍の捉へ方をめぐる點。著作者人格權とその一部である同一性保持權とを侵してゐるのではないかとの御意見。
 今一つは篇の構成が敎義の根本にかかはる事柄であるといふ宗敎面からの御指摘ではないかと思ひます。

 前者につきまして適法か違法かといふことは門外漢であり觸れる資質がありません。ただ發行が實現してゐる事實があるのみです。それからそれを支持してゐる信徒や讀者の存在の重みがあるのみです。
 ならば何も云ふなと言はれるかもしれませんが、この二語(「著作者人格權」とその一部である「同一性保持權」)を目にするたびに、それを仰言るのならばといふ抑へ難い思ひがあります。

 法律の用語の多くには元々の一般語としての意味があり、他方で法律用語としての場合にはかういふ定義だといふ兩面があるやうに思ひます。その最たる例は「和解」の語ではないでせうか。
 著作者人格權及び同一性保持權といふ言葉の一般語としての意味に於て、著作者(尊師谷口雅春先生)の國語表記の面で私達は果してそれを尊重してきたか?
 先生が大切に守つて使つてこられた國語表記を私達の方から學んで先生に近づかうと努力する營みとは反對に、先生の玉稿を自分達に合はせて改變申し上げなかつたか? と問ふ思ひが募ります。
 この件につきましては項を改めて述べさせていただきたいと思ひます。

 後者の、現況の篇の構成が敎義の根本にかかはる事柄だといふ御指摘につきましては、私はまだまだ何が敎義の根本かと云へるやうな大それた發言をする言葉を持ち合せてをりません。永遠の宿題です。逃げではありません。それが云へる時が今生で來るかどうかもわかりませんが先師先達のみあとを仰ぎつつ神樣の無限の叡智を感受できますやうに日々を歩むのみです。

 敎義の根本だといふ御指摘の典據としてお示しいただいてをります二つの御文章を拜讀してをります。
谷口雅春先生 昭和33年『「眞理」別册 生死を超える道』第八章〝新たに生れる〟と云ふこと(平成12年『新版「真理」別冊 生死を超える道』第八章〝新たに生れる〟と云うこと113頁)
德久克己先生 平成元年『「心の持ち方一つ」(下)心と病気』22頁

 兩先生の御文章に説かれる御敎へ(「實相篇」の意義)に對し奉り異論を申し上げる氣持などは毛頭ございません。
 であるからこそ、ともすればその御言葉の重みに崩折れさうになる心を奮ひ起してまでも敢へて新編を擁護する一人として、多くの聲なき聲を感じつつ『生命の實相』を拜讀してそれを更に次世代に繼承してゆくべき眞理のバトンの今後を思はずにはゐられません。

 叙上の問題意識によつて追つて參りました事柄は、たとひ「總説篇」から「實相篇」へと聖典を讀み進める道程とは異なる順序であつてもやはり『生命の實相』が享受されて人々を救つてきた軌跡の一端です。これによつて御著書中の御文章や先生方の御指摘に抗辨しようと云ふものではありません。ただ、眞理の宣べ傳へられる形も必ずしも全ての人にとつて一律にどの篇からであるべきとか、どの篇であつてはならないとかいふことのない融通無礙のあり方であつたことに感歎いたします。

<「光明篇」によつて御敎へに出會ひ得ることもあつたと思はれる出版物の一端>
一、『生長の家』聖典『生命の實相』第二卷『久遠の實在』昭和8年、生長の家出版部刊
(最初の篇が「總説篇 生命に到る道」。現在の「光明篇 生命に到る道」)

一、書店版『生命の奔流』昭和10年、生命の藝術社刊
(『生命の實相』全集第二卷「光明篇・生命篇」の單行本。販賣ルートも光明思想普及會や誌友間の支部等を通さずに書店にて一般書のタイトルでの普及を圖つた書店版『生命の實相』の一册)

一、光明叢書 第二篇『生命に到る道(非常時日本に於ける神の足跡)』昭和10年、光明思想普及會發行
※五錢・十錢本「光明叢書」全十二册倂びに五錢本「生長の家叢書」全十一册についての廣告文より
「『生命の實相』を安價でもつと普及したい意味で、聖典中より約六十四頁づゝを拔萃して先生の執筆一册五錢・十錢の普及版としたのが『生長の家叢書』『光明叢書』であります。ちよつとポケツトに入れて歩いたり、手輕な贈物に便利で喜ばれてゐます。」(『生命の藝術』昭和11年6月號裏表紙)

一、携帶版叢書『日本の世界的使命:(附)讀誦用「甘露の法雨」』昭和15年、光明思想普及會
※昭和14~16年に發行された全二十册の『生命の實相』をテーマ別に再編して新たなタイトルを附して發行した菊半截判(現在の文庫本大)の叢書。携帶してどこでも聖經讀誦が出來るやうに全卷の卷末に『甘露の法雨』所収。また、贈呈用の記名欄があり。「袖珍清楚裝」の愛稱あり)
※本書は全章の目次を謹掲
はしがき/3
第一章 中心に歸一する道(萬敎歸一篇)/8
第二章 一切の宗敎を生かす『生長の家』(光明篇)/41
第三章 『生長の家』は日本精神の源泉(光明篇)/62
第四章 『生長の家』とは何であるか(光明篇)/75
第五章 『生長の家』は何を信ずるか(光明篇)/98
第六章 日本の世界的使命(神道篇)/119
(附) 讀誦用『甘露の法雨』/201


