昭和天皇さまの素晴らしい御人格に感動したマッカーサーにより日本の五分割統治案やソ連による北海道統治は退けられた (14445) |
- 日時:2022年07月26日 (火) 00時14分
名前:コスモス
昭和天皇さまの素晴らしい御人格にマッカーサーは非常に感動し、その後回を重ねるごとにその信頼は強くなっていったのでした。そのお陰で日本は食糧と復興のための資金を借りる事ができましたが、もう一つ大きな問題がありました。
それは終戦と共に、連合国側は、日本を分割して統治する予定であったことです。以下日本の分割統治計画から引きます。
ーーーーーーー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E5%89%B2%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A8%88%E7%94%BB
ポツダム会談へ向かう代表団は、米軍負担の軽減化のため、連合国による日本共同占領案が高まり、日本降伏の翌8月16日に、ペンタゴンの統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee,JWPC)が起案した日本占領案「日本とその領土の最終占領(Ultimate Occupation of Japan and Japanese Territory)」(JWPC385/1)が成立した[8]。それによれば、
占領開始期は、米国が単独で占領せざるを得ず、二十三個師団・八十五万人の米軍を投入する。組織的抵抗、反乱のため一年間は維持する。 三ヶ月目からは、米軍を撤収させ、各国軍に占領させる。
ソ連:北海道、東北地方。 アメリカ:本州中央(関東、信越、東海、北陸、近畿)。 中華民国:四国。 イギリス:西日本(中国、九州)をそれぞれ統治 東京は四カ国共同占領。 一年後、各国兵力を半数以下に削減し、米軍は13万5千人程となる。
ソ連の北海道占領計画
ヤルタ会談でソ連は対日参戦の見返りとして北方領土を占領することが認められていた[1]。しかし、 8月16日にスターリンは、北方領土だけではなく、北海道北東部(釧路-留萌を結んだ直線以北)の半分をソ連占領地とするよう、トルーマン大統領に求めた「北海道スターリンライン」や「留釧の壁」と呼ばれた[7][1]。
詳細は「樺太の戦い (1945年)」を参照 詳細は「占守島の戦い」を参照 アメリカによるソ連北海道占領案拒否と単独統治 (SWNCC70/5・150/3)
8月18日、トルーマン大統領は、スターリンの要求を即座に拒否し、分割占領を回避することを勧告する国務省案である SWNCC70/5 を承認した[7][1]。
8月22日、さらにトルーマン大統領は SWNCC150/3 を承認し、日本政府を介した間接統治方式を最終的に承認した[7]。
なお、スターリンは8月23日に極東地域の日本軍捕虜50万人を、シベリアに移送するよう命じた[1](シベリア抑留)。
戦後、ソ連はアメリカに対して日本への分割統治を強く求めたものの、マッカーサーがこれを拒否した[9]。
イギリス連邦占領軍による中国・四国統治 詳細は「イギリス連邦占領軍」を参照 1946年2月にはイギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、インド軍などのイギリス連邦占領軍(the British Commonwealth Occupation Force ,BCOF)が中国地方、四国を統治した[10]。
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戦後しつこく北海道を寄越せと迫るソ連にきっぱりとマッカーサー元帥が拒絶できたのは、彼が天皇さまに深い信頼を寄せており、日本における天皇さまの何たるかをよく理解し得ていたからだと思います。
結局間接的に私達は、昭和天皇さまによって様々な面で救われていたと言えると思うのです。
それは当時の日本国民だけでなく、ドイツや南北朝鮮のような不幸にあわずに済んだことは、現在の日本国民だけでなく、これから生まれてくる日本国民も昭和天皇さまによって救われたと言えると思うのです。
(つづく)
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