《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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愛国本流掲示板の「今起て!」の神啓への投稿を拜讀して(新編『生命の實相』の名譽恢復への試論) (14579)
日時:2022年12月24日 (土) 17時33分
名前:立葵

合掌

 上皇陛下には昨日御誕辰をお迎へあそばされましたことを謹んでお慶び申し上げます。


 先日、愛国本流掲示板に於て、十二月十三日に因んで昭和四年の同日に谷口雅春先生に「今起て!」の神啓が天降つた瞬間を描いた『生命の實相』自傳篇の中の貴い御文章についての一連の投稿を拝讀いたしました。お蔭樣で十二月十三日の當日には自傳篇のこの御文章に改めて思ひをいたす機緣をいただき感謝いたします。

 その樣々な御投稿の中には、三種類の戰後版の『生命の實相』頭注版、愛藏版、新編を讀み比べてみるといふ御提案がありました。
 讀み較べるとは、つまり、主に漢字や送り假名などの文字の表記上の相違點を比較するといふことの意ではないかと思ひます。
 そのこと自體には私も關心がありますが、その御投稿文には大變氣になる點が二つありました。

 第一には、比較對照された版の一つである新編『生命の實相』について「第三者が漢字を入れ替えた新篇(ママ)」と書かれてゐる點です。

 第二には、同じく比較對照された頭注版と愛藏版とを「雅春先生ご生前のご著書、頭注版、愛蔵版」と表現されてゐる點です。(これは勿論事實ではありますが、わざわざそのやうにお述べになる底意について憂慮してをります。)


「第三者が漢字を入れ替えた新篇(ママ)」といふ表現を普通の注意と讀み方とを以て解しますならば、その書物を出版する資格のない「第三者」が恣意的に漢字を改竄したといふことになります。果してさうなのでせうか?

「漢字を入れ替えた新篇(ママ)」と改竄扱ひを受けた本文の檢證こそが、「読み比べ」の擔ふ役目であるかと思ひます。

(ある先達から『生命の實相』は信仰の書だと諭されたことがあります。文字の比較等の「テキスト」としての扱ひ方は本來的ではないことを自省しつつ…)

 およそ世間一般の「全集」類には「凡例」があつてその版に於ける編緝方針が明示されてゐます。
『生命の實相』の四十卷本である布裝携帶版、頭注版、そして新編には各卷の初めに「凡例」がありますのもそれと軌を一にしてをります。

 凡例を示すといふことは、その版に原著もしくは底本や他の諸版との間に異同がある場合にはどのやうにして對處したかを示すといふことです。
 その版の編緝を擔ふ編緝部はその版を世に送り出す當事者であり、「第三者」といふ表現を以て恰もまがひものであるかの如く呼ぶことにこそ恣意的なものを感じます。

 さて、各版の凡例は文字表記についての斷り書きが必然的に大きな比重を占めてゐます。各版の凡例より、文字表記に關する箇條を抄出いたします。

◎布裝携帶版第二十卷 自傳篇下 昭和33年8月10日初版發行

一、新假名遣や當用漢字はなほ論議の途上にあつて今後尚度々修正せられると思ひますので、此書のやうに永遠の生命をもつ書は、流行によつて時々、用語や假名遣を修正してゐては切りがないので、歷史的假名遣を採用しました。


◎頭注版第二十巻 自傳篇下 昭和38年12月10日初版発行

一、本文は文部省調査局国語課長白石大二編『当用漢字・現代かなづかい・送りがなのつけ方』(昭和三十五年版)に基本的に準拠したが、固有名詞はそのまま保存し、納得の行きかねる所は独自の考え方で改めたところもある。


◎新裝携帶版第二十卷 自傳篇下 昭和43年10月10日初版發行

(凡例無し)
(私見:これより十年前に發行された布裝携帶版とは裝幀以外の外觀上は大差なく見えますが(頭注版の完結後に正漢字と歷史的假名遣とに戻した最初の版でもありますが)、凡例の消滅は、實は國語の文字表記上の問題意識が忘れられてゆく戰後の國語政策の定着化の兆しであるとも讀みとれます。)


◎愛藏版第十卷 自傳篇 昭和47年4月15日初版發行

(凡例無し)
(謹註)二十卷本には凡例無し。(黑布表紙版第十卷・昭和10年9月25日初版發行、新修版第十卷・昭和26年11月1日新修初版發行、豪華版第十卷・昭和36年3月1日初版發行、愛藏版第十卷・昭和47年4月15日初版發行)