 以上、「光明篇」を機緣として眞理の言葉に出會はれた事例も想定し得る聖典の一端を擧げさせていただきました。
 旣に悟境においでの御方はともかく今日の私達は、勿論「總説篇」に續く「實相篇」或は「光明篇」についての尊師の御言葉を虛心に受け止めなければなりません。と同時に、『生命の實相』を今後に傳へる(讀み繼いでいつてもらふ)にはどうしたらよいのかといふ難題こそが第一の喫緊の課題であることを忘れてはなりません。

 そこには淺はかなる人知などでは超克する道を到底見出せない大きな壁が立ちはだかつてゐることは明白です。敗戰後八十年近くが經つて大多數の國民が戰後敎育を受けて育つた今日、『生命の實相』の不朽の眞理の御言葉でありながら本當にそのまま「嫡嫡相承」されてゆくことは至難の業であると申し上げても過言ではないと考へます。
 そのやうな狀況下で取り組まれてゐる新編のリニューアル事業には、今日出來得る最大限の繼承の形を摸索し續けてゐる軌跡が見てとれます。第一卷をめぐつての殘念な不和といふ現象が現れてゐることがやがて自消自滅して本來の光のみの大調和が顯現する日を希つてやみません。
 後日改めまして續きを申し述べさせていただきます。

再拜

(其の三)鴨綠江節(あふりょくかうぶし=おうりょっこうぶし)を知つてゐますか? (14670)
日時:2023年03月25日 (土) 08時45分
名前:立葵

<新編『生命の實相』の脚註は足し算の脚註>
谷口雅春先生御生誕130年の佳き年にあたり、先生の御文章に漲る神韻と言靈との世界に超入いたしませう

合掌
 以前にも申し上げたことがありますが、私は頭注版の編輯・出版に從事された方々に敬意を抱いてをりますし、神緣深く御敎へに結ばれて頭注版を讀み繼がれてこられた無數の方々の御足跡を仰ぎ見るばかりです。
 しかしながら、頭注版のそのままの再出版には反對です。その理由は、次世代に御敎へをつないでゆく聖典が、先の世代の方々の、御自分が親しんでこられたといふ愛着の念のあまり、時代に卽して當然行はれるべきリニューアルを拒んで負の側面をも次代に押しつける弊害を定着させてしまひかねないからです。

 リニューアルとは、ここでは單に装幀を一新する「改装」のことだけではなく、頭注版が初めて施した謂はば革命的な文字表記の變更と既に60年ほどが經過して還曆を迎へた頭注の説明文の見直しとを指してをります。

『広辞苑』を始めとする辭書類や事典類は原著者の歿後にも絶えず改訂が續けられてゐることは申すまでもありません(『広辞苑』の場合、新村出博士御昇天後久しい平成30年に第七版)。
 例へば頭注版第36巻26頁に「ジフテリア」の語注として「法定伝染病の一つ。」といふ説明がありますが、法定傳染病は「伝染病予防法」によつて定められてゐた疾患のことでしたがこの法律は平成11年に感染症法の施行によつて廢止されました。ですから今日では法定傳染病の元となる法律が存在しなくなつたため、當然注記にも改訂が必要となるかと思ひます。

 元々聖典には頭注も脚註もなかつたのだし、意味がわからなくても『生命の實相』を持つてゐるだけで救はれたり、意味のわからない幼少年に讀んで聞かせるだけで癒されたりすることも勿論あります。眞理の言葉の力、神韻の功德に只々合掌の思ひです。
 ですからいつでも誰でも杓子定規に註釋を見るべきだなどと申し上げるつもりはありません。
 ただ、ここでは註記を參照する場合について申し上げます。

 頭注も脚註も大切な本文を活かすためのあくまでも脇役ですが、後發の新編の脚註はプラスアルファの足し算の註記であると感じます。
 足し算によつて谷口雅春先生の記された一つ一つの御言葉の奥深くに内包されてゐる眞意に少しづつでも、より近づいていつて、つい讀み流してしまひさうな言葉の背景を振り返るきつかけを私は與へられます。それには二つの面があります。

 一つは、頭注版以前の時代には誰でも知つてゐたであらう言葉であつても、あまり知らないかもしれない次の世代に向けたかのやうにわざわざ註記の項目として取り上げてゐること。
(例)
 『生長の家』誌
 『生命の實相』
 誌友、誌友會
 明治天皇、明治神宮
 火鉢
 レコード
 印畫液
 活動冩眞のフイルム(大切な譬喩なるもデジタル化時代のZ世代に實感ありや?)
 女中さん
 蓄音機、サウンドボックス(聖典講義篇には眞理を感受する要としての譬喩)
 ネオンサイン(現代はLEDに移行の過渡期)
 中學校、中學生(現代の高校生前後。今の中學生よりも年上)
 一圓、百圓等々の貨幣價値(現代は約2,000倍から3,000倍に換算。それを忘れて今の感覺で讀むとありがた味が薄れる)


二つには、敗戰後には學校でほとんど敎へられなくなつた日本民族のありのままの姿
(例)
<言霊の幸(さきは)う国> 言葉に宿る霊力が栄えて幸福をもたらす国。日本の別称
(新編第47巻6頁の脚註)(頭注版第30卷5頁の頭注は「言霊」と「幸う」それぞれの單獨の意味を掲出、二つ合はせて日本の國のことだとは言及なし)

