《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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戰友、畏友、朋友、道の友 ー 令和五年歌會始勅題(お題)「友」 (14468)
日時:2022年09月01日 (木) 18時53分
名前:立葵

令和五年歌會始(歌会始)勅題(お題)「友」に詠進いたしませう。

合掌
(はじめに)
 大正十二年九月一日午前十一時五十八分に關東大震火災に遭はれて天界に召されたあまたの御靈に對し奉り謹んで哀悼の意を表します。
 併せてこの大震災がその後の歩みへの大きな轉機となられました尊師谷口雅春先生、また高弟のお一方と仰ぐ服部仁郎先生の御足蹟をお偲び申し上げます。
(『生命の實相』自傳篇第七章「關東大震火災に逢ふ」二十卷本全集第十卷、四十卷本全集第二十卷、新編第三十三巻)
(『今を生きる ー服部仁郎氏と生長の家 ー』第三篇「生いたちから廻心まで」の「五」、昭和四十三年辻村彦次郎編、日本敎文社刊、新版:平成三十年中島省治編著、光明思想社刊)

 さて、この九月には、是非とも令和五年歌會始、勅題(お題)「友」の一首を詠んで詠進いたしませんか。

詠進要項(令和四年九月末日締切)
https://www.kunaicho.go.jp/event/eishin.html

 神代より連綿と續く皇統の御歷代天皇樣の"きこしめす、しろしめす"大御心を忝くあふぎまつります。そして國民の側からその報恩の思ひを具體的に形に表すことのできる手立ての一つとして歌會始に詠進することを提唱されてゐる書物に、今から二十年前となりますが感銘を受けました。
(椎谷哲夫著『敬宮愛子さまご誕生 : 宮中見聞記』平成十四年二月刊、明成社)

 尊師谷口雅春先生は、輝子先生や淸超先生、惠美子先生ともお揃ひで毎年の勅題(お題)に詠進してこられました。(『生長の家五十年史』「御題詠進」等參照)
 この營みについて、谷口雅春先生が「歌會始に詠進すべきだ」とお書きになつた御文章を私は存じ上げません。(おありでしたら御敎示をお願ひ申し上げます。)ただ御自ら毎年詠進なさつて、規定の詠進歌數の一人一首にとどまらず、その年の勅題に因んだお歌を何首もお殘し下さいました。

 谷口雅春先生はこと歌會始の御題詠進につきましては、「すべきだ」といふお言葉の代はりに、天皇陛下を戴く國民としての詠進の實踐といふ「しきしまの道」を、御自身のお姿と御作品とを以てお示し下さつてゐることを感じます。

 ここに、御題「友」を戴き、「友」にまつはる珠玉の御言葉を謹掲いたします。
  再拜

一、昭憲皇太后御歌「水は器」
文部省『新訂尋常小學唱歌 第五學年用』昭和七年十二月十日發行
「二、金剛石・水は器」の第二節(4~7頁)

水は器
水はうつはにしたがひて、
そのさまざまになりぬなり。
人はまじはる友により、
よきにあしきにうつるなり。
おのれにまさるよき友を
えらびもとめて、もろ共に
こころの駒にむちうちて、
まなびの道にすすめかし。


二、谷口雅春先生『青年の書』昭和三十九年改訂初版95頁
「第十一章 良き友の価値について」より
 良き友は自分を信じてくれるのである。この世界に自分の力を信じてくれる人があるということは、ただそれだけでも全心身の勇気が出るのである。吾々のあらゆる努力に対してはげましてくれるものは良き友の言葉であり思いやりであるのである。明るき愉快な友をもつことは、大いなる資産をもつよりもなお大いなる宝である。明るき友の雰囲気はいつのまにか自分を感化して自分を希望に導いてくれるのである。


三、文部省唱歌「朋友」

共益商社樂器店編『唱歌敎科書敎師用 卷二』明治三十五年五月五日發行(國立國會圖書館デジタルコレクションに生徒用がないやうでしたので敎師用より、10~11頁)

朋友
(一)
たがひにはげまし、よきにすすみ、
ともどもこらして、あしきをさくる、
これこそまことの、ただしき友よ、
これこそまことの、ただしき友よ。

(二)
うきことあるとき、ともにうれへ、
たのしきときには、たがひにたのしむ、
これこそまことの、へだてぬ友よ、
これこそまことの、へだてぬ友よ。

(三)
まことの友こそ、わが身の益よ、
骨肉(みうち)にまされる、たすけとならん、
もとめてむつべよ、まことの友に、
もとめてむつべよ、まことの友に。

國立國會圖書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/854863/10
11コマ目


四、埴生の宿(第一節、第二節にそれぞれ一囘づつ「友」の語が有り)
東京音樂學校『中等唱歌集』明治二十二年十二月二十二日出板(34~37頁)改行なしの原文通り

第十五 埴生の宿
一 埴生の宿も、わが宿、玉のよそひ、うらやまじ。のどかなりや、春のそら、花はあるじ、鳥は友。オーわがやどよ、たのしとも、たのもしや。

二 ふみよむ窓も、わがまど、瑠璃の床も、うらやまじ。きよらなりや、秋の夜半、月はあるじ、むしは友。オーわが窓よ、たのしとも、たのもしや。

埴生の宿、國立國會圖書館デジタルコレクションインターネット公開(21~22コマ目)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/855558/21