◎新編第三十三巻 自伝篇下 平成31年1月15日初版発行

一、本文中、底本である愛蔵版とその他の各種各版の間で異同がある箇所は、頭注版、初版革表紙版、黒布表紙版等を参照しながら確定稿を定めた。

一、底本は正漢字・歴史的仮名遣いであるが、本全集は、一部例外を除き、常用漢字・現代仮名遣いに改めた。

一、現在、代名詞、接続詞、助詞等で使用する場合、ほとんど用いられない漢字は平仮名に改めた。

 (以上、各版の凡例の抄出)

 ここで、このたび愛国本流掲示板に於て投稿者樣より引用していただいた自傳篇の「今起て!」の聲が天降つた場面の御文章を短くABCDの四つの部分に區切りながら、新編、愛藏版、頭注版の順に謹掲いたします。
 この順番の理由は、新編は底本の愛藏版から凡例に從つてどのやうに本文を定めたか、そして頭注版は愛藏版(出版時期は逆ですが、基本的に新修版以降の戰後版の正漢字・歴史的假名遣の各版とほぼ同一)等の戰後版の各版から、凡例に從つてどのやうに本文を定めたかを、愛藏版の本文の前後に配して「讀み較べ」てみていただきたいからです。
 ただし、長くなりますので、この親記事には最初の一文のみ謹掲して、殘りは子記事として掲出いたします。

<Aの① 新編>(第三十三巻153頁~)平成31年1月15日初版発行
……その時、
「今起て!」という声が、覚えず私の頭の中で、どこからともなく降るように聴えて来たのだ。

<Aの② 愛藏版(新編の底本)>(第十卷371頁)昭和47年4月15日初版發行
……その時、
『今起て!』と云ふ聲が、覺えず私の頭の中で、どこからともなく降るやうに聽えて來たのだ。

<Aの③ 頭注版>(第二十卷158頁)昭和38年12月10日初版発行
……その時、
「今起て!」という声が、覚えずわたしの頭の中で、どこからともなく降るように聴こえてきたのだ。
 (以上引用)


 親記事の最後に、冒頭で氣になつたと申しました第二の點、比較對照された頭注版と愛藏版とを「雅春先生ご生前のご著書、頭注版、愛蔵版」と表現されてゐる點について申し述べます。
 聖典『生命の實相』は眞正生長の家の人類光明化運動・日本國實相顯現運動の據り處である永遠のベストセラーであります。
 現在の私共は、とりわけ昭和生まれの世代にとりましては、尊師谷口雅春先生と同時代に生きた僥倖に惠まれました。しかし、その實體驗や記憶を現世に於ては共有できない新しい若い世代にこそ、如何にして聖典を護り傳へてゆくかを眞劍に考へなければなりません。

 先の投稿者樣の記された「雅春先生ご生前のご著書、頭注版、愛蔵版」と云ふ御言葉には、尊師の御生前に發行された版にしかその聖典の正統性を認められないといふお考へが言外に充ち滿ちてゐます。
 しかし、巷間の樣々なベストセラーは、著者や作者の他界後にこそ新訂、出版され續けて讀み繼がれてゐることは申すまでもありません。文章のみならず、優れた音樂の樂譜から演劇の戲曲に至るまで、時代的に古典と呼ばれる時期が來てこそ、その作品の持つ永遠性が立證されてゆきます。
 新編が著者の御昇天後に出版されることによつてその存在の意義を有しないが如き文脈には違和感を禁じ得ません。

 なほ、各版は、凡例に記した編輯方針によつて編輯されます。ひとたび頭注版の表記のルールが定められたのなら、谷口雅春先生がその表記法(「当用漢字」と「現代かなづかい」)を御自身では決して進んで使用されずにその弊害を訴へ續けてこられたとしても、ルールには從はなければならなかつたでありませうと、畏れながら拜察いたします。
 ですから、頭注版や愛藏版が「ご生前のご著書」であつたことが、さうではない新編の存在を不當に貶める根據には決してならないと考へます。

 それでは、次の子記事にて續きの引用文を謹掲いたします。
   再拜

「今起て!」の神啓の御文章の續き(新編、愛藏版、頭注版) (14580)
日時:2022年12月24日 (土) 17時36分
名前:立葵

<Bの① 新編>(第三十三巻154頁)
「今起て!」とその声はいった。「今のほかに時はない。『今』の中に無限があり、無尽蔵がある。軍資金が出来てから、時間の余裕が出来てから、身体の余裕が出来てから、光明化運動を始めようなどというのは間違いだ。三界は唯心の現れだ。力が出ると知れば、その時既に無限の力は汝の有(もの)である。実相のお前は久遠の神性であり、既に無限の力を持っているのだ。既に無限の力を有(も)っているのだ。」