<歌を詠んで雨を降らす> 例えば『万葉集』巻十八には越中国守の大伴家持が詠んだ雨乞いの長歌と反歌、続いて雨が降った喜びの歌がある(四一二二~四一二四)
(上記に續く新編第47巻6頁の脚註)(頭注版第30卷5頁には注記無し)

<アナカシコ> あなかしこ。感動詞「あな」と形容詞「かしこし」の語幹。ああ、おそれ多い。ああ、もったいない。また、手紙の終わりに用いて相手に敬意を表す語
(新編第47巻93頁の脚註。靈感で自働書記する人が「ア」と書き「ナ」と書いたので次は「タ」と書くか、それとも「アナカシコ」か、といふ文脈) (頭注版第30巻64頁には注記無し)

<五色の酒> 比重の異なる五色のリキュールをコップに入れて五色の層を造ったカクテル。平塚らいてうが創刊した『青鞜』に記載されたため話題となった
(新編第53巻71頁の脚註) (頭注版第33巻135頁には注記無し) 
(谷口雅春先生は當時「新しい女」と呼ばれた平塚らいてうさん等の著名な女流文學者や女流歌人と交流がおありで『生命の實相』女性敎育篇等隨所で「新しい女」の語を引かれました。そのやうな時代背景のさなかに生長の家の新しい女性運動としての白鳩會と『白鳩』誌とが誕生しました。)


<鴨緑江節(おうりょっこうぶし)> 大正年間に流行した俗謡。和歌山県の熊野地方から出稼ぎに行った筏師(いかだし)が当地で歌って後に日本各地に伝わった。鴨緑江は現在の北朝鮮と中国との国境の大河で日清・日露戦争の戦場にもなった
(新編第55巻92頁の脚註) (頭注版第33巻177頁には注記無し)

 この場面は、夫婦で御敎へに救はれた兼井さん夫妻の夫人が生長の家の御敎へで光明化された工場が完成した祝賀會の宴席で「鴨綠江節(あふりょくかうぶし=おうりょっこうぶし)」の替歌を歌つて踊つたといふものです。

(以下引用)
「……先頃この工場の出来た祝賀会を催すことになり、工場の皆様に静岡県の私宅まで来て頂きました。その席上鴨緑江節に合せて歌を作りまして、一同で歌い、主人が振附をして又一同で踊ったりしたのでございます。その歌はこういうのでございます。ちょっと歌ってみます。」こういって兼井夫人は何のわだかまりもない朗かさで歌われた。その歌は次の通りであった。
「生長の家の 家族の
    あるその中で ヨイショ
いとも名高きアリャ製作部よ
    無限に 生長する チョイチョイ」
     (新編『生命の實相』第55巻91・92頁)

「鴨綠江節(あふりょくかうぶし=おうりょっこうぶし)」といふ歌を私は全く知りませんでした。今まで讀み流して特に調べたりもしませんでした。ところが上のやうな時代背景を持つた歌であり、その頃の人々の多くが知つてゐて愛唱してゐたから宴を盛り上げたであらうことをこのたび敎へられました。
 皆で樂しんだといふ替歌の元はどんな曲だらうかと調べてみますと、國立國會圖書館でも音源が聽けますし、YouTubeにも例へば次の方々による歌唱など、さまざまなものがあることがわかりました。
(敬稱略。土取利行、春日八郎、東海林太郎、日本大衆文化倉庫等)

 當時、滿洲への入口として渡し舟ならぬ渡し筏が國境の大河鴨綠江を流行歌を生むほど往來したこと、滿洲で生きたあまたの先人がいらしたこと、そこで中林政吉先生を筆頭に生長の家の御敎へも懸命の努力で大いに宣布されて谷口雅春先生も巡錫なさつたこと、戰局の惡化と共に内地で困難となつた聖典の出版の一部を擔つたこと等、さまざまなことがまた思ひ起されました。

 満洲での我が國の先人の營みを、距離をもつた上から目線で暴走と論斷する日本人もおいでのことは遺憾です。
 歷史の光と影との兩面を檢證することは大切なことです。しかし、そこに現實に生きて信仰した方々の魂を同じ日本民族の後世を托された者として寄り添つて振り返る立場があれば、たとひ至らざりし點を指摘するにしても暴走などといふ言葉で表現することはあり得ないと思ひます。

 頭注や脚註の扶けも借りて聖典を拜讀するにあたり、附隨して思ひ至つたことをも併せて述べさせていただきました。
   再拜

(其の四)頭注版は新たな版の底本にはなり得ず (14691)
日時:2023年04月10日 (月) 18時23分
名前:立葵

<本項のはじめに>
 私達信徒は「新版」や「新かな版」等の名の下に谷口雅春先生が一つとしてゆるがせにされなかつた文字表現を、それを讀みこなせない自分達のために改めさせていただいて參りました。
(新編『生命の實相』のみが漢字を入れ換へたとしてまるで改竄のやうに云はれる向きもありますが、それならば敎團が著作權を持つ夥しい聖典が谷口雅春先生の御昇天後に次々と「新版」として著者の表現文字が置き換へられてゐることは「入れ換へ」にあたらないのでせうか。)

