《シリーズ解体 第3弾》谷口雅宣三代目総裁によって失わしめられたもの その3 ― 神様の取り替え「住吉大神」から「造化の三神」へ (承前) (14600) |
- 日時:2023年02月07日 (火) 08時28分
名前:護法の天使
住吉大神と谷口雅春先生
それでは、住吉大神とはいかなる神様で、また谷口雅春先生とはどのような関係にあられるのかをご紹介します。
聖典『實相と現象』に、「生長の家大神とは住吉大神である」と題する次のご文章が掲載されています。
「生長の家大神とは誰方(どなた)であるかと言いますとこれは阪神間の本住吉神社にお祀りしてあるところの住吉大神(すみのえのおおかみ)であられまして、『古事記』に、天照大御神様がお生れになるに先立って、此の大宇宙浄めの神として、水と塩(靈)とを以って浄め給うところの龍宮界の神様として現れられたところの上筒之男神、中筒之男神、底筒之男神と言われる三柱の神様を一體に総称して、住吉大神(俗称すみよしの大神)と申しているのであります」
住吉大神は天照大御神がお生まれになる下準備として浄化の働きをなされた神様であり、生長の家は、その住吉大神の導きによって始まったのであると、谷口雅春先生は、次のようにお示し下さっています。
「わたしは兵庫県神戸に生まれた。わたしの産土神(うぶすなのかみ)は生田神社で、その祭神は天照大御神の御妹君の稚日女神(わかひるめのかみ)だということである。
…私の運命の大体の方向は、私の過去世の業績に基く決算によって、産土神が、何某(なにがし)の許(もと)に生まれよ、しかして何某の許へ養子に行き、結局、住吉大神の御旨(みむね)を奉戴して人類光明化運動に励むと同時に、日本国家を護る運動を起すように導かれたのであった」(『理想世界』誌 昭和49年12月号「人類光明化運動の神々の系譜」)
ここに示されてあるとおり谷口雅春先生は、明治26年、兵庫県の烏原村でお生まれになり、数え年四歳で養子に行かれたことによって兄弟の中で唯一人高等教育をうけることとなり、早稲田大学時代、大本教時代を経て東京の浅草で執筆中、関東大震災に遭われ神戸に帰郷される。
そこで借りた家が本住吉神社の近くだったのです。
「わたしは、朝風呂が好きでしてね、その頃には「勇み湯」というお風呂が午前五時から沸いていたので…誰も入らない一番風呂に入って…その帰りに…本住吉神社へ毎日お詣りして、日本国の隆昌と、天皇家の御繁栄をお祈り申して、帰ることにしておりました。
そのときに、住吉大神の霊感をいただいて、そして、生長の家の現在説いている真理を授かったわけなんです」 (『生長の家』誌 昭和53年10月号「住吉大神と私」)
「毎朝礼拝後、自宅に帰って静坐黙念の修行をつづけているうちに、神想観の坐法や呼吸の仕方なども自然に教えられた。
…その時わたしは人類光明化のために機関雑誌『生長の家』を出せという神の声をきいたのであった」(『理想世界』誌 昭和49年12月号「人類光明化運動の神々の系譜」)
このように谷口雅春先生は、住吉大神から『生命の實相』『甘露の法雨』「神想観」を授けられて生長の家を創始されたのです。
それ故、
「生長の家の教(おしえ)は住吉大神より来る。
私の教ではないのである。
自分はたゞ喇叭(らっぱ)である。
スピーカーである。
自分は大先生ではないのである。
大先生は住吉大神である」
(『生長の家』誌 昭和16年12月号 十二月四日の言葉「住み吉き日」)
と述べておられるのです。
幽斎から顕斎へ 入龍宮を経て出龍宮へ
総本山の龍宮住吉本宮の落慶は昭和53年ですが、谷口雅春先生が住吉神社奉祀の発願をされたのは、その20年前の宇治別格本山の宝蔵神社造営計画に合わせて、
「生長の家大神は神道では住吉大神であらせられるから尚、奥の院には住吉神社を奉祀してその神徳を顕揚したい希望をもっている」 (『生長の家』誌 昭和33年6月号「明窓浄机」)とご発表になったところから始まります。
その後、宇治に於いては、神癒の社・入龍宮幽斎殿が建立されることとなりました。
そのときの〝入龍宮幽斎殿竣工慶祝献堂の祝詞(のりと)〟の一節には、
「この社殿の中央に天照大御神、左右に龍宮の大神にまします水火土大神、住吉大神をいつき祀り、これの殿を幽斎殿とし…住吉大神ここに出御し給いて龍宮海秘沈の真理を説き給う」(『生長の家』誌 昭和46年12月号)
とあり、また
「幽斎とは形式を通して神を礼拝するところの顕斎に対する語である。
すなわち魂を鎮めて神と一体なることを帰する神想観を厳修する斎殿のことである」
(『生長の家』誌 昭和42年1月号)
とお示し下さいました。
こうして住吉大神の幽斎が整い昭和50年、いよいよ御顕斎への道が具体的に開始されることとなります。
当時谷口雅春先生は、日本の危機に際しては幽斎と共に顕斎が必要であるとして、次のようにご教示下さいました。
「今、日本国の安泰に最も必要なのは、…天照大御神の出御(しゅつぎょ)の道を浄め奉った宇宙浄化の神―住吉大神を表に出すことである。
住吉大神は唯今、宇治別格本山の龍宮幽斎殿に幽斎されて在(まし)まして…併し、今や日本国の危機の事態は、住吉大神に現象の表に臨御して頂いて、直接、現象界にその御光(みひかり)を頂いて、日本国の危機の暗雲を消去して頂き、唯今、日本統治の圏外にあらせられる、謂わば、天之岩戸かくれにまします天照大御神の皇孫にまします天皇の御光を現象界にまで射し込ませる道を禊めなければならない時である。
それには幽斎と共に顕斎を必要とするのである。
…そのためには住吉大神の御殿として社殿をしつらえ奉らねばならない」
(『生長の家』誌 昭和50年2月号「明窓浄机」)
こうして、「日本国家を千万年安泰にする霊的礎(いしずえ)を築くために…鎮護国家を目的とするお宮であって住吉大神の御出御をお願いするための社(やしろ)」として(『生長の家』誌 昭和50年9月号)龍宮住吉本宮の建立は始まったのでした。
(続きます)
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