<Bの② 愛藏版(新編の底本)>(第十卷371頁~)
『今起て!』とその聲は云つた。『今のほかに時はない。「今」の中に無限があり、無盡藏がある。軍資金が出來てから、時間の餘裕が出來てから、身體の餘裕が出來てから、光明化運動を始めようなどと云ふのは間違ひだ。三界は唯心の現れだ。力が出ると知れば、その時旣に無限の力は汝の有(もの)である。實相のお前は久遠の神性であり、旣に無限の力を持つてゐるのだ。旣に無限の力を有(も)つてゐるのだ。』

<Bの③ 頭注版>(第二十卷158頁)
「今起て!」とその声は言った。「今のほかに時はない。『今』の中に無限があり、無尽蔵がある。軍資金ができてから、時間の余裕ができてから、身体の余裕ができてから、光明化運動を始めようなどというのはまちがいだ。三界は唯心の現われだ。力が出ると知れば、その時すでに無限の力はなんじの有(もの)である。実相のお前は久遠の神性であり、すでに無限の力を持っているのだ。すでに無限の力をもっているのだ。」


<Cの① 新編>(第三十三巻154頁~)
「だけど、それは実相のことです。私はまだ現象としては無力であり、現象としては資力がありません。」私は心の中で抗弁した。
「無力なことはない。力は与えてある。資力も与えてある。」
「実相はそうでも、現象の自分は……」
「現象は無い! 無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。知れ! 実相のみがあるのだ。お前が実相だ、釈迦だ、キリストだ、無限だ、無尽蔵だ!」大きな降雹(こうひょう)のたばしるような声が私の頭の中でした。私は全身の痺れを感じた。

<Cの② 愛藏版(新編の底本)>(第十卷372頁)
『だけど、それは實相のことです。私はまだ現象としては無力であり、現象としては資力がありません。』私は心の中で抗辯した。
『無力なことはない。力は與へてある。資力も與へてある。』
『實相はさうでも、現象の自分は……』
『現象は無い! 無いものに引つかゝるな。無いものは無いのだ。知れ! 實相のみがあるのだ。お前が實相だ、釋迦だ、基督だ、無限だ、無盡藏だ!』大きな降雹(かうへう)のたばしるやうな聲が私の頭の中でした。私は全身の痺れを感じた。

<Cの③ 頭注版>(第二十卷158頁~)
「だけど、それは実相のことです。わたしはまだ現象としては無力であり、現象としては資力がありません」わたしは心の中で抗弁した。
「無力なことはない。力は与えてある。資力も与えてある。」
「実相はそうでも、現象の自分は……」
「現象は無い! 無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。知れ! 実相のみがあるのだ。お前が実相だ、釈迦だ、キリストだ、無限だ、無尽蔵だ!」大きな降雹(こうひょう)のたばしるような声がわたしの頭の中でした。わたしは全身の痺れを感じた。


<Dの① 新編>(第三十三巻155頁)
(この部分の最初の一文は戰前版の「自傳篇」には無く、戰後版にのみある一文)
 久遠の今、既に無限力であり無限智であり、仏である自覚が自分に蘇生(よみがえ)って来た。
 肉体は無い、物質は無い、現象は無い、実相のみ独在であると神から知らされていながら、私は今までやはり肉体を見ては自分だと思い、その痩せた姿を見ては自分自身を虚弱だと思い、財囊の中の軽きを見ては自分は貧しいのだと思っていた。しかしそれは間違いであった。天地から満ちている大宇宙の大生命が私の生命であったのである。

<Dの② 愛藏版(新編の底本)>(第十卷372頁~)
(この部分の最初の一文は戰前版の「自傳篇」には無く、戰後版にのみある一文)
 久遠の今、旣に無限力であり無限智であり、佛である自覺が自分に蘇生(よみがへ)つて來た。
 肉體は無い、物質は無い、現象は無い、實相のみ獨在であると神から知らされてゐながら、私は今まで矢張り肉體を見ては自分だと思ひ、その痩せた姿を見ては自分自身を虛弱だと思ひ、財囊の中の輕きを見ては自分は貧しいのだと思つてゐた。併しそれは間違ひであつた。天地から滿ちてゐる大宇宙の大生命が私の生命であつたのである。

<Dの③ 頭注版>(第二十卷159頁)
(この部分の最初の一文は戰前版の「自傳篇」には無く、戰後版にのみある一文)
 久遠の今、すでに無限力であり無限知であり、仏である自覚が自分に蘇生(よみがえ)ってきた。
 肉体は無い、物質は無い、現象は無い、実相のみ独在であると神から知らされていながら、わたしは今までやはり肉体を見ては自分だと思い、その痩せた姿を見ては自分自身を虚弱だと思い、財囊の中の軽きを見ては自分は貧しいのだと思っていた。しかしそれはまちがいであった。天地から満ちている大宇宙の大生命がわたしの生命であったのである。



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