 頭注版でも戰後に政府によつて告示された「当用漢字」や「現代かなづかい」等による縛りを超えて谷口雅春先生の使はれた文字表記を殘してゐる語もあります。
 また、新編でも「現在、代名詞、接続詞、助詞等で使用する場合、ほとんど用いられない漢字は平仮名に改めた。」(凡例より)とあります通り、戰後の表記に慣れて原典の表記では讀みづらい世代のために平假名とした語もあります。

 いづれにしましても、原典そのままの表記での再出版では讀めないといふことであれば適宜改めて出版せざるを得ないのだらうと推察します。
 その改め方は、谷口雅春先生の御存命名中のものだつたからといふ理由で頭注版を不磨の大典の如く死守することには問題があると考へます。

「当用漢字」「現代かなづかい」(當時。昭和61年に「常用漢字」「現代仮名遣い」に移行)の枠には到底收まりきれない谷口雅春先生の御文章の豐かなる表現文字を、それら官制の枠に捉はれすぎて置き換へすぎた頭注版は底本(基にする原典)にはなり得ない。

「底本」は「定本」に據ることが基本


◎新編『生命の實相』第47巻90~94頁より(頭注版第30巻62~65頁)
単に意味だけを伝達するのが文章の役目ではないのであります。
(中略)
文章は一つの美術であり、芸術であり、音楽であって、言葉の響(ひびき)だけでも完全でないのであって、目に受けとる漢字の美しさが必要であります。
(中略)
私の文章は非常に苦心して書かれたものであります。
(中略)
頭の中にある無形の文章と同じように紙の上の文章がならないから、消したり、書足(かきた)したりして色々苦労して、これならほとんどそれと等しいという処まで仕上げるのです。それも単に意味だけ頭にあるものと同じようにするのでなしに味わいや響(ひびき)が頭にあるのと同じになるように、ここは漢字にしよう、ここは仮名にしようと、色々書き直すのです。その為に私の原稿ぐらい汚い原稿はないのであります。
(中略)
内容が先に頭の中にポッカリ浮び、それをその頭に浮んだ通り文字に表現するには人間的な並々ならぬ努力が要るのでありますが、又そこに苦心惨憺たるだけ文章制作の芸術としての楽しみがあるのであります。私の文章を読んで病気が治るというのも、やはり本当に制作に苦労を重ねた一つの美術をなし、芸術をなし、音楽をなしているからであって、ヒョッコリ神様が来て病気を治してくれるというようなものではないのであります。
(以上「児童教育篇」より引用)


合掌
 新編は愛藏版を底本としてゐることが凡例に記されてゐます。
  ※底本=ある著作の編集や翻訳をするときに,拠り所として使用されるテキスト.著者の意図が最も正確に表れていると判断される本を選ぶ.編集や本文研究では,底本と表記の異なるいくつものテキストを校合して,底本に修正を加え,著者の意図した理想的なテキストを推定する.
"底本", 図書館情報学用語辞典 第5版, JapanKnowledge,

 上の引用資料中の「著者の意図した理想的なテキストを推定」するならば、著者でいらつしゃる谷口雅春先生が御生涯を通して一貫してお使ひになられた正漢字と歷史的假名遣とを變更せずに明らかな誤植等以外は原表記の通りにすべきことが當然となります。
 しかし、冒頭の繰返しになりますが、私達は自分達の讀む力に合はせて雅春先生の護られた漢字の字體と假名遣とを變更させていただいて參りました。谷口雅春先生の御著書の多くが「新版」の名の下に次々と(國語表記の面から申し上げますなら)換骨奪胎された書物に置き換はつてゐます。

 愛藏版を底本とする新編『生命の實相』も一部の例外を除いて常用漢字と「現代仮名遣い」とに改めてあります(凡例による)。
 各人の個人的な賛否は別としまして、とりわけ新しい世代に『生命の實相』を手に取つて讀んでいただくためにそのやうな方針をとられたのであらうと推察いたします。

 私見では、新編は凡例の「一部例外を除き」から更に踏み込んで、表現の自由の保障された祖國日本に於て谷口雅春先生が書かれた原書の形を可能な限り護らうとしてゐるやうに思ひます。換言しますと、頭注版で書き換へられた文字のうち、原典に戻した方が意味の傳達面でも味はひの面でもふさはしいものは原表記を復原してゐることがわかります。

 可能な限りと申しますのは、私見ですが、原書(底本)通りの復刻も普及のためには一足跳びにには難しいが(あなたはそれを買ひますか? 讀みますか?)、世間一般の多くの出版物と同列な「単に意味だけを伝達する」(前掲引用文より)單純な書き換へによつては谷口雅春先生の御文章の持つ苦心の末の美しさや響きや病をも癒す言葉の力も減衰してしまふといふ、二つの相矛盾する制約をどのやうに折合はせてゆくかの摸索が見てとれます。

「著作者人格權」といふ法令用語がありますが、いみじくも云つた「著作者の人格權」とは、少くとも御自分の御文章を「単に意味だけを伝達する」だけのものではなく「本当に制作に苦労を重ねた一つの美術をなし、芸術をなし、音楽をなしている」といふ御姿勢で綴られる人々の表現文字が安易に書き換へられないことこそが、先づその指すところであるべきはないでせうか(殘念ながらそれは法的には不問の事項であるやうですが)。

