《シリーズ解体 第2弾》谷口雅宣三代目総裁によって失わしめられたもの その2-天も泣いた雨の中の「御神像」撤去- (承前) (14596) |
- 日時:2023年02月04日 (土) 18時18分
名前:護法の天使
彫刻家服部仁郞さんは、同時に光明社の社長であり、本部理事であった。
聞き伝えた各地の人々から観音様の木像がしきりに注文されて来て、多忙な日常であったが、神癒祈願部の部長として、月、水、金には本部へ出勤して居られたし、各地へ御教の講演にも出かけて居られた。
自宅での誌友会は多数の集りで、時には縁側にまで溢れるほどであった。」(『白鳩』誌昭和41年10月号)
因みに、鳩山一郎氏が高血圧に倒れて伊豆に療養中、たびたび指導に行かれたのが服部仁郎氏であり、谷口雅春先生の直接の文書による御指導もあって鳩山氏は病から立ち上がり政界に復帰、後に総理大臣となったのです。
「光明の塔」と「御神像」は不可分にして一体である
ところで、御神像が安置されていた原宿本部会館の円筒の建物は「光明の塔」と称せられ、地上六階、地下一階の七層になっていて、「七つの燈台」を象徴していました。
「七つ」は「完成」の数で「全て」を意味し、「燈台」とは「世を照す光」即ち宗教のことであります。
最上階の六階は「栄光の間」と名付けられ、谷口雅春先生は、神様のお集まりになる部屋として特に心を込めてお造りになりました。
お部屋の中には「無から一切を生ず」との御教えのとおり、聖経『甘露の法雨』の他は何も置かれておらず、五階は神の栄光を受けて神癒の祈りを行う「祈りの間」になっていました。
一方、御神像について尊師は、「右手が天を指し、左手に聖経の軸を手にせる聖者の立像は「七つの燈台の点灯者」を象徴せられる聖像」(『生長の家』誌昭和27年11月号「明窓浄机」)とご教示くださっています。
それ故「光明の塔」と「御神像」は、「七つの燈台」と「七つの燈台の点灯者(すなわち〝生長の家大神〟であり〝住吉大神〟である)」の関係として不可分にして一体、切り離してはならなかったのです。
生長の家の神様を冒瀆する谷口雅宣総裁教団
ところが谷口雅宣氏は、原宿本部会館を解体しただけでなく、全国信徒の信仰の結晶であった御神像を、「光明の塔」から無残な形で引きはがしたのです。
光明思想社発行の『「生長の家」教団の平成30年史 なぜ三代目総裁は教えを改竄したのか』に、雅宣氏が行った原宿本部会館の解体と御神像の撤去についての許されざる所業(しょぎょう)が記述されています。
「平成15年、森の中のオフィス構想が打ち出され、同年夏には原宿の本部に「森の中のオフィス事務局」が設置された。
当時の谷口清超総裁は「本部移転はまかりならん」と明確に述べておられたが、その言葉を無視し、谷口雅宣氏は、強引に、平成25年秋、山梨県北杜市への移転を強行した。
移転に先立つ同年5月30日、長年、信徒がおろがみ仰いできた本部会館・光明の塔に安置されていたご神像が、無残にも塔から引きはがされ、古毛布にくるまれ、作業員が土足で踏みつけながらトラックに運び込まれた。
この一連の撤去作業中、教団本部による何らの式典もなく、見送る教団職員もなく、ただ教団を離れた心ある信徒二十数名が、小雨降る中、解体作業の脇で聖経『甘露の法雨』の読誦を行った。
その読誦に見送られ、トラック車中のご神像は、山梨県の「森の中のオフィス」に運ばれていった。
ご神像は、その後、「森の中のオフィス」敷地内の一画に野ざらしで設置されている。
また、原宿の本部跡地は、光明の塔のみを残し、建物はすべて解体され、〝いのちの樹林〟なる名称を付されて公園となっている。」
御神像の撤去から始まった住吉大神外し
前述のとおり絶対に切り離してはならなかった「光明の塔」と「御神像」。撤去作業を見守ったある信徒から、そのことを象徴する手記が寄せられました。
「二台のバーナーで焼いたり、梃子(てこ)を金槌で打ち込んでも、御神像が(光明の塔の)台座から離れず、作業員が力尽きて何度も交代するがビクともしないように見えました。
…やっと台座が外れ…クレーンに吊し上げられトラックに無造作に横倒され、普通の荷物よりも汚れ古びた毛布と布にくるまれた御神像に…涙を止めることが出来ませんでした。」
御神像が撤去された翌年、平成26年11月21日には龍宮住吉本宮のご祭神が変更され、令和2年4月7日付通達をもって、教団全体のご祭神が、住吉大神から造化の三神に変更させられました。
雅宣氏による住吉大神外しは、こうして御神像の撤去から始まったのでした。
(引用の原文は一部旧漢字、歴史的仮名遣い)
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