「耶蘇傳」について "わたしは私の此の『作』に愛を感ずる。作者が書いたものの實演されることは孕んだ子供が具體的に生れたにも等しいのである。"(『生長の家』誌S12.3) (14534) |
- 日時:2022年10月27日 (木) 01時58分
名前:立葵
合掌 「耶蘇傳」は昭和十二年三月三日に日比谷公會堂で上演されました。今から八十五年餘り前のことですので直接御覧になつた方にお目にかかることは困難かもしれません。 映像として殘す術もなかつたことかと思ひますが、舞䑓(舞台)の冩眞を拜見することができました。
谷口雅春先生が主宰された總合雜誌『いのち』昭和十二年四月號の卷頭グラビアは「耶蘇傳舞䑓冩眞集」として8頁に亙って當日の演技が紹介されてゐます。「いのち冩眞部撮影」とあります。
第五幕第三場の冩眞の説明文には (10)最後の晩餐。レオナルドダヴィンチの壁畫(壁画)をそのまゝに取つてポーズをつけてある點(点)に注意下さい。」 とあります。本當に誰もが一度は目にしたことがあるのではないかと思はれるダヴィンチの名畫の場面が舞䑓上で再現されてゐることには驚歎いたしました。
そしてこの日の公演の宣傳や紹介は、この戲曲の連載の掲載誌『いのち』(前身の『生命の藝術』時代からの連載)昭和十二年三月號の裏表紙には全面カラーでなされてゐます。さらに同號の本文頁には切り取り線で圍まれた割引劵もありました。
同時に『生長の家』誌の卷末の「近況通信」にも頁が割かれてゐます。 ○ うれしいことの限りである。生長の家の第八年の發祥記念日が近づく。(中略)三日には日比谷公會堂にて晝夜二囘に亙つて私の脚本『耶蘇傳』が尾上菊五郎の養成せる日本俳優學校劇團にて公演せられる。(後略)
○ 私は出來るならば誌友の全部に、『生長の家』の金剛不壞の眞理の地上誕生を祝ふ意味で此の劇の公演を觀に來て頂きたい。わたしは私の此の『作』に愛を感ずる。作者が書いたものの實演されることは孕んだ子供が具體的に生れたにも等しいのである。 (『生長の家』誌昭和十二年三月號「近況通信」106・107頁、及び『明窓淨机』草創篇238・239頁)
そして、それに續く御言葉は、 ○ 日本全國の誌友が同じ時間に同じ光明劇をみながら同じ光明思想の念波を起す ー それだけでも功利を離れた莊嚴な出來事である。上京して此の同じ劇を觀る機會にめぐまれない方は同日午後六時から私の著書『釋迦・維摩・耶蘇』のうちの『耶蘇傳』のところを開いて觀劇のつもりで全誌友一齊に讀んで頂きたい。
です。この上演の記録や谷口雅春先生の公演にお寄せになる御言葉に接しまして、今日もその䑓本(台本)を聖典として拜讀出來ることが改めて有難く嬉しく思はれます。
以下、「耶蘇傳」の終幕から一讀者の書き留めた各登場人物の御言葉を記し申し上げます。 再拜
<第五幕より 劇中の珠玉の言葉 私抄>(新編『生命の實相』第五十巻より) 15頁 悔改めるということは、過去のことをクヨクヨ後悔することじゃない 15頁 この世の中は神の国だから犯された罪もなければ、報いられるべき罪もない 17頁 喜びの涙は浄まった涙だ。 19頁 私が生れて来たのも人から崇められるためではない。却って人に事えんがためである。 24頁 どんなときにも神の子には悪魔は勝たない。真理が全世界を征服するためには却って悪魔が勝を得るように見える時機が来る。しかし最悪と見える時が、却って真理の勝利の始めなんだから。 29頁 静謐の中での一人の祈りは万人の心と共に祈る祈りになる。 30頁 私は神の子だ、私自身は苦しまない。私が苦しんでいるように見えるのは、すべての人類の心が映るのだ。人類の兄弟悩むが故に私は悩むのだ。私がこの苦しみを十字架につけてしまったときに人類全体の苦悩は消えてしまうのだ。私はこの苦しみを十字架に釘けるために祈り切らねばならないのだ。 43頁 従順が神の子の美徳だ。 46頁 生命を愛する者は生命を失い、生命を憎むものは却って永遠の生命を得るのだ 56頁 私は生命のパンであり、生命の葡萄酒であり、生命の泉である。 61頁 磔刑は人間を殺すことが出来ない。十字架に釘けられても死なない者が人間なのだ。 68頁 人を殺すものは殺され、人を生かす者は生かされるのだ。蒔いた種子は刈らねばならぬ。 83頁 神わがうちにあって、その御業をなさしめ給うのだ。
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