 今から六十一年前に頭注版が登場するにあたり、谷口雅春先生には「苦心惨憺」して書き上げられた文字を入れ換へられることへの如何ばかりの葛藤や悲しみがおありでしたことでせうか。
 この御無念は、頭注版出版の御決斷を以てして、單なる「愛」といふセンチメンタルな言辭で濟まされるものではないと思ひます。(無論「愛」ほど深い意味のある言葉はありませんから、「愛」=センチメンタルと一括りに申し上げるつもりはありません。ただ、淺くにも深くにも使はれる言葉ではあると痛感してをります。)

 畏れ多いことですが、以下にその若干の傍證(狀況證據)を擧げさせていただきます。

<書き換へに對する御無念の狀況證據①>
「『青年の書』「自分が書いた文章と思えません……」(『谷口雅春先生を学ぶ』誌令和5年4月号12~13頁、改行を割愛)

戦後教育をうけた世代となり、国の国語政策も軟弱化し、歴史的かな遣いは宙に浮いた。「当用漢字」「現代かなづかい」が施行され、谷口雅春師は田中忠雄編集部長に「負けました。已むを得ません」と述懐された。『青年の書』も新版発行となり、文法の活用(語幹・語尾)返上の書となった。(昭和39年6月)新版納本の翌朝、本部よりの定期便に先生のメモがあった。「『青年の書』「自分が書いた文章と思えません……」


<書き換へに對する御無念の狀況證據②>
「当用漢字」「現代かなづかい」版の廣告(広告)が正漢字・歷史的假名遣で書かれてゐた! (表記の移行した初期の人々の感覺!)

『憲法の正しい理解』の廣告(『生長の家』誌の裏表紙の例)
※本書は初めに正漢字・歷史的假名遣で昭和43年1月1日初版發行(イ、ロ、)、その直後に「新かな版」(ハ、ニ、)が發行。それぞれの廣告の例

イ、昭和43年2月號『生長の家』裏表紙廣告『憲法の正しい理解』
「現代の政治、敎育、社會面に現はれた憂ふべき現狀を見よ。その禍根は現行憲法に起因する。本書によつてその正しい理解を得られよ。」

ロ、昭和43年3月號『生長の家』裏表紙廣告『憲法の正しい理解』
「現行憲法の非眞理性を誰にもわかりやすく明らかにして、今こそ現憲法の失効を公宣せよ、と説く日本人必讀の書。」

ハ、昭和43年5月號『生長の家』裏表紙廣告『憲法の正しい理解』當用漢字 新假名版
「現代のうれふべき狀態を見よ。本書はこの遠因を明らかにして警鐘を亂打する。」

ニ、昭和43年6月號『生長の家』裏表紙廣告『憲法の正しい理解』(當用漢字・新假名版)
「今日の憂ふべき混亂を見よ 現憲法の矛盾を提示して世の良識人に問ふ救國の書。」


<書き換へに對する御無念の狀況證據③>
前項の類例:「当用漢字」「現代かなづかい」版の廣告を正漢字・歷史的假名遣で

『白鳩』誌昭和48年8月號裏表紙廣告 頭注版『生命の實相』第二十九卷女性敎育篇
「☆頭注版 當用漢字新かなづかひ 各頁に難しい熟語の詳解附」


<書き換へに對する御無念の狀況證據④>
『白鳩』誌における再三再四にわたる説明や寄稿の一部

イ、『白鳩』誌昭和39年9月號70頁
「なぜ『白鳩』誌は本漢字・歷史的假名遣ひを守つてゐるのでせうか」

ロ、『白鳩』誌昭和46年8月號80頁
「なぜ『白鳩』誌は本漢字・歷史的假名遣ひを守つてゐるのでせうか」

ハ、『白鳩』誌昭和46年12月號76頁
「本誌 假名遣ひの論」國語問題評論家 好崎安訓

ニ、『白鳩』誌昭和47年3月號58頁
「なぜ『白鳩』誌は本漢字・歷史的假名遣ひを守つてゐるのでせうか」

ホ、『白鳩』誌昭和47年6月號94頁
「國語の傳統を護る兩誌 ― 戰後の國語問題小見 ― 」瀧 嘉三郎


<書き換へに對する御無念の狀況證據⑤>
『生長の家』誌昭和47年5月號「實相研鑽會」に於ける谷口雅春先生の御言葉

『聖使命』新聞でも新假名遣ひになつてゐますし、それから『理想世界』も『ジュニア版』も新假名遣ひになつてゐる。何故あんなことになつたのであるかといふとですね。あれは方便であつて、戰後敎育を受けた靑年達は、新假名しか學ばなかつたから、歷史的假名遣ひの書物を讀むと「これは間違つてゐる」と言ふんです。
(中略)
砂糖といふものは、健康によくないけれども、甘いものが好きな人には、やつぱり砂糖で味つけて、そして食べさせてやらなければ仕方がないといふやうな立場からですね、それでああいふ『理想世界』とか『ジュニア版』とかいふやうな書物は新假名遣ひにしてあるのであります。
(中略)
新假名遣ひにすることは、私の意思ではないんですけれども、しかし新假名にしないと、どうしても讀めないといふ人は、つまり新假名に飜譯したといふやうなものであります。