五、戰友

作歌者 眞下飛泉、作曲者 三善和氣、五車樓刊『學校及家庭用言文一致叙事唱歌 第三篇』
明治三十八年九月十二日發行

 この唱歌は、歌詞を掲げませんので御自身で國立國會圖書館デジタルコレクションにて御覧下さい。
 音源は同館所藏です。

 この唱歌の「戰友」といふ言葉が、最近安易に他者を批判するために使はれてゐることが氣になつて紹介させていただきました。
 このやうな從軍體驗を唄はれた歌詞に接する時、この語を他者を貶めるための喩へに使ふことに非常に違和感を覺える者でございます。

「戰友」(1~10頁、卷頭に譜面)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/904019


追記
 唱歌「戰友」の第八節「空しく冷えて」の「え」、第九節「お國が見えず」の「え」は、漢字の「江」を崩した草書體のやうに見えますがさうではなく、平假名の「ヤ行の『え』」の活字です。

 ヤ行とは、ローマ字で書くと母音の前に「y」が付く「ya・yi・yu・ye・yo」です。
 そのうち「yi」と「ye」はア行の「i」と「e」と同じ發音のため、「現代仮名遣い」の五十音圖からは削除されて「や○ゆ○よ」とされてしまひました。
 しかし當時は、「ヤ行の『い』『え』」を五十音圖から削除せずに「や・い・ゆ・え・よ」と記しました。印刷する時に、場合によつてはア行の「え」と區別するために、このやうな活字がありました。

 ここでは、文語體の終止形が「ゆ」の動詞「冷ゆ」「見ゆ」の活用語尾の「え」です。
  
冷え・ず、 冷え・て、 冷ゆ、 冷ゆる・こと、 冷ゆれ・ども、 冷え・よ
見え・ず、 見え・て、 見ゆ、 見ゆる・こと、 見ゆれ・ども、 見え・よ
 と、語尾が變化します。

「おもふこと思ふがままに」小攷(「誤讀(誤読)」は讀み手の讀解力の缺如ではなく書き手の責任) (14492)
日時:2022年09月17日 (土) 12時43分
名前:立葵

合掌
 明治天皇樣には十萬首近くの御製を詠ませ給ひておのづと「歌聖」と仰ぎまつられてあらせられます。

 最晩年の明治四十五年に詠ませ給うた"歌"についての御製は、今日に至るまでよく拜誦されて參りました一首と拜し奉ります。
 (出典の一例、明治神宮編『新抄明治天皇御集・昭憲皇太后御集』昭和55年、角川文庫、154頁)

  をりにふれたる(謹註、六首中の第二首)
おもふこと思うふがままにいひてみむ歌のしらべになりもならずも

※ 9月18日謹訂正、加筆修正
「いひてみむ」は「(私は)言つてみよう」(「む」は意志を表す助動詞と謹解。「(私は)言つてみることにする」といふ御意志。)

「みむ」は上記の意味であるにも拘らず、「みよ」(補助動詞「みる」の命令形)といふ意味と間違つて解して、以下のやうに述べてしまひました。お詫びして訂正いたします。

(誤記部分)「拜誦した誰もが、肩の力を拔いて飾らずに先づは言つてごらんなさいと勵まして戴いたやうな、ホッとした氣持になるのではないでせうか。」

(以下は誤記部分に続けた元の投稿文、未修正のまま)
 しかし、この御製は、好き勝手に言ひたい放題に言ひつぱなしで自己主張をすることをお薦めになられた大御心なのでせうか。

 過日私は別のネット空間で、極端に奇を衒つた歌についての所感を申し述べましたところ、この明治天皇御製を葵の御紋の印籠のやうに掲げた上で自由に詠めばいいではないかといふ趣旨の反論をいただきました。

 その時、主人とも話し合つて、思ふがままに言つておしまひでは駄目だね、それを整へてゆかなくては、と共に考へさせられました。

 思ふがままに言つてみた、まだ形に整はない「おもふこと」が三十一文字の和歌(短歌)に凝縮されて一首となつた時、神代のいにしへの須佐之男命の御作と傳へられる我が國初めての歌以來の歷史に自分もまた連なることが出來るのではないでせうか。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
 (倉野憲司校注『古事記』昭和38年版、岩波文庫、41頁、225頁)

 一首と申しましても樣々に溢れ出る思ひの全てを僅か三十一文字に詠み込むのは無理ですし、それでは何を言ひたいのかわからないので、連作として何首にでも分けて自分の思ひを整理してゆくことを多くの師友より敎へていただきました。

 いづれにしましても、自分の心とそれを言ひ表す言葉とが一致した時、その言葉は「ことのは」として「言靈」の響きとなり、「言葉は神なり」といふことが實感せられて參ります。

