雑誌『維新と興亜』の追悼鈴木邦男氏記事より (14771) |
- 日時:2023年05月04日 (木) 21時47分
名前:下総の野人
道義国家日本を再建する言論誌『維新と興亜』令和五年五月号に【「新右翼」が目指したもの 鈴木邦男と野村秋介】という特集が組まれており入手しました。
https://ishintokoua.com/
目次を引きます。
特集1】「新右翼」が目指したもの 鈴木邦男・野村秋介の思想と行動 追悼 鈴木邦男氏 野村秋介氏 歿後30年 安田浩一「差別と闘うのが本来の右翼だ」 山平重樹「反体制右翼としての誇りを」 花房東洋「真の愛国者・鈴木邦男」 蜷川正大「三上卓と野村秋介─『日本とは天皇なんだ』」 番家 誠「反共右翼から脱却した日」 小村和年「三島事件と平泉門下」 坪内隆彦「新右翼と『新勢力』─維新の戦闘者・毛呂清輝」
このうち花房東洋氏の「真の愛国者・鈴木邦男」を抜き書きしてご紹介します。
《鈴木邦男は真の愛国者だった。真の活動家だった。「変節した」と謗る向きもあるが、彼の天皇信仰は不動であったと信じている。》
《私と鈴木との交友は六十年に及ぶ。初めて彼と出会ったのは、昭和三十九(一九六四)年、生長の家本部練成道場であった。》
《私が生長の家道場で修行しようと決意したのは、熊本の伯父(濟々黌高校校長)の訓育と京都の伯母(生長の家草創期メンバー・白鳩会全国副会長)の神縁によるものであった。》
《道場生になるに当り、道場職員の野尻稔による面接が行われた。野尻は、元関根組(松葉会の前身)の幹部で、殺人の罪を犯し、網走刑務所に服役していた。そのとき、生長の家の聖典「生命の実相」と出会い改悛し、出所して当道場に直行したという経歴の人物であった。》
《野尻は五年後に迫る七〇年安保における左翼革命の危機を説き、そのためには「日本を死守せねばならない」と力説され「君も共に闘おう」と熱く訴えられた。私は、この人について行こうと決意したのである。》
《昭和四十年一月、野尻の提唱により、本部直属行動隊が結成された。第一分隊・学生道場、第二分隊・本部道場、第三分隊・本部とし学生道場生・本部道場員・本部職員の中より選抜された者によって編成された。》
《左翼革命阻止の前衛体として組織された当行動隊の第一回研修会には軍事訓練は素より「模擬論争」という課程があった。それは一人を残りの全員が「左翼」となって囲み、「天皇」「日米安保」「現行憲法」などについて論争を挑むのである。》
《模擬論争で理論的に完膚なきまでに打ちのめし、私に一念発起させてくれたのが、第一分隊・学生道場の道場長をしていた鈴木邦男であった。当時、鈴木は早稲田大学政経学部三年で、生長の家学生会全国総連合に所属し、書記長として活躍していた。》
《鈴木に論破された…その悔しさがバネとなって私は谷口雅春師の「限りなく日本を愛す」「日本を築くもの」「我ら日本人として」「青年の書」などを読み漁った。そして、早稲田大学に通う練修生の阪田一成(後に青年局長や本部道場責任者となる)から借りた「天皇絶対論とその影響」の文中の「天皇信仰」を何度も何度も筆写したのだった。》
このあと「天皇信仰」の引用が続きます。
《天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は 天皇より出でて 天皇に帰るなり。 天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの 天皇より流れ出て(原文「で」) 天皇に帰るなり。わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと云ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。私なきが『忠』なり。 天皇は 天照大御神と一体なり。天照大御神は 天之御中主神と一体なり。斯くして天皇はすべての渾てにまします。『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して再び天之御中主神に復帰するなり。 天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』を(原文「と」)誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我』となるなり。(後略)》
以上で引用が終わっています。原文は正漢字。
《昭和四十九年(一九七四)八月一日、鈴木邦男と十年ぶりに再会することになる。》
《鈴木とはこの再会以来、交友を深めてきた。私のとって鈴木は無条件で受け入れられる人物だ。晩年の鈴木については、様々な評価があるだろうが、彼は彼なりの信念と責任において人生を全うした。今は黙して冥福を祈るのみである。》
【追記】 この雑誌には、㈱フローラ会長・川瀬善業氏が「尊皇愛国の経営」という連載をされています。五月号にはその第十一回「日本の人口を一億五千万人にするために、適切な手を打ち続けてゆくべきです」が掲載。そこには谷口雅春先生の「大日本帝国憲法復元改正案」と「優生保護法改正」について、雅春先生の写真も掲げられ記載されています。
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