次項に頭注版の書き換へを著者の御立場で考へ申し上げた時に違和感のある例を掲げさせていただきます。
  再拜

(其の五の①)新編が維持した谷口雅春先生の原文表記(底本の愛藏版の文字表記)の語句と變更された頭注版との比較(道場篇の場合) (14692)
日時:2023年04月10日 (月) 18時27分
名前:立葵

<本項のはじめに>頭注版で主に準據したことがうかがはれる規準は以下の通り

イ、「当用漢字表」「現代かなづかい」※
※「当用漢字表」「現代かなづかい」…… 昭和二十一年十一月十六日に政府が告示した一八五〇字の漢字と新しい假名遣

ロ、「当用漢字音訓表」※(漢字そのものは「当用漢字表」にあつても使へる讀み方を限定してそれを示した表)
 ※「当用漢字音訓表」昭和二十二年九月二十九日の国語審議会答申の「まえがき」より
 「この表は,当用漢字表の各字について,字音と字訓との整理を行い,今後使用する音訓を示したものである。」

ハ、「同音の漢字による書きかえ」※
 ※同音の漢字による書きかえ(昭和三十一年七月五日の「文化庁・第三期国語審議会」の報告)「同音の漢字による書きかえ」について(報告)
 「国語審議会は,当用漢字の適用を円滑にするため,当用漢字表にない漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして,表中同音の別の漢字に書きかえることを審議し,その結果,別紙「同音の漢字による書きかえ」を決定した。(改行あり)当用漢字を使用する際,これが広く参考として用いられることを希望する。」


以下、道場篇に限定して著者の原文の文字表記(底本の愛藏版の文字表記)が頭注版での書き換へによつて損なはれたと思はれる例を抄記いたします。

◎語句の右の數字は54が新編『生命の實相』第54巻道場篇上、55が同第55巻道場篇下。(頭注版では第34巻道場篇)

ア行
汗塗れ→汗まみれ 55
方って→あたって 55
頭を擡げて→頭をもたげて 54
詫まる→あやまる 54
有難う→ありがとう 54
如何にも→いかにも 54
些か →いささか 55
一切→いっさい 54,55
一旦→いったん 54
一杯→いっぱい 55
一遍に→いっぺんに 54
今迄→今まで 55
否応なしに→いやおうなしに 54
嫌になり・厭になり→いやになり 55
要らない→いらない 55
淹れたて→いれたて 54
俯して→うつぶして 54
俯向いて→うつむいて 54
被仰った→おっしゃった 54,55
折柄→折りから 54
御礼→お礼 54

カ行
恢復→回復 54
片肘衝く→肩肘つく 55
傍ら→かたわら 54
鞄→かばん 54
硝子→ガラス 55
可哀相→可哀想 54
聽き始めた→聞きはじめた 55
気勢→気配 54
奇蹟→奇跡 54,55
極める→きめる 54
首を掉って→首をふって 55
口惜しい→くやしい 54
決して→けっして 54,55
嶮しい→けわしい 54
昂奮→興奮 54
珈琲→コーヒー 54
御飯→ご飯 54
零す→こぼす 55
怺へて→こらえて 54
御覧→ごらん 54
頃→ころ 55

サ行
曩の→さきの 54
先刻→さっき 54
仕方なし、仕方がない→しかたなし、しかたがない 54
直に→じきに 55
刺戟→刺激 54
自分達→自分たち 55
障礙→障害 55
随分→ずいぶん 54,55
即ち→すなわち 55
総ての人→全ての人 55
坐って→すわって 55
故か→せいか 55
全財産を摺る→全財産を擦る 54
その途端→そのとたん 55
傍→そば 55

タ行
大分→だいぶ 54
宝を附す→宝をわたす 54
湛えた→たたえた 54
只の→ただの 55
竪→縦 55
度々→たびたび 54
耐らなく→たまらなく 54
註文→注文 54
痞える→つかえる 54
到底→とうてい 55
到頭→とうとう 54
咄嗟→とっさ 54
除って→とって 54
呶鳴る→どなる 55
尖って→とんがって 54
処→所 54

ナ行
何糞!→なにくそ! 54
嘗めて→なめて 54
鳴り始める→鳴りはじめる 54
何で→なんで 55
何等→なんら 54

ハ行
端書→はがき 54
醱酵→発酵 54
吃驚→びっくり 55
脹れあがる→腫れあがる 54
不図つながると→ふとつながると 55
釦孔→ボタン孔 54

マ行
先ず→まず 55
不味くて→まずくて 55
廻って→回って 55
見出された→見いだされた 54
自ら→みずから 55
見附からない→見つからない 54
目を廻す→目を回す 54
見詰めた→見つめた 54
挘りとって→むしりとって 54
齎す→もたらす 55
勿体ない→もったいない 55
固より→もとより 55

ヤ行
やり過ぎ→やりすぎ 54
與一さん→与一さん 55
克く読んだら→よく読んだら 54

ラ行
碌なもの→ろくなもの 55

ワ行
判って→わかって 55
私→わたし 54,55
私に不圖→わたしにふと 55

※別項1:ルビの變更
埋(ルビ・うづ)めました→埋(ルビ・う)めました 54

※別項2:他卷における、語句そのものの變更(文語的表現から口語的表現へ・その他)
→別記事として下に續きます

(其の五の②)新編が維持した谷口雅春先生の原文表記(底本の愛藏版の文字表記)の語句と變更された頭注版との比較(他卷の場合の一部) (14693)
日時:2023年04月10日 (月) 18時29分
名前:立葵