谷口雅春先生
吾々は言葉を慎まなければならない。言葉は神であって、言葉によって総てのものは創られたということが聖書の中に書いてあります。そのように禍福は言葉の中にあるのであります。……すべての人類よ、言葉の力を知れ、そして善き言葉によって人間の神性を招び出そうではないか、これが生長の家の人類光明化運動であります。
 (新編『生命の實相』第47巻児童教育篇13頁、頭注版第30巻9~10頁)

 さて、ここ一年ほどの間、ひとり和歌のみならず、言ひたいことを言ひたい放題に喋々と主張する文章等によつて生氣が奪はれてゆくやうな感に襲はれることが次から次へとありました。

 その果てに、讀んだ人が自分の文章を「誤讀(誤読)」したと云つて書き手が讀み手を非難する文言にも何度か出遭ひました。
 しかし「誤讀(誤読)」とは、讀み手が惡いのでせうか? 讀み手の讀解力が乏しいから生ずるのでせうか?

 少なくとも私にはそのやうな瑕疵のない文章などはとても書けませんので、自分の文章でも和歌でも自分の眞意とは異なる解釋をされてしまつた時には、自分の表現力の至らなさを羞ぢます。
 どなたにも一讀しただけで明瞭に傳はる文章や和歌を生み出したいと希つて生涯習作を續けてゆきたいと思つてをります。
(表面の意味がわかつても根本の信仰や思想信條が違ふために通じないといふ問題は又別のことといたします。)

「誤讀(誤読)」とは、書き手の責任なのではありませんか?

 詠進歌に話を戻しますと、「友」の勅題に寄せて一國民としての拙い思ひを三十一文字に託して天皇陛下に詠進いたしたいと思ひます。

  再拜

「おもふこと思ふがままにいひてみむ」再攷 (14494)
日時:2022年09月18日 (日) 12時51分
名前:立葵

合掌
 昨日の拙い投稿14492を他のネット空間で取り上げていただき、とりわけ拙稿は自己撞着に陷つてゐるといふ重要な指摘をして下さる方がいらつしゃいました。至らない文言をお詫び申し上げますと共に御指摘に感謝申し上げます。

 その方の曰く、(御投稿文の引用ではなく大意です。)
[明治天皇御製については誤讀してゐる讀み手の責任を追及しておきながら、他方ではその他の文章や和歌の誤讀は書き手の責任だと主張してゐる、
 それなら謹掲した明治天皇御製は書き手(詠ませたまうた明治天皇)が誤讀を招きかねない御製をお詠みになつたといふ畏れ多いことになつてしまふのではないか、]

 仰る通りだと反省させられました。それでも發言を撤囘すべきこととは違ふと思ひますことを申し上げます。

一、明治天皇御製は誤讀のしやうのない正しい文語文法に則つて詠ませたまうてゐるにも拘らず、私の細心の注意の缼如によつて誤つて記述しました。
(御製には畏れ多くも「書き手の責任」などと申し上げる餘地などありません。)

 その箇所をすぐ上の14492より再掲いたします。
  をりにふれたる(謹註、六首中の第二首)
おもふこと思うふがままにいひてみむ歌のしらべになりもならずも

※ 9月18日謹訂正、加筆修正
「いひてみむ」は「(私は)言つてみよう」
(「む」は意志を表す助動詞「む」と謹解。「(私は)言つてみることにする」といふ御意志。)
「みむ」は上記の意味であるにも拘らず、「みよ」(補助動詞「みる」の命令形)といふ意味と間違つて解して、…(以下の再掲は略)

 ここでは、最晩年の明治天皇樣が十萬首近くの御製をお詠みになつてこられた上に、さらにこれからも、思ふがままにいつてみよう、歌の調べになつてもならなくても、と御詠歌への果てなき御努力への御意志を述懷し給うたものでした。
 ですから「言つてごらんなさい」といふ現代語譯は誤りでした。

二、文語文法(古典文法)は音樂で申せば樂譜の記譜法にあたると思ひます。正しく使はれてゐる文章や詩歌には讀み手の誤解の餘地はありません。
 敎はる機會が減つた時代であるからこそ努めて學んで、誤讀しないやうに、こちらから本當の意味を訪ねてゆかなければなりません。

 誤讀されないやうに努めるとは、とりもなほさず正しい語法や文法を心掛けることだと思ひます。普通の文章も勿論さうですが、和歌などの文語定型詩ではなほのことだと思ひます。(=書き手の責任)

 谷口雅春先生は國語の亂れを歎かれて、先人の文章が讀めなくなつてしまふ、そのことによつて日本人の古來の精神までもがわからなくされてしまふといふことに度々警鐘を鳴らしてこられました。このことは機會を改めて申し述べたいと思つてをります。

 間違つた投稿をした自分が臆面もなく云へることではありませんが、言葉を愼み、言葉は神なりと心に刻んで、申し上げるべきは申してゆけるやうに努めて參ります。
  再拜



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