※別項2:語句そのものの變更(文語的表現から口語的表現へ・その他)
あんたが→あなたが 54
お読み下さらんことを→お読み下さることを 24

代うる→代える 23
掲ぐるは→掲げるは 24
現実世界→現実社会 24
現に見るがように→現に見るかのように 47
こんなこと→そんなこと 24

住吉村の道場にて→住吉村の道場で 25
詮じつめて→煎じつめて 38
「詮ずる」=筋道をたどつて深く考へること
「煎じる」=煮出すこと
線であるかの如く→線であるごとく 24(「かの」の削除は意味に影響)

大天文学者にして→大天文学者で 24
(「神は生命にして」「神は愛にして」を「神は生命で」「神は愛で」と歌ひ替へられますか?)

発揮する所以→発揮すること 24
話をせられましたが→はなしをされましたが 46
僻見→偏見 37
宝輦(寶輦)→鳳輦 51
「宝輦(寶輦)」=天子の車(ここでは淨飯王の普段のお出ましの時の車)
「鳳輦」=卽位の時などの正式な乘り物

迷わぬ人ほど悟りにくく→迷わぬ人こそ悟りにくく 24(「ほど」が「「こそ」に)
喜びの詞を述べて→喜びの言葉を述べて 29


  再拜

(其の六)「著者は谷口雅春先生」 ― 新編を『生命の實相』全集の一つとして認めない自稱(自称)篤信家諸賢に畏れながら申し上げます (14731)
日時:2023年04月29日 (土) 14時45分
名前:立葵

主を誤るものは弟子であり、敎祖を誤るものは却つて信者である。(愛藏版第18卷90頁)
主を誤るものは弟子であり、教祖を誤るものはかえって信者である。(頭注版第35巻85頁)
主を誤るものは弟子であり、教祖を誤るものは却って信者である。(新編第56巻126頁)
  ―『生命の實相』下化衆生篇 第三章「世に勝つ原理」より ―

合掌
昭和の日に
 神國日本を捨身の大御心もて護らせ給うた昭和天皇の聖德と天皇國日本の實相を敎へ給うた尊師谷口雅春先生とをあふぎまつります。

 先日の「宗教法人 生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」第10囘記念全國大會にて、新刊なつた新編『生命の實相』第56巻「下化衆生篇 哲学の実践」を購入、新しい聖典に神々しい光を感じました。
『生命の實相』は生長の家の信徒にとつて(現敎團の會員の意に非ず)、神聖なる聖典です。
 谷口雅春先生の御著書である新編『生命の實相』を他の版の『生命の實相』と同じく神聖なるものとして手に取ることの出來る心ある人々にとつて同感ではないかと思ひます。

 苟も尊師谷口雅春先生の御高著であり生長の家の御敎への根本聖典である『生命の實相』の新編をして、昨今も依然として、カバーのセンスが惡いとか、カバーの御神像の寫眞は御神像のことを知らない人には何だかわからないお爺さんに過ぎないから好まれないとか、宗敎的でないカバーであるとか、凡そ本質とは關係のない個人の好みの問題を、さもこの聖典の價値を更に貶めるかの如く「坊主(新編)憎けりゃ袈裟(カバー)まで憎し」とばかりの言説を齎さしめてゐることは只々殘念でなりません。
 カバーについては、頭注版や新版『真理』のカバーは「宗敎的」であるが新編はさうではないとまで言ひ切る方もいらして驚きました。
(謹註:その方の「宗敎的」と仰る『真理』のカバーは新装新版『真理』光明思想社刊のカバーではなく、新版『真理』日本敎文社刊のカバーを指すかと推測します。このカバーのデザインは仄聞したところ谷口淸超先生のお薦めのものとのことです。ただし、又聞きでありますことをお斷りしておきます。)
 勿論どのやうなデザインが好みかといふことは各人それぞれですので、各人にとつての好みの順位があることは當然のことだと思ひます。私も各種各版の裝幀にはそれぞれの魅力や嚴かさを感じてをり、作製者には敬意を抱いてをりますことは申すまでもありません。
 しかし、どれが「宗敎的」であつてどれは「宗敎的」でないかなどといふお悟りの深い御評言をなさる方の足下にも及ばぬ私は、只々その方の深い「宗敎的」御境地に恐れ入るばかりです。

神聖なるものを神聖なるものと觀たてまつりて恭しく仰ぎたてまつること

神聖なる萬世一系の天皇を神聖なるものと觀たてまつりて恭しく仰ぎたてまつること
 男系男子による皇位繼承が連綿としてなされる日本國家であるがゆゑに天皇樣が神聖であること
(男系男子による皇位繼承が明文化されたのは明治以降でありこそすれ、男系男子による皇位繼承が連綿としてなされる日本國家である事實は明文化されずとも儼然として續いてゐた。それを明文化されてゐなかつた時期を無視してこれは歷史の淺いことであると考へる生長の家の信徒さんがおいでのことは由々しきことです。)

谷口雅春先生が全身全靈で御執筆なされた聖典『生命の實相』を神聖なるものと觀たてまつりて恭しく仰ぎたてまつること
 谷口雅春先生に神樣から天降つた眞理の御言葉を記した聖典の平成・令和版となる新編『生命の實相』を他の各種各版『生命の實相』と同じく神聖なるものと觀たてまつりて恭しく仰ぎたてまつること

「神聖なるものと觀たてまること」「仰ぎたてまつること」は内心の問題です。何人も强制することも出來なければ、本心を僞つてまで綺麗事を述べても意味がありません。
 ですが、新編『生命の實相』ほど、谷口雅春先生の第一の御著書といふ「神聖なるものと觀たてまつりて恭しく仰ぎたてまつること」が有形無形のいはれなき念の力によつて妨げられて、本來の光が晦まされてゐる聖典はなかつたのではないかと思ひます。
 とりわけこの御道の大先達たる諸先生や自稱(自称)篤信家の方々の間にもそのやうなお考への方々がおいでであることは遺憾です。

 私は「誤讀」といふ言葉を好みません。何故なら相手の讀解力を上から目線で見下してゐるやうなニュアンスがあるからです。それで、自分の駄文が曲解されたと思ひさうになりました時には、そのやうに誤讀されるやうに書いた書き手である自分の至らなさを思ひます。至らないままに、一應申し上げたいことを若干記させていただきます。

①新編を通して歷史的假名遣を普及させたいと立葵が言つてゐるといふ旨のコメントに。
 そのやうなことは申し上げてをりません。新編は現代仮名遣です。私個人が歷史的假名遣を大切に思ふこととは別の儼然たる事實です。
 個人の考へとしましては、歷史的假名遣は決してごく一部の頭の陳いマニアのものなどではなく、すべての國民が歷代の天皇樣の大御心やあまたの先人の記した言の葉に直に觸れることの出來る古今共通の國語であり、尊師谷口雅春先生の御文章の執筆當時のままの本來の姿でありますから、現代仮名遣への變更は殘念です。
 しかし、新編を以て歷史的假名遣を普及させることなどは出來ないやうに定まつてゐます。誤讀を招いて反省してをります。

②新編の編輯者は自分達の努力をわかつてほしがつてゐるといふ旨のコメントに。
 少くとも新編を御紹介した私は、その方達の人間的な努力を著者である谷口雅春先生の御執筆の御努力に比肩するものとして喧傳すべきものだとは思ひません。
 努力と仰る意味が、底本とした愛藏版や頭注版以外の各版の文字や、戰前戰中の日本民族の心が戰後敎育で育つた今の八十台前半以下の多くの國民にとつて外國語以上に遠いものとなつた現實に直面して、註記等を通して對應しようとしてゐることを指すのかもしれません。しかし、谷口雅春先生の御著書の今日における出版の當事者は無名であるべきだと考へます。
 編纂委員會の構成員の名を(インターネット空間で)晒すやうに强要するやうな人々がおいでのことにも違和感を覺えます。著者は谷口雅春先生ですから、それ以上を何故わざわざ(インターネット空間で)公開しなければならないのでせうか。
 この件は書物の出版の當事者名の記載の有無は自由裁量によるものだといふ前提で申し上げますが、關係者の氏名の公表は、著者等の主體者からのねぎらひの思ひをこめてなされてゐる場面に出會ひますと、心が和みます。

 そのねぎらひの御言葉として私が最も感銘を受けたのは、『私の日本憲法論』の谷口雅春先生の「序文」です。

『私の日本憲法論』昭和55年5月10日初版發行 日本敎文社刊

  序文
     生長の家総裁
        谷口雅春
 この『私の日本憲法論』は、敗戦による占領憲法の出現以来、将来の日本及び日本人の運命を思って深憂に堪えず、如何なる立場に立ってこの憲法を批判し、民族本来の正しい憲法を創出すべきかを三十有余年に亘って叫びつづけた戦いの記録(ドキュメント)である。
 私が時に応じ折にふれて諸種の雑誌や単行本に書き綴って訴えて来た論文や随想等を我らの同志同憂の諸君が時間をかけて精読し、これを分類して秩序をととのえ、周到に採録編纂されたものである。このような同志があってこそ本書が完璧なものとなり得たわけで、その熱意と深切と精力とが本書の完成となったものである。
 読者はこれらの同志諸君の愛国の熱情に打たれるであろうと信ずる。その愛国精神と同志愛とに深甚の感謝を表するために編纂者の序文を併載させて頂くことにした。その熱誠な同志諸賢の姓名は編纂者の序文の中に書いて頂く筈である。
  昭和五十五年 三月一日
(以上引用)

 上記の「序文」に續いて田中忠雄先生の「編纂者の言葉」があり、その中に「この光栄ある仕事に従事した委員」として生長の家基礎文化研究所、日本敎文社、生長の家政治連合の各委員の御名前が紹介されてゐます。

 なほ、話が逸れますが、上の谷口雅春先生の引用文が歷史的假名遣でないことに關聯する證言として、田中忠雄先生の「編纂者の言葉」の最後の部分を掲げさせていただきます。
「最後に、本書の構成に方(あた)り、初出に正漢字歴史的仮名遣いの文章も、涙を吞んで当用漢字新仮名遣いに統一させていただいた。お宥しを乞う次第である。」

 新編『生命の實相』が聖典として、神聖なるものが神聖なるものとして手に取られて讀まれてゆきますことを切願いたします。
   